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ポルトガルりょうモザンビーク

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ポルトガルりょうひがしアフリカ
África Oriental Portuguesa
キルワ王国
モノモタパ王国
マラビ王国
1505ねん - 1975ねん モザンビーク人民共和国
モザンビークの国旗 モザンビークの国章
ポルトガルの国旗こっきポルトガルのくにあきら
国歌こっか: Hymno Patriótico(ポルトガル
(1808ねん - 1834ねん

Hino da Carta(ポルトガル
イーノ・ダ・カルタ(1834ねん - 1910ねん

The Portuguese(ポルトガル
ア・ポルトゥゲーザ(1910ねん - 1975ねん
モザンビークの位置
ポルトガルりょうひがしアフリカの位置いち
公用こうよう ポルトガル
宗教しゅうきょう カトリック
首都しゅと Cidade de Pedra
(1507ねん - 1898ねん

ロウレンソ・マルケス
(1898ねん - 1975ねん
国家こっか元首げんしゅ
1505ねん - 1521ねん 国王こくおうマヌエル1せい
1974ねん - 1975ねん大統領だいとうりょうフランシスコ・ダ・コスタ・ゴメス
総督そうとく
1505ねん - 1506ねんPêro de Anaia初代しょだい
1974ねん - 1975ねんVítor Manuel Trigueiros Crespo 最後さいご
変遷へんせん
設立せつりつ 1505ねん
ポルトガルから独立どくりつ1975ねん6がつ25にち
通貨つうかモザンビーク・レアル
(1852ねん - 1914ねん

モザンビーク・エスクード
(1914ねん - 1975ねん
現在げんざいモザンビークの旗 モザンビーク

ポルトガルりょうモザンビーク(ポルトガルりょうモザンビーク、ポルトガル: Moçambique)またはポルトガルりょうひがしアフリカ(ポルトガルりょうひがしアフリカ、ポルトガル: África Oriental Portuguesa)は、どちらもモザンビークポルトガル植民しょくみんであった時代じだい用語ようごである。当初とうしょ、ポルトガルりょうモザンビークは南東なんとうアフリカの沿岸えんがんにあったポルトガルの領地りょうちぐんであったが、のち統合とうごうし、現在げんざいモザンビーク共和きょうわこく形成けいせいしている。

ヴァスコ・ダ・ガマがモザンビークの海岸かいがん到達とうたつした1498ねん以降いこう、ポルトガルの貿易ぼうえき集落しゅうらく植民しょくみん)が海岸かいがん沿いとザンベジがわ流域りゅういき形成けいせいされた。1544ねんロウレンソ・マルケス現在げんざいマプトわんのあたりを探検たんけんした。ポルトガルは「アフリカ分割ぶんかつ以降いこう植民しょくみん内部ないぶ占領せんりょうちかられ、1918ねん植民しょくみんだい部分ぶぶん政治せいじてき支配しはいするようになったが、その過程かていでアフリカじん抵抗ていこうった。

モザンビークには、19世紀せいき後半こうはん現在げんざいマニカしゅうソファラしゅう相当そうとうする土地とち利権りけんつモザンビーク会社かいしゃ(Companhia de Moçambique)や、現在げんざいカボ・デルガードしゅうニアサしゅう土地とち支配しはいしていたニアサ会社かいしゃ(Companhia do Niassa)などの勅許ちょっきょ会社かいしゃ支配しはいけた地域ちいきもあった。1942ねん、モザンビーク会社かいしゃはその領土りょうど放棄ほうきしてポルトガルに返還へんかんし、モザンビークはポルトガル政府せいふ支配しはい統一とういつされた。

この地域ちいき全体ぜんたいは、ながあいだ公式こうしきにはポルトガルりょうひがしアフリカばれ、みなみロウレンソ・マルケスからきたニアサまでの一連いちれん植民しょくみん細分さいぶんされた。当初とうしょ、カボ・デルガードは1919ねんドイツりょうひがしアフリカから獲得かくとくしたデルガードみさきふくむロヴマかわ沿いの一帯いったいぎなかったが、ルリオがわまで南下なんかして現在げんざいのカボ・デルガードしゅう構成こうせいするようになった。ザンベジがわ流域りゅういきにはケリマネげんザンベジアしゅう)とテテきたローデシアげんザンビア)とみなみローデシアげんジンバブエ)のあいだ細長ほそなが地域ちいき)の植民しょくみんがあり、一時期いちじきはザンベジアとして統合とうごうされたことがある。モザンビーク植民しょくみん現在げんざいナンプーラ)はモザンビークとう首都しゅといていた。また、モザンビークとうには1890年代ねんだい後半こうはんまでポルトガルりょうひがしアフリカの総督そうとくかれ、総督そうとくはロウレンソ・マルケスうつされた。また、みなみにはロウレンソ・マルケスの北東ほくとう位置いちするイニャンバネ(Inhambane)植民しょくみん存在そんざいした。これらの植民しょくみん統合とうごうされると、この地域ちいき全体ぜんたいが「モザンビーク」とばれるようになった。

タンザニア本部ほんぶモザンビーク解放かいほう戦線せんせん(FRELIMO)は、1964ねん9月にポルトガルの支配しはいたいするゲリラ作戦さくせん開始かいしした。この紛争ふんそうは、ポルトガルりょうアンゴラポルトガルりょうギニアすではじまっていたほか紛争ふんそうともに、ポルトガルの植民しょくみん戦争せんそう一部いちぶとなった。ルゾ・トロピカリズモ概念がいねんもとづくサラザール政権せいけん公式こうしき政策せいさくによれば、モザンビークはポルトガルの「大陸たいりく民族みんぞく国家こっか」の不可欠ふかけつ一部いちぶであると主張しゅちょうし、地元じもと住民じゅうみんをヨーロッパした。これはポルトガル文化ぶんか同化どうかさせるため、すべての植民しょくみんおこなわれた。しかし、この政策せいさくはほとんど成功せいこうせず、アフリカの植民しょくみんたいする反発はんぱつから10ねんにわたる独立どくりつ戦争せんそうが、1974ねん4がつにはリスボンカーネーション革命かくめいこり、FRELIMOがモザンビーク全土ぜんど掌握しょうあく、モザンビークの独立どくりつかんする交渉こうしょうルサカにて開始かいしした。そして1975ねん6がつにはモザンビーク人民じんみん共和きょうわこくとしてポルトガルからの独立どくりつ達成たっせいした。

脚注きゃくちゅう

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関連かんれん項目こうもく

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  • わたるすけ - ポルトガルりょうモザンビーク出身しゅっしんとされる。