(Translated by https://www.hiragana.jp/)
スタラヤ・ルーサ - Wikipedia コンテンツにスキップ

スタラヤ・ルーサ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
紋章もんしょう
だい聖堂せいどう広場ひろば

スタラヤ・ルーサ(スターラヤ・ルーサ、スタラヤルッサ、ロシア:Ста́рая Ру́сса;ラテン文字もじ表記ひょうき: Staraya Russa)は、ロシアノヴゴロドしゅう古都こと人口じんこうは2まん7487にん(2021ねん[1]で、しゅうないだいさん都市とし

州都しゅうとノヴゴロドからイリメニはさんでみなみに99kmの距離きょりにある。スタラヤ・ルーサはイリメニ流入りゅうにゅうするポリストかわめんしておりふるくは河港かこうとしてさかえた。スターラヤ・ルーサ空港くうこう立地りっちする。

歴史れきし[編集へんしゅう]

2003ねん発行はっこうの10ルーブル硬貨こうかえがかれたスターラヤ・ルーサの風景ふうけい

おそらくまちはじまりは10世紀せいきなかばと推測すいそくされるが、文献ぶんけんにその初出しょしゅつするのは1076ねんのことで、ラドガプスコフとともにノヴゴロド公国こうこく(ノヴゴロド共和きょうわこく)の主要しゅよう都市としとされている。そのヴァリャーグヴァイキング)の時代じだいさかのぼる。そのうち一部いちぶぞくルーシぞく自称じしょうし、現在げんざいのスタラヤ・ルーシ付近ふきん入植にゅうしょくし、スカンジナビアからかわづたいに黒海こっかい目指めざ水上すいじょう交易こうえきヴァリャーグからギリシアへのみち、ノヴゴロドからポロツクキエフいたる)のなかあいださえた。

ルーサにあった木造もくぞう入植にゅうしょく1190ねん1194ねんはらわれた。1478ねん、ノヴゴロド公国こうこくモスクワ大公たいこうこく併合へいごうされるとルーサもモスクワ大公たいこうこく一部いちぶとなった。「スターラヤ」(ふるい)というかたり15世紀せいきあたらしくできたルーサというまち区別くべつするためにあたまにつけられた。

15世紀せいきから17世紀せいきにかけて、ふる水上すいじょう交易こうえきまち製塩せいえん中心ちゅうしんとする工業こうぎょう都市としへとわっていった。イヴァンかみなりみかど在位ざいい1533ねん-1584ねん)が君主くんしゅになった時期じき、スタラヤ・ルーサはロシアで4番目ばんめ人口じんこうおお都市としだった(モスクワプスコフ、ノヴゴロドのつぎ)。しかしリューリクあさ断絶だんぜつだい動乱どうらん時代じだい、スタラヤ・ルーサはポーランドぐん蹂躙じゅうりんされ荒廃こうはい人口じんこう激減げきげんした。1613ねん時点じてんでの人口じんこうはわずか38にんだった。

1824ねんアレクサンドル1せい屯田とんでんへいВоенные поселения)をスタラヤ・ルーサ付近ふきんいたが、これは1831ねんコレラだい流行りゅうこうの「コレラ暴動ぼうどう」の舞台ぶたいになった。1828ねんには温泉おんせん開設かいせつされ、このころから湯治とうじきゃく大勢おおぜいあつまるようになった。フョードル・ドストエフスキー1875ねんから1878ねん、および1880ねんにこのまちんでおり、ドストエフスキーの小説しょうせつカラマーゾフの兄弟きょうだい』(1879ねん - 1880ねん)の物語ものがたり舞台ぶたいである「スコトプリゴニエフスク」(Skotoprigonievsk、家畜かちく追込おいこみまち)という架空かくうまちはスタラヤ・ルーサがモデルになっている。

だい世界せかい大戦たいせんではドイツぐん占領せんりょうされ(1941ねん8がつ9にち - 1944ねん2がつ18にち戦闘せんとう完全かんぜん破壊はかいされたが、戦後せんご再建さいけんされている。ソビエト連邦れんぽう崩壊ほうかい、ロシアのほか地域ちいき同様どうよう人口じんこうっており、1989ねん国勢調査こくせいちょうさで41,538にんだった人口じんこうは2008ねんに35,000にんんだ。

観光かんこう[編集へんしゅう]

スタラヤ・ルーサは温泉おんせんいているため温泉おんせん療法りょうほう中心ちゅうしんとするリゾートがつくられている。鉱泉こうせんみずは、水浴すいよく飲用いんよう吸入きゅうにゅうなどに使つかわれており、ヴェルフネイェやスレドネイェ、あるいは人工じんこうみずうみそこから採取さいしゅされた薬効やっこうのあるどろ使用しようされる。ドストエフスキーが執筆しっぴつおこなったなついえ博物館はくぶつかんとして開放かいほうされている。

歴史れきしてき建造けんぞうぶつおおく、聖堂せいどうのある「変容へんよう修道院しゅうどういん」は1198ねんに70日間にちかん建設けんせつされたとされ、15世紀せいき部分ぶぶんてき再建さいけんされている。17世紀せいき建物たてもの教会きょうかいおおく、教会きょうかい1678ねん)はキリストの復活ふっかつささげられている。その建物たてものには、ドストエフスキー教会きょうかいでもあるせいゲオルギイ教会きょうかい(1410ねん)や殉教者じゅんきょうしゃミナ教会きょうかい(14世紀せいき)、いたりひじりさんしゃ教会きょうかい(1676ねん)などがある。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ city population”. 2023ねん5がつ7にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

座標ざひょう: 北緯ほくい5759ふん 東経とうけい3121ふん / 北緯ほくい57.983 東経とうけい31.350 / 57.983; 31.350