前 ぜん 1200年 ねん の地中海 ちちゅうかい 東部 とうぶ
前 ぜん 1200年 ねん のカタストロフ[注釈 ちゅうしゃく 1] (ぜん1200ねんのカタストロフ、英語 えいご : Late Bronze Age collapse )とは、地中海 ちちゅうかい 東部 とうぶ を席巻 せっけん した大 だい 規模 きぼ な社会 しゃかい 変動 へんどう のこと。この社会 しゃかい 変動 へんどう の後 のち 、当時 とうじ 、ヒッタイト のみが所有 しょゆう していた鉄器 てっき の生産 せいさん 技術 ぎじゅつ が地中海 ちちゅうかい 東部 とうぶ の各地 かくち や西 にし アジア に広 ひろ がることにより、青銅器 せいどうき 時代 じだい は終焉 しゅうえん を迎 むか え、鉄器 てっき 時代 じだい が始 はじ まった。
その原因 げんいん は諸説 しょせつ あるが、この社会 しゃかい 変動 へんどう の発生 はっせい により、分裂 ぶんれつ と経済 けいざい 衰退 すいたい が東 ひがし 地中海 ちちゅうかい を襲 おそ い、各地 かくち において新 あら たな時代 じだい を生 う み出 だ した[8] 。
紀元前 きげんぜん 1200年 ねん ごろ、環 たまき 東 ひがし 地中海 ちちゅうかい を席巻 せっけん する大 だい 規模 きぼ な社会 しゃかい 変動 へんどう が発生 はっせい した。現在 げんざい 、「前 ぜん 1200年 ねん のカタストロフ(破局 はきょく とも)」と呼 よ ばれるこの災厄 さいやく は、古代 こだい エジプト 、西 にし アジア、アナトリア半島 はんとう 、クレタ島 とう 、ギリシャ 本土 ほんど を襲 おそ った。この災厄 さいやく の内実 ないじつ については諸説 しょせつ 存在 そんざい しており、いまだに結論 けつろん を得 え ていない。
気候 きこう の変動 へんどう により西 にし アジア一帯 いったい で経済 けいざい システムが崩壊 ほうかい 、農産物 のうさんぶつ が確保 かくほ できなくなったとする説 せつ 、エジプト、メソポタミア 、ヒッタイトらが密接 みっせつ に関連 かんれん していたが、ヒッタイトが崩壊 ほうかい したことでドミノ倒 だお し的 てき に諸国 しょこく が衰退 すいたい したとする説 せつ などが存在 そんざい する。地震 じしん によって崩壊 ほうかい したとする説 せつ は環 かん 東 ひがし 地中海 ちちゅうかい 全体 ぜんたい の崩壊 ほうかい ではなく、特定 とくてい の国 くに にのみ考 かんが えられており、少 すく なくともミケーネ時代 じだい のティリンス ではドイツ考古学 こうこがく 研究所 けんきゅうじょ (en ) の調査 ちょうさ によれば激 はげ しい地震 じしん 活動 かつどう が発生 はっせい したことが確認 かくにん されている[9] 。
この災厄 さいやく についてフェルナン・ブローデル の分析 ぶんせき によれば
ヒッタイトの崩壊 ほうかい
エジプトにおける海 うみ の民 みん の襲撃 しゅうげき
ギリシャのミケーネ文明 ぶんめい の崩壊 ほうかい
以上 いじょう の3項目 こうもく に分 わ けることができる。また、このカタストロフを切 き っ掛 か けに東 ひがし 地中海 ちちゅうかい に鉄 てつ が広 ひろ がることになる[10] 。
ウガリット のラス・シャムラ遺跡 いせき で発見 はっけん された文書 ぶんしょ によれば、ヒッタイトの崩壊 ほうかい は前 まえ 12世紀 せいき 初頭 しょとう とされている。このラス・シャムラ遺跡 いせき を発掘 はっくつ したクロード・A・シェッフェル (en ) によれば、海 うみ の民 みん が沿岸 えんがん を進 すす み小 しょう アジアを横断 おうだん 、ヒッタイトとその同盟 どうめい 国 こく へ攻撃 こうげき を仕掛 しか けキプロス 、シチリア 、カルケミシュ 、ウガリットへ手 て を伸 の ばしたとされている。ただし、アナトリア内陸 ないりく 部 ぶ にあるハットゥシャ にはその痕跡 こんせき は残 のこ っていない[注釈 ちゅうしゃく 2] [12] 。
また、ヒッタイトの最後 さいご の王 おう シュッピルリウマ2世 せい がウガリットの支援 しえん を受 う けた上 うえ で海 うみ の民 みん に勝利 しょうり したというエピソードも残 のこ されているが、これは侵入 しんにゅう 者 しゃ がヒッタイトを分断 ぶんだん して崩壊 ほうかい へ導 みちび いたことを否定 ひてい する材料 ざいりょう にもならず、トラキア からフリュギア人 じん らがヒッタイトを攻 せ め滅 ほろ ぼした可能 かのう 性 せい もフリュギア人 じん らがヒッタイトの大都市 だいとし が崩壊 ほうかい したのちにアナトリアへ至 いた っていることから余 あま り高 たか くない[12] 。
ヒッタイトの崩壊 ほうかい には2つの仮説 かせつ が存在 そんざい しており、侵入 しんにゅう 者 しゃ がハットゥシャ、カニシュ (en ) などあらゆる建物 たてもの に火 ひ を放 はな ったとする説 せつ 。ヒッタイトは内部 ないぶ と近隣 きんりん 地域 ちいき から崩壊 ほうかい したあと、アッシリア の攻撃 こうげき を受 う けたことによりウガリットを代表 だいひょう とする属国 ぞっこく 、同盟 どうめい 国 こく が離反 りはん 、さらには深刻 しんこく な飢饉 ききん のために弱体 じゃくたい 化 か して崩壊 ほうかい したとする説 せつ である。シェッフェルによれば後者 こうしゃ の説 せつ には裏 うら づけがあり、ウガリット、ハットゥシャで発見 はっけん された文書 ぶんしょ によればヒッタイト最後 さいご の王 おう 、シュッピルリウマ2世 せい は「国中 くになか の船 ふね を大 だい 至急 しきゅう 、全 すべ て回 まわ す」よう命令 めいれい しており、オロンテス川 がわ 流域 りゅういき の小麦 こむぎ をキリキア へ運 はこ ぶのと同時 どうじ に、王 おう 、その家族 かぞく 、軍隊 ぐんたい を移動 いどう させようとしていた。これはシュッピルリウマ2世 せい が首都 しゅと を捨 す てようとしていたことが考 かんが えられ、これについてシェッフェルは旱魃 かんばつ と地震 じしん により、ヒッタイトに繰 く り返 かえ し飢餓 きが が発生 はっせい していたと分析 ぶんせき している[12] 。
さらにシェッフェルによればトルコのアナトリア地方 ちほう は地震 じしん 群発 ぐんぱつ 地帯 ちたい であり、地震 じしん により火災 かさい が発生 はっせい したことで各 かく 都市 とし に火災 かさい の跡 あと が残 のこ っているとしており、ウガリット時代 じだい の地層 ちそう は稀 まれ に見 み るぐらいの激震 げきしん で揺 ゆ さぶられていたとしている[12] 。
また、前者 ぜんしゃ の説 せつ はギリシャ北部 ほくぶ から移住 いじゅう したフリュギア人 じん 、エ え ーゲ海 げかい より侵入 しんにゅう した人々 ひとびと 、いわゆる「海 うみ の民 みん 」らがヒッタイトへ侵入 しんにゅう 、ヒッタイト滅亡 めつぼう の最大 さいだい の要因 よういん となったと推測 すいそく している説 せつ も否定 ひてい されているわけではない[11] 。
エジプトにおける海 うみ の民 みん の襲撃 しゅうげき [ 編集 へんしゅう ]
エジプト第 だい 19王朝 おうちょう 末期 まっき 、エジプトにはマシュワシュ族 ぞく (en ) 、リブ族 ぞく と呼 よ ばれる人々 ひとびと が定住 ていじゅう しつつあった。彼 かれ らはリビュア のキュレネ からの移民 いみん であったが、エジプトの支配 しはい の及 およ ばない地域 ちいき であった。当時 とうじ の王 おう 、ラムセス2世 せい はこれを警戒 けいかい して砦 とりで を築 きず くなどの対策 たいさく を採 と っていたが、マシュワシュ族 ぞく などは商業 しょうぎょう 活動 かつどう でエジプトと関係 かんけい していたため、さほど問題 もんだい は生 しょう じておらず[13] 、ラムセス2世 せい がヒッタイトと激戦 げきせん を交 か わしたカデシュの戦 たたか い の際 さい には傭兵 ようへい として後 のち に「海 うみ の民 みん 」と呼 よ ばれるシェルデン人 じん (en ) も参加 さんか している[14] 。
しかし、メルエンプタハ王 おう が即位 そくい すると風向 かざむ きが変 か わった。「イスラエル石碑 せきひ (英語 えいご 版 ばん ) 」によるとエジプトで大 だい 規模 きぼ な飢饉 ききん が発生 はっせい したことで、メルエンプタハはリビュア人 じん らを追 お い返 かえ し、1万 まん 人 にん 近 ちか くを切 き り殺 ころ した。さらに非 ひ リビュア系 けい のシェルデン、シェケレシュ、トゥレシュ (en ) 、ルッキ (en ) らの部族 ぶぞく も侵入 しんにゅう を開始 かいし したが、これら移民 いみん らの侵入 しんにゅう は第 だい 20王朝 おうちょう のラムセス3世 せい によってからくも撃退 げきたい された[13] 。
しかし、ラムセス3世 せい の治世 ちせい 、さらなる問題 もんだい が生 しょう じた。この問題 もんだい はリビュアなどの西側 にしがわ ではなくヒッタイト 、シリア など東側 ひがしがわ から生 しょう じた。これがいわゆる「海 うみ の民 みん 」による襲撃 しゅうげき であった。ただし、この「海 うみ の民 みん 」は一部 いちぶ の部族 ぶぞく のことではなく、少数 しょうすう 民族 みんぞく が集 あつ まって部族 ぶぞく 連合 れんごう を組織 そしき したものであったが、彼 かれ らはラムセス3世 せい によって撃退 げきたい された[13] 。これらについてロバート・モアコット (en ) によれば全 すべ ての部族 ぶぞく がリビュアと関係 かんけい しており、さらに少 しょう 人数 にんずう であったとしており、これらはリビュアに雇 やと われた傭兵 ようへい 隊 たい であった可能 かのう 性 せい を指摘 してき している[8] 。
さらに「海 うみ の民 みん 」らの侵入 しんにゅう はエジプトに留 と まらず、シリアの諸 しょ 都市 とし 、ウガリット 、エマル も破壊 はかい された。そしてこの中 なか でもパレスチナ には「海 うみ の民 みん 」の一派 いっぱ であるペリシテ人 じん らが定住 ていじゅう することになった。旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ 上 うえ では否定 ひてい 的 てき に描 えが かれた彼 かれ らは実際 じっさい には優 すぐ れた都市 とし 建築 けんちく 者 しゃ で鉄器 てっき の製造 せいぞう 者 しゃ であり、移住 いじゅう 先 さき に先進 せんしん 的 てき 物質 ぶっしつ 文化 ぶんか が持 も ち込 こ まれた[15] 。
ミケーネ文明 ぶんめい の崩壊 ほうかい [ 編集 へんしゅう ]
紀元前 きげんぜん 13世紀 せいき 、ミケーネ文明 ぶんめい は繁栄 はんえい していた。しかし、災厄 さいやく の予兆 よちょう を感 かん じていたのかギリシャ本土 ほんど の諸 しょ 都市 とし は城壁 じょうへき を整 ととの えており、アテナイ やミケーネ では深 ふか い井戸 いど が掘 ほ られ、まさに篭城 ろうじょう 戦 せん に備 そな えているようであった。また、コリントス地峡 ちきょう では長大 ちょうだい な城壁 じょうへき が整 ととの えられ、ミケーネ文明 ぶんめい の諸 しょ 都市 とし はある脅威 きょうい に備 そな えていたと考 かんが えられる[16] 。
ミケーネ文明 ぶんめい の諸 しょ 都市 とし 、ミケーネ、ピュロス、ティリンス は紀元前 きげんぜん 1230年 ねん ごろに破壊 はかい されており、この中 なか では防衛 ぼうえい のために戦 たたか ったと思 おも われる兵士 へいし の白骨 はっこつ が発見 はっけん された。この後 のち 、これらの諸 しょ 都市 とし は打 う ち捨 す てられており、ミケーネ人 じん がいずれかに去 さ ったことが考 かんが えられる。このことに対 たい してペア・アーリンは陶器 とうき を調査 ちょうさ した上 うえ でミケーネの人々 ひとびと はペロポネソス半島 はんとう 北部 ほくぶ の山岳 さんがく 地帯 ちたい 、アカイア に逃 に げ込 こ んだとしており、アルゴリス 、南 みなみ メッセリア 、ラコニア を放棄 ほうき してアカイア、エウボイア 、ボイオティア に移動 いどう したとしている[17] 。
また、クレタ島 とう にもミケーネ人 じん らが侵入 しんにゅう したと考 かんが えられており、ケファレニア島 とう 西岸 せいがん 、ロドス島 とう 、コス島 とう 、カリムノス島 とう 、キプロス島 とう に移動 いどう している[注釈 ちゅうしゃく 3] 。これらミケーネ人 じん の移動 いどう により、ミケーネ文明 ぶんめい は崩壊 ほうかい した[17] 。
この民族 みんぞく 移動 いどう にはさまざまな意見 いけん がある。ドーリア人 じん らが移動 いどう する以前 いぜん にインド・ヨーロッパ語族 ごぞく がギリシャに侵入 しんにゅう していたとする説 せつ 、次 つぎ に侵入 しんにゅう など存在 そんざい しなかったとする説 せつ [18] 、そして海 うみ の民 みん の侵入 しんにゅう という説 せつ である[19] 。
そして、ミケーネ文明 ぶんめい の崩壊 ほうかい についても諸説 しょせつ 存在 そんざい する。文化 ぶんか 的 てき な衰退 すいたい が始 はじ まったためにミケーネ文化 ぶんか が「バルバロイ 」によって征服 せいふく されたとする説 せつ は19世紀 せいき 後半 こうはん 、文化 ぶんか 的 てき 退廃 たいはい 理論 りろん が発達 はったつ した時代 じだい では人気 にんき があった。また、「海 うみ の民 みん 」の襲撃 しゅうげき によって東 ひがし 地中海 ちちゅうかい 諸国 しょこく が荒 あ らされた際 さい にミケーネもそれに巻 ま き込 こ まれ滅亡 めつぼう したとする説 せつ も19世紀 せいき には主流 しゅりゅう であった[9] 。
これはインド・ヨーロッパ語族 ごぞく であるイリュリア人 じん がバルカン半島 ばるかんはんとう に侵入 しんにゅう したために先住民 せんじゅうみん がアナトリア、ギリシャへ追 お いやられた。そしてさらにフリュギア人 じん らがヒッタイトを滅 ほろ ぼしたことで、このあおりを受 う けてアナトリアから追 お い出 だ された人々 ひとびと が「海 うみ の民 みん 」であり、この海 うみ の民 みん はキプロス、シリア、パレスチナを襲 おそ いさらに南下 なんか したがエジプトで撃退 げきたい されたとする。この説 せつ はガストン・マスペロ によって主張 しゅちょう されたものであるが、都合 つごう の良 よ い理論 りろん であり現在 げんざい では主流 しゅりゅう ではなく[8] 、さらに宮殿 きゅうでん こそ打 う ち捨 す てられているが、都市 とし 部 ぶ にはその跡 あと が見 み られず、侵入 しんにゅう 者 しゃ が定住 ていじゅう したことを疑問 ぎもん 視 し する声 こえ もある。そしてリース・カーペンター (en ) によれば、侵入 しんにゅう 者 しゃ などは存在 そんざい せず、ミケーネ文明 ぶんめい が崩壊 ほうかい したのは自然 しぜん の影響 えいきょう による破局 はきょく であるとしている[20] 。
そして「海 うみ の民 みん 」の侵入 しんにゅう とする説 せつ は、北方 ほっぽう で発生 はっせい した民族 みんぞく 移動 いどう によって、故 こ 地 ち を追 お い出 だ された古 こ 地中海 ちちゅうかい 人種 じんしゅ やインド・ヨーロッパ語族 ごぞく に属 ぞく する人々 ひとびと など、いろいろな要素 ようそ を持 も った人々 ひとびと が集団 しゅうだん を形成 けいせい してギリシャへ侵入 しんにゅう したとする説 せつ である。これらについては証拠 しょうこ も乏 とぼ しく、また、海 うみ の民 みん 自体 じたい も侵入 しんにゅう した先 さき の人々 ひとびと と融合 ゆうごう することにより速 すみ やかに姿 すがた を消 け したとしている[21] 。
暗黒 あんこく の時代 じだい と復興 ふっこう [ 編集 へんしゅう ]
地中海 ちちゅうかい 東部 とうぶ を襲 おそ う暗黒 あんこく の影 かげ と製鉄 せいてつ 技術 ぎじゅつ の拡散 かくさん [ 編集 へんしゅう ]
前 ぜん 1200年 ねん のカタストロフを迎 むか えた環 たまき 地中海 ちちゅうかい 地帯 ちたい は低迷 ていめい 期 き を迎 むか える。特 とく にギリシャの衰退 すいたい は激 はげ しかった。それまで使用 しよう されていた線 せん 文字 もじ B は忘 わす れ去 さ られ、芸術 げいじゅつ 品 ひん 、壁画 へきが 、ありとあらゆる文化 ぶんか 的 てき なものが失 うしな われ、それまで華 はな やかであった土器 どき も単純 たんじゅん な絵柄 えがら である幾何 きか 学 がく 文様 もんよう と化 か した[22] 。
アナトリアではヒッタイト帝国 ていこく が崩壊 ほうかい し、エジプト では全 すべ ての保護 ほご 領 りょう が失 うしな われ王権 おうけん は失墜 しっつい しはじめた。メソポタミアでも闇 やみ を迎 むか え、好戦 こうせん 的 てき なアッシリア帝国 ていこく もその影響 えいきょう を受 う けながら、からくも生 い き残 のこ っていた。そして環 かん 東 ひがし 地中海 ちちゅうかい 地帯 ちたい を数 すう 世紀 せいき に渡 わた る後退 こうたい 期 き が包 つつ み込 こ むことになる。しかし、ヒッタイト帝国 ていこく が崩壊 ほうかい したことで、キリキア 、シリア 北部 ほくぶ で行 おこな っていたと考 かんが えられている鉄 てつ の浸炭 しんたん は海 うみ の民 みん の動乱 どうらん により各地 かくち へ広 ひろ がった。この出来事 できごと により鉄器 てっき が各地 かくち で普及 ふきゅう 、大衆 たいしゅう 化 か された。各地 かくち の国家 こっか 、民族 みんぞく がその製法 せいほう を手 て に入 い れ各地 かくち にある鉄鉱 てっこう 石 せき で鉄器 てっき を製造 せいぞう したが、この技術 ぎじゅつ 革新 かくしん はそれまで存在 そんざい した各地 かくち の国家 こっか の屋台骨 やたいぼね を揺 ゆ るがすこととなった。このことをブローデル は「鉄 てつ は解放 かいほう 者 しゃ 」であったと記 しる している[23] 。
製鉄 せいてつ 技術 ぎじゅつ の拡散 かくさん は各地 かくち に技術 ぎじゅつ 革新 かくしん をもたらした。手工業 しゅこうぎょう 、鉱山 こうざん 業 ぎょう 、農業 のうぎょう 技術 ぎじゅつ 、灌漑 かんがい 技術 ぎじゅつ の発達 はったつ など社会 しゃかい 、経済 けいざい に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた。しかし、一方 いっぽう で鉄器 てっき は武器 ぶき の「改良 かいりょう 」も進 すす めることになった。そして鉄 てつ の精錬 せいれん を行 おこな うには燃料 ねんりょう が必要 ひつよう であったが、これは局地 きょくち 的 てき な生態 せいたい 系 けい の破壊 はかい を引 ひ き起 お こすこともあった[24] 。
カタストロフによりエジプト、メソポタミア、ヒッタイトらが共 とも に崩壊 ほうかい したために、近東 きんとう では小 しょう 国家 こっか が乱立 らんりつ した。小 しょう アジアではウラルトゥ が勃興 ぼっこう 、アッシリアと激 はげ しく戦 たたか い、アナトリア高原 こうげん ではフリュギア人 じん らが勢力 せいりょく を拡大 かくだい した。そしてアナトリア半島 はんとう 西部 せいぶ ではリュディア が勢力 せいりょく を広 ひろ げ、シリアではアラム人 じん らが勢力 せいりょく を広 ひろ げた。そしてパレスチナの地域 ちいき ではイスラエル人 じん らの王国 おうこく も築 きず かれ、ソロモン王 おう の栄光 えいこう を迎 むか える[25] 。
これらの激動 げきどう 的 てき 変化 へんか の要因 よういん については答 こた えがいまだに確定 かくてい していない。しかし、東 ひがし 地中海 ちちゅうかい 周辺 しゅうへん 諸国 しょこく の内外 ないがい の様々 さまざま な要因 よういん が複雑 ふくざつ に絡 から み合 あ った上 うえ で発生 はっせい したことは間違 まちが いない。地質 ちしつ 学的 がくてき には気温 きおん と海面 かいめん の上昇 じょうしょう が指摘 してき されており、各地 かくち の青銅器 せいどうき 時代 じだい の「宮廷 きゅうてい 」社会 しゃかい が崩壊 ほうかい して地域 ちいき 全体 ぜんたい の生活 せいかつ 、交易 こうえき 、交通 こうつう の大 だい 変化 へんか が見 み られる。それまで宮殿 きゅうでん や宮廷 きゅうてい を中心 ちゅうしん に活動 かつどう していた人々 ひとびと は町 まち を離 はな れたために村落 そんらく 的 てき な社会 しゃかい へと変化 へんか 、パレスティナ、シリア、ギリシャなどでは牧畜 ぼくちく が生業 せいぎょう と化 か したことが考 かんが えられている[26] 。
エジプトにおける王権 おうけん の衰退 すいたい [ 編集 へんしゅう ]
ラムセス9世 せい (右 みぎ )とアメン大 だい 司祭 しさい (左 ひだり )の彫像 ちょうぞう 、同 おな じ大 おお きさであることに注目 ちゅうもく
「海 うみ の民 みん 」の襲撃 しゅうげき を撃退 げきたい したエジプトはその影響 えいきょう を免 まぬか れた。しかし、この襲撃 しゅうげき によりレヴァント の港 みなと などシリア、パレスチナの重要 じゅうよう な街 まち が損害 そんがい を被 こうむ った。これらエジプトの勢力 せいりょく 圏 けん であったシリア、パレスチナでの海 うみ の民 みん らの襲撃 しゅうげき はシリア、パレスチナにおける民族 みんぞく 問題 もんだい や経済 けいざい 問題 もんだい に影響 えいきょう を与 あた えた可能 かのう 性 せい が指摘 してき されており、エジプトの王権 おうけん に対 たい する影響 えいきょう があったと推測 すいそく されているが、証拠 しょうこ が少 すく なく確定 かくてい できない状態 じょうたい である[27] 。
「海 うみ の民 みん 」の襲撃 しゅうげき を撃退 げきたい したラムセス3世 せい の死後 しご 、第 だい 20王朝 おうちょう 時代 じだい に8人 にん の王 おう が即位 そくい したが、ラムセス9世 せい とラムセス11世 せい 以外 いがい の王 おう らが短命 たんめい であったため王権 おうけん が衰退 すいたい することになった。また、ラムセス9世 せい の時代 じだい 、アメン大 だい 神殿 しんでん の壁画 へきが のレリーフはラムセス9世 せい の彫像 ちょうぞう と同 おな じ大 おお きさで描 えが かれ、アメン大 だい 司祭 しさい の権力 けんりょく と王 おう の権力 けんりょく が同等 どうとう であったことが推測 すいそく されており、この時期 じき 以降 いこう 、王権 おうけん が急速 きゅうそく に衰退 すいたい したと推測 すいそく されている[28] 。
そして第 だい 21王朝 おうちょう の時代 じだい 、エジプトは軍事 ぐんじ 的 てき 、経済 けいざい 的 てき に著 いちじる しく衰退 すいたい し、前 ぜん 11世紀 せいき 末 まつ にはテーベ の神殿 しんでん でさえもが放棄 ほうき され朽 く ち果 は てることとなる[29] 。
ミダス王 おう の墓 はか (紀元前 きげんぜん 6世紀 せいき )
ヒッタイト滅亡 めつぼう の後 のち 、フリュギア人 じん らは東部 とうぶ へ定住 ていじゅう してアナトリアにおけるユーフラテス川 がわ 、シリアとの交易 こうえき ルートを押 お さえることに成功 せいこう したが、統一 とういつ 国家 こっか を築 きず くことはなかった。しかし、隣接 りんせつ するアッシリアに対抗 たいこう するためにメソポタミア北部 ほくぶ 、シリアのアラム人 じん らと協力 きょうりょく することになる。前 ぜん 8世紀 せいき 後半 こうはん に王国 おうこく を築 きず き、ミダス王 おう の時代 じだい に最盛 さいせい 期 き を迎 むか えたが、前 ぜん 717年 ねん 、アッシリアのサルゴン2世 せい との戦 たたか いで敗北 はいぼく 、さらに前 ぜん 7世紀 せいき 前半 ぜんはん 、キンメリア人 じん らの攻撃 こうげき を受 う けて滅亡 めつぼう した[24] [30] 。
そしてフリギュア人 じん らが滅亡 めつぼう した後 のち 、キンメリア人 じん らを追 お い出 だ し、アナトリアの大 だい 部分 ぶぶん を占領 せんりょう したのはリュディア であった[31] 。
ヒッタイトの滅亡 めつぼう 、エジプトの弱体 じゃくたい 化 か はその勢力 せいりょく 下 か であったシリア、パレスティナを解放 かいほう することとなった。北 きた シリアでは滅亡 めつぼう したヒッタイトの人々 ひとびと がセム系 けい 、フルリ系 けい の人々 ひとびと を支配 しはい 下 か にしたと考 かんが えられている新 しん ヒッタイトが支配 しはい し、中部 ちゅうぶ シリアのハマー も新 しん ヒッタイトに占領 せんりょう された。また、アラム人 じん らがユーフラテス川 がわ 上流 じょうりゅう 、ハブール川 がわ 周辺 しゅうへん へ移住 いじゅう 、新 しん ヒッタイト、アッシリアとしのぎを削 けず りながらサムアル (en ) 、ビト・アグースィ、ビト・アディニ (en ) 、ビト・バヒアニ (de )などの小 しょう 国家 こっか を打 う ち建 だ て、さらに紀元前 きげんぜん 1000年 ねん にはシリア中部 ちゅうぶ から南部 なんぶ 、さらにはメソポタミア南部 なんぶ にまでその勢力 せいりょく を広 ひろ げ、その一派 いっぱ であるカルデア人 じん は新 しん バビロニアを建設 けんせつ することになる。そしてダマスクス はベンハダド2世 せい (en ) やハザエル (en ) らの時代 じだい 、勢力 せいりょく を拡大 かくだい した。しかし、広範囲 こうはんい に広 ひろ がったアラム人 じん らは結局 けっきょく 、統一 とういつ 国家 こっか を築 きず くことはなかった[32] 。
イスラエル人 じん の起源 きげん には諸説 しょせつ あり、確定 かくてい したものはない。しかし、前 ぜん 1200年 ねん ごろ、彼 かれ らがパレスチナ中央 ちゅうおう 山岳 さんがく 地帯 ちたい に出現 しゅつげん したことは間違 まちが いないとされ、それまで牧畜 ぼくちく を営 いとな んでいた彼 かれ らはこの時期 じき に定住 ていじゅう して農業 のうぎょう を営 いとな むようになったと推測 すいそく されている。イスラエル人 じん らは「士 し 師 し 」と呼 よ ばれる指導 しどう 者 しゃ を中心 ちゅうしん にペリシテ人 じん やカナーン人 じん らと戦 たたか い、西方 せいほう へ勢力 せいりょく を伸 の ばしたが、前 ぜん 11世紀 せいき 後半 こうはん 、サウル が王 おう に即位 そくい して王制 おうせい へ移行 いこう 、諸 しょ 部族 ぶぞく 統一 とういつ に成功 せいこう した。そして前 ぜん 1010年 ねん ごろに即位 そくい したダビデ の下 した でイスラエル王国 おうこく は躍進 やくしん し、次 つぎ 王 おう ソロモン の時代 じだい に最盛 さいせい 期 き を迎 むか えたが、ソロモンの死後 しご 、王国 おうこく はイスラエル王国 おうこく とユダ王国 おうこく へ分裂 ぶんれつ した[33] 。
そしてイスラエル王国 おうこく は前 まえ 722年 ねん 、もしくは前 ぜん 721年 ねん にアッシリアのサルゴン2世 せい によって、ユダ王国 おうこく は前 まえ 586年 ねん もしくは前 ぜん 587年 ねん に新 しん バビロニア のネブカドネザル2世 せい によって滅 ほろ ぼされた[34] 。
前 ぜん 14世紀 せいき 、アッシリアはミタンニ の圧力 あつりょく に悩 なや まされていたが、ミタンニがヒッタイトの攻撃 こうげき によって衰退 すいたい すると勢力 せいりょく を増 ま した。中期 ちゅうき アッシリア時代 じだい と呼 よ ばれるこの時代 じだい 、アッシリア王 おう アッシュルウバリト1世 せい はエジプトとの対等 たいとう 関係 かんけい を要求 ようきゅう したことがアマルナ文書 ぶんしょ で確認 かくにん されており、前 ぜん 13世紀 せいき 以降 いこう 、アッシリアはさらに勢力 せいりょく を増 ま し、シリアへ進出 しんしゅつ 、これはエジプトとヒッタイトの間 あいだ で友好 ゆうこう 関係 かんけい を結 むす ばせる結果 けっか となった[35] 。
そして前 ぜん 1114年 ねん に即位 そくい したティグラトピレセル1世 せい はニネヴェ へ遷都 せんと 、中期 ちゅうき アッシリア法典 ほうてん を制定 せいてい するとアッシリアは絶頂 ぜっちょう 期 き に入 はい ったが、すぐさま衰退 すいたい 期 き に入 はい ることになる[36] 。
しかし前 ぜん 10世紀 せいき 、アッシュルダン2世 せい 以降 いこう 、アッシリアでは徐々 じょじょ に革新 かくしん への動 うご きが見 み られ、前 ぜん 9世紀 せいき 前半 ぜんはん 、アッシュルナツィルパル2世 せい がカルフ へ遷都 せんと 、アッシリアは再 ふたた び繁栄 はんえい を迎 むか える。前 ぜん 9世紀 せいき 後半 こうはん から前 まえ 8世紀 せいき 半 なか ばまでは停滞 ていたい ・現状 げんじょう 維持 いじ 状態 じょうたい に入 はい るが、ティグラトピレセル3世 せい が即位 そくい すると再 ふたた び勢力 せいりょく を盛 も り返 かえ した[37] 。
メソポタミアでは前 ぜん 1155年 ねん 、カッシト朝 あさ がエラムによって滅 ほろ ぼされたが、翌年 よくねん 、イシン第 だい 2王朝 おうちょう が勃興 ぼっこう 、その王 おう であるネブガドネザル1世 せい はエラムに侵攻 しんこう して短期間 たんきかん ながらスーサ を支配 しはい した。しかし、ネブガドネザル1世 せい の死後 しご 、アラム人 じん らが侵入 しんにゅう を開始 かいし 、バビロンを代表 だいひょう とするバビロニアの諸 しょ 都市 とし は壊滅 かいめつ 的 てき 打撃 だげき を受 う けた。そして第 だい 2海 うみ の国 くに 、バジ王朝 おうちょう 、エラム王朝 おうちょう などが勃興 ぼっこう を繰 く り返 かえ したが、これ以降 いこう 、バビロニアは事実 じじつ 上 じょう 、暗黒 あんこく 時代 じだい を迎 むか えた[38] 。
その一方 いっぽう でエラム は隆盛 りゅうせい 期 き を迎 むか えており、ウンタシュナピリシャ (en ) がチョガザンビル に巨大 きょだい なジッグラト を建設 けんせつ 、さらには前 まえ 12世紀 せいき 末 まつ 、シュトルクナフンテ (en ) がメソポタミアを攻撃 こうげき 、ハンムラビ法典 ほうてん を代表 だいひょう とする戦利 せんり 品 ひん をスーサに運 はこ び去 さ り、その子 こ 、クティルナフンテ (de )はイシン第 だい 2王朝 おうちょう を攻 せ め滅 ほろ ぼした[39] 。
フェニキア人 じん の活動 かつどう [ 編集 へんしゅう ]
フェニキア人 じん の商業 しょうぎょう 範囲 はんい と交易 こうえき ルート
ミケーネ文明 ぶんめい が崩壊 ほうかい してギリシャの海上 かいじょう 活動 かつどう が衰退 すいたい すると、地中海 ちちゅうかい を制 せい したのはフェニキア人 じん であった[40] 。それまでパレスチナを中心 ちゅうしん とする海上 かいじょう 交易 こうえき はウガリット に独占 どくせん されていたが[41] 、カナーン人 じん の末裔 まつえい であるフェニキア人 じん らはこの好機 こうき を逃 のが すことなくテュロス 、シドン を中心 ちゅうしん に活動 かつどう 、地中海 ちちゅうかい 沿岸 えんがん にカルタゴ を代表 だいひょう とする植民 しょくみん 都市 とし を築 きず いた[40] 。
前 ぜん 11世紀 せいき 後半 こうはん になるとフェニキアの活発 かっぱつ な取引 とりひき はバイクローム土器 どき (en ) と呼 よ ばれる二色 にしき で彩色 さいしき された土器 どき の分布 ぶんぷ からその範囲 はんい が想像 そうぞう されており、フェニキア人 じん の本拠地 ほんきょち であるフェニキア海岸 かいがん (北 きた はテル・スカス(Tell Sukas)、南 みなみ はカルメル山 さん 半島 はんとう )からシリア(アムク (en ) 平野 ひらの 、ホムス 地方 ちほう )、パレスチナ北部 ほくぶ (ガリラヤ 、メギッド 、ベテ・シェメシュ (en ) )、フィリスティア(テル・カシレ (en ) )、ネゲブ 北部 ほくぶ (テル・エサル、テル・マソス)、ナイル・デルタ (テル・エル=レタベ)などでこの土器 どき が発見 はっけん されている。また、彼 かれ らの活動 かつどう は商業 しょうぎょう だけではなく軍事 ぐんじ 活動 かつどう も伴 ともな っていたことが考古学 こうこがく 的 てき 資料 しりょう から明 あき らかになっている[注釈 ちゅうしゃく 4] [43] 。
キプロス島 とう も海 うみ の民 みん の侵入 しんにゅう を受 う けた。しかし、前 ぜん 12世紀 せいき 中 ちゅう には復興 ふっこう して躍進 やくしん したことが考古学 こうこがく 的 てき 調査 ちょうさ から明 あき らかになっており、港町 みなとちょう エンコミ (en ) 、キティオン では大掛 おおが かりな建築 けんちく 物 ぶつ が構築 こうちく されるまでに至 いた っていた。キプロスで採掘 さいくつ される銅 どう は精錬 せいれん され、エジプト、シリアへ送 おく られていることも明 あき らかになっている[44] 。
キプロス島 とう はレヴァントと商業 しょうぎょう 的 てき 、文化 ぶんか 的 てき に密接 みっせつ に結 むす びついており、エンコミ、キティオンではオリエント的 てき 影響 えいきょう を受 う けた建築 けんちく 物 ぶつ 、神殿 しんでん の奉納 ほうのう 物 ぶつ が発見 はっけん され、また、キプロスで発見 はっけん される土器 どき もシリア、パレスチナのものが多 おお い。このことからキプロス島 とう とペリシテ人 じん らとの間 あいだ に密接 みっせつ な文化 ぶんか 的 てき つながりがあったことが以前 いぜん より注目 ちゅうもく されており、このつながりが取引 とりひき のネットワークと化 か し、前 ぜん 11世紀 せいき 後半 こうはん にはフェニキア人 じん とペリシテ人 じん らとの間 あいだ で商業 しょうぎょう 取引 とりひき が行 おこな われたことが想像 そうぞう されている[41] 。
ギリシャではミケーネ文明 ぶんめい が崩壊 ほうかい し、暗黒 あんこく の時代 じだい を迎 むか えた。しかし、この切 き っ掛 か けはギリシャに悪影響 あくえいきょう を与 あた えるばかりではなかった。西 にし アジアでは強力 きょうりょく な王権 おうけん が発達 はったつ していたが、ミケーネ文明 ぶんめい の時代 じだい 、ギリシャはワナックス (英語 えいご 版 ばん ) (線 せん 文字 もじ B : 𐀷𐀩𐀏 - wa-na-ka 、アナックスとも)[45] [注釈 ちゅうしゃく 5] や宮殿 きゅうでん を中心 ちゅうしん とする再 さい 分配 ぶんぱい システムを中心 ちゅうしん に発達 はったつ していた。この中 なか でもワナックスは王権 おうけん へ進化 しんか する可能 かのう 性 せい もあったが、結局 けっきょく 、王 おう の絶対 ぜったい 性 せい を担保 たんぽ する王権 おうけん へ発達 はったつ することはなかった。このため、ギリシャでは西 にし アジアでは普通 ふつう に見 み られる王 おう に関 かん する彫刻 ちょうこく などは見 み られず、王 おう の名前 なまえ すら明 あき らかではない。ある意味 いみ 、宮殿 きゅうでん の崩壊 ほうかい はこのワナックスなどのシステムの限界 げんかい を表 あらわ したものとすら言 い える[47] 。
このカタストロフの影響 えいきょう はギリシャと東方 とうほう との関係 かんけい を一時 いちじ 的 てき ながらも遮断 しゃだん することとなった。しかし、この遮断 しゃだん は新 あら たな社会 しゃかい 構造 こうぞう を構築 こうちく するチャンスをギリシャに与 あた えることになった。そしてポリス が成立 せいりつ し、古代 こだい ギリシア文明 ぶんめい が繁栄 はんえい することになる。ギリシャは「前 ぜん 1200年 ねん のカタストロフ」で多大 ただい な被害 ひがい を被 こうむ った。しかし、観点 かんてん を変 か えるとギリシャは最大 さいだい の恩恵 おんけい を受 う けたとも言 い える[48] 。
^ 名称 めいしょう については様々 さまざま な呼 よ び方 かた が見 み られる。「前 ぜん 1200年 ねん のカタストロフ 」[1] [2] 、「前 ぜん 1200年 ねん の破局 はきょく 」[3] 、「システム全般 ぜんぱん の崩壊 ほうかい 」[4] 、「青銅器 せいどうき 時代 じだい の終 お わり 」、「BC1200年 ねん の滅亡 めつぼう 」[5] 、「青銅器 せいどうき の危機 きき 」[6] 、「東 ひがし 地中海 ちちゅうかい の激動期 げきどうき 」[7] など固定 こてい 化 か されていない。
^ ただし、ハットゥシャで大 だい 火災 かさい が起 おこ って崩壊 ほうかい したことは発掘 はっくつ の結果 けっか 明 あき らかにされている[11] 。
^ このため、エテオクレタ人 じん (本当 ほんとう のクレタ人 じん の意味 いみ )らはクレタ島 とう の山間 さんかん 部 ぶ へ逃亡 とうぼう 、古典 こてん 期 き まで非 ひ ギリシャ語 ご であるエテオクレタ語 ご を話 はな していた[17] 。
^ ドル の海岸 かいがん 遺跡 いせき 、テル・ダン (en ) 遺跡 いせき (上 うえ ガリラヤ)では激 はげ しい破壊 はかい のあとが見 み られるが、その上 うえ にフェニキア人 じん らの居住 きょじゅう していたと見 み られる層 そう が重 かさ なっており、バイクローム土器 どき などが発見 はっけん されている[42] 。
^ 神 かみ に近 ちか い精神 せいしん 的 てき 絶対 ぜったい 性 せい をもつ王 おう のことを表 あらわ すと考 かんが えられ、この言葉 ことば は後 のち にホメロスの叙事詩 じょじし において王 おう という意味 いみ を持 も つ「ワナックス」という言葉 ことば に変化 へんか したと考 かんが えられており、西 にし アジアにおける初期 しょき 国家 こっか の絶対 ぜったい 的 てき 権力 けんりょく を持 も つ王 おう の影響 えいきょう を受 う けて成立 せいりつ したものと考 かんが えられている。また、これに似 に た言葉 ことば として「バシレウス 」という言葉 ことば もあるが、これは世俗 せぞく における政務 せいむ の長 ちょう を表 あらわ すものと考 かんが えられている[46] 。