ブルガリア帝国 ていこく (ブルガリアていこく)は、現在 げんざい のブルガリア を中心 ちゅうしん にバルカン半島 ばるかんはんとう の東部 とうぶ を支配 しはい したブルガリア人 じん の帝国 ていこく である。
原 はら 住 じゅう 地 ち の中央 ちゅうおう アジア西部 せいぶ を経 へ てアゾフ海 うみ 沿岸 えんがん 付近 ふきん の広大 こうだい な草原 そうげん 地帯 ちたい から移住 いじゅう してきたテュルク系 けい 遊牧民 ゆうぼくみん のブルガール人 じん によって建設 けんせつ された第 だい 一 いち 次 じ ブルガリア帝国 ていこく (681年 ねん - 1018年 ねん )のもとでキリスト教 きりすときょう を受 う け入 い れ、支配 しはい 者 しゃ のブルガール人 じん と現地 げんち の南 みなみ スラヴ人 じん とが一体化 いったいか してブルガリア人 じん を形成 けいせい 、第 だい 二 に 次 じ ブルガリア帝国 ていこく (1185年 ねん - 1396年 ねん )のもとではイヴァン・アセン2世 せい の時代 じだい に最大 さいだい 版図 はんと を実現 じつげん したが、14世紀 せいき にオスマン帝国 ていこく の度重 たびかさ なる侵略 しんりゃく を受 う け、同 どう 世紀 せいき の終 お わりまでに併合 へいごう し尽 つ くされて消滅 しょうめつ した。
19世紀 せいき にオスマン帝国 ていこく から独立 どくりつ して成立 せいりつ したブルガリア王国 おうこく も1908年 ねん から1946年 ねん までの君主 くんしゅ 制 せい 時代 じだい にツァーリ を君主 くんしゅ の正式 せいしき な称号 しょうごう とし、ブルガリア帝国 ていこく と呼 よ ばれることもある。
第 だい 一 いち 次 じ ブルガリア帝国 ていこく
5世紀 せいき から7世紀 せいき にかけて、スラヴ人 じん とブルガール人 じん によってモエシア は再 ふたた び侵略 しんりゃく された。499年 ねん 、ブルガール人 じん はドナウ川 がわ を渡河 とか して(マリツァ川 がわ の支流 しりゅう とされる)Tzurta川 かわ の土手 どて のトラキアに至 いた り、15,000名 めい の精強 せいきょう なローマ軍 ぐん を破 やぶ った。
670年代 ねんだい 、アスパルフ 支配 しはい 下 か のブルガール人 じん はさらに南 みなみ の東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく (ビザンツ帝国 ていこく )領 りょう 、ドナウ・デルタ 付近 ふきん の小 しょう スキタイ(英語 えいご 版 ばん ) にあるオンガル (英語 えいご 版 ばん ) と呼 よ ばれる地域 ちいき に定住 ていじゅう し、在地 ざいち のスラヴ民族 みんぞく と同盟 どうめい を結 むす んだ[5] 。彼 かれ らの多 おお くは現代 げんだい のウクライナ とロシア の一部 いちぶ 、黒海 こっかい の北 きた に位置 いち する消滅 しょうめつ した部族 ぶぞく 同盟 どうめい 大 だい ブルガリア の生 い き残 のこ りであった。680年 ねん にはモエシアでアスパルフと東 ひがし ローマ皇帝 こうてい の間 あいだ でオングロスの戦 たたか い があった[6] 。
681年 ねん に結 むす ばれた東 ひがし ローマとの講和 こうわ 条約 じょうやく は、支配 しはい するブルガール人 じん とその地域 ちいき の大 だい 多数 たすう のスラヴ人 じん との同盟 どうめい として、ドナウ川 がわ 下流 かりゅう の南北 なんぼく の地 ち に第 だい 一 いち 次 じ ブルガリア帝国 ていこく の成立 せいりつ を示 しめ し、現存 げんそん する最古 さいこ のスラヴ人 じん 国家 こっか となった。少数 しょうすう 派 は のブルガール人 じん は結 むす びつきの強 つよ い支配 しはい 階層 かいそう を形成 けいせい した[7] 。第 だい 一 いち 次 じ ブルガリア帝国 ていこく は大抵 たいてい 、681年 ねん [8] [9] [10] からサムイル の断固 だんこ たる抗戦 こうせん にもかかわらず東 ひがし ローマに屈服 くっぷく させられた1018年 ねん まで続 つづ いたと説明 せつめい される。
8世紀 せいき の初頭 しょとう にはアスパルフの息子 むすこ テルヴェル (英語 えいご 版 ばん ) が君主 くんしゅ であった。705年 ねん 、東 ひがし ローマ皇帝 こうてい ユスティニアノス2世 せい は彼 かれ に「カエサル 」の名 な を与 あた え、テルヴェルはこの称号 しょうごう を授与 じゅよ された最初 さいしょ の外国 がいこく 人 じん となった[11] [12] 。彼 かれ は717〜718年 ねん のコンスタンティノープル包囲 ほうい 戦 せん の際 さい 、ウマイヤ朝 あさ の撃退 げきたい において重要 じゅうよう な役割 やくわり を担 にな った。9世紀 せいき 初頭 しょとう のクルム の治世 ちせい 下 か ではブルガリア領 りょう は倍増 ばいぞう し、ドナウ川中 かわなか 流域 りゅういき からドニエプル川 がわ に、エディルネ からタトラ山脈 さんみゃく にまで拡大 かくだい した。彼 かれ の有能 ゆうのう で精力 せいりょく 的 てき な支配 しはい は帝国 ていこく に法 ほう と秩序 ちつじょ をもたらし、国家 こっか 機構 きこう の基礎 きそ を発展 はってん させた[13] [14] 。
9世紀 せいき から10世紀 せいき の初頭 しょとう にかけ、ボリス1世 せい とシメオン1世 せい 治世 ちせい 下 か のブルガリアはその文化 ぶんか と領土 りょうど の最盛 さいせい 期 き に徐々 じょじょ に達 たっ し、864年 ねん のブルガリアのキリスト教化 きょうか (英語 えいご 版 ばん ) によりスラヴ・ヨーロッパの文化 ぶんか と文学 ぶんがく の中枢 ちゅうすう に、そしてヨーロッパ最大 さいだい 級 きゅう の国家 こっか に発展 はってん し、この時期 じき はブルガリアの黄金 おうごん 時代 じだい (英語 えいご 版 ばん ) と考 かんが えられている。主要 しゅよう な出来事 できごと は、893年 ねん に公式 こうしき 宣言 せんげん されたプレスラフ文学 ぶんがく 学校 がっこう (英語 えいご 版 ばん ) でのキリル文字 もじ 発明 はつめい や、古代 こだい 教会 きょうかい スラヴ語 ご とも呼 よ ばれる古 こ ブルガリア語 ご における典礼 てんれい の確立 かくりつ を含 ふく んだ[15] [16] [17] 。
971年 ねん 、都 と のプレスラフ (英語 えいご 版 ばん ) はキエフ大公 たいこう 国 こく 、そして東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく により占領 せんりょう された。1018年 ねん には第 だい 一 いち 次 じ ブルガリア帝国 ていこく は滅亡 めつぼう し、東 ひがし ローマの属 ぞく 州 しゅう テマ・ブルガリアス (英語 えいご 版 ばん ) (1018〜1185年 ねん )となった[18] 。
976年 ねん には独立 どくりつ を回復 かいふく したものの、マジャル (後 ご のハンガリー王国 おうこく )や東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく にはしばしば敗 やぶ れた。986年 ねん のトラヤヌスの門 もん の戦 たたか い から東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の対 たい ブルガリア30年 ねん 戦争 せんそう (英語 えいご 版 ばん ) (968年 ねん -1018年 ねん )が激 はげ しくなり、1014年 ねん にはクレディオン峠 とうげ の戦 たたか い でサムイル 帝 みかど が戦死 せんし 、1018年 ねん 、ブルガリアは東 ひがし ローマ皇帝 こうてい バシレイオス2世 せい によって完全 かんぜん に併合 へいごう し尽 つ くされ、西 にし ブルガリア帝国 ていこく は滅亡 めつぼう した。
第 だい 二 に 次 じ ブルガリア帝国 ていこく
1185年 ねん 、タルノヴォ 出身 しゅっしん の2人 ふたり の貴族 きぞく アセン とペタル による蜂起 ほうき の後 のち に、中世 ちゅうせい のブルガリア人 じん 国家 こっか は第 だい 二 に 次 じ ブルガリア帝国 ていこく として修復 しゅうふく された。これは14世紀 せいき 後半 こうはん (1422年 ねん とする傍流 ぼうりゅう な見方 みかた もあるが、通常 つうじょう はその滅亡 めつぼう 年 ねん を1396年 ねん とする)にオスマン帝国 ていこく によるバルカン半島 ばるかんはんとう 侵攻 しんこう の際 さい に制圧 せいあつ されるまで存在 そんざい した[19] 。第 だい 二 に 次 じ ブルガリア帝国 ていこく は1256年 ねん までバルカン半島 ばるかんはんとう における支配 しはい 的 てき 勢力 せいりょく であり、幾 いく つもの主要 しゅよう な戦闘 せんとう において東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく を打 う ち負 ま かした。
1205年 ねん 、カロヤン・アセン はアドリアノープルの戦 たたか い (1205年 ねん ) にて、新 あら たに建国 けんこく されたラテン帝国 ていこく の軍勢 ぐんぜい を撃破 げきは した。彼 かれ の甥 おい イヴァン・アセン2世 せい はエピロス専制 せんせい 侯 こう 国 こく を破 やぶ り、ブルガリアを再 ふたた び地域 ちいき 大国 たいこく にした。彼 かれ の治世 ちせい 下 か のブルガリアはアドリア海 あどりあかい から黒海 こっかい へと拡大 かくだい し、その経済 けいざい も繁栄 はんえい を迎 むか えた。13世紀 せいき 前半 ぜんはん のイヴァン・アセン2世 せい の下 した 、ブルガリアはかつての勢力 せいりょく の大半 たいはん を徐々 じょじょ に回復 かいふく したが、国内 こくない の問題 もんだい と外国 がいこく の侵攻 しんこう のためにこれは長 なが くは続 つづ かなかった。
ブルガリアの画家 がか や建築 けんちく 家 か らは独自 どくじ の特徴 とくちょう 的 てき なスタイルを創出 そうしゅつ した。14世紀 せいき に至 いた るまでのブルガリア文化 ぶんか の第 だい 二 に 黄金 おうごん 時代 じだい として知 し られる時期 じき に、文学 ぶんがく 、芸術 げいじゅつ 、建築 けんちく が栄 さか えた[20] 。「ニューコンスタンティノープル」と見 み なされた帝都 ていと タルノヴォは、ブルガリアの文化 ぶんか 的 てき 中枢 ちゅうすう かつ正教会 せいきょうかい 世界 せかい の中心 ちゅうしん 地 ち となった[21] 。
13世紀 せいき から14世紀 せいき には、ブルガリアはモンゴル帝国 ていこく の継承 けいしょう 国 こく ジョチ・ウルス の従属 じゅうぞく 国 こく となった[22] [23] 。1371年 ねん のイヴァン・アレクサンダル 死後 しご のブルガリアは3国 こく に分割 ぶんかつ され、その後 ご 数 すう 十 じゅう 年 ねん にわたりオスマン帝国 ていこく 支配 しはい 下 か に収 おさ まった。包囲 ほうい 戦後 せんご の1393年 ねん 、タルノヴォはオスマンに占領 せんりょう され、1396年 ねん にはヴィディン王国 おうこく も敗 やぶ れた。オスマンの征服 せいふく 後 ご 、多 おお くのブルガリア人 じん 聖職 せいしょく 者 しゃ や学者 がくしゃ がセルビア、ワラキア 、モルダヴィア 、ルーシの諸 しょ 公国 こうこく に移 うつ り、その各地 かくち はブルガリアの文化 ぶんか や文献 ぶんけん 、ヘシカズム 思想 しそう などを導入 どうにゅう した[24] 。
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