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民族みんぞく解放かいほうぐん (マケドニア共和国まけどにあきょうわこく)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
民族みんぞく解放かいほうぐん
Ushtria Çlirimtare Kombètare
マケドニア紛争ふんそう参加さんか
民族みんぞく解放かいほうぐんUshtria Çlirimtare Kombètare)の紋章もんしょうコソボ解放かいほうぐん類似るいじしたデザインが使用しようされている
活動かつどう期間きかん 1999ねん - 2001ねん
指導しどうしゃ アリ・アフメティ
活動かつどう地域ちいき マケドニア共和国まけどにあきょうわこく
後継こうけい 民主みんしゅ統合とうごう連合れんごう
関連かんれん勢力せいりょく コソボ解放かいほうぐんプレシェヴォ・メドヴェジャ・ブヤノヴァツ解放かいほうぐん
敵対てきたい勢力せいりょく マケドニア共和国まけどにあきょうわこく
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民族みんぞく解放かいほうぐん(みんぞくかいほうぐん、アルバニア:Ushtria Çlirimtare Kombëtare; UÇKマケドニア:Ослободителна народна армија; ОНА)は、マケドニア共和国まけどにあきょうわこく2001ねん活動かつどうしたはん政府せいふテロリストゲリラ組織そしきである。コソボ解放かいほうぐんとのつよ関連かんれん指摘してきされており、りょう組織そしきはアルバニアでの頭文字かしらもじUÇK」やロゴを共有きょうゆうしている。このことから、「マケドニアのUÇK」、「UÇK-M」と通称つうしょうされる。また、英語えいごの「National Liberation Army」の頭文字かしらもじをとって「NLA」ともばれる。

マケドニア紛争ふんそうのちマケドニア共和国まけどにあきょうわこくにおけるアルバニアじん権利けんり拡大かくだい保障ほしょうしたオフリド合意ごういOhrid Agreement)にもとづいて組織そしき武装ぶそう解除かいじょされた。しかし、組織そしき武装ぶそう解除かいじょ過程かていで、ふる武器ぶきについては返還へんかんされた。

マケドニア紛争ふんそう民族みんぞく解放かいほうぐん

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民族みんぞく解放かいほうぐん1999ねんあきごろ、かつてのコソボ解放かいほうぐん指導しどうしゃ一人ひとりで、コソボ解放かいほうぐん創設そうせつからの幹部かんぶおいにあたるアリ・アフメティAli Ahmeti)によって組織そしきされた。民族みんぞく解放かいほうぐん公式こうしき目的もくてきな、連邦れんぽうせいマケドニア共和国まけどにあきょうわこくもとで、アルバニアじんがマケドニアじん同等どうとう民族みんぞくてき権利けんりることであった[1]民族みんぞく解放かいほうぐん上級じょうきゅう司令しれいかんは、「我々われわれはマケドニアの安定あんてい領土りょうどてき統合とうごうおどかしたくはないが、我々われわれ基本きほんてき権利けんりり、マケドニア国内こくない対等たいとう権利けんり獲得かくとくするまではゲリラせんたたかう」と示唆しさした[2]マケドニア共和国まけどにあきょうわこく政府せいふは、民族みんぞく解放かいほうぐん過激かげきのテロリストであり、アルバニアじん多数たすうめる地域ちいき分離ぶんりし、アルバニアへと統合とうごうすることを目指めざしていると主張しゅちょうした。

2001ねん1がつ22にち民族みんぞく解放かいほうぐんけい火器かきもちいてマケドニア治安ちあん部隊ぶたいへの攻撃こうげきをはじめた。[3]衝突しょうとつはやがてエスカレートし、2001ねん3がつのはじめには、民族みんぞく解放かいほうぐんマケドニア共和国まけどにあきょうわこく北部ほくぶ西部せいぶ実効じっこう支配しはいし、首都しゅとスコピエまで19キロメートルほどにまでせまった[1]

2001ねん3月、民族みんぞく解放かいほうぐん交戦こうせんによるテトヴォ攻略こうりゃく失敗しっぱいしたものの、テトヴォからコソボへといた丘陵きゅうりょう地帯ちたい支配しはいした。2001ねん5がつ3にち、マケドニア政府せいふによるクマノヴォKumanovo)での反撃はんげき失敗しっぱいした。6月8にち民族みんぞく解放かいほうぐんはスコピエ郊外こうがいアルチノヴォ(Arčinovo)のむら支配しはいいた。8月16にち両者りょうしゃ和平わへい合意ごうい調印ちょういんし、紛争ふんそう終結しゅうけつした。

編成へんせい軍事ぐんじ能力のうりょく

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民族みんぞく解放かいほうぐんは、さい大事だいじにはおよそ7せんにんからっているものと推定すいていされており、そのうちの一部いちぶイギリスSAS落下傘らっかさん連隊れんたいParachute Regiment)の訓練くんれんけている[4][5]。コソボ解放かいほうぐんのときは、完全かんぜんけい武装ぶそうであり、おもしょう火器かき臼砲きゅうほうたたかっていたが、一部いちぶにはFIM-92スティンガーミサイルSA-7対空たいくうミサイルの使用しよう報告ほうこくされている。戦争せんそうすすむにつれ、民族みんぞく解放かいほうぐんはマケドニア政府せいふぐんから鹵獲ろかくした戦車せんしゃなどの重火器じゅうかきにするようになった[6][7]

民族みんぞく解放かいほうぐんはコソボからの人員じんいん武器ぶき流入りゅうにゅうささえられており、コソボ解放かいほうぐんプレシェヴォ・メドヴェジャ・ブヤノヴァツ解放かいほうぐんUÇPMB)との関連かんれんあきらかであるが、公式こうしきみとめてはいない。

戦争せんそう犯罪はんざい

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マケドニアでの衝突しょうとつ小規模しょうきぼなものであったが、戦争せんそう犯罪はんざいがなかったわけではない。くわえて、テトヴォやスコピエ、クマノヴォ周辺しゅうへんむら々では民族みんぞくてきマケドニアじんである多数たすう市民しみん拉致らちされ、虐待ぎゃくたいけている。民族みんぞく解放かいほうぐん殺害さつがいされたなかには、ブレズノ(Brezno)からのがれてきたマケドニアじん老人ろうじんもいた。ヒューマン・ライツ・ウォッチによると、「マケドニアの民族みんぞくてきにアルバニアじんのテロリストは、スコピエ-テトヴォ高速こうそく道路どうろから道路どうろ作業さぎょういん拉致らちしたのち残忍ざんにん虐待ぎゃくたい性的せいてき暴行ぼうこうくわえた」としている[8]民族みんぞく解放かいほうぐんはまた、レショク(Lešok)にある正教会せいきょうかいせいアタナシウス修道院しゅうどういん(Sveti Atanasij、1924ねん建造けんぞう)を破壊はかいした。他方たほう、マケドニア政府せいふがわはネプロシュテノ(Neprošteno)でモスク破壊はかいした。りょう建造けんぞうぶつ2003ねん欧州おうしゅう連合れんごう資金しきんによって復興ふっこうされた。多数たすうのマケドニアじん市民しみん拉致らちされており、そのおおくは短期間たんきかんのち解放かいほうされているが、14にんが9月に解放かいほうされたのちも12にん行方ゆくえからないままとなった。10月には、この12にん殺害さつがいされネプロシュテノちかくの集団しゅうだん墓地ぼち遺棄いきされたうたがいが報告ほうこくされた。この事件じけんマケドニア共和国まけどにあきょうわこく政府せいふによってきゅうユーゴスラビア国際こくさい戦犯せんぱん法廷ほうてい(ICTY)に照会しょうかいされた。

このほかの特筆とくひつすべき事件じけんとして、リュボテンLjuboten)のむらけんがある[9]。アルバニアじん多数たすうめるリュボテンのむらたいするマケドニア警察けいさつによる3日間にちかん攻撃こうげきが2001ねん8がつ10日とおかから12にちにかけておこなわれた。攻撃こうげきで10にん市民しみん死亡しぼうし、その100にん以上いじょう逮捕たいほされた。そのおおくは警察けいさつ拘留こうりゅうされているあいだはげしく殴打おうだされた。マケドニア政府せいふ主張しゅちょうはんし、リュボテンでおこなわれたヒューマン・ライツ・ウォッチの実地じっち調査ちょうさによると、そこに民族みんぞく解放かいほうぐん証拠しょうこなんつからなかった。スコピエ近郊きんこうのアルバニアじんむらリュボテンでこったこの出来事できごとは、当時とうじマケドニア共和国まけどにあきょうわこく内務ないむ大臣だいじんリュベ・ボシュコスキLjube Boškoski)のきゅうユーゴスラビア国際こくさい戦犯せんぱん法廷ほうてい(ICTY)による訴追そつい発展はってんした。2008ねんデン・ハーグ国際こくさい戦犯せんぱん法廷ほうていは、ボシュコスキを無罪むざいとした。

停戦ていせん武装ぶそう解除かいじょ

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オフリド合意ごういによって、民族みんぞく解放かいほうぐん停戦ていせん合意ごういした。オフリド合意ごういでは、マケドニア共和国まけどにあきょうわこく政府せいふ人口じんこうの25%程度ていどめるアルバニアじん民族みんぞくてき権利けんり向上こうじょう約束やくそくした[10]。これによって、アルバニア一部いちぶ自治体じちたい公用こうようとなり、アルバニアじんマケドニア共和国まけどにあきょうわこく政府せいふ機関きかん警察けいさつぐんへの参画さんかくすすめられた。オフリド合意ごういではまた、マケドニア共和国まけどにあきょうわこく地方ちほう分権ぶんけん約束やくそくした。他方たほう、アルバニアじんはあらゆる分離ぶんり主義しゅぎてき要求ようきゅう放棄ほうきと、マケドニアのしょ機構きこう完全かんぜん承認しょうにん合意ごういした。くわえて、合意ごういでは民族みんぞく解放かいほうぐん武装ぶそう解除かいじょされ、武器ぶき北大西洋きたたいせいよう条約じょうやく機構きこう(NATO)にわたすこととなっていた。かせない収穫しゅうかく作戦さくせん8がつ22にち公的こうてき着手ちゃくしゅされ、実効じっこうてきには8がつ27にちからはじまった。30日間にちかん作戦さくせんにはおよそ3500にんのNATOとマケドニア政府せいふぐん兵士へいしが、民族みんぞく解放かいほうぐん武装ぶそう解除かいじょ武器ぶき解体かいたいすすめた。NATOが作戦さくせんはじめた1あいだ民族みんぞく解放かいほうぐんのアリ・アフメティは、シプコヴィツァШипковица / Šipkovica / Shipkovica)にある解放かいほうぐん本拠地ほんきょちにて、報道ほうどう関係かんけいしゃあつまるなか記者きしゃ会見かいけんおこない、民族みんぞく解放かいほうぐん解体かいたい発表はっぴょうし、いま民族みんぞくあいだ調和ちょうわときであるとべた。2001ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくはコソボ解放かいほうぐん民族みんぞく解放かいほうぐんをテロリストと認定にんていしていた。

アリ・アフメティにひきいられたアルバニアじん民族みんぞく解放かいほうぐん成員せいいんらによって、のち政治せいじ政党せいとう民主みんしゅ統合とうごう連合れんごう結成けっせいされた。とうは2002ねん議会ぎかい選挙せんきょではおおくのアルバニアじんからの支持しじあつめ、マケドニア社会しゃかい民主みんしゅ同盟どうめいSDSM)と連立れんりつみ、2006ねん7がつまで与党よとう一翼いちよくになった(こののちVMRO-DPMNEアルバニアじん民主党みんしゅとう連立れんりつにとってわられた)。政府せいふがわ解放かいほうぐんがわ双方そうほう死傷ししょうしゃすう正確せいかくにはられていないが、それぞれ60にん前後ぜんこうとしている。

関連かんれん項目こうもく

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参考さんこう文献ぶんけん

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  1. ^ a b Macedonia timeline”. Guardian. 2009ねん6がつ閲覧えつらん
  2. ^ Who are the rebels?”. BBC. 2009ねん6がつ閲覧えつらん
  3. ^ "Three Serb policemen killed by Kosovar extremists", The Scotsman, 19 February 2001
  4. ^ Albanian rebels , trained by the SAS are gaining ground in Macedonia, aiming for the key city of Tetovo”. Center for Balkan Development. 2009ねん6がつ閲覧えつらん
  5. ^ "How many groups, how many guns?", The Economist, 25 August 2001
  6. ^ Macedonia sets new peace conditions”. BBC. 2009ねん6がつ閲覧えつらん
  7. ^ "Macedonia on brink of war", Sunday Times, 10 June 2001
  8. ^ Torture, Kidnappings by Albanians in Macedonia”. Human Rights Watch. 2009ねん6がつ閲覧えつらん
  9. ^ Crimes Against Civilians: Abuses by Macedonian Forces in Ljuboten, August 10-12, 2001”. Human Rights Watch. 2009ねん6がつ閲覧えつらん
  10. ^ CIA - The World Factbook - Macedonia”. CIA. 2009ねん6がつ閲覧えつらん

外部がいぶリンク

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