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カタリ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
「カタリ結集けっしゅうのシンボル」とされたオクシタニアじゅう英語えいごばん[1]

カタリ(カタリは、Cathares)は、10世紀せいきなかばにあらわれ、フランス南部なんぶイタリア北部ほくぶ活発かっぱつとなったキリスト教きりすときょういろびた民衆みんしゅう運動うんどう

名称めいしょう

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カタリという名前なまえは「清浄せいじょうなもの」を意味いみするギリシアの「カタロス」に由来ゆらいしている。名称めいしょうはじめて記録きろくにあらわれるのは、1181ねんケルンしるされたシェーナウのエックベルトの「このころドイツにカタロスがあらわれた」という記述きじゅつである。

また、カタリアルビ(アルビジョア)とばれることもあった。みなみフランスの都市としアルビ由来ゆらいするこの名前なまえ12世紀せいきわりにあらわれるが、実際じっさいにはアルビよりもトゥールーズほうがカタリおおかった。

カタリ地域ちいき時期じきによって、アルビバタリニラングドックなどとばれることがある。それらがおなじグループなのか、あるいはことなるグループなのかまだ不明ふめい部分ぶぶんおおい。

思想しそう

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現在げんざいカタリがどのような思想しそうをもっていたのかを正確せいかくることはむずかしい。カタリ自体じたい消滅しょうめつしていて、かれ自身じしん資料しりょうがほとんどないためである(わずかにのこされている資料しりょうとして『原理げんりろん』とばれる書物しょもつがある)。このため、カタリ思想しそうについてはだい部分ぶぶん反駁はんばくしゃたちの書物しょもつ偏見へんけんじった記述きじゅつからしかることができない。

カトリック教会きょうかいは、カタリ二元論にげんろんてき世界せかいかん代表だいひょうされるグノーシス主義しゅぎてき色彩しきさい濃厚のうこう特異とくい教義きょうぎ組織そしきゆうしていたため、異端いたん認定にんていしたと主張しゅちょうしている。

カタリ思想しそう根本こんぽんは、かみにより創造そうぞうされた精神せいしんが、あくにより創造そうぞうされた肉体にくたい物質ぶっしつとらわれているという思想しそうである。この思考しこうほうはグノーシス主義しゅぎなどに類似るいじするものであり、歴史れきしなかかえしあらわれている。カタリボゴミルからこの思想しそう受容じゅようしたとする可能かのうせいがある。グノーシス主義しゅぎ世界せかいデミウルゴスによって創造そうぞうされたとかんがえていたのとことなり、カタリ世界せかい創造そうぞうしたのはサタンであるとかんがえていた。

カタリはグノーシス主義しゅぎおなじように、物質ぶっしつ世界せかいとらえられたたましいはこののがれることで物質ぶっしつ世界せかいである天国てんごく到達とうたつできるとかんがえた。そしてこのからのがれるための唯一ゆいいつ方法ほうほうが、よごれた世俗せぞく関係かんけいって禁欲きんよく生活せいかつおくることであった。このような完全かんぜん禁欲きんよく生活せいかつおく聖職せいしょくしゃのごとき特別とくべつ信徒しんとが「かんとくもの」(ペルフェクティ(Perfecti))とよばれていた。かんとくしゃには人々ひとびとつみのぞき、物質ぶっしつ世界せかいとのつながりをちからがあるとしんじられ、死後しごはすみやかに天国てんごくくとかんがえられていた。かんとくしゃたちがおく完全かんぜん禁欲きんよく生活せいかつは、当時とうじ教会きょうかい聖職せいしょくしゃたちの堕落だらくした生活せいかつとは対照たいしょうてきなものであった。

帰依きえしゃ」(credentes)とよばれた一般いっぱん信徒しんとたちも「なぐさめのしき」(すくい慰礼、コンソラメントゥム(Consolamentum))という儀式ぎしきけることができた。これはカタリみとめる唯一ゆいいつ秘跡ひせきであり、帰依きえしゃ信徒しんと按手宣誓せんせいおこなことで、かんとくしゃとしての地位ちいるとともに、その義務ぎむとしての禁欲きんよく生活せいかつせられた。すくい慰礼はおおくの場合ばあい帰依きえしゃ直面ちょくめんしたさいおこなわれ、このような原因げんいんすくい慰礼をけたものは以後いご食事しょくじくちにすることきんじられた。しかし、「たいにん」(エンドゥラ、endura)とばれるそれは物質ぶっしつよごれをけないための潔斎けっさいであり、かならずしもいたること自体じたい目的もくてきとしているわけではなかった。病気びょうき快復かいふくしたのちは、もと生活せいかつもどることもあった。すくい慰礼は異性いせい信徒しんとたいしておこなこときんじられていたため結果けっかとして女性じょせい信徒しんと地位ちい一般いっぱんてきキリスト教きりすときょう比較ひかくして相対そうたいてき向上こうじょうした。カタリではなんらかの原因げんいん寡婦かふとなった女性じょせいが、おっと葬送そうそうのちにそのまますくい慰礼をけ、かんとくしゃとしてのこりの人生じんせいまっとうすることすくなくなかった。これは一般いっぱんてきキリスト教きりすときょうでも修道しゅうどうおんなという概念がいねん存在そんざいするものであるが、カタリ女性じょせいかんとくしゃ修道しゅうどうおんなことなり、すくい慰礼という秘跡ひせき仕切しきことゆるされていた。

カタリかんとくしゃたいしては、様々さまざま禁忌きんきしていた。生殖せいしょく目的もくてきとする性行為せいこういみとめず、さらに肉食にくしょく禁止きんしし、菜食さいしょくのみをみとめた。にく生殖せいしょく結果けっかであるとされたからであり、生殖せいしょく結果けっかであるほか食品しょくひん鶏卵けいらんチーズバター)の摂取せっしゅきんじられていた。野菜やさい果物くだもの以外いがいにもさかな海産物かいさんぶつはなんでもべてよかった。なぜさかながよかったのかというと、当時とうじ人々ひとびとさかなうみもの生殖せいしょく行動こうどうをせず、うみのどこからともなく発生はっせいしているとかんがえていたからである。一方いっぽう飲酒いんしゅかんしては制約せいやくすくなく、葡萄酒ぶどうしゅ以外いがい飲用いんよう一般いっぱんキリスト教きりすときょうではタブーとされた酩酊めいていする行為こういゆるされていた。

ただし、一般いっぱん信徒しんとたいしてはこのような禁忌きんきはなく、生殖せいしょく肉食にくしょくゆるされていた。

カタリ新約しんやく聖書せいしょおよびその外典げてんのみをみとめ、旧約きゅうやく聖書せいしょみとめなかった。新約しんやく聖書せいしょなかにある二元論にげんろんてき表現ひょうげんや、平等びょうどう主義しゅぎてき表現ひょうげん重視じゅうしし、そこから教義きょうぎ展開てんかいした。巨大きょだい教会きょうかいつくらず、かんとくしゃ中心ちゅうしんとした小規模しょうきぼ信徒しんとのグループをつくった。

カタリは、かみによる一元いちげんてき創造そうぞう三位一体さんみいったい幼児ようじ洗礼せんれい免罪めんざい階層かいそうてき教会きょうかい組織そしきなどをみとめなかったため、カトリック教会きょうかいからははげしく非難ひなんされることになった。

歴史れきし

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発生はっせい

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思想しそう地域ちいき変遷へんせん

カタリ思想しそうひがしヨーロッパから交易こうえきつうじてみなみフランスにもたらされたようである。カタリはブルガリ(ブルガリア)とよばれることもあったが、これは東欧とうおうひろまっていたボゴミルとつながりがあったことをしめしている。カタリ教義きょうぎにはボゴミルのそれと非常ひじょうによくている部分ぶぶんがある。またしょうパウロとよばれる一派いっぱ思想しそうともちかいことが指摘してきされており、なんらかの関係かんけいがあったとかんがえられる。

カタリ運動うんどうのそもそもの起源きげんは、当時とうじのカトリック教会きょうかい聖職せいしょくしゃ汚職おしょく堕落だらく反対はんたいする民衆みんしゅう運動うんどうであったとおもわれる。 カタリには「かんとくしゃ」(perfecti)と「信徒しんと」(credentes)というふたつのグループが存在そんざいしていた。かずでいえば、かんとくしゃはほんの少数しょうすうであり、だい部分ぶぶん信徒しんとであった。信徒しんとかんとくしゃとちがって完全かんぜん禁忌きんきせられていなかった。かんとくしゃはカタリ教義きょうぎ完全かんぜん実行じっこうするものという意味いみで、きびしい禁欲きんよく生活せいかつ労働ろうどう否定ひていなど完全かんぜん世俗せぞく断絶だんぜつした生活せいかつおくることが要求ようきゅうされていた。カタリではこのかんとくしゃたちがいわば聖職せいしょくしゃとして信徒しんと指導しどうしていた。このかんとくしゃには男性だんせいでも女性じょせいでもなれたことから、カトリックとはちが女性じょせいでもたか地位ちいことができた。

みなみフランスのリムーザンでは1012ねんから1020ねんあいだにカタリえたという記録きろくがある。トゥールーズでは1022ねんにカタリ信徒しんと最初さいしょ処刑しょけいおこなわれている。シャルー教会きょうかい会議かいぎ1028ねん)およびトゥールーズ教会きょうかい会議かいぎ1056ねん)においてカタリ正式せいしき異端いたんであると宣言せんげんされたが、そのいきおいはつよまる一方いっぽうであった。

カタリ対策たいさくとして1100年代ねんだいにはさかんにカタリ地域ちいき司祭しさい説教せっきょうしゃおくまれ、説得せっとくによってカトリック教会きょうかい復帰ふっきさせる努力どりょくおこなわれた。しかし、カタリ当時とうじフランスの王権おうけんから独立どくりつしていたトゥールーズはくなど諸侯しょこう庇護ひごけ、政治せいじ問題もんだいしはじめていたため、効果こうかがあがらなかった。カトリック教会きょうかい聖職せいしょくしゃ堕落だらく見慣みなれてしまった民衆みんしゅうは、完全かんぜん禁欲きんよく生活せいかつおくるカタリかんとくしゃ姿すがたつよ感銘かんめいけ、こころひかれた。

興亡こうぼう

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1147ねん教皇きょうこうエウゲニウス3せいはカタリえていた地域ちいき説教せっきょうたちを派遣はけんしてカタリ信徒しんと穏健おんけんにカトリック教会きょうかい復帰ふっきさせようとした。しかし、クレルヴォーのベルナルドゥスなどのわずかな成功せいこうれいのぞけば、ほとんどのひとみみかたむけずに失敗しっぱいわった。

その、トゥール教会きょうかい会議かいぎ1163ねん)やだい3ラテランこう会議かいぎ1179ねん)においてカタリ禁止きんし正式せいしき決定けっていされた。当初とうしょ教皇きょうこうみなみフランスへ特使とくし派遣はけんしてカタリ信徒しんとたちにカトリック教会きょうかいへの復帰ふっきびかけるという方法ほうほうがとられていたが、みなみフランスに割拠かっきょしていた領主りょうしゅたちがフランス王権おうけんおよばない範囲はんいにいて教皇きょうこうちょう影響えいきょうりょくをおよぶことをきらい、その後押あとおしをけた地元じもと司教しきょうたちも教皇きょうこう使節しせつ介入かいにゅう拒否きょひした。

カタリ問題もんだい政治せいじ問題もんだいはじめたことを危惧きぐした教皇きょうこうちょうみなみフランスの司教しきょうたちの統治とうちけん停止ていしピエール・ド・カステルノー英語えいごばん現地げんち派遣はけんした。カステルノーはカタリ保護ほごしていた世俗せぞく君主くんしゅたちを破門はもんしたが、ローマ帰還きかんする途中とちゅう暗殺あんさつされた。確証かくしょうはないものの、教皇きょうこう使節しせつ暗殺あんさつ黒幕くろまく同地どうち領主りょうしゅトゥールーズはくであったとされている[よう出典しゅってん]

カルカソンヌにおけるカタリ追放ついほうえがいた絵画かいが(1209ねん

ここにおいて教皇きょうこうちょうはフランスおうフィリップ2せい協議きょうぎみなみフランスをみずからの支配しはいにおさめてぜんフランスを王権おうけんのもとにおきたいとねがったフランスおう思惑おもわくとカタリ(アルビ)の拡大かくだいなや教皇きょうこうちょう思惑おもわく一致いっちして、フランスおう指導しどうのもとに、1209ねん、カタリとカタリ保護ほごする諸侯しょこう撃破げきはするための十字軍じゅうじぐん編成へんせいされた。これが「アルビジョア十字軍じゅうじぐん」である。十字軍じゅうじぐんみなみフランスで抵抗ていこうする領主りょうしゅたちを撃破げきはし、一部いちぶでカタリ信徒しんと大量たいりょう虐殺ぎゃくさつした。最終さいしゅうてき1229ねんパリ和平わへい協定きょうていむすばれ、トゥールーズはくおうへの服従ふくじゅうとカトリック信仰しんこうへの復帰ふっき表明ひょうめいするというかたちでフランス南部なんぶがようやくフランスおう版図はんとまれた。この十字軍じゅうじぐん宗教しゅうきょうてき理由りゆうによるものというより、フランスおう北部ほくぶ諸侯しょこうたちが、王権おうけん服従ふくじゅうしていなかった南部なんぶ諸侯しょこうたちを屈服くっぷくさせるためにった軍事ぐんじ行動こうどうであった[よう出典しゅってん]

審問しんもんしゃは棄教をちかったもとカタリ信徒しんとたいして、衣服いふくに「黄色きいろ十字架じゅうじか」をけること要求ようきゅうした[2]

1229ねん、カタリへの対抗たいこうさくとして異端いたん審問しんもん制度せいど実施じっしされた。みなみフランスにおける異端いたん審問しんもんは13世紀せいきつうじておこなわれた。1244ねん、カタリ最後さいごとりでであったモンセギュール陥落かんらくし、こもっていたおおくのカタリ信者しんじゃ改宗かいしゅうこばんで火刑かけいしょせられた。そのらえられたカタリ指導しどうしゃたちが異端いたん審問しんもんによって処刑しょけい宣告せんこくされたうえ世俗せぞく領主りょうしゅわたされて処刑しょけいされたことで徐々じょじょみなみフランスにおけるカタリ影響えいきょうりょく低下ていかしていった。最後さいごの「かんとくしゃ」ギョーム・ベリパストがらえられたのは1321ねんであった。1330ねんぎると異端いたん審問しんもんしょ資料しりょうからカタリ名前なまええていき、信徒しんとたちは山中さんちゅうもりのがれ、各地かくち離散りさんしていった。らえられた信徒しんとおおくは処刑しょけいされたが、このさいにカタリ信仰しんこうてることちかったものは、衣服いふく黄色きいろ十字架じゅうじかけ、キリスト教徒きりすときょうととは隔離かくりされた場所ばしょでの生活せいかつ義務付ぎむづけられることつみゆるされる場合ばあいもあったという。

カタリや(同様どうよう異端いたんとされた)ヴァルドはもともとはキリスト教きりすときょう改革かいかくしようという民衆みんしゅう運動うんどうはしはっしたものでフランシスコかいなどの托鉢たくはつ修道しゅうどうかいおなじルーツにもとづいたものであった[よう出典しゅってん]。カタリ信徒しんとなかには托鉢たくはつ修道しゅうどうかい合流ごうりゅうしたものもあったという[よう出典しゅってん]

アナバプテストのうちランドマーク・バプテストは、カタリキリスト教きりすときょうであり、その信仰しんこう継承けいしょうしているとする[よう出典しゅってん]

関連かんれん記事きじ

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関連かんれん文献ぶんけん

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小説しょうせつ

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ La vie quotidienne des cathares du Langudoc, René Nelli.
  2. ^ Weis (2001), pp. 11–12.

外部がいぶリンク

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