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ポルトガル領 りょう 東 ひがし アフリカ
África Oriental Portuguesa
国歌 こっか : Hymno Patriótico(ポルトガル語 ご ) (1808年 ねん - 1834年 ねん ) Hino da Carta(ポルトガル語 ご ) イーノ・ダ・カルタ (1834年 ねん - 1910年 ねん ) The Portuguese (ポルトガル語 ご ) ア・ポルトゥゲーザ (1910年 ねん - 1975年 ねん ) ポルトガル領 りょう 東 ひがし アフリカの位置 いち
ポルトガル領 りょう モザンビーク (ポルトガルりょうモザンビーク、ポルトガル語 ご : Moçambique )またはポルトガル領 りょう 東 ひがし アフリカ (ポルトガルりょうひがしアフリカ、ポルトガル語 ご : África Oriental Portuguesa )は、どちらもモザンビーク がポルトガル の植民 しょくみん 地 ち であった時代 じだい を指 さ す用語 ようご である。当初 とうしょ 、ポルトガル領 りょう モザンビークは南東 なんとう アフリカの沿岸 えんがん 部 ぶ にあったポルトガルの領地 りょうち 群 ぐん であったが、後 のち に統合 とうごう し、現在 げんざい はモザンビーク共和 きょうわ 国 こく を形成 けいせい している。
ヴァスコ・ダ・ガマ がモザンビークの海岸 かいがん に到達 とうたつ した1498年 ねん 以降 いこう 、ポルトガルの貿易 ぼうえき 集落 しゅうらく (後 ご の植民 しょくみん 地 ち )が海岸 かいがん 沿 ぞ いとザンベジ川 がわ 流域 りゅういき に形成 けいせい された。1544年 ねん 、ロウレンソ・マルケス が現在 げんざい のマプト湾 わん のあたりを探検 たんけん した。ポルトガルは「アフリカ分割 ぶんかつ 」以降 いこう 、植民 しょくみん 地 ち 内部 ないぶ の占領 せんりょう に力 ちから を入 い れ、1918年 ねん に植民 しょくみん 地 ち の大 だい 部分 ぶぶん を政治 せいじ 的 てき に支配 しはい するようになったが、その過程 かてい でアフリカ人 じん の抵抗 ていこう に遭 あ った。
モザンビークには、19世紀 せいき 後半 こうはん に現在 げんざい のマニカ州 しゅう とソファラ州 しゅう に相当 そうとう する土地 とち の利権 りけん を持 も つモザンビーク会社 かいしゃ (Companhia de Moçambique)や、現在 げんざい のカボ・デルガード州 しゅう とニアサ州 しゅう の土地 とち を支配 しはい していたニアサ会社 かいしゃ (Companhia do Niassa)などの勅許 ちょっきょ 会社 かいしゃ が支配 しはい を引 ひ き受 う けた地域 ちいき もあった。1942年 ねん 、モザンビーク会社 かいしゃ はその領土 りょうど を放棄 ほうき してポルトガルに返還 へんかん し、モザンビークはポルトガル政府 せいふ の支配 しはい 下 か に統一 とういつ された。
この地域 ちいき 全体 ぜんたい は、長 なが い間 あいだ 公式 こうしき にはポルトガル領 りょう 東 ひがし アフリカ と呼 よ ばれ、南 みなみ のロウレンソ・マルケス から北 きた のニアサ までの一連 いちれん の植民 しょくみん 地 ち に細分 さいぶん 化 か された。当初 とうしょ 、カボ・デルガードは1919年 ねん にドイツ領 りょう 東 ひがし アフリカ から獲得 かくとく したデルガード岬 みさき を含 ふく むロヴマ川 かわ 沿 ぞ いの一帯 いったい に過 す ぎなかったが、ルリオ川 がわ まで南下 なんか して現在 げんざい のカボ・デルガード州 しゅう を構成 こうせい するようになった。ザンベジ川 がわ 流域 りゅういき にはケリマネ (現 げん ザンベジア州 しゅう )とテテ (北 きた ローデシア (現 げん ザンビア )と南 みなみ ローデシア (現 げん ジンバブエ )の間 あいだ の細長 ほそなが い地域 ちいき )の植民 しょくみん 地 ち があり、一時期 いちじき はザンベジアとして統合 とうごう されたことがある。モザンビーク植民 しょくみん 地 ち (現在 げんざい のナンプーラ )はモザンビーク島 とう に首都 しゅと を置 お いていた。また、モザンビーク島 とう には1890年代 ねんだい 後半 こうはん までポルトガル領 りょう 東 ひがし アフリカの総督 そうとく 府 ふ が置 お かれ、総督 そうとく 府 ふ はロウレンソ・マルケス市 し に移 うつ された。また、南 みなみ にはロウレンソ・マルケスの北東 ほくとう に位置 いち するイニャンバネ (Inhambane)植民 しょくみん 地 ち が存在 そんざい した。これらの植民 しょくみん 地 ち が統合 とうごう されると、この地域 ちいき 全体 ぜんたい が「モザンビーク」と呼 よ ばれるようになった。
タンザニア に本部 ほんぶ を置 お くモザンビーク解放 かいほう 戦線 せんせん (FRELIMO)は、1964年 ねん 9月にポルトガルの支配 しはい に対 たい するゲリラ作戦 さくせん を開始 かいし した。この紛争 ふんそう は、ポルトガル領 りょう アンゴラ とポルトガル領 りょう ギニア で既 すで に始 はじ まっていた他 ほか の紛争 ふんそう と共 とも に、ポルトガルの植民 しょくみん 地 ち 戦争 せんそう の一部 いちぶ となった。ルゾ・トロピカリズモ の概念 がいねん に基 もと づくサラザール政権 せいけん の公式 こうしき 政策 せいさく によれば、モザンビークはポルトガルの「多 た 大陸 たいりく ・多 た 民族 みんぞく 国家 こっか 」の不可欠 ふかけつ な一部 いちぶ であると主張 しゅちょう し、地元 じもと 住民 じゅうみん をヨーロッパ化 か した。これはポルトガル文化 ぶんか に同化 どうか させるため、すべての植民 しょくみん 地 ち で行 おこな われた。しかし、この政策 せいさく はほとんど成功 せいこう せず、アフリカの植民 しょくみん 地 ち 化 か に対 たい する反発 はんぱつ から10年 ねん にわたる独立 どくりつ 戦争 せんそう が、1974年 ねん 4月 がつ にはリスボン でカーネーション革命 かくめい が起 お こり、FRELIMOがモザンビーク全土 ぜんど を掌握 しょうあく 、モザンビークの独立 どくりつ に関 かん する交渉 こうしょう がルサカ にて開始 かいし した。そして1975年 ねん 6月 がつ にはモザンビーク人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく としてポルトガルからの独立 どくりつ を達成 たっせい した。
弥 わたる 助 すけ - ポルトガル領 りょう モザンビーク出身 しゅっしん とされる。