鉄器てっき時代じだい

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鉄器てっき時代じだいのケルトの銀器ぎんき (グンデストルブのだいなべ)
てつつくられた中国ちゅうごくかんだいかたなかんくびがたな)、はげしく腐朽ふきゅうしている

鉄器てっき時代じだい(てっきじだい)は、デンマーククリスチャン・トムセン提唱ていしょうした歴史れきし区分くぶんほうの1つ。おも利用りようされていた道具どうぐ材料ざいりょう時代じだいを、石器せっき時代じだい青銅器せいどうき時代じだい鉄器てっき時代じだいと3つに区分くぶんするさん時代じだい時期じきほう採用さいようし、鉄器てっき時代じだいはそのなか最後さいご時代じだい相当そうとうする。

定義ていぎ[編集へんしゅう]

鉄器てっき時代じだい定義ていぎとしては、青銅せいどう利用りようした青銅器せいどうきわりにてつ利用りようした鉄器てっき主要しゅよう道具どうぐとして使つかわれていること条件じょうけんとなっている。

この分類ぶんるいほうさきヨーロッパ前提ぜんていにして提唱ていしょうされている。ヨーロッパ、中東ちゅうとう、インド、中国ちゅうごくなどの地域ちいきでは時代じだい区分くぶんすることが可能かのうだが、たとえば日本にっぽんやサハラ以南いなんアフリカにおいては青銅器せいどうき鉄器てっき同時どうじつたわり、石器せっき時代じだいから青銅器せいどうき時代じだいえていきなり鉄器てっき時代じだいはいるため、ぜん世界せかいてき万能ばんのう区分くぶんほうとはえない。

てつ精製せいせい技術ぎじゅつ[編集へんしゅう]

初期しょき製鉄せいてつない木炭もくたん鉱石こうせき層状そうじょうそういれして(ふいご)で空気くうきおくって燃焼ねんしょうさせ、一酸化いっさんか炭素たんそてつ結合けつごうしている酸素さんそうばって二酸化炭素にさんかたんそとなり金属きんぞくてつになる。この化学かがく反応はんのう必要ひつよう温度おんどは400から800ほどで、温度おんどひくければ固体こたいのまま還元かんげんされて酸素さんそうしなったあなだらけの海綿かいめんじょうてつになり、かたいもののうえ赤熱しゃくねつのままたたいて不純物ふじゅんぶつしぼし、てつ原子げんしどうしをくっつけなおすことで純粋じゅんすいてつにすることができる。これが「きたえる」という操作そうさである。さらすみつつんで炭素たんそぶんくわえてきたえることで「はがね」が精製せいせいできる。

鉄器てっき時代じだい特徴とくちょう[編集へんしゅう]

鉄器てっき原料げんりょうとなる砂鉄さてつ鉄鉱てっこうせきなどは青銅器せいどうき原料げんりょうである銅鉱どうこうせきやスズ鉱石こうせきにくらべて偏在へんざいすくなく、世界せかいおおくの地域ちいきにおいて容易ようい入手にゅうしゅ可能かのうなものであった。このため、鉄器てっき製造せいぞう可能かのうになると世界せかい各地かくちでその土地とち原料げんりょうによって製鉄せいてつこころみられるようになり、金属きんぞく増産ぞうさんをもたらした。またてつ加工かこう容易よういなうえに強度きょうどつよく、武器ぶき農具のうぐなどの原料げんりょうとしててきしていたため、製法せいほうつたわった地域ちいきにおいてはどこも青銅せいどうわっててつ金属きんぞく中心ちゅうしんえるようになった。ただし青銅せいどうまった使つかわれなくなったわけではなく、青銅器せいどうき祭器さいき装飾そうしょくひんなどに使用しようされるようになっていった。てつ農具のうぐ武器ぶき量産りょうさんされるようになると、農作物のうさくもつなどの生産せいさんりょう増大ぞうだいしてとみ蓄積ちくせき一層いっそうすすみ、また各地かくちおうがより強力きょうりょく軍事ぐんじりょく保持ほじするようになっていった。やがて蓄積ちくせきされたとみ武力ぶりょく周辺しゅうへん地域ちいき統合とうごうへとかい、オリエントにおいてははつ統一とういつ帝国ていこくであるアケメネスあさペルシア帝国ていこく成立せいりつし、インドにおいてもじゅうろく大国たいこくなどの王朝おうちょうぐん成立せいりつしたのちそのうちのひとつであるマガダこく強大きょうだいしてマウリヤあさによって統一とういつされ、中国ちゅうごくにおいても春秋しゅんじゅう戦国せんごく時代じだいはた王朝おうちょうによる中国ちゅうごく統一とういつげられ、それにつづかん王朝おうちょう前漢ぜんかんこうかん)によって中国ちゅうごく統一とういつ状態じょうたい固定こていされるなど、各地かくち強大きょうだい統一とういつ王朝おうちょう成立せいりつするようになった。また、これら先進地せんしんちたいにおいては社会しゃかい複雑ふくざつすすんだため、思想しそう体系たいけい確立かくりつすすみ、哲学てつがくてきに「枢軸すうじく時代じだい」とばれる、紀元前きげんぜん500ねんごろの世界せかい同時どうじ思想しそうてき一大いちだい変動へんどうきることとなった。このほか、青銅器せいどうき時代じだいにおいては国家こっか形成けいせいしていなかったヨーロッパや中央ちゅうおうアジアステップ地帯ちたい、サハラ以南いなんアフリカや日本にっぽんなどにおいても、鉄器てっき普及ふきゅうによるとみ増大ぞうだい偏在へんざい権力けんりょく集中しゅうちゅううながし、国家こっか成立せいりつしていくようになった。

鉄器てっき発明はつめい伝播でんぱ[編集へんしゅう]

てつ利用りよう鉄器てっき時代じだい開幕かいまくよりもはるかにふるく、紀元前きげんぜん3000ねんごろにはすでにメソポタミアでてつられており、アフリカにおける冶金やきん英語えいごばん紀元前きげんぜん3000ねんから紀元前きげんぜん2500ねんころさかのぼるとわれる。ただしもっとも初期しょきには融点ゆうてんたかいために鉄鉱てっこうせきからてつ精錬せいれんすることはできず、もっぱら隕鉄てつ材料ざいりょうとしていた。その、エジプトなどでも出土しゅつどれいがみられるが、精錬せいれんむずかしさや隕鉄の希少きしょうせいなどから利用りようおおくなく、武器ぶき農具のうぐとしての利用りよう青銅せいどうしゅとしていた。

最初さいしょ鉄器てっき文化ぶんか紀元前きげんぜん15世紀せいきごろにあらわれたヒッタイトとされている。ヒッタイトの存在そんざいしたアナトリア高原こうげんにおいては鉄鉱てっこうせきからの製鉄せいてつほうがすでに開発かいはつされていたが、ヒッタイトは紀元前きげんぜん1400ねんごろにすみ使つかっててつ鍛造たんぞうすることによってはがね開発かいはつ[1]てつ主力しゅりょくとした最初さいしょ文化ぶんかつくげた。ヒッタイトはその高度こうど製鉄せいてつ技術ぎじゅつ強力きょうりょく武器ぶきにし、オリエント強国きょうこくとしてエジプトなどと対峙たいじする大国たいこくとなった。そのてつ製法せいほう国家こっか機密きみつとして厳重げんじゅう秘匿ひとくされており、周辺しゅうへん民族みんぞくつたわることかった。しかしぜん1200ねんのカタストロフき、ヒッタイトが紀元前きげんぜん1190ねんころうみみん襲撃しゅうげきにより滅亡めつぼうするとその製鉄せいてつ秘密ひみつ周辺しゅうへん民族みんぞくわたことになり、エジプトメソポタミア地方ちほう鉄器てっき時代じだいはじまることになる。カタストロフによってオリエントの主要しゅよう勢力せいりょくはほぼ滅亡めつぼうするが、その勃興ぼっこうした、あるいはのこった諸国しょこくはすべて鉄器てっき製造せいぞう技術ぎじゅつそなえていた。同様どうようのことはゲ海げかい地方ちほうにおいてもきた。紀元前きげんぜん1200ねんごろにギリシア北方ほっぽうから製鉄せいてつ技術ぎじゅつドーリアじん侵入しんにゅうし、ミケーネ文明ぶんめいしょ都市としやその構成こうせいいんであったアイオリスじんイオニアじん駆逐くちくしながらギリシアへと定住ていじゅうした。この時代じだい文字もじによる資料しりょううしなわれていることから暗黒あんこく時代じだいばれるが、一方いっぽうでアイオリスじんやイオニアじんふくぜんギリシアに鉄器てっき製造せいぞう技術ぎじゅつ伝播でんぱしたのもこの時代じだいのことである。[よう検証けんしょう]

ひがしアフリカとみなみアフリカにおける初期しょき鉄器てっき時代じだい時期じき

いったん拡散かくさん開始かいしされると、製鉄せいてつ技術ぎじゅつはかなりの速度そくどきゅう大陸たいりく各地かくち伝播でんぱしていった。アフリカにおいては、紀元前きげんぜん5世紀せいきごろにはナイジェリア中央ちゅうおうのジョス高原こうげんノク文化ぶんか成立せいりつしたが、この文化ぶんか溶鉱炉ようこうろによるてつ精練せいれんおこなっており、また、高炉こうろより以前いぜんからあった紀元前きげんぜん7世紀せいきから紀元前きげんぜん6世紀せいきブルマリーBloomery)も発見はっけんされている。またどう時期じきスーダンメロエにおいても大量たいりょう製鉄せいてつおこなわれていた。このアフリカへの製鉄せいてつ伝播でんぱルートとしては、メロエからアフリカ全土ぜんどへと製鉄せいてつほうつたえられたというせつと、メロエと西にしアフリカどう時期じきべつルートで製鉄せいてつほうつたえられ、それが伝播でんぱしていったとのせつ、それに西にしアフリカで独自どくじ製鉄せいてつほう開発かいはつされたとのせつがある[2]。かつてはだいいちせつ有力ゆうりょくであったが、西にしアフリカにおける製鉄せいてつ開始かいし年代ねんだいがかなりふるいとかんがえられることや、メロエと西にしアフリカの製鉄せいてつほうがまったくことなることから現在げんざいでは有力ゆうりょくせつとはえない。また、サハラ以南いなんアフリカにおいては青銅器せいどうき鉄器てっきとともに拡散かくさんしており、単独たんどく青銅器せいどうき時代じだいがなく石器せっき時代じだいから直接ちょくせつ鉄器てっき時代じだい移行いこうしたのも特色とくしょくである。また、紀元前きげんぜん1500ねんごろから急速きゅうそく移動いどう拡大かくだいつづけていたバントゥーけい民族みんぞくにも鉄器てっき製造せいぞう技術ぎじゅつ受容じゅようされ、紀元前きげんぜん3世紀せいきごろにはヴィクトリアほとりたっした[3]。この地域ちいきはバントゥーけい民族みんぞくだい拡散かくさん中心ちゅうしんであり、ここからひがしアフリカ中部ちゅうぶアフリカ南部なんぶアフリカへと鉄器てっき文明ぶんめい急速きゅうそく拡大かくだいした。

ヨーロッパにおいては、地中海ちちゅうかい沿岸えんがんイタリア半島はんとう中部ちゅうぶには紀元前きげんぜん1100ねんごろからヴィラ・ノーヴァ文化ぶんかさかえ、紀元前きげんぜん750ねんごろからこの文化ぶんか都市とし形成けいせいしてエトルリアしょ都市とし成立せいりつした。中央ちゅうおうヨーロッパにおいては青銅器せいどうき文明ぶんめい後期こうき段階だんかいにあったハルシュタット文化ぶんか紀元前きげんぜん800ねんごろに鉄器てっきれ、紀元前きげんぜん450ねんごろからはかわってラ・テーヌ文化ぶんかさかえるようになった。インドにおいての鉄器てっき時代じだいふるく、紀元前きげんぜん1200ねんごろには開始かいしされたとかんがえられている。ウクライナから中央ちゅうおうアジア草原そうげん地帯ちたいにおいては紀元前きげんぜん800ねんごろからスキタイ勢力せいりょくつようになるが、スキタイは鉄器てっき技術ぎじゅつっていた。

中国ちゅうごくにおいては、いんだい遺跡いせきにおいてすで鉄器てっき発見はっけんされているものの、これはシュメールなどとおなじくそれほど利用りようされていたわけではなく、おも使用しようされていたのはあくまでも青銅器せいどうきであった。本格ほんかくてき製鉄せいてつ開始かいしされたのは春秋しゅんじゅう時代じだい中期ちゅうきにあたる紀元前きげんぜん600ねんごろであり、戦国せんごく時代じだいになって鉄製てつせい武器ぶき使つかわれるようになった。

一方いっぽうひがしアジア北部ほくぶでは中国ちゅうごくよりもはやくに鉄器てっきつたわり、沿海州えんかいしゅうでは紀元前きげんぜん1000ねんごろ鉄器てっき時代じだいむかえている。

日本にっぽん鉄器てっき時代じだい[編集へんしゅう]

日本にっぽん発掘はっくつされたもっとふる鉄器てっきは、弥生やよい時代じだい初期しょき紀元前きげんぜん10世紀せいきごろ)のものとされ、福岡ふくおかけん糸島いとしま二丈にじょうまち石崎いしざきがり遺跡いせき出土しゅつどした鋳造ちゅうぞういたじょう鉄器てっきである[4]石崎いしざきがり遺跡いせきは1979ねん発掘はっくつ調査ちょうさにより、稲作いなさくはじまりを裏付うらづける土器どきぐん石器せっき竪穴たてあな建物たてものささえせきはかかんはかなどが発掘はっくつされ、従来じゅうらいかんがえられていたよりもさらにふる時期じきからわがくに鉄器てっき使用しようされていた可能かのうせいたかまった。

埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した稲荷山古墳出土鉄剣(国宝) 埼玉県立さきたま史跡の博物館展示。左は表面、右は裏面。471年製造と考えられている 埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した稲荷山古墳出土鉄剣(国宝) 埼玉県立さきたま史跡の博物館展示。左は表面、右は裏面。471年製造と考えられている
埼玉さいたま県立けんりつさきたま史跡しせき博物館はくぶつかん展示てんじひだり表面ひょうめんみぎ裏面りめん471ねん製造せいぞうかんがえられている

日本にっぽんは、弥生やよい時代じだい青銅器せいどうき鉄器てっきがほぼ同時どうじ流入りゅうにゅうしており、こころざし(「しょだい30かん烏丸からすま鮮卑東夷あずまえびすでん倭人わじんじょう)』などによればその材料ざいりょう器具きぐはもっぱら輸入ゆにゅうたよっており[よう出典しゅってん]日本にっぽん純粋じゅんすい砂鉄さてつ鉄鉱てっこうせきから鉄器てっき製造せいぞう出来できるようになったのはたたら製鉄せいてつ原型げんけいとなる製鉄せいてつ技術ぎじゅつ朝鮮半島ちょうせんはんとうから伝来でんらいし、確立かくりつした6世紀せいき古墳こふん時代じだいはいってからとのかんがえが一般いっぱんてきであった。製鉄せいてつ遺跡いせき中国ちゅうごく地方ちほう中心ちゅうしん北九州きたきゅうしゅうから近畿きんき地方ちほうにかけて存在そんざいする。7世紀せいき以降いこう関東かんとう地方ちほうから東北とうほく地方ちほうにまで普及ふきゅうする。日本にっぽんにおいては鉄器てっき青銅器せいどうきがほぼ同時どうじ伝来でんらいしたため、耐久たいきゅうせい鋭利えいりさにおと青銅器せいどうき祭器さいきとしての利用りようおもとなり、鉄器てっきはもっぱら農具のうぐ武器ぶきといった実用じつよう道具どうぐ使用しようされることとなった。

鉄器てっき時代じだいおとずれなかった地域ちいき[編集へんしゅう]

鉄器てっききゅう大陸たいりくのオリエント地域ちいき出現しゅつげんし、そこから世界せかい各地かくちへと伝播でんぱしていったため、この地域ちいき接触せっしょくのない文化ぶんかにおいては鉄器てっき製造せいぞう技術ぎじゅつ伝播でんぱせず、鉄器てっき時代じだいむかえることはなかった。代表だいひょうてき鉄器てっき文明ぶんめいとしては、新大陸しんたいりくのすべての文明ぶんめいげられる。アステカ帝国ていこくマヤ文明ぶんめい代表だいひょうされるメソアメリカ文明ぶんめいも、インカ帝国ていこく代表だいひょうされるアンデス文明ぶんめいも、青銅器せいどうき利用りようすら装飾そうしょくひんとしての利用りようにとどまり、金属きんぞく加工かこうレベルとしては金石かねいし併用へいよう時代じだいにとどまっていて、製鉄せいてつ技術ぎじゅつ開発かいはつすることはなかった[5]南北なんぼくアメリカ大陸あめりかたいりく鉄器てっき到達とうたつするのは15世紀せいきすえのヨーロッパじん大西洋たいせいよう横断おうだんたねばならず、そのりょう文明ぶんめい滅亡めつぼうまで鉄器てっき製造せいぞう技術ぎじゅつれることはなかった。鉄器てっき装備そうびしたスペインじんいちたいによってりょう文明ぶんめいほろぼされたのち、やってきたヨーロッパからの植民しょくみんしゃたちによってはじめて新大陸しんたいりく鉄器てっき普及ふきゅうすることとなった。また、太平洋たいへいようひろがったポリネシアじん文明ぶんめいも、しょう島嶼とうしょぐんという地域ちいき特性とくせいじょう鉄鉱てっこうせき鉱脈こうみゃくがほぼ存在そんざいしなかったために金属きんぞくれることができず、ヨーロッパじんとの接触せっしょくまでしん石器せっき時代じだい技術ぎじゅつレベルにとどまった[6]

時代じだい区分くぶん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 文明ぶんめい誕生たんじょう」p128-129 小林こばやし登志子としこ 中公新書ちゅうこうしんしょ 2015ねん6がつ25にち発行はっこう
  2. ^ 新書しんしょアフリカだい8はん宮本みやもとただしきょう松田まつだもとへん)、2003ねん2がつ20日はつか講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ)p126
  3. ^ 新書しんしょアフリカだい8はん宮本みやもとただしきょう松田まつだもとへん)、2003ねん2がつ20日はつか講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ)p60
  4. ^ 藤尾ふじお慎一郎しんいちろう. “AMS-すみ もと14年代ねんだい測定そくていほうあきらかにした日本にっぽんてつ歴史れきし”. 2022ねん5がつ23にち閲覧えつらん
  5. ^ 「マヤ文明ぶんめい 密林みつりんさかえた石器せっき文化ぶんか」p21 青山あおやま和夫かずお 岩波いわなみ新書しんしょ 2012ねん4がつ20日はつかだい1さつ
  6. ^ 「オセアニアを事典じてん平凡社へいぼんしゃ p269 1990ねん8がつ21にち初版しょはんだい1さつ

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]