1163年 ねん に建設 けんせつ が始 はじ まったノートルダム 大 だい 聖堂 せいどう は、中世 ちゅうせい 盛期 せいき の建築 けんちく の好例 こうれい の一 ひと つである。
中世 ちゅうせい において中世 ちゅうせい 盛期 せいき (ちゅうせいせいき)[1] とは、ヨーロッパ史 し において11, 12, 13世紀 せいき を中心 ちゅうしん とする時代 じだい で、歴史 れきし 上 じょう の時代 じだい 区分 くぶん としては中世 ちゅうせい 前期 ぜんき の後 のち 、中世 ちゅうせい 後期 こうき の前 まえ とされる。中世 ちゅうせい 後期 こうき は1500年 ねん までには終了 しゅうりょう したと考 かんが えるのが慣例 かんれい である[2] [3] [4] [5] 。
ヨーロッパ史 し における中世 ちゅうせい 盛期 せいき に顕著 けんちょ な傾向 けいこう として、大幅 おおはば な人口 じんこう 増 ぞう が挙 あ げられる。これによって、前 ぜん 時代 じだい からは政治 せいじ 的 てき ・経済 けいざい 的 てき に大 おお きな変化 へんか が生 しょう じた。1250年 ねん の大幅 おおはば な人口 じんこう 増 ぞう によって引 ひ き起 お こされた経済 けいざい 成長 せいちょう は、地域 ちいき によっては19世紀 せいき までは二度 にど と実現 じつげん されなかったほど大幅 おおはば なものであった。しかし、こうした人口 じんこう 増加 ぞうか は、中世 ちゅうせい 後期 こうき になるとしばしば発生 はっせい した災難 さいなん (ペスト が有名 ゆうめい だが、戦争 せんそう や経済 けいざい 停滞 ていたい も含 ふく まれる)によって抑制 よくせい されることになった。
780年 ねん 頃 ごろ 以降 いこう 、西 にし ヨーロッパ では民族 みんぞく 移動 いどう 時代 じだい が終 お わりをつげ、政治 せいじ 的 てき ・社会 しゃかい 的 てき な組織 そしき 化 か が促進 そくしん された。南欧 なんおう で繁栄 はんえい したイスラム系 けい 諸国 しょこく は、ヨーロッパにおける科学 かがく と哲学 てつがく の復興 ふっこう をもたらした。ボローニャ、サレルノ、パリ、モデーナには最初 さいしょ の大学 だいがく が設立 せつりつ された。バイキング達 たち はブリテン諸島 しょとう やフランスをはじめ各地 かくち に定住 ていじゅう したが、同時 どうじ にキリスト教 きりすときょう を国教 こっきょう としたノルド人 じん 達 たち の諸 しょ 王国 おうこく は、故 こ 地 ち であるスカンディナヴィア でも発展 はってん を続 つづ けた。マジャル人 じん は10世紀 せいき 頃 ごろ に侵入 しんにゅう を停止 ていし し、1000年 ねん 頃 ごろ までにはキリスト教 きりすときょう 国 こく であるハンガリー王国 おうこく として、地域 ちいき の諸 しょ 大国 たいこく と同盟 どうめい を結 むす びつつ、中央 ちゅうおう ヨーロッパ におけるその地位 ちい を固 かた めた。一過 いっか 性 せい に例外 れいがい 的 てき 事件 じけん としてモンゴルの征服 せいふく はあったが、おおむね異 い 民族 みんぞく の侵入 しんにゅう はこの時代 じだい に終 お わったと言 い えよう。
11世紀 せいき になると、アルプス山脈 あるぷすさんみゃく の北方 ほっぽう にいたゲルマン人 じん 達 たち は新 あら たな土地 とち を求 もと めて入植 にゅうしょく を始 はじ めたが、こうした植民 しょくみん 地 ち の中 なか にはロ ろ ーマ帝国 まていこく の滅亡 めつぼう 後 ご には荒 あ れ地 ち に戻 もど っていた場所 ばしょ もある。ヨーロッパに残 のこ っていた広大 こうだい な森林 しんりん や湿地 しっち はこの時代 じだい に開墾 かいこん され耕作 こうさく 地 ち となったが、この変化 へんか はグレート・クリアランス と呼 よ ばれる。また、入植 にゅうしょく 活動 かつどう はフランク王国 おうこく の旧来 きゅうらい の国教 こっきょう 線 せん を越 こ えて東方 とうほう の未開 みかい 地 ち に及 およ び、エルベ川 がわ を超 こ えて東 ひがし に拡張 かくちょう する過程 かてい でドイツ人 じん の居住 きょじゅう 地 ち は3倍 ばい に拡大 かくだい した。依然 いぜん として強力 きょうりょく な指導 しどう 力 りょく を保 たも っていたカトリック教会 きょうかい は、聖地 せいち を占領 せんりょう したセルジューク・トルコ に対 たい する一連 いちれん の十字軍 じゅうじぐん 遠征 えんせい を全 ぜん ヨーロッパに呼 よ びかけ、それによりレバント に十字軍 じゅうじぐん 国家 こっか を建国 けんこく した。北方 ほっぽう ではバルト海 ばるとかい の植民 しょくみん 地 ち 化 か が行 おこな われ、イベリア半島 はんとう ではキリスト教 きりすときょう 諸国 しょこく 軍 ぐん がムーア人 じん をレコンキスタ によって駆逐 くちく し、ノルマン人 じん は南 みなみ イタリアに植民 しょくみん したが、こうした活動 かつどう は全 すべ て、この時代 じだい に起 お きた人口 じんこう の大幅 おおはば な増加 ぞうか とその結果 けっか としての移住 いじゅう のパターンとして読 よ み解 と くことが出来 でき る。
中世 ちゅうせい 盛期 せいき には、知的 ちてき で精神 せいしん 的 てき な芸術 げいじゅつ 作品 さくひん の分野 ぶんや に多 おお くの様式 ようしき が生 う まれた。また、この時代 じだい にはエスノセントリズム の萌芽 ほうが が見 み られるが、これは後 のち に近代 きんだい ヨーロッパ諸国 しょこく に見 み られた国民 こくみん 国家 こっか の思想 しそう につながるものである。イタリアでは諸々 もろもろ の都市 とし 国家 こっか が興隆 こうりゅう し、イベリア半島 はんとう ではアンダルス の勃興 ぼっこう と没落 ぼつらく があった。アリストテレス の著作 ちょさく 群 ぐん が再 さい 発見 はっけん されたことは、トマス・アクィナス をはじめとする思想家 しそうか がスコラ学 がく を発展 はってん させるきっかけとなった。建築 けんちく では、有名 ゆうめい なゴシック大 だい 聖堂 せいどう の多 おお くの建設 けんせつ が、この時代 じだい に着工 ちゃっこう され、あるいは完成 かんせい されている。中世 ちゅうせい 盛期 せいき という時代 じだい 区分 くぶん は、中世 ちゅうせい 後期 こうき の危機 きき と呼 よ ばれる14世紀 せいき に始 はじ まった相次 あいつ ぐペストの流行 りゅうこう や飢饉 ききん の発生 はっせい よって区切 くぎ られる。
「中世 ちゅうせい 盛期 せいき 」という用語 ようご は、中世 ちゅうせい を三 さん 分割 ぶんかつ したうちの一 ひと つで、他 た の二 ふた つは、中世 ちゅうせい 前期 ぜんき と中世 ちゅうせい 後期 こうき である。レオナルド・ブルーニ はフィレンツェ人 じん の歴史 れきし (1442年 ねん )で三 さん 分割 ぶんかつ した時代 じだい 区分 くぶん を初 はじ めて用 もち いた歴史 れきし 家 か であった[6] 。フラビオ・ビオンド はロ ろ ーマ帝国 まていこく の悪化 あっか の歴史 れきし の数 すう 十 じゅう 年 ねん (1439年 ねん -1453年 ねん )で同様 どうよう の枠組 わくぐ みを用 もち いた。三 さん 分割 ぶんかつ はドイツの歴史 れきし 家 か クリストフ・セラリウス が古代 こだい 、中世 ちゅうせい 、新 しん 時代 じだい に分割 ぶんかつ した普遍 ふへん 的 てき な歴史 れきし (1683年 ねん )を出版 しゅっぱん して一般 いっぱん 化 か した。
この
節 ふし の
加筆 かひつ が
望 のぞ まれています。
主 おも に: timelineへの項目 こうもく 追加 ついか (2014年 ねん 10月 がつ )
日付 ひづけ
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イングランド では1066年 ねん のノルマン・コンクエスト により王国 おうこく はフランス語 ふらんすご を話 はな す貴族 きぞく に支配 しはい されることになった。ノルマン人 じん は1169年 ねん に武力 ぶりょく でアイルランド に侵攻 しんこう し、砦 とりで は南東 なんとう 部 ぶ にあったが、間 ま もなく国 くに のほぼ全域 ぜんいき に落 お ち着 つ いた。スコットランド は後 のち に独立 どくりつ を訴 うった えたが、同様 どうよう にスコットランドとウェールズ は、同 おな じ頃 ごろ に征服 せいふく された。
中世 ちゅうせい 前期 ぜんき の初 はじ め頃 ごろ 、ノルマンディー公 こう ウィリアム1世 せい がイングランド王国 おうこく の王位 おうい を主張 しゅちょう した。ウィリアムはイングランド侵攻 しんこう を開始 かいし し、1066年 ねん 9月 がつ 28日 にち にサセックス に上陸 じょうりく した。ヘイスティングズの戦 たたか い (1066年 ねん 10月 がつ 14日 にち )でイングランド軍 ぐん は敗 やぶ れ、ウィリアムは征服 せいふく 者 しゃ となった。ウィリアムはこの時 とき 他 た に大 たい した敵 てき も殆 ほとん どなくイングランドの残 のこ りを征服 せいふく することができた。しかしノルマンディー公国 こうこく にイングランド王国 おうこく を吸収 きゅうしゅう 合併 がっぺい する計画 けいかく はなかった。単 たん なる大公 たいこう としてウィリアムはフィリップ1世 せい に忠義 ちゅうぎ を果 は たす義務 ぎむ があったが、独立 どくりつ したイングランド王国 おうこく で干渉 かんしょう されずに支配 しはい できた。1066年 ねん 12月25日 にち にイングランド王 おう になった。イングランド王国 おうこく とノルマンディー公国 こうこく は、1204年 ねん まで同君 どうくん 連合 れんごう 下 した にあった。ウィリアムから4世代 せだい 後 ご にはノルマンディー公国 こうこく の大陸 たいりく の領土 りょうど は、フィリップ2世 せい に奪 うば われた。チャンネル諸島 しょとう などの若干 じゃっかん のノルマンディー の一部 いちぶ は、アキテーヌ公国 こうこく の殆 ほとん どとともにイングランド領 りょう のままだった。
アングロサクソン朝 ちょう イングランド のノルマン・コンクエストの時代 じだい に至 いた るまでウェールズはその殆 ほとん どで独立 どくりつ を保 たも っていた。イングランドでノルマン・コンクエストが起 お きると、ノルマンの領主 りょうしゅ の中 なか にウェールズを攻撃 こうげき し始 はじ める者 もの がいた。多 おお くの地域 ちいき を占領 せんりょう し、イングランドのノルマン王 おう の大 だい 君主 くんしゅ 制 せい を認 みと めたもののかなりの地方 ちほう の独立 どくりつ を認 みと めながら支配 しはい した。長年 ながねん にわたりこの「マーチャー領主 りょうしゅ 」はイングランドのノルマン王 おう の大 だい 君主 くんしゅ 制 せい も認 みと めることが珍 めずら しくなかった様々 さまざま なウェールズの王子 おうじ に率 ひき いられたかなりの抵抗 ていこう 運動 うんどう に向 む かい合 あ いながらウェールズの多 おお くを占領 せんりょう した。
財務省 ざいむしょう が12世紀 せいき にヘンリー1世 せい の下 した で創設 そうせつ され、最初 さいしょ の議会 ぎかい が、召集 しょうしゅう された。1215年 ねん 、ノルマンディー を失 うしな うと、ジョン はイングランド君主 くんしゅ の権力 けんりょく を制限 せいげん するマグナ・カルタ に法律 ほうりつ として署名 しょめい した。
エドワード1世 せい は1282年 ねん に事実 じじつ 上 じょう ウェールズを占領 せんりょう し、1301年 ねん に長男 ちょうなん エドワード2世 せい のためにプリンス・オブ・ウェールズ の称号 しょうごう を創設 そうせつ した。カウニー城 じょう やハーレック城 じょう 、カーナーヴォン城 じょう のような広大 こうだい な城 しろ が証明 しょうめい するように、エドワードの占領 せんりょう は、冷酷 れいこく で、続 つづ く抑圧 よくあつ は、無視 むし できないものであったが、この事件 じけん は約 やく 700年 ねん 前 まえ の西暦 せいれき 5世紀 せいき のケント王国 おうこく のジュート人 じん の王国 おうこく が建国 けんこく されてから初 はじ めてブリタンニア の国土 こくど を単一 たんいつ の支配 しはい 者 しゃ が再 さい 統一 とういつ したものであった。従 したが って前 ぜん サクソン時代 じだい との関 かか わりを再 ふたた び持 も つことになったので、このことは中世 ちゅうせい イングランド史 し で非常 ひじょう に重要 じゅうよう な瞬間 しゅんかん であった。この関 かか わり合 あ いはウェールズ伝説 でんせつ によりアングロ・ノルマン人 じん などの王国 おうこく の国民 こくみん を統一 とういつ する政治 せいじ 的 てき な目的 もくてき に悪用 あくよう された。
10世紀 せいき 中葉 ちゅうよう から11世紀 せいき 中葉 ちゅうよう にかけてスカンディナヴィア 王国 おうこく はヴァイキング の侵入 しんにゅう に終 お わりを告 つ げた結果 けっか 統一 とういつ されキリスト教化 きょうか し、ヨーロッパの政治 せいじ に深 ふか く関 かか わることになった。デンマーク のクヌーズ2世 せい は、イングランドとノルウェー の両方 りょうほう を支配 しはい した(北海 ほっかい 帝国 ていこく )。クヌーズ2世 せい が1035年 ねん に死去 しきょ すると、イングランドとノルウェーは、失 うしな われた。1130年 ねん から1240年 ねん にノルウェーで内戦 ないせん が荒 あ れ狂 くる った 。1227年 ねん にヴァルデマー2世 せい が敗 やぶ れるとともに、この地域 ちいき のデンマークの支配 しはい は、終 お わりを告 つ げた。一方 いっぽう ビルイェル・ヤール の下 した でスウェーデン がバルト海 ばるとかい 北部 ほくぶ とフィンランド 南部 なんぶ に強力 きょうりょく な拠点 きょてん をき上 ずきあ げる間 あいだ に、ノルウェーはグリーンランド からマン島 とう にかけての大西 おおにし 洋 ひろし の支配 しはい 地域 ちいき を拡張 かくちょう した。しかしノルウェーの興隆 こうりゅう は、1266年 ねん のパース条約 じょうやく で示 しめ されたように同 どう 時期 じき に既 すで に衰退 すいたい を始 はじ めた。
中世 ちゅうせい 盛期 せいき の時代 じだい までに現在 げんざい の境界 きょうかい 線 せん ではないけれどカロリング帝国 ていこく はフランス王国 おうこく とドイツ王国 おうこく の後継 こうけい 国家 こっか に分 わ かれ、置 お き換 か えられた。ドイツは統合 とうごう と政治 せいじ 権力 けんりょく が絶頂 ぜっちょう 期 き に達 たっ した神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の旗 はた の下 した にあった。フランス王国 おうこく は12世紀 せいき から14世紀 せいき 前半 ぜんはん にかけて芸術 げいじゅつ と文学 ぶんがく の発露 はつろ の時代 じだい であった。ヴァロワ家 か の興隆 こうりゅう とともにイングランド王国 おうこく との百 ひゃく 年 ねん 戦争 せんそう の長引 ながび く王朝 おうちょう の危機 きき と破滅 はめつ 的 てき なペスト の流行 りゅうこう が起 お きた。
1250年 ねん にフリードリヒ2世 せい が死 し ぬと、ドイツ王国 おうこく は息子 むすこ のコンラート4世 せい と反対 はんたい 派 は のウィレム2世 せい の下 した に分割 ぶんかつ された。コンラート4世 せい が死 し ぬと、国王 こくおう が全員 ぜんいん の承認 しょうにん を得 え られず王子 おうじ が保有 ほゆう 物 ぶつ をうまく固 かた めようとし独立 どくりつ した支配 しはい 者 しゃ にさえなった時代 じだい である大 だい 空位 くうい 時代 じだい となった。1257年 ねん を過 す ぎると、王位 おうい はゲルフ党 とう に支援 しえん されたリチャード とホーヘンシュタウフェン党 とう に承認 しょうにん されたが決 けっ してドイツの土地 とち に足場 あしば を設 もう けなかったアルフォンソ10世 せい の間 あいだ で争 あらそ われた。リチャードが1273年 ねん に死 し ぬと、ルドルフ1世 せい が全員 ぜんいん 一致 いっち で選 えら ばれ空位 くうい 期間 きかん は終了 しゅうりょう した。
13世紀 せいき はドイツ王国 おうこく の土地 とち の管理 かんり 方法 ほうほう に一般 いっぱん 的 てき な構造 こうぞう 変革 へんかく があった時代 じだい である。個人 こじん の義務 ぎむ の代 か わりに金銭 きんせん が益々 ますます 農業 のうぎょう において経済 けいざい 価値 かち を表 あらわ す共通 きょうつう の手段 しゅだん になった。農奴 のうど は益々 ますます 土地 とち のために年貢 ねんぐ を納 おさ めるよう要求 ようきゅう された。依然 いぜん として非常 ひじょう に土地 とち に縛 しば り付 つ けられていたが、「財産 ざいさん 」の概念 がいねん は、古代 こだい の財産 ざいさん 権 けん の形式 けいしき に置 お き換 か わり始 はじ めた。領土 りょうど では(帝国 ていこく ではなく)権力 けんりょく は益々 ますます 束 たば ねられた。土地 とち を所有 しょゆう する者 もの は誰 だれ でも他 た の権力 けんりょく から得 え られる財産 ざいさん 権 けん があった。しかしこの時代 じだい の財産 ざいさん 権 けん に司法 しほう 権 けん が含 ふく まれなかったことは特筆 とくひつ すべきことである。法廷 ほうてい を開 ひら くには重々 おもおも しく伝統 でんとう 的 てき な慣習 かんしゅう を当 あ てにするかでなければ規則 きそく は慣習 かんしゅう 法 ほう であった。
中世 ちゅうせい 盛期 せいき にはハンガリー王国 おうこく (1000年 ねん 建国 けんこく )は中央 ちゅうおう ヨーロッパ と西 にし ヨーロッパ において最 もっと も強大 きょうだい な国家 こっか であった。国民 こくみん は聖 きよし イシュトヴァーン1世 せい によりキリスト教化 きょうか された。同 どう 時代 じだい の年代 ねんだい 記 き 記録 きろく 者 しゃ 達 たち によれば、王 おう は非常 ひじょう に信仰 しんこう 心 しん が厚 あつ く、ラテン語 らてんご 文法 ぶんぽう に造詣 ぞうけい が深 ふか く、自 じ 国民 こくみん には厳 きび しいが外国 がいこく 人 じん には寛容 かんよう な君主 くんしゅ であったということである。イシュトヴァーン1世 せい は王国 おうこく 内 ない に残存 ざんそん していた部族 ぶぞく 社会 しゃかい の風習 ふうしゅう を一掃 いっそう し、国人 くにびと に定住 ていじゅう を強制 きょうせい し、またキリスト教 きりすときょう の信仰 しんこう と倫理 りんり 観 かん 、およびキリスト教 きりすときょう 的 てき な生活 せいかつ 様式 ようしき を導入 どうにゅう し、政治 せいじ 的 てき にはドイツの国家 こっか システムをモデルとする中世 ちゅうせい 国家 こっか としてのハンガリーの基礎 きそ を築 きず いた。
イシュトヴァーン1世 せい に続 つづ く君主 くんしゅ 達 たち は、聖 きよし ラースロー1世 せい のように、ローマ 教会 きょうかい と密接 みっせつ な関係 かんけい を保 たも つことを常 つね としたが、ハンガリー王国 おうこく 内 ない に安住 あんじゅう の地 ち を求 もと めて避難 ひなん してきた異教徒 いきょうと 達 たち に対 たい しても寛容 かんよう な態度 たいど をとった。例 たと えば13世紀 せいき にハンガリー王国 おうこく に逃 に げてきたクマン人 じん はこの例 れい であるが、こうした態度 たいど が何人 なんにん かの教皇 きょうこう の不興 ふきょう を買 か ったのも事実 じじつ である。クロアチア との同君 どうくん 連合 れんごう の形成 けいせい および群小 ぐんしょう 国家 こっか の併合 へいごう により、ハンガリーはバルカン半島 ばるかんはんとう とカルパティア 地方 ちほう 全域 ぜんいき にその影響 えいきょう を及 およ ぼす小 しょう 帝国 ていこく になった。ハンガリー 王室 おうしつ は、中世 ちゅうせい においてカトリック教会 きょうかい から最 もっと も多 おお くの聖人 せいじん を輩出 はいしゅつ した王家 おうけ であった。
960年 ねん 頃 ごろ にミェシュコ1世 せい が神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい オットー1世 せい からポーランド公 こう の称号 しょうごう を与 あた えられ、ピャスト朝 あさ を創始 そうし した。ミェシェンコの子 こ ボレスワフ1世 せい の代 だい には父 ちち の勢力 せいりょく をさらに拡大 かくだい し、強大 きょうだい な国家 こっか となった。1138年 ねん にボレスワフ3世 せい が没 ぼっ すると後継 こうけい 者 しゃ 争 あらそ いによってポーランドは分裂 ぶんれつ してしまう。分裂 ぶんれつ 状態 じょうたい は約 やく 200年 ねん 続 つづ き、ヴワディスワフ1世 せい によって統一 とういつ された。
最北端 さいほくたん は数 すう か国 こく のキリスト教 きりすときょう 国 こく に分 わ かれていたが、イベリア半島 はんとう の多 おお くは、711年 ねん 以降 いこう ムーア人 じん に占領 せんりょう されていた。11世紀 せいき と13世紀 せいき に再 ふたた び北部 ほくぶ のキリスト教 きりすときょう 王国 おうこく は、イベリア半島 はんとう の中央 ちゅうおう 部 ぶ と南部 なんぶ の殆 ほとん どからムスリムを追 お い出 だ した。
イタリアでは独立 どくりつ した都市 とし 国家 こっか が、東方 とうほう の海運 かいうん 貿易 ぼうえき で豊 ゆた かになっていた。こうしたことは特 とく にピサ やアマルフィ 、ジェノヴァ 、ヴェネツィア の制海権 せいかいけん であった。
バルカン半島 ばるかんはんとう と東欧 とうおう [ 編集 へんしゅう ]
中世 ちゅうせい 盛期 せいき はスラヴ系 けい のキエフ大公 たいこう 国 こく の栄枯盛衰 えいこせいすい とポーランドの出現 しゅつげん (英語 えいご 版 ばん ) があった時代 じだい である。後 のち に東 ひがし ヨーロッパ の多 おお くの国 くに が侵略 しんりゃく され、略奪 りゃくだつ され、占領 せんりょう され、属国 ぞっこく となったので、13世紀 せいき のモンゴル侵攻 しんこう がこの地域 ちいき に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた。
この時代 じだい の前半 ぜんはん (1025年 ねん -1185年 ねん )に東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく はドナウ川 がわ の南 みなみ のバルカン半島 ばるかんはんとう を支配 しはい し、コムネノス王朝 おうちょう 皇帝 こうてい の下 した で繁栄 はんえい の復活 ふっかつ と都会 とかい 化 か があったが、この地域 ちいき の支配 しはい は、1185年 ねん にブルガリア の反乱 はんらん が成功 せいこう 裡 うら に終 お わるとともに終 お わりをつげ、これ以降 いこう マケドニア やトラキア の幾 いく つかの地域 ちいき やモエシア のブルガリア人 じん 、トラキアやマケドニアの殆 ほとん どの地域 ちいき 、北西 ほくせい 部 ぶ のセルビア人 じん などの地域 ちいき は、ギリシャ のビザンティン帝国 ていこく の間 あいだ で分割 ぶんかつ された。東 ひがし と西 にし の教会 きょうかい は、11世紀 せいき に正式 せいしき に分裂 ぶんれつ し、12世紀 せいき に時折 ときおり 協力 きょうりょく 関係 かんけい の時代 じだい があったにもかかわらず、1204年 ねん 、第 だい 4回 かい 十字軍 じゅうじぐん がコンスタンティノープル を占領 せんりょう する裏切 うらぎ り行為 こうい を行 おこな った。このことは東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく に深刻 しんこく な打撃 だげき を与 あた え、権力 けんりょく は遂 つい には15世紀 せいき にオスマン帝国 ていこく に奪 うば われた。しかしラテン帝国 ていこく の権力 けんりょく は、十字軍 じゅうじぐん がアドリアノープルの戦 たたか い でブルガリア皇帝 こうてい カロヤン により敗走 はいそう すると、短命 たんめい であった。
気候 きこう と農業 のうぎょう [ 編集 へんしゅう ]
10世紀 せいき からほぼ14世紀 せいき にかけての時代 じだい は、中世 ちゅうせい の温暖 おんだん 期 き と呼 よ ばれ、比較 ひかく 的 てき に温暖 おんだん であった。この一時 いちじ 的 てき に訪 おとず れた温和 おんわ な時代 じだい は、より寒 さむ い小 しょう 氷 こおり 期 き の到来 とうらい によって終止符 しゅうしふ を打 う たれた。ヨーロッパでワイン園 えん が最 もっと も普及 ふきゅう したのは小 しょう 氷 こおり 期 き に入 はい ってからなのではあるが、中世 ちゅうせい の温暖 おんだん 期 き にはスカンディナヴィア の北方 ほっぽう でもコムギ が栽培 さいばい 可能 かのう であったし、北 きた イングランド でもワイン 用 よう のブドウが栽培 さいばい された。農耕 のうこう 域 いき の拡大 かくだい は人工 じんこう の増大 ぞうだい を促 うなが し、1315年 ねん には150万 まん 人 にん が犠牲 ぎせい となる飢饉 ききん が起 お きたが、ヨーロッパの人口 じんこう は全体 ぜんたい としては増加 ぞうか した。また、人口 じんこう の増加 ぞうか によってこの時代 じだい には新 あたら しい町 まち の建設 けんせつ が促 うなが され、工業 こうぎょう や経済 けいざい の活動 かつどう も活発 かっぱつ 化 か した。この時代 じだい には食料 しょくりょう 生産 せいさん も増進 ぞうしん したが、従来 じゅうらい のものよりも重 おも い鋤 すき の使用 しよう 、牛 うし に代 か わる馬 うま の使用 しよう 、以前 いぜん の二 に 圃制より多 おお くの種類 しゅるい の作物 さくもつ の栽培 さいばい に適 てき した三 さん 圃制の導入 どうにゅう といった新 しん 技術 ぎじゅつ の導入 どうにゅう による部分 ぶぶん が大 おお きい。三 さん 圃式農法 のうほう ではマメ類 るい の耕作 こうさく がよく知 し られるが、マメ類 るい を育 そだ てることで、土壌 どじょう から養分 ようぶん として重要 じゅうよう な窒素 ちっそ が枯渇 こかつ するのを防 ふせ ぐことができるのである。
ある研究 けんきゅう によると[7] 、中世 ちゅうせい の温暖 おんだん 期 き は幾 いく つかの地域 ちいき では2000年代 ねんだい の10年間 ねんかん に匹敵 ひってき するかそれ以上 いじょう の暖 あたた かさであったが、地球 ちきゅう 規模 きぼ では2000年代 ねんだい の水準 すいじゅん を下回 したまわ っている。中世 ちゅうせい の温暖 おんだん 期 き の再 さい 構築 こうちく は、20世紀 せいき 後半 こうはん を基準 きじゅん にしたものを実質 じっしつ 的 てき に超 こ えているように見 み え、幾 いく つかの地域 ちいき では過去 かこ 10-20年間 ねんかん のものに匹敵 ひってき するか超 こ えている北大西洋 きたたいせいよう の多 おお くの地域 ちいき や南 みなみ グリーンランド、ユーラシア側 がわ の北極 ほっきょく 地方 ちほう 、北 きた アメリカの一部 いちぶ に対 たい する暖 あたた かさを作 つく り出 だ している。中央 ちゅうおう ユーラシア、北 きた アメリカ北西 ほくせい 部 ぶ 、(あまり信用 しんよう できないが)南 みなみ 大西洋 たいせいよう の一部 いちぶ のような地域 ちいき は、例外 れいがい 的 てき に寒 さむ かったことを示 しめ した。
騎士 きし 道 どう の興隆 こうりゅう [ 編集 へんしゅう ]
重 じゅう 騎士 きし (ナイト )という身分 みぶん が11世紀 せいき にはヨーロッパ全域 ぜんいき で普通 ふつう となり、馬上 もうえ 槍 やり 試合 しあい が考案 こうあん されたのもこの頃 ころ である。馬 うま や鎧 よろい といった重 じゅう 装備 そうび を準備 じゅんび する初期 しょき 投資 とうし は簡単 かんたん なものではなかったが、農奴 のうど 層 そう にとって騎士 きし になることは自由 じゆう 民 みん になるひとつの手段 しゅだん であった。12世紀 せいき になると、クリュニー修道院 しゅうどういん の修道 しゅうどう 僧 そう 達 たち が神学 しんがく 的 てき に正当 せいとう な戦争 せんそう という概念 がいねん を提唱 ていしょう し、テンプル騎士 きし 団 だん に代表 だいひょう される修道 しゅうどう 騎士 きし 団 だん の創設 そうせつ を鼓吹 こすい した。貴族 きぞく 階級 かいきゅう の身分 みぶん の世襲 せしゅう はこの頃 ころ に始 はじ まったが、13世紀 せいき のドイツでは、貴族 きぞく の肩書 かたが きほど輝 かがや かしいものではないとはいえ、騎士 きし の身分 みぶん もこの頃 ころ に世襲 せしゅう されるようになり、この風潮 ふうちょう は他国 たこく へも広 ひろ まっていった。
1054年 ねん の東西 とうざい 教会 きょうかい の分裂 ぶんれつ は、正式 せいしき にキリスト教会 きょうかい を二 ふた つに分 わ けた。大 だい 分裂 ぶんれつ は長 なが らく政治 せいじ 的 てき ・教義 きょうぎ 的 てき 差異 さい や神学 しんがく 論争 ろんそう により一層 いっそう 傷付 きずつ けられてきた東西 とうざい の関係 かんけい から齎 もたら された。顕著 けんちょ な例 れい は、聖体 せいたい 拝領 はいりょう には発酵 はっこう したパンを用 もち いるべきか発酵 はっこう していないパンを用 もち いるべきかということと、五大 ごだい 総 そう 主教 しゅきょう 座 ざ (五 ご 本山 ほんざん ・ペンターキー)においてローマ教皇 きょうこう の主張 しゅちょう する普遍 ふへん 的 てき な権限 けんげん である首位 しゅい 権 けん やコンスタンティノープル総 そう 主教 しゅきょう の地位 ちい の問題 もんだい はどうあるべきかということであった。レオ9世 せい とミハイル1世 せい は、4人 にん の総 そう 主教 しゅきょう にまで教皇 きょうこう の権威 けんい は及 およ ぶかという論争 ろんそう の最後 さいご に互 たが いを破門 はもん した 。
分裂 ぶんれつ 後 ご のキリスト教 きりすときょう は西方 せいほう のカトリック教会 きょうかい と東方 とうほう の正教会 せいきょうかい との二 ふた つの教会 きょうかい でまとめられる。それぞれの教会 きょうかい は教義 きょうぎ 上 じょう 、神学 しんがく 上 じょう 、言語 げんご 学 がく 上 じょう 、政治 せいじ 的 てき 、地理 ちり 的 てき な線 せん で分 わ かれ、根本 こんぽん 的 てき な不和 ふわ の原因 げんいん は互 たが いが相手 あいて を異端 いたん に陥 おちい ったと非難 ひなん し分裂 ぶんれつ を始 はじ めたことであり、決 けっ して癒 いや されることはなかった。1095年 ねん に始 はじ まる十字軍 じゅうじぐん の派遣 はけん 、1182年 ねん の東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく でのラテン系 けい 住民 じゅうみん の虐殺 ぎゃくさつ 、1204年 ねん の第 だい 四 よん 回 かい 十字軍 じゅうじぐん によるコンスタンティノープル占領 せんりょう と略奪 りゃくだつ 、総 そう 主教 しゅきょう への背信 はいしん 行為 こうい は、和解 わかい を一層 いっそう 困難 こんなん なものにした。これらの衝突 しょうとつ に加 くわ え十字軍 じゅうじぐん 兵士 へいし らが東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の聖 せい 遺物 いぶつ を始 はじ めとする宗教 しゅうきょう 芸術 げいじゅつ 品 ひん の多 おお くを戦利 せんり 品 ひん として持 も ち帰 かえ り、コンスタンティノープル図書館 としょかん の破壊 はかい したことも挙 あ げられる。
地中海 ちちゅうかい 地域 ちいき の中世 ちゅうせい 盛期 せいき は、1095年 ねん から1291年 ねん にかけて聖地 せいち をキリスト教徒 きりすときょうと の手 て に奪還 だっかん する目的 もくてき でカトリック教会 きょうかい のヨーロッパの多 おお くが(特 とく にフランス のフランク人 じん と神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく )行 おこな った一連 いちれん の宗教 しゅうきょう 上 じょう 認 みと められた軍事 ぐんじ 作戦 さくせん に支配 しはい された。作戦 さくせん は東西 とうざい キリスト教 きょう により他 た の集団 しゅうだん に対 たい しても行 おこな われたが、十字軍 じゅうじぐん は正統 せいとう カリフ の時代 じだい から近東 きんとう を支配 しはい していたムスリム に対 たい するローマカトリック軍 ぐん により行 おこな われた。伝統 でんとう 的 てき な十字軍 じゅうじぐん の作戦 さくせん 数 すう は、11世紀 せいき から13世紀 せいき にかけて9つを数 かぞ える。
十字軍 じゅうじぐん は元々 もともと ムスリムからエルサレム や聖地 せいち を再 さい 獲得 かくとく することを目的 もくてき にしていて、作戦 さくせん はアナトリア半島 はんとう へのムスリムセルジューク・トルコ の拡張 かくちょう に対 たい する助 たす けを正教会 せいきょうかい の東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく から求 もと められたことに対 たい する返答 へんとう として開始 かいし された。この用語 ようご は通常 つうじょう 宗教 しゅうきょう 的 てき ・経済 けいざい 的 てき ・政治 せいじ 的 てき 理由 りゆう の混合 こんごう により異教徒 いきょうと や異端 いたん 、破門 はもん された人々 ひとびと に対 たい してレバント [8] の外側 そとがわ の領域 りょういき で16世紀 せいき を通 つう じて行 おこな われた同 どう 時代 じだい や続 つづ いて行 おこな われた作戦 さくせん を指 さ すのにも用 もち いられる[9] 。キリスト教徒 きりすときょうと とムスリム両 りょう 勢力 せいりょく の敵対 てきたい 関係 かんけい は、第 だい 5回 かい 十字軍 じゅうじぐん のルーム・セルジューク朝 あさ とのキリスト教徒 きりすときょうと の同盟 どうめい 関係 かんけい のように敵 てき に対 たい する宗派 しゅうは 間 あいだ の同盟 どうめい 関係 かんけい にもつながった。
十字軍 じゅうじぐん は遠大 えんだい な政治 せいじ 的 てき ・経済 けいざい 的 てき ・社会 しゃかい 的 てき 影響 えいきょう があり、中 なか には現代 げんだい に至 いた るまで続 つづ くものがある。キリスト教 きょう 王国 おうこく や政治 せいじ 権力 けんりょく の内紛 ないふん の故 ゆえ に、十字軍 じゅうじぐん 遠征 えんせい 隊 たい によっては第 だい 4回 かい 十字軍 じゅうじぐん のようにキリスト教徒 きりすときょうと のコンスタンティノープル 略奪 りゃくだつ やヴェネツィア共和 きょうわ 国 こく と十字軍 じゅうじぐん の間 あいだ の東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 分割 ぶんかつ につながった本来 ほんらい の目的 もくてき から逸脱 いつだつ した例 れい がある。第 だい 6回 かい 十字軍 じゅうじぐん は教皇 きょうこう の正式 せいしき な呼 よ びかけがなく始 はじ められた最初 さいしょ の十字軍 じゅうじぐん であった[10] 。第 だい 7回 かい 十字軍 じゅうじぐん 、第 だい 8回 かい 十字軍 じゅうじぐん 、第 だい 9回 かい 十字軍 じゅうじぐん は、第 だい 9回 かい 十字軍 じゅうじぐん が中東 ちゅうとう で十字軍 じゅうじぐん の終 お わりを迎 むか えて、マムルーク とハフス朝 あさ の勝利 しょうり で終 お わった[11] 。
騎士 きし 修道 しゅうどう 会 かい [ 編集 へんしゅう ]
十字軍 じゅうじぐん の関係 かんけい では、中世 ちゅうせい 後期 こうき の騎士 きし 団 だん の模範 もはん となった騎士 きし 修道 しゅうどう 会 かい が創設 そうせつ された。
テンプル騎士 きし 団 だん は敵意 てきい を持 も つ地元民 じもとみん や山賊 さんぞく からキリスト教 きょう 巡礼 じゅんれい 者 しゃ を守 まも るのを手伝 てつだ うために第 だい 1回 かい 十字軍 じゅうじぐん が終 お わると創設 そうせつ されたキリスト教 きりすときょう 軍事 ぐんじ 組織 そしき であった。この騎士 きし 団 だん は金融 きんゆう 業 ぎょう に深 ふか く関 かか わっていて、1307年 ねん 、フィリップ恐怖 きょうふ 王 おう (Philippe le Bel )は騎士 きし 団 だん 全員 ぜんいん をフランスで逮捕 たいほ し、異端 いたん の疑 うたが いで告発 こくはつ し解散 かいさん させた。1314年 ねん に密 ひそ かにクレメンス5世 せい により赦免 しゃめん された。
聖 ひじり ヨハネ騎士 きし 団 だん は元々 もともと 貧 まず しい人 ひと や病人 びょうにん 、聖地 せいち への傷 きず ついた巡礼 じゅんれい のために活動 かつどう するために1080年 ねん にエルサレム で創設 そうせつ されたキリスト教 きりすときょう 組織 そしき であった。エルサレムが第 だい 1回 かい 十字軍 じゅうじぐん に奪取 だっしゅ されると、聖地 せいち の管理 かんり と防衛 ぼうえい にあたる組織 そしき に変化 へんか した修道 しゅうどう 会 かい や騎士 きし 修道 しゅうどう 会 かい になった。聖地 せいち が結局 けっきょく イスラーム教徒 きょうと に奪取 だっしゅ されると、活動 かつどう の場 ば をロドス島 とう に、後 のち にマルタ に移 うつ した。
ドイツ騎士 きし 団 だん は聖地 せいち へのキリスト教 きりすときょう 巡礼 じゅんれい 者 しゃ を援助 えんじょ し病人 びょうにん や怪我人 けがにん のためにウトラメール で病院 びょういん を運営 うんえい するためにアッコ 市 し で1190年 ねん に編成 へんせい されたドイツ 騎士 きし 団 だん であった。イスラーム教徒 きょうと が聖地 せいち を奪取 だっしゅ すると、騎士 きし 団 だん は1211年 ねん にトランシルヴァニアに移動 いどう し、後 のち に破門 はもん されると、バルト海 ばるとかい のキリスト教化 きょうか を目指 めざ して異教徒 いきょうと のいるプロシアを侵略 しんりゃく した。騎士 きし 団 だん にとっての主要 しゅよう な異教徒 いきょうと リトアニア大公 たいこう 国 こく がキリスト教 きりすときょう に改宗 かいしゅう する前後 ぜんご に騎士 きし 団 だん は既 すで にノブゴロド やポーランド のような他 ほか のキリスト教 きりすときょう 国 こく を攻撃 こうげき していた。無視 むし できなくなったドイツ騎士 きし 団 だん の影響 えいきょう 力 りょく は、1410年 ねん にポーランド・リトアニア・ロシア連合 れんごう 軍 ぐん に破滅 はめつ 的 てき な大敗 たいはい を喫 きっ したタンネンベルクの戦 たたか い で粉砕 ふんさい された。タンネンベルクの戦 たたか いの後 のち 、騎士 きし 団 だん は衰退 すいたい し、1809年 ねん に正式 せいしき に騎士 きし 団 だん は解散 かいさん した。全部 ぜんぶ で10回 かい の十字軍 じゅうじぐん が行 おこな われた。
新 あたら しいキリスト教 きりすときょう 式 しき 学習 がくしゅう 方式 ほうしき は、初 はじ めは中世 ちゅうせい のユダヤ哲学 てつがく やイスラーム教 きょう 哲学 てつがく (モーシェ・ベン=マイモーン やイブン・スィーナー 、イブン・ルシュド ) を通 つう じて間接 かんせつ 的 てき に、それから東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく やイスラーム教 きょう の図書館 としょかん から取 と り戻 もど したアリストテレス 自身 じしん の著作 ちょさく を通 つう じてアリストテレス の著作 ちょさく の再 さい 発見 はっけん からアンセルムス (1033年 ねん –1109年 ねん )が影響 えいきょう されたものであり、影響 えいきょう を与 あた えた人 ひと で最 もっと も有名 ゆうめい なのが、アルベルトゥス・マグヌス やボナヴェントゥラ 、ピエール・アベラール であった。スコラ学 がく は経験 けいけん 論 ろん を信条 しんじょう とし、世俗 せぞく の研究 けんきゅう 、理性 りせい 、論理 ろんり を通 つう じてローマカトリックの教義 きょうぎ を支援 しえん した。キリスト教 きりすときょう 神秘 しんぴ 主義 しゅぎ や二元論 にげんろん におけるプラトンやアウグスティヌスの信条 しんじょう 、世界 せかい を本質 ほんしつ 的 てき に悪 あく と見 み る見方 みかた に反対 はんたい した。スコラ学 がく で最 もっと も有名 ゆうめい なのは、プラトン主義 しゅぎ やアウグスティヌス からアリストテレス主義 しゅぎ に移行 いこう させたトマス・アクィナス であった(後 のち に「教会 きょうかい 博士 はかせ 」と言 い われた)。アクィナスは心 しん が神 かみ の閃光 せんこう を通 つう じて形象 けいしょう や思想 しそう を考 かんが え認 みと める能力 のうりょく を与 あた えられたタブラ・ラーサ (「空白 くうはく 状態 じょうたい 」)の誕生 たんじょう にあると書 か くことで心 しん の哲学 てつがく を発展 はってん させた。他 た に有名 ゆうめい なスコラ学者 がくしゃ にロスケリヌス やアベラール、ペトルス・ロンバルドゥス がいた。この時代 じだい の主要 しゅよう な問題 もんだい の一 ひと つは、普遍 ふへん 論争 ろんそう であった。スコラ学 がく の主流 しゅりゅう の様々 さまざま な面 めん の有名 ゆうめい な反対 はんたい 派 は にヨハネス・ドゥンス・スコトゥス やオッカムのウィリアム 、ペトルス・ダミアニ 、クレルヴォーのベルナルドゥス 、サンヴィクトル学派 がくは の学者 がくしゃ たちがいた。[1]
修道院 しゅうどういん の黄金 おうごん 期 き [ 編集 へんしゅう ]
11世紀 せいき 後半 こうはん から12世紀 せいき 前 まえ ・中期 ちゅうき にキリスト教 きりすときょう の修道院 しゅうどういん 生活 せいかつ の黄金 おうごん 期 き の絶頂 ぜっちょう を迎 むか えた(8世紀 せいき から12世紀 せいき )。キリスト教 きょう の修道院 しゅうどういん 生活 せいかつ は、旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ にある修道院 しゅうどういん 生活 せいかつ などの聖書 せいしょ の例 れい や理想 りそう を規範 きはん にしたものだが聖書 せいしょ の中 なか の慣例 かんれい として委託 いたく されたものではないキリスト教会 きょうかい の歴史 れきし の早期 そうき に発展 はってん し始 はじ めた実践 じっせん である。宗教 しゅうきょう 上 じょう の決 き まりごとにより(例 れい :聖 せい バジルの決 き まりごとや聖 せい ベネディクトの決 き まりごと)規制 きせい された。
黒衣 くろご をまとった僧侶 そうりょ のベネディクト会 かい は、聖 せい ベネディクトの決 き まりごとを遵奉 じゅんぽう する。会 かい 内 ない では全体 ぜんたい としての組織 そしき が共通 きょうつう の関心事 かんしんじ を表 あらわ すために存在 そんざい する一方 いっぽう で、個別 こべつ のコミュニティーがそれぞれ(修道院 しゅうどういん や小 しょう 修道院 しゅうどういん 、大 だい 修道院 しゅうどういん であるかもしれない)自治 じち を維持 いじ している。たまに囲 かこ い込 こ まれた僧侶 そうりょ や尼僧 にそう のシトー会 かい は、創設 そうせつ 者 しゃ クレルヴォーのベルナルドゥス と関連 かんれん してベナルディンと呼 よ ばれている。シトー会 かい は修道 しゅうどう 服 ふく の色 いろ は肩 かた のところが黒 くろ い白 しろ 服 ふく であり、手作業 てさぎょう と自給自足 じきゅうじそく に重点 じゅうてん を置 お いていた。多 おお くの大 だい 修道院 しゅうどういん は、伝統 でんとう 的 てき に農業 のうぎょう やエールの醸造 じょうぞう のような活動 かつどう を通 つう じて自活 じかつ した。
托鉢 たくはつ 修道 しゅうどう 会 かい [ 編集 へんしゅう ]
13世紀 せいき には托鉢 たくはつ 修道 しゅうどう 会 かい の興隆 こうりゅう が見 み られた。托鉢 たくはつ 修道 しゅうどう 会 かい は生計 せいけい のために人々 ひとびと の施 ほどこ しに直接 ちょくせつ 頼 たよ る修道 しゅうどう 会 かい である。原則 げんそく として時間 じかん とエネルギーの全 すべ てを宗教 しゅうきょう 活動 かつどう に費 つい やすためにイエス・キリストが辿 たど った道 みち を真似 まね る最 もっと も純粋 じゅんすい な生活 せいかつ 方法 ほうほう であったと信 しん じて個人 こじん 的 てき にせよ集団 しゅうだん にせよ(集団 しゅうだん 貧困 ひんこん 参照 さんしょう )財産 ざいさん を持 も たない。
フランシスコ会 かい (「小 ちい さき兄弟 きょうだい 会 かい 」、英語 えいご では一般 いっぱん にGrey Friars として知 し られている)は1209年 ねん に創設 そうせつ された。聖 せい フランシスコが聞 き いた説教 せっきょう により12使徒 しと の貧困 ひんこん 生活 せいかつ に完全 かんぜん に自 みずか らを捧 ささ げることにした感銘 かんめい を与 あた えた。緩 ゆる やかな服 ふく をまとい、裸足 はだし で、福音 ふくいん 的 てき 訓示 くんじ の後 のち は杖 つえ を持 も たず、悔 く い改 あらた めの説教 せっきょう を始 はじ めた。間 あいだ もなく活動 かつどう で得 え た全 すべ てを寄付 きふ した有名 ゆうめい な市民 しみん Bernardo di Quintavalle や一 いち 年 ねん で11人 にん に達 たっ したと言 い われる仲間 なかま が加 くわ わった。
カルメル会 かい (カルメルの聖 せい 処女 しょじょ マリアの隠 かくれ 修士 しゅうし 、英語 えいご では一般 いっぱん にWhite Friars として知 し られる)は1206年 ねん から1214年 ねん にかけて創設 そうせつ された。1190年代 ねんだい 以前 いぜん のカルメル山 さん の隠 かくれ 修士 しゅうし に関 かん する記録 きろく はないが、カルメル会 かい の伝統 でんとう は、古代 こだい イスラエルの預言 よげん 者 しゃ の一門 いちもん を継承 けいしょう したカルメル山 さん の隠 かくれ 修士 しゅうし のコミュニティーに修道 しゅうどう 会 かい の起源 きげん を重 かさ ね合 あ わせている。この時期 じき までにある一団 いちだん がカルメル山 やま のエリジャの井戸 いど に集 あつ まった。この男 おとこ 達 たち は巡礼 じゅんれい や十字軍 じゅうじぐん 兵士 へいし としてヨーロッパからパレスチナに行 い った男 おとこ 達 たち で、そこがエリジャの伝統 でんとう 的 てき な家 いえ であるために一部 いちぶ カルメル山 やま を選 えら んだ。基礎 きそ は聖 せい 処女 しょじょ マリアに捧 ささ げられたと考 かんが えられている。
ドミニコ会 かい (説教 せっきょう 者 しゃ 修道 しゅうどう 会 かい 、英語 えいご では一般 いっぱん にBlack Friars と呼 よ ばれる)は1215年 ねん に創設 そうせつ された。アルビジョア十字軍 じゅうじぐん の後 のち で聖 せい ドミニコは都市 とし の萌 も え出 で る住民 じゅうみん の宗教 しゅうきょう 問題 もんだい に耳 みみ を傾 かたむ けるベネディクト会 かい のような古 ふる い型 かた の托鉢 たくはつ 修道 しゅうどう 会 かい の献身 けんしん や組織 そしき だった教育 きょういく を行 おこな うが托鉢 たくはつ 修道 しゅうどう 会 かい や世俗 せぞく の僧侶 そうりょ より柔軟 じゅうなん な組織 そしき を持 も つ新 あたら しい型 かた の修道 しゅうどう 会 かい を創設 そうせつ しようとした。ドミニコの新 あたら しい修道 しゅうどう 会 かい は、日常 にちじょう の言葉 ことば で説教 せっきょう するよう訓練 くんれん された説教 せっきょう 修道 しゅうどう 会 かい であった。男子 だんし 修道院 しゅうどういん が行 おこな った広大 こうだい な農地 のうち で暮 く らすよりも、新 あたら しい修道 しゅうどう 士 し は、説得 せっとく 力 りょく のある説法 せっぽう で自 みずか らを「売 う り込 こ み」、物乞 ものご いで生 い き残 のこ ろうとすることになる。
聖 せい アウグスチノ修道 しゅうどう 会 かい (聖 せい アウグスティヌスの隠 かくれ 修士 しゅうし 、一般 いっぱん にアウグチノ修道 しゅうどう 士 し と呼 よ ばれている)は1256年 ねん に創設 そうせつ された。アウグスティヌス に因 ちな んで名付 なづ けられ、この修道 しゅうどう 士 し は黙想 もくそう と12使徒 しと 的 てき な聖職 せいしょく 者 しゃ の合 あ わさった宗教 しゅうきょう 上 じょう の生活 せいかつ を実践 じっせん し、聖 せい アウグスティヌスの修道 しゅうどう 規則 きそく に従 したが っている。
キリスト教 きりすときょう の異端 いたん は11世紀 せいき 以前 いぜん にヨーロッパに存在 そんざい したが、一匹狼 いっぴきおおかみ の牧師 ぼくし や異教徒 いきょうと の伝統 でんとう に戻 もど った村 むら のように、数 かず も少 すく なく、土地 とち の人物 じんぶつ に限 かぎ られていたが、11世紀 せいき 初 はじ めに大 だい 規模 きぼ な異端 いたん 運動 うんどう が起 お こった。もとは都市 とし の興隆 こうりゅう や自由 じゆう な商人 しょうにん 、新 あたら しい金 かね を基本 きほん にした経済 けいざい があった。修道院 しゅうどういん 生活 せいかつ の農村 のうそん 版 ばん が、都市 とし 文化 ぶんか に調和 ちょうわ して更 さら に分派 ぶんぱ を形成 けいせい し始 はじ めた都市 とし 住民 じゅうみん には殆 ほとん ど感銘 かんめい を与 あた えなかった。最初 さいしょ の異端 いたん 運動 うんどう は、南 みなみ フランスや北 きた イタリアのような新 あら たに都市 とし 化 か された地域 ちいき で始 はじ まった。教会 きょうかい がそれまでに見 み たことのない規模 きぼ の運動 うんどう であり、その反応 はんのう はカタリ派 は のような人々 ひとびと のために除去 じょきょ されたひとつであり、金 かね を放棄 ほうき した都市 とし 商人 しょうにん の息子 むすこ 聖 せい フランシスコのような人 ひと に受 う け入 い れられ、完成 かんせい された。
カタリ派 は はグノーシス主義 しゅぎ の集団 しゅうだん による運動 うんどう であった。カタリ派 は はアルビジャン とも呼 よ ばれた。当時 とうじ のカトリック教会 きょうかい から異端 いたん の烙印 らくいん を押 お されたこの運動 うんどう は、10世紀 せいき 中葉 ちゅうよう 頃 ごろ に始 はじ まった。西 にし ヨーロッパ の至 いた る所 ところ に存在 そんざい したが、本拠地 ほんきょち はラングドック と南 みなみ フランス の周辺 しゅうへん 地域 ちいき にあった。モンセギュール 要塞 ようさい はカタリ派 は の最後 さいご の砦 とりで の一 ひと つであった。1244年 ねん にモンセギュールが陥落 かんらく すると、生 い き残 のこ ったカタリ派 は は、ケリビュ のアラゴンとの国境 こっきょう の別 べつ の山頂 さんちょう 要塞 ようさい に集結 しゅうけつ した。
カタリ派 は は「純粋 じゅんすい な」を意味 いみ するギリシャ語 ご のkatharos が語源 ごげん であるとするのが最 もっと も有力 ゆうりょく である。初 はじ めて記録 きろく された用法 ようほう の一 ひと つが、1181年 ねん にケルンから異端 いたん について「Hos nostra Germania catharos appellat」を書 か いたエクベルト・フォンシェーナウ であった。この名称 めいしょう は12世紀 せいき 末 まつ から始 はじ まり、1181年 ねん に年代 ねんだい 史家 しか ジョフロワ・デュ・ブルイユ により用 もち いられた。この名称 めいしょう は南部 なんぶ の都市 とし アルビ (古代 こだい のアルビガ)に関連 かんれん している。中心 ちゅうしん がトゥールーズ や近郊 きんこう の地域 ちいき にあったために、この名称 めいしょう は殆 ほとん ど正確 せいかく ではない。カタリ派 は はフランス南部 なんぶ やイタリア北部 ほくぶ 、神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 南西 なんせい 部 ぶ で強 つよ かった。ボスニア教会 きょうかい として知 し られるボゴミル派 は は、ボスニア で強 つよ く、ボスニア国王 こくおう に支援 しえん された公的 こうてき な宗教 しゅうきょう であった。
カタリ派 は の二元論 にげんろん 者 しゃ は、歴史 れきし 的 てき な事件 じけん は良 よ い力 ちから と悪 わる い力 ちから のせめぎ合 あ いの結果 けっか であり悪 わる い方 ほう が世界 せかい を支配 しはい するが禁欲 きんよく 主義 しゅぎ や善 よ い行 おこな いを通 とお して支配 しはい されたり敗北 はいぼく することが可能 かのう だと信 しん じた。
アルビジョア十字軍 じゅうじぐん はラングドックのカタリ派 は の異端 いたん を除 のぞ くためにカトリック教会 きょうかい が音頭 おんど をとった20年 ねん にわたる軍事 ぐんじ 行動 こうどう であった。実践 じっせん 的 てき なカタリ派 は の数 かず に重大 じゅうだい な減少 げんしょう が見 み られなかったがオクシタニアの再 さい 編成 へんせい にはつながり、フランス王 おう の支配 しはい 下 か に持 も ち込 こ みアラゴンの影響 えいきょう による別個 べっこ の地域 ちいき 文化 ぶんか と高度 こうど 化 か を減 へ らしながら、十字軍 じゅうじぐん はフランスを中心 ちゅうしん にして行 おこな われ、即座 そくざ に政治 せいじ 的 てき な主導 しゅどう 権 けん を獲得 かくとく した。カタリ派 は に戻 もど ろうとするインノケンティウス3世 せい の試 こころ みが殆 ほとん ど成功 せいこう せず教皇 きょうこう の使節 しせつ カステルノのピエールが殺害 さつがい されると、武器 ぶき を取 と ろうとするフランス貴族 きぞく にカタリ派 は の異端 いたん の土地 とち を提供 ていきょう しようと申 もう し出 で ながら、インノケンティウス3世 せい はラングドックに対 たい する十字軍 じゅうじぐん を提案 ていあん した。暴力 ぼうりょく はカタルーニャと文化 ぶんか 的 てき 言語 げんご 的 てき に近 ちか い関係 かんけい のフランスが土地 とち を取得 しゅとく することになった。アルビジョア十字軍 じゅうじぐん はドミニコ修道 しゅうどう 会 かい や中世 ちゅうせい の宗教 しゅうきょう 裁判 さいばん の双方 そうほう の創設 そうせつ と制度 せいど 化 か に役割 やくわり も果 は たした。シモン4世 せい ・ド・モンフォールは、第 だい 4回 かい 十字軍 じゅうじぐん に参加 さんか したフランス貴族 きぞく で、アルビジョア十字軍 じゅうじぐん の有名 ゆうめい な指導 しどう 者 しゃ であった。1218年 ねん にトゥールーズ包囲 ほうい 戦 せん で死亡 しぼう した。
リヨン のピエール・ヴァルドー は、裕福 ゆうふく な商人 しょうにん だったが、1173年 ねん 頃 ごろ に霊感 れいかん を受 う け、全 ぜん 財産 ざいさん をなげうって説教 せっきょう 者 しゃ となった。あらゆる宗教 しゅうきょう 上 じょう の慣行 かんこう は聖書 せいしょ に基 もと づくべきだと考 かんが え、ヴァルド派 は を開 ひら いた。ワルドーは1179年 ねん の第 だい 3ラテラン公 こう 会議 かいぎ で、説教 せっきょう する権利 けんり を剥奪 はくだつ されたが、これに従 したが わず1184年 ねん に破門 はもん されるまで自由 じゆう に説教 せっきょう を続 つづ けた。キリストの言葉 ことば に従 したが って生 い きていないとしてキリスト教 きりすときょう 聖職 せいしょく 者 しゃ 達 たち を批判 ひはん し、贖宥状 じょう の売買 ばいばい や、聖人 せいじん 暦 れき による聖人 せいじん 崇敬 すうけい の慣行 かんこう を否定 ひてい した。
貿易 ぼうえき と商業 しょうぎょう [ 編集 へんしゅう ]
北 きた ヨーロッパでは海上 かいじょう 貿易 ぼうえき を推進 すいしん する自由 じゆう 都市 とし 連合 れんごう ハンザ同盟 どうめい が、後 のち にハンザ同盟 どうめい を支配 しはい することになるリューベック 市 し が1158年 ねん -1159年 ねん に創立 そうりつ されるとともに12世紀 せいき に結成 けっせい された。アムステルダム やケルン 、ブレーメン 、ハノーファー 、ベルリン などの神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の多 おお くの北部 ほくぶ 都市 とし が、ハンザ同盟 どうめい に加 くわ わった。例 たと えば神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 以外 いがい のハンザ同盟 どうめい 都市 とし にケーニヒスベルク同様 どうよう にブルッヘ やポーランドのグダニスク (ダンツィヒ)があった。ベルゲン やノヴゴロド ではハンザ同盟 どうめい には工場 こうじょう や中間 なかま 商人 しょうにん がいた。この時代 じだい 、ドイツはプロイセン やシレジア に向 む けて神聖 しんせい ロ ろ ーマ帝国 まていこく の領域 りょういき を超 こ えて東 ひがし ヨーロッパを植民 しょくみん 地 ち 化 か し始 はじ めた。
13世紀 せいき 後半 こうはん 、マルコ・ポーロ というヴェネツィア の探検 たんけん 家 か が、中国 ちゅうごく に向 む けてシルクロード を旅 たび した最初 さいしょ のヨーロッパ人 じん の一人 ひとり になった。マルコ・ポーロが東方 とうほう 見聞 けんぶん 録 ろく で自身 じしん の旅 たび を著 あらわ すと、西洋 せいよう 人 じん は極東 きょくとう について知 し ることとなった。ウィリアム・ルブルック やプラノ・カルピニ 、アンドレ・ド・ロンジュモー , オドリック・ポルデノネ 、ジョヴァンニ・デ・マリノッリ 、ジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノ のような東方 とうほう への数 すう 多 おお くのキリスト教 きりすときょう 使節 しせつ やニッコロ・デ・コンティ のような旅行 りょこう 者 しゃ が続 つづ いた。
中世 ちゅうせい の大学 だいがく の地図 ちず
中世 ちゅうせい 前期 ぜんき の哲学 てつがく や科学 かがく に関 かん する教授 きょうじゅ 法 ほう は、西 にし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 崩壊 ほうかい 後 ご に西 にし ヨーロッパに残 のこ った古代 こだい ギリシア語 ご 本 ほん の若干 じゃっかん の写 うつ しと注釈 ちゅうしゃく 本 ほん をもとにしていた。その殆 ほとん どはギリシア語 ご の知識 ちしき が非常 ひじょう に限 かぎ られていたためにラテン語 らてんご でのみ研究 けんきゅう された。
この流 なが れは12世紀 せいき ルネサンス 期 き に変 か わった。ヨーロッパの知的 ちてき 復興 ふっこう は、中世 ちゅうせい の大学 だいがく の誕生 たんじょう とともに始 はじ まった。レコンキスタ でスペイン やシチリア のイスラーム世界 せかい との接触 せっしょく や十字軍 じゅうじぐん で東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の世界 せかい やイスラームのレバント との接触 せっしょく を増 ま したことで、アリストテレス やイブン・アル・ハイサム 、イブン・ルシュド の著作 ちょさく などのアラビア語 ご やギリシャ語 ご の科学 かがく 文献 ぶんけん にヨーロッパ人 じん は接 せっ することができた。ヨーロッパの大学 だいがく は、実質 じっしつ 的 てき にこうした書籍 しょせき の翻訳 ほんやく と普及 ふきゅう を支援 しえん し、科学 かがく 的 てき なコミュニティーのために必要 ひつよう な新 あたら しい基礎 きそ 作 づく りを始 はじ めた。
13世紀 せいき 初 はじ めには大学 だいがく と男子 だんし 修道院 しゅうどういん を通 つう じて科学 かがく 思想 しそう の完全 かんぜん な移行 いこう を認 みと めながら殆 ほとん ど全 すべ ての知的 ちてき に重要 じゅうよう な古代 こだい の作家 さっか の主要 しゅよう な作品 さくひん のほぼ完全 かんぜん なラテン語 らてんご 訳 やく があった[12] 。その時 とき までにこの書籍 しょせき に含 ふく まれる自然 しぜん 科学 かがく は、ロバート・グロステスト やロジャー・ベーコン 、アルベルトゥス・マグヌス 、ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス のような有名 ゆうめい なスコラ学者 がくしゃ により発展 はってん し始 はじ めた。現代 げんだい の科学 かがく 的 てき 方法 ほうほう の先駆 さきが けは、自然 しぜん を理解 りかい する手法 しゅほう として数学 すうがく をグロステストが重視 じゅうし し、ベーコンは経験 けいけん に基 もと づいた接近 せっきん 法 ほう を称賛 しょうさん する行動 こうどう (特 とく にOpus Majus )に既 すで に見 み ることができる。
フラ・マウロの世界 せかい 図 ず による1460年 ねん の世界 せかい の船 ふね
様々 さまざま な船 ふね が、中世 ちゅうせい 盛期 せいき に用 もち いられた。コグ船 せん はロングシップから進化 しんか した(あるいは少 すく なくとも影響 えいきょう を受 う けた)と考 かんが えられる意匠 いしょう であり、12世紀 せいき までに広 ひろ く用 もち いられた。建造 けんぞう には鎧 よろい 張 ば りの方法 ほうほう も用 もち いた。キャラベル船 せん はイスラーム教 きょう のイベリア で発明 はつめい された船 ふね で、13世紀 せいき から地中海 ちちゅうかい で用 もち いられた[13] 。ロングシップ やコグ船 せん とは違 ちが うが、建造 けんぞう にあたってカルベル造船 ぞうせん 法 ほう を用 もち いた。横 よこ 帆 ほ を備 そな えたキャラベル・レドンダ(Caravela Redonda )と縦 たて 帆 ほ (ラティーンセイル)を備 そな えたキャラベル・ラティーナ(Caravela Latina )があった。
発明 はつめい と技術 ぎじゅつ [ 編集 へんしゅう ]
12世紀 せいき と13世紀 せいき にヨーロッパで新 しん 発明 はつめい や製造 せいぞう の伝統 でんとう 的 てき な方法 ほうほう を管理 かんり する手法 しゅほう における革新 かくしん 、経済 けいざい 成長 せいちょう に劇的 げきてき な変化 へんか があった。百 ひゃく 年 ねん にも満 み たない間 あいだ に世界 せかい のそれまでの千 せん 年間 ねんかん の人類 じんるい 史 し より有効 ゆうこう に発展 はってん し応用 おうよう される多 おお くの発明 はつめい があった。この時代 じだい は風車 かざぐるま や水車 みずぐるま 小屋 こや 、印刷 いんさつ (まだ移動 いどう 式 しき ではなかったが)、火薬 かやく 、アストロラーベ 、眼鏡 めがね 、現代 げんだい も用 もち いられる型 かた のはさみ 、改良 かいりょう された時計 とけい 、大 おお いに改良 かいりょう された船 ふね などの大 おお きなテクノロジー 改良 かいりょう があった。最後 さいご の二 ふた つの改良 かいりょう は、大 だい 航海 こうかい 時代 じだい の夜明 よあ けとなった可能 かのう 性 せい がある。この発明 はつめい は外国 がいこく の文化 ぶんか や社会 しゃかい に影響 えいきょう された。1187年 ねん 、アレクサンダー・ネッカム は方位 ほうい 磁針 じしん について触 ふ れ舵取 かじと りに用 もち いた最初 さいしょ のヨーロッパ人 じん であった。
アルフレッド・クロスビー はこの技術 ぎじゅつ 革命 かくめい の幾 いく つかについてThe Measure of Reality: Quantification in Western Europe, 1250-1600 で触 ふ れ、他 た の主 おも な技術 ぎじゅつ 史家 しか も述 の べている。
ブルガリアのコンスタンティン・ティーフ を描写 びょうしゃ したボヤナ教会 きょうかい のフレスコ画 が 。教会 きょうかい の壁画 へきが は、13世紀 せいき のブルガリア 文化 ぶんか の傑作 けっさく のひとつである。
ロマネスク建築 けんちく と混同 こんどう することなく古典 こてん 世界 せかい のロマネスク の伝統 でんとう は、西暦 せいれき 1000年 ねん から13世紀 せいき のゴシック 様式 ようしき の西 にし ヨーロッパに関係 かんけい し、あるいはその後 ご は地域 ちいき に根差 ねざ している。その前 まえ の時代 じだい は、段々 だんだん 前 ぜん ロマネスク時代 じだい として知 し られてきている。この用語 ようご は19世紀 せいき の美術 びじゅつ 史 し 家 か 特 とく にロマネスク建築 けんちく の専門 せんもん 家 か により生 う み出 だ され、ローマ建築 けんちく 様式 ようしき の多 おお くの基本 きほん 的 てき な特徴 とくちょう を維持 いじ しているが、非常 ひじょう に異 こと なる多 おお くの特色 とくしょく を発展 はってん させた。南 みなみ フランスやスペイン、イタリアでは、後期 こうき 古代 こだい 様式 ようしき との建築 けんちく の連続 れんぞく 性 せい があったが、ロマネスク様式 ようしき はカトリックのヨーロッパ全域 ぜんいき に(デンマークからシチリアまで)影響 えいきょう を与 あた えた初 はじ めての様式 ようしき であった。ロマネスクはビザンティン芸術 げいじゅつ 特 とく に絵画 かいが やブリテン諸島 しょとう の芸術 げいじゅつ 装飾 そうしょく の反 はん クラシックエネルギーからも非常 ひじょう に影響 えいきょう を受 う け、この構成 こうせい 要素 ようそ は非常 ひじょう に革新 かくしん 的 てき で首尾 しゅび 一貫 いっかん した様式 ようしき を生 う み出 だ した。
安定 あんてい した西 にし ヨーロッパ社会 しゃかい が中世 ちゅうせい に現 あらわ れたので、カトリック教会 きょうかい はその財源 ざいげん を後見 こうけん する絵画 かいが や彫刻 ちょうこく に用 もち いてキリスト教 きりすときょう 芸術 げいじゅつ という言葉 ことば でその手法 しゅほう を導 みちび いた。東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく でキリスト教 きりすときょう 芸術 げいじゅつ が発展 はってん すると、多 おお くの抽象 ちゅうしょう 美学 びがく が、それ以前 いぜん にヘレニズム芸術 げいじゅつ で作 つく り上 あ げられた自然 しぜん 主義 しゅぎ に置 お き換 か わった。ビザンティン美術 びじゅつ は主要 しゅよう な目的 もくてき が正確 せいかく に人 ひと や物 ぶつ を描写 びょうしゃ するよりも宗教 しゅうきょう 的 てき な意味 いみ を伝 つた えることにあることを意味 いみ しながらもヒエラティックであった。ビザンティン様式 ようしき は4世紀 せいき 頃 ごろ から1453年 ねん のコンスタンティノープルの陥落 かんらく までの東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の数 すう 多 おお くの芸術 げいじゅつ 作品 さくひん に適合 てきごう した。多 おお くの芸術 げいじゅつ 品 ひん が、中世 ちゅうせい 盛期 せいき に作 つく られた。
他 た の地域 ちいき の中世 ちゅうせい 芸術 げいじゅつ には地域 ちいき 的 てき な主題 しゅだい (例 たと えばアングロ・サクソン芸術 げいじゅつ やユダヤ芸術 げいじゅつ )や装飾 そうしょく 写本 しゃほん のような技能 ぎのう 専門 せんもん 性 せい の分野 ぶんや があった。
バス大 だい 修道院 しゅうどういん のファン・ヴォルト と窓 まど
ゴシック建築 けんちく はフライング・バットレス や尖 とんが 頭 あたま アーチ 、リブ・ヴォールト が結合 けつごう することによりロマネスク 様式 ようしき に取 と って代 か わった。それは当時 とうじ の、宗教 しゅうきょう 的 てき な本質 ほんしつ を持 も つ精神 せいしん 的 てき 背景 はいけい の影響 えいきょう による。水平 すいへい 線 せん と格子 こうし が、建物 たてもの を高層 こうそう 化 か させた。それ以前 いぜん の暗 くら くて重 おも いロマネスク様式 ようしき に対 たい し、ゴシック建築 けんちく はより明 あか るく軽 かろ やかに構成 こうせい されていた。アウグスティヌス は光 ひかり が神 かみ を表現 ひょうげん すると説 と き、その教 おし えを教会 きょうかい に反映 はんえい させるように建築 けんちく 技術 ぎじゅつ は改良 かいりょう され発展 はってん した。大 おお きく色彩 しきさい 豊 ゆた かな窓 まど が、豊 ゆた かな光源 こうげん を取 と り入 い れることを可能 かのう とした。今日 きょう に比 くら べ、中世 ちゅうせい は鮮 あざ やかな色彩 しきさい に乏 とぼ しかったため、この大 だい 建造 けんぞう 物 ぶつ が当時 とうじ のあらゆる人々 ひとびと に畏怖 いふ の念 ねん を抱 いだ かせるものであったことは想像 そうぞう に難 かた くない。複雑 ふくざつ な高層 こうそう 化 か のために、建物 たてもの を助 じょ 材 ざい で囲 かこ み、後 のち にファン・ヴォールト が天 てん に向 む かう動 うご きがおこった。神 かみ への崇拝 すうはい が、この建物 たてもの の相対 そうたい 的 てき な巨 きょ 大 たい さによっても表現 ひょうげん された。従 したが ってゴシック様式 ようしき の大 だい 聖堂 せいどう は、精神 せいしん 的 てき な昇華 しょうか を求 もと める人々 ひとびと が祈 いの りを捧 ささ げる場所 ばしょ であるだけでなく、神 かみ の偉大 いだい さを知 し らしめる場所 ばしょ でもあったのである。ゴシック大 だい 聖堂 せいどう の間取 まど り は、スコラ学 がく の規則 きそく にも合致 がっち していた。エルヴィン・パノフスキー の『ゴシック建築 けんちく とスコラ学 がく 』によれば、それは区画 くかく と同 おな じ形 がた の副 ふく 区画 くかく に分 わ けられる。この特色 とくしょく は当時 とうじ もっとも有名 ゆうめい な聖堂 せいどう 建築 けんちく であるノートルダム大 だい 聖堂 せいどう に示 しめ されている。
さまざまな文化 ぶんか が中世 ちゅうせい 盛期 せいき の文学 ぶんがく に影響 えいきょう を与 あた えた。中 なか でもとりわけ有力 ゆうりょく な影響 えいきょう 源 げん はキリスト教 きりすときょう であった。キリスト教 きょう とのつながりはラテン文学 ぶんがく において極 きわ めて重要 じゅうよう であったが、それはローマもの の俗語 ぞくご 文学 ぶんがく 群 ぐん において民衆 みんしゅう 語 ご にも影響 えいきょう を与 あた えた。その他 た の物語 ものがたり 群 ぐん (サイクル 、すなわち相互 そうご に関連 かんれん する物語 ものがたり の集合 しゅうごう )には、フランスもの (シャルルマーニュ と宮廷 きゅうてい の物語 ものがたり )、ビザンツ の国境 こっきょう 守備 しゅび 兵 へい の騎士 きし 道 どう 精神 せいしん を扱 あつか うアクリティカ歌話 かわ (英語 えいご 版 ばん ) 、そして最 もっと も有名 ゆうめい であるかもしれない物語 ものがたり 群 ぐん であるブリテンもの (アーサー王 おう とその宮廷 きゅうてい 、ブルターニュ やコーンウォール 、ウェールズ についての話 はなし )が挙 あ げられる。ある無名 むめい のドイツの詩人 しじん は、民族 みんぞく 移動 いどう 時代 じだい からのゲルマン神話 しんわ をフランスやブリテンの叙事詩 じょじし の水準 すいじゅん まで引 ひ き上 あ げようとして、ニーベルンゲンの歌 うた を作 つく った。そのほか、モンマスのジェフリー の『ブリタニア列 れつ 王 おう 史 し 』をはじめ、数 すう 多 おお くの詩 し や史伝 しでん がこの時期 じき に書 か かれている。
南 みなみ フランスでは、宮廷 きゅうてい 恋愛 れんあい を歌 うた ったトルバドゥール で有名 ゆうめい なプロヴァンス文学 ぶんがく (英語 えいご 版 ばん ) が生 う まれた。これにはラテン文学 ぶんがく と、イスラム文化 ぶんか の影響 えいきょう を受 う けたイベリア半島 はんとう や北 きた アフリカの要素 ようそ が入 はい っていた。後 のち にその影響 えいきょう は、西 にし ヨーロッパのさまざまな文化 ぶんか 、ポルトガル、ドイツのミネゼンガー 、シチリア、北 きた イタリアにも及 およ んだ。そしてその流 なが れで、イタリアではペトラルカ やダンテ の清新 せいしん 体 たい が生 う まれ、ダンテはこの時代 じだい の最 もっと も重要 じゅうよう な詩 し である『神 かみ 曲 きょく 』を書 か いた。
現存 げんそん する中世 ちゅうせい 盛期 せいき の音楽 おんがく は、記 き 譜 ふ 法 ほう が宗教 しゅうきょう 施設 しせつ で発展 はってん したために、事実 じじつ 上 じょう 主 しゅ として宗教 しゅうきょう 的 てき なものになっていて、世俗 せぞく 音楽 おんがく の記 き 譜 ふ 法 ほう に適用 てきよう されるのは、後 ご の時代 じだい のことであった。この時代 じだい の早期 そうき に、グレゴリオ聖歌 せいか が教会 きょうかい 音楽 おんがく の支配 しはい 的 てき な形式 けいしき で、他 た のオルガヌム や後 ご にはクラウスラ やコンドゥクトゥス 、モテット などの形式 けいしき は、出典 しゅってん として聖歌 せいか を用 もち いて発展 はってん した。
11世紀 せいき 、グイード・ダレッツォ は初 はじ めて記 き 譜 ふ 法 ほう を発展 はってん させたうちの一人 ひとり で、歌 うた い手 て がグレゴリオ聖歌 せいか を覚 おぼ え易 やす くした。
グレゴリオの単 たん 旋律 せんりつ 聖歌 せいか がポリフォニーになったのは、12世紀 せいき から13世紀 せいき であり、フランスのノートルダム楽 らく 派 は (レオニヌス やペロティヌス )の作品 さくひん に現 あらわ れた。後 のち にアルス・ノーヴァ (フィリップ・ド・ヴィトリ やギヨーム・ド・マショー )や中世 ちゅうせい 後期 こうき の音楽 おんがく 分野 ぶんや に進化 しんか した。12世紀 せいき の重要 じゅうよう な作曲 さっきょく 家 か は、修道 しゅうどう 女 おんな のヒルデガルト・フォン・ビンゲン であった。
最 もっと も重要 じゅうよう な世俗 せぞく 運動 うんどう は、トルバドゥール の運動 うんどう で、11世紀 せいき 後半 こうはん にオクシタニア (現在 げんざい の南 みなみ フランス)で興隆 こうりゅう した。トルバドゥールはあらゆる社会 しゃかい 階層 かいそう の出身 しゅっしん であるイティネラント であることが珍 めずら しくなく、様々 さまざま な話題 わだい に関 かん する歌 うた (特 とく にミンネ )を書 か いた。その形態 けいたい は北 きた フランスのトルヴェール やドイツ のミンネザング 、北 きた イタリアの世俗 せぞく のトレチェント音楽 おんがく の作曲 さっきょく 家 か に影響 えいきょう を与 あた えた。
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