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いの

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
いのりをささげるマグダラのマリア19世紀せいきアリ・シェフェールによる)

いの(いのり)とは、宗教しゅうきょうによって意味いみことなるが、世界せかい安寧あんねいや、他者たしゃへのおもいをねがめること。利他りた精神せいしん自分じぶんなかかみつながること。かみなど神格しんかくされたものにたいして、なにかの実現じつげんねがうこと。かみ定理ていりかく宗教しゅうきょうによる[1]祈祷きとういのり、きとう)、祈願きがん(きがん)ともいう[2]儀式ぎしきとおしておこな場合ばあい礼拝れいはい(れいはい)ともいう。

概要がいよう

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いのりは、もっと基本きほんてき宗教しゅうきょう行為こうい民間みんかん信仰しんこうひとつである。かみきよしする対象たいしょうなんらかの実現じつげん行動こうどうで、その内容ないようは、対象たいしょうとの意思いし疎通そつうはかろうとするものや、病気びょうき回復かいふく、または他人たにんいことがこるようになど、いのひと状況じょうきょう習慣しゅうかんなどで多岐たきにわたる。かみたいして自分じぶんかんがえやおもいを表現ひょうげんすることは「告白こくはく」や「礼参れいまい」という。

外形がいけいてきには、祈祷きとうしゃ祈祷きとう)の独白どくはくないしかたりかけ(呪文じゅもん聖典せいてん教本きょうほん一節いっせつなどの定型ていけいなど)、または黙祷もくとうというかたちをとることがある。また、瞑目めいもく平伏へいふく合掌がっしょうあるいは行進こうしん歩行ほこう)などの身体しんたい動作どうさ姿勢しせいまいおどなどがともな場合ばあいもある。いのりは、個人こじんまた集団しゅうだんおこなわれ、付帯ふたいてき供物くもつなどのたてまつげる(ささげる)ものをえる場合ばあいもある。その様式ようしき理念りねん宗教しゅうきょうによって、様々さまざま定義ていぎされているものの、曖昧あいまい部分ぶぶんもあり、包括ほうかつてき表現ひょうげんすることはむずかしい。

そして、「教義きょうぎ教則きょうそく、またそれらをふくめた聖典せいてん教本きょうほんをもつ宗教しゅうきょう」にかぎらずそれ以前いぜんに、世界中せかいじゅう古代こだい文明ぶんめいにおいて発生はっせいしたシャーマニズム祈祷きとううらな呪術じゅじゅつ薬草やくそうによる医療いりょう行為こういかみとの交信こうしん)やれい信仰しんこう自然しぜん崇拝すうはい精霊せいれい崇拝すうはいアニミズム太陽たいよう)やながぼしいたるまで、対象たいしょう漠然ばくぜんとしたものにたいする感謝かんしゃなどの、意思いし表明ひょうめい表現ひょうげん現象げんしょうたいしての活動かつどうでもどうかたりもちいられ、一概いちがいいのりというものが特定とくてい宗教しゅうきょうにおける価値かち観念かんねんとはべつの、より根源こんげんてき欲求よっきゅうもとづいた人間にんげん活動かつどう様式ようしきであることもれる。その対象たいしょうとき場所ばしょ個人こじん思想しそうによって様々さまざまであるが、いのりという活動かつどうは、人間にんげん社会しゃかいにおいて普遍ふへんてきである。

一神教いっしんきょうにおけるかみ世界せかい遍在へんざいし、場所ばしょ制約せいやくけないため、一神教いっしんきょう信徒しんといのりをささげるために宗教しゅうきょう施設しせつ宗教しゅうきょう用具ようぐ必要ひつようとしない。そのてん日本人にっぽんじんなどの場合ばあいまえ神棚かみだな仏壇ぶつだん神社じんじゃ仏閣ぶっかくなどの対象たいしょうがないといのりをささげることがむずかしいとされる[3]

宗教しゅうきょういのりの様式ようしき

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以下いかかく宗教しゅうきょうにおけるいのりについてべる。

キリスト教きりすときょう

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キリスト教きりすときょうにおいて、いのりは信仰しんこう生活せいかつ中心ちゅうしんをなす宗教しゅうきょう行為こういのひとつである。そのかたちは、賛美さんび感謝かんしゃ嘆願たんがん執成とりなし、静聴せいちょう、悔改と多様たようであって、これらの組合くみあいわせが、一般いっぱんてきに「いのり」とわれる[4]きょういのりと根本こんぽんてきことなるのは、まずかみ言葉ことばいて、それにもとづいていのることが肝心かんじんで、たん自分じぶんねがいを披露ひろうするのではなく、自身じしん信仰しんこうもとづいた決意けつい表明ひょうめいというてんである[5]。その意味いみで、いのりと聖書せいしょむこととは、クリスチャン生涯しょうがいでは一体いったいてきいとなみとされる。

いのりはかみに、また教派きょうはによってはかみははマリアをはじめとする聖人せいじんたいしてささげられる。プロテスタントしょ教会きょうかいでは、マリアあるいは聖人せいじんへのいのりを偶像ぐうぞう崇拝すうはいとして排除はいじょしている。

祈祷きとう意義いぎ

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キリスト教きりすときょうにおける祈祷きとうは、かみへの賛美さんび本来ほんらいてきかたちとする。祈願きがんつみ告白こくはくとうも、究極きゅうきょくにはそれによってかみ栄光えいこうあらわわされることをねがうのであり、現世げんせい利益りえき本来ほんらいてきキリスト教きりすときょう信仰しんこう追求ついきゅうするものではない。いのりの意義いぎ最大さいだいのものは、永遠えいえんなるかみとの人格じんかくてきまじわりにあるとされる。

また「えずいのる」ことがキリスト教きりすときょうでは奨励しょうれいされている[6]天使てんしたちはかみへの賛美さんびえることなくっているとしんじられている。これが公的こうてき礼拝れいはいにしばしば参加さんかすること、私的してき祈祷きとうをしばしばおこなうことともほぐされ、修道しゅうどうたちがずのばん交代こうたいでしながら24あいだ祈祷きとうおこな修道院しゅうどういんむにいたった。一方いっぽう、「いのり」をれいかみかうこととすると、言語げんごされないいのりという観点かんてんしょうじる。中世ちゅうせい正教会せいきょうかいでは、「いのりの文言もんごん理解りかいせずにいのる」「いのりの文言もんごん理解りかいしていのる」「いのりをくちにすることをまたず、すべての行為こういいのりとなっている状態じょうたい」の3つのいのりのかたちかんがえられた。だい3の状態じょうたいを「いのらずしていのる」といい、ヘシカズムではこれを重視じゅうしし、そこにいたるの段階だんかいとしてみじかいのりをえずかえす「イイススのいの」を奨励しょうれいする。

いのりは信者しんじゃ意思いしてき能動のうどうてき行為こういである一方いっぽう神学しんがくてきにはすでにかみちからてその恩寵おんちょうもとおこなわれているとかんがえられる。パウロ書簡しょかんには、いのりにおいて言語げんごされないおもいをかみれいがうめきによってあらわすとのかんがえが表明ひょうめいされている[7]

いのり、とくに公的こうてきいのりはかみへの奉仕ほうしかんがえられているが、一方いっぽうキリスト教きりすときょうには「かみ人間にんげん奉仕ほうし必要ひつようとしない」というかんがえがある。また、ユダヤきょうさらにはその発展はってんであるキリスト教きりすときょうでは、いったいに、かみ人間にんげんかくれたおもいをすべてっているという観念かんねんがあり、したがっていのりがおこなわれずともかみ人間にんげんおもいをすでにっている。したがって、いのりは本来ほんらいてき人間にんげんがわにとって意義いぎをもつ行為こういであるともえないことはないが、しかし、かみ人間にんげんおのれかえって、かみまじわることをよろこぶとされる。かついのりによって人間にんげんかみちかづき、かみとのきずなさらにはともいのものとしてのほか人間にんげんとのきずな更新こうしんすることができるとかんがえられている。

形式けいしき

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クリスチャンのいのりに形式けいしきがあるとするならば、それは「キリストの御名ぎょめいによって」いのるとうことである。それはつみあるひとが、せいなるかみちかづくためには、キリストの十字架じゅうじかじょうとおしてのみ可能かのうであるという理解りかいがある。

祈祷きとう主体しゅたい着目ちゃくもくすると、集団しゅうだんでの公的こうてき礼拝れいはい行為こういおおやけ祈祷きとう)と私的してき個人こじんないし集団しゅうだんでの祈祷きとうわたし祈祷きとう)にかれる。祈祷きとう内容ないよう注目ちゅうもくすると、さだまった祈祷きとうぶんをもちいるものと、個人こじん自由じゆう自発じはつてき祈祷きとうまかせるもの(自由じゆう祈祷きとう)がある。伝統でんとうてき教会きょうかいは、さだまった祈祷きとうぶんもちいることを奨励しょうれいし、プロテスタント教会きょうかいでは自由じゆう祈祷きとう奨励しょうれいする傾向けいこうがある。

さだまった祈祷きとうぶんは、かく教団きょうだん教派きょうはごとにことなる。教派きょうはでその内容ないよう文言もんごん精査せいさしたうえ認可にんかあたえ、信者しんじゃにこれを奨励しょうれいする。教派きょうはえてもちいられる祈祷きとうぶんには「おもいの」、各種かくしゅ信条しんじょうがある。伝統でんとうてき教会きょうかい古代こだいから中世ちゅうせい初期しょき起源きげんをもついくつかの祈祷きとうぶん共有きょうゆうしているが、東西とうざい教会きょうかい分裂ぶんれつ以降いこう制定せいていされ、したがって特定とくてい教派きょうはにのみおこなわれる祈祷きとうぶん数多かずおおい。またおな祈祷きとうぶんもちいることがあっても、それをもちいる状況じょうきょう時節じせつとうさだめをことにすることもしばしばみられる。さだまった祈祷きとうぶん収録しゅうろくしたほん祈祷きとうしょという。

公的こうてき礼拝れいはい典礼てんれいたてまつかみあやひとしぶ。これはギリシアではライトゥルギアとばれ、「人々ひとびと仕事しごと」を原義げんぎとする。一般いっぱん公的こうてき礼拝れいはいは、あらかじめさだめられた形式けいしき祈祷きとう文言もんごんのっとっておこなわれ、しばしば奏楽そうがく歌唱かしょうともなう。ミサ聖体せいたい礼儀れいぎはこのような典礼てんれい代表だいひょうてきなものである。伝統でんとうてき教会きょうかいにおける典礼てんれいには、時刻じこくめておこなわれるものがあり、これをときいのりどきひとししょうする。ときいのり習慣しゅうかんはユダヤきょうからがれたもので、修道院しゅうどういん発達はったつし、1にちに9かいないし8かい祈祷きとうおこなうのを基本きほんかたちとする。伝統でんとうてき教会きょうかいには、キリストきょう本来ほんらい祈祷きとうは、このような集団しゅうだんがあらかじめさだめられた形式けいしきでの祈祷きとうであるとする見解けんかいがある。これにたいして、プロテスタントをはじめ、個人こじん祈祷きとう重視じゅうしする立場たちばがある。

祈祷きとうは、こえしておこなわれることもあれば、もだしておこなわれることもありえる。歌唱かしょうともなうものを「聖歌せいか」「賛美さんびとうぶ。東方とうほう教会きょうかいでは、基本きほんてきに、すべての祈祷きとう歌唱かしょう本来ほんらいかたちとする。

他者たしゃかみ恩寵おんちょうほどこされることをねがいのりをだいもとめ執成とりなしのいのりという。伝統でんとうてき教会きょうかいにおける聖人せいじんへの祈願きがんは、基本きほんてきに、聖人せいじんかみへのだいもとめねがいのりである。プロテスタントは一般いっぱんには聖人せいじんへのいのりを否定ひていしている。

仏教ぶっきょう

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仏教ぶっきょうでは、ふつちから病気びょうき災難さいなんからたすけてもらえるように僧侶そうりょ加持かじおこなう宗派しゅうはがある[8]。また、個人こじんてきに「ねがい」(がん)をける(願掛がんか)ということをおこなう[9]

  • 読経どきょう
  • 念仏ねんぶつ
  • 題目だいもく
  • 合掌がっしょう
  • 参拝さんぱい
  • マントラみじかいのりの言葉ことばかえとなえること。マントラにおいて、いことをよりおおくしているひとにはしろみちが、わるいことをよりおおくしているひとにはくろみちえることがある。くろみちえるということが意味いみするのは、よりあくかたむいているかたからの回心かいしんである。

神道しんとう

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神道しんとう、とくに神道しんとうにおいてかみ曖昧あいまいであり、かみにも日本にっぽん神話しんわの「みこと(みこと)」とされる人格じんかくしんをはじめとし民間みんかん信仰しんこうかみや「わすられて詳細しょうさいわからないかみ」としての、きゃくしんしんなど枚挙まいきょひまなく存在そんざいし、かみみことだけでなくいのちたましい(たましい)・れい精霊せいれい御霊みたま(みたま)とその表現ひょうげん意味合いみあいも様々さまざまである。そのため神事しんじはそれ自体じたい祈願きがんであり、その方法ほうほうろんや、いのりをもたらすことかかわるひと役割やくわりは、多岐たきわたる。

神道しんとう神道しんとう神社じんじゃ神道しんとう皇室こうしつ神道しんとうなどすべて)においていのりとは「神事しんじ」であり、まつまつり・まつりや、神殿しんでんしゃいしぶみづか建立こんりゅうなどをふくめ、分類ぶんるいすれば以下いかのようになるが、各々おのおの重複じゅうふくする部分ぶぶんもある。

ひといとなみや自然しぜん環境かんきょうとしてのかみへのいの

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  • 自然しぜんたいする感謝かんしゃ畏怖いふ畏敬いけい
    • 祖先そせん崇拝すうはいかぎらずひと動物どうぶつなどいのちをなくしたものや、道具どうぐなどの人工じんこうぶつ役目やくめえたのち慰霊いれい感謝かんしゃ
    • いそしみ(いそしみ)の神聖しんせいとその具現ぐげんである職業しょくぎょう神事しんじ

かみ々とひと交流こうりゅうとしてのいのり。

  • 神域しんいき常世とこよ・とこよ)とひと現世げんせい・うつしよ)との交流こうりゅう遮断しゃだんつかさど祭礼さいれい
  • かみぎ(かんなぎ・かむなぎ・かみなぎ)というかみしずめる行為こういとしてのいのり。
    • みこ(かんなぎ)といわれるかみとの交信こうしん
    • ひとによりおこなわれるが、かみによる運命うんめい決定けっていである「うらな」。

個人こじんてきかみへのいのり。

  • ひとによるかみへの招福祈願きがん厄除やくよけ祈念きねん

自然しぜん崇拝すうはい

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神道しんとうはじまりはかみませ(ひもろぎ)やいわ(いわくら)信仰しんこうであり、自然しぜん環境かんきょうわり境界きょうかい)にある特徴とくちょうてき部分ぶぶんうみやまかわ森林しんりん巨石きょせき巨木きょぼく)をかみ宿やどるもの(だい)や神域しんいきにつながる場所ばしょかんがえ、豊饒ほうじょう豊穣ほうじょうではなく)をもたらす(もたらす)ものとしていの信仰しんこうした。また現在げんざいにもそれらはのこり、境内けいだい神木しんぼくれいせき鎮守ちんじゅもり神社じんじゃとはなれた場所ばしょにある霊峰れいほう富士ふじ夫婦ふうふがん華厳けごんたきなど、なにかをいの対象たいしょうとして信仰しんこうあつめている。一方いっぽうでこの神域しんいきである部分ぶぶん結界けっかい禁足きんそくとしている風習ふうしゅう習慣しゅうかんもあり、普段ふだん遮断しゃだんしているが特定とくてい神事しんじまつりとしていのりをたてまつげ、結界けっかいしんまねくというおこないもする。

これらが、古代こだいから遺跡いせきなどで発掘はっくつされる神殿しんでんむすびつき神社じんじゃ神道しんとうしゃへと変化へんかした。また、そのまま民間みんかん信仰しんこうとしてもともとあった気象きしょう現象げんしょうものとしてしょくされたものや、皇室こうしつ神道しんとうにある「三種さんしゅ神器じんぎ」などの道具どうぐ神体しんたいとしてのかんがえがひろがり人工じんこうものたいしてもいのるようになった。具体ぐたいてきには、水田すいでんなどにちたかみなり稲妻いなづま)の場所ばしょ青竹あおだけ注連縄しめなわがこ五穀豊穣ごこくほうじょういのり、くじらとっき(捕鯨ほげい)でいのちとしたクジラまつりやくじらづかくじらによって、慰霊いれい感謝かんしゃいのりをたてまつげている。包丁ほうちょうづか人形にんぎょうづかなどの道具どうぐづか針供養はりくようまたは、妖怪ようかいともいわれるづけ喪神そうしん大事だいじにすれば幸福こうふくをもたらすとして、さまざまなかたちいのられている。

これら森羅万象しんらばんしょうたいする感謝かんしゃひといとなみにまでひろがり、生業せいぎょうとしての「いそしみ(いそしみ)」にまでかみ宿やどるとかんがえ、マタギ稲作いなさく信仰しんこうなどの農林のうりん水産すいさんぎょうだけでなく、鍛冶たんやたたら日本にっぽん古式こしき製鉄せいてつ)や醸造じょうぞう酒造しゅぞう建築けんちく土木どぼくには職業しょくぎょうとしての神事しんじがあり、現在げんざいでも神棚かみだなそな行程こうてい節目ふしめでは、独自どくじ作法さほう儀式ぎしきによっていのりをたてまつげている。

神事しんじ

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神社じんじゃ神道しんとうにおいてのいのりとは、みこ憑依ひょういかんなぎ)であり、かみなぎかみしずめ、なごやかにするいのり)でもあるが、神道しんとうでは憑依ひょういもなく神職しんしょくでないものでも、かみなぎ(かんなぎ・かみぎ・かみぎ・かみなぎとも表記ひょうき)はおこなわれる。はしてきにいえば、みこ憑依ひょういすることによりかみ行為こういであり、神事しんじ神託しんたくでもある。このことが、神職しんしょく生業せいぎょうとする神主かんぬし巫女ふじょが、祝詞のりと神楽かぐらかみたてまつげるしくはかみ一体いったいとなるまいおどり)を日常にちじょうとする所以ゆえんであるといえる。

民間みんかん信仰しんこうでは庶民しょみんが、いわほこらづか道祖神どうそじん地蔵じぞうときとして慈雨じうわせたり、そなものたてまつげる日常にちじょうが「かんなぎ・いのり」であるといえる。そして、時代じだい変遷へんせんとともに神職しんしょく庶民しょみんでない芸能げいのうたずさわるもののげいである、太神楽だいかぐら能楽のうがく曲芸きょくげいわらなども神事しんじや「かんなぎ」とされ、一般いっぱんてき地域ちいき振興しんこう普請ふしんとしてのいわゆるおまつりや興行こうぎょうにおいても、福男ふくおぶくむすめや「弓矢ゆみや神事しんじ」の射手しゃしゅえらばれたものや、皇室こうしつ神道しんとうでの奉納ほうのうという神事しんじであった大相撲おおずもう力士りきしみこ(かんなぎ)として神職しんしょく意味いみをもち、そのほかの民間みんかん神道しんとうとともに現在げんざいいきづいている。

現在げんざい神社じんじゃ神道しんとう

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神社じんじゃ神道しんとうにおける参拝さんぱい作法さほう
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神道しんとうにおいては、かみへの日常にちじょうてきいのりは「おがむ」と形容けいようされることがおおく、参拝さんぱい礼拝れいはいおこなわれる。このさい、お辞儀じぎをして拍手はくしゅはい拍手はくしゅいちはいおこなうことがもっと一般いっぱんてきである。ときには神前しんぜんへの玉串たまぐし拝礼はいれいなどがおこなわれる。あらたまって利益りえき加護かごねが場合ばあいは、祈祷きとう祈願きがんなどをおこない、そのさい神職しんしょくによる祝詞のりと奏上そうじょうはらいなどがおこなわれる。

祈願きがん祈念きねん
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五穀豊穣ごこくほうじょう大漁たいりょう追福ついふく商売しょうばい繁盛はんじょう家内かない安全あんぜん無病むびょう息災そくさい安寧あんねい長寿ちょうじゅ夫婦ふうふ円満えんまん子孫しそん繁栄はんえい祖先そせん崇拝すうはい豊楽ほうらく万民ばんみん天下てんか泰平たいへいの招福祈願きがん厄除やくよけ祈念きねんや「はらきよめ」や「ハレ天気てんきではなくてんれ(あっぱれ)やれとした気持きもちの「れ」をさす}」にまつわることなど多岐たきわたる。具体ぐたいてきなものとしては、参拝さんぱいだけでなく祭礼さいれい縁日えんにちなどの神社じんじゃ参道さんどう境内けいだい鳥居前とりいまえまちにおいておこなわれる歴史れきしてき文化ぶんかてきまつりも祈願きがんである。

祈願きがん祈念きねんのためにおこなわれる行為こうい

うらない・縁起えんぎ

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平安へいあん時代じだいには道教どうきょう陰陽いんようぎょう思想しそうむすびついた神職しんしょくによる陰陽いんようとしての台頭たいとう執政しっせいがあり、江戸えど時代じだいには庶民しょみん自治じちがより顕著けんちょになり、その中心ちゅうしん寺社じしゃがあったので、普請ふしんとしてのまつりがおこなわれた。このまつりや神事しんじ古代こだいからつづ亀甲きっこううらなや、年始ねんし年末ねんまつ自然しぜん現象げんしょう結果けっかや、弓矢ゆみや神事しんじによるてきたりはずれで、そのとし吉凶きっきょううらない、せいとしての自治じち反映はんえいされた。

このようにうらないは縁起えんぎともいい、基本きほんてきには「かみひとりた結果けっかたりはずれ」で運命うんめい啓示けいじであるとかんがえられた。またそれをもたらすものは、巫女ふじょ神職しんしょくだけでなく、まつりなどでえらばれた福男ふくおなまはげなどの演者えんじゃ力士りきしなどかみだいになったひと縁起えんぎにかかわるみこ(かんなぎ)であるといえ、勝敗しょうはいや「たりはずれ」をもってその時々ときどきうらないの結果けっかとして指針ししんとした。

このうらなうという「かみいのった結果けっか予見よけん予言よげん」を簡略かんりゃくしたものが、神社じんじゃにある「おみくじ」であり、そのほか庶民しょみんあいだでも「うんだめし」や「ゲンをかつぐ」ためのおこないも縁起えんぎ行為こういとされた。具体ぐたいてきには、時節じせつによる滋養じよう強壮きょうそう目的もくてきで、長寿ちょうじゅ薬事やくじ効果こうか期待きたいしてしょく行為こうい健康けんこう祈願きがんであり、それらのものは縁起物えんぎものばれ「霊験れいけんあらたか」であるとかんがえられ、そのいわれは、仏教ぶっきょう密教みっきょうヒンドゥーきょうなどの「インド文化ぶんか」を起源きげんとするものや五節句ごせっくじゅうよん節気せっきなど中華ちゅうか文明ぶんめい風俗ふうぞく習慣しゅうかん起源きげんもの存在そんざいし、それらが日本にっぽん古来こらい神道しんとう神道しんとう)と渾然一体こんぜんいったいとなっているものもある。

イスラム教いすらむきょう

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イスラム教いすらむきょうでは、ユダヤきょうキリスト教きりすときょう同様どうよう偶像ぐうぞう崇拝すうはい厳格げんかく禁止きんしされているため、イスラム教いすらむきょう聖地せいちであるサウジアラビアメッカいた所定しょてい方角ほうがくにひれすことでおこなわれる。これは一種いっしゅ生活せいかつ習慣しゅうかんてき位置付いちづけもあり、毎日まいにちまった時間じかんいのりがささげられる。礼拝れいはいをするための専用せんよう絨毯じゅうたんもあり、とく方角ほうがく重視じゅうしすることから、方位ほうい磁針じしん利用りようされることもある。また、イスラム教いすらむきょうにおいて、信徒しんとあたまをひれ対象たいしょうイスラム教いすらむきょうかみであるアッラーフのみであるとされ、アッラーフではない人間にんげんたいしてあたまをひれしてはならないとされている。

参考さんこう文献ぶんけん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 三省堂例解新国語辞典「いのる」のこう1
  2. ^ 三省堂例解新国語辞典「祈願きがん」および「祈祷きとう」のこう
  3. ^ 島田しまだ裕巳ひろみ日本人にっぽんじん信仰しんこう』pp.142-143 扶桑社ふそうしゃ新書しんしょ、2017ねんISBN 978-4594077426
  4. ^ カール・バルト「いのり」p.p4~5 序言じょげんより ISBN 9784400541622
  5. ^ 自由じゆう国民こくみんしゃ世界せかい宗教しゅうきょう経典きょうてん」p.p57~58 キリスト教きりすときょう行事ぎょうじ習慣しゅうかんより
  6. ^ 新約しんやく聖書せいしょローマじんへの手紙てがみ12しょう12せつなど
  7. ^ 新約しんやく聖書せいしょローマじんへの手紙てがみ8しょう26~27せつ
  8. ^ 三省堂例解新国語辞典「加持かじ」のこう
  9. ^ 三省堂例解新国語辞典「願掛がんかけ」のこう

関連かんれん項目こうもく

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