スペルヒオスがわたたか

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スペルヒオスがわたたか
ブルガリア・ひがしローマ戦争せんそうなか
とき997ねん
場所ばしょ中央ちゅうおうギリシャスペルヒオスがわ
結果けっか ひがしマ帝国まていこく勝利しょうり
衝突しょうとつした勢力せいりょく
だいいちブルガリア帝国ていこく ひがしマ帝国まていこく
指揮しきかん
サムイル
ガブリル・ラドミル
ニケフォロス・ウラノス
戦力せんりょく
被害ひがいしゃすう
1000にん

スペルヒオスがわたたかは、997ねんおこなわれたサムイルひきいるブルガリア帝国ていこくひがしマ帝国まていこくとのあいだおこなわれたたたかいである。

戦闘せんとう[編集へんしゅう]

サムイルはテッサロニキおそったのち南下なんかし、ボイオティアアッティカむら々をおそって略奪りゃくだつをし、人民じんみん殺戮さつりくした。その帰路きろに、テルモピュライちかくのスペルヒオスがわかったときにニケフォロス・ウラノスひきいるひがしローマぐん攻撃こうげきけた。ブルガリアぐん不意ふいかれたのと、大量たいりょう略奪りゃくだつひんかかえていたためうごきがおそく、効果こうかてき対応たいおうができずおおくの死者ししゃして敗走はいそうし、サムイルも自身じしん負傷ふしょうしたがからくもった。

余波よは[編集へんしゅう]

このたたかいはサムイルにとってはつ敗北はいぼくとなり、ひがしローマぐんはサムイルの反乱はんらん以降いこうつづいた連敗れんぱいをようやくめること成功せいこうした。前年ぜんねんアナトリアの反乱はんらん鎮圧ちんあつ成功せいこうしていたバシレイオス2せいは、このたたかいを皮切かわきりにブルガリアにたい反撃はんげき開始かいしした。