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白樺しらかんば文書ぶんしょ (ルーシ)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
かく年代ねんだい白樺しらかんば文書ぶんしょ

ほんぺーじでは、11 - 15世紀せいきのルーシ言語げんごてきにはひがしスラヴぐんけんきゅうキエフ・ルーシりょう)においてかばがわかれた文章ぶんしょうぐんについて説明せつめいする。かばがわ筆記ひっき媒材ばいざいとしてもちいたれいはスカンディナヴィア、モンゴル、チベット、きたインド、北米ほくべいなどの広域こういきわたって確認かくにんされており[1][2][ちゅう 1]、ルーシのものは白樺しらかんば文書ぶんしょ(しらかばもんじょ、ロシア: Берестяные грамотыウクライナ: Берестяні грамотиベラルーシ: Берасцяныя граматы)とばれる。2022ねん8がつ時点じてんで、ロシアのノヴゴロドでは1154まいが、のロシア・ウクライナ・ベラルーシの各地かくちではけい100まい以上いじょう出土しゅつどしている。白樺しらかんば文書ぶんしょおおくは様々さまざま社会しゃかいそう人々ひとびとによる、当時とうじ生活せいかつ反映はんえいされた私信ししんであり[5][6]生活せいかつふく歴史れきしがくてき史料しりょうとして、またひがしスラヴぐん歴史れきし研究けんきゅうする言語げんごがくてき史料しりょうとして[7]注目ちゅうもくされている。

留意りゅうい事項じこう

  • ルーシの白樺しらかんば文書ぶんしょには出土しゅつどじゅん識別しきべつ番号ばんごうがふられているが[8]以下いかたんに「No.00」などと表記ひょうきしたものはノヴゴロド出土しゅつどのものであり、それ以外いがいのものは「〇○(出土しゅつど)のNo.00」などと表記ひょうきしている。
  • 地名ちめいは2023ねん現在げんざい名称めいしょうを、各国かっこく(ロシア・ウクライナ・ベラルーシ準拠じゅんきょのカタカナ表記ひょうき記述きじゅつしている。また、便宜上べんぎじょう通称つうしょうである「ノヴゴロド」(公式こうしき名称めいしょうヴェリーキー・ノヴゴロド)をもちいている。
  • 白樺しらかんば文書ぶんしょちゅう人物じんぶつめいげんロシアからのカタカナ表記ひょうき記述きじゅつしている。またキエフ・ルーシなどの歴史れきしてき人物じんぶつ帝政ていせいロシアソビエト連邦れんぽう人物じんぶつめい便宜上べんぎじょうロシア準拠じゅんきょのカタカナ表記ひょうき記述きじゅつしている。

特徴とくちょう[編集へんしゅう]

筆記ひっき媒材ばいざいとの比較ひかく[編集へんしゅう]

ルーシのピサロ(13世紀せいき・ロシア)
ノヴゴロド出土しゅつどろうばん

ルーシでは、おそくとも11世紀せいきだい1四半期しはんきからかばがわへの筆記ひっき確認かくにんでき、かみ安価あんか普及ふきゅうする15世紀せいきなかばには使用しようれいがみられなくなる[9](なお、ロシアでのかみ使用しようれいは14世紀せいきなか以降いこうからみられはじめる[10])。白樺しらかんば樹皮じゅひ文字もじ材料ざいりょうとして利用りようするために、内皮ないひもろそう外皮がいひ表面ひょうめんをはがし灰汁あく弾力だんりょくせいすなどの加工かこうほどこされたが、こうした加工かこうほどこされないまま利用りようされた樹皮じゅひすくなくない[11]記述きじゅつさいしてかばがわ両面りょうめん使用しようされることはまれで、単語たんごあいだ空白くうはくけるかちきはなされず、だい多数たすう中世ちゅうせいひがしスラヴぐんキリル文字もじによるものである。また、ピサロ(ロシア: писало)とばれるてつまたはほねせい筆記用具ひっきようぐかばがわ文字もじきざ筆記ひっき方法ほうほうがとられている[12][13]。ピサロの出土しゅつど白樺しらかんば文書ぶんしょよりもはやかったが、当初とうしょ用途ようとしょう物品ぶっぴんであり、白樺しらかんば文書ぶんしょ発見はっけんによって筆記用具ひっきようぐ判明はんめいした[14]。ルーシのピサロのおおくはいちはしとがり、一端いったんはへらじょうになっている[15]

ルーシではどう時代じだいにおける羊皮紙ようひし使用しよう確認かくにんされるが、かばがわ羊皮紙ようひしくら非常ひじょう安価あんか記録きろく媒材ばいざいだった[16]内容ないようとしては、羊皮紙ようひし史料しりょう宗教しゅうきょう関連かんれん政治せいじじょう重要じゅうよう事項じこう記述きじゅつしたものがおもであるのにたい[17]かばがわ個人こじん手紙てがみしょう取引とりひき連絡れんらく事項じこう、メモなどの日常にちじょうてき用途ようと、さらには羊皮紙ようひし記述きじゅつするさい下書したがきなどにもちいられた[17]官吏かんりへの嘆願たんがんしょ草稿そうこうである「No.831」には、羊皮紙ようひし清書せいしょしてから提出ていしゅつせよという指示しじあわせてかれている[18]がいしてかばがわ一時いちじてき記録きろく用紙ようしとしてもちいられ[17]長期ちょうき保存ほぞんもとめるさいには羊皮紙ようひしもちいられた。そのため、発見はっけんされる白樺しらかんば文書ぶんしょおおくは記録きろく媒材ばいざいとしてのようえて廃棄はいきされたものであり、廃棄はいきまえやぶられたものもおおい。白樺しらかんば文書ぶんしょ棄損きそんは、受取うけとりじん他者たしゃまれることをふせぐためにおこなわれたものである[19]。また、用途ようとたした文書ぶんしょやぶてられる慣習かんしゅうは、12世紀せいきのノヴゴロドの叙述じょじゅつキリク(ru)あらわした『キリクの質問しつもん(ru)』にも言及げんきゅうがみられる [ちゅう 2]

なお、ルーシでのろうばん(ツェーラ)の出土しゅつど比較的ひかくてきおそく、1928ねんにはE.カルスキー(ru)による、キエフ・ルーシにおいてろうばん使用しようされなかったとする見解けんかいされていた[21]。しかし1954ねん白樺しらかんば文書ぶんしょおなじくろうばん出土しゅつどし、これによって、ピサロのへらじょうとなった一端いったんは、ろうばん表面ひょうめんととのえるのにもちいられたと判明はんめいした[15]。また、幼少ようしょう文字もじ学習がくしゅうしゃ使用しようかんしては、はじめは記述きじゅつ比較的ひかくてき容易よういろうばんもちい、そのかばがわもちいての学習がくしゅうすすんだとみられる[22]。ただし、ろうばんは2000ねんまでに12まい[21](2008ねんにさらに1まい[23]発見はっけんされているのみであり、普及ふきゅうすうおおくはなかったともられている[21][ちゅう 3]

記述きじゅつ内容ないよう[編集へんしゅう]

参考さんこう画像がぞうかばがわ剥離はくりエストニア
「No.497」
「No.201」。オンフィームによる文字もじ練習れんしゅうの1まい[24]

白樺しらかんば文書ぶんしょだい部分ぶぶん個人こじんてき手紙てがみである[5]手紙てがみ女性じょせいであるものも複数ふくすう確認かくにんされている[5]。なお、手紙てがみ差出人さしだしにん受取うけとりじんともっている情報じょうほう記述きじゅつはぶかれるため[9]現代げんだい第三者だいさんしゃである我々われわれ内容ないよう解釈かいしゃくするのに難解なんかいなものもある。家族かぞくあいだ手紙てがみれいとしては、「No.125」は、ははであるマリナが息子むすこのグリゴリーにふくってきてくれるようたのんだものである[25][26]。「No.424」では、ギュルギーがノヴゴロドに両親りょうしんに、穀物こくもつやすスモレンスクキーウ移住いじゅうすることをすすめており[27][28]、「No.497」は、ガブリラという人物じんぶつが、義理ぎり兄弟きょうだいグリゴリーと姉妹しまいのウリタをノヴゴロドにまねいた手紙てがみである[29]。「No.377」ではミキータ(男性だんせいめい)がマラニヤへ結婚けっこんもうんでいる[30][31]

また、債務さいむ回収かいしゅう商売しょうばいの(あるいは家庭かていないでの)用務ようむてき性質せいしつびた記録きろくぶん多数たすうである。このうち、物品ぶっぴんなどの一覧いちらんひょうは、記録きろく目的もくてきとしただけでなく、実際じっさい回収かいしゅうするべきものをしめした指示しじしょ、あるいは、14 - 15世紀せいき農民のうみん領主りょうしゅたいして提出ていしゅつしたチェロビトナヤ(ru)請願せいがんしょ[32]祈願きがんしょ[33])のような役割やくわりつものだった可能かのうせいがある[ちゅう 4]

その出土しゅつどすうすくないが特徴とくちょうてきなものは、以下いかの4種類しゅるい分類ぶんるいされる[34]

  • 公的こうてき文書ぶんしょ下書したがきあるいは清書せいしょ下書したがきとしては、遺言ゆいごんじょう売買ばいばい契約けいやく領収証りょうしゅうしょう裁判所さいばんしょ議事ぎじろくなどの公的こうてき性質せいしつびるものの下書したがきが確認かくにんされている[ちゅう 5]。また、このグループでは方言ほうげんもちいて記述きじゅつされた箇所かしょはまれである[34]
  • キリスト教きりすときょう関連かんれん教会きょうかいでのいのや、ポウチャニエ(直訳ちょくやく説教せっきょう[37])のかれたもの、イコンちゅう文書ぶんしょなど[ちゅう 6]。このうち「No.419」は、いのりの言葉ことばをいくつか抜粋ばっすいしたものが3まいかばがわしるされており、あなあと、2つにたたんだあとから、冊子さっしじょう製本せいほんしたものと確認かくにんされた[40][41]
  • 文学ぶんがく民間みんかん伝承でんしょうてき内容ないよう文学ぶんがく作品さくひん抜粋ばっすい民間みんかん伝承でんしょう呪文じゅもんであるザゴボル(ru)なぞなぞジョーク現在げんざいでいう個人こじんファイナンス教訓きょうくんなど[ちゅう 7]。このうち、1160年代ねんだい - 1210年代ねんだいのものとみられる「トルジョークのNo.17」は、キリル・トゥーロフスキー(ベラルーシ:キルィラ・トゥラウスキ[42] / トゥーラウのキルィラ)の著述ちょじゅつ一部いちぶである[43]
  • 教育きょういく学習がくしゅう関連かんれん教育きょういくかんする指示しじしょや、文字もじぶん練習れんしゅうしたもの[44]。このうち、1956ねん発見はっけんされた複数ふくすう白樺しらかんば文書ぶんしょ(「No.199 - 210、331」)は、オンフィームという、当時とうじ6、7さいだったと推測すいそくされる13世紀せいき少年しょうねん学習がくしゅうもちいたものとみなされている[5][45]

ノヴゴロド[編集へんしゅう]

14世紀せいきのノヴゴロド

白樺しらかんば文書ぶんしょノヴゴロド出土しゅつどのものが圧倒的あっとうてき多数たすうめる[17]。その理由りゆうひとつは地理ちりてき環境かんきょうにある。廃棄はいきされた白樺しらかんば文書ぶんしょが、水分すいぶん多量たりょうふくむノヴゴロドの土壌どじょうしず空気くうきから遮断しゃだんされたことが、白樺しらかんば文書ぶんしょ保存ほぞんにつながった[5]。(なお、中世ちゅうせいキーウ市街地しがいちポジール場合ばあい水源すいげん地下ちかおよそ4 - 5mの位置いちにあったとされる[46]。)また、インクの塗布とふではなく、筆記ひっき媒材ばいざい記述きじゅつ方法ほうほうだったことも、判別はんべつしうる文字もじ保存ほぞんにつながった[12]くわえて、ノヴゴロド市民しみんが、中世ちゅうせいしょ都市とししてたか識字しきじりょくゆうしていたとみられる[17]

そして、白樺しらかんば文書ぶんしょが15世紀せいき後半こうはん以降いこう地層ちそうから出土しゅつどしなくなるのは、かみ普及ふきゅうという技術ぎじゅつてき要因よういんとともに、経済けいざい政治せいじてき理由りゆうによるノヴゴロドの凋落ちょうらくにも原因げんいんがあると指摘してきされている[47]バルト海ばるとかいつうじる河川かせんヴォルホフがわ沿岸えんがん都市としであったノヴゴロドは商業しょうぎょう都市としとして繁栄はんえい[47]、1392ねんにはハンザ同盟どうめいとニブル条約じょうやく(ru)締結ていけつしていた[48][ちゅう 8]。しかし15世紀せいきにはハンザ同盟どうめいとの対立たいりつ、またリヴォニア騎士きしだんとの戦争せんそう(1443ねん - 1448ねん、ノヴゴロド・リヴォニア戦争せんそう(ru))によって貿易ぼうえき活動かつどう衰退すいたいし、ヴィボルグナルヴァストックホルムなど沿バルト海ばるとかい競争きょうそう相手あいてみずをあけられることとなった[49]。ルーシ内部ないぶでは、台頭たいとうするモスクワ大公たいこうこくからの圧力あつりょくを15世紀せいきなかばからけ(1456ねん - 1478ねん、モスクワ・ノヴゴロド戦争せんそう(ru))、1478ねんにはモスクワ大公たいこうこく併合へいごうされている[50]

記述きじゅつ年代ねんだい推定すいてい方法ほうほう[編集へんしゅう]

それぞれの白樺しらかんば文書ぶんしょかれた年代ねんだい推定すいていは、おも年輪ねんりん年代ねんだいがくもとづく測定そくていによってなされる[17]とくにノヴゴロドでは、頻繁ひんぱん増補ぞうほがなされたどう時代じだい木製もくせい舗装ほそう道路どうろどろうえかれ、沈下ちんかすればあらたな木材もくざいをそのうえ敷設ふせつした[45])がそうをなして出土しゅつどするため、都市としよりも正確せいかく年代ねんだい測定そくていされており、その誤差ごさは30 - 40ねんとみられる。ノヴゴロドの発掘はっくつ調査ちょうさでは、考古こうこ学者がくしゃB.コルチン(ru)植物しょくぶつ学者がくしゃV.ヴィフロフ(ru)が、年輪ねんりん年代ねんだいがくによる測定そくていほう確立かくりつさせた[51]。また、年代ねんだいしるされた歴史れきしてき人物じんぶつ出来事できごとについて言及げんきゅうされているものもあり[ちゅう 9]年輪ねんりん年代ねんだいがくによる測定そくていわせることで、白樺しらかんば文書ぶんしょかれた時期じき推定すいていできたものもある[34]近年きんねんでは、白樺しらかんば文書ぶんしょ出土しゅつどすう累積るいせきにより、文字もじ形状けいじょう書体しょたいがく)や表記ひょうきじょう形式けいしきなどのめんから推定すいていする方法ほうほう言語げんご学者がくしゃのA.ザリズニャク(ru)から提唱ていしょうされ、年輪ねんりん年代ねんだいがくによる推定すいていむずかしいかばがわ活用かつようされている[34]

発掘はっくつ[編集へんしゅう]

「No.278」。ドイツやくづけ

考古学こうこがくてき発掘はっくつによる現物げんぶつ発見はっけん以前いぜんから、かばがわへの記述きじゅつ存在そんざいられていた[16]。15世紀せいき修道しゅうどうイオシフ・ヴォロツキー(ru)は、清貧せいひんむねとする修道しゅうどう自身じしんほんを(高価こうかな)羊皮紙ようひしではなくかばがわ執筆しっぴつしていた、と叙述じょじゅつしている[54]。また、17 - 19世紀せいき儀式ぎしき人々ひとびとによる、かばがわ製本せいほんしたほん現存げんそんしており、1930ねんにはヴォルガがわ河畔かはんのテルノフカ(ru)ウヴェク対岸たいがん)で、14世紀せいきジョチ・ウルスによるモンゴル文字もじしるされたかばがわ発見はっけんされていた[55][ちゅう 10]。なお、儀式ぎしきならびにジョチ・ウルスの文章ぶんしょうは、インクもちいて記述きじゅつされていた。

ルーシの白樺しらかんば文書ぶんしょ最初さいしょ発見はっけんは、19世紀せいきまつノヴゴロドにおいて、郷土きょうど史家しかのV.ペレドリスキー(ru)によるものであった。ペレドリスキー自身じしんひがしスラヴ書体しょたいがくあかるくなかったため読解どっかいはできなかったが、自分じぶんたちの祖先そせんいた文章ぶんしょうであると認識にんしきし、だいいち発見はっけんしゃである農民のうみんたちからの購入こうにゅうや、自身じしんによる発掘はっくつおこな収集しゅうしゅうはじめた[56]。ペレドリスキーはノヴゴロド市内しない私立しりつ博物館はくぶつかん設立せつりつし、発見はっけんぶつ展示てんじしたが、当時とうじ(19世紀せいきまつ)の農民のうみんたちの落書らくがきや偽造ぎぞうであるなどの評価ひょうかけることとなった[56][ちゅう 11]。また、ペレドスキーの死後しご博物館はくぶつかん国有こくゆうされ、収集しゅうしゅうも1920年代ねんだい散逸さんいつした[56]

1930年代ねんだいになると、ノヴゴロドでは考古こうこ学者がくしゃA.アルツィホフスキー(ru)指揮しきする調査ちょうさたいによる発掘はっくつおこなわれた[58] 。1930年代ねんだい発掘はっくつでは、かばがわろうろうばん発見はっけん)、また上述じょうじゅつ筆記用具ひっきようぐピサロが複数ふくすう発見はっけんされたが、文章ぶんしょうしるされたかばがわ発見はっけんにはいたらなかった。なお、この段階だんかいではピサロの用途ようと判断はんだんできず、くぎかみめ、あるいは未知みち物品ぶっぴんとう記録きろくされた。アルツィホフスキーは文字もじかれたかばがわ存在そんざいするとの仮説かせつてていたが、だい世界せかい大戦たいせんどくせん)によって調査ちょうさ中断ちゅうだんされた[9]

1940年代ねんだい後半こうはん調査ちょうさ再開さいかいされたのち、1951ねん7がつ26にち[9]、アルツィホフスキーの調査ちょうさたいは、ノヴゴロドのネレフスキー(ru)(ネレフスキー・コネツ[ちゅう 12])において、1まい白樺しらかんば文書ぶんしょ発見はっけんした。この「No.1」のだいいち発見はっけんしゃは、産前さんぜん産後さんご休業きゅうぎょうなか副業ふくぎょうとして調査ちょうさ参加さんかしていたノヴゴロドの女性じょせいN.アクロワであり、土中どちゅうから巻物まきものじょうかばがわ発見はっけんしたアクロワから、発見はっけん区域くいき担当たんとうしゃちょうであったG.アヴドゥシナ(ru)へ、そしてアルツィホフスキーへと連絡れんらくつたわった[61]。「No.1」は洗浄せんじょう処理しょりのちひろげられてガラスばんはさまれ、書体しょたいがく専門せんもんであったM.チホミロフ(ru)もとおくられた。なお、だいいち発見はっけんしゃのアクロワはアルツィホフスキーから賞金しょうきん授与じゅよされている[62]

1951ねんちゅうには10まい白樺しらかんば文書ぶんしょ発見はっけんされ、もっとふるい「No.9」は1160ねん - 1180ねんごろのものと判別はんべつされた[63]。「No.1」は1380ねん - 1400ねんごろの、収入しゅうにゅうあるいは支払しはらいの記録きろく解読かいどくされた[64]。ただし、発見はっけん当初とうしょ、ソヴィエト科学かがくにおけるイデオロギー統制とうせい(ru)によって、報道ほうどう機関きかん発見はっけんかんする明確めいかく説明せつめいることができなかった[65]

スモレンスク出土しゅつど白樺しらかんば文書ぶんしょ
「ヴィーツェプスクのNo.1」

ノヴゴロド以外いがいでは、1952ねんスモレンスク(D.アヴドゥシン(ru)による。以下いか括弧かっこない調査ちょうさたい指揮しきした学者がくしゃ。)をはじめとして、1958ねんプスコフ(G.グロズディロフ)、1959ねんヴィーツェプスク建設けんせつ工事こうじちゅう発見はっけん[66]、1966ねんスタラヤ・ルーサ(A.メドヴェージェフ(ru)[67][68]、1980ねんムスツィスラウ(L.アレクセエフ(ru)[69]、1983ねんトヴェリ[69]、1985ねんトルジョーク[70]、1988ねんにはモスクワあか広場ひろば(S.チェルノフ(ru)[69]、またリヴィウしゅうズヴェヌィーホロド(I.スヴェシニコフ(ru)[67]において、それぞれ各地かくちでの1まい白樺しらかんば文書ぶんしょ発見はっけんされた。20世紀せいきまつ時点じてんけい800をえる白樺しらかんば文書ぶんしょ出土しゅつどし、そのだい部分ぶぶんはノヴゴロドでの発見はっけんだった[5]

21世紀せいきにおいても各地かくち発掘はっくつ調査ちょうさがおこなわれ(なお、工事こうじ現場げんば個人こじん敷地しきちないから偶然ぐうぜん出土しゅつどするれいもみられた[71][72]。)、2007ねん7がつ時点じてんでの出土しゅつど総数そうすうは1000をえた[73]。ノヴゴロド単独たんどくでは、2010ねん5がつはじめに970まい[74]、2017ねん10がつ7にちには「No.1101」が発見はっけんされた[75]

かく都市としでは、2007ねん8がつモスクワ・クレムリンうちのタイニツキー庭園ていえん(ru)[ちゅう 13]において発見はっけんされた「モスクワのNo.3(ru)」はインクをもちいて記述きじゅつされていた。なお、インクをもちいたものは1952ねん出土しゅつどの「No.13」(ただし判読はんどく不能ふのう[77])、1972ねん出土しゅつどの「No.496」があるのみで[78][79]、「モスクワのNo.3」はこれにぐ3まいだった。2009ねんにスモレンスクでは、1980年代ねんだい以来いらいの、同地どうちで16番目ばんめ出土しゅつどがなされた。これは棄損きそんされた手紙てがみ最後さいごくだりであり、「ラヂヤー(ru)ふね廃語はいご[80])がなくなった」としるされていた[81]。2014ねんには、ムスツィスラウの12世紀せいき前半ぜんはん地層ちそうから出土しゅつどしたかばがわ(I.マルザリュク(ru))に、なんらかの2文字もじと、リューリクあさ徽章きしょうである三叉みつまたやりみとめられたと報道ほうどうされた[82]。2021ねん8がつ14にちにはリャザンはつ出土しゅつどがなされ、リャザンは白樺しらかんば文書ぶんしょ出土しゅつどした13番目ばんめ都市とし(現在げんざい行政ぎょうせいじょうの「」ではなく、キエフ・ルーシ都市としスタラヤ・リャザンかずふくむ。)となった[83]

のキエフ・ルーシ都市としにおいては、2023ねん時点じてんでは文字もじかれた白樺しらかんば文書ぶんしょ出土しゅつどはないものの、2008ねんにはブシクにおいてかばがわほねせいのピサロが[84]、2010ねんにはキーウポジールにおいて、11 - 12世紀せいき端境期はざかいきかばがわ[46]出土しゅつどしており、白樺しらかんば文書ぶんしょ発見はっけん可能かのうせい示唆しさされている。また、1140ねん - 1160ねんごろの「No.675」には、キーウ、ヴェリーキエ・ルーキスーズダリについての[85][86]、12世紀せいきだい3四半期しはんきの「No.1004」にはチェルニーヒウについての言及げんきゅうがなされている[87]。その内容ないようはどちらもしょう取引とりひきかんする家族かぞくあいだ私信ししんである[85][87]

2023ねん7がつ12にち時点じてんでの、出土しゅつど出土しゅつどすう以下いかのとおりである。

国名こくめい 出土しゅつど (地図ちずじょう位置いち) 出土しゅつどすう 地図ちず (ノヴゴロド方言ほうげん地域ちいき)
ロシア ノヴゴロド (R1) 1154[88]
白樺文書 (ルーシ)の位置
R1
R1
R2
R2
R3
R3
R4
R4
B1
B1
B2
B2
U1
U1
R5
R5
R6
R6
R7
R7
R8
R8
R9・R10
R9・R10
スタラヤ・ルーサ(R2) 57[89]
トルジョーク (R3) 19[90]
スモレンスク (R4) 16[81]
プスコフ (R5) 8[90]
トヴェリ (R6) 5[90]
モスクワ (R7) 4[91]
ヴォログダ (R8) 3[92]
スタラヤ・リャザン (R9) 1[93]
リャザン (R10) 1[83]
ベラルーシ ムスツィスラウ (B1) 1[90]
ヴィーツェプスク (B2) 1[90]
ウクライナ ズヴェヌィーホロド (U1) 3[94]

歴史れきしがくてき史料しりょうとして[編集へんしゅう]

ノヴゴロドの発掘はっくつ現場げんばの1つ。白樺しらかんば文書ぶんしょ出土しゅつどもあり。
「No.199」(トゥエス容器ようき)をさい利用りようしたかばがわ両面りょうめん)。ひだり文字もじ練習れんしゅうみぎ手紙てがみ定型ていけいぶん練習れんしゅうと、「わたし怪獣かいじゅう」とえられた

白樺しらかんば文書ぶんしょによって、考古学こうこがくてき発見はっけんぶつ各種かくしゅ史料しりょう補遺ほい、あるいはあらたな発見はっけんがなされており、以下いかのような分野ぶんやにおける研究けんきゅう史料しりょうとなっている。なお、歴史れきしがく分野ぶんやにおける著名ちょめい研究けんきゅうしゃとしては、A.アルツィホフスキー(ru)、L.チェレプニン(ru)、V.ヤーニン(ru)などがげられる。白樺しらかんば文書ぶんしょもとづく史学しがくてき発見はっけんには以下いかのようなものがある。

考古学こうこがく[編集へんしゅう]

白樺しらかんば文書ぶんしょ記述きじゅつから、考古学こうこがくてき発見はっけんぶつのより詳細しょうさい情報じょうほう見出みいだされることがある。たとえば、1973ねんからの発掘はっくつ出土しゅつどした屋敷やしき遺構いこうが、同時どうじ発見はっけんされた白樺しらかんば文書ぶんしょから、聖職せいしょくしゃでありイコン画家がか(ru)のオリセイ・グレチン(ru)のものであることがあきらかになった[95]おなじく、ノヴゴロド出土しゅつどべつ遺構いこうは、白樺しらかんば文書ぶんしょ記述きじゅつから、クニャージおおやけ)とポサードニク都市としちょう)による合同ごうどう裁判所さいばんしょであったことがあきらかになった。

政治せいじ法制ほうせい[編集へんしゅう]

歴史れきしがくてきかく分野ぶんやにおいては、レートピシ(ルーシの年代ねんだい)や教会きょうかい史料しりょうとうには充分じゅうぶんしるされなかった事象じしょうが、白樺しらかんば文書ぶんしょ記述きじゅつによってあきらかになっている。

政治せいじとしては、ノヴゴロドのボヤーレ貴族きぞく)の系譜けいふや、その政治せいじてき役割やくわりあきらかになった。たとえばV.ヤーニンの研究けんきゅうによって、オンツィフォルら一族いちぞく(ru)(13 - 14世紀せいき。ボヤーレ階級かいきゅうでノヴゴロドのポサードニクを代々だいだいつとめた。ルカ(ru)、オンツィフォル(ru)、ユーリー(ru)など。)の動向どうこうと、ノヴゴロドのボヤーレの父系ふけいだい家族かぞく集団しゅうだんてき特質とくしつみちびきだされている[96][45]。A.ギッピウス(ru)研究けんきゅうでは、12世紀せいきのペトロク・ミハイロヴィチ(ru)によるボヤーレの寡頭政治かとうせいじあきらかになった。また、L.チェレプニンは白樺しらかんば文書ぶんしょ記述きじゅつから、中世ちゅうせいルーシにおいては播種はしゅよう種子しゅしライ麦らいむぎなど)が領主りょうしゅ管轄かんかつかれていた多数たすう証拠しょうこ見出みいだしている[97]

12 - 13世紀せいき端境期はざかいきの「No.531」は、農民のうみんつまアンナがそのあに裁判さいばん証人しょうにんとなってほしいことをつたえた手紙てがみである。「No.531」は、人妻ひとづまアンナが売女ばいたばれたことを侮辱ぶじょくざいとみなしているてん[98]、またアンナの係争けいそう相手あいてがアンナを出頭しゅっとうさせた手続てつづきの記述きじゅつから[99]、15世紀せいき写本しゃほんのこるのみのルーシの各種かくしゅ法典ほうてんのっとほう運用うんようが、写本しゃほんの200 - 250ねんまえになされていたことをしめしている[100]

生活せいかつ[編集へんしゅう]

白樺しらかんば文書ぶんしょによって、中世ちゅうせいルーシの広範囲こうはんいにおいてきがおこなわれていたことが証明しょうめいされている[101]。また、多数たすう出土しゅつどする筆記用具ひっきようぐピサロ(ノヴゴロド・ネレフスキー(ru)単独たんどくでは1998ねんまでに70ほん以上いじょう出土しゅつど[102]、A.メドヴェージェフ(ru)によればロシア国内こくないの28の都市とし出土しゅつど[103])がその傍証ぼうしょうとなっている[104]中世ちゅうせいルーシの都市としみんは、幼年ようねん時代じだいから文字もじおそわり[105][ちゅう 14]女性じょせいふくめて私信ししんいていた[5]

少年しょうねんオンフィームによる「No.199」などは、年代ねんだいせい人伝ひとづてなか示唆しさされている教育きょういくが、たしかにおこなわれていたことをしめ史料しりょうである[101]。なお、白樺しらかんば文書ぶんしょちゅうには「ба ва га да жа…」(ba va ga da ja…)のように1音節おんせつを1単位たんいとして練習れんしゅうしたものが複数ふくすうあるが、この1音節おんせつごとに練習れんしゅうする方法ほうほうは、ロシア最初さいしょ印刷いんさつ業者ぎょうしゃ1人ひとりであるイヴァン・フョードロフ(ru)によるキリル文字もじ練習れんしゅう教本きょうほん(1574ねんしるし刷本すりほん)にもしめされており[106]、20世紀せいき初頭しょとう帝政ていせいロシアにおいても教育きょういく場面ばめんでの採用さいようれいがみられる[107]

女性じょせいによる私信ししんとしては、たとえば「No.9」は、自分じぶん離別りべつしたおっとあらたなつまってしまったことをつたえる手紙てがみであり[63]、「No.752」は、12世紀せいきわか女性じょせいによる恋文こいぶみである[ちゅう 15]。また、おっと指示しじつま手紙てがみ確認かくにんされている。一方いっぽう各種かくしゅ記録きろくぶんからは、女性じょせい契約けいやくぬし保証人ほしょうにん、また法廷ほうていへの登庁とうちょうや、手工業しゅこうぎょう金融きんゆうぎょう高利貸こうりが)に従事じゅうじする女性じょせい姿すがた確認かくにんされている[109][ちゅう 16]

また、食品しょくひん衣類いるいなどの生活せいかつ物資ぶっし手工業しゅこうぎょうなどにかんする情報じょうほう見出みいだされる。たとえば12世紀せいき前半ぜんはんの「No.842」は[61]、ロシアにおける、ソーセージについて言及げんきゅうした最古さいこ史料しりょうとされる[111]信仰しんこうかんするものとしては、「No.930」などのいくつかのものからは、民間みんかん伝承でんしょう呪文じゅもんであるザゴボル(ru)ふるさがしめされている。また「No.674」はキリスト教きりすときょう詩篇しへんの1せつかがみ文字もじにしていたものであり、かがみ文字もじ護符ごふてき効果こうかをよりつよめる魔術まじゅつてき要素ようそつものだった。すなわち、「No.674」はキリスト教きりすときょう正教会せいきょうかい)と、キリストきょうから異教いきょうとのじゅう信仰しんこう存在そんざいしめしている[112]おなじく、「No.734」では熱病ねつびょうなおすとかんがえられていただい天使てんしシハイル(ru)が3かいかえされているが、ロシアの民俗みんぞくがくでは、呪文じゅもんの3かいかえしは魔法まほうちから増強ぞうきょうさせるものと分析ぶんせきされている[113]

言語げんごがくてき史料しりょうとして[編集へんしゅう]

「No.591」
「No.109」。о - ъ、ь - е、е - ѣの交換こうかん随所ずいしょにみられる。
「No.292」。文頭ぶんとうは「かみフィンランド: Jumala(ru))の」(=かみなり)と読解どっかいされる[114]

1950 - 1970年代ねんだい多数たすう出土しゅつどと、N.メシチェルスキー(ru)R.ヤコブソン、V.ボルコフスキー(ru)、L.ジュコフスカヤ(ru)言語げんご学者がくしゃ研究けんきゅうによって、白樺しらかんば文書ぶんしょちゅう語彙ごい文法ぶんぽう正書法せいしょほうなどにかんするおおくのデータが蓄積ちくせきされていた。ただし、発見はっけん当初とうしょは、言語げんごがくてき史料しりょうとしての価値かちをそれほど期待きたいされてはいなかった[7]。しかし1980年代ねんだいのA.ザリズニャク(ru)研究けんきゅうによって、白樺しらかんば文書ぶんしょない体系たいけいだった文法ぶんぽう用字ようじほうもちいられていることがあきらかになった。白樺しらかんば文書ぶんしょちゅうもちいられた言語げんごノヴゴロド方言ほうげん分類ぶんるいされ、これまでの読解どっかいについての見直みなおしもおこなわれた[ちゅう 17]現在げんざいあらたに発見はっけんされる白樺しらかんば文書ぶんしょ研究けんきゅうには、ノヴゴロド方言ほうげん考慮こうりょした分析ぶんせきおこなわれている。また、どう時代じだい正書法せいしょほうのっとった言葉ことばつ、おおくは聖職せいしょくしゃなどの知識ちしきそう)である教会きょうかいスラヴ史料しりょうたいし、白樺しらかんば文書ぶんしょは、様々さまざま社会しゃかいてき階層かいそう人々ひとびとはな言葉ことば反映はんえいしている傾向けいこうもあり、ひがしスラブぐんぞくする言語げんご歴史れきし研究けんきゅうかんする重要じゅうよう史料しりょうでもある[115]

ノヴゴロド方言ほうげん[編集へんしゅう]

ノヴゴロド公国こうこく共和きょうわこくうち都市としであったノヴゴロドスタラヤ・ルーサトルジョークから出土しゅつどした白樺しらかんば文書ぶんしょだい部分ぶぶんは、音声おんせいがく形態けいたいろんからて、またいくつかの語彙ごい使用しようかんして、ノヴゴロド方言ほうげんもちいてかれている。

白樺しらかんば文書ぶんしょ発見はっけん以前いぜんからも、教会きょうかいスラヴなどによってかれた羊皮紙ようひし史料しりょうちゅう挿話そうわ部分ぶぶんから、ノヴゴロドならびにプスコフにおける方言ほうげんプスコフ方言ほうげん(ru))の存在そんざい指摘してきされていたが、白樺しらかんば文書ぶんしょによって研究けんきゅう躍進やくしんすることとなった。たとえば、ザリズニャクによる「No.247(ru)」を中心ちゅうしんとした研究けんきゅうによって、初期しょきノヴゴロド方言ほうげんには、おおくのスラヴけい言語げんごにみられるだい口蓋こうがい[7] / だい口蓋こうがい[116](ru)[ちゅう 18]存在そんざいしなかったことがあきらかになった[116]。なお、この傾向けいこうは11 - 12世紀せいき顕著けんちょであり、時代じだいとともに口蓋こうがいがあらわれる[117]。また、音韻おんいん形態けいたい語彙ごいなどのめんから、ノヴゴロド方言ほうげん西にしスラヴぐんとの共通きょうつうてんおおさが指摘してきされている[118]

文字もじ用字ようじほう[編集へんしゅう]

1030年代ねんだい地層ちそうから出土しゅつどした、もっとふる白樺しらかんば文書ぶんしょひとつである「No.591」や[119]、12世紀せいきの「No.460」などは[120]キリル文字もじアルファベット(アズブカ[ちゅう 19])が羅列られつされたものである[122]。この羅列られつされた文字もじ種類しゅるいたとえば「No.591」は32文字もじ[123]、「No.460」は34文字もじ[118])は時代じだいによってことなっており、キリル文字もじ変遷へんせんかんする研究けんきゅう重要じゅうよう史料しりょうとなっている。なお、かく時代じだい白樺しらかんば文書ぶんしょしるされたキリル文字もじ一覧いちらんと、おな時代じだい羊皮紙ようひし史料しりょうちゅう使用しようされている文字もじとが一致いっちしていないものもある[124]。また、「No.591」とどう時期じきキーウせいソフィアだい聖堂せいどうかべきざまれた落書らくがきのなかにも「アズブカ」があるが、「No.591」とせいソフィアだい聖堂せいどう落書らくが(uk)との差異さいから、ルーシでキリル文字もじもちいられてからすう世紀せいきあいだ日常にちじょう生活せいかつ対応たいおうした簡素かんそされた文字もじ知識ちしきならびに教育きょういく)と、写字しゃじせいなど職業しょくぎょうしゃ要求ようきゅうされた文字もじ知識ちしき教育きょういくの、ふたつの水準すいじゅん存在そんざいしたとみられる[125][ちゅう 20]

また、ザリズニャクの研究けんきゅうによれば、12世紀せいきなかば - 14世紀せいきまつ白樺しらかんば文書ぶんしょだい部分ぶぶんにおいては、どう時代じだい羊皮紙ようひし史料しりょうとはことなる用字ようじほうもちいられているとされる。ザリズニャクはこれをヴィトヴァヤ・グラフィチェスカヤ・システマ(ru)直訳ちょくやく日常にちじょう生活せいかつ書法しょほう規則きそく)とんでいる[128]。この用字ようじほうは、たとえばоъье、еとѣ一定いってい法則ほうそくしたがってえてくものであり[116]、これにのっとった「No.891」では、「конь(うま)」が「къне」と表記ひょうきされている[129]

語彙ごい言語げんご[編集へんしゅう]

白樺しらかんば文書ぶんしょちゅうすうじゅう単語たんごは、羊皮紙ようひし史料しりょうなかではもちいられていないものである。具体ぐたいてきには、農村のうそんでの事業じぎょうかかわるもの、日常にちじょう生活せいかつエチケットひととのかかわりかた(たとえば、相手あいてへのづかいや懸念けねんかんする単語たんご)にかんするもの、また、性的せいてき卑語ひごなどである[ちゅう 21]。これらはそうじて日常にちじょう生活せいかつかかわる単語たんごであり、高次こうじのテーマとそれにふさわしい単語たんご選択せんたくして著述ちょじゅつされた文学ぶんがくてき著作ちょさくぶつには、はい余地よちのなかった単語たんごでもある(たとえば、年代ねんだいじょうにはノヴゴロドの手工業しゅこうぎょうしゃかんする記述きじゅつまった見出みいだされない[133])。

さらに、かずすくないものの、言語げんごによる記述きじゅつもみられる。具体ぐたいてきには「No.292(ru)」はカレリアキリル文字もじ表記ひょうき[114]、「No.488」はラテン語らてんごラテン文字もじ[134]、「No.552」はギリシアギリシャ文字もじ[135]、「No.753」は低地ていちドイツ(ラテン文字もじ[136]、「スモレンスクのNo.11」はきたゲルマンルーン文字もじ[137]によって記述きじゅつされている。このうち、「No.292」は13世紀せいき初期しょきかれたまじないぶんとみられ[114]バルト・フィン諸語しょごならびにカレリア史料しりょうとしては現時点げんじてん最古さいこのものである[138]。また、14世紀せいき後半こうはんの「No.403」の下部かぶは、いくつかの単語たんご解釈かいしゃく諸説しょせつあり)の、ロシアといずれかのバルト・フィン諸語しょご対訳たいやく記録きろくしたものとみられる[139]

参考さんこうきゅうソ連それん地域ちいきかばがわ使用しよう[編集へんしゅう]

ソビエト連邦れんぽう切手きって(1978ねん)、下部かぶに「白樺しらかんば文書ぶんしょ 13世紀せいき」との記載きさいがある

ほんぺーじ地域ちいき時代じだい以外いがいの、きゅうソビエト連邦れんぽう地域ちいきないにおける、かばがわ記述きじゅつされた文章ぶんしょうれいとしては、以下いかのものがある。

2013ねんクラスノヤルスク地方ちほうのスタロトゥルハンスク(ru)の18世紀せいきまつ住宅じゅうたく廃墟はいきょから[140]、2018ねんにはハンティ・マンシ自治じち管区かんく・ユグラのベリョーゾヴォ(ru)の、16世紀せいきまつから17世紀せいきはじめにかけてのポサードから[141]かばがわかれた文章ぶんしょう発見はっけんされた。トゥヴァ共和きょうわこくにおいても、中世ちゅうせいチベットによる著作ちょさくぶつられている[142]

モンゴルによるものとしては、上述じょうじゅつの14世紀せいき文書ぶんしょ以外いがいに、ウズベキスタンのDukentsoyかわ(ru)きし発見はっけんされた15世紀せいきまつ - 16世紀せいきはじめのものがあり、モンゴルじん秘匿ひとく仏教ぶっきょう組織そしきによるものとみられる[143][144]

また、極東きょくとうロシア少数しょうすう民族みんぞくユカギールじんには、女性じょせい恋心こいごころつたえるときにのみもちいる表意ひょうい文字もじがあり[ちゅう 22]、これをもちいて、かばがわ刃物はものって作成さくせいしたユカギールじん恋文こいぶみについて、1895ねんにS.シャルゴロドスキーが報告ほうこくしている[145]

20世紀せいき特殊とくしゅ使用しようれいとしては、だい世界せかい大戦たいせんちゅう物資ぶっし不足ふそくによって、パルチザン発行はっこう新聞しんぶんビラかばがわ印刷いんさつされることがあった[146][147]。また、スターリン体制たいせいしたグラーグ強制きょうせい労働ろうどう収容しゅうようしょないからかばがわもちいて手紙てがみいたれいがあり、このうち、ラトビアじん犠牲ぎせいしゃ手紙てがみが2009ねんユネスコ世界せかい記憶きおく登録とうろくされた[148]おなじく、シベリア抑留よくりゅうなか日本人にっぽんじんかばがわしるした『白樺しらかんば日誌にっし』(舞鶴まいづる引揚記念きねんかんくら)が、2015ねんにユネスコ・世界せかい記憶きおく登録とうろくされている[149]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ スカンディナヴィアでは、15世紀せいきのスウェーデンでかばがわへの記述きじゅつがなされていたことをしる史料しりょうがあり、また17 - 18世紀せいき使用しようれいがあることが確認かくにんされている[3]。モンゴルでは17 - 18世紀せいきのものとみられる白樺しらかんば文書ぶんしょ発見はっけんされている[4]。チベットのものについては#(参考さんこうきゅうソ連それん地域ちいきかばがわ使用しようを、きたインド地方ちほうのものについてはen:Birch bark manuscript#Gandhāran Buddhist manuscriptsen:Birch bark manuscript#Sanskrit and Brāhmī manuscriptsを、北米ほくべいのものについてはen:Wiigwaasabak参照さんしょうされたし。
  2. ^ 問答もんどうちゅうの「文書ぶんしょきざんでてるもの」という表現ひょうげんを、白樺しらかんば文書ぶんしょやぶてる慣習かんしゅうしているとする見解けんかいがある[20]
  3. ^ なお、このうちの1まいであるノヴゴロド詩篇しへん(ノヴゴロド・コデックス(ru)は、それまでルーシであらわされた最古さいこ福音ふくいんしょ位置付いちづけられていたオストロミール福音ふくいんしょ(ru)(1056ねんから1057ねん羊皮紙ようひし・インク)よりもさらにすうじゅうねんふるいものとみられている。
  4. ^ 「チェロビトナヤ」はモスクワ大公たいこうこくイヴァン4せいあらわれた、政府せいふ陳情ちんじょうするさい提出ていしゅつした書類しょるい陳情ちんじょうには物資ぶっし支援しえん要請ようせいふくまれた[33]
  5. ^ たとえば「No.521」は自分じぶん所有しょゆうをどうけるかがかれた遺言ゆいごんじょうであるが[35]正式せいしき遺言ゆいごんじょうにあるべき文章ぶんしょう冒頭ぼうとう末尾まつび定型ていけいぶんと、ノヴゴロドだい主教しゅきょう代官だいかんから印章いんしょう羊皮紙ようひしあなをあけてるす)のどちらもいていることにより、下書したがきとみなされる[36]
  6. ^ 1998ねんまでにノヴゴロド・ネレフスキー(ru)出土しゅつどした白樺しらかんば文書ぶんしょのうち、教会きょうかいでのいのりの言葉ことばしるしているとみられるものは2または3まい同地どうち出土しゅつどすうの0.5%)にとどまる[30]。また、 イコン画家がか聖職せいしょくしゃオリセイ・グレチン(ru)屋敷やしきあとから出土しゅつどした「No.549」など2まいがイコンの注文ちゅうもんまたは督促とくそく手紙てがみ解読かいどくされている[38]。なお、白樺しらかんば文書ぶんしょ」のかずにはふくまれていないが、「No.915-И」(915-I)には両面りょうめん人物じんぶつえがかれており、「варвара」とえられた片面かためんせいバルバラ片面かためんイエス・キリストとみなされている[39]
  7. ^ なぞなぞは「No.10」に、漂流ひょうりゅうするノアのはこぶねもとばとがオリーブのえだくわえてもどってきた場面ばめんをたとえたものが記述きじゅつされている。「No.10」日本語にほんごやく以下いかしめす。
    そらあいだまちがあり、このまちみちもないのにくちがきけない使者ししゃて、かれていない手紙てがみをもたらした。 — 松木まつき三浦みうら、2001ねん5がつ。p36
    ジョークは「No.46」に、ぎょうわた文字もじれつを、通常つうじょうかたどおりひだりからみぎよこんでいくと意味いみつうじないが、1ぎょう1文字もじ、2ぎょう1文字もじ、1ぎょう2文字もじ、2ぎょう2文字もじ…というようにたてんでいく(いわゆるたて)とぶんになるかたちかれている。「No.46」たてみの日本語にほんごやく以下いかしめす。
    馬鹿ばかいて、阿呆あほうせた。さてこれをむのはダーレだ。 — 松木まつき三浦みうら、2001ねん5がつ。p61
  8. ^ ニブル条約じょうやくロシア: Нибуров мир直訳ちょくやくによる。ドイツめいはNyeburs vrede。
  9. ^ 歴史れきしてき事件じけんかんする記述きじゅつのあるもののれいとしては、1075ねん - 1110ねん記述きじゅつとみられる「No.906」は、ボリスとグレブ列聖れっせいについてかれており、史実しじつ列聖れっせいねん(1071ねん)とほぼ合致がっちする[52]。また、1360ねん - 1380ねん記述きじゅつとみられる「No.286」は、ノヴゴロドとスウェーデンの戦争せんそう和平わへい条約じょうやく(ロシアめいオレシェク条約じょうやく(ru)。1323ねん締結ていけつ)にもとづいて徴税ちょうぜいすることを確認かくにんする、徴税ちょうぜいかん同士どうし私信ししんである[53]
  10. ^ くわしくはru:Золотоордынская рукопись на берёсте参照さんしょうされたし。
  11. ^ なお、ペレドリスキーは石器せっき時代じだい遺跡いせき発掘はっくつおこない、出土しゅつどひんをサンクトペテルブルグ考古学こうこがく研究所けんきゅうじょ(ru)施設しせつめいロシア: Санкт-Петербургский археологический институт直訳ちょくやくによる)に出展しゅってんするなど[57]時代じだい考古学こうこがくてき調査ちょうさには業績ぎょうせきげていた。
  12. ^ 「コネツ」は、この場合ばあい都市とし内部ないぶ区分くぶんする歴史れきしてき行政ぎょうせい単位たんい[59]。ノヴゴロドは5つ(ヴォルホフがわ西岸せいがんに3つ、東岸とうがんに2つ)のコネツ=にわけられ、ネレフスキーは、「ノヴゴロド・デティネツ(またはノヴゴロド・クレムリ(ru)」を中心ちゅうしん扇型おうぎがた区分くぶんされた西岸せいがんの3つのコネツのうち、もっと北部ほくぶ位置いちした[60]
  13. ^ 「タイニツキー庭園ていえん」は日本語にほんごサイトの表記ひょうきもとづく[76]
  14. ^ 当時とうじキリル文字もじについてはru:Старославянская кириллица直訳ちょくやくスラヴキリル文字もじ)を参照さんしょうされたし。
  15. ^ 「No.752」(原文げんぶん単語たんご補充ほじゅうふくげんロシア[108]日本語にほんご重訳じゅうやく): あなたに3かい。(手紙てがみ上部じょうぶならびに文頭ぶんとう欠損けっそん。「わたしはあなたに3かい手紙てがみおくった」か)。なぜいにてくれなかったのですか?わたしはあなたを兄弟きょうだいのようにおもっているのに。まさか、わたしなにおこらせるようなことをしましたか?ああ、わたしさとりました。あいはないことを。あなたがあいしているのなら、大急おおいそぎで、人目ひとめのがれていにてくれることでしょう。(途中とちゅう欠損けっそん)。もし、理性りせいわたしが、あなたをいらだたせていても、あなたがわたしわらうなら、かみわたしはあなたをさばきます。
  16. ^ 当然とうぜんではあるが、中世ちゅうせいてき身分みぶん社会しゃかいなかにある女性じょせい姿すがた記述きじゅつされている。
    「No.109」(原文げんぶん単語たんご補充ほじゅうふくげんロシア[110]日本語にほんご重訳じゅうやく):ジズノミルからミクラへ。あなたがプスコフじょ奴隷どれいったけんで、わたしは(プスコフ公国こうこくの)おおやけに、(窃盗せっとう罪状ざいじょうで)逮捕たいほされた。わがドルジーナ(:おおやけ直属ちょくぞく軍人ぐんじん)に委託いたくされている。あなたにはまず、奴隷どれい手紙てがみおくって確認かくにんしてほしい(後略こうりゃく)。
  17. ^ たとえばА. А. Гиппиус, Д. В. Сичинава. Поправки и замечания к чтению ранее опубликованных берестяных грамот [XIII: предварительная публикация] // Русский язык в научном освещении, № 2, 2021.など。
  18. ^ 概略がいりゃくてきべると、[i](и)が接続せつぞくすることで、なに種類しゅるいかの子音しいん発音はつおん変化へんかする法則ほうそくれいげんブルガリアурок[k](「授業じゅぎょう」の単数たんすうがた)→уроц[ts]и(「授業じゅぎょう」の複数ふくすうがた[117]
  19. ^ スラヴけい言語げんごにおいて、キリル文字もじ一覧いちらんは、最初さいしょ文字もじАБ旧称きゅうしょう(アズ、ブカ)から名付なづけられた「アズブカ」ともばれる[121]
  20. ^ 落書らくがきはポラツクせいソフィアだい聖堂せいどう卑語ひごふくむ)[126]、ノヴゴロドではせいソフィアだい聖堂せいどうなどの複数ふくすう教会きょうかい施設しせつ(アズブカをふくむ)で発見はっけんされている[127]落書らくがきは一般いっぱん信徒しんとのいる場所ばしょかべでも、白樺しらかんば文書ぶんしょ発見はっけんまえから確認かくにんされており、教育きょういく存在そんざい示唆しさするものだった[127]
  21. ^ 性的せいてき表現ひょうげん単語たんごふくむもののれいとしては「スタラヤ・ルーサのNo.35(ru)」、「No955(ru)」など。なお、1140 - 1160年代ねんだい[130]「スタラヤ・ルーサのNo.35」は、ロシアにおける卑語ひごすべタタールのくびきなかタタールから導入どうにゅうされたという見解けんかい(19世紀せいきせつの1つ)を否定ひていする史料しりょうであり[131]、「No955」ちゅう卑語ひごふく一文いちぶんは、19 - 20世紀せいき民間みんかん伝承でんしょう記録きろくちゅう多数たすうられる、多産たさん出産しゅっさんねがうた同様どうようのものである[132]
  22. ^ くわしくはru:Юкагирская письменность参照さんしょうされたし。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]