(Translated by https://www.hiragana.jp/)
中世盛期 - Wikipedia コンテンツにスキップ

中世ちゅうせい盛期せいき

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
1163ねん建設けんせつはじまったノートルダムだい聖堂せいどうは、中世ちゅうせい盛期せいき建築けんちく好例こうれいひとつである。

中世ちゅうせいにおいて中世ちゅうせい盛期せいき(ちゅうせいせいき)[1]とは、ヨーロッパにおいて11, 12, 13世紀せいき中心ちゅうしんとする時代じだいで、歴史れきしじょう時代じだい区分くぶんとしては中世ちゅうせい前期ぜんきのち中世ちゅうせい後期こうきまえとされる。中世ちゅうせい後期こうきは1500ねんまでには終了しゅうりょうしたとかんがえるのが慣例かんれいである[2][3][4][5]

ヨーロッパにおける中世ちゅうせい盛期せいき顕著けんちょ傾向けいこうとして、大幅おおはば人口じんこうぞうげられる。これによって、ぜん時代じだいからは政治せいじてき経済けいざいてきおおきな変化へんかしょうじた。1250ねん大幅おおはば人口じんこうぞうによってこされた経済けいざい成長せいちょうは、地域ちいきによっては19世紀せいきまでは二度にど実現じつげんされなかったほど大幅おおはばなものであった。しかし、こうした人口じんこう増加ぞうかは、中世ちゅうせい後期こうきになるとしばしば発生はっせいした災難さいなんペスト有名ゆうめいだが、戦争せんそう経済けいざい停滞ていたいふくまれる)によって抑制よくせいされることになった。

780ねんごろ以降いこう西にしヨーロッパでは民族みんぞく移動いどう時代じだいわりをつげ、政治せいじてき社会しゃかいてき組織そしき促進そくしんされた。南欧なんおう繁栄はんえいしたイスラムけい諸国しょこくは、ヨーロッパにおける科学かがく哲学てつがく復興ふっこうをもたらした。ボローニャ、サレルノ、パリ、モデーナには最初さいしょ大学だいがく設立せつりつされた。バイキングたちはブリテン諸島しょとうやフランスをはじめ各地かくち定住ていじゅうしたが、同時どうじキリスト教きりすときょう国教こっきょうとしたノルドじんたちしょ王国おうこくは、であるスカンディナヴィアでも発展はってんつづけた。マジャルじんは10世紀せいきごろ侵入しんにゅう停止ていしし、1000ねんごろまでにはキリスト教きりすときょうこくであるハンガリー王国おうこくとして、地域ちいきしょ大国たいこく同盟どうめいむすびつつ、中央ちゅうおうヨーロッパにおけるその地位ちいかためた。一過いっかせい例外れいがいてき事件じけんとしてモンゴルの征服せいふくはあったが、おおむね民族みんぞく侵入しんにゅうはこの時代じだいわったとえよう。

11世紀せいきになると、アルプス山脈あるぷすさんみゃく北方ほっぽうにいたゲルマンじんたちあらたな土地とちもとめて入植にゅうしょくはじめたが、こうした植民しょくみんなかにはマ帝国まていこく滅亡めつぼうにはもどっていた場所ばしょもある。ヨーロッパにのこっていた広大こうだい森林しんりん湿地しっちはこの時代じだい開墾かいこんされ耕作こうさくとなったが、この変化へんかグレート・クリアランスばれる。また、入植にゅうしょく活動かつどうフランク王国おうこく旧来きゅうらい国教こっきょうせんえて東方とうほう未開みかいおよび、エルベがわえてひがし拡張かくちょうする過程かていでドイツじん居住きょじゅうは3ばい拡大かくだいした。依然いぜんとして強力きょうりょく指導しどうりょくたもっていたカトリック教会きょうかいは、聖地せいち占領せんりょうしたセルジューク・トルコたいする一連いちれん十字軍じゅうじぐん遠征えんせいぜんヨーロッパにびかけ、それによりレバント十字軍じゅうじぐん国家こっか建国けんこくした。北方ほっぽうではバルト海ばるとかい植民しょくみんおこなわれ、イベリア半島はんとうではキリスト教きりすときょう諸国しょこくぐんムーアじんレコンキスタによって駆逐くちくし、ノルマンじんみなみイタリアに植民しょくみんしたが、こうした活動かつどうすべて、この時代じだいきた人口じんこう大幅おおはば増加ぞうかとその結果けっかとしての移住いじゅうのパターンとしてくことが出来できる。

中世ちゅうせい盛期せいきには、知的ちてき精神せいしんてき芸術げいじゅつ作品さくひん分野ぶんやおおくの様式ようしきまれた。また、この時代じだいにはエスノセントリズム萌芽ほうがられるが、これはのち近代きんだいヨーロッパ諸国しょこくられた国民こくみん国家こっか思想しそうにつながるものである。イタリアでは諸々もろもろ都市とし国家こっか興隆こうりゅうし、イベリア半島はんとうではアンダルス勃興ぼっこう没落ぼつらくがあった。アリストテレス著作ちょさくぐんさい発見はっけんされたことは、トマス・アクィナスをはじめとする思想家しそうかスコラがく発展はってんさせるきっかけとなった。建築けんちくでは、有名ゆうめいゴシックだい聖堂せいどうおおくの建設けんせつが、この時代じだい着工ちゃっこうされ、あるいは完成かんせいされている。中世ちゅうせい盛期せいきという時代じだい区分くぶんは、中世ちゅうせい後期こうき危機ききばれる14世紀せいきはじまった相次あいつぐペストの流行りゅうこう飢饉ききん発生はっせいよって区切くぎられる。

時代じだい区分くぶん[編集へんしゅう]

中世ちゅうせい盛期せいき」という用語ようごは、中世ちゅうせいさん分割ぶんかつしたうちのひとつで、ふたつは、中世ちゅうせい前期ぜんき中世ちゅうせい後期こうきである。レオナルド・ブルーニフィレンツェじん歴史れきし(1442ねん)でさん分割ぶんかつした時代じだい区分くぶんはじめてもちいた歴史れきしであった[6]フラビオ・ビオンドマ帝国まていこく悪化あっか歴史れきしすうじゅうねん(1439ねん-1453ねん)で同様どうよう枠組わくぐみをもちいた。さん分割ぶんかつはドイツの歴史れきしクリストフ・セラリウス古代こだい中世ちゅうせいしん時代じだい分割ぶんかつした普遍ふへんてき歴史れきし(1683ねん)を出版しゅっぱんして一般いっぱんした。

どき系列けいれつ[編集へんしゅう]

前半ぜんはん[編集へんしゅう]

日付ひづけ

後半こうはん[編集へんしゅう]

日付ひづけ

歴史れきし[編集へんしゅう]

ブリテン諸島しょとう[編集へんしゅう]

ノルマン・コンクエスト
ノルマン・コンクエストにおけるヘイスティングズのたたか描写びょうしゃしたバイユーのタペストリー

イングランドでは1066ねんノルマン・コンクエストにより王国おうこくフランス語ふらんすごはな貴族きぞく支配しはいされることになった。ノルマンじんは1169ねん武力ぶりょくアイルランド侵攻しんこうし、とりで南東なんとうにあったが、もなくくにのほぼ全域ぜんいきいた。スコットランドのち独立どくりつうったえたが、同様どうようにスコットランドとウェールズは、おなごろ征服せいふくされた。

中世ちゅうせい前期ぜんきはじごろノルマンディーこうウィリアム1せいイングランド王国おうこく王位おうい主張しゅちょうした。ウィリアムはイングランド侵攻しんこう開始かいしし、1066ねん9がつ28にちサセックス上陸じょうりくした。ヘイスティングズのたたか(1066ねん10がつ14にち)でイングランドぐんやぶれ、ウィリアムは征服せいふくしゃとなった。ウィリアムはこのときたいしたてきほとんどなくイングランドののこりを征服せいふくすることができた。しかしノルマンディー公国こうこくにイングランド王国おうこく吸収きゅうしゅう合併がっぺいする計画けいかくはなかった。たんなる大公たいこうとしてウィリアムはフィリップ1せい忠義ちゅうぎたす義務ぎむがあったが、独立どくりつしたイングランド王国おうこく干渉かんしょうされずに支配しはいできた。1066ねん12月25にちイングランドおうになった。イングランド王国おうこくとノルマンディー公国こうこくは、1204ねんまで同君どうくん連合れんごうしたにあった。ウィリアムから4世代せだいにはノルマンディー公国こうこく大陸たいりく領土りょうどは、フィリップ2せいうばわれた。チャンネル諸島しょとうなどの若干じゃっかんノルマンディー一部いちぶは、アキテーヌ公国こうこくほとんどとともにイングランドりょうのままだった。

アングロサクソンちょうイングランドのノルマン・コンクエストの時代じだいいたるまでウェールズはそのほとんどで独立どくりつたもっていた。イングランドでノルマン・コンクエストがきると、ノルマンの領主りょうしゅなかにウェールズを攻撃こうげきはじめるものがいた。おおくの地域ちいき占領せんりょうし、イングランドのノルマンおうだい君主くんしゅせいみとめたもののかなりの地方ちほう独立どくりつみとめながら支配しはいした。長年ながねんにわたりこの「マーチャー領主りょうしゅ」はイングランドのノルマンおうだい君主くんしゅせいみとめることがめずらしくなかった様々さまざまなウェールズの王子おうじひきいられたかなりの抵抗ていこう運動うんどうかいいながらウェールズのおおくを占領せんりょうした。

財務省ざいむしょうが12世紀せいきヘンリー1せいした創設そうせつされ、最初さいしょ議会ぎかいが、召集しょうしゅうされた。1215ねんノルマンディーうしなうと、ジョンイングランド君主くんしゅ権力けんりょく制限せいげんするマグナ・カルタ法律ほうりつとして署名しょめいした。

エドワード1せいは1282ねん事実じじつじょうウェールズを占領せんりょうし、1301ねん長男ちょうなんエドワード2せいのためにプリンス・オブ・ウェールズ称号しょうごう創設そうせつした。カウニーじょうハーレックじょうカーナーヴォンじょうのような広大こうだいしろ証明しょうめいするように、エドワードの占領せんりょうは、冷酷れいこくで、つづ抑圧よくあつは、無視むしできないものであったが、この事件じけんやく700ねんまえ西暦せいれき5世紀せいきケント王国おうこくジュートじん王国おうこく建国けんこくされてからはじめてブリタンニア国土こくど単一たんいつ支配しはいしゃさい統一とういつしたものであった。したがってぜんサクソン時代じだいとのかかわりをふたたつことになったので、このことは中世ちゅうせいイングランド非常ひじょう重要じゅうよう瞬間しゅんかんであった。このかかわりいはウェールズ伝説でんせつによりアングロ・ノルマンじんなどの王国おうこく国民こくみん統一とういつする政治せいじてき目的もくてき悪用あくようされた。

きたヨーロッパ[編集へんしゅう]

10世紀せいき中葉ちゅうようから11世紀せいき中葉ちゅうようにかけてスカンディナヴィア王国おうこくヴァイキング侵入しんにゅうわりをげた結果けっか統一とういつされキリスト教化きょうかし、ヨーロッパの政治せいじふかかかわることになった。デンマーククヌーズ2せいは、イングランドとノルウェー両方りょうほう支配しはいした(北海ほっかい帝国ていこく)。クヌーズ2せいが1035ねん死去しきょすると、イングランドとノルウェーは、うしなわれた。1130ねんから1240ねんノルウェーで内戦ないせんくるった。1227ねんヴァルデマー2せいやぶれるとともに、この地域ちいきのデンマークの支配しはいは、わりをげた。一方いっぽうビルイェル・ヤールしたスウェーデンバルト海ばるとかい北部ほくぶフィンランド南部なんぶ強力きょうりょく拠点きょてんをきずきあげるあいだに、ノルウェーはグリーンランドからマンとうにかけての大西おおにしひろし支配しはい地域ちいき拡張かくちょうした。しかしノルウェーの興隆こうりゅうは、1266ねんパース条約じょうやくしめされたようにどう時期じきすで衰退すいたいはじめた。

フランスとドイツ[編集へんしゅう]

中世ちゅうせい盛期せいき時代じだいまでに現在げんざい境界きょうかいせんではないけれどカロリング帝国ていこくフランス王国おうこくドイツ王国おうこく後継こうけい国家こっかかれ、えられた。ドイツは統合とうごう政治せいじ権力けんりょく絶頂ぜっちょうたっしたかみきよしマ帝国まていこくはたしたにあった。フランス王国おうこくは12世紀せいきから14世紀せいき前半ぜんはんにかけて芸術げいじゅつ文学ぶんがく発露はつろ時代じだいであった。ヴァロワ興隆こうりゅうとともにイングランド王国おうこくとのひゃくねん戦争せんそう長引ながび王朝おうちょう危機きき破滅はめつてきペスト流行りゅうこうきた。

1250ねんにフリードリヒ2せいぬと、ドイツ王国おうこく息子むすこコンラート4せい反対はんたいウィレム2せいした分割ぶんかつされた。コンラート4せいぬと、国王こくおう全員ぜんいん承認しょうにんられず王子おうじ保有ほゆうぶつをうまくかためようとし独立どくりつした支配しはいしゃにさえなった時代じだいであるだい空位くうい時代じだいとなった。1257ねんぎると、王位おういはゲルフとう支援しえんされたリチャードとホーヘンシュタウフェンとう承認しょうにんされたがけっしてドイツの土地とち足場あしばもうけなかったアルフォンソ10せいあいだあらそわれた。リチャードが1273ねんぬと、ルドルフ1せい全員ぜんいん一致いっちえらばれ空位くうい期間きかん終了しゅうりょうした。

13世紀せいきはドイツ王国おうこく土地とち管理かんり方法ほうほう一般いっぱんてき構造こうぞう変革へんかくがあった時代じだいである。個人こじん義務ぎむわりに金銭きんせん益々ますます農業のうぎょうにおいて経済けいざい価値かちあらわ共通きょうつう手段しゅだんになった。農奴のうど益々ますます土地とちのために年貢ねんぐおさめるよう要求ようきゅうされた。依然いぜんとして非常ひじょう土地とちしばけられていたが、「財産ざいさん」の概念がいねんは、古代こだい財産ざいさんけん形式けいしきわりはじめた。領土りょうどでは(帝国ていこくではなく)権力けんりょく益々ますますたばねられた。土地とち所有しょゆうするものだれでも権力けんりょくからられる財産ざいさんけんがあった。しかしこの時代じだい財産ざいさんけん司法しほうけんふくまれなかったことは特筆とくひつすべきことである。法廷ほうていひらくには重々おもおもしく伝統でんとうてき慣習かんしゅうてにするかでなければ規則きそく慣習かんしゅうほうであった。

ハンガリー[編集へんしゅう]

イシュトヴァーン1せい
きよしイシュトヴァーン1せい.

中世ちゅうせい盛期せいきにはハンガリー王国おうこく(1000ねん建国けんこく)は中央ちゅうおうヨーロッパ西にしヨーロッパにおいてもっと強大きょうだい国家こっかであった。国民こくみんきよしイシュトヴァーン1せいによりキリスト教化きょうかされた。どう時代じだい年代ねんだい記録きろくしゃたちによれば、おう非常ひじょう信仰しんこうしんあつく、ラテン語らてんご文法ぶんぽう造詣ぞうけいふかく、国民こくみんにはきびしいが外国がいこくじんには寛容かんよう君主くんしゅであったということである。イシュトヴァーン1せい王国おうこくない残存ざんそんしていた部族ぶぞく社会しゃかい風習ふうしゅう一掃いっそうし、国人くにびと定住ていじゅう強制きょうせいし、またキリスト教きりすときょう信仰しんこう倫理りんりかん、およびキリスト教きりすときょうてき生活せいかつ様式ようしき導入どうにゅうし、政治せいじてきにはドイツの国家こっかシステムをモデルとする中世ちゅうせい国家こっかとしてのハンガリーの基礎きそきずいた。

イシュトヴァーン1せいつづ君主くんしゅたちは、きよしラースロー1せいのように、ローマ教会きょうかい密接みっせつ関係かんけいたもつことをつねとしたが、ハンガリー王国おうこくない安住あんじゅうもとめて避難ひなんしてきた異教徒いきょうとたちたいしても寛容かんよう態度たいどをとった。たとえば13世紀せいきにハンガリー王国おうこくげてきたクマンじんはこのれいであるが、こうした態度たいど何人なんにんかの教皇きょうこう不興ふきょうったのも事実じじつである。クロアチアとの同君どうくん連合れんごう形成けいせいおよび群小ぐんしょう国家こっか併合へいごうにより、ハンガリーはバルカン半島ばるかんはんとうカルパティア地方ちほう全域ぜんいきにその影響えいきょうおよぼすしょう帝国ていこくになった。ハンガリー王室おうしつは、中世ちゅうせいにおいてカトリック教会きょうかいからもっとおおくの聖人せいじん輩出はいしゅつした王家おうけであった。

ポーランドとリトアニア[編集へんしゅう]

960ねんごろミェシュコ1せい神聖しんせいローマ皇帝こうていオットー1せいからポーランドこう称号しょうごうあたえられ、ピャストあさ創始そうしした。ミェシェンコのボレスワフ1せいだいにはちち勢力せいりょくをさらに拡大かくだいし、強大きょうだい国家こっかとなった。1138ねんボレスワフ3せいぼっすると後継こうけいしゃあらそいによってポーランドは分裂ぶんれつしてしまう。分裂ぶんれつ状態じょうたいやく200ねんつづき、ヴワディスワフ1せいによって統一とういつされた。

みなみヨーロッパ[編集へんしゅう]

最北端さいほくたんすうこくキリスト教きりすときょうこくかれていたが、イベリア半島はんとうおおくは、711ねん以降いこうムーアじん占領せんりょうされていた。11世紀せいきと13世紀せいきふたた北部ほくぶキリスト教きりすときょう王国おうこくは、イベリア半島はんとう中央ちゅうおう南部なんぶほとんどからムスリムをした。

イタリアでは独立どくりつした都市とし国家こっかが、東方とうほう海運かいうん貿易ぼうえきゆたかになっていた。こうしたことはとくピサアマルフィジェノヴァヴェネツィア制海権せいかいけんであった。

バルカン半島ばるかんはんとう東欧とうおう[編集へんしゅう]

バルカン半島ばるかんはんとう東方とうほう
黒海こっかいカスピ海かすぴかいステップ、1015ねん

中世ちゅうせい盛期せいきはスラヴけいキエフ大公たいこうこく栄枯盛衰えいこせいすいポーランドの出現しゅつげん英語えいごばんがあった時代じだいである。のちひがしヨーロッパおおくのくに侵略しんりゃくされ、略奪りゃくだつされ、占領せんりょうされ、属国ぞっこくとなったので、13世紀せいきモンゴル侵攻しんこうがこの地域ちいきおおきな影響えいきょうあたえた。

この時代じだい前半ぜんはん(1025ねん-1185ねん)にひがしマ帝国まていこくドナウがわみなみバルカン半島ばるかんはんとう支配しはいし、コムネノス王朝おうちょう皇帝こうていした繁栄はんえい復活ふっかつ都会とかいがあったが、この地域ちいき支配しはいは、1185ねんブルガリア反乱はんらん成功せいこううらわるとともにわりをつげ、これ以降いこうマケドニアトラキアいくつかの地域ちいきモエシアブルガリアじん、トラキアやマケドニアのほとんどの地域ちいき北西ほくせいセルビアじんなどの地域ちいきは、ギリシャのビザンティン帝国ていこくあいだ分割ぶんかつされた。ひがし西にし教会きょうかいは、11世紀せいき正式せいしき分裂ぶんれつし、12世紀せいき時折ときおり協力きょうりょく関係かんけい時代じだいがあったにもかかわらず、1204ねんだい4かい十字軍じゅうじぐんコンスタンティノープル占領せんりょうする裏切うらぎ行為こういおこなった。このことはひがしマ帝国まていこく深刻しんこく打撃だげきあたえ、権力けんりょくついには15世紀せいきオスマン帝国ていこくうばわれた。しかしラテン帝国ていこく権力けんりょくは、十字軍じゅうじぐんアドリアノープルのたたかブルガリア皇帝こうていカロヤンにより敗走はいそうすると、短命たんめいであった。


気候きこう農業のうぎょう[編集へんしゅう]

10世紀せいきからほぼ14世紀せいきにかけての時代じだいは、中世ちゅうせい温暖おんだんばれ、比較ひかくてき温暖おんだんであった。この一時いちじてきおとずれた温和おんわ時代じだいは、よりさむしょうこおり到来とうらいによって終止符しゅうしふたれた。ヨーロッパでワインえんもっと普及ふきゅうしたのはしょうこおりはいってからなのではあるが、中世ちゅうせい温暖おんだんにはスカンディナヴィア北方ほっぽうでもコムギ栽培さいばい可能かのうであったし、きたイングランドでもワインようのブドウが栽培さいばいされた。農耕のうこういき拡大かくだい人工じんこう増大ぞうだいうながし、1315ねんには150まんにん犠牲ぎせいとなる飢饉ききんきたが、ヨーロッパの人口じんこう全体ぜんたいとしては増加ぞうかした。また、人口じんこう増加ぞうかによってこの時代じだいにはあたらしいまち建設けんせつうながされ、工業こうぎょう経済けいざい活動かつどう活発かっぱつした。この時代じだいには食料しょくりょう生産せいさん増進ぞうしんしたが、従来じゅうらいのものよりもおもすき使用しよううしわるうま使用しよう以前いぜん圃制よりおおくの種類しゅるい作物さくもつ栽培さいばいてきしたさん圃制の導入どうにゅうといったしん技術ぎじゅつ導入どうにゅうによる部分ぶぶんおおきい。さん圃式農法のうほうではマメるい耕作こうさくがよくられるが、マメるいそだてることで、土壌どじょうから養分ようぶんとして重要じゅうよう窒素ちっそ枯渇こかつするのをふせぐことができるのである。

ある研究けんきゅうによると[7]中世ちゅうせい温暖おんだんいくつかの地域ちいきでは2000年代ねんだいの10年間ねんかん匹敵ひってきするかそれ以上いじょうあたたかさであったが、地球ちきゅう規模きぼでは2000年代ねんだい水準すいじゅん下回したまわっている。中世ちゅうせい温暖おんだんさい構築こうちくは、20世紀せいき後半こうはん基準きじゅんにしたものを実質じっしつてきえているようにえ、いくつかの地域ちいきでは過去かこ10-20年間ねんかんのものに匹敵ひってきするかえている北大西洋きたたいせいようおおくの地域ちいきみなみグリーンランド、ユーラシアがわ北極ほっきょく地方ちほうきたアメリカの一部いちぶたいするあたたかさをつくしている。中央ちゅうおうユーラシア、きたアメリカ北西ほくせい、(あまり信用しんようできないが)みなみ大西洋たいせいよう一部いちぶのような地域ちいきは、例外れいがいてきさむかったことをしめした。

騎士きしどう興隆こうりゅう[編集へんしゅう]

じゅう騎士きしナイト)という身分みぶんが11世紀せいきにはヨーロッパ全域ぜんいき普通ふつうとなり、馬上もうえやり試合しあい考案こうあんされたのもこのころである。うまよろいといったじゅう装備そうび準備じゅんびする初期しょき投資とうし簡単かんたんなものではなかったが、農奴のうどそうにとって騎士きしになることは自由じゆうみんになるひとつの手段しゅだんであった。12世紀せいきになると、クリュニー修道院しゅうどういん修道しゅうどうそうたち神学しんがくてき正当せいとう戦争せんそうという概念がいねん提唱ていしょうし、テンプル騎士きしだん代表だいひょうされる修道しゅうどう騎士きしだん創設そうせつ鼓吹こすいした。貴族きぞく階級かいきゅう身分みぶん世襲せしゅうはこのころはじまったが、13世紀せいきのドイツでは、貴族きぞく肩書かたがきほどかがやかしいものではないとはいえ、騎士きし身分みぶんもこのころ世襲せしゅうされるようになり、この風潮ふうちょう他国たこくへもひろまっていった。

宗教しゅうきょう[編集へんしゅう]

教会きょうかい[編集へんしゅう]

1054ねん東西とうざい教会きょうかい分裂ぶんれつは、正式せいしきにキリスト教会きょうかいふたつにけた。だい分裂ぶんれつながらく政治せいじてき教義きょうぎてき差異さい神学しんがく論争ろんそうにより一層いっそう傷付きずつけられてきた東西とうざい関係かんけいからもたらされた。顕著けんちょれいは、聖体せいたい拝領はいりょうには発酵はっこうしたパンをもちいるべきか発酵はっこうしていないパンをもちいるべきかということと、五大ごだいそう主教しゅきょう本山ほんざん・ペンターキー)においてローマ教皇きょうこう主張しゅちょうする普遍ふへんてき権限けんげんである首位しゅいけんコンスタンティノープルそう主教しゅきょう地位ちい問題もんだいはどうあるべきかということであった。レオ9せいミハイル1せいは、4にんそう主教しゅきょうにまで教皇きょうこう権威けんいおよぶかという論争ろんそう最後さいごたがいを破門はもんした

分裂ぶんれつキリスト教きりすときょう西方せいほうカトリック教会きょうかい東方とうほう正教会せいきょうかいとのふたつの教会きょうかいでまとめられる。それぞれの教会きょうかい教義きょうぎじょう神学しんがくじょう言語げんごがくじょう政治せいじてき地理ちりてきせんかれ、根本こんぽんてき不和ふわ原因げんいんたがいが相手あいて異端いたんおちいったと非難ひなん分裂ぶんれつはじめたことであり、けっしていやされることはなかった。1095ねんはじまる十字軍じゅうじぐん派遣はけん、1182ねんひがしマ帝国まていこくでのラテンけい住民じゅうみん虐殺ぎゃくさつ、1204ねんだいよんかい十字軍じゅうじぐんによるコンスタンティノープル占領せんりょう略奪りゃくだつそう主教しゅきょうへの背信はいしん行為こういは、和解わかい一層いっそう困難こんなんなものにした。これらの衝突しょうとつくわ十字軍じゅうじぐん兵士へいしらがひがしマ帝国まていこくせい遺物いぶつはじめとする宗教しゅうきょう芸術げいじゅつひんおおくを戦利せんりひんとしてかえり、コンスタンティノープル図書館としょかん破壊はかいしたこともげられる。

十字軍じゅうじぐん[編集へんしゅう]

地中海ちちゅうかい地域ちいき中世ちゅうせい盛期せいきは、1095ねんから1291ねんにかけて聖地せいちキリスト教徒きりすときょうと奪還だっかんする目的もくてきカトリック教会きょうかいのヨーロッパのおおくが(とくフランスフランクじんかみきよしマ帝国まていこくおこなった一連いちれん宗教しゅうきょうじょうみとめられた軍事ぐんじ作戦さくせん支配しはいされた。作戦さくせん東西とうざいキリストきょうにより集団しゅうだんたいしてもおこなわれたが、十字軍じゅうじぐん正統せいとうカリフ時代じだいから近東きんとう支配しはいしていたムスリムたいするローマカトリックぐんによりおこなわれた。伝統でんとうてき十字軍じゅうじぐん作戦さくせんすうは、11世紀せいきから13世紀せいきにかけて9つをかぞえる。

第9回十字軍第8回十字軍第7回十字軍第6回十字軍第5回十字軍第4回十字軍第3回十字軍第2回十字軍第1回十字軍

十字軍じゅうじぐん元々もともとムスリムからエルサレム聖地せいちさい獲得かくとくすることを目的もくてきにしていて、作戦さくせんアナトリア半島はんとうへのムスリムセルジューク・トルコ拡張かくちょうたいするたすけを正教会せいきょうかいひがしマ帝国まていこくからもとめられたことにたいする返答へんとうとして開始かいしされた。この用語ようご通常つうじょう宗教しゅうきょうてき経済けいざいてき政治せいじてき理由りゆう混合こんごうにより異教徒いきょうと異端いたん破門はもんされた人々ひとびとたいしてレバント[8]外側そとがわ領域りょういきで16世紀せいきつうじておこなわれたどう時代じだいつづいておこなわれた作戦さくせんすのにももちいられる[9]キリスト教徒きりすときょうととムスリムりょう勢力せいりょく敵対てきたい関係かんけいは、だい5かい十字軍じゅうじぐんルーム・セルジュークあさとのキリスト教徒きりすときょうと同盟どうめい関係かんけいのようにてきたいする宗派しゅうはあいだ同盟どうめい関係かんけいにもつながった。

十字軍じゅうじぐん遠大えんだい政治せいじてき経済けいざいてき社会しゃかいてき影響えいきょうがあり、なかには現代げんだいいたるまでつづくものがある。キリストきょう王国おうこく政治せいじ権力けんりょく内紛ないふんゆえに、十字軍じゅうじぐん遠征えんせいたいによってはだい4かい十字軍じゅうじぐんのようにキリスト教徒きりすときょうとコンスタンティノープル略奪りゃくだつヴェネツィア共和きょうわこく十字軍じゅうじぐんあいだひがしマ帝国まていこく分割ぶんかつにつながった本来ほんらい目的もくてきから逸脱いつだつしたれいがある。だい6かい十字軍じゅうじぐん教皇きょうこう正式せいしきびかけがなくはじめられた最初さいしょ十字軍じゅうじぐんであった[10]だい7かい十字軍じゅうじぐんだい8かい十字軍じゅうじぐんだい9かい十字軍じゅうじぐんは、だい9かい十字軍じゅうじぐん中東ちゅうとう十字軍じゅうじぐんわりをむかえて、マムルークハフスあさ勝利しょうりわった[11]

騎士きし修道しゅうどうかい[編集へんしゅう]

十字軍じゅうじぐん関係かんけいでは、中世ちゅうせい後期こうき騎士きしだん模範もはんとなった騎士きし修道しゅうどうかい創設そうせつされた。

テンプル騎士きしだん敵意てきい地元民じもとみん山賊さんぞくからキリストきょう巡礼じゅんれいしゃまもるのを手伝てつだうためにだい1かい十字軍じゅうじぐんわると創設そうせつされたキリスト教きりすときょう軍事ぐんじ組織そしきであった。この騎士きしだん金融きんゆうぎょうふかかかわっていて、1307ねんフィリップ恐怖きょうふおうPhilippe le Bel)は騎士きしだん全員ぜんいんをフランスで逮捕たいほし、異端いたんうたがいで告発こくはつ解散かいさんさせた。1314ねんひそかにクレメンス5せいにより赦免しゃめんされた。

ひじりヨハネ騎士きしだん元々もともとまずしいひと病人びょうにん聖地せいちへのきずついた巡礼じゅんれいのために活動かつどうするために1080ねんエルサレム創設そうせつされたキリスト教きりすときょう組織そしきであった。エルサレムがだい1かい十字軍じゅうじぐん奪取だっしゅされると、聖地せいち管理かんり防衛ぼうえいにあたる組織そしき変化へんかした修道しゅうどうかい騎士きし修道しゅうどうかいになった。聖地せいち結局けっきょくイスラーム教徒きょうと奪取だっしゅされると、活動かつどうロドスとうに、のちマルタうつした。

ドイツ騎士きしだん聖地せいちへのキリスト教きりすときょう巡礼じゅんれいしゃ援助えんじょ病人びょうにん怪我人けがにんのためにウトラメール病院びょういん運営うんえいするためにアッコで1190ねん編成へんせいされたドイツ騎士きしだんであった。イスラーム教徒きょうと聖地せいち奪取だっしゅすると、騎士きしだんは1211ねんにトランシルヴァニアに移動いどうし、のち破門はもんされると、バルト海ばるとかいのキリスト教化きょうか目指めざして異教徒いきょうとのいるプロシアを侵略しんりゃくした。騎士きしだんにとっての主要しゅよう異教徒いきょうとリトアニア大公たいこうこくキリスト教きりすときょう改宗かいしゅうする前後ぜんご騎士きしだんすでノブゴロドポーランドのようなほかキリスト教きりすときょうこく攻撃こうげきしていた。無視むしできなくなったドイツ騎士きしだん影響えいきょうりょくは、1410ねんにポーランド・リトアニア・ロシア連合れんごうぐん破滅はめつてき大敗たいはいきっしたタンネンベルクのたたか粉砕ふんさいされた。タンネンベルクのたたかいののち騎士きしだん衰退すいたいし、1809ねん正式せいしき騎士きしだん解散かいさんした。全部ぜんぶで10かい十字軍じゅうじぐんおこなわれた。

スコラがく[編集へんしゅう]

あたらしいキリスト教きりすときょうしき学習がくしゅう方式ほうしきは、はじめは中世ちゅうせいのユダヤ哲学てつがくやイスラームきょう哲学てつがくモーシェ・ベン=マイモーンイブン・スィーナーイブン・ルシュド) をつうじて間接かんせつてきに、それからひがしマ帝国まていこくイスラームきょう図書館としょかんからもどしたアリストテレス自身じしん著作ちょさくつうじてアリストテレス著作ちょさくさい発見はっけんからアンセルムス(1033ねん–1109ねん)が影響えいきょうされたものであり、影響えいきょうあたえたひともっと有名ゆうめいなのが、アルベルトゥス・マグヌスボナヴェントゥラピエール・アベラールであった。スコラがく経験けいけんろん信条しんじょうとし、世俗せぞく研究けんきゅう理性りせい論理ろんりつうじてローマカトリックの教義きょうぎ支援しえんした。キリスト教きりすときょう神秘しんぴ主義しゅぎ二元論にげんろんにおけるプラトンやアウグスティヌスの信条しんじょう世界せかい本質ほんしつてきあく見方みかた反対はんたいした。スコラがくもっと有名ゆうめいなのは、プラトン主義しゅぎアウグスティヌスからアリストテレス主義しゅぎ移行いこうさせたトマス・アクィナスであった(のちに「教会きょうかい博士はかせ」とわれた)。アクィナスはしんかみ閃光せんこうつうじて形象けいしょう思想しそうかんがみとめる能力のうりょくあたえられたタブラ・ラーサ(「空白くうはく状態じょうたい」)の誕生たんじょうにあるとくことでしん哲学てつがく発展はってんさせた。有名ゆうめいなスコラ学者がくしゃロスケリヌスやアベラール、ペトルス・ロンバルドゥスがいた。この時代じだい主要しゅよう問題もんだいひとつは、普遍ふへん論争ろんそうであった。スコラがく主流しゅりゅう様々さまざまめん有名ゆうめい反対はんたいヨハネス・ドゥンス・スコトゥスオッカムのウィリアムペトルス・ダミアニクレルヴォーのベルナルドゥスサンヴィクトル学派がくは学者がくしゃたちがいた。[1]

修道院しゅうどういん黄金おうごん[編集へんしゅう]

11世紀せいき後半こうはんから12世紀せいきまえ中期ちゅうきキリスト教きりすときょう修道院しゅうどういん生活せいかつ黄金おうごん絶頂ぜっちょうむかえた(8世紀せいきから12世紀せいき)。キリストきょう修道院しゅうどういん生活せいかつは、旧約きゅうやく聖書せいしょにある修道院しゅうどういん生活せいかつなどの聖書せいしょれい理想りそう規範きはんにしたものだが聖書せいしょなか慣例かんれいとして委託いたくされたものではないキリスト教会きょうかい歴史れきし早期そうき発展はってんはじめた実践じっせんである。宗教しゅうきょうじょうまりごとにより(れいせいバジルのまりごとやせいベネディクトのまりごと)規制きせいされた。

黒衣くろごをまとった僧侶そうりょベネディクトかいは、せいベネディクトのまりごとを遵奉じゅんぽうする。かいないでは全体ぜんたいとしての組織そしき共通きょうつう関心事かんしんじあらわすために存在そんざいする一方いっぽうで、個別こべつのコミュニティーがそれぞれ(修道院しゅうどういんしょう修道院しゅうどういんだい修道院しゅうどういんであるかもしれない)自治じち維持いじしている。たまにかこまれた僧侶そうりょ尼僧にそうシトーかいは、創設そうせつしゃクレルヴォーのベルナルドゥス関連かんれんしてベナルディンとばれている。シトーかい修道しゅうどうふくいろかたのところがくろしろふくであり、手作業てさぎょう自給自足じきゅうじそく重点じゅうてんいていた。おおくのだい修道院しゅうどういんは、伝統でんとうてき農業のうぎょうやエールの醸造じょうぞうのような活動かつどうつうじて自活じかつした。

托鉢たくはつ修道しゅうどうかい[編集へんしゅう]

13世紀せいきには托鉢たくはつ修道しゅうどうかい興隆こうりゅうられた。托鉢たくはつ修道しゅうどうかい生計せいけいのために人々ひとびとほどこしに直接ちょくせつたよ修道しゅうどうかいである。原則げんそくとして時間じかんとエネルギーのすべてを宗教しゅうきょう活動かつどうついやすためにイエス・キリストが辿たどったみち真似まねもっと純粋じゅんすい生活せいかつ方法ほうほうであったとしんじて個人こじんてきにせよ集団しゅうだんにせよ(集団しゅうだん貧困ひんこん参照さんしょう財産ざいさんたない。

フランシスコかい(「ちいさき兄弟きょうだいかい」、英語えいごでは一般いっぱんGrey Friarsとしてられている)は1209ねん創設そうせつされた。せいフランシスコがいた説教せっきょうにより12使徒しと貧困ひんこん生活せいかつ完全かんぜんみずからをささげることにした感銘かんめいあたえた。ゆるやかなふくをまとい、裸足はだしで、福音ふくいんてき訓示くんじのちつえたず、あらための説教せっきょうはじめた。あいだもなく活動かつどうすべてを寄付きふした有名ゆうめい市民しみんBernardo di Quintavalleいちねんで11にんたっしたとわれる仲間なかまくわわった。

カルメルかい(カルメルのせい処女しょじょマリアのかくれ修士しゅうし英語えいごでは一般いっぱんWhite Friarsとしてられる)は1206ねんから1214ねんにかけて創設そうせつされた。1190年代ねんだい以前いぜんのカルメルさんかくれ修士しゅうしかんする記録きろくはないが、カルメルかい伝統でんとうは、古代こだいイスラエルの預言よげんしゃ一門いちもん継承けいしょうしたカルメルさんかくれ修士しゅうしのコミュニティーに修道しゅうどうかい起源きげんかさわせている。この時期じきまでにある一団いちだんがカルメルやまのエリジャの井戸いどあつまった。このおとこたち巡礼じゅんれい十字軍じゅうじぐん兵士へいしとしてヨーロッパからパレスチナにったおとこたちで、そこがエリジャの伝統でんとうてきいえであるために一部いちぶカルメルやまえらんだ。基礎きそせい処女しょじょマリアにささげられたとかんがえられている。

ドミニコかい説教せっきょうしゃ修道しゅうどうかい英語えいごでは一般いっぱんBlack Friarsばれる)は1215ねん創設そうせつされた。アルビジョア十字軍じゅうじぐんのちせいドミニコは都市とし住民じゅうみん宗教しゅうきょう問題もんだいみみかたむけるベネディクトかいのようなふるかた托鉢たくはつ修道しゅうどうかい献身けんしん組織そしきだった教育きょういくおこなうが托鉢たくはつ修道しゅうどうかい世俗せぞく僧侶そうりょより柔軟じゅうなん組織そしきあたらしいかた修道しゅうどうかい創設そうせつしようとした。ドミニコのあたらしい修道しゅうどうかいは、日常にちじょう言葉ことば説教せっきょうするよう訓練くんれんされた説教せっきょう修道しゅうどうかいであった。男子だんし修道院しゅうどういんおこなった広大こうだい農地のうちらすよりも、あたらしい修道しゅうどうは、説得せっとくりょくのある説法せっぽうみずからを「み」、物乞ものごいでのころうとすることになる。

せいアウグスチノ修道しゅうどうかいせいアウグスティヌスのかくれ修士しゅうし一般いっぱんにアウグチノ修道しゅうどうばれている)は1256ねん創設そうせつされた。アウグスティヌスちなんで名付なづけられ、この修道しゅうどう黙想もくそうと12使徒しとてき聖職せいしょくしゃわさった宗教しゅうきょうじょう生活せいかつ実践じっせんし、せいアウグスティヌスの修道しゅうどう規則きそくしたがっている。

異端いたん運動うんどう[編集へんしゅう]

キリスト教きりすときょう異端いたんは11世紀せいき以前いぜんにヨーロッパに存在そんざいしたが、一匹狼いっぴきおおかみ牧師ぼくし異教徒いきょうと伝統でんとうもどったむらのように、かずすくなく、土地とち人物じんぶつかぎられていたが、11世紀せいきはじめにだい規模きぼ異端いたん運動うんどうこった。もとは都市とし興隆こうりゅう自由じゆう商人しょうにんあたらしいかね基本きほんにした経済けいざいがあった。修道院しゅうどういん生活せいかつ農村のうそんばんが、都市とし文化ぶんか調和ちょうわしてさら分派ぶんぱ形成けいせいはじめた都市とし住民じゅうみんにはほとん感銘かんめいあたえなかった。最初さいしょ異端いたん運動うんどうは、みなみフランスやきたイタリアのようなあらたに都市としされた地域ちいきはじまった。教会きょうかいがそれまでにたことのない規模きぼ運動うんどうであり、その反応はんのうはカタリのような人々ひとびとのために除去じょきょされたひとつであり、かね放棄ほうきした都市とし商人しょうにん息子むすこせいフランシスコのようなひとれられ、完成かんせいされた。

カタリ[編集へんしゅう]

カタリ
1209ねんカルカソンヌから追放ついほうされるカタリ

カタリグノーシス主義しゅぎ集団しゅうだんによる運動うんどうであった。カタリアルビジャンともばれた。当時とうじカトリック教会きょうかいから異端いたん烙印らくいんされたこの運動うんどうは、10世紀せいき中葉ちゅうようごろはじまった。西にしヨーロッパいたところ存在そんざいしたが、本拠地ほんきょちラングドックみなみフランス周辺しゅうへん地域ちいきにあった。モンセギュール要塞ようさいはカタリ最後さいごとりでひとつであった。1244ねんにモンセギュールが陥落かんらくすると、のこったカタリは、ケリビュのアラゴンとの国境こっきょうべつ山頂さんちょう要塞ようさい集結しゅうけつした。

カタリは「純粋じゅんすいな」を意味いみするギリシャkatharos語源ごげんであるとするのがもっと有力ゆうりょくである。はじめて記録きろくされた用法ようほうひとつが、1181ねんにケルンから異端いたんについて「Hos nostra Germania catharos appellat」をいたエクベルト・フォンシェーナウであった。この名称めいしょうは12世紀せいきまつからはじまり、1181ねん年代ねんだい史家しかジョフロワ・デュ・ブルイユによりもちいられた。この名称めいしょう南部なんぶ都市としアルビ古代こだいのアルビガ)に関連かんれんしている。中心ちゅうしんトゥールーズ近郊きんこう地域ちいきにあったために、この名称めいしょうほとん正確せいかくではない。カタリはフランス南部なんぶやイタリア北部ほくぶかみきよしマ帝国まていこく南西なんせいつよかった。ボスニア教会きょうかいとしてられるボゴミルは、ボスニアつよく、ボスニア国王こくおう支援しえんされた公的こうてき宗教しゅうきょうであった。

カタリ二元論にげんろんしゃは、歴史れきしてき事件じけんちからわるちからのせめぎいの結果けっかでありわるほう世界せかい支配しはいするが禁欲きんよく主義しゅぎおこないをとおして支配しはいされたり敗北はいぼくすることが可能かのうだとしんじた。

アルビジョア十字軍じゅうじぐんはラングドックのカタリ異端いたんのぞくためにカトリック教会きょうかい音頭おんどをとった20ねんにわたる軍事ぐんじ行動こうどうであった。実践じっせんてきなカタリかず重大じゅうだい減少げんしょうられなかったがオクシタニアのさい編成へんせいにはつながり、フランスおう支配しはいみアラゴンの影響えいきょうによる別個べっこ地域ちいき文化ぶんか高度こうどらしながら、十字軍じゅうじぐんはフランスを中心ちゅうしんにしておこなわれ、即座そくざ政治せいじてき主導しゅどうけん獲得かくとくした。カタリもどろうとするインノケンティウス3せいこころみがほとん成功せいこうせず教皇きょうこう使節しせつカステルノのピエールが殺害さつがいされると、武器ぶきろうとするフランス貴族きぞくにカタリ異端いたん土地とち提供ていきょうしようともうながら、インノケンティウス3せいはラングドックにたいする十字軍じゅうじぐん提案ていあんした。暴力ぼうりょくはカタルーニャと文化ぶんかてき言語げんごてきちか関係かんけいのフランスが土地とち取得しゅとくすることになった。アルビジョア十字軍じゅうじぐんはドミニコ修道しゅうどうかい中世ちゅうせい宗教しゅうきょう裁判さいばん双方そうほう創設そうせつ制度せいど役割やくわりたした。シモン4せい・ド・モンフォールは、だい4かい十字軍じゅうじぐん参加さんかしたフランス貴族きぞくで、アルビジョア十字軍じゅうじぐん有名ゆうめい指導しどうしゃであった。1218ねんにトゥールーズ包囲ほういせん死亡しぼうした。

ワルドー[編集へんしゅう]

リヨンピエール・ヴァルドーは、裕福ゆうふく商人しょうにんだったが、1173ねんごろ霊感れいかんけ、ぜん財産ざいさんをなげうって説教せっきょうしゃとなった。あらゆる宗教しゅうきょうじょう慣行かんこう聖書せいしょもとづくべきだとかんがえ、ヴァルドひらいた。ワルドーは1179ねんだい3ラテランこう会議かいぎで、説教せっきょうする権利けんり剥奪はくだつされたが、これにしたがわず1184ねん破門はもんされるまで自由じゆう説教せっきょうつづけた。キリストの言葉ことばしたがってきていないとしてキリスト教きりすときょう聖職せいしょくしゃたち批判ひはんし、贖宥じょう売買ばいばいや、聖人せいじんれきによる聖人せいじん崇敬すうけい慣行かんこう否定ひていした。

貿易ぼうえき商業しょうぎょう[編集へんしゅう]

きたヨーロッパでは海上かいじょう貿易ぼうえき推進すいしんする自由じゆう都市とし連合れんごうハンザ同盟どうめいが、のちにハンザ同盟どうめい支配しはいすることになるリューベックが1158ねん-1159ねん創立そうりつされるとともに12世紀せいき結成けっせいされた。アムステルダムケルンブレーメンハノーファーベルリンなどのかみきよしマ帝国まていこくおおくの北部ほくぶ都市としが、ハンザ同盟どうめいくわわった。たとえばかみきよしマ帝国まていこく以外いがいのハンザ同盟どうめい都市としにケーニヒスベルク同様どうようブルッヘやポーランドのグダニスク(ダンツィヒ)があった。ベルゲンノヴゴロドではハンザ同盟どうめいには工場こうじょう中間なかま商人しょうにんがいた。この時代じだい、ドイツはプロイセンシレジアけて神聖しんせいマ帝国まていこく領域りょういきえてひがしヨーロッパを植民しょくみんはじめた。

13世紀せいき後半こうはんマルコ・ポーロというヴェネツィア探検たんけんが、中国ちゅうごくけてシルクロードたびした最初さいしょのヨーロッパじん一人ひとりになった。マルコ・ポーロが東方とうほう見聞けんぶんろく自身じしんたびあらわすと、西洋せいようじん極東きょくとうについてることとなった。ウィリアム・ルブルックプラノ・カルピニアンドレ・ド・ロンジュモー, オドリック・ポルデノネジョヴァンニ・デ・マリノッリジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノのような東方とうほうへのすうおおくのキリスト教きりすときょう使節しせつニッコロ・デ・コンティのような旅行りょこうしゃつづいた。

科学かがく知識ちしき[編集へんしゅう]

中世ちゅうせい大学だいがく地図ちず

中世ちゅうせい前期ぜんき哲学てつがく科学かがくかんする教授きょうじゅほうは、西にしマ帝国まていこく崩壊ほうかい西にしヨーロッパにのこった古代こだいギリシアほん若干じゃっかんうつしと注釈ちゅうしゃくほんをもとにしていた。そのほとんどはギリシア知識ちしき非常ひじょうかぎられていたためにラテン語らてんごでのみ研究けんきゅうされた。

このながれは12世紀せいきルネサンスわった。ヨーロッパの知的ちてき復興ふっこうは、中世ちゅうせい大学だいがく誕生たんじょうとともにはじまった。レコンキスタスペインシチリアのイスラーム世界せかいとの接触せっしょく十字軍じゅうじぐんひがしマ帝国まていこく世界せかいやイスラームのレバントとの接触せっしょくしたことで、アリストテレスイブン・アル・ハイサムイブン・ルシュド著作ちょさくなどのアラビアギリシャ科学かがく文献ぶんけんにヨーロッパじんせっすることができた。ヨーロッパの大学だいがくは、実質じっしつてきこうした書籍しょせき翻訳ほんやく普及ふきゅう支援しえんし、科学かがくてきなコミュニティーのために必要ひつようあたらしい基礎きそづくりをはじめた。

13世紀せいきはじめには大学だいがく男子だんし修道院しゅうどういんつうじて科学かがく思想しそう完全かんぜん移行いこうみとめながらほとんすべての知的ちてき重要じゅうよう古代こだい作家さっか主要しゅよう作品さくひんのほぼ完全かんぜんラテン語らてんごやくがあった[12]。そのときまでにこの書籍しょせきふくまれる自然しぜん科学かがくは、ロバート・グロステストロジャー・ベーコンアルベルトゥス・マグヌスヨハネス・ドゥンス・スコトゥスのような有名ゆうめいスコラ学者がくしゃにより発展はってんはじめた。現代げんだい科学かがくてき方法ほうほう先駆さきがけは、自然しぜん理解りかいする手法しゅほうとして数学すうがくをグロステストが重視じゅうしし、ベーコンは経験けいけんもとづいた接近せっきんほう称賛しょうさんする行動こうどうとくOpus Majus)にすでることができる。

船舶せんぱく[編集へんしゅう]

フラ・マウロの世界せかいによる1460ねん世界せかいふね

様々さまざまふねが、中世ちゅうせい盛期せいきもちいられた。コグせんはロングシップから進化しんかした(あるいはすくなくとも影響えいきょうけた)とかんがえられる意匠いしょうであり、12世紀せいきまでにひろもちいられた。建造けんぞうにはよろいりの方法ほうほうもちいた。キャラベルせんイスラームきょうのイベリア発明はつめいされたふねで、13世紀せいきから地中海ちちゅうかいもちいられた[13]ロングシップコグせんとはちがうが、建造けんぞうにあたってカルベル造船ぞうせんほうもちいた。よこそなえたキャラベル・レドンダ(Caravela Redonda)とたて(ラティーンセイル)をそなえたキャラベル・ラティーナ(Caravela Latina)があった。

発明はつめい技術ぎじゅつ[編集へんしゅう]

12世紀せいきと13世紀せいきにヨーロッパでしん発明はつめい製造せいぞう伝統でんとうてき方法ほうほう管理かんりする手法しゅほうにおける革新かくしん経済けいざい成長せいちょう劇的げきてき変化へんかがあった。ひゃくねんにもたないあいだ世界せかいのそれまでのせん年間ねんかん人類じんるいより有効ゆうこう発展はってん応用おうようされるおおくの発明はつめいがあった。この時代じだい風車かざぐるま水車みずぐるま小屋こや印刷いんさつ(まだ移動いどうしきではなかったが)、火薬かやくアストロラーベ眼鏡めがね現代げんだいもちいられるかたはさみ改良かいりょうされた時計とけいおおいに改良かいりょうされたふねなどのおおきなテクノロジー改良かいりょうがあった。最後さいごふたつの改良かいりょうは、だい航海こうかい時代じだい夜明よあけとなった可能かのうせいがある。この発明はつめい外国がいこく文化ぶんか社会しゃかい影響えいきょうされた。1187ねんアレクサンダー・ネッカム方位ほうい磁針じしんについて舵取かじとりにもちいた最初さいしょのヨーロッパじんであった。

アルフレッド・クロスビーはこの技術ぎじゅつ革命かくめいいくつかについてThe Measure of Reality: Quantification in Western Europe, 1250-1600れ、おも技術ぎじゅつ史家しかべている。

芸術げいじゅつ[編集へんしゅう]

視覚しかく芸術げいじゅつ[編集へんしゅう]

ブルガリアのコンスタンティン・ティーフ描写びょうしゃしたボヤナ教会きょうかいのフレスコ教会きょうかい壁画へきがは、13世紀せいきブルガリア文化ぶんか傑作けっさくのひとつである。

ロマネスク建築けんちく混同こんどうすることなく古典こてん世界せかいロマネスク伝統でんとうは、西暦せいれき1000ねんから13世紀せいきゴシック様式ようしき西にしヨーロッパに関係かんけいし、あるいはその地域ちいき根差ねざしている。そのまえ時代じだいは、段々だんだんぜんロマネスク時代じだいとしてられてきている。この用語ようごは19世紀せいき美術びじゅつとくにロマネスク建築けんちく専門せんもんによりされ、ローマ建築けんちく様式ようしきおおくの基本きほんてき特徴とくちょう維持いじしているが、非常ひじょうことなるおおくの特色とくしょく発展はってんさせた。みなみフランスやスペイン、イタリアでは、後期こうき古代こだい様式ようしきとの建築けんちく連続れんぞくせいがあったが、ロマネスク様式ようしきはカトリックのヨーロッパ全域ぜんいきに(デンマークからシチリアまで)影響えいきょうあたえたはじめての様式ようしきであった。ロマネスクはビザンティン芸術げいじゅつとく絵画かいがやブリテン諸島しょとう芸術げいじゅつ装飾そうしょくはんクラシックエネルギーからも非常ひじょう影響えいきょうけ、この構成こうせい要素ようそ非常ひじょう革新かくしんてき首尾しゅび一貫いっかんした様式ようしきした。

安定あんていした西にしヨーロッパ社会しゃかい中世ちゅうせいあらわれたので、カトリック教会きょうかいはその財源ざいげん後見こうけんする絵画かいが彫刻ちょうこくもちいてキリスト教きりすときょう芸術げいじゅつという言葉ことばでその手法しゅほうみちびいた。ひがしマ帝国まていこくキリスト教きりすときょう芸術げいじゅつ発展はってんすると、おおくの抽象ちゅうしょう美学びがくが、それ以前いぜんにヘレニズム芸術げいじゅつつくげられた自然しぜん主義しゅぎわった。ビザンティン美術びじゅつ主要しゅよう目的もくてき正確せいかくひとぶつ描写びょうしゃするよりも宗教しゅうきょうてき意味いみつたえることにあることを意味いみしながらもヒエラティックであった。ビザンティン様式ようしきは4世紀せいきごろから1453ねんのコンスタンティノープルの陥落かんらくまでのひがしマ帝国まていこくすうおおくの芸術げいじゅつ作品さくひん適合てきごうした。おおくの芸術げいじゅつひんが、中世ちゅうせい盛期せいきつくられた。

地域ちいき中世ちゅうせい芸術げいじゅつには地域ちいきてき主題しゅだいたとえばアングロ・サクソン芸術げいじゅつユダヤ芸術げいじゅつ)や装飾そうしょく写本しゃほんのような技能ぎのう専門せんもんせい分野ぶんやがあった。

建築けんちく[編集へんしゅう]

バスだい修道院しゅうどういんファン・ヴォルトまど

ゴシック建築けんちくフライング・バットレスとんがあたまアーチリブ・ヴォールト結合けつごうすることによりロマネスク様式ようしきってわった。それは当時とうじの、宗教しゅうきょうてき本質ほんしつ精神せいしんてき背景はいけい影響えいきょうによる。水平すいへいせん格子こうしが、建物たてもの高層こうそうさせた。それ以前いぜんくらくておもいロマネスク様式ようしきたいし、ゴシック建築けんちくはよりあかるくかろやかに構成こうせいされていた。アウグスティヌスひかりかみ表現ひょうげんするとき、そのおしえを教会きょうかい反映はんえいさせるように建築けんちく技術ぎじゅつ改良かいりょうされ発展はってんした。おおきく色彩しきさいゆたかなまどが、ゆたかな光源こうげんれることを可能かのうとした。今日きょうくらべ、中世ちゅうせいあざやかな色彩しきさいとぼしかったため、このだい建造けんぞうぶつ当時とうじのあらゆる人々ひとびと畏怖いふねんいだかせるものであったことは想像そうぞうかたくない。複雑ふくざつ高層こうそうのために、建物たてものじょざいかこみ、のちファン・ヴォールトてんかううごきがおこった。かみへの崇拝すうはいが、この建物たてもの相対そうたいてききょたいさによっても表現ひょうげんされた。したがってゴシック様式ようしきだい聖堂せいどうは、精神せいしんてき昇華しょうかもとめる人々ひとびといのりをささげる場所ばしょであるだけでなく、かみ偉大いだいさをらしめる場所ばしょでもあったのである。ゴシックだい聖堂せいどう間取まどは、スコラがく規則きそくにも合致がっちしていた。エルヴィン・パノフスキーの『ゴシック建築けんちくとスコラがく』によれば、それは区画くかくおながたふく区画くかくけられる。この特色とくしょく当時とうじもっとも有名ゆうめい聖堂せいどう建築けんちくであるノートルダムだい聖堂せいどうしめされている。

文学ぶんがく[編集へんしゅう]

さまざまな文化ぶんか中世ちゅうせい盛期せいき文学ぶんがく影響えいきょうあたえた。なかでもとりわけ有力ゆうりょく影響えいきょうげんキリスト教きりすときょうであった。キリストきょうとのつながりはラテン文学ぶんがくにおいてきわめて重要じゅうようであったが、それはローマもの俗語ぞくご文学ぶんがくぐんにおいて民衆みんしゅうにも影響えいきょうあたえた。その物語ものがたりぐんサイクル、すなわち相互そうご関連かんれんする物語ものがたり集合しゅうごう)には、フランスものシャルルマーニュ宮廷きゅうてい物語ものがたり)、ビザンツ国境こっきょう守備しゅびへい騎士きしどう精神せいしんあつかアクリティカ歌話かわ英語えいごばん、そしてもっと有名ゆうめいであるかもしれない物語ものがたりぐんであるブリテンものアーサーおうとその宮廷きゅうていブルターニュコーンウォールウェールズについてのはなし)がげられる。ある無名むめいのドイツの詩人しじんは、民族みんぞく移動いどう時代じだいからのゲルマン神話しんわをフランスやブリテンの叙事詩じょじし水準すいじゅんまでげようとして、ニーベルンゲンのうたつくった。そのほか、モンマスのジェフリーの『ブリタニアれつおう』をはじめ、すうおおくの史伝しでんがこの時期じきかれている。

みなみフランスでは、宮廷きゅうてい恋愛れんあいうたったトルバドゥール有名ゆうめいプロヴァンス文学ぶんがく英語えいごばんまれた。これにはラテン文学ぶんがくと、イスラム文化ぶんか影響えいきょうけたイベリア半島はんとうきたアフリカの要素ようそはいっていた。のちにその影響えいきょうは、西にしヨーロッパのさまざまな文化ぶんか、ポルトガル、ドイツのミネゼンガー、シチリア、きたイタリアにもおよんだ。そしてそのながれで、イタリアではペトラルカダンテ清新せいしんたいまれ、ダンテはこの時代じだいもっと重要じゅうようである『かみきょく』をいた。

音楽おんがく[編集へんしゅう]

現存げんそんする中世ちゅうせい盛期せいき音楽おんがくは、ほう宗教しゅうきょう施設しせつ発展はってんしたために、事実じじつじょうしゅとして宗教しゅうきょうてきなものになっていて、世俗せぞく音楽おんがくほう適用てきようされるのは、時代じだいのことであった。この時代じだい早期そうきに、グレゴリオ聖歌せいか教会きょうかい音楽おんがく支配しはいてき形式けいしきで、オルガヌムにはクラウスラコンドゥクトゥスモテットなどの形式けいしきは、出典しゅってんとして聖歌せいかもちいて発展はってんした。

11世紀せいきグイード・ダレッツォはじめてほう発展はってんさせたうちの一人ひとりで、うたがグレゴリオ聖歌せいかおぼやすくした。

グレゴリオのたん旋律せんりつ聖歌せいかがポリフォニーになったのは、12世紀せいきから13世紀せいきであり、フランスのノートルダムらくレオニヌスペロティヌス)の作品さくひんあらわれた。のちアルス・ノーヴァフィリップ・ド・ヴィトリギヨーム・ド・マショー)や中世ちゅうせい後期こうき音楽おんがく分野ぶんや進化しんかした。12世紀せいき重要じゅうよう作曲さっきょくは、修道しゅうどうおんなヒルデガルト・フォン・ビンゲンであった。

もっと重要じゅうよう世俗せぞく運動うんどうは、トルバドゥール運動うんどうで、11世紀せいき後半こうはんオクシタニア現在げんざいみなみフランス)で興隆こうりゅうした。トルバドゥールはあらゆる社会しゃかい階層かいそう出身しゅっしんであるイティネラントであることがめずらしくなく、様々さまざま話題わだいかんするうたとくミンネ)をいた。その形態けいたいきたフランスのトルヴェールドイツミンネザングきたイタリアの世俗せぞくトレチェント音楽おんがく作曲さっきょく影響えいきょうあたえた。

演劇えんげき[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ John H. Mundy, Europe in the High Middle Ages, 1150-1309 Harlow, England, Longman (2000) ISBN 0-582-36987-8
  2. ^ In Pace, E. A. (1922). The Catholic encyclopedia: An international work of reference on the constitution, doctrine, discipline and history of the Catholic Church. New York: Encyclopedia Press. 501
  3. ^ Thomas, J. S. (1903). The Middle Ages
  4. ^ Shahan, T. J. (1904). The middle ages, sketches and fragments. New York: Benziger Brothers
  5. ^ Strayer, J. R. (1982). Dictionary of the Middle Ages. New York: Scribner
  6. ^ Leonardo Bruni, James Hankins, History of the Florentine people, Volume 1, Books 1–4, (2001), p. xvii.
  7. ^ Mann, Michael E.; Zhang, Zhihua; Rutherford, Scott; Bradley, Raymond S.; Hughes, Malcolm K.; Shindell, Drew; Ammann, Caspar; Faluvegi, Greg et al. (2009). "Global Signatures and Dynamical Origins of the Little Ice Age and Medieval Climate Anomaly".
  8. ^ ひがしヨーロッパ同様どうようアンダルスイフリーキヤエジプトのムスリム領域りょういきのように
  9. ^ たとえばアルビジョア十字軍じゅうじぐんAragonese Crusadeレコンキスタ北方ほっぽう十字軍じゅうじぐん
  10. ^ Halsall, Paul (1997ねん12がつ). “Philip de Novare: Les Gestes des Ciprois, The Crusade of Frederick II, 1228–29”. Medieval Sourcebook. Fordham University. 2008ねん2がつ8にち閲覧えつらん—"Gregory IX had in fact excommunicated Frederick before he left Sicily the second time"
  11. ^ The Gospel in All Lands By Methodist Episcopal Church Missionary Society, Missionary Society, Methodist Episcopal Church, pg. 262
  12. ^ Franklin , J., "The Renaissance myth", Quadrant 26 (11) (Nov, 1982), 51-60. (Retrieved on-line at 06-07-2007)
  13. ^ John M. Hobson (2004), The Eastern Origins of Western Civilisation, p. 141, Cambridge University Press, ISBN 0521547245.

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]