各 かく 年代 ねんだい の白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ
本 ほん 頁 ぺーじ では、11 - 15世紀 せいき のルーシ (言語 げんご 的 てき には東 ひがし スラヴ語 ご 群 ぐん 圏 けん 。旧 きゅう キエフ・ルーシ 領 りょう )において樺 かば 皮 がわ に書 か かれた文章 ぶんしょう 群 ぐん について説明 せつめい する。樺 かば 皮 がわ を筆記 ひっき 媒材 ばいざい として用 もち いた例 れい はスカンディナヴィア、モンゴル、チベット、北 きた インド、北米 ほくべい などの広域 こういき に渡 わた って確認 かくにん されており[1] [2] [注 ちゅう 1] 、ルーシのものは白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ (しらかばもんじょ、ロシア語 ご : Берестяные грамоты 、ウクライナ語 ご : Берестяні грамоти 、ベラルーシ語 ご : Берасцяныя граматы )と呼 よ ばれる。2022年 ねん 8月 がつ の時点 じてん で、ロシアのノヴゴロド では1154枚 まい が、他 た のロシア・ウクライナ・ベラルーシの各地 かくち では計 けい 100枚 まい 以上 いじょう が出土 しゅつど している。白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ の多 おお くは様々 さまざま な社会 しゃかい 層 そう の人々 ひとびと による、当時 とうじ の生活 せいかつ が反映 はんえい された私信 ししん であり[5] [6] 、生活 せいかつ 史 し を含 ふく む歴史 れきし 学 がく 的 てき 史料 しりょう として、また東 ひがし スラヴ語 ご 群 ぐん の歴史 れきし を研究 けんきゅう する言語 げんご 学 がく 的 てき 史料 しりょう として[7] 注目 ちゅうもく されている。
(留意 りゅうい 事項 じこう )
ルーシの白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ には出土 しゅつど 順 じゅん に識別 しきべつ 番号 ばんごう がふられているが[8] 、以下 いか 、単 たん に「No.00」などと表記 ひょうき したものはノヴゴロド出土 しゅつど のものであり、それ以外 いがい のものは「〇○(出土 しゅつど 地 ち )のNo.00」などと表記 ひょうき している。
地名 ちめい は2023年 ねん 現在 げんざい の名称 めいしょう を、各国 かっこく 語 ご (ロシア語 ご ・ウクライナ語 ご ・ベラルーシ語 ご )準拠 じゅんきょ のカタカナ表記 ひょうき で記述 きじゅつ している。また、便宜上 べんぎじょう 、通称 つうしょう である「ノヴゴロド」(公式 こうしき 名称 めいしょう ヴェリーキー・ノヴゴロド)を用 もち いている。
白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ 中 ちゅう の人物 じんぶつ 名 めい は現 げん ロシア語 ご からのカタカナ表記 ひょうき で記述 きじゅつ している。またキエフ・ルーシ 期 き などの歴史 れきし 的 てき 人物 じんぶつ 、帝政 ていせい ロシア期 き 、ソビエト連邦 れんぽう 期 き の人物 じんぶつ 名 めい も便宜上 べんぎじょう ロシア語 ご 準拠 じゅんきょ のカタカナ表記 ひょうき で記述 きじゅつ している。
他 た の筆記 ひっき 媒材 ばいざい との比較 ひかく [ 編集 へんしゅう ]
ルーシのピサロ(13世紀 せいき ・ロシア)
ノヴゴロド出土 しゅつど の蝋 ろう 板 ばん
ルーシでは、遅 おそ くとも11世紀 せいき の第 だい 1四半期 しはんき から樺 かば 皮 がわ への筆記 ひっき が確認 かくにん でき、紙 かみ が安価 あんか に普及 ふきゅう する15世紀 せいき 半 なか ばには使用 しよう 例 れい がみられなくなる[9] (なお、ロシアでの紙 かみ の使用 しよう 例 れい は14世紀 せいき 半 なか ば以降 いこう からみられはじめる[10] )。白樺 しらかんば の樹皮 じゅひ を文字 もじ を書 か く材料 ざいりょう として利用 りよう するために、内皮 ないひ の脆 もろ い層 そう や外皮 がいひ の表面 ひょうめん をはがし灰汁 あく で煮 に て弾力 だんりょく 性 せい を増 ま すなどの加工 かこう が施 ほどこ されたが、こうした加工 かこう が施 ほどこ されないまま利用 りよう された樹皮 じゅひ も少 すく なくない[11] 。記述 きじゅつ に際 さい して樺 かば 皮 がわ の両面 りょうめん が使用 しよう されることはまれで、単語 たんご 間 あいだ に空白 くうはく を開 あ ける分 わ かち書 が きはなされず、大 だい 多数 たすう は中世 ちゅうせい の東 ひがし スラヴ語 ご 群 ぐん ・キリル文字 もじ によるものである。また、ピサロ(ロシア語 ご : писало )と呼 よ ばれる鉄 てつ または骨 ほね 製 せい の筆記用具 ひっきようぐ で樺 かば 皮 がわ に文字 もじ を刻 きざ む筆記 ひっき 方法 ほうほう がとられている[12] [13] 。ピサロの出土 しゅつど は白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ よりも早 はや かったが、当初 とうしょ は用途 ようと 不 ふ 詳 しょう の物品 ぶっぴん であり、白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ の発見 はっけん によって筆記用具 ひっきようぐ と判明 はんめい した[14] 。ルーシのピサロの多 おお くは一 いち 端 はし が尖 とが り、一端 いったん はへら状 じょう になっている[15] 。
ルーシでは同 どう 時代 じだい における羊皮紙 ようひし の使用 しよう も確認 かくにん されるが、樺 かば 皮 がわ は羊皮紙 ようひし に比 くら べ非常 ひじょう に安価 あんか な記録 きろく 媒材 ばいざい だった[16] 。内容 ないよう としては、羊皮紙 ようひし 史料 しりょう は宗教 しゅうきょう 関連 かんれん や政治 せいじ 上 じょう の重要 じゅうよう 事項 じこう を記述 きじゅつ したものが主 おも であるのに対 たい し[17] 、樺 かば 皮 がわ は個人 こじん の手紙 てがみ 、商 しょう 取引 とりひき の連絡 れんらく 事項 じこう 、メモなどの日常 にちじょう 的 てき な用途 ようと 、さらには羊皮紙 ようひし に記述 きじゅつ する際 さい の下書 したが きなどに用 もち いられた[17] 。官吏 かんり への嘆願 たんがん 書 しょ の草稿 そうこう である「No.831」には、羊皮紙 ようひし に清書 せいしょ してから提出 ていしゅつ せよという指示 しじ も併 あわ せて書 か かれている[18] 。概 がい して樺 かば 皮 がわ は一時 いちじ 的 てき な記録 きろく 用紙 ようし として用 もち いられ[17] 、長期 ちょうき 保存 ほぞん を求 もと める際 さい には羊皮紙 ようひし が用 もち いられた。そのため、発見 はっけん される白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ の多 おお くは記録 きろく 媒材 ばいざい としての用 よう を終 お えて廃棄 はいき されたものであり、廃棄 はいき 前 まえ に破 やぶ られたものも多 おお い。白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ の棄損 きそん は、受取 うけとり 人 じん が他者 たしゃ に読 よ まれることを防 ふせ ぐために行 おこな われたものである[19] 。また、用途 ようと を果 は たした文書 ぶんしょ が破 やぶ り捨 す てられる慣習 かんしゅう は、12世紀 せいき のノヴゴロドの叙述 じょじゅつ 家 か キリク(ru) の著 あらわ した『キリクの質問 しつもん (ru) 』にも言及 げんきゅう がみられる
[注 ちゅう 2] 。
なお、ルーシでの蝋 ろう 板 ばん (ツェーラ)の出土 しゅつど も比較的 ひかくてき 遅 おそ く、1928年 ねん にはE.カルスキー(ru) による、キエフ・ルーシ 期 き において蝋 ろう 板 ばん は使用 しよう されなかったとする見解 けんかい も出 だ されていた[21] 。しかし1954年 ねん に白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ と同 おな じく蝋 ろう 板 ばん も出土 しゅつど し、これによって、ピサロのへら状 じょう となった一端 いったん は、蝋 ろう 板 ばん の表面 ひょうめん を整 ととの えるのに用 もち いられたと判明 はんめい した[15] 。また、幼少 ようしょう の文字 もじ 学習 がくしゅう 者 しゃ の使用 しよう に関 かん しては、初 はじ めは記述 きじゅつ の比較的 ひかくてき 容易 ようい な蝋 ろう 板 ばん を用 もち い、その後 ご に樺 かば 皮 がわ を用 もち いての学習 がくしゅう に進 すす んだとみられる[22] 。ただし、蝋 ろう 板 ばん は2000年 ねん までに12枚 まい [21] (2008年 ねん にさらに1枚 まい [23] )発見 はっけん されているのみであり、普及 ふきゅう 数 すう は多 おお くはなかったとも見 み られている[21] [注 ちゅう 3] 。
参考 さんこう 画像 がぞう :樺 かば 皮 がわ の剥離 はくり (エストニア )
「No.497」
「No.201」。オンフィーム による文字 もじ の練習 れんしゅう の1枚 まい [24] 。
白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ の大 だい 部分 ぶぶん は個人 こじん 的 てき な手紙 てがみ である[5] 。手紙 てがみ の書 か き手 て が女性 じょせい であるものも複数 ふくすう 確認 かくにん されている[5] 。なお、手紙 てがみ は差出人 さしだしにん と受取 うけとり 人 じん が共 とも に知 し っている情報 じょうほう は記述 きじゅつ を省 はぶ かれるため[9] 、現代 げんだい の第三者 だいさんしゃ である我々 われわれ が内容 ないよう を解釈 かいしゃく するのに難解 なんかい なものもある。家族 かぞく 間 あいだ の手紙 てがみ の例 れい としては、「No.125」は、母 はは であるマリナが息子 むすこ のグリゴリーに服 ふく を買 か ってきてくれるよう頼 たの んだものである[25] [26] 。「No.424」では、ギュルギーがノヴゴロドに住 す む両親 りょうしん に、穀物 こくもつ の安 やす いスモレンスク かキーウ に移住 いじゅう することを勧 すす めており[27] [28] 、「No.497」は、ガブリラという人物 じんぶつ が、義理 ぎり の兄弟 きょうだい グリゴリーと姉妹 しまい のウリタをノヴゴロドに招 まね いた手紙 てがみ である[29] 。「No.377」ではミキータ(男性 だんせい 名 めい )がマラニヤへ結婚 けっこん を申 もう し込 こ んでいる[30] [31] 。
また、債務 さいむ の回収 かいしゅう や商売 しょうばい の(あるいは家庭 かてい 内 ない での)用務 ようむ 的 てき 性質 せいしつ を帯 お びた記録 きろく 文 ぶん も多数 たすう である。このうち、物品 ぶっぴん などの一覧 いちらん 表 ひょう は、記録 きろく を目的 もくてき としただけでなく、実際 じっさい に回収 かいしゅう するべきものを示 しめ した指示 しじ 書 しょ 、あるいは、14 - 15世紀 せいき の農民 のうみん が領主 りょうしゅ に対 たい して提出 ていしゅつ したチェロビトナヤ(ru) (請願 せいがん 書 しょ [32] 、祈願 きがん 書 しょ [33] )のような役割 やくわり を持 も つものだった可能 かのう 性 せい がある[注 ちゅう 4] 。
その他 た の出土 しゅつど 数 すう の少 すく ないが特徴 とくちょう 的 てき なものは、以下 いか の4種類 しゅるい に分類 ぶんるい される[34] 。
公的 こうてき 文書 ぶんしょ の下書 したが きあるいは清書 せいしょ :下書 したが きとしては、遺言 ゆいごん 状 じょう 、売買 ばいばい 契約 けいやく 、領収証 りょうしゅうしょう 、裁判所 さいばんしょ の議事 ぎじ 録 ろく などの公的 こうてき 性質 せいしつ を帯 お びるものの下書 したが きが確認 かくにん されている[注 ちゅう 5] 。また、このグループでは方言 ほうげん を用 もち いて記述 きじゅつ された箇所 かしょ はまれである[34] 。
キリスト教 きりすときょう 関連 かんれん :教会 きょうかい での祈 いの り や、ポウチャニエ(直訳 ちょくやく :説教 せっきょう [37] )の書 か かれたもの、イコン の注 ちゅう 文書 ぶんしょ など[注 ちゅう 6] 。このうち「No.419」は、祈 いの りの言葉 ことば をいくつか抜粋 ばっすい したものが3枚 まい の樺 かば 皮 がわ に記 しる されており、縫 ぬ い穴 あな の跡 あと 、2つに畳 たた んだ跡 あと から、冊子 さっし 状 じょう に製本 せいほん したものと確認 かくにん された[40] [41] 。
文学 ぶんがく ・民間 みんかん 伝承 でんしょう 的 てき 内容 ないよう :文学 ぶんがく 作品 さくひん の抜粋 ばっすい 、民間 みんかん 伝承 でんしょう の呪文 じゅもん であるザゴボル(ru) 、なぞなぞ 、ジョーク 、現在 げんざい でいう個人 こじん ファイナンス の教訓 きょうくん など[注 ちゅう 7] 。このうち、1160年代 ねんだい - 1210年代 ねんだい のものとみられる「トルジョークのNo.17」は、キリル・トゥーロフスキー (ベラルーシ語 ご :キルィラ・トゥラウスキ[42] / トゥーラウ のキルィラ)の著述 ちょじゅつ の一部 いちぶ である[43] 。
教育 きょういく ・学習 がくしゅう 関連 かんれん :教育 きょういく に関 かん する指示 しじ 書 しょ や、文字 もじ や文 ぶん を練習 れんしゅう したもの[44] 。このうち、1956年 ねん に発見 はっけん された複数 ふくすう の白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ (「No.199 - 210、331」)は、オンフィーム という、当時 とうじ 6、7歳 さい だったと推測 すいそく される13世紀 せいき の少年 しょうねん が学習 がくしゅう に用 もち いたものとみなされている[5] [45] 。
14世紀 せいき のノヴゴロド
白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ はノヴゴロド 出土 しゅつど のものが圧倒的 あっとうてき 多数 たすう を占 し める[17] 。その理由 りゆう の1 ひと つは地理 ちり 的 てき 環境 かんきょう にある。廃棄 はいき された白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ が、水分 すいぶん を多量 たりょう に含 ふく むノヴゴロドの土壌 どじょう に沈 しず み込 こ み空気 くうき から遮断 しゃだん されたことが、白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ の保存 ほぞん につながった[5] 。(なお、中世 ちゅうせい キーウ の市街地 しがいち ポジール の場合 ばあい 、水源 すいげん は地下 ちか およそ4 - 5mの位置 いち にあったとされる[46] 。)また、インクの塗布 とふ ではなく、筆記 ひっき 媒材 ばいざい を彫 ほ る記述 きじゅつ 方法 ほうほう だったことも、判別 はんべつ しうる文字 もじ の保存 ほぞん につながった[12] 。加 くわ えて、ノヴゴロド都 と 市民 しみん が、他 た の中世 ちゅうせい の諸 しょ 都市 とし に比 ひ して高 たか い識字 しきじ 力 りょく を有 ゆう していたとみられる[17] 。
そして、白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ が15世紀 せいき 後半 こうはん 以降 いこう の地層 ちそう から出土 しゅつど しなくなるのは、紙 かみ の普及 ふきゅう という技術 ぎじゅつ 的 てき 要因 よういん とともに、経済 けいざい ・政治 せいじ 的 てき 理由 りゆう によるノヴゴロドの凋落 ちょうらく にも原因 げんいん があると指摘 してき されている[47] 。バルト海 ばるとかい に通 つう じる河川 かせん ヴォルホフ川 がわ 沿岸 えんがん の都市 とし であったノヴゴロドは商業 しょうぎょう 都市 とし として繁栄 はんえい し[47] 、1392年 ねん にはハンザ同盟 どうめい とニブル条約 じょうやく (ru) を締結 ていけつ していた[48] [注 ちゅう 8] 。しかし15世紀 せいき にはハンザ同盟 どうめい との対立 たいりつ 、またリヴォニア騎士 きし 団 だん との戦争 せんそう (1443年 ねん - 1448年 ねん 、ノヴゴロド・リヴォニア戦争 せんそう (ru) )によって貿易 ぼうえき 活動 かつどう は衰退 すいたい し、ヴィボルグ 、ナルヴァ 、ストックホルム など沿バルト海 ばるとかい の競争 きょうそう 相手 あいて に水 みず をあけられることとなった[49] 。ルーシ内部 ないぶ では、台頭 たいとう するモスクワ大公 たいこう 国 こく からの圧力 あつりょく を15世紀 せいき 半 なか ばから受 う け(1456年 ねん - 1478年 ねん 、モスクワ・ノヴゴロド戦争 せんそう (ru) )、1478年 ねん にはモスクワ大公 たいこう 国 こく に併合 へいごう されている[50] 。
記述 きじゅつ 年代 ねんだい の推定 すいてい 方法 ほうほう [ 編集 へんしゅう ]
それぞれの白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ の書 か かれた年代 ねんだい の推定 すいてい は、主 おも に年輪 ねんりん 年代 ねんだい 学 がく に基 もと づく測定 そくてい によってなされる[17] 。特 とく にノヴゴロドでは、頻繁 ひんぱん に増補 ぞうほ がなされた同 どう 時代 じだい の木製 もくせい 舗装 ほそう 道路 どうろ (泥 どろ 地 ち の上 うえ に敷 し かれ、沈下 ちんか すれば新 あら たな木材 もくざい をその上 うえ に敷設 ふせつ した[45] )が層 そう をなして出土 しゅつど するため、他 た の都市 とし よりも正確 せいかく に年代 ねんだい が測定 そくてい されており、その誤差 ごさ は30 - 40年 ねん とみられる。ノヴゴロドの発掘 はっくつ 調査 ちょうさ では、考古 こうこ 学者 がくしゃ B.コルチン(ru) と植物 しょくぶつ 学者 がくしゃ V.ヴィフロフ(ru) が、年輪 ねんりん 年代 ねんだい 学 がく による測定 そくてい 法 ほう を確立 かくりつ させた[51] 。また、年代 ねんだい 記 き に記 しる された歴史 れきし 的 てき 人物 じんぶつ や出来事 できごと について言及 げんきゅう されているものもあり[注 ちゅう 9] 、年輪 ねんりん 年代 ねんだい 学 がく による測定 そくてい と組 く み合 あ わせることで、白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ の書 か かれた時期 じき を推定 すいてい できたものもある[34] 。近年 きんねん では、白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ の出土 しゅつど 数 すう の累積 るいせき により、文字 もじ の形状 けいじょう (古 こ 書体 しょたい 学 がく )や表記 ひょうき 上 じょう の形式 けいしき などの面 めん から推定 すいてい する方法 ほうほう が言語 げんご 学者 がくしゃ のA.ザリズニャク(ru) から提唱 ていしょう され、年輪 ねんりん 年代 ねんだい 学 がく による推定 すいてい の難 むずか しい樺 かば 皮 がわ に活用 かつよう されている[34] 。
「No.278」。ドイツ語 ご 訳 やく 付 づけ
考古学 こうこがく 的 てき 発掘 はっくつ による現物 げんぶつ 発見 はっけん 以前 いぜん から、樺 かば 皮 がわ への記述 きじゅつ の存在 そんざい は知 し られていた[16] 。15世紀 せいき の修道 しゅうどう 士 し イオシフ・ヴォロツキー(ru) は、清貧 せいひん を旨 むね とする修道 しゅうどう 士 し は自身 じしん の本 ほん を(高価 こうか な)羊皮紙 ようひし ではなく樺 かば 皮 がわ に執筆 しっぴつ していた、と叙述 じょじゅつ している[54] 。また、17 - 19世紀 せいき の古 こ 儀式 ぎしき 派 は の人々 ひとびと の手 て による、樺 かば 皮 がわ を製本 せいほん した本 ほん が現存 げんそん しており、1930年 ねん にはヴォルガ川 がわ 河畔 かはん のテルノフカ(ru) (ウヴェク 対岸 たいがん )で、14世紀 せいき のジョチ・ウルス によるモンゴル文字 もじ の記 しる された樺 かば 皮 がわ が発見 はっけん されていた[55] [注 ちゅう 10] 。なお、古 こ 儀式 ぎしき 派 は ならびにジョチ・ウルスの文章 ぶんしょう は、インク を用 もち いて記述 きじゅつ されていた。
ルーシの白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ の最初 さいしょ の発見 はっけん は、19世紀 せいき 末 まつ のノヴゴロド において、郷土 きょうど 史家 しか のV.ペレドリスキー(ru) によるものであった。ペレドリスキー自身 じしん は古 こ 東 ひがし スラヴ語 ご や古 こ 書体 しょたい 学 がく に明 あか るくなかったため読解 どっかい はできなかったが、自分 じぶん たちの祖先 そせん の書 か いた文章 ぶんしょう であると認識 にんしき し、第 だい 一 いち 発見 はっけん 者 しゃ である農民 のうみん たちからの購入 こうにゅう や、自身 じしん による発掘 はっくつ を行 おこな い収集 しゅうしゅう を始 はじ めた[56] 。ペレドリスキーはノヴゴロド市内 しない に私立 しりつ 博物館 はくぶつかん を設立 せつりつ し、発見 はっけん 物 ぶつ を展示 てんじ したが、当時 とうじ (19世紀 せいき 末 まつ )の農民 のうみん たちの落書 らくが きや偽造 ぎぞう であるなどの評価 ひょうか を受 う けることとなった[56] [注 ちゅう 11] 。また、ペレドスキーの死後 しご 、博物館 はくぶつかん は国有 こくゆう 化 か され、収集 しゅうしゅう も1920年代 ねんだい に散逸 さんいつ した[56] 。
1930年代 ねんだい になると、ノヴゴロドでは考古 こうこ 学者 がくしゃ A.アルツィホフスキー(ru) の指揮 しき する調査 ちょうさ 隊 たい による発掘 はっくつ が行 おこな われた[58]
。1930年代 ねんだい の発掘 はっくつ では、樺 かば 皮 がわ 、蝋 ろう (蝋 ろう 板 ばん は未 み 発見 はっけん )、また上述 じょうじゅつ の筆記用具 ひっきようぐ ピサロが複数 ふくすう 発見 はっけん されたが、文章 ぶんしょう の記 しる された樺 かば 皮 がわ の発見 はっけん には至 いた らなかった。なお、この段階 だんかい ではピサロの用途 ようと は判断 はんだん できず、釘 くぎ 、髪 かみ 止 と め、あるいは未知 みち の物品 ぶっぴん 等 とう と記録 きろく された。アルツィホフスキーは文字 もじ の書 か かれた樺 かば 皮 がわ が存在 そんざい するとの仮説 かせつ を立 た てていたが、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん (独 どく ソ戦 せん )によって調査 ちょうさ は中断 ちゅうだん された[9] 。
1940年代 ねんだい 後半 こうはん に調査 ちょうさ が再開 さいかい された後 のち 、1951年 ねん 7月 がつ 26日 にち [9] 、アルツィホフスキーの調査 ちょうさ 隊 たい は、ノヴゴロドのネレフスキー区 く (ru) (ネレフスキー・コネツ[注 ちゅう 12] )において、1枚 まい 目 め の白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ を発見 はっけん した。この「No.1」の第 だい 一 いち 発見 はっけん 者 しゃ は、産前 さんぜん 産後 さんご 休業 きゅうぎょう 中 なか の副業 ふくぎょう として調査 ちょうさ に参加 さんか していたノヴゴロドの女性 じょせい N.アクロワであり、土中 どちゅう から巻物 まきもの 状 じょう の樺 かば 皮 がわ を発見 はっけん したアクロワから、発見 はっけん 区域 くいき の担当 たんとう 者 しゃ の長 ちょう であったG.アヴドゥシナ(ru) へ、そしてアルツィホフスキーへと連絡 れんらく が伝 つた わった[61] 。「No.1」は洗浄 せんじょう 処理 しょり の後 のち 、広 ひろ げられてガラス板 ばん に挟 はさ み込 こ まれ、古 こ 書体 しょたい 学 がく の専門 せんもん 家 か であったM.チホミロフ(ru) の元 もと に送 おく られた。なお、第 だい 一 いち 発見 はっけん 者 しゃ のアクロワはアルツィホフスキーから賞金 しょうきん を授与 じゅよ されている[62] 。
1951年 ねん 中 ちゅう には10枚 まい の白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ が発見 はっけん され、最 もっと も古 ふる い「No.9」は1160年 ねん - 1180年 ねん ごろのものと判別 はんべつ された[63] 。「No.1」は1380年 ねん - 1400年 ねん ごろの、収入 しゅうにゅう あるいは支払 しはら いの記録 きろく と解読 かいどく された[64] 。ただし、発見 はっけん 当初 とうしょ 、ソヴィエト科学 かがく におけるイデオロギー統制 とうせい (ru) によって、報道 ほうどう 機関 きかん は発見 はっけん に関 かん する明確 めいかく な説明 せつめい を得 え ることができなかった[65] 。
スモレンスク出土 しゅつど の白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ
「ヴィーツェプスクのNo.1」
ノヴゴロド以外 いがい では、1952年 ねん のスモレンスク (D.アヴドゥシン(ru) による。以下 いか 括弧 かっこ 内 ない は調査 ちょうさ 隊 たい を指揮 しき した学者 がくしゃ の名 な 。)を初 はじ めとして、1958年 ねん にプスコフ (G.グロズディロフ)、1959年 ねん にヴィーツェプスク (建設 けんせつ 工事 こうじ 中 ちゅう の発見 はっけん )[66] 、1966年 ねん にスタラヤ・ルーサ (A.メドヴェージェフ(ru) )[67] [68] 、1980年 ねん にムスツィスラウ (L.アレクセエフ(ru) )[69] 、1983年 ねん にトヴェリ [69] 、1985年 ねん にトルジョーク [70] 、1988年 ねん にはモスクワ ・赤 あか の広場 ひろば (S.チェルノフ(ru) )[69] 、またリヴィウ州 しゅう のズヴェヌィーホロド (I.スヴェシニコフ(ru) )[67] において、それぞれ各地 かくち での1枚 まい 目 め の白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ が発見 はっけん された。20世紀 せいき 末 まつ の時点 じてん で計 けい 800を越 こ える白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ が出土 しゅつど し、その大 だい 部分 ぶぶん はノヴゴロドでの発見 はっけん だった[5] 。
21世紀 せいき においても各地 かくち で発掘 はっくつ 調査 ちょうさ がおこなわれ(なお、工事 こうじ 現場 げんば や個人 こじん の敷地 しきち 内 ない から偶然 ぐうぜん 出土 しゅつど する例 れい もみられた[71] [72] 。)、2007年 ねん 7月 がつ の時点 じてん での出土 しゅつど 総数 そうすう は1000を越 こ えた[73] 。ノヴゴロド単独 たんどく では、2010年 ねん 5月 がつ 初 はじ めに970枚 まい を越 こ え[74] 、2017年 ねん 10月 がつ 7日 にち には「No.1101」が発見 はっけん された[75] 。
各 かく 都市 とし では、2007年 ねん 8月 がつ にモスクワ・クレムリン 内 うち のタイニツキー庭園 ていえん (ru) [注 ちゅう 13] において発見 はっけん された「モスクワのNo.3(ru) 」はインクを用 もち いて記述 きじゅつ されていた。なお、インクを用 もち いたものは1952年 ねん 出土 しゅつど の「No.13」(ただし判読 はんどく 不能 ふのう [77] )、1972年 ねん 出土 しゅつど の「No.496」があるのみで[78] [79] 、「モスクワのNo.3」はこれに次 つ ぐ3枚 まい 目 め だった。2009年 ねん にスモレンスクでは、1980年代 ねんだい 以来 いらい の、同地 どうち で16番目 ばんめ の出土 しゅつど がなされた。これは棄損 きそん された手紙 てがみ の最後 さいご の行 くだり であり、「ラヂヤー(ru) (船 ふね の廃語 はいご [80] )がなくなった」と記 しる されていた[81] 。2014年 ねん には、ムスツィスラウの12世紀 せいき 前半 ぜんはん の地層 ちそう から出土 しゅつど した樺 かば 皮 がわ (I.マルザリュク(ru) )に、何 なん らかの2文字 もじ と、リューリク朝 あさ の徽章 きしょう である三叉 みつまた 槍 やり が認 みと められたと報道 ほうどう された[82] 。2021年 ねん 8月 がつ 14日 にち にはリャザン で初 はつ の出土 しゅつど がなされ、リャザンは白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ が出土 しゅつど した13番目 ばんめ の都市 とし (現在 げんざい の行政 ぎょうせい 上 じょう の「市 し 」ではなく、キエフ・ルーシ期 き の都市 とし スタラヤ・リャザン を数 かず に含 ふく む。)となった[83] 。
他 た のキエフ・ルーシ期 き の都市 とし においては、2023年 ねん 時点 じてん では文字 もじ の書 か かれた白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ の出土 しゅつど はないものの、2008年 ねん にはブシク において樺 かば 皮 がわ と骨 ほね 製 せい のピサロが[84] 、2010年 ねん にはキーウ のポジール において、11 - 12世紀 せいき 端境期 はざかいき の樺 かば 皮 がわ が[46] 出土 しゅつど しており、白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ 発見 はっけん の可能 かのう 性 せい が示唆 しさ されている。また、1140年 ねん - 1160年 ねん 頃 ごろ の「No.675」には、キーウ、ヴェリーキエ・ルーキ 、スーズダリ についての[85] [86] 、12世紀 せいき 第 だい 3四半期 しはんき の「No.1004」にはチェルニーヒウ についての言及 げんきゅう がなされている[87] 。その内容 ないよう はどちらも商 しょう 取引 とりひき に関 かん する家族 かぞく 間 あいだ の私信 ししん である[85] [87] 。
2023年 ねん 7月 がつ 12日 にち 時点 じてん での、出土 しゅつど 地 ち と出土 しゅつど 数 すう は以下 いか のとおりである。
歴史 れきし 学 がく 的 てき 史料 しりょう として[ 編集 へんしゅう ]
ノヴゴロドの発掘 はっくつ 現場 げんば の1つ。白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ の出土 しゅつど もあり。
「No.199」(トゥエス (容器 ようき )を再 さい 利用 りよう した樺 かば 皮 がわ の両面 りょうめん )。左 ひだり は文字 もじ の練習 れんしゅう 、右 みぎ は手紙 てがみ の定型 ていけい 文 ぶん の練習 れんしゅう と、「私 わたし は怪獣 かいじゅう 」と添 そ えられた絵 え
白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ によって、考古学 こうこがく 的 てき 発見 はっけん 物 ぶつ や各種 かくしゅ 史料 しりょう の補遺 ほい 、あるいは新 あら たな発見 はっけん がなされており、以下 いか のような分野 ぶんや における研究 けんきゅう の史料 しりょう となっている。なお、歴史 れきし 学 がく 分野 ぶんや における著名 ちょめい な研究 けんきゅう 者 しゃ としては、A.アルツィホフスキー(ru) 、L.チェレプニン(ru) 、V.ヤーニン(ru) などが挙 あ げられる。白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ に基 もと づく史学 しがく 的 てき 発見 はっけん には以下 いか のようなものがある。
白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ の記述 きじゅつ から、考古学 こうこがく 的 てき 発見 はっけん 物 ぶつ のより詳細 しょうさい な情報 じょうほう が見出 みいだ されることがある。例 たと えば、1973年 ねん からの発掘 はっくつ で出土 しゅつど した屋敷 やしき の遺構 いこう が、同時 どうじ に発見 はっけん された白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ から、聖職 せいしょく 者 しゃ でありイコン画家 がか (ru) のオリセイ・グレチン(ru) のものであることが明 あき らかになった[95] 。同 おな じく、ノヴゴロド出土 しゅつど の別 べつ の遺構 いこう は、白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ の記述 きじゅつ から、クニャージ (公 おおやけ )とポサードニク (都市 とし の長 ちょう )による合同 ごうどう 裁判所 さいばんしょ であったことが明 あき らかになった。
政治 せいじ 史 し ・法制 ほうせい 史 し [ 編集 へんしゅう ]
歴史 れきし 学 がく 的 てき 各 かく 分野 ぶんや においては、レートピシ (ルーシの年代 ねんだい 記 き )や教会 きょうかい 史料 しりょう 等 とう には充分 じゅうぶん に記 しる されなかった事象 じしょう が、白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ の記述 きじゅつ によって明 あき らかになっている。
政治 せいじ 史 し としては、ノヴゴロドのボヤーレ (貴族 きぞく )の系譜 けいふ や、その政治 せいじ 的 てき 役割 やくわり が明 あき らかになった。例 たと えばV.ヤーニンの研究 けんきゅう によって、オンツィフォルら一族 いちぞく (ru) (13 - 14世紀 せいき 。ボヤーレ階級 かいきゅう でノヴゴロドのポサードニクを代々 だいだい 務 つと めた。ルカ(ru) 、オンツィフォル(ru) 、ユーリー(ru) など。)の動向 どうこう と、ノヴゴロドのボヤーレの父系 ふけい 大 だい 家族 かぞく 集団 しゅうだん 的 てき な特質 とくしつ が導 みちび きだされている[96] [45] 。A.ギッピウス(ru) の研究 けんきゅう では、12世紀 せいき のペトロク・ミハイロヴィチ(ru) によるボヤーレの寡頭政治 かとうせいじ が明 あき らかになった。また、L.チェレプニンは白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ の記述 きじゅつ から、中世 ちゅうせい ルーシにおいては播種 はしゅ 用 よう の種子 しゅし (ライ麦 らいむぎ など)が領主 りょうしゅ の管轄 かんかつ 下 か に置 お かれていた多数 たすう の証拠 しょうこ を見出 みいだ している[97] 。
12 - 13世紀 せいき 端境期 はざかいき の「No.531」は、農民 のうみん の妻 つま アンナがその兄 あに に裁判 さいばん の証人 しょうにん となってほしいことを伝 つた えた手紙 てがみ である。「No.531」は、人妻 ひとづま アンナが売女 ばいた と呼 よ ばれたことを侮辱 ぶじょく 罪 ざい とみなしている点 てん [98] 、またアンナの係争 けいそう 相手 あいて がアンナを出頭 しゅっとう させた手続 てつづ きの記述 きじゅつ から[99] 、15世紀 せいき の写本 しゃほん が残 のこ るのみのルーシの各種 かくしゅ の法典 ほうてん に則 のっと る法 ほう の運用 うんよう が、写本 しゃほん の200 - 250年 ねん 前 まえ になされていたことを示 しめ している[100] 。
白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ によって、中世 ちゅうせい ルーシの広範囲 こうはんい において読 よ み書 か きが行 おこな われていたことが証明 しょうめい されている[101] 。また、多数 たすう 出土 しゅつど する筆記用具 ひっきようぐ ピサロ(ノヴゴロド・ネレフスキー区 く (ru) 単独 たんどく では1998年 ねん までに70本 ほん 以上 いじょう が出土 しゅつど [102] 、A.メドヴェージェフ(ru) によればロシア国内 こくない の28の都市 とし で出土 しゅつど [103] )がその傍証 ぼうしょう となっている[104] 。中世 ちゅうせい ルーシの都市 とし 民 みん は、幼年 ようねん 時代 じだい から文字 もじ を教 おそ わり[105] [注 ちゅう 14] 、女性 じょせい の書 か き手 て も含 ふく めて私信 ししん を書 か いていた[5] 。
少年 しょうねん オンフィーム による「No.199」などは、年代 ねんだい 記 き や聖 せい 人伝 ひとづて 中 なか に示唆 しさ されている読 よ み書 か き教育 きょういく が、確 たし かに行 おこな われていたことを示 しめ す史料 しりょう である[101] 。なお、白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ 中 ちゅう には「ба ва га да жа…」(ba va ga da ja…)のように1音節 おんせつ を1単位 たんい として練習 れんしゅう したものが複数 ふくすう あるが、この1音節 おんせつ ごとに練習 れんしゅう する方法 ほうほう は、ロシア最初 さいしょ 期 き の印刷 いんさつ 業者 ぎょうしゃ の1人 ひとり であるイヴァン・フョードロフ(ru) によるキリル文字 もじ の練習 れんしゅう 教本 きょうほん (1574年 ねん 。印 しるし 刷本 すりほん )にも示 しめ されており[106] 、20世紀 せいき 初頭 しょとう の帝政 ていせい ロシア においても教育 きょういく 場面 ばめん での採用 さいよう 例 れい がみられる[107] 。
女性 じょせい の書 か き手 て による私信 ししん としては、例 たと えば「No.9」は、自分 じぶん を離別 りべつ した夫 おっと が新 あら たな妻 つま と去 さ ってしまったことを伝 つた える手紙 てがみ であり[63] 、「No.752」は、12世紀 せいき の若 わか い女性 じょせい による恋文 こいぶみ である[注 ちゅう 15] 。また、夫 おっと に指示 しじ を出 だ す妻 つま の手紙 てがみ も確認 かくにん されている。一方 いっぽう 、各種 かくしゅ の記録 きろく 文 ぶん からは、女性 じょせい の契約 けいやく 主 ぬし や保証人 ほしょうにん 、また法廷 ほうてい への登庁 とうちょう や、手工業 しゅこうぎょう 、金融 きんゆう 業 ぎょう (高利貸 こうりが し )に従事 じゅうじ する女性 じょせい の姿 すがた が確認 かくにん されている[109] [注 ちゅう 16] 。
また、食品 しょくひん 、衣類 いるい などの生活 せいかつ 物資 ぶっし や手工業 しゅこうぎょう などに関 かん する情報 じょうほう が見出 みいだ される。例 たと えば12世紀 せいき 前半 ぜんはん の「No.842」は[61] 、ロシアにおける、ソーセージ について言及 げんきゅう した最古 さいこ の史料 しりょう とされる[111] 。信仰 しんこう に関 かん するものとしては、「No.930」などのいくつかのものからは、民間 みんかん 伝承 でんしょう の呪文 じゅもん であるザゴボル(ru) の古 ふる さが示 しめ されている。また「No.674」はキリスト教 きりすときょう の詩篇 しへん の1節 せつ を鏡 かがみ 文字 もじ にして書 か いたものであり、鏡 かがみ 文字 もじ は護符 ごふ 的 てき な効果 こうか をより強 つよ める魔術 まじゅつ 的 てき 要素 ようそ を持 も つものだった。すなわち、「No.674」はキリスト教 きりすときょう (正教会 せいきょうかい )と、キリスト教 きょう から見 み た異教 いきょう との二 に 重 じゅう 信仰 しんこう の存在 そんざい を示 しめ している[112] 。同 おな じく、「No.734」では熱病 ねつびょう を治 なお すと考 かんが えられていた大 だい 天使 てんし シハイル(ru) の名 な が3回 かい 繰 く り返 かえ されているが、ロシアの民俗 みんぞく 学 がく では、呪文 じゅもん の3回 かい の繰 く り返 かえ しは魔法 まほう の力 ちから を増強 ぞうきょう させるものと分析 ぶんせき されている[113] 。
言語 げんご 学 がく 的 てき 史料 しりょう として[ 編集 へんしゅう ]
「No.591」
「No.109」。о - ъ、ь - е、е - ѣの交換 こうかん が随所 ずいしょ にみられる。
「No.292」。文頭 ぶんとう は「神 かみ (フィンランド語 ご : Jumala (ru) )の矢 や 」(=雷 かみなり )と読解 どっかい される[114] 。
1950 - 1970年代 ねんだい の多数 たすう の出土 しゅつど と、N.メシチェルスキー(ru) 、R.ヤコブソン 、V.ボルコフスキー(ru) 、L.ジュコフスカヤ(ru) ら言語 げんご 学者 がくしゃ の研究 けんきゅう によって、白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ 中 ちゅう の語彙 ごい 、文法 ぶんぽう 、正書法 せいしょほう などに関 かん する多 おお くのデータが蓄積 ちくせき されていた。ただし、発見 はっけん 当初 とうしょ は、言語 げんご 学 がく 的 てき 史料 しりょう としての価値 かち をそれほど期待 きたい されてはいなかった[7] 。しかし1980年代 ねんだい のA.ザリズニャク(ru) の研究 けんきゅう によって、白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ 内 ない で体系 たいけい だった文法 ぶんぽう 、用字 ようじ 法 ほう が用 もち いられていることが明 あき らかになった。白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ 中 ちゅう で用 もち いられた言語 げんご は古 こ ノヴゴロド方言 ほうげん と分類 ぶんるい され、これまでの読解 どっかい についての見直 みなお しも行 おこな われた[注 ちゅう 17] 。現在 げんざい 新 あら たに発見 はっけん される白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ の研究 けんきゅう には、古 こ ノヴゴロド方言 ほうげん を考慮 こうりょ した分析 ぶんせき が行 おこな われている。また、同 どう 時代 じだい の正書法 せいしょほう に則 のっと った書 か き言葉 ことば (且 か つ、書 か き手 て の多 おお くは聖職 せいしょく 者 しゃ などの知識 ちしき 層 そう )である教会 きょうかい スラヴ語 ご の史料 しりょう に対 たい し、白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ は、様々 さまざま な社会 しゃかい 的 てき 階層 かいそう の人々 ひとびと の話 はな し言葉 ことば を反映 はんえい している傾向 けいこう もあり、東 ひがし スラブ語 ご 群 ぐん に属 ぞく する言語 げんご の歴史 れきし の研究 けんきゅう に関 かん する重要 じゅうよう な史料 しりょう でもある[115] 。
古 こ ノヴゴロド方言 ほうげん [ 編集 へんしゅう ]
ノヴゴロド公国 こうこく (共和 きょうわ 国 こく ) 内 うち の都市 とし であったノヴゴロド 、スタラヤ・ルーサ 、トルジョーク から出土 しゅつど した白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ の大 だい 部分 ぶぶん は、音声 おんせい 学 がく 、形態 けいたい 論 ろん から見 み て、またいくつかの語彙 ごい の使用 しよう に関 かん して、古 こ ノヴゴロド方言 ほうげん を用 もち いて書 か かれている。
白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ 発見 はっけん 以前 いぜん からも、教会 きょうかい スラヴ語 ご などによって書 か かれた羊皮紙 ようひし 史料 しりょう 中 ちゅう の挿話 そうわ 部分 ぶぶん から、ノヴゴロド 、並 なら びにプスコフ における方言 ほうげん (古 こ プスコフ方言 ほうげん (ru) )の存在 そんざい が指摘 してき されていたが、白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ によって研究 けんきゅう が躍進 やくしん することとなった。例 たと えば、ザリズニャクによる「No.247(ru) 」を中心 ちゅうしん とした研究 けんきゅう によって、初期 しょき の古 こ ノヴゴロド方言 ほうげん には、他 た の多 おお くのスラヴ系 けい 言語 げんご にみられる第 だい 二 に 口蓋 こうがい 化 か [7] / 第 だい 二 に 次 じ 口蓋 こうがい 化 か [116] (ru) [注 ちゅう 18] が存在 そんざい しなかったことが明 あき らかになった[116] 。なお、この傾向 けいこう は11 - 12世紀 せいき に顕著 けんちょ であり、時代 じだい とともに口蓋 こうがい 化 か があらわれる[117] 。また、音韻 おんいん 、形態 けいたい 、語彙 ごい などの面 めん から、古 こ ノヴゴロド方言 ほうげん と西 にし スラヴ語 ご 群 ぐん との共通 きょうつう 点 てん の多 おお さが指摘 してき されている[118] 。
文字 もじ と用字 ようじ 法 ほう [ 編集 へんしゅう ]
1030年代 ねんだい の地層 ちそう から出土 しゅつど した、最 もっと も古 ふる い白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ の一 ひと つである「No.591」や[119] 、12世紀 せいき の「No.460」などは[120] 、キリル文字 もじ アルファベット (アズブカ[注 ちゅう 19] )が羅列 られつ されたものである[122] 。この羅列 られつ された文字 もじ の種類 しゅるい (例 たと えば「No.591」は32文字 もじ [123] 、「No.460」は34文字 もじ [118] )は時代 じだい によって異 こと なっており、キリル文字 もじ の変遷 へんせん に関 かん する研究 けんきゅう の重要 じゅうよう 史料 しりょう となっている。なお、各 かく 時代 じだい の白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ に記 しる されたキリル文字 もじ の一覧 いちらん と、同 おな じ時代 じだい の羊皮紙 ようひし 史料 しりょう 中 ちゅう で使用 しよう されている文字 もじ とが一致 いっち していないものもある[124] 。また、「No.591」と同 どう 時期 じき にキーウ ・聖 せい ソフィア大 だい 聖堂 せいどう の壁 かべ に刻 きざ まれた落書 らくが きの中 なか にも「アズブカ」があるが、「No.591」と聖 せい ソフィア大 だい 聖堂 せいどう の落書 らくが き(uk) との差異 さい から、ルーシでキリル文字 もじ が用 もち いられてから数 すう 世紀 せいき 間 あいだ 、日常 にちじょう 生活 せいかつ に対応 たいおう した簡素 かんそ 化 か された文字 もじ 知識 ちしき (並 なら びに教育 きょういく )と、写字 しゃじ 生 せい など職業 しょくぎょう 者 しゃ に要求 ようきゅう された文字 もじ 知識 ちしき と教育 きょういく の、二 ふた つの水準 すいじゅん が存在 そんざい したとみられる[125] [注 ちゅう 20] 。
また、ザリズニャクの研究 けんきゅう によれば、12世紀 せいき 半 なか ば - 14世紀 せいき 末 まつ の白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ の大 だい 部分 ぶぶん においては、同 どう 時代 じだい の羊皮紙 ようひし 史料 しりょう とは異 こと なる用字 ようじ 法 ほう が用 もち いられているとされる。ザリズニャクはこれをヴィトヴァヤ・グラフィチェスカヤ・システマ(ru) (直訳 ちょくやく :日常 にちじょう 生活 せいかつ の書法 しょほう の規則 きそく )と呼 よ んでいる[128] 。この用字 ようじ 法 ほう は、例 たと えばо とъ 、ь とе 、еとѣ を一定 いってい の法則 ほうそく に従 したが って置 お き換 か えて書 か くものであり[116] 、これに則 のっと った「No.891」では、「конь(馬 うま )」が「къне」と表記 ひょうき されている[129] 。
白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ 中 ちゅう の数 すう 十 じゅう の単語 たんご は、他 た の羊皮紙 ようひし 史料 しりょう の中 なか では用 もち いられていないものである。具体 ぐたい 的 てき には、農村 のうそん での事業 じぎょう に関 かか わるもの、日常 にちじょう 生活 せいかつ のエチケット 、人 ひと とのかかわり方 かた (例 たと えば、相手 あいて への気 き づかいや懸念 けねん に関 かん する単語 たんご )に関 かん するもの、また、性的 せいてき な卑語 ひご などである[注 ちゅう 21] 。これらは総 そう じて日常 にちじょう 生活 せいかつ に関 かか わる単語 たんご であり、高次 こうじ のテーマとそれにふさわしい単語 たんご を選択 せんたく して著述 ちょじゅつ された文学 ぶんがく 的 てき 著作 ちょさく 物 ぶつ には、入 はい り込 こ む余地 よち のなかった単語 たんご でもある(例 たと えば、年代 ねんだい 記 き 上 じょう にはノヴゴロドの手工業 しゅこうぎょう 者 しゃ に関 かん する記述 きじゅつ は全 まった く見出 みいだ されない[133] )。
さらに、数 かず は少 すく ないものの、他 た 言語 げんご による記述 きじゅつ もみられる。具体 ぐたい 的 てき には「No.292(ru) 」はカレリア語 ご (キリル文字 もじ 表記 ひょうき )[114] 、「No.488」はラテン語 らてんご (ラテン文字 もじ )[134] 、「No.552」はギリシア語 ご (ギリシャ文字 もじ )[135] 、「No.753」は低地 ていち ドイツ語 ご (ラテン文字 もじ )[136] 、「スモレンスクのNo.11」は北 きた ゲルマン語 ご (ルーン文字 もじ )[137] によって記述 きじゅつ されている。このうち、「No.292」は13世紀 せいき 初期 しょき に書 か かれたまじない文 ぶん とみられ[114] 、バルト・フィン諸語 しょご ならびにカレリア語 ご の史料 しりょう としては現時点 げんじてん で最古 さいこ のものである[138] 。また、14世紀 せいき 後半 こうはん の「No.403」の下部 かぶ は、いくつかの単語 たんご (解釈 かいしゃく に諸説 しょせつ あり)の、古 こ ロシア語 ご といずれかのバルト・フィン諸語 しょご の対訳 たいやく を記録 きろく したものとみられる[139] 。
(参考 さんこう )旧 きゅう ソ連 それん 地域 ちいき の樺 かば 皮 がわ 使用 しよう [ 編集 へんしゅう ]
ソビエト連邦 れんぽう 期 き の切手 きって (1978年 ねん )、下部 かぶ に「白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ 13世紀 せいき 」との記載 きさい がある
本 ほん 頁 ぺーじ の地域 ちいき ・時代 じだい 以外 いがい の、旧 きゅう ソビエト連邦 れんぽう 地域 ちいき 内 ない における、樺 かば 皮 がわ に記述 きじゅつ された文章 ぶんしょう の例 れい としては、以下 いか のものがある。
2013年 ねん 、クラスノヤルスク地方 ちほう のスタロトゥルハンスク(ru) の18世紀 せいき 末 まつ の住宅 じゅうたく の廃墟 はいきょ から[140] 、2018年 ねん にはハンティ・マンシ自治 じち 管区 かんく ・ユグラ のベリョーゾヴォ(ru) の、16世紀 せいき 末 まつ から17世紀 せいき 始 はじ めにかけてのポサード から[141] 、樺 かば 皮 がわ に書 か かれた文章 ぶんしょう が発見 はっけん された。トゥヴァ共和 きょうわ 国 こく においても、中世 ちゅうせい チベット語 ご による著作 ちょさく 物 ぶつ が知 し られている[142] 。
モンゴル語 ご によるものとしては、上述 じょうじゅつ の14世紀 せいき の文書 ぶんしょ 以外 いがい に、ウズベキスタン のDukentsoy川 かわ (ru) 岸 きし で発見 はっけん された15世紀 せいき 末 まつ - 16世紀 せいき 始 はじ めのものがあり、モンゴル人 じん の秘匿 ひとく 仏教 ぶっきょう 組織 そしき によるものとみられる[143] [144] 。
また、極東 きょくとう ロシア の少数 しょうすう 民族 みんぞく ユカギール人 じん には、女性 じょせい が恋心 こいごころ を伝 つた える時 とき にのみ用 もち いる表意 ひょうい 文字 もじ があり[注 ちゅう 22] 、これを用 もち いて、樺 かば 皮 がわ に刃物 はもの で彫 ほ って作成 さくせい したユカギール人 じん の恋文 こいぶみ について、1895年 ねん にS.シャルゴロドスキーが報告 ほうこく している[145] 。
20世紀 せいき の特殊 とくしゅ な使用 しよう 例 れい としては、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう の物資 ぶっし 不足 ふそく によって、パルチザン発行 はっこう の新聞 しんぶん やビラ が樺 かば 皮 がわ に印刷 いんさつ されることがあった[146] [147] 。また、スターリン体制 たいせい 下 した のグラーグ (強制 きょうせい 労働 ろうどう 収容 しゅうよう 所 しょ )内 ない から樺 かば 皮 がわ を用 もち いて手紙 てがみ を書 か いた例 れい があり、このうち、ラトビア人 じん の犠牲 ぎせい 者 しゃ の手紙 てがみ が2009年 ねん にユネスコ ・世界 せかい の記憶 きおく に登録 とうろく された[148] 。同 おな じく、シベリア抑留 よくりゅう 中 なか に日本人 にっぽんじん が樺 かば 皮 がわ に記 しる した『白樺 しらかんば 日誌 にっし 』(舞鶴 まいづる 引揚記念 きねん 館 かん 蔵 くら )が、2015年 ねん にユネスコ・世界 せかい の記憶 きおく に登録 とうろく されている[149] 。
^ スカンディナヴィアでは、15世紀 せいき のスウェーデンで樺 かば 皮 がわ への記述 きじゅつ がなされていたことを記 しる す史料 しりょう があり、また17 - 18世紀 せいき に使用 しよう 例 れい があることが確認 かくにん されている[3] 。モンゴル語 ご では17 - 18世紀 せいき のものとみられる白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ が発見 はっけん されている[4] 。チベット語 ご のものについては#(参考 さんこう )旧 きゅう ソ連 それん 地域 ちいき の樺 かば 皮 がわ 使用 しよう を、北 きた インド地方 ちほう のものについてはen:Birch bark manuscript#Gandhāran Buddhist manuscripts 、en:Birch bark manuscript#Sanskrit and Brāhmī manuscripts を、北米 ほくべい のものについてはen:Wiigwaasabak を参照 さんしょう されたし。
^ 問答 もんどう 中 ちゅう の「文書 ぶんしょ を切 き り刻 きざ んで捨 す てる者 もの 」という表現 ひょうげん を、白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ を破 やぶ り捨 す てる慣習 かんしゅう を指 さ しているとする見解 けんかい がある[20] 。
^ なお、この内 うち の1枚 まい であるノヴゴロド詩篇 しへん (ノヴゴロド・コデックス )(ru) は、それまでルーシで著 あらわ された最古 さいこ の福音 ふくいん 書 しょ と位置付 いちづ けられていたオストロミール福音 ふくいん 書 しょ (ru) (1056年 ねん から1057年 ねん 。羊皮紙 ようひし ・インク)よりもさらに数 すう 十 じゅう 年 ねん 古 ふる いものとみられている。
^ 「チェロビトナヤ」はモスクワ大公 たいこう 国 こく ・イヴァン4世 せい 期 き に現 あらわ れた、政府 せいふ に陳情 ちんじょう する際 さい に提出 ていしゅつ した書類 しょるい 。陳情 ちんじょう には物資 ぶっし の支援 しえん 要請 ようせい も含 ふく まれた[33] 。
^ 例 たと えば「No.521」は自分 じぶん の所有 しょゆう 地 ち をどう分 わ けるかが書 か かれた遺言 ゆいごん 状 じょう であるが[35] 、
正式 せいしき な遺言 ゆいごん 状 じょう にあるべき文章 ぶんしょう 冒頭 ぼうとう ・末尾 まつび の定型 ていけい 文 ぶん と、ノヴゴロド大 だい 主教 しゅきょう の代官 だいかん から得 え た印章 いんしょう (羊皮紙 ようひし に穴 あな をあけて吊 つ るす)のどちらも欠 か いていることにより、下書 したが きとみなされる[36] 。
^ 1998年 ねん までにノヴゴロド・ネレフスキー区 く (ru) で出土 しゅつど した白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ のうち、教会 きょうかい での祈 いの りの言葉 ことば を記 しる しているとみられるものは2または3枚 まい (同地 どうち 出土 しゅつど 数 すう の0.5%)にとどまる[30] 。また、
イコン画家 がか の聖職 せいしょく 者 しゃ オリセイ・グレチン(ru) の屋敷 やしき 跡 あと から出土 しゅつど した「No.549」など2枚 まい がイコンの注文 ちゅうもん または督促 とくそく の手紙 てがみ と解読 かいどく されている[38] 。なお、白樺 しらかんば 「文書 ぶんしょ 」の数 かず には含 ふく まれていないが、「No.915-И」(915-I)には両面 りょうめん に人物 じんぶつ が描 えが かれており、「варвара」と添 そ えられた片面 かためん は聖 せい バルバラ 、片面 かためん はイエス・キリスト とみなされている[39] 。
^ なぞなぞは「No.10」に、漂流 ひょうりゅう するノアの箱 はこ 舟 ぶね の元 もと に鳩 ばと がオリーブの枝 えだ を加 くわ えて戻 もど ってきた場面 ばめん をたとえたものが記述 きじゅつ されている。「No.10」日本語 にほんご 訳 やく を以下 いか に示 しめ す。空 そら と地 ち の間 あいだ に町 まち があり、この町 まち に道 みち もないのに口 くち がきけない使者 ししゃ が来 き て、書 か かれていない手紙 てがみ をもたらした。 — 松木 まつき ・三浦 みうら 、2001年 ねん 5月 がつ 。p36
ジョークは「No.46」に、二 に 行 ぎょう に渡 わた る文字 もじ 列 れつ を、通常 つうじょう の読 よ み方 かた どおり左 ひだり から右 みぎ へ横 よこ に読 よ んでいくと意味 いみ が通 つう じないが、1行 ぎょう 目 め 1文字 もじ 目 め 、2行 ぎょう 目 め 1文字 もじ 目 め 、1行 ぎょう 目 め 2文字 もじ 目 め 、2行 ぎょう 目 め 2文字 もじ 目 め …というように縦 たて に読 よ んでいく(いわゆる縦 たて 読 よ み )と文 ぶん になる形 かたち で書 か かれている。「No.46」縦 たて 読 よ みの日本語 にほんご 訳 やく を以下 いか に示 しめ す。馬鹿 ばか が書 か いて、阿呆 あほう が見 み せた。さてこれを読 よ むのはダーレだ。 — 松木 まつき ・三浦 みうら 、2001年 ねん 5月 がつ 。p61
^ ニブル条約 じょうやく はロシア語 ご : Нибуров мир の直訳 ちょくやく による。ドイツ語 ご 名 めい はNyeburs vrede。
^ 歴史 れきし 的 てき 事件 じけん に関 かん する記述 きじゅつ のあるものの例 れい としては、1075年 ねん - 1110年 ねん の記述 きじゅつ とみられる「No.906」は、ボリスとグレブ の列聖 れっせい について書 か かれており、史実 しじつ の列聖 れっせい 年 ねん (1071年 ねん )とほぼ合致 がっち する[52] 。また、1360年 ねん - 1380年 ねん の記述 きじゅつ とみられる「No.286」は、ノヴゴロドとスウェーデンの戦争 せんそう 後 ご の和平 わへい 条約 じょうやく (ロシア語 ご 名 めい オレシェク条約 じょうやく (ru) 。1323年 ねん 締結 ていけつ )に基 もと づいて徴税 ちょうぜい することを確認 かくにん する、徴税 ちょうぜい 官 かん 同士 どうし の私信 ししん である[53] 。
^ 詳 くわ しくはru:Золотоордынская рукопись на берёсте を参照 さんしょう されたし。
^ なお、ペレドリスキーは石器 せっき 時代 じだい の遺跡 いせき の発掘 はっくつ を行 おこな い、出土 しゅつど 品 ひん をサンクトペテルブルグ考古学 こうこがく 研究所 けんきゅうじょ (ru) (施設 しせつ 名 めい はロシア語 ご : Санкт-Петербургский археологический институт の直訳 ちょくやく による)に出展 しゅってん するなど[57] 、他 た の時代 じだい の考古学 こうこがく 的 てき 調査 ちょうさ には業績 ぎょうせき を上 あ げていた。
^ 「コネツ」は、この場合 ばあい は都市 とし 内部 ないぶ を区分 くぶん する歴史 れきし 的 てき な行政 ぎょうせい 単位 たんい [59] 。ノヴゴロドは5つ(ヴォルホフ川 がわ 西岸 せいがん に3つ、東岸 とうがん に2つ)のコネツ=区 く にわけられ、ネレフスキー区 く は、「ノヴゴロド・デティネツ (またはノヴゴロド・クレムリ )(ru) 」を中心 ちゅうしん に扇型 おうぎがた に区分 くぶん された西岸 せいがん の3つのコネツのうち、最 もっと も北部 ほくぶ に位置 いち した[60] 。
^ 「タイニツキー庭園 ていえん 」は日本語 にほんご サイトの表記 ひょうき に基 もと づく[76] 。
^ 当時 とうじ のキリル文字 もじ についてはru:Старославянская кириллица (直訳 ちょくやく :古 こ スラヴキリル文字 もじ )を参照 さんしょう されたし。
^ 「No.752」(原文 げんぶん →単語 たんご の補充 ほじゅう 含 ふく む現 げん ロシア語 ご [108] →日本語 にほんご の重訳 じゅうやく ):
あなたに3回 かい 。(手紙 てがみ 上部 じょうぶ 並 なら びに文頭 ぶんとう 欠損 けっそん 。「私 わたし はあなたに3回 かい 手紙 てがみ を送 おく った」か)。なぜ会 あ いに来 き てくれなかったのですか?私 わたし はあなたを兄弟 きょうだい のように思 おも っているのに。まさか、私 わたし が何 なに か怒 おこ らせるようなことをしましたか?ああ、私 わたし は悟 さと りました。愛 あい はないことを。あなたが愛 あい しているのなら、大急 おおいそ ぎで、人目 ひとめ を逃 のが れて会 あ いに来 き てくれることでしょう。(途中 とちゅう 欠損 けっそん )。もし、理性 りせい を欠 か く私 わたし が、あなたをいらだたせていても、あなたが私 わたし を笑 わら うなら、神 かみ と私 わたし はあなたを裁 さば きます。
^ 当然 とうぜん ではあるが、中世 ちゅうせい 的 てき な身分 みぶん 社会 しゃかい の中 なか にある女性 じょせい の姿 すがた も記述 きじゅつ されている。
「No.109」(原文 げんぶん →単語 たんご の補充 ほじゅう 含 ふく む現 げん ロシア語 ご [110] →日本語 にほんご の重訳 じゅうやく ):ジズノミルからミクラへ。あなたがプスコフ で女 じょ 奴隷 どれい を買 か った件 けん で、私 わたし は(プスコフ公国 こうこく の)公 おおやけ 妃 ひ に、(窃盗 せっとう の罪状 ざいじょう で)逮捕 たいほ された。わが身 み はドルジーナ (:公 おおやけ 直属 ちょくぞく の軍人 ぐんじん )に委託 いたく されている。あなたにはまず、奴隷 どれい の売 う り手 て に手紙 てがみ を送 おく って確認 かくにん してほしい(後略 こうりゃく )。
^ たとえばА. А. Гиппиус, Д. В. Сичинава. Поправки и замечания к чтению ранее опубликованных берестяных грамот [XIII : предварительная публикация] // Русский язык в научном освещении, № 2, 2021.など。
^ 概略 がいりゃく 的 てき に述 の べると、[i](и)が接続 せつぞく することで、何 なに 種類 しゅるい かの子音 しいん の発音 はつおん が変化 へんか する法則 ほうそく 。例 れい :現 げん ブルガリア語 ご урок[k](「授業 じゅぎょう 」の単数 たんすう 形 がた )→уроц[ts]и(「授業 じゅぎょう 」の複数 ふくすう 形 がた )[117] 。
^ スラヴ系 けい 言語 げんご において、キリル文字 もじ の一覧 いちらん は、最初 さいしょ の二 に 文字 もじ А とБ の旧称 きゅうしょう (アズ、ブカ)から名付 なづ けられた「アズブカ」とも呼 よ ばれる[121] 。
^ 落書 らくが きは他 た にポラツク の聖 せい ソフィア大 だい 聖堂 せいどう (卑語 ひご を含 ふく む)[126] 、ノヴゴロドでは聖 せい ソフィア大 だい 聖堂 せいどう などの複数 ふくすう の教会 きょうかい 施設 しせつ (アズブカを含 ふく む)で発見 はっけん されている[127] 。落書 らくが きは一般 いっぱん 信徒 しんと のいる場所 ばしょ の壁 かべ でも、白樺 しらかんば 文書 ぶんしょ 発見 はっけん の前 まえ から確認 かくにん されており、読 よ み書 か き教育 きょういく の存在 そんざい を示唆 しさ するものだった[127] 。
^ 性的 せいてき な表現 ひょうげん ・単語 たんご を含 ふく むものの例 れい としては「スタラヤ・ルーサのNo.35(ru) 」、「No955(ru) 」など。なお、1140 - 1160年代 ねんだい の[130] 「スタラヤ・ルーサのNo.35」は、ロシア語 ご における卑語 ひご は全 すべ てタタールのくびき 中 なか にタタール語 ご から導入 どうにゅう されたという見解 けんかい (19世紀 せいき の説 せつ の1つ)を否定 ひてい する史料 しりょう であり[131] 、「No955」中 ちゅう の卑語 ひご を含 ふく む一文 いちぶん は、19 - 20世紀 せいき の民間 みんかん 伝承 でんしょう の記録 きろく 中 ちゅう に多数 たすう 見 み られる、多産 たさん ・出産 しゅっさん を願 ねが う歌 うた と同様 どうよう のものである[132] 。
^ 詳 くわ しくはru:Юкагирская письменность を参照 さんしょう されたし。
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(日本語 にほんご 抄訳 しょうやく 版 ばん )V.L.ヤーニン著 ちょ 松木 まつき 栄三 えいざ ・三浦 みうら 清美 きよみ 訳 やく 『白樺 しらかんば の手紙 てがみ を送 おく りました-ロシア中世 ちゅうせい 都市 とし の歴史 れきし と日常 にちじょう 生活 せいかつ -』// 山川 やまかわ 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、2001年 ねん 5月 がつ
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書 か く対象 たいしょう
自然 しぜん 物 ぶつ 植物 しょくぶつ 素材 そざい 動物 どうぶつ 素材 そざい 加工 かこう 品 ひん
書 か くものその他 た の技術 ぎじゅつ 関連 かんれん 項目 こうもく