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ぜん1200ねんのカタストロフ

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ぜん1200ねん地中海ちちゅうかい東部とうぶ

ぜん1200ねんのカタストロフ[注釈ちゅうしゃく 1](ぜん1200ねんのカタストロフ、英語えいご: Late Bronze Age collapse)とは、地中海ちちゅうかい東部とうぶ席巻せっけんしただい規模きぼ社会しゃかい変動へんどうのこと。この社会しゃかい変動へんどうのち当時とうじヒッタイトのみが所有しょゆうしていた鉄器てっき生産せいさん技術ぎじゅつ地中海ちちゅうかい東部とうぶ各地かくち西にしアジアひろがることにより、青銅器せいどうき時代じだい終焉しゅうえんむかえ、鉄器てっき時代じだいはじまった。

その原因げんいん諸説しょせつあるが、この社会しゃかい変動へんどう発生はっせいにより、分裂ぶんれつ経済けいざい衰退すいたいひがし地中海ちちゅうかいおそい、各地かくちにおいてあらたな時代じだいした[8]

じょ[編集へんしゅう]

紀元前きげんぜん1200ねんごろ、たまきひがし地中海ちちゅうかい席巻せっけんするだい規模きぼ社会しゃかい変動へんどう発生はっせいした。現在げんざい、「ぜん1200ねんのカタストロフ(破局はきょくとも)」とばれるこの災厄さいやくは、古代こだいエジプト西にしアジア、アナトリア半島はんとうクレタとうギリシャ本土ほんどおそった。この災厄さいやく内実ないじつについては諸説しょせつ存在そんざいしており、いまだに結論けつろんていない。

気候きこう変動へんどうにより西にしアジア一帯いったい経済けいざいシステムが崩壊ほうかい農産物のうさんぶつ確保かくほできなくなったとするせつ、エジプト、メソポタミア、ヒッタイトらが密接みっせつ関連かんれんしていたが、ヒッタイトが崩壊ほうかいしたことでドミノだおてき諸国しょこく衰退すいたいしたとするせつなどが存在そんざいする。地震じしんによって崩壊ほうかいしたとするせつかんひがし地中海ちちゅうかい全体ぜんたい崩壊ほうかいではなく、特定とくていくににのみかんがえられており、すくなくともミケーネ時代じだいティリンスではドイツ考古学こうこがく研究所けんきゅうじょ (en調査ちょうさによればはげしい地震じしん活動かつどう発生はっせいしたことが確認かくにんされている[9]

この災厄さいやくについてフェルナン・ブローデル分析ぶんせきによれば

  1. ヒッタイトの崩壊ほうかい
  2. エジプトにおけるうみみん襲撃しゅうげき
  3. ギリシャのミケーネ文明ぶんめい崩壊ほうかい

以上いじょうの3項目こうもくけることができる。また、このカタストロフをけにひがし地中海ちちゅうかいてつひろがることになる[10]

ヒッタイトの崩壊ほうかい[編集へんしゅう]

ウガリットのラス・シャムラ遺跡いせき発見はっけんされた文書ぶんしょによれば、ヒッタイトの崩壊ほうかいまえ12世紀せいき初頭しょとうとされている。このラス・シャムラ遺跡いせき発掘はっくつしたクロード・A・シェッフェル (enによれば、うみみん沿岸えんがんすすしょうアジアを横断おうだん、ヒッタイトとその同盟どうめいこく攻撃こうげき仕掛しかキプロスシチリアカルケミシュ、ウガリットへばしたとされている。ただし、アナトリア内陸ないりくにあるハットゥシャにはその痕跡こんせきのこっていない[注釈ちゅうしゃく 2][12]

また、ヒッタイトの最後さいごおうシュッピルリウマ2せいがウガリットの支援しえんけたうえうみみん勝利しょうりしたというエピソードものこされているが、これは侵入しんにゅうしゃがヒッタイトを分断ぶんだんして崩壊ほうかいみちびいたことを否定ひていする材料ざいりょうにもならず、トラキアからフリュギアじんらがヒッタイトをほろぼした可能かのうせいもフリュギアじんらがヒッタイトの大都市だいとし崩壊ほうかいしたのちにアナトリアへいたっていることからあまたかくない[12]

ヒッタイトの崩壊ほうかいには2つの仮説かせつ存在そんざいしており、侵入しんにゅうしゃがハットゥシャ、カニシュ (enなどあらゆる建物たてものはなったとするせつ。ヒッタイトは内部ないぶ近隣きんりん地域ちいきから崩壊ほうかいしたあと、アッシリア攻撃こうげきけたことによりウガリットを代表だいひょうとする属国ぞっこく同盟どうめいこく離反りはん、さらには深刻しんこく飢饉ききんのために弱体じゃくたいして崩壊ほうかいしたとするせつである。シェッフェルによれば後者こうしゃせつにはうらづけがあり、ウガリット、ハットゥシャで発見はっけんされた文書ぶんしょによればヒッタイト最後さいごおう、シュッピルリウマ2せいは「国中くになかふねだい至急しきゅうすべまわす」よう命令めいれいしており、オロンテスがわ流域りゅういき小麦こむぎキリキアはこぶのと同時どうじに、おう、その家族かぞく軍隊ぐんたい移動いどうさせようとしていた。これはシュッピルリウマ2せい首都しゅとてようとしていたことがかんがえられ、これについてシェッフェルは旱魃かんばつ地震じしんにより、ヒッタイトにかえ飢餓きが発生はっせいしていたと分析ぶんせきしている[12]

さらにシェッフェルによればトルコのアナトリア地方ちほう地震じしん群発ぐんぱつ地帯ちたいであり、地震じしんにより火災かさい発生はっせいしたことでかく都市とし火災かさいあとのこっているとしており、ウガリット時代じだい地層ちそうまれるぐらいの激震げきしんさぶられていたとしている[12]

また、前者ぜんしゃせつはギリシャ北部ほくぶから移住いじゅうしたフリュギアじんゲ海げかいより侵入しんにゅうした人々ひとびと、いわゆる「うみみん」らがヒッタイトへ侵入しんにゅう、ヒッタイト滅亡めつぼう最大さいだい要因よういんとなったと推測すいそくしているせつ否定ひていされているわけではない[11]

エジプトにおけるうみみん襲撃しゅうげき[編集へんしゅう]

エジプトだい19王朝おうちょう末期まっき、エジプトにはマシュワシュぞく (enリブぞくばれる人々ひとびと定住ていじゅうしつつあった。かれらはリビュアキュレネからの移民いみんであったが、エジプトの支配しはいおよばない地域ちいきであった。当時とうじおうラムセス2せいはこれを警戒けいかいしてとりできずくなどの対策たいさくっていたが、マシュワシュぞくなどは商業しょうぎょう活動かつどうでエジプトと関係かんけいしていたため、さほど問題もんだいしょうじておらず[13]、ラムセス2せいがヒッタイトと激戦げきせんわしたカデシュのたたかさいには傭兵ようへいとしてのちに「うみみん」とばれるシェルデンじん (en参加さんかしている[14]

しかし、メルエンプタハおう即位そくいすると風向かざむきがわった。「イスラエル石碑せきひ英語えいごばん」によるとエジプトでだい規模きぼ飢饉ききん発生はっせいしたことで、メルエンプタハはリビュアじんらをかえし、1まんにんちかくをころした。さらにリビュアけいのシェルデン、シェケレシュ、トゥレシュ (enルッキ (enらの部族ぶぞく侵入しんにゅう開始かいししたが、これら移民いみんらの侵入しんにゅうだい20王朝おうちょうラムセス3せいによってからくも撃退げきたいされた[13]

しかし、ラムセス3せい治世ちせい、さらなる問題もんだいしょうじた。この問題もんだいはリビュアなどの西側にしがわではなくヒッタイトシリアなど東側ひがしがわからしょうじた。これがいわゆる「うみみん」による襲撃しゅうげきであった。ただし、この「うみみん」は一部いちぶ部族ぶぞくのことではなく、少数しょうすう民族みんぞくあつまって部族ぶぞく連合れんごう組織そしきしたものであったが、かれらはラムセス3せいによって撃退げきたいされた[13]。これらについてロバート・モアコット (enによればすべての部族ぶぞくがリビュアと関係かんけいしており、さらにしょう人数にんずうであったとしており、これらはリビュアにやとわれた傭兵ようへいたいであった可能かのうせい指摘してきしている[8]

さらに「うみみん」らの侵入しんにゅうはエジプトにまらず、シリアのしょ都市としウガリットエマル破壊はかいされた。そしてこのなかでもパレスチナには「うみみん」の一派いっぱであるペリシテじんらが定住ていじゅうすることになった。旧約きゅうやく聖書せいしょうえでは否定ひていてきえがかれたかれらは実際じっさいにはすぐれた都市とし建築けんちくしゃ鉄器てっき製造せいぞうしゃであり、移住いじゅうさき先進せんしんてき物質ぶっしつ文化ぶんかまれた[15]

ミケーネ文明ぶんめい崩壊ほうかい[編集へんしゅう]

紀元前きげんぜん13世紀せいきミケーネ文明ぶんめい繁栄はんえいしていた。しかし、災厄さいやく予兆よちょうかんじていたのかギリシャ本土ほんどしょ都市とし城壁じょうへきととのえており、アテナイミケーネではふか井戸いどられ、まさに篭城ろうじょうせんそなえているようであった。また、コリントス地峡ちきょうでは長大ちょうだい城壁じょうへきととのえられ、ミケーネ文明ぶんめいしょ都市としはある脅威きょういそなえていたとかんがえられる[16]

ミケーネ文明ぶんめいしょ都市とし、ミケーネ、ピュロス、ティリンス紀元前きげんぜん1230ねんごろに破壊はかいされており、このなかでは防衛ぼうえいのためにたたかったとおもわれる兵士へいし白骨はっこつ発見はっけんされた。こののち、これらのしょ都市としてられており、ミケーネじんがいずれかにったことがかんがえられる。このことにたいしてペア・アーリンは陶器とうき調査ちょうさしたうえでミケーネの人々ひとびとペロポネソス半島はんとう北部ほくぶ山岳さんがく地帯ちたいアカイアんだとしており、アルゴリスみなみメッセリアラコニア放棄ほうきしてアカイア、エウボイアボイオティア移動いどうしたとしている[17]

また、クレタとうにもミケーネじんらが侵入しんにゅうしたとかんがえられており、ケファレニアとう西岸せいがんロドスとうコスとうカリムノスとうキプロスとう移動いどうしている[注釈ちゅうしゃく 3]。これらミケーネじん移動いどうにより、ミケーネ文明ぶんめい崩壊ほうかいした[17]

この民族みんぞく移動いどうにはさまざまな意見いけんがある。ドーリアじんらが移動いどうする以前いぜんインド・ヨーロッパ語族ごぞくがギリシャに侵入しんにゅうしていたとするせつつぎ侵入しんにゅうなど存在そんざいしなかったとするせつ[18]、そしてうみみん侵入しんにゅうというせつである[19]

そして、ミケーネ文明ぶんめい崩壊ほうかいについても諸説しょせつ存在そんざいする。文化ぶんかてき衰退すいたいはじまったためにミケーネ文化ぶんかが「バルバロイ」によって征服せいふくされたとするせつは19世紀せいき後半こうはん文化ぶんかてき退廃たいはい理論りろん発達はったつした時代じだいでは人気にんきがあった。また、「うみみん」の襲撃しゅうげきによってひがし地中海ちちゅうかい諸国しょこくらされたさいにミケーネもそれにまれ滅亡めつぼうしたとするせつも19世紀せいきには主流しゅりゅうであった[9]

これはインド・ヨーロッパ語族ごぞくであるイリュリアじんバルカン半島ばるかんはんとう侵入しんにゅうしたために先住民せんじゅうみんがアナトリア、ギリシャへいやられた。そしてさらにフリュギアじんらがヒッタイトをほろぼしたことで、このあおりをけてアナトリアからされた人々ひとびとが「うみみん」であり、このうみみんはキプロス、シリア、パレスチナをおそいさらに南下なんかしたがエジプトで撃退げきたいされたとする。このせつガストン・マスペロによって主張しゅちょうされたものであるが、都合つごう理論りろんであり現在げんざいでは主流しゅりゅうではなく[8]、さらに宮殿きゅうでんこそてられているが、都市としにはそのあとられず、侵入しんにゅうしゃ定住ていじゅうしたことを疑問ぎもんするこえもある。そしてリース・カーペンター (enによれば、侵入しんにゅうしゃなどは存在そんざいせず、ミケーネ文明ぶんめい崩壊ほうかいしたのは自然しぜん影響えいきょうによる破局はきょくであるとしている[20]

そして「うみみん」の侵入しんにゅうとするせつは、北方ほっぽう発生はっせいした民族みんぞく移動いどうによって、された地中海ちちゅうかい人種じんしゅやインド・ヨーロッパ語族ごぞくぞくする人々ひとびとなど、いろいろな要素ようそった人々ひとびと集団しゅうだん形成けいせいしてギリシャへ侵入しんにゅうしたとするせつである。これらについては証拠しょうことぼしく、また、うみみん自体じたい侵入しんにゅうしたさき人々ひとびと融合ゆうごうすることによりすみやかに姿すがたしたとしている[21]

暗黒あんこく時代じだい復興ふっこう[編集へんしゅう]

地中海ちちゅうかい東部とうぶおそ暗黒あんこくかげ製鉄せいてつ技術ぎじゅつ拡散かくさん[編集へんしゅう]

ぜん1200ねんのカタストロフをむかえたたまき地中海ちちゅうかい地帯ちたい低迷ていめいむかえる。とくにギリシャの衰退すいたいはげしかった。それまで使用しようされていたせん文字もじBわすられ、芸術げいじゅつひん壁画へきが、ありとあらゆる文化ぶんかてきなものがうしなわれ、それまではなやかであった土器どき単純たんじゅん絵柄えがらである幾何きかがく文様もんようした[22]

アナトリアではヒッタイト帝国ていこく崩壊ほうかいし、エジプトではすべての保護ほごりょううしなわれ王権おうけん失墜しっついしはじめた。メソポタミアでもやみむかえ、好戦こうせんてきアッシリア帝国ていこくもその影響えいきょうけながら、からくものこっていた。そしてかんひがし地中海ちちゅうかい地帯ちたいすう世紀せいきわた後退こうたいつつむことになる。しかし、ヒッタイト帝国ていこく崩壊ほうかいしたことで、キリキアシリア北部ほくぶおこなっていたとかんがえられているてつ浸炭しんたんうみみん動乱どうらんにより各地かくちひろがった。この出来事できごとにより鉄器てっき各地かくち普及ふきゅう大衆たいしゅうされた。各地かくち国家こっか民族みんぞくがその製法せいほう各地かくちにある鉄鉱てっこうせき鉄器てっき製造せいぞうしたが、この技術ぎじゅつ革新かくしんはそれまで存在そんざいした各地かくち国家こっか屋台骨やたいぼねるがすこととなった。このことをブローデルは「てつ解放かいほうしゃ」であったとしるしている[23]

製鉄せいてつ技術ぎじゅつ拡散かくさん各地かくち技術ぎじゅつ革新かくしんをもたらした。手工業しゅこうぎょう鉱山こうざんぎょう農業のうぎょう技術ぎじゅつ灌漑かんがい技術ぎじゅつ発達はったつなど社会しゃかい経済けいざいおおきな影響えいきょうあたえた。しかし、一方いっぽう鉄器てっき武器ぶきの「改良かいりょう」もすすめることになった。そしててつ精錬せいれんおこなうには燃料ねんりょう必要ひつようであったが、これは局地きょくちてき生態せいたいけい破壊はかいこすこともあった[24]

カタストロフによりエジプト、メソポタミア、ヒッタイトらがとも崩壊ほうかいしたために、近東きんとうではしょう国家こっか乱立らんりつした。しょうアジアではウラルトゥ勃興ぼっこう、アッシリアとはげしくたたかい、アナトリア高原こうげんではフリュギアじんらが勢力せいりょく拡大かくだいした。そしてアナトリア半島はんとう西部せいぶではリュディア勢力せいりょくひろげ、シリアではアラムじんらが勢力せいりょくひろげた。そしてパレスチナの地域ちいきではイスラエルじんらの王国おうこくきずかれ、ソロモンおう栄光えいこうむかえる[25]

これらの激動げきどうてき変化へんか要因よういんについてはこたえがいまだに確定かくていしていない。しかし、ひがし地中海ちちゅうかい周辺しゅうへん諸国しょこく内外ないがい様々さまざま要因よういん複雑ふくざつからったうえ発生はっせいしたことは間違まちがいない。地質ちしつ学的がくてきには気温きおん海面かいめん上昇じょうしょう指摘してきされており、各地かくち青銅器せいどうき時代じだいの「宮廷きゅうてい社会しゃかい崩壊ほうかいして地域ちいき全体ぜんたい生活せいかつ交易こうえき交通こうつうだい変化へんかられる。それまで宮殿きゅうでん宮廷きゅうてい中心ちゅうしん活動かつどうしていた人々ひとびとまちはなれたために村落そんらくてき社会しゃかいへと変化へんか、パレスティナ、シリア、ギリシャなどでは牧畜ぼくちく生業せいぎょうしたことがかんがえられている[26]

エジプトにおける王権おうけん衰退すいたい[編集へんしゅう]

ラムセス9せいみぎ)とアメンだい司祭しさいひだり)の彫像ちょうぞうおなおおきさであることに注目ちゅうもく

うみみん」の襲撃しゅうげき撃退げきたいしたエジプトはその影響えいきょうまぬかれた。しかし、この襲撃しゅうげきによりレヴァントみなとなどシリア、パレスチナの重要じゅうようまち損害そんがいこうむった。これらエジプトの勢力せいりょくけんであったシリア、パレスチナでのうみみんらの襲撃しゅうげきはシリア、パレスチナにおける民族みんぞく問題もんだい経済けいざい問題もんだい影響えいきょうあたえた可能かのうせい指摘してきされており、エジプトの王権おうけんたいする影響えいきょうがあったと推測すいそくされているが、証拠しょうこすくなく確定かくていできない状態じょうたいである[27]

うみみん」の襲撃しゅうげき撃退げきたいしたラムセス3せい死後しごだい20王朝おうちょう時代じだいに8にんおう即位そくいしたが、ラムセス9せいラムセス11せい以外いがいおうらが短命たんめいであったため王権おうけん衰退すいたいすることになった。また、ラムセス9せい時代じだいアメンだい神殿しんでん壁画へきがのレリーフはラムセス9せい彫像ちょうぞうおなおおきさでえがかれ、アメンだい司祭しさい権力けんりょくおう権力けんりょく同等どうとうであったことが推測すいそくされており、この時期じき以降いこう王権おうけん急速きゅうそく衰退すいたいしたと推測すいそくされている[28]

そしてだい21王朝おうちょう時代じだい、エジプトは軍事ぐんじてき経済けいざいてきいちじるしく衰退すいたいし、ぜん11世紀せいきまつにはテーベ神殿しんでんでさえもが放棄ほうきされてることとなる[29]

アナトリア[編集へんしゅう]

ミダスおうはか紀元前きげんぜん6世紀せいき

ヒッタイト滅亡めつぼうのちフリュギアじんらは東部とうぶ定住ていじゅうしてアナトリアにおけるユーフラテスがわ、シリアとの交易こうえきルートをさえることに成功せいこうしたが、統一とういつ国家こっかきずくことはなかった。しかし、隣接りんせつするアッシリアに対抗たいこうするためにメソポタミア北部ほくぶ、シリアのアラムじんらと協力きょうりょくすることになる。ぜん8世紀せいき後半こうはん王国おうこくきずき、ミダスおう時代じだい最盛さいせいむかえたが、ぜん717ねん、アッシリアのサルゴン2せいとのたたかいで敗北はいぼく、さらにぜん7世紀せいき前半ぜんはんキンメリアじんらの攻撃こうげきけて滅亡めつぼうした[24][30]

そしてフリギュアじんらが滅亡めつぼうしたのち、キンメリアじんらをし、アナトリアのだい部分ぶぶん占領せんりょうしたのはリュディアであった[31]

シリアとアラムじん[編集へんしゅう]

ヒッタイトの滅亡めつぼう、エジプトの弱体じゃくたいはその勢力せいりょくであったシリア、パレスティナを解放かいほうすることとなった。きたシリアでは滅亡めつぼうしたヒッタイトの人々ひとびとがセムけいフルリけい人々ひとびと支配しはいにしたとかんがえられているしんヒッタイトが支配しはいし、中部ちゅうぶシリアのハマーしんヒッタイトに占領せんりょうされた。また、アラムじんらがユーフラテスがわ上流じょうりゅうハブールがわ周辺しゅうへん移住いじゅうしんヒッタイト、アッシリアとしのぎをけずりながらサムアル (en、ビト・アグースィ、ビト・アディニ (enビト・バヒアニ(de)などのしょう国家こっかて、さらに紀元前きげんぜん1000ねんにはシリア中部ちゅうぶから南部なんぶ、さらにはメソポタミア南部なんぶにまでその勢力せいりょくひろげ、その一派いっぱであるカルデアじんしんバビロニアを建設けんせつすることになる。そしてダマスクスベンハダド2せい (enハザエル (enらの時代じだい勢力せいりょく拡大かくだいした。しかし、広範囲こうはんいひろがったアラムじんらは結局けっきょく統一とういつ国家こっかきずくことはなかった[32]

イスラエルの勃興ぼっこう[編集へんしゅう]

イスラエルじん起源きげんには諸説しょせつあり、確定かくていしたものはない。しかし、ぜん1200ねんごろ、かれらがパレスチナ中央ちゅうおう山岳さんがく地帯ちたい出現しゅつげんしたことは間違まちがいないとされ、それまで牧畜ぼくちくいとなんでいたかれらはこの時期じき定住ていじゅうして農業のうぎょういとなむようになったと推測すいそくされている。イスラエルじんらは「」とばれる指導しどうしゃ中心ちゅうしんにペリシテじんやカナーンじんらとたたかい、西方せいほう勢力せいりょくばしたが、ぜん11世紀せいき後半こうはんサウルおう即位そくいして王制おうせい移行いこうしょ部族ぶぞく統一とういつ成功せいこうした。そしてぜん1010ねんごろに即位そくいしたダビデしたイスラエル王国おうこく躍進やくしんし、つぎおうソロモン時代じだい最盛さいせいむかえたが、ソロモンの死後しご王国おうこくはイスラエル王国おうこくユダ王国おうこく分裂ぶんれつした[33]

そしてイスラエル王国おうこくまえ722ねん、もしくはぜん721ねんにアッシリアのサルゴン2せいによって、ユダ王国おうこくまえ586ねんもしくはぜん587ねんしんバビロニアネブカドネザル2せいによってほろぼされた[34]

アッシリアの盛衰せいすい[編集へんしゅう]

ぜん14世紀せいき、アッシリアはミタンニ圧力あつりょくなやまされていたが、ミタンニがヒッタイトの攻撃こうげきによって衰退すいたいすると勢力せいりょくした。中期ちゅうきアッシリア時代じだいばれるこの時代じだい、アッシリアおうアッシュルウバリト1せいはエジプトとの対等たいとう関係かんけい要求ようきゅうしたことがアマルナ文書ぶんしょ確認かくにんされており、ぜん13世紀せいき以降いこう、アッシリアはさらに勢力せいりょくし、シリアへ進出しんしゅつ、これはエジプトとヒッタイトのあいだ友好ゆうこう関係かんけいむすばせる結果けっかとなった[35]

そしてぜん1114ねん即位そくいしたティグラトピレセル1せいニネヴェ遷都せんと中期ちゅうきアッシリア法典ほうてん制定せいていするとアッシリアは絶頂ぜっちょうはいったが、すぐさま衰退すいたいはいることになる[36]

しかしぜん10世紀せいきアッシュルダン2せい以降いこう、アッシリアでは徐々じょじょ革新かくしんへのうごきがられ、ぜん9世紀せいき前半ぜんはんアッシュルナツィルパル2せいカルフ遷都せんと、アッシリアはふたた繁栄はんえいむかえる。ぜん9世紀せいき後半こうはんからまえ8世紀せいきなかばまでは停滞ていたい現状げんじょう維持いじ状態じょうたいはいるが、ティグラトピレセル3せい即位そくいするとふたた勢力せいりょくかえした[37]

バビロニアの攻防こうぼう[編集へんしゅう]

メソポタミアではぜん1155ねんカッシトあさがエラムによってほろぼされたが、翌年よくねんイシンだい2王朝おうちょう勃興ぼっこう、そのおうであるネブガドネザル1せいはエラムに侵攻しんこうして短期間たんきかんながらスーサ支配しはいした。しかし、ネブガドネザル1せい死後しご、アラムじんらが侵入しんにゅう開始かいし、バビロンを代表だいひょうとするバビロニアのしょ都市とし壊滅かいめつてき打撃だげきけた。そしてだい2うみくに、バジ王朝おうちょう、エラム王朝おうちょうなどが勃興ぼっこうかえしたが、これ以降いこう、バビロニアは事実じじつじょう暗黒あんこく時代じだいむかえた[38]

その一方いっぽうエラム隆盛りゅうせいむかえており、ウンタシュナピリシャ (enチョガザンビル巨大きょだいジッグラト建設けんせつ、さらにはまえ12世紀せいきまつシュトルクナフンテ (enがメソポタミアを攻撃こうげきハンムラビ法典ほうてん代表だいひょうとする戦利せんりひんをスーサにはこり、そのクティルナフンテde)はイシンだい2王朝おうちょうほろぼした[39]

フェニキアじん活動かつどう[編集へんしゅう]

フェニキアじん商業しょうぎょう範囲はんい交易こうえきルート

ミケーネ文明ぶんめい崩壊ほうかいしてギリシャの海上かいじょう活動かつどう衰退すいたいすると、地中海ちちゅうかいせいしたのはフェニキアじんであった[40]。それまでパレスチナを中心ちゅうしんとする海上かいじょう交易こうえきウガリット独占どくせんされていたが[41]カナーンじん末裔まつえいであるフェニキアじんらはこの好機こうきのがすことなくテュロスシドン中心ちゅうしん活動かつどう地中海ちちゅうかい沿岸えんがんカルタゴ代表だいひょうとする植民しょくみん都市としきずいた[40]

ぜん11世紀せいき後半こうはんになるとフェニキアの活発かっぱつ取引とりひきバイクローム土器どき (enばれる二色にしき彩色さいしきされた土器どき分布ぶんぷからその範囲はんい想像そうぞうされており、フェニキアじん本拠地ほんきょちであるフェニキア海岸かいがんきたはテル・スカス(Tell Sukas)、みなみカルメルさん半島はんとう)からシリア(アムク (en平野ひらのホムス地方ちほう)、パレスチナ北部ほくぶガリラヤメギッドベテ・シェメシュ (en)、フィリスティア(テル・カシレ (en)、ネゲブ北部ほくぶ(テル・エサル、テル・マソス)、ナイル・デルタ(テル・エル=レタベ)などでこの土器どき発見はっけんされている。また、かれらの活動かつどう商業しょうぎょうだけではなく軍事ぐんじ活動かつどうともなっていたことが考古学こうこがくてき資料しりょうからあきらかになっている[注釈ちゅうしゃく 4][43]

キプロスの繁栄はんえい[編集へんしゅう]

キプロスとううみみん侵入しんにゅうけた。しかし、ぜん12世紀せいきちゅうには復興ふっこうして躍進やくしんしたことが考古学こうこがくてき調査ちょうさからあきらかになっており、港町みなとちょうエンコミ (enキティオンでは大掛おおがかりな建築けんちくぶつ構築こうちくされるまでにいたっていた。キプロスで採掘さいくつされるどう精錬せいれんされ、エジプト、シリアへおくられていることもあきらかになっている[44]

キプロスとうはレヴァントと商業しょうぎょうてき文化ぶんかてき密接みっせつむすびついており、エンコミ、キティオンではオリエントてき影響えいきょうけた建築けんちくぶつ神殿しんでん奉納ほうのうぶつ発見はっけんされ、また、キプロスで発見はっけんされる土器どきもシリア、パレスチナのものがおおい。このことからキプロスとうとペリシテじんらとのあいだ密接みっせつ文化ぶんかてきつながりがあったことが以前いぜんより注目ちゅうもくされており、このつながりが取引とりひきのネットワークとし、ぜん11世紀せいき後半こうはんにはフェニキアじんとペリシテじんらとのあいだ商業しょうぎょう取引とりひきおこなわれたことが想像そうぞうされている[41]

ギリシャの明暗めいあん[編集へんしゅう]

ギリシャではミケーネ文明ぶんめい崩壊ほうかいし、暗黒あんこく時代じだいむかえた。しかし、このけはギリシャに悪影響あくえいきょうあたえるばかりではなかった。西にしアジアでは強力きょうりょく王権おうけん発達はったつしていたが、ミケーネ文明ぶんめい時代じだい、ギリシャはワナックス英語えいごばんせん文字もじB: 𐀷𐀩𐀏 - wa-na-ka、アナックスとも)[45][注釈ちゅうしゃく 5]宮殿きゅうでん中心ちゅうしんとするさい分配ぶんぱいシステムを中心ちゅうしん発達はったつしていた。このなかでもワナックスは王権おうけん進化しんかする可能かのうせいもあったが、結局けっきょくおう絶対ぜったいせい担保たんぽする王権おうけん発達はったつすることはなかった。このため、ギリシャでは西にしアジアでは普通ふつうられるおうかんする彫刻ちょうこくなどはられず、おう名前なまえすらあきらかではない。ある意味いみ宮殿きゅうでん崩壊ほうかいはこのワナックスなどのシステムの限界げんかいあらわしたものとすらえる[47]

このカタストロフの影響えいきょうはギリシャと東方とうほうとの関係かんけい一時いちじてきながらも遮断しゃだんすることとなった。しかし、この遮断しゃだんあらたな社会しゃかい構造こうぞう構築こうちくするチャンスをギリシャにあたえることになった。そしてポリス成立せいりつし、古代こだいギリシア文明ぶんめい繁栄はんえいすることになる。ギリシャは「ぜん1200ねんのカタストロフ」で多大ただい被害ひがいこうむった。しかし、観点かんてんえるとギリシャは最大さいだい恩恵おんけいけたともえる[48]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 名称めいしょうについては様々さまざまかたられる。「ぜん1200ねんのカタストロフ[1][2]、「ぜん1200ねん破局はきょく[3]、「システム全般ぜんぱん崩壊ほうかい[4]、「青銅器せいどうき時代じだいわり」、「BC1200ねん滅亡めつぼう[5]、「青銅器せいどうき危機きき[6]、「ひがし地中海ちちゅうかい激動期げきどうき[7]など固定こていされていない。
  2. ^ ただし、ハットゥシャでだい火災かさいおこって崩壊ほうかいしたことは発掘はっくつ結果けっかあきらかにされている[11]
  3. ^ このため、エテオクレタじん本当ほんとうのクレタじん意味いみ)らはクレタとう山間さんかん逃亡とうぼう古典こてんまでギリシャであるエテオクレタはなしていた[17]
  4. ^ ドル海岸かいがん遺跡いせきテル・ダン (en遺跡いせきうえガリラヤ)でははげしい破壊はかいのあとがられるが、そのうえにフェニキアじんらの居住きょじゅうしていたとられるそうかさなっており、バイクローム土器どきなどが発見はっけんされている[42]
  5. ^ かみちか精神せいしんてき絶対ぜったいせいをもつおうのことをあらわすとかんがえられ、この言葉ことばのちにホメロスの叙事詩じょじしにおいておうという意味いみつ「ワナックス」という言葉ことば変化へんかしたとかんがえられており、西にしアジアにおける初期しょき国家こっか絶対ぜったいてき権力けんりょくおう影響えいきょうけて成立せいりつしたものとかんがえられている。また、これに言葉ことばとして「バシレウス」という言葉ことばもあるが、これは世俗せぞくにおける政務せいむちょうあらわすものとかんがえられている[46]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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  2. ^ 桜井さくらい(2005)、p.42.
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  45. ^ Palaeolexicon, Word study tool of ancient languages
  46. ^ 桜井さくらい(2005)、pp.39-40.
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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  • フェルナン・ブローデル地中海ちちゅうかい記憶きおく先史せんし時代じだい古代こだい藤原ふじわら書店しょてん、2008ねんISBN 978-4-89434-607-9 
  • ビル・マンリーちょ 鈴木すずきまどか監修かんしゅう 古田ふるたみのるやく古代こだいエジプト地図ちず世界せかい歴史れきし河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、1998ねんISBN 4-309-61183-4 
  • グレン・E・マーコウちょ 片山かたやま陽子ようこやく世界せかい古代こだい民族みんぞくシリーズフェニキアじんそうもとしゃ、2007ねんISBN 978-4-422-20271-6 
  • 松本まつもとせんろう牟田むたこう義郎よしおちょ地域ちいきからの世界せかい10地中海ちちゅうかい朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1992ねんISBN 4-02-258505-6 
  • 近藤こんどう二郎じろうちょ世界せかい考古学こうこがく4エジプトの考古学こうこがくどうなりしゃ、1997ねんISBN 4-88621-156-9 
  • 佐藤さとうつぎだかへん世界せかい各国かっこく8西にしアジアIアラブ』山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2002ねんISBN 4-634-41380-9 
  • 永田ながた雄三ゆうぞうちょ世界せかい各国かっこく西にしアジアIIイラン・トルコ』山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2002ねんISBN 4-634-41390-6 
  • しゅうふじ芳幸よしゆき村田むらた奈々子ななこ共著きょうちょ『ギリシアを辞典じてん東京とうきょうどう出版しゅっぱん、2000ねんISBN 4-490-10523-1 
  • 桜井さくらい万里子まりこ へん『ギリシア山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2005ねんISBN 4-634-41470-8 
  • エリック・H・クラインちょ 安原やすはら和見わみやく『B.C.1177 - 古代こだいグローバル文明ぶんめい崩壊ほうかい筑摩書房ちくましょぼう、2018ねんISBN 978-4-480-85816-0