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まんあさほう

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まんあさほう
YOROZU CHOHO
種類しゅるい 日刊にっかん

事業じぎょうしゃちょうほうしゃ→)
株式会社かぶしきがいしゃちょうほうしゃ
本社ほんしゃ東京とうきょう東京とうきょう京橋きょうばしさんじゅうあいだほりまち→)
東京とうきょう東京とうきょう京橋きょうばしゆみまち21番地ばんち→)
東京とうきょう東京とうきょう京橋きょうばし銀座ぎんざ西にし2-3
創刊そうかん 1892ねん明治めいじ25ねん11月1にち
廃刊はいかん 1940ねん昭和しょうわ15ねん9月30にち
前身ぜんしん 新聞しんぶんげん東京とうきょう新聞しんぶん
1889ねん2がつ1にち - 分離ぶんり独立どくりつ
にゅう自由じゆう新聞しんぶん
1882ねん2がつ1にち - 1890ねん11月15にち
言語げんご 日本語にほんご
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まんあさほう』(よろずちょうほう)は、かつて存在そんざいした日本にっぽん日刊にっかん新聞しんぶんかみめいは「よろず重宝ちょうほう」の洒落しゃれからている。まんあさほうしん字体じたい表記ひょうきされることもある。

沿革えんかく

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1892ねん明治めいじ25ねん11月1にち主筆しゅひつつとめていた新聞しんぶんした黒岩涙香くろいわるいこうにより、東京とうきょう創刊そうかんされる。1893ねん山田やまだ藤吉郎とうきちろう経営けいえいしていた「にゅう自由じゆう新聞しんぶん」(1882ねん9がつ創刊そうかん)と合併がっぺいし、以後いご黒岩くろいわ編集へんしゅうを、山田やまだ経営けいえい実務じつむ担当たんとうした[1]

発行はっこうしょめいは「ちょうほうしゃ」であり、学術がくじゅつ論文ろんぶんにすらられる「まんあさむくいしゃ」という誤記ごきは、かみめいからくる間違まちがいである。

日本にっぽんにおけるゴシップ報道ほうどう先駆せんくしゃとしてられ、権力けんりょくしゃのスキャンダルについて執拗しつよう追及ついきゅう。「蓄妾ちくしょう実例じつれい」といったプライバシー暴露ばくろする醜聞しゅうぶん記事きじした。1898ねんの7がつから3かげつちか連載れんさいされた「蓄妾ちくしょう実例じつれい[2]」では天皇てんのう皇族こうぞくにはさすがにれなかったものの華族かぞくのみならずいまなら一般人いっぱんじんとみなされるであろう商店しょうてんぬし官吏かんりわらわをも暴露ばくろし、わらわ実名じつめい年齢ねんれいわらわ父親ちちおや実名じつめい職業しょくぎょうまで記載きさいしていた(当時とうじはプライバシーにはそれほどうるさくなく「おれわらわをなぜせない」という苦情くじょうもあったという)。一時いちじ淡紅あわべにしょく用紙ようしもちいたため「赤新聞あかしんぶん」ともばれ権力けんりょくしゃたちをおおいにふるがらせた。まただいさんめん扇情せんじょうてき社会しゃかい記事きじげたことで「三面さんめん記事きじ」のかたりんだ。

永世えいせい無休むきゅう」をかかげ「いち簡単かんたん明瞭めいりょうさん痛快つうかい」をモットーとし、てい価格かかくによる販売はんばい黒岩くろいわ自身じしんによる翻案ほんあん小説しょうせつ連載れんさい(『てつ仮面かめん』『白髪はくはつおに』『幽霊ゆうれいとう』『いわおくつおう』『無情むじょう等々とうとう)、家庭かていらん百人一首ひゃくにんいっしゅかるた連珠れんじゅ五目並ごもくならべ)を流行はやらせた)や英文えいぶんらん創設そうせつとう大衆たいしゅうとして急速きゅうそく発展はってん1899ねんにはきんしゅのない初期しょきルールの五目並ごもくなら先手せんて必勝ひっしょうほう掲載けいさいした。同年どうねん発行はっこう部数ぶすう東京とうきょう新聞しんぶんちゅうだい1たっした。

1901ねん明治めいじ34ねん)、「理想りそうだん」を結成けっせい労働ろうどう問題もんだい女性じょせい問題もんだいつうじ(「蓄妾ちくしょう実例じつれい」にも企画きかく開始かいしには事実じじつじょう一夫多妻いっぷたさいせいなど当時とうじ日本にっぽん女性じょせい境遇きょうぐうたいする問題もんだい意識いしきがうたわれていた)、社会しゃかい主義しゅぎ思想しそうから社会しゃかい改良かいりょううたってにちしん戦争せんそうどき世論せろん形成けいせいをリードした。しかしそのしゅたる購買こうばいしゃであった労働ろうどうしゃそうをめぐって『ろく新報しんぽう』とはげしい販売はんばい競争きょうそう展開てんかいにち戦争せんそう開戦かいせんおり最初さいしょ非戦論ひせんろんとなえていたものの、世間せけんながれが開戦かいせんかたむくにつれ、しゃろん主戦しゅせんろんてん黒岩くろいわ自体じたい主戦しゅせんろんものとなった。このため、せん固持こじした内村うちむら鑑三かんぞう幸徳こうとく秋水しゅうすいさかい利彦としひこ退社たいしゃ独立どくりつし、1903ねん平民へいみん新聞しんぶん創刊そうかんした。

また、記者きしゃ三木みき愛花あいかにより、相撲すもう将棋しょうぎ記事きじにもちかられ、1908ねん明治めいじ41ねん)に掲載けいさい開始かいしした「高段こうだん名手めいしゅしょうつぎ将棋しょうぎ」は、新聞しんぶんかいはつ将棋しょうぎ棋戦きせん連載れんさいだった[3]。1910ねん前後ぜんこうまんあさほうには、中内なかうち蝶二ちょうじ若月わかつき紫蘭しらん沼波ぬなみ瓊音けいおん野上のかみ臼川きゅうせん小野おの秀雄ひでお石井いしいただしじゅんなど東大とうだい記者きしゃすうめいおり、そのにも田村たむら松魚しょうぎょ古島こじま一雄かずお福永ふくなが挽歌ばんか佐藤さとう緑葉りょくよう松居まつい松葉まつば清水しみずたいたけぼう緒方おがた流水りゅうすい翻訳ほんやく)、青木あおき金風きんぷう小説しょうせつ)、脇本わきもとらくのき美術びじゅつ評論ひょうろん)など、他社たしゃには類例るいれいのない陣営じんえいととのえていた[4]

内村うちむららの退社たいしゃげき、さらに幸徳こうとく事件じけん幸徳こうとく大逆だいぎゃくざいにより1911ねん死刑しけいしょされたことを次第しだい社業しゃぎょうかたむき、1920ねん黒岩くろいわ以降いこう凋落ちょうらく一途いっと辿たどる。関東大震災かんとうだいしんさい大正たいしょう関東かんとう地震じしん前後ぜんこうには経営けいえいしゃまぐるしくわり存亡そんぼう危機ききとなったが、1928ねん昭和しょうわ3ねん)に就任しゅうにんした専務せんむ取締役とりしまりやく社長しゃちょう長谷川はせがわ善治よしはるだい日本にっぽん雄弁ゆうべんかい講談社こうだんしゃげん講談社こうだんしゃ創業そうぎょうしゃ野間のま清治きよじ知己ちきて、なにとか存続そんぞくできた。

1936ねん昭和しょうわ11ねん)、長谷川はせがわ社長しゃちょう辞職じしょくする。

1940ねん昭和しょうわ15ねん10月1にち新聞しんぶん統制とうせいによりおなじく東京とうきょう発行はっこうされていた夕刊ゆうかん東京とうきょう毎夕まいゆう新聞しんぶん』に吸収きゅうしゅうされ、かみよわい16850ごうをもって廃刊はいかん東京とうきょう毎夕まいゆうだい東亜とうあ戦争せんそう太平洋戦争たいへいようせんそうだい世界せかい大戦たいせんのち発行はっこうつづけ、昭和しょうわ30年代ねんだいには競合きょうごう新興しんこう東京とうきょうスポーツ対抗たいこうしてプロレスおおきくあつかっていた。1963ねん昭和しょうわ38ねん)、『スポーツ毎夕まいゆう改題かいだいしてスポーツ新聞しんぶん転換てんかんしたが、昭和しょうわ40年代ねんだいはいるとひがしスポとの競争きょうそうやぶれ、休刊きゅうかんとなった。こうして明治めいじ中期ちゅうき以来いらい70ねん以上いじょうおよんだまんあさほう系譜けいふたれることになった。

おも人物じんぶつ

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関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ まんあさほうコトバンク
  2. ^ 社会しゃかい思想しそうしゃ現代げんだい教養きょうよう文庫ぶんこにて書籍しょせきされ、社会しゃかい思想しそうしゃ廃業はいぎょう紀伊國屋きのくにや書店しょてんぶんもとしゃにて復刊ふっかん黒岩涙香くろいわるいこう弊風へいふういちむら 蓄妾ちくしょう実例じつれい社会しゃかい思想しそうしゃ、1992ねんぶんもとしゃ、2004ねん
  3. ^ 越智おち信義のぶよし将棋しょうぎ文化ぶんか」 (Kindle)
  4. ^ 新聞しんぶん研究けんきゅうじゅうねん小野おの秀雄ひでお毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、1971, p13-15

外部がいぶリンク

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