クラヨーヴァ

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クラヨーヴァ
Craiova
クラヨーヴァ市の市章
あきら
位置いち
クラヨーヴァの位置の位置図
クラヨーヴァの位置いち
位置いち
クラヨーヴァの位置(ルーマニア内)
クラヨーヴァ
クラヨーヴァ
クラヨーヴァ (ルーマニア)
クラヨーヴァの位置(ヨーロッパ内)
クラヨーヴァ
クラヨーヴァ
クラヨーヴァ (ヨーロッパ)
座標ざひょう : 北緯ほくい4420ふん 東経とうけい2349ふん / 北緯ほくい44.333 東経とうけい23.817 / 44.333; 23.817
行政ぎょうせい
くに  ルーマニア
 けん ドルジュけん
  クラヨーヴァ
市長しちょう アントニエ・ソロモン
地理ちり
面積めんせき  
  市域しいき 81.4 km2
人口じんこう
人口じんこう (2006ねん現在げんざい
  市域しいき 299,200にん
    人口じんこう密度みつど   3,717にん/km2
  都市としけん 400,000にん
その
ひとしときおび ひがしヨーロッパ時間じかん (UTC+2)
夏時間なつじかん ひがしヨーロッパ夏時間なつじかん (UTC+3)
公式こうしきウェブサイト : http://www.primariacraiova.ro/

クラヨーヴァルーマニア: Craiova /kra'jo.va/クラヨーヴァドイツ: Kragau)は、ルーマニアだい5の都市とし[1]で、ドルジュけんけん中央ちゅうおうオルテニア地方ちほうジウがわ東岸とうがんちかくに位置いちする。むかしからの政治せいじ的中てきちゅう心地ごこちであり、きたトランシルヴァニアアルプス山脈さんみゃくみなみドナウがわなかあいだてんにある。ブカレスト西方せいほう主要しゅよう商業しょうぎょう都市としである。日本語にほんごでは、クライオヴァ、クライオバ、クライヨヴァ、クラヨーバなどとも表記ひょうきされる。

歴史れきし[編集へんしゅう]

クラヨーヴァはかつてダキアじん占領せんりょうしていた場所ばしょで、マ帝国まていこくぞくしゅうダキア都市としペレンダヴァ(Pelendava)となってから公式こうしきにオルテニアの首都しゅととなった。ワラキア国家こっか高位こういボヤール封建ほうけん領主りょうしゅ)はふるバン称号しょうごうち、かれらは最初さいしょクライオヴェシティ(Craioveşti)からていた。バンは、自身じしん肖像しょうぞうとともに硬貨こうか印形いんぎょう権利けんりっていた。これがれいとなり、ルーマニア・レウ補助ほじょ通貨つうかバンをあらわすルーマニア語源ごげんとなった。

1395ねん、クラヨーヴァは、ワラキアこうミルチャ老公ろうこう(en:Mircea I of Wallachia)がオスマン帝国ていこく君主くんしゅバヤズィト1せいぐんやぶったさい戦場せんじょうとなった(ロヴィネのたたか)。

16世紀せいき前半ぜんはん以後いご、しばしば都市とししょうされるようになり、クラヨーヴァ地域ちいきつねにワラキアおよびルーマニアの重要じゅうよう経済けいざい地域ちいき一般いっぱんにみなされた。1718ねんから1737ねんにかけ、ハプスブルクがオルテニア全体ぜんたい支配しはいし、そのあいだクラヨーヴァの地位ちい経済けいざいてき圧迫あっぱくと、中央ちゅうおう集権しゅうけん制度せいど強化きょうかのためおとろえた。そしてクラヨーヴァのボヤールの抗議こうぎ活動かつどう平行へいこうして、ハイドゥクばれる山賊さんぞく一部いちぶ増加ぞうかすることになった。1761ねんギリシャ貴族きぞくのワラキアこうコンスタンティヌス・マヴロコルダトス(en:Constantine Mavrocordatos時代じだい、バンたちはクラヨーヴァでみずからの代理だいりをするカイマカム(Kaymakam、トルコ時代じだい称号しょうごうで、知事ちじ意味いみする)をのこして、ブカレスト強制きょうせい隔離かくりされた。

ワラキアこうエマヌエル・ジャニ・ルセット(Emanuel Giani Ruset時代じだい、ワラキアの首都しゅとがクラヨーヴァへうつされた(1770ねん-1771ねん)。戦争せんそう(1768ねん-1774ねん)で戦場せんじょうとなるのをけるためとみられる。1800ねんボスニアけいトルコじんパシャ、オスマン・パズヴァントウル(Osman Pazvantoğlu)の反乱はんらんで、クラヨーヴァ市内しないだい部分ぶぶん野原のはらとなった。

ワラキア反乱はんらんあいだ現在げんざいのドルジュけん住民じゅうみんだい多数たすうが、トゥドル・ヴラディミレスクひきいるぐんに、ブカレスト遠征えんせい貢献こうけんするためくわわった。19世紀せいき最初さいしょの20年間ねんかん、クラヨーヴァは、工芸こうげいひん貿易ぼうえき公共こうきょうサービスに集中しゅうちゅうして、経済けいざいてき繁栄はんえいたりにした。ロシア帝国ていこく占領せんりょう時代じだいと、それにつづ構成こうせい国家こっか時代じだい(1828ねん-1834ねん)、はその経済けいざいてき生産せいさんせいした。1832ねん市内しないには595の商店しょうてん(197はバラック、398は煉瓦れんがづくりのいえ)があった。当時とうじ、クラヨーヴァは小麦こむぎ毛皮けがわかわ家畜かちくやその製品せいひんオーストリア帝国ていこくとオスマン帝国ていこく輸出ゆしゅつしていた。

クラヨーヴァ市民しみんコスタケ・ロマネスクは、1848ねんワラキア革命かくめいあいだ地方ちほう政府せいふ首領しゅりょう一人ひとりであった。ワラキア最後さいご2人ふたり支配しはいしゃゲオルゲ・ビベスクバルブ・ディミトリエ・シュティルベイは、クラヨーヴァに重要じゅうようなボヤールの家系かけい、ビベスク出身しゅっしんであった。

1860ねんごろ、クラヨーヴァには4,633の建物たてものがあった(内訳うちわけは3,220けん住宅じゅうたく、26の教会きょうかい学校がっこう11こう、60の工場こうじょう工房こうぼう)。その、およそ90の製造せいぞうぎょう関連かんれん施設しせつ、12けん製粉せいふん工場こうじょう、3けんのビール工場こうじょう、2けん石油せきゆ工場こうじょう、4けん染色せんしょく工場こうじょうと2けん印刷所いんさつしょがあった。ドルジュけん職人しょくにん全体ぜんたいのうち57%がクラヨーヴァにんでいた(1,088にんマイスター、687にん徒弟とてい期間きかんえた職人しょくにん、485にん徒弟とていであった)。

1877ねんから1878ねん戦争せんそう期間きかんは、経済けいざいおよ文化ぶんか発展はってんした時期じきかさなる。結果けっかとして、19世紀せいきわりのクラヨーヴァは、40,000にん人口じんこうち、ちいさな工場こうじょう織物おりもの工場こうじょう発展はってんした。1896ねん10がつ26にち、クラヨーヴァ発電はつでんしょ操業そうぎょう開始かいしした。クラヨーヴァは、内燃ないねん機関きかんによる電力でんりょく供給きょうきゅうける国内こくないはつ都市としとなった。

1900ねん、クラヨーヴァはオルテニア地方ちほうない産業さんぎょう設備せつび一式いっしきのうち43.1%をかかえていた。銀行ぎんこうぎょうは20世紀せいき初頭しょとうはじまった。

りょう大戦たいせんあいだ、クラヨーヴァは農業のうぎょう地域ちいき中心ちゅうしんとして、さらなる一層いっそう工業こうぎょう経験けいけんした。工場こうじょう労働ろうどうしゃ人数にんずう比較的ひかくてき少数しょうすうのこった。1939ねんは7つの産業さんぎょう設備せつびに100にんえる労働ろうどうしゃがいた。

1960ねん以後いご共産きょうさん主義しゅぎ政権せいけんのもと、クラヨーヴァは、飛行機ひこうき産業さんぎょう化学かがく工業こうぎょう食品しょくひん製造せいぞうぎょう建設けんせつ電気でんき工学こうがく鉱山こうざんぎょう電力でんりょく産業さんぎょう同様どうよう自動車じどうしゃ産業さんぎょうとエンジン工場こうじょう有名ゆうめい中心ちゅうしんとなった。

ルーマニア革命かくめい自由じゆう市場いちば再建さいけん総合そうごうてき地方ちほう分権ぶんけんがもたらされ、市場いちばそのものが民間みんかん創意そういたいひらかれるあいだ、いくつかの工場こうじょう民営みんえいされた。工業こうぎょう経済けいざいてき変化へんか影響えいきょうけたが、依然いぜんとして重要じゅうよう部門ぶもんであり、クラヨーヴァの生産せいさんだかのおよそ70%に相当そうとうする。

人口じんこう統計とうけい[編集へんしゅう]

クラヨーヴァは2002ねん調査ちょうさで302,601にん人口じんこうかかえる。うちルーマニアじん96.66%、ハンガリーじん0.07%、ドイツじん0.06%、セルビアじん0.01%、ロマじん2.91%、イタリアじん0.06%、ギリシャじん0.06%、ウクライナじん0.01%である。

経済けいざい[編集へんしゅう]

ルーマニア革命かくめい以後いご遠隔えんかく通信つうしんサービス、銀行ぎんこうおよび保険ほけんぎょう経営けいえい顧問こもんぎょう拡大かくだいはじめた。クラヨーヴァ自動車じどうしゃ工場こうじょう大宇だいう財閥ざいばつ正式せいしき所有しょゆうしていたが、2007ねん9がつフォード・モーター売却ばいきゃくされた。

交通こうつう[編集へんしゅう]

クラヨーヴァ市内しない公共こうきょう交通こうつう機関きかんは、3つのトラム路線ろせんクラヨーヴァ市電しでん)、17のバス路線ろせんからなる。また、主要しゅよう鉄道てつどうえきち、国内こくないほか主要しゅよう都市としともつうじている。クラヨーヴァ空港くうこうもある。

どころ[編集へんしゅう]

ニコラエ・ロマネスク公園こうえん
  • マドナ・ドゥドゥ教会きょうかい - 1750ねんから1756ねんにかけ建設けんせつされ、1831ねん地震じしん破壊はかいされたのち、1844ねん修繕しゅうぜんされた。壁画へきが完成かんせいさせたのはゲオルゲ・タッタレスクである。
  • せいデメトリウス教会きょうかい
  • コシュナ修道院しゅうどういん付属ふぞく教会きょうかい - 1483ねんからある、クラヨーヴァ最古さいこ建物たてもの
  • バンのかん - 1699ねんからある、宗教しゅうきょう施設しせつでないものとしては市内しない最古さいこ建物たてもの。15世紀せいきにバルブ・クライオヴェスクがてたものを、コンスタンティン・ブルンコヴェアヌなおした。現在げんざい民族みんぞく民俗みんぞく芸術げいじゅつ博物館はくぶつかんとして使用しよう
  • クラヨーヴァ美術館びじゅつかん - 1896ねん建設けんせつされた美術館びじゅつかん。フランスじん建築けんちくポール・ゴトロー設計せっけいコンスタンティン・ブランクーシ初期しょき彫刻ちょうこく6てん展示てんじ
  • オルテニア博物館はくぶつかん - 1915ねん創設そうせつ民族みんぞく歴史れきし自然しぜん科学かがくの3分野ぶんやけられている。
  • ニコラエ・ロマネスク公園こうえん - クラヨーヴァ最大さいだいもっともよくられる公園こうえん発案はつあんしゃである当時とうじ市長しちょうニコラエ・ロマネスクのかんし、フランスじん建築けんちくエミール・レンドンが設計せっけい設計せっけいは、1900ねんパリ万国博覧会ばんこくはくらんかい金賞きんしょう受賞じゅしょうした。1903ねん完成かんせい
  • 植物しょくぶつえん - 植物しょくぶつ学者がくしゃアレクサンドル・ブイアによりレイアウトがされ、1952ねん開園かいえん。クラヨーヴァ大学だいがく農学部のうがくぶ研究けんきゅうや、学生がくせい活動かつどうのためつくられた。
  • ジウ草原そうげん

教育きょういく[編集へんしゅう]

クラヨーヴァはつ学校がっこうは、1759ねんにコンスタンティン・オベデアヌによって開校かいこうされた。1826ねんはるにオベデアヌの学校がっこう国立こくりつルーマニア学校がっこう(Şcoala Naţională de Limba Română)となった。この学校がっこうは、1818ねん創立そうりつせいサヴァ高校こうこう(ブカレスト)にいでルーマニア国内こくないで2番目ばんめふる学校がっこうである。

大学だいがく

スポーツ[編集へんしゅう]

いずれもやく30,000にん収容しゅうようスタディオヌル・ヨン・オブレメンコをホームスタジアムとしている。

出身しゅっしん人物じんぶつ[編集へんしゅう]

姉妹しまい都市とし友好ゆうこう都市とし[編集へんしゅう]

姉妹しまい都市とし[編集へんしゅう]

友好ゆうこう都市とし[編集へんしゅう]

参照さんしょう[編集へんしゅう]

  • Istoria Craiovei, Titu Georgescu, Constantin Barbacioru, Florea Firan, Virgil Joita, Constantin Mocanu, Luchian Deaconu, Ion Dogaru, Editura Scrisul Românesc, 1977
  • Florea Firan, Alexandru Firescu, Craiova , Ghidul oraşului, Editura Sport-Turism, 1982
  • Documentare statistică privind evoluţia economică şi socială a municipiului Craiova, Dolj County Statistical Office, 1992

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]