ジャンボ鶴田つるた

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ジャンボ鶴田つるた
Jumbo Tsuruta
プロフィール
リングネーム ジャンボ鶴田つるた
トミー・ツルタ
鶴田つるた 友美ゆみ
本名ほんみょう 鶴田つるた 友美ゆみ
ニックネーム 完全かんぜん無欠むけつのエース
えるエース
怪物かいぶつ
わか大将たいしょう
身長しんちょう 196cm
体重たいじゅう 127kg(ぜん盛時せいじ
誕生たんじょう (1951-03-25) 1951ねん3月25にち
死亡しぼう (2000-05-13) 2000ねん5月13にち(49さいぼつ
出身しゅっしん 山梨やまなしけん東山梨ひがしやまなしぐん牧丘まきおかまちげん山梨やまなし
所属しょぞく 全日本ぜんにほんプロレス
スポーツれき レスリング
バスケットボール
トレーナー ジャイアント馬場ばば
ドリー・ファンク・ジュニア
テリー・ファンク
ルー・テーズ
マティ鈴木すずき
デビュー 1973ねん3月24にち
引退いんたい 1999ねん3月6にち
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獲得かくとくメダル
男子だんし レスリング
全日本ぜんにほんレスリング選手権せんしゅけん大会たいかい
どう 1970 フリー100kgきゅう
きむ 1971 フリー100kgちょうきゅう
きむ 1971 グレコローマン100kgちょうきゅう
きむ 1972 フリー100kgちょうきゅう
きむ 1972 グレコローマン100kgちょうきゅう

ジャンボ鶴田つるた(ジャンボつるた、1951ねん昭和しょうわ26ねん3月25にち - 2000ねん平成へいせい12ねん5月13にち)は、日本にっぽんプロレスラースポーツ科学かがく研究けんきゅうしゃ本名ほんみょうおよきゅうリングネーム:鶴田つるた 友美ゆみ(つるた ともみ)。

全日本ぜんにほんプロレス活動かつどうしたさんかんヘビーきゅう王座おうざ初代しょだい王者おうじゃであり、日本人にっぽんじんはつだい30だいAWA世界せかいヘビーきゅう王者おうじゃである。

概要がいよう[編集へんしゅう]

1972ねんミュンヘンオリンピックレスリングである、グレコローマンスタイルさい重量じゅうりょうきゅう日本にっぽん代表だいひょうて、その全日本ぜんにほんプロレスへ入門にゅうもんする。ジャイアント馬場ばばのち次世代じせだい全日本ぜんにほんプロレスのわか大型おおがたエースとしても期待きたいされ、順調じゅんちょう頭角とうかくあらわしトップレスラーの1人ひとりとして活動かつどうした。しかしのちBがた肝炎かんえん発症はっしょうしたことによりだい一線いっせん退しりぞかたちとなる。そのはレスラーとして現役げんえき生活せいかつつづけながらきりかげ横浜よこはま大学だいがく慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく、そして母校ぼこう中央大学ちゅうおうだいがく講師こうしつとめるなど、教育きょういくしゃとしても活動かつどうした。

山梨やまなしけん東山梨ひがしやまなしぐん牧丘まきおかまちげん山梨やまなし)の出身しゅっしん山梨やまなし県立けんりつ日川にっかわ高等こうとう学校がっこうて、中央大学ちゅうおうだいがく法学部ほうがくぶ政治せいじ学科がっか卒業そつぎょう[1]血液けつえきがたOがた。ニックネームは「完全かんぜん無欠むけつのエース」「怪物かいぶつ」とけられた。座右ざゆうめいである『人生じんせいはチャレンジだ チャンスはつか』は、鶴田つるたのプロレスの師匠ししょうであったジャイアント馬場ばばから継承けいしょうしている。

オリンピック出場しゅつじょう選手せんしゅ名簿めいぼには身長しんちょう193cm、体重たいじゅう110kgと明記めいきされている。

来歴らいれき[編集へんしゅう]

プロりまで[編集へんしゅう]

広大こうだいぶどう農園のうえんいとないえまれ、出生しゅっしょうしたときは3,000gで普通ふつうおおきさであった[ちゅう 1][2]まれたころからだちいさく、おんなのようだからという理由りゆうで「友美ゆみ」と名付なづけられた[3]あにつねりょう証言しょうげんによると、幼少ようしょう鶴田つるた先輩せんぱいたちののちいてチャンバラごっこなどをしてあそんだという。このころはスポーツなどはせず、いえ家事かじ手伝てつだいをしてからだきたえていた[4]荷物にもつって坂道さかみちのぼくだりする作業さぎょうが、アマレスプロレス発揮はっきした脚力きゃくりょくもととなったとされる。小学生しょうがくせいころ虫垂炎ちゅうすいえん手術しゅじゅつはしたが、肝炎かんえん以外いがいのぞ大病たいびょうはしなかった。

中学ちゅうがく時代じだい野球やきゅうをやっていたが、このころになるとからだおおぎて自分じぶんくつく、運動会うんどうかいでは運動うんどうくつわりにゴム草履ぞうりはしっていた。2年生ねんせい夏休なつやすみには朝日山あさひやま部屋へや入門にゅうもん本当ほんとう体験たいけん入門にゅうもんのつもりであったが、しん弟子でし検査けんさ合格ごうかくしてしまい力士りきしとなった。そのため叔父おじ甲斐かいにしきあわててはなしけてしん弟子でし検査けんささせ、すぐに地元じもともどった。そんなうら事情じじょうもあり日本にっぽん相撲すもう協会きょうかいには鶴田つるた記録きろくのこっていない。この事情じじょうらない地元じもとひとからは「相撲すもう通用つうようしなくてかえってたんでしょ?」というようられ、この体験たいけん鶴田つるたしんかげとしたと推測すいそくする文献ぶんけんいくつかある。これについてあにつねりょうは「友美ゆみもまだ子供こどもでしたからね。本人ほんにんなににしていなかったですよ」と鶴田つるた没後ぼつご証言しょうげんしている[4]

高校こうこう時代じだいはバスの便びんくないうえ車内しゃない天井てんじょうひくく、心地ごこちわるかったこともあり自転車じてんしゃ通学つうがくをしていた。きはくだりだがかえりはずっとのぼりで、さらみち舗装ほそうされていない砂利じゃりどうだったため、自転車じてんしゃなんだいつぶしていた。こういった経緯けいい鶴田つるた自然しぜんからだきたえられた要因よういんでもある。中学生ちゅうがくせい時代じだいにやっていた野球やきゅうは、受験じゅけん勉強べんきょう影響えいきょうもあって視力しりょくちたことでボールがえなくなり「それなら、おおきいボールをあつかほうがいいよね」との理由りゆうで、鶴田つるたバスケットボール転向てんこうした[4]

プロレスは当時とうじ、ファンとしてテレビで観戦かんせんしており自身じしん高校生こうこうせい時代じだい丁度ちょうどBIほう全盛期ぜんせいきで、このときジャイアント馬場ばば姿すがた印象いんしょうのこった。高校こうこうのバスケットボール山梨やまなしけんしたでは無敗むはいほこり、在学ざいがくは3ねん連続れんぞくでチームはインターハイ出場しゅつじょう自身じしんは1年生ねんせいとき半年はんとしあいだ野球やきゅう在籍ざいせきしたためインターハイに出場しゅつじょう出来できなかったが、2年生ねんせい石川いしかわけん・3年生ねんせいには広島ひろしまけん開催かいさいされたインターハイに2ねん連続れんぞく出場しゅつじょうする。また3年生ねんせいには山梨やまなしけん相撲すもう大会たいかい出場しゅつじょうして、3成績せいせきおさめた[5]。その中央大学ちゅうおうだいがく法学部ほうがくぶにスポーツ推薦すいせん入学にゅうがくする[6]

大学だいがく1年生ねんせいまでバスケットボールの選手せんしゅだったが、バスケットではプロの選手せんしゅになれないことや、日本にっぽん実力じつりょくでは予選よせんってもオリンピックの出場しゅつじょうかなわないと判断はんだんし、このとき退すさ決意けついしている。しかしバスケットボール日本にっぽん代表だいひょうはそのミュンヘンオリンピックモントリオールオリンピック出場しゅつじょうたしており、鶴田つるた予想よそうはずれたかたちとなった[5]

選手せんしゅそううすレスリングならオリンピックに出場しゅつじょう出来できるのではとおもい、鶴田つるたはレスリングもうむが「ひとつのことをやりとおせないものには無理むりだ」と、入部にゅうぶことわられる。このさいことわったがわ1人ひとり関川せきかわ哲夫てつおことミスター・ポーゴがいた。かれかたりでは、鶴田つるた格闘技かくとうぎへのおもいは本気ほんきだったので反省はんせいしているようである[7]。そこで鶴田つるた自衛隊じえいたいレスリング道場どうじょう練習れんしゅうはじめることめ、わずか1ねんはんらずで1971ねん・1972ねん全日本ぜんにほん選手権せんしゅけんフリー・グレコローマンのりょう種目しゅもくども連覇れんぱするほどの優良ゆうりょう選手せんしゅとなった。大学だいがく3ねんつぎにレスリングからぎゃく入部にゅうぶすすめられ、4ねんつぎ石井いしい庄八しょうはち笹原ささはら正三しょうさん池田いけだ三男みつお渡辺わたなべ長武ながたけ中田なかた茂男しげおなどのかねメダリストを輩出はいしゅつした名門めいもん中央大学ちゅうおうだいがくレスリング入部にゅうぶした。さらにレスリング日本にっぽん代表だいひょうにもえらばれ、当初とうしょ目的もくてきどおり1972ねんのミュンヘンオリンピックにも出場しゅつじょうする。なお、出場しゅつじょうしたのはグレコローマンスタイル100kg以上いじょうきゅうである。

レスリングでの実績じっせきにより、ジャイアント馬場ばばからプロレスにスカウトされる。プロレスにたいする偏見へんけん評価ひょうかなどを考慮こうりょして当初とうしょ様々さまざま葛藤かっとうもしたが、1972ねん9がつ16にち父親ちちおやをきっかけに自分じぶん自身じしん人生じんせい挑戦ちょうせんしようとおもっていたことと、大学だいがく監督かんとく先輩せんぱい・マスコミとうからのアドバイス、そして日本にっぽんレスリングかい重鎮じゅうちんわれた八田はった一朗いちろうの『プロがさかえればアマもさかえる』という言葉ことばにもはげまされ、プロレスラーになること決意けついした。

全日本ぜんにほんプロレス入団にゅうだん[編集へんしゅう]

大学だいがく在籍ざいせきの1972ねん10がつ31にち全日本ぜんにほんプロレス入団にゅうだん記者きしゃ会見かいけんで「ぼくのようなおおきなからだ人間にんげん就職しゅうしょくするのには、全日本ぜんにほんプロレスが一番いちばんてきした会社かいしゃかとおもいまして。尊敬そんけいする馬場ばばさんの会社かいしゃえらびました」と発言はつげんしたことが全日本ぜんにほんプロレスに就職しゅうしょくします」報道ほうどうされる。デビュー当初とうしょ本名ほんみょう鶴田つるた友美ゆみリングネームもちいていた。ニックネームは「わか大将たいしょう」である。

しん入団にゅうだんしたばかりのころは、馬場ばばからつきに10まんえん小遣こづかいを支給しきゅうされたり、自分じぶんからだのサイズにうスーツを新調しんちょうしてもらうなど、入団にゅうだん以前いぜんまで貧乏びんぼう学生がくせいだった鶴田つるた生活せいかつ一変いっぺんした[8]当時とうじ日本にほんテレビ全日本ぜんにほんプロレス中継ちゅうけい」のプロデューサーだったはらあきら[9]は「あとおもうと、そのころはあまりにくいていなくてヒョロヒョロっとして、ひよわ青年せいねんというかんじでした。ただたかかったので、これからトレーニングをしておおきくなるだろうというかんはありました。いまかんがえると、アマチュアレスラーの身体しんたいだったんでしょう。体重たいじゅうしぼって、にくけてなかったのかもしれません」と、入団にゅうだん当初とうしょ鶴田つるた印象いんしょうかたっている[10]

入団にゅうだんまもなく、テキサスしゅうアマリロザ・ファンクスもと修行しゅぎょうはじめ、スタン・ハンセンボブ・バックランドとも合流ごうりゅうした。とくにハンセンとはったようで、ハンセンは鶴田つるたを「トミー」の愛称あいしょうび、鶴田つるた日本にっぽんからんだインスタントラーメンってべるほどのなかだった。またハンセンはそのあじ感動かんどうし、鶴田つるただまって勝手かってべていたというはなしのこっている[11][12]。ザ・ファンクスのちちドリー・ファンク・シニア鶴田つるたて「このおとこはレスラーへの下地したじはとっくに出来できている。経験けいけんむだけだね」とひょうした。 ハンセンは「かれ身体しんたいほそいのに、自分じぶんよりなんキロもおもベンチプレスげていたからね。あれはすごかったよ」と、鶴田つるた怪力かいりきぶりをかたっている。

1973ねん3月24にちに、アマリロでエル・タピアを相手あいてにプロデビューした。2ヶ月かげつの5がつ20日はつかにはニューメキシコしゅうアルバカーキで、ドリー・ファンク・ジュニアNWA世界せかいヘビーきゅう王座おうざ挑戦ちょうせんするというだい抜擢ばってきける[13]。そのサイクロン・ネグロゴードン・ネルソン実力じつりょくしゃとの対戦たいせんて、8がつ9にちにはスタン・ハンセンとみ、当時とうじザ・ファンクスが保持ほじしていたインターナショナル・タッグ王座おうざ挑戦ちょうせんした[14]

凱旋がいせん帰国きこく同年どうねん10がつ6にち後楽園こうらくえんホールにおけるムース・モロウスキーせん国内こくないデビューしフォふぉル勝るがち。3にちの10がつ9にち蔵前くらまえ国技こくぎかんでのザ・ファンクスとのインターナショナル・タッグ王座おうざせん馬場ばばのパートナーにえらばれる。しかしこの抜擢ばってきについては試合しあいまえに「かれはまだデビューしてから半年はんとしだし、150試合しあいのアメリカ修行しゅぎょう一体いったい、どれだけ成長せいちょう出来できるというのか?プロはそんなにあま世界せかいではないだろう」と、内外ないがいふくめてメディアからももう批判ひはんがったが、アメリカで鶴田つるた成長せいちょうぶりを実際じっさい確認かくにんしていた馬場ばばは「まぁまぁ、とにかくかれ試合しあいてから判断はんだんしましょう」と、自信じしんたっぷりにこたえている[11]。 60ふん3ほん勝負しょうぶの1ほんではテリー・ファンクからジャーマン・スープレックス・ホールドピンフォールうば大器たいき片鱗へんりん[ちゅう 2]はやくも馬場ばば全日本ぜんにほんプロレスナンバー2の地位ちいいた。

20だい中頃なかごろまでは、わか女性じょせい親衛隊しんえいたいもいたほどの人気にんきがあった。またファンからの公募こうぼにより、1973ねん10がつ27にちにリングネームをジャンボ鶴田つるたへと改名かいめいする。当時とうじ日本にっぽんでも日本航空にほんこうくうジャンボジェット機じぇっとき就航しゅうこうし、一般いっぱんにもその名称めいしょう浸透しんとうはじめて時期じきであり、師匠ししょうである馬場ばば同様どうようにスケールのおおきなプロレスを期待きたいされての命名めいめいであった[11]。なお鶴田つるた本人ほんにんも「投票とうひょう途中とちゅう経過けいかではジャンボ鶴田つるたがダントツの1でしたから、その時点じてんで『ジャンボ鶴田つるた』にまりだなとおもった」そうである[12]

1974ねん3月から4がつにかけて、ふたたびアメリカ遠征えんせい出発しゅっぱつ太平洋たいへいようがん北西ほくせいから南部なんぶ北東ほくとう中西部ちゅうせいぶまでかくテリトリーをまわり、3月23にちにはオレゴンしゅうポートランドダッチ・サベージ[15]、3月29にちにはジョージアしゅうアトランタボビー・ダンカンなど[16]各地かくちのトップ選手せんしゅ対戦たいせん。4月1にちにはニューヨークマディソン・スクエア・ガーデン登場とうじょうし、ジョニー・ロッズから勝利しょうりおさめている[17]翌日よくじつの4がつ2にちにはフロリダしゅうタンパダニー・ホッジ[18]、4がつ4にちにはノースカロライナしゅうグリーンズボロネルソン・ロイヤル[19]、4がつ7にちにはニューメキシコしゅうアルバカーキにてキラー・カール・コックス対戦たいせんするなど、世界せかい王者おうじゃきゅうのタイトなスケジュールをこなした[20]

当時とうじはまだ軽量けいりょうだったため、1974ねん12月5にちには体重たいじゅうとしてケン・マンテルNWA世界せかいジュニアヘビーきゅう王座おうざ挑戦ちょうせんしている[21]

1970年代ねんだい中盤ちゅうばん:ライバルたちとの出世しゅっせあらそ[編集へんしゅう]

1970年代ねんだい中盤ちゅうばんは、復活ふっかつしたUNヘビーきゅう王座おうざ決定けっていせんジャック・ブリスコやぶってはじめてのシングルタイトルを獲得かくとくし、キム・ドクとのこうそう国際こくさいプロレスラッシャー木村きむらとの対抗たいこうせんディック・スレータージャーマン・スープレックスやぶってのチャンピオン・カーニバルはつ優勝ゆうしょうなどの実績じっせきげ、1977ねん8がつ25にちおこなわれたミル・マスカラスとの田園でんえんコロシアム決戦けっせん評価ひょうかされ、東京とうきょうスポーツ主催しゅさいプロレス大賞たいしょうにおいて3ねん連続れんぞく年間ねんかん最高さいこう試合しあいしょう・ベストバウトを受賞じゅしょうした。の2試合しあいは、1976ねん3がつ28にち蔵前くらまえ国技こくぎかんおこなわれたUNヘビーきゅう選手権せんしゅけん試合しあい鶴田つるたvs木村きむらせんと、1978ねん1がつ20日はつか北海道ほっかいどう帯広おびひろ総合そうごう体育館たいいくかんおこなわれたNWA世界せかいヘビーきゅう選手権せんしゅけん試合しあいハーリー・レイスvs鶴田つるたせんである。

この時期じき鶴田つるた代名詞だいめいしは、UNヘビーきゅう王座おうざ背後はいごほしきざんだレスリングタイツ。必殺ひっさつわざは4種類しゅるいのスープレックス[ちゅう 3][10]とくフロント・スープレックスとトップロープからのウルトラCドロップキック[ちゅう 4]だい一番いちばんもちいている。

1980年代ねんだい前半ぜんはん世界せかい鶴田つるた[編集へんしゅう]

1980年代ねんだい前半ぜんはんは、NWA世界せかいヘビーきゅう王座おうざAWA世界せかいヘビーきゅう王座おうざ[ちゅう 5]たいしてあといちでタイトルをがすがゆい試合しあいつづけたため「善戦ぜんせんマン」とばれていたが、1982ねんのNWAせんからタイツもくろ基調きちょうとしたエースらしいものに変更へんこうし「善戦ぜんせんマン」からの脱却だっきゃく目指めざした。この当時とうじ鶴田つるたについて上田うえだすけは「ジャンボはなぁ…。あれだけめぐまれた体格たいかくをして、才能さいのう瞬発しゅんぱつりょく柔軟じゅうなんせい運動うんどう神経しんけいすべたか次元じげんっているのにねぇ。ジャンボにはなにかこう、ガツーンとるものがないんだよ。全日本ぜんにほんどころか日本にっぽんマットかいのエースになれる素材そざいなのに。藤波ふじなみたつなんじきみもそうだけど、デビュー当時とうじからの『さわやかおにいちゃん』のイメージを、いまだにれてないというかね。まぁ最近さいきんはトランクスをくろえて、自分じぶんなかなにかをえてこうと必死ひっしになっているのはかるけど」とかたっていた[22]。また、このとしあき訪日ほうにちしていたルー・テーズに、必殺ひっさつバックドロップのコツをおしえてもらっている。

1983ねん4がつ若手わかてレスラーの登竜門とうりゅうもんわれたトーナメント大会たいかいルー・テーズはい特別とくべつレフェリーとして再度さいど全日ぜんじつ登場とうじょうしたテーズから、バックドロップとフライング・ボディシザース・ドロップ今度こんど本格ほんかくてきなマンツーマン特訓とっくん伝授でんじゅされる。このとき「いまのコーチりょうは100まんドルだな」というテーズの言葉ことばに「世界せかいチャンピオンになったらはらいます」とこたえた逸話いつわのこされている[ちゅう 6]

6月8にちにはNWA世界せかい王者おうじゃリック・フレアー挑戦ちょうせんし、三本みもと勝負しょうぶを1-0で時間切じかんぎちはするものの、「さんほん勝負しょうぶ場合ばあいほんたなければ王座おうざ移動いどうはしない」というNWAルール規定きていにより、世界せかい奪取だっしゅはならなかった。しかし、過去かこのフレアーとのNWA世界せかいせん[ちゅう 7]くらべるともっとも善戦ぜんせんした[ちゅう 8]。フレアーからは30ねんときて「日本人にっぽんじんでベストな選手せんしゅを3にんげるとしたら、ツルタ・テンルームタだな」[23] とコメントしている。 米国べいこく遠征えんせいちゅうの6がつ17にちに、長年ながねんいていたUNヘビーきゅう王座おうざ返上へんじょう[24]

7がつ31にちにはAWA世界せかい王者おうじゃニック・ボックウィンクル挑戦ちょうせんをし、反則はんそくちをするが「ピンフォふぉル勝るがち、ノックアウトちもしくはギブアップちでないと王座おうざ移動いどうしない」[ちゅう 9]というAWAルール規定きていにより王座おうざ移動いどうせず、世界せかい奪取だっしゅ失敗しっぱいわる。過去かこのニックとのAWA世界せかいせん[ちゅう 10]同様どうように、のらりくらりとわされつつも、最終さいしゅうてきにダーティなファイトで防衛ぼうえいされてしまう内容ないようだった。

8がつ31にち蔵前くらまえ国技こくぎかんにおいて、力道山りきどうざん以来いらい日本にっぽんプロレスかい至宝しほうインターナショナル・ヘビーきゅう王座おうざブルーザー・ブロディから奪取だっしゅだい14だい王者おうじゃとなる。試合しあい、ロッカールームで馬場ばばから「よくやったよな、今日きょうからおまえがエースだぞ」と祝福しゅくふくされ、公式こうしき全日本ぜんにほんプロレスのエースを襲名しゅうめいする。年末ねんまつ世界せかい最強さいきょうタッグ決定けっていリーグせんでは馬場ばばとの師弟していコンビを解散かいさん天龍てんりゅう源一郎げんいちろうとのつるりゅうコンビ参加さんかするが、ミラクルパワーコンビじゅん優勝ゆうしょうわる。このとし、インター・ヘビーきゅう王座おうざ獲得かくとく功績こうせきみとめられ、プロレス大賞たいしょう最優秀さいゆうしゅう選手せんしゅしょう(MVP)を、どう世代せだいあらわす「つるふじちょうてん」のなかはつ受賞じゅしょう。そしてつるりゅうコンビも最優秀さいゆうしゅうタッグチームしょう受賞じゅしょうした。

1984ねんに、自身じしん入場にゅうじょうきょくを「J」に変更へんこう。2月23にち蔵前くらまえ国技こくぎかんで、みずからが保持ほじするインターナショナル・ヘビーきゅう王座おうざけてのダブルタイトルマッチとして、AWA世界せかい王者おうじゃのニック・ボックウィンクルにふたた挑戦ちょうせん。インター王座おうざとのダブルタイトルマッチということで、インター選手権せんしゅけんのルールも適用てきようされ、反則はんそくやリングアウトなどあらゆる勝敗しょうはい王座おうざ移動いどう、さらにレフリーの失神しっしんとうでのアクシデントをふせぐため、主審しゅしんにテリー・ファンク、ふく主審しゅしんジョー樋口ひぐち起用きようするという万全ばんぜん態勢たいせいで、ニックのダーティーなファイトをふせ[ちゅう 11]、「バックドロップ・ホールド」によって勝利しょうり[25]し、当時とうじ日本人にっぽんじんとしてはじめてAWA世界せかいヘビーきゅう王座おうざ獲得かくとく念願ねんがん世界せかい奪取だっしゅ達成たっせいした。このいちせん当時とうじの『土曜どようトップスペシャル』で放送ほうそうされるほどのビッグマッチであった[26]。このときの3カウントをたたいたのは、テリー・ファンクであった。

AWA世界せかいヘビーきゅう王座おうざ獲得かくとくどう王座おうざリック・マーテル奪取だっしゅされるまで、ぜん王者おうじゃニック・ボックウィンクルをはじめ、ブラックジャック・ランザビル・ロビンソンジム・ブランゼルグレッグ・ガニアブラックジャック・マリガンバロン・フォン・ラシクらを挑戦ちょうせんしゃに16かい防衛ぼうえい[27]日米にちべい2こくあいだ往復おうふくしての世界せかいヘビーきゅう王座おうざ防衛ぼうえいは、日本人にっぽんじんはつ快挙かいきょであった。このとし、プロレス大賞たいしょうのMVPを2連覇れんぱした。

これらの活動かつどうにより「づるふじちょうてん」のなかではいちだんじょうあつかいとなり、実力じつりょくてきには馬場ばば猪木いのき後継こうけいしゃとされるものの、人気にんきでは維新いしん革命かくめい長州ちょうしゅうりょく天龍てんりゅう後塵こうじんはいす。このレスラーとしてのかく人気にんきめんのギャップは「バックドロップは、相手あいて受身うけみ技量ぎりょうによってとす角度かくどえている」などという鶴田つるた発言はつげんたいし、ファンからは「もっと本気ほんきして試合しあいをしろ」「手加減てかげんなんかするな、相手あいてころすつもりでやるんだよ」という反応はんのうせ、それにたいして鶴田つるたが「相手あいてのレスラー生命せいめいわらせる、もしくはいたらしめるのがいレスラーだというのなら、ぼく明日あしたにでも会社かいしゃ全日本ぜんにほんプロレス)に辞表じひょうしてもいんですよ」と反論はんろんするなど、くもわるくも「やさしくて力持ちからもち」てき鶴田つるたのキャラクターや、試合しあいぶりにファンが感情かんじょう移入いにゅうしにくいてん一因いちいんがあった[28][ようページ番号ばんごう]ともいえる。

1980年代ねんだい中盤ちゅうばんちょうししコンビ、ウォリアーズ、ジャパンプロレスぜいとのたたか[編集へんしゅう]

「プロレスかいのキングコング」としょうされたブルーザー・ブロディやハンセン、ロード・ウォリアーズといった大型おおがた外人がいじんレスラーとのたたかいがメインとなっていた1980年代ねんだい中盤ちゅうばん大型おおがた外人がいじんたたかっても見劣みおとりしないレスリング技術ぎじゅつは、相手あいてレスラーからの評価ひょうかたか鶴田つるた運動うんどう能力のうりょく身体しんたいてき能力のうりょく絶賛ぜっさんするものおおい。なお後年こうねん引退いんたい原因げんいんとなった肝炎かんえんのキャリアであること発覚はっかくしたのは1985ねん8がつで、この事実じじつ馬場ばば鶴田つるた2人ふたりるのみであり、のレスラー・関係かんけいしゃにはせられたままだった。

しん日本にっぽんのエースで、1984ねんまつから新日本しんにほん退団たいだんジャパンプロレス一員いちいんとして全日本ぜんにほん参戦さんせんした長州ちょうしゅうりょくと、1985ねん11月4にち大阪城おおさかじょうホールでシングルマッチをおこなう。結果けっかは60ふんフルタイムたたかって両者りょうしゃけにわった。鶴田つるたはこの一戦いっせんでリング中央ちゅうおうでどっしりとかまえ、自身じしんまわりを長州ちょうしゅううごまわるようにファイトすることを意識いしきし、引退いんたい日本にほんテレビのインタビューで「あれはぼく作戦さくせんちでしょう」とかたっている。これは馬場ばばがエース候補こうほせいたちにかならおしえていたこころかまえであり、自分じぶんかくじょうのレスラーであると印象いんしょうけられるうえにスタミナの消費しょうひすくないという効果こうかねらったもので、鶴田つるた王道おうどうプロレス体現たいげんした試合しあいとして名高なだかい。一方いっぽう長州ちょうしゅうは、対戦たいせんまえ鶴田つるたのことを「あれはぬるまかっちゃってるんだよね」「あいつは本物ほんもののプロレスラーじゃないよ。ただのサラリーマンレスラーだろ」と散々さんざん酷評こくひょうしていたが、対戦たいせん鶴田つるた一目いちもくくようになり、マスコミにたいして「ボクシングのような判定はんていせいだったら、(自分じぶんの)けだったね」とかたり、以降いこう鶴田つるた評価ひょうかする発言はつげん時折ときおりおこなうようになった。この評価ひょうか鶴田つるたとの対戦たいせん長年ながねんわた一貫いっかんしており、2012ねん10がつ5にち長州ちょうしゅう高田たかだのべとのトークショーにおいても「鶴田つるた先輩せんぱい本当ほんとうすごかったですね」と、アマレスの先輩せんぱいである鶴田つるたたいする敬意けいい素直すなお表現ひょうげんしている[29]長州ちょうしゅうとのこのシングル対決たいけつは1985ねんのプロレス大賞たいしょう年間ねんかん最高さいこう試合しあい(ベストバウト)に選出せんしゅつされている。

しかし、この時期じき鶴田つるたはシングル戦線せんせんでは苦戦くせんしていた。1985ねん4がつ[30]と1987ねん3がつ[31]にフレアーのNWA王座おうざいどむが奪取だっしゅ失敗しっぱいし、1986ねんにはAWA王座おうざさい戴冠たいかん目指めざ当時とうじ王者おうじゃスタン・ハンセンに3いどむがこれもすべて奪取だっしゅ失敗しっぱい[32]同年どうねん7がつ敗戦はいせんではみずからのインター王座おうざうばわれた。しかし3ヶ月かげつの10がつには奪回だっかい成功せいこうしている[33]世界せかい最高峰さいこうほうクラスの王座おうざ奪取だっしゅした選手せんしゅとしては、不調ふちょう気味ぎみ戦績せんせきといえる。

1980年代ねんだい後半こうはん - 1992ねん天龍てんりゅう同盟どうめいちょう世代せだいぐんとのたたか[編集へんしゅう]

鶴田つるた怪物かいぶつレスラー、完全かんぜん無欠むけつのエースとしての評価ひょうかたかめたのは、1987ねんに「天龍てんりゅう同盟どうめい」を結成けっせいした天龍てんりゅう源一郎げんいちろうとの一連いちれんこうそう、そして天龍てんりゅう離脱りだつちょう世代せだいぐんプロレス四天王してんのうとのたたかいであった。またそのきっかけとなったインパクトのある試合しあいとして、仲野なかの信市のぶいちたいするバックドロップをめた試合しあいがあげられる[34]

天龍てんりゅうはげしい攻撃こうげき触発しょくはつされ、鶴田つるためぐまれた身体しんたい能力のうりょく背景はいけい覚醒かくせい一般いっぱんてきなプロレスわざ仲野なかの天龍てんりゅう失神しっしんさせる、寺西てらにしいさむアニマル浜口はまぐち全治ぜんちすうヶ月かげつ入院にゅういん余儀よぎなくされる、といった怪物かいぶつぶりを発揮はっきした。とく天龍てんりゅう世界せかいタッグせんでバックドロップの3連発れんぱつ後述こうじゅつ)、1989ねん4がつさんかんせんではのちに「ジャンボ・リフト」とばれるおきてやぶりのちょうきゅう角度かくど垂直すいちょく落下らっかがたパワーボムと、2失神しっしんさせられている。

1988ねん6がつには、谷津たにつ嘉章よしあきとの五輪ごりんコンビでインターナショナル・タッグ王座おうざPWF世界せかいタッグ王座おうざ統一とういつ初代しょだい世界せかいタッグ王者おうじゃいた。同年どうねん8がつ30にち前日ぜんじつりゅうげんほう[ちゅう 12]王座おうざうばわれ五輪ごりんコンビで挑戦ちょうせんしゃチームとしてたたかったいちせんでは、バックドロップを連続れんぞくらいすでに意識いしきがなく自力じりきがれない天龍てんりゅうかみつかんでしまい、無理矢理むりやりきずりこし3はつのバックドロップで完全かんぜん失神しっしんみ、その天龍てんりゅうをかばうげんごとピンフォールをして王座おうざ奪回だっかいした。

1989ねん4がつには、シングルタイトルであるインター・PWF・UNのさんかん統一とういつし、初代しょだいさんかんヘビーきゅう王者おうじゃとなる。これらの実力じつりょくみとめられた結果けっか、ジャンボ鶴田つるた人気にんき不動ふどうのものとなり、1990ねん2がつ10日とおかおこなわれた、しん日本にっぽん東京とうきょうドーム大会たいかい参戦さんせんしたさいにはてきであるにもかかわらず、入場にゅうじょうに「ツ・ル・タ、オー!」コールが爆発ばくはつするなど、全日ぜんじつのエースから日本にっぽんプロレスかいのエースとばれるにふさわしい存在そんざいになっていた。この時期じき全日本ぜんにほんのリングから、かつて鶴田つるた世界せかい王座おうざ戦線せんせんなん苦杯くはいまされたリングアウトでの決着けっちゃく反則はんそくでの決着けっちゃく徐々じょじょり、リングないでの完全かんぜん決着けっちゃく目指めざされるようになったことも、鶴田つるたにはかぜとなった。

天龍てんりゅう新天地しんてんちもとめて全日本ぜんにほん離脱りだつSWS移籍いせきしたのち鶴田つるたのライバルとして名乗なのりをあげたのは弟子でし三沢みさわ光晴みつはるであった。1990ねん6がつ三沢みさわはシングルマッチで鶴田つるたえをたすが、この試合しあいは「まるみ」合戦かっせんせいしてのもので、しん鶴田つるたえをたしたとはがたいものであった[ちゅう 13]。だが、三沢みさわ最初さいしょ最後さいごなみだをリングじょうながし、日本武道館にほんぶどうかん観客かんきゃく総立そうだちになるなど、がる結果けっかとなった。その3ヶ月かげつの1990ねん9がつさんかんヘビーきゅう王座おうざへの挑戦ちょうせんけんをかけて再度さいど三沢みさわたたかうが、今度こんど鶴田つるたがジャンボラリアットからのバックドロップ・ホールドで三沢みさわから完璧かんぺきな3カウントをうばっている。

1991ねん1がつ19にち、ハンセンをやぶり、さんかんヘビーきゅう王者おうじゃだい8代目だいめかえく。このとし三沢みさわ川田かわた利明としあきスティーブ・ウィリアムス鶴田つるたさんかん王座おうざ挑戦ちょうせんするがすべ退しりぞけている。1がつ下旬げじゅん後楽園こうらくえんホール大会たいかいでは、川田かわたから顔面がんめんへのステップキックを執拗しつようされた直後ちょくごに、鶴田つるたいかりでいろ完全かんぜんわってしまい、まずはエルボー[ちゅう 14]からはじまり、あごへまともにはいジャンボ・キック場外じょうがいでマットをひっペかえした床上ゆかうえたたけるボディースラム、イス攻撃こうげきなどを川田かわたした。タッグパートナーのふち正信まさのぶめにはいるがそのふちばしてしまい、解説かいせつせきすわっていた竹内たけうちひろしかいがその迫力はくりょく言葉ことばなくなってしまうほどの壮絶そうぜつ攻撃こうげきであった。和田わだ京平きょうへいによると、試合しあいひかしつでは「なんでぼくはあんなにキレてしまったんだろうねぇ…」と、普段ふだんのジャンボ鶴田つるたもどっていたという。このとき鶴田つるたについて和田わだ京平きょうへいは「ああいうのはおきゃくさんにせるものではない。普段ふだん余裕よゆうあるジャンボの姿すがたせてほしかった」と自書じしょかたっている[よう出典しゅってん]

また10がつ大阪おおさか府立ふりつ体育たいいく会館かいかんでの6にんタッグせんでは、鶴田つるたのエルボーが三沢みさわ光晴みつはるはな直撃ちょくげきし、三沢みさわ鼻骨びこつ骨折こっせつしてしまう。はな負傷ふしょうしながらなおも試合しあいつづける三沢みさわに、鶴田つるたはそのはなねらいをしぼった攻撃こうげき徹底てっていする。鶴田つるた反旗はんき三沢みさわたいして「あいつはもっとやつだとおもっていたんだけどね」という意味いみ不明ふめいなコメントをのこしているが、この試合しあいに「三沢みさわはまだまだやつじゃないんだからさ」とかたっており、自分じぶんちょう世代せだいぐんかべであることを自認じにんしていたともえる。

このとし鶴田つるた全日本ぜんにほんプロレス中継ちゅうけいない三沢みさわとのさんかん戦後せんごのインタビューで「一回いっかいでいいから、世界せかい最強さいきょうといわれるハルク・ホーガンと、けてもいいからおもいっきりたたかいたい」とコメントしたことがある。当時とうじホーガンが所属しょぞくするWWF(げんWWE)と全日本ぜんにほんとはまった団体だんたいあいだ交流こうりゅうはなく、しかも、全日ぜんじつ選手せんしゅのスタンド・プレーにはきびしい団体だんたいだった。対戦たいせんしたい相手あいてとしてほかには前田まえだ日明ひあがり藤波ふじなみげており、一時いちじ新日本しんにほんへの移籍いせき本気ほんきかんがえた時期じきもあったという。鶴田つるたもとライバルでもあるタイガー戸口とぐちによると、1981ねん戸口とぐち全日本ぜんにほんから新日本しんにほん移籍いせきするさい鶴田つるた一緒いっしょ全日本ぜんにほんはなれようとしたこと後年こうねんあきらかにされ、もし実現じつげんしていればプロレスとのかかわりをことわったのではないかと推測すいそくしている。1980年代ねんだい後半こうはんにも鶴田つるたから「ぼくはプロレスをめたのちにね、焼肉やきにくでもはじめようかなとおもってるんだよ」とはなしていたことがあり、実際じっさい経営けいえいかんするほんんでいたという[35]

ファンやマスコミを中心ちゅうしん実現じつげん期待きたいされていたジャイアント馬場ばばとアントニオ猪木いのき対戦たいせんについて、鶴田つるたは「全日本ぜんにほん閉鎖へいさてきめんもあるとはおもいますが」と前置まえおきをしてかたり、馬場ばば挑戦ちょうせんじょうたたきつけた猪木いのきについては「猪木いのきさんはいまいですけど、あとなんねんかすれば年齢ねんれいてきにベストなファイトが出来できなくなるのは確実かくじつですから。猪木いのきさん本人ほんにんも、そういう状態じょうたいいどまれても納得なっとく出来できないですよね?」と、第三者だいさんしゃとして中立ちゅうりつてき立場たちばはなしていた[よう出典しゅってん]猪木いのきが40さいぎたころ前田まえだ日明ひあがりが、そして1986ねんだい2かいプロレスゆめのオールスターせん企画きかくがったさい鶴田つるたがそれぞれシングル対決たいけつ希望きぼう表明ひょうめいしたが、結局けっきょく猪木いのき前田まえだ鶴田つるた2人ふたり対戦たいせん要求ようきゅうおうじることはなかった。なお鶴田つるた後年こうねん1996ねん修士しゅうし論文ろんぶん[36]で「わたし猪木いのきにはてない。入門にゅうもんしたときからエリートコースにのって、ビッグタイトルのチャンスをあたえられたわたしには、ハングリー精神せいしんける。これはG・馬場ばばそだかた問題もんだいであり、あまいのである。」と率直そっちょく自身じしん評価ひょうかしるしている。

1991ねんにはプロレス大賞たいしょうMVPにえらばれており、自身じしんとして7ねんぶり3度目どめ受賞じゅしょうとなった。

最後さいごのタイトルマッチとなったのは1992ねん10がつ7にち世界せかいタッグ選手権せんしゅけんで、田上たうえあきらテリー・ゴディスティーブ・ウィリアムスくみ挑戦ちょうせんけた。このとし古傷ふるきずひだり足首あしくび故障こしょうで1シリーズを全休ぜんきゅうしたことにくわえ、1がつにはハンセンにやぶれて3かんベルトをうばわれ、チャンピオン・カーニバルでは優勝ゆうしょうせん進出しんしゅつのがすなど、前年ぜんねん怪物かいぶつりとくらべるとかげりもえていたが、このとしきゅう成長せいちょうせていたパートナーの田上たうえ体調たいちょう万全ばんぜんではない鶴田つるた上手うまくカバーしていた。その田上たうえはこのとし開発かいはつした喉輪のどわとしでゴディからフォールをうばい、王座おうざ防衛ぼうえい成功せいこう田上たうえ躍進やくしん見届みとどけた鶴田つるたは、結果けっかてきだい一線いっせん退しりぞかたちとなった。

1992ねん入院にゅういん以降いこう[編集へんしゅう]

1992ねん11月にBがた肝炎かんえん発症はっしょうし、長期ちょうき入院にゅういん余儀よぎなくされた。公式こうしき発表はっぴょう内臓ないぞう疾患しっかんであり、つま鶴田つるた保子やすこ著書ちょしょ出版しゅっぱんされるまではおおやけにはせられていた。鶴田つるたがBがた肝炎かんえんウイルスキャリアであることは1985ねん8がつ時点じてん判明はんめいしており、当時とうじ主治医しゅじいによるインターフェロン療法りょうほうがうまくいかず症状しょうじょう悪化あっかさせたためと、のちつま保子やすこ著書ちょしょべている[37]

1993ねん復帰ふっき再発さいはつ危険きけんせいがあるため、極端きょくたん負担ふたんのかかるだい一線いっせんにはたなかった。鶴田つるた自身じしん、そのとき様子ようすを「かんおけ片足かたあしれた状態じょうたい」とひょうしている。「一昔ひとむかしまえなら棺桶かんおけ両足りょうあしれていた。つまり、自分じぶんんでいた」とも発言はつげんしている。鶴田つるたはメインイベンターとしての価値かちくなったが、馬場ばば給料きゅうりょうげることはしなかった。

入院にゅういんちゅうんでいたある雑誌ざっしに、女子じょしプロゴルファーの桝井ますいうつさと大学院だいがくいん入学にゅうがくした記事きじがあったことがきっかけとなり、教授きょうじゅレスラーへのみち目指めざす。1994ねん10がつ筑波大学つくばだいがく大学院だいがくいん体育たいいく研究けんきゅうコーチがく専攻せんこう合格ごうかくし、つい非常勤ひじょうきん講師こうしながら大学だいがく教員きょういんとなった。並行へいこうして大会たいかいじょうでのスポット出場しゅつじょうというかたち現役げんえきプロレスラーを継続けいぞくする。ほとんどの試合しあい馬場ばばんでのファミリー軍団ぐんだんとしての出場しゅつじょうによる、6にんタッグマッチであった。

1999ねん1がつ31にち馬場ばば死去しきょ直後ちょくご引退いんたいおよ全日本ぜんにほん取締役とりしまりやく辞任じにん記者きしゃ会見かいけんキャピトル東急とうきゅうホテルおこなう。こののちに「全盛期ぜんせいき前田まえだ日明ひあがりたたかってみたかった。藤波ふじなみくん度々どど対戦たいせん要求ようきゅうしてきたが、マスコミのまえのポーズだけで実際じっさい交渉こうしょう一切いっさいかった。ぼくはそれが大嫌だいきらいだった」とコメントしたことも話題わだいになった。後日ごじつ鶴田つるた藤波ふじなみに「失礼しつれい発言はつげんをしてしまいもうわけなかった」と、FAX謝罪しゃざいした。

ただし鶴田つるたは、1990年代ねんだいのある番組ばんぐみなかでファンサービスもあったにせよ「今年ことしゆめは、藤波ふじなみ選手せんしゅたたかうことです」と発言はつげんしていた。1987ねん1がつ4にち東京とうきょうスポーツ主催しゅさいのプロレス大賞たいしょう授賞じゅしょうしき席上せきじょうでも「今年ことし藤波ふじなみ選手せんしゅたたかって最高さいこう試合しあいしょうりたい」とコメントしており、週刊しゅうかんゴングによるづるふじちょうてんキャンペーンのきっかけのひとつとなっていた。一方いっぽうで、全日本ぜんにほんプロレスが1998ねんはじめて東京とうきょうドーム大会たいかい開催かいさいしたさいの、藤波ふじなみ参加さんかけた発言はつげんとその撤回てっかい経緯けいいが、引退いんたい鶴田つるた発言はつげん符合ふごうしている。

引退いんたい - 闘病とうびょう - 突然とつぜん[編集へんしゅう]

1999ねん2がつ20日はつか引退いんたい記者きしゃ会見かいけんつづいて、1999ねん3がつ6にち日本武道館にほんぶどうかん引退いんたいセレモニーがおこなわれ、研究けんきゅう交流こうりゅうプロフェッサー制度せいどによりスポーツ生理学せいりがく教授きょうじゅ待遇たいぐうとして、オレゴンしゅうポートランド州立しゅうりつ大学だいがく赴任ふにんすることをあきらかにした。なお、勤務きんむさきであったきりかげ横浜よこはま大学だいがくのサイトには「客員きゃくいん研究けんきゅういんとして」[38]とある。鶴田つるたがアメリカへかうさいに、成田空港なりたくうこう見送みおくりにたのは三沢みさわ仲田なかたりゅう大八木おおやぎ賢一けんいち専務せんむのわずか3めいであったが、仲田なかた著書ちょしょによれば、鶴田つるたサイドと馬場ばば元子もとこオーナーとのあいだにはすで距離きょり出来できており、見送みおくりにけない空気くうきってたとのことである。これが鶴田つるた三沢みさわ最後さいご対面たいめんとなったが、そのさい鶴田つるたは「もしそっちになにかあったらすぐにってきていよ。おれはミチャワくん[ちゅう 15]味方みかたなんだからさ。それだけはわすれないでくれよな」とげたとされている。

この前後ぜんごよりBがた肝炎かんえん肝硬変かんこうへんて、肝臓かんぞうがん転化てんかかつじゅうあつし状態じょうたい進行しんこうしていた。鶴田つるた第三者だいさんしゃらの進言しんげんもあり肝臓かんぞう移植いしょくけることを決断けつだん日本にっぽんでは親族しんぞくあいだ生体せいたいきも移植いしょくしかみとめられておらず、親族しんぞく唯一ゆいいつ血液けつえきがた合致がっちした実兄じっけいがドナー候補こうほとなるも最終さいしゅうてき移植いしょく条件じょうけん合致がっちしなかったため、日本にっぽんでの移植いしょく不可能ふかのうとなり、海外かいがいでの脳死のうしきも移植いしょくのぞみをけた。2000ねん4がつ滞在たいざいちゅうオーストラリアブリスベンで『ジャンボ鶴田つるた基金ききん』を設立せつりつし、移植いしょく患者かんじゃけたサポートをおこな活動かつどうはじめた[39]同年どうねんはるになりフィリピンマニラでドナー出現しゅつげんほうき、オーストラリアからフィリピンに渡航とこう国立こくりつ腎臓じんぞう研究所けんきゅうじょ手術しゅじゅつおこなわれたが、肝臓かんぞう移植いしょく手術しゅじゅつちゅう大量たいりょう出血しゅっけつこしてショック症状しょうじょうおちい事態じたい発生はっせいし、ながらくの治療ちりょうや16あいだにもわた手術しゅじゅつ甲斐かいなく同年どうねん5がつ13にち17現地げんち時間じかんでは16)に49さい死去しきょした。しくもこのは1984ねんにリック・マーテルにやぶれてAWA世界せかいヘビーきゅう王座おうざから陥落かんらくしたでもあった。戒名かいみょうは「そら大勝たいしょういん光岳てかりだけつねあきら居士こじ」。和田わだ京平きょうへい著書ちょしょによると、「鶴田つるた元々もともとながすとまりにくい体質たいしつであった」としるされている。

没後ぼつご[編集へんしゅう]

鶴田つるたから1ヶ月かげつの6がつ13にち、かつて鶴田つるたびとつとめていた三沢みさわ光晴みつはる[40]全日本ぜんにほん社長しゃちょう辞任じにんし、そのさんにち記者きしゃ会見かいけんしん団体だんたいであるプロレスリング・ノア旗揚はたあげを正式せいしき発表はっぴょうした。これにともな全日本ぜんにほん選手せんしゅ大量たいりょう離脱りだつしたことにたいして、かれらが全日本ぜんにほん冷遇れいぐうされていたことをらなかったつま保子やすこは「ジャンボ鶴田つるたわかれのかい」で「おっと三沢みさわくん支持しじしたとおもいます。でも、三沢みさわくん全日本ぜんにほんつぶ権利けんりいです」とはなしたが、真相しんそうったのち自身じしんのWebサイトで「三沢みさわくんたち気持きもちがやっとかりました」「(馬場ばば元子もとこさんはゆるせないです」とかたった。

鶴田つるた突然とつぜんかく方面ほうめん大々的だいだいてき報道ほうどうされ、2000ねん5がつ24にちには『全日本ぜんにほんプロレス中継ちゅうけい』(日本にほんテレビけい)で「ジャンボ鶴田つるた追悼ついとう特集とくしゅう[41]、2000ねん11月26にちには『ってるつもり?!』(日本にほんテレビけい)で「ジャンボ鶴田つるた家族かぞくきずな衝撃しょうげき真相しんそう」とだいした追悼ついとう番組ばんぐみ放送ほうそうされた[42]

2014ねん4がつ13にち鶴田つるた故郷こきょう山梨やまなし山梨やまなし市民しみん総合そうごう体育館たいいくかんいてノアの協力きょうりょくにより「ジャンボ鶴田つるた追悼ついとう記念きねん大会たいかい」が開催かいさいされた。同年どうねん11がつ28にち日本にっぽん時間じかん29にち)、米国べいこくプロレス殿堂でんどうりをたした。日本人にっぽんじんでは力道山りきどうざん・ジャイアント馬場ばば・アントニオ猪木いのきぐ4にん快挙かいきょ[43]であり、鶴田つるた生前せいぜん親交しんこうがあったはらたつとくも「すごいね、価値かちあるよね」と祝福しゅくふくした[44]

2022ねん5がつ31にち、23回忌かいき追善ついぜん興行こうぎょう後楽園こうらくえんホールでおこなわれ、しん日本にっぽんプロレス・全日本ぜんにほんプロレス・DDTなど10団体だんたいとフリーの32選手せんしゅ熱戦ねっせんひろげ、ちょう満員まんいん札止ふだどめの1588にんのファンでくされた[45][46]

年表ねんぴょう[編集へんしゅう]

  • 日川にっかわ高校こうこう時代じだいバスケットボール全国ぜんこく高校こうこう選手権せんしゅけん大会たいかい出場しゅつじょう
  • 中央大学ちゅうおうだいがく時代じだいレスリング全日本ぜんにほん選手権せんしゅけん制覇せいは。そのうち1971ねんのフリースタイルはレスリングでの実績じっせきがない選手せんしゅ2にんやぶっての優勝ゆうしょうであり、同年どうねんのグレコローマンは出場しゅつじょう選手せんしゅがなく不戦勝ふせんしょうによる優勝ゆうしょう[47]となっている。
  • 1971ねんのレスリング世界せかい選手権せんしゅけんにフリー[48]・グレコ[49]りょうスタイルで出場しゅつじょうするが、ともに2せん2はい敗退はいたい
  • 1972ねんのレスリング全日本ぜんにほん選手権せんしゅけんでは、どう選手権せんしゅけんでの優勝ゆうしょう経歴けいれきのある磯貝いそがいよりゆきしゅう山口やまぐち勇雄いさおおさえてのフリー・グレコりょう部門ぶもん2連覇れんぱをはたしている。
  • ミュンヘンオリンピックで、レスリング グレコローマン100kgちょうきゅう出場しゅつじょうするも、2せん2はい[50]
  • ジャイアント馬場ばばにスカウトされ、プロレスかいり。
  • 1973ねん3がつ22にち、アメリカ修行しゅぎょう。150せん消化しょうかのち同年どうねん10がつ1にち帰国きこく。10月6にち後楽園こうらくえんホールで日本にっぽんデビューせん
  • 1975ねん馬場ばばんでのインタータッグ選手権せんしゅけん相手あいてはザ・ファンクス。
  • 1976ねん8がつ28にち、UNヘビーきゅうタイトル獲得かくとく
  • 3がつ10日とおか - 1979ねん1がつ5にちまで、じゅうばん勝負しょうぶ通算つうさん成績せいせき、4しょう2はい4ふん
  • 1983ねん8がつ31にち、ブルーザー・ブロディよりインターナショナル・ヘビーきゅう王座おうざ奪取だっしゅだい14だいチャンピオンとなった。
  • 1984ねん2がつ23にち蔵前くらまえ国技こくぎかんにおいてニック・ボックウィンクルとのAWA世界せかいヘビー、インター・ヘビーのダブルタイトルせんおこない、鶴田つるた勝利しょうりしインター・ヘビーきゅう王座おうざ防衛ぼうえいともに、日本人にっぽんじんはつだい30だいAWA世界せかいヘビーきゅう王者おうじゃとなった。
    その、AWA王座おうざ同年どうねん5がつ13にちリック・マーテルやぶれるまで16かい防衛ぼうえいたした。日米にちべい2こくあいだ往復おうふくしての世界せかい王座おうざ防衛ぼうえいは、日本人にっぽんじんはつ快挙かいきょ
  • 1984ねん9がつ23にちもと日本航空にほんこうくうキャビンアテンダント荒牧あらまき保子やすこ結婚けっこん
  • 1985ねん11月14にち長州ちょうしゅうりょくとのシングルマッチ。結果けっかは60ふん時間切じかんぎけ。ひかしつ完全かんぜんなスタミナれをこしていた長州ちょうしゅう尻目しりめに、鶴田つるたまちみにすという伝説でんせつのこした。
  • 1988ねん6がつ10日とおか日本武道館にほんぶどうかんインターナショナル・タッグ王者おうじゃロード・ウォリアーズ勝利しょうりし、PWF世界せかいタッグ王座おうざ統一とういつし、初代しょだい世界せかいタッグ王者おうじゃとなった(パートナーは谷津たにつ嘉章よしあき)。
  • 1989ねん4がつ18にち東京とうきょう大田おおた体育館たいいくかんさんかん統一とういつせんおこないハンセンをやぶり、インター・ヘビーきゅう・PWFヘビーきゅう・UNヘビーきゅうかく王座おうざ統一とういつし、さんかん統一とういつ初代しょだい王者おうじゃとなった。
  • 1990ねん4がつ19にち最後さいごたい天龍てんりゅう源一郎げんいちろうせん鶴田つるた勝利しょうりし、さんかん王座おうざ度目どめ防衛ぼうえい天龍てんりゅうせん通算つうさん成績せいせきは4しょう3はい2ふん)。天龍てんりゅうはそれまでに日本人にっぽんじんレスラーで唯一ゆいいつ馬場ばばにピンフォふぉル勝るがち(3カウントち)をしたレスラーで、それまで鶴田つるたとも対等たいとうたたかいをしていたが、ぜんシリーズでタッグ決別けつべつしたハンセンによる試合しあいまえ襲撃しゅうげき(ラリアット)のダメージが回復かいふくしないまま、鶴田つるた勝利しょうりわる。シリーズ終了しゅうりょうおこなわれたしん日本にっぽん全日本ぜんにほんWWF共催きょうさい東京とうきょうドーム大会たいかい直後ちょくご天龍てんりゅう突如とつじょ全日本ぜんにほんプロレスを退団たいだんし、SWS移籍いせきする。
  • 1992ねん11月13にち、Bがた肝炎かんえん発症はっしょう告白こくはく昭和大学しょうわだいがく病院びょういん長期ちょうき入院にゅういん
  • 1993ねん3がつ退院たいいん同年どうねん9がつ23にち、リングじょう挨拶あいさつ同年どうねん10がつ23にち復帰ふっきせん
  • 1994ねん10がつ28にち筑波大学つくばだいがく大学院だいがくいん修士しゅうし課程かてい体育たいいく研究けんきゅうコーチがく社会しゃかいじん特別とくべつ選抜せんばつわく受験じゅけん合格ごうかく
  • 1996ねん4がつより、慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがくきりかげ横浜よこはま大学だいがく講師こうし就任しゅうにん
  • 1997ねん3がつ筑波大学つくばだいがく大学院だいがくいん修了しゅうりょう。4月より中央ちゅうおう大学だいがく講師こうしとなった。
  • 1998ねん5がつ1にち全日本ぜんにほんはつ東京とうきょうドーム大会たいかい出場しゅつじょう菊地きくちあつしにバックドロップを披露ひろう
  • 1998ねん9がつ11にち現役げんえき最後さいご試合しあい馬場ばば・ラッシャー木村きむらみ、ふち正信まさのぶえいみなもとはるか菊地きくちぐみ対戦たいせん
  • 1999ねん2がつ20日はつか、キャピトル東急とうきゅうホテルで引退いんたい記者きしゃ会見かいけん全日本ぜんにほんプロレス取締役とりしまりやく辞任じにんあわせて発表はっぴょうされる。
  • 3月6にち日本武道館にほんぶどうかんいて引退いんたいセレモニー。
  • 3がつ10日とおか、ポートランド州立しゅうりつ大学だいがく赴任ふにん
  • 2000ねん5がつ13にち、マニラで肝臓かんぞう移植いしょく手術しゅじゅつちゅうにショック症状しょうじょう出血しゅっけつ多量たりょうにより死去しきょした。49さいぼつ
  • 6月18にち、「ジャンボ鶴田つるたメモリアル献花けんかしき」が青山あおやま葬儀そうぎしょおこなわれる。
  • 現在げんざい山梨やまなしけん実家じっかちかくの慶徳けいとくてらはかがある。墓碑ぼひには「人生じんせいはチャレンジだ!!」ときざまれている。

得意とくいわざ[編集へんしゅう]

そのあまりのつよさから「怪物かいぶつ」、「完全かんぜん無欠むけつのエース」の異名いみょうり、対戦たいせん相手あいてからはもっとおそれられた。くなるまでは日本人にっぽんじん最強さいきょうレスラーとのごえたかく、無尽蔵むじんぞうのスタミナをほこり、まったどうじないタイプのぬしでもあった。代名詞だいめいしでもあるバックドロップを中心ちゅうしん各種かくしゅわざやニーバット、関節かんせつわざなどを得意とくいとしていた。

フィニッシュ・ホールド[編集へんしゅう]

バックドロップ
このわざ自体じたいは、鶴田つるた若手わかて時代じだいから使用しようしていたわざなのだが、当時とうじ相手あいてまたんだかかしきのバックドロップであった[ちゅう 16]。しかし、1982ねんなつごろからしきのバックドロップ[ちゅう 17]をフィニッシュに使用しようしはじめ、そして同年どうねんあきにバックドロップのであるルー・テーズから「ヘソでちいさくえがくようにげろ」とアドバイスをけ、自分じぶんあたま相手あいてわきにいれ、相手あいてどう両手りょうてでクラッチしてブリッジをかせてげるルー・テーズがたバックドロップにみがきをかけるようになる。1983ねん4がつにルー・テーズはいのためにテーズが再度さいど全日ぜんじつおとずれたさいには本格ほんかくてきなマンツーマン特訓とっくんけ、以後いごジャーマン・スープレックスわる鶴田つるた絶対ぜったいてきふだとなる。アブドーラ・ザ・ブッチャーや、身長しんちょう2m、体重たいじゅう190kgのちょう肥満ひまん体型たいけい選手せんしゅだったワンマン・ギャングのように、こしまわりが非常ひじょうおおきくクラッチするのがむずかしいレスラーも綺麗きれいげてみせたこともある。
最初さいしょはつまさきをマットにつけたまま素早すばやひくたたきつける低空ていくう高速こうそくがた[ちゅう 18]だったが、観客かんきゃく見栄みばえを意識いしきしてか徐々じょじょにつまさきながしながらたか落下らっかさせるスタイルに変化へんかさせていく。
相手あいて受身うけみ力量りきりょうによってとす角度かくどえており、三沢みさわ川田かわたたいしてはとんでもない角度かくどとしていた。別名べつめい岩石がんせきとし」である。
1980年代ねんだい前半ぜんはんのあるとき、「ルー・テーズばりの本物ほんもののバックドロップをせてくれよ」と日本にほんテレビがわからけしかけられたこともあって、対戦たいせん相手あいてハーリー・レイス危険きけん角度かくどでバックドロップをおこなった。受身うけみ技術ぎじゅつでは当時とうじ世界せかい最高さいこうレベルと評価ひょうかされた[51]ほどのレイスだが、試合しあい鶴田つるたもと怒鳴どなんで「おまえ、このでもう1かいやってみろよ!」とすごんだ。これに反省はんせいしたのか、鶴田つるた相手あいて角度かくどによってバックドロップでげる角度かくど調整ちょうせいするようになったという[26]
バックドロップ・ホールド
つまさきをつけたまま、ひく体勢たいせい素早すばやたたきつけるスタイルの低空ていくう高速こうそくしきバックドロップはのバックドロップ・ホールドへと昇華しょうかされていく。ニック・ボックウィンクルとのAWA世界せかいヘビーきゅうせんでバックドロップ・ホールドでフォールしてベルトを奪取だっしゅして以降いこう鶴田つるた代名詞だいめいしばれるようになり、また、AWA世界せかい王座おうざ奪取だっしゅのなったことから「世界せかいったバックドロップ」ともわれていた。
たおしきバックドロップ・ホールド
げたときいきおいでブリッジがくずれたが、そのままたおんで強引ごういん相手あいてからだをクラッチしたままホールドする。使用しようされる頻度ひんど比較的ひかくてきすくない。ジャンボ鶴田つるたさんかんヘビーきゅう選手権せんしゅけん防衛ぼうえいせん川田かわた利明としあきをこのタイプのバックドロップ・ホールドでたおして脚光きゃっこうびた。
ジャーマン・スープレックス
1982ねんリック・フレアーとのNWA世界せかいヘビーきゅうせんまで鶴田つるた最大さいだいのフィニッシュホールドであり、この試合しあい最後さいご封印ふういんされたわざ封印ふういん理由りゆう諸説しょせつあり、こう角度かくどからほぼ垂直すいちょく落下らっかするタイプで「おそろしい威力いりょくほこ危険きけんであり調節ちょうせつむずかしいため[ちゅう 19]」や、和田わだ京平きょうへいレフェリーいわく「あたまうすくなってしまうのがいやだから」などもあった。鶴田つるたのジャーマン・スープレックスは、ファンクス道場どうじょうで「観客かんきゃくによくえるようにゆっくりおおきくげるよう心掛こころがける」とおしえをけていたため、スピードをとしてげて一旦いったんめてからげていく、現在げんざいでいうだんモーションしきジャーマンをおも採用さいようしていた。ただし、ハーリー・レイスせんなどで、スピードをとさない、高速こうそくワンモーションのジャーマンも時折ときおりしていたが、こちらもえんえがくようなかたちげ、落下らっか角度かくどきゅうになるため危険きけんとされていた。
ミサイルキック
倉持くらもち隆夫たかおアナ(日本にほんテレビ)からはウルトラCドロップキック、もしくはジャンボ・ミサイルキックばれていた。1975ねん全日本ぜんにほん参戦さんせんしたリッキー・ギブソン公開こうかいドロップキック得意とくいわざにしていた鶴田つるたはこのミサイルキックを自分じぶんのものとした。ジャーマン・スープレックスととも若手わかて時代じだい鶴田つるたのフィニッシュだった。スワンダイブしき全盛ぜんせい現代げんだいちがい、2mちか巨体きょたい鶴田つるたからだねじりながらるミサイルキックの威力いりょくたかく、ミル・マスカラスリック・フレアーといった一流いちりゅうどころからも3カウントをうばっている。

わざ[編集へんしゅう]

ブレーンバスター
海外かいがいうバーティカル・スープレックスのかたちげており、多少たしょう滞空たいくう時間じかんながいタイプであった。
雪崩なだれしきブレーンバスター
ブレーンバスターを相手あいてがコーナーポストじょうにいる状態じょうたいからげるわざで、1988ねん4がつ19にちブルーザー・ブロディとのインターナショナル・ヘビーきゅうたたかえ使つかわれたのが有名ゆうめいである。
前方ぜんぽうたたしきブレーンバスター
レーンバスターの体勢たいせいから、前方ぜんぽうかって相手あいてとし、背面はいめんからマットへたたけるわざで、どちらかといえば小型こがた中型ちゅうがた選手せんしゅたいして使用しようしていた。
4種類しゅるいのスープレックス
・ジャーマン・スープレックス
・サイド・スープレックス
ダブルアーム・スープレックス
フロント・スープレックス
鶴田つるたは4種類しゅるいスープレックス使つかいこなし、ジャーマン・スープレックスは前述ぜんじゅつとおりであり、サイド・スープレックスについては、長身ちょうしん馬場ばばげきる場面ばめん印象いんしょうてき映像えいぞうとして頻繁ひんぱんながされている。
もっともよく使つかわれており得意とくいとしていたのはダブルアーム・スープレックスで、ジャンピングニー、ボストンクラブなどとともに、80年代ねんだい前半ぜんはんだい試合しあいかならられるムーブのひとつであった。
鶴田つるたのオリジナルというべきフロントスープレックスは4種類しゅるいのスープレックスで一番いちばんむずかしく、本当ほんとう受身うけみ上手うま選手せんしゅにしか使つかわない」とされ[52]鶴田つるたいわく「ジャーマンは1週間しゅうかん習得しゅうとく出来できたが、フロントは4週間しゅうかんかかったとのこと。また、フロント・スープレックスをフィニッシュにしたレスラーは鶴田つるたはじめてで[52][ちゅう 20][11]ジャック・ブリスコからUNヘビーきゅう王座おうざ奪取だっしゅするとなったのはフロントだった。
ランニング・ネックブリーカー・ドロップ
はしりこんで相手あいてくびうでけそのままマットに相手あいて後頭部こうとうぶたたきつける。師匠ししょう馬場ばば必殺ひっさつわざであった。
パイルドライバー
ドリル・ア・ホールしきで、相手あいてあたま股間こかんはさんでリングへ脳天のうてんたたきつける。わざ妨害ぼうがいける心配しんぱいがない場合ばあいはさんだ体勢たいせい四方しほう身体しんたいけてアピールしてからとすこともあった。また、ライバルのブロディのパイルドライバー同様どうようなんらかの工夫くふうをしていたのか、まったとき衝撃しょうげきおん非常ひじょうおおきかった。
ショルダースルー
このわざはほとんど相手あいて反撃はんげきにあって失敗しっぱいする。いわゆる「お約束やくそくてきなムーブである。相手あいて攻撃こうげきを「す」ためのうごきだが、鶴田つるた比較的ひかくてき余裕よゆうのある状態じょうたいおこなわれるため、やや不自然ふしぜんなものであることがおおい。ブルーザー・ブロディとのシングルせんでは、双方そうほうがショルダースルーにこうとしては反撃はんげき失敗しっぱいする「ダブルお約束やくそくてきシーンがられた。
ジャンボ・ホイップ
アトミック・ドロップ体勢たいせいかかげ、前方ぜんぽうげるあらわざ菊地きくちおも犠牲ぎせいしゃ。ホイップせずにそのままアトミック・ドロップにくことも。だい一線いっせん退しりぞいたのち田上たうえあきらがこのわざいだ。
パワーボム
天龍てんりゅうとの1989ねん4がつ20日はつか大阪おおさかにおけるさんかんヘビーきゅう選手権せんしゅけんで、喉笛のどぶえへのチョップなんらったためにいかりでわすれた鶴田つるたが、その天龍てんりゅうたいはなったわざ。のちに「ジャンボ・リフト」の別名べつめいがついたそのパワーボムはちょうきゅう角度かくどかつハイスピードなもので、あたまから垂直すいちょくとされた天龍てんりゅうくちからあわいて失神しっしん
直後ちょくご天龍てんりゅう異変いへん気付きづいた鶴田つるたあわててフォールし、試合しあいわらせている。引退いんたいかえった鶴田つるたは「これはちょっとやりぎたかな」と述懐じゅっかいしている。

関節かんせつわざ[編集へんしゅう]

拷問ごうもんコブラツイスト
通常つうじょうコブラツイストことなり、かけた相手あいてほおがわ頭部とうぶうえからさえつける。川田かわたとの拷問ごうもんコブラ合戦かっせんめい場面ばめんひとつであった。菊地きくちはこのわざ文字通もじどおり「つぶされる」ようにけたという。
ぎゃくエビかた(ボストンクラブ)
キャリア前半ぜんはんでは、ジャンピング・ニーバットからスープレックスへのつなぎわざとして多用たようしていた。キャリア終盤しゅうばん体格たいかくのある菊地きくちめたかたち片仮名かたかなの「コ」にえることから「コのかため」ともばれていた。である馬場ばばの「試合しあい終了しゅうりょう間際まぎわめているほうつよくみえる」というおしえに沿って、のこ時間じかんが30びょうってから仕掛しかけることもよくあった。
インディアン・デスロック
鶴田つるた試合しあい前半ぜんはんから中盤ちゅうばんにかけてせていたわざで、わざをかけながら相手あいて選手せんしゅれたりもする。天龍てんりゅうらギブアップをったわざでもある。
アームブリーカー
ったままわきかたのような体勢たいせいらえ、がって相手あいてからだをマットにうつせにたたきつけ、相手あいてかたうで衝撃しょうげきあたえる。また、そのままわきがためへと移行いこうする場合ばあいもある。
サーフボード・ストレッチ
背後はいごち、相手あいてりょう手首てくびを、それぞれ自分じぶんうでつかんで背中せなかがわり、同時どうじ自分じぶん片足かたあしうらあるいはかたひざ相手あいて背面はいめんてて、そのまま相手あいてからだらせて背骨せぼねにダメージをあたえるわざ
ジャイアント・バックブリーカー
師匠ししょう馬場ばばのオリジナルふくあいストレッチわざ。スタンディングで後方こうほうからコブラクラッチめ、そのまま相手あいてたいらせながらみずからのかたひざをマットにけ、相手あいて背中せなかみずからのかた膝頭ひざがしらける、コブラクラッチとバックブリーカーのわせたわざ

打撃だげきわざ[編集へんしゅう]

エルボー・バット
エルボー・スマッシュ
ローリング・エルボー
鶴田つるたおおきなわざへのつなぎわざ反撃はんげき糸口いとぐちとして使つかうエルボー・バットはエルボー・スマッシュと、からだはん回転かいてんさせてむ、いまでいうローリング・エルボーかたちちかいものがおおかった。どちらもドリー・ファンク・ジュニアの得意とくいわざで、ファンクス道場どうじょうでの修業しゅうぎょうちゅうにドリーからおしえられたもの。
ジャンボ・ラリアット
スタン・ハンセンのような一撃いちげき必殺ひっさつわざとはかないが、試合しあい要所ようしょでこのわざ使用しようした。キャリアが中盤ちゅうばんになるころから使つかしたわざ。1984ねんテリー・ゴディとのいちあたりからくろいアームサポーターをしごいてはなつジャンボラリアットが誕生たんじょうしたとわれる。鶴田つるたのラリアットのかた特徴とくちょうがあり、通常つうじょうしたからからだごとがりながらノドをげる。ただし、菊地きくちあつしのような小柄こがらのレスラーにはひじげてうえから体重たいじゅうせるようなかたをした。いずれにせよ、鶴田つるた身長しんちょう上手うま利用りようしたかたであった。また、長州ちょうしゅうりょくのリキラリアット同様どうよう使用しようした当初とうしょうでいためたポーズをとっていた。
ジャンピング・ニー・バット
ダイビング・ニー・アタック
ダブル・ジャンピング・ニー・バット
一時期いちじき鶴田つるた相手あいてをロープにったら90%このわざ」といわれた。まったのち右手みぎて高々たかだかかかげ「オー!」とさけんでアピールすることがほとんど。現在げんざいでは秋山あきやまじゅん鶴田つるたから直接ちょくせつおそわったことを明言めいげんして、得意とくいわざとしている。バスケの経験けいけんから跳躍ちょうやくりょくかしている。
若手わかて時代じだいは「相手あいて考慮こうりょし」たる瞬間しゅんかんからだよこふともものあたりをてるようにしていたが、天龍てんりゅうとのこうそうからそのままんで鋭角えいかくてきひざ顔面がんめんたたむようになった。重要じゅうよういちせんではコーナーポストさい上段じょうだんからはなつダイビングしき[ちゅう 21]やランニングしき使用しようし、ハンセンを失神しっしんさせたこともある。
このわざのバリエーションとして、同時どうじ相手あいて脳天のうてんひじおとすジャンピング・エルボ―・ニー・バットや、りょうひざでジャンプし相手あいててるダブル・ジャンピング・ニー・バットも一時期いちじき使用しようしている。
ダブルチョップ
ダブルハンマーとも。頭上ずじょうから両手りょうてそろえて相手あいて背中せなかのようにはなつチョップ。ちょう世代せだいぐん相手あいてはなつことがおおく、その威力いりょくおおきなおと場内じょうないがどよめくこともおおかった。わざ自体じたい単純たんじゅんだが、相手あいてかくちがいをける色合いろあいがつよ打撃だげきわざである。
ドロップキック
新人しんじん時代じだい多用たようしたが、キャリア中盤ちゅうばん以降いこう印象いんしょうてき場面ばめんでしばしばもちいた。まえのバネをかした打点だてんたかさ、威力いりょく、タイミング、フォームのうつくしさ、どれも随一ずいいち若手わかて時代じだいは「日本人にっぽんじんNo.1のドロップキックの使つか」とひょうされた。馬場ばばとのはつ対決たいけつでこのわざしたときには、あまりにたかがりすぎてあしさき馬場ばば頭部とうぶ(2m9cm)をえてしまったこともある。
フライング・ボディシザース・ドロップ(テーズ・プレス)
ジャンプして相手あいてびついて、馬乗うまのりになるような状態じょうたい背中せなかからたたきつける。1983ねん4がつ、ルー・テーズにバックドロップをならったさい一緒いっしょおそわったもの。そのままフォールの体勢たいせいになることもおおいが、トップロープにみずからの喉元のどもとける誤爆ごばくおおかった。また長身ちょうしんでジャンプりょくのある鶴田つるた使つかうといきおあまってヒップドロップのかたち落下らっかしてしまうこともあった。わざ説得せっとくりょくから使用しよう回数かいすうわりにフィニッシュムーブとなることがおおかった。
タックル
このわざも、ほとんど相手あいて反撃はんげきにあって失敗しっぱいする。いわゆる「お約束やくそくてきうごきである。コーナーにげた相手あいてかってタックルをかけるべくあたまから突進とっしんするがキックをらうかもしくは自爆じばくまったことはかぞえるほどしかない。
場外じょうがいでのヘッドロックから鉄柱てっちゅう攻撃こうげき
このわざもまた、ほとんど反撃はんげきにあって失敗しっぱいする。いわゆる「お約束やくそくてきうごきである。場外じょうがい相手あいてをヘッドロックにかかえたまま相手あいて頭部とうぶ鉄柱てっちゅうてるべく突進とっしんあたまかれて自分じぶん鉄柱てっちゅう体当たいあたりする。
キチンシンク
ロープにり、もどってきた相手あいて腹部ふくぶひざりをれる。2、3かいほどおこなうのがつねだった。長州ちょうしゅう全日ぜんじつ参戦さんせんしていた直後ちょくごから鶴田つるた使つかはじめたことから、長州ちょうしゅう影響えいきょうけたものとおもわれる。
レッグ・ラリアット
たいブルーザー・ブロディよう秘密ひみつ兵器へいき、というみで開発かいはつされた。木村きむら健吾けんご同名どうめいわざとはまったくちがい、ジャンピング・ニーバットがよこながれたかたちひざではなく、ずね相手あいてくびにヒットする。がほとんどジャンピング・ニー・バットとわらないことからあまり評判ひょうばんくなかったのか、すうかい使つかっただけで封印ふういんされた。
延髄えんずい
相手あいて延髄えんずいめがけてジャンプをしながらハイキックをれる。天龍てんりゅう多用たようしていたわざでもある。鶴田つるた場合ばあいじくあしつかまれた状態じょうたいからはなつキャッチしき延髄えんずいをここ一番いちばん効果こうかてき使つかっていた。
ビッグブーツ
相手あいてレスラーにかってフロントキックをぶちかます。福沢ふくさわあきらじゅうよんぶんキック若林わかばやし健治けんじジャンボ・キック呼称こしょうしていた。ライバルであったブルーザー・ブロディの死後しご折角せっかく威力いりょくのあるわざであるし、ファンがブロディをわすれることがないようにと使つかうようにした。事実じじつ試合しあいでヘビーきゅうレスラーをもばしていた。1989ねん4がつ20日はつかさんかんヘビーきゅう選手権せんしゅけんでは、天龍てんりゅうをパワーボムで失神しっしんさせるまえに、このわざ天龍てんりゅうをへしっている。また、馬場ばばとのコンビではダブル・フロントキックをよく使つかっていた[ちゅう 22]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

  • 現役げんえき時代じだいからフォークシンガーとしてレコードを発売はつばいしたり、ファンのまえでギター片手かたてうたうこともあった。井上いのうえ陽水ようすいの「かさがない」をテレビで披露ひろうしたこともある。ただし、った川田かわたいわく「アンコールかったんだけどね」とのことである。
  • 中央大学ちゅうおうだいがくへはバスケットのスポーツ推薦すいせんでなく、一般いっぱん入試にゅうし合格ごうかくしたとされている[12]。しかし中大ちゅうだいレスリングおよびミュンヘンオリンピックレスリング代表だいひょう同期どうきだった鎌田かまたまこと[53]や、中大ちゅうだい同級生どうきゅうせいだったミスター・ポーゴは「鶴田つるたはバスケットボール特待とくたいせいだった」と明言めいげんしている。自著じちょ受験じゅけん指南しなんしょ『ジャンボ鶴田つるた受験じゅけん格闘技かくとうぎだ』では、大学院だいがくいん入試にゅうし経験けいけんについては詳細しょうさいであるが、大学だいがく受験じゅけんかんしては具体ぐたいてきかたられていない。
  • 1975ねんごろしんあいだ寿ことぶきが、鶴田つるたしん日本にっぽんプロレスへくことを計画けいかくしていた。しかしこの計画けいかく当時とうじ東京とうきょうスポーツ社長しゃちょうだった井上いのうえひろしや、当時とうじ三浦みうら甲子きのえねテレビ朝日てれびあさひ専務せんむいかりをうことになってしまう。最終さいしゅうてきしんあいだによる鶴田つるた計画けいかく失敗しっぱいわった[54]
  • レスラー時代じだいにはバラエティ番組ばんぐみにもゲスト出演しゅつえんしていたこともある。[ちゅう 23]また日野自動車ひのじどうしゃトラックや、井関農機いせきのうきコンバイン太郎たろう」シリーズのCMにも出演しゅつえん経験けいけんがある。
  • むしだい苦手にがてであり、セミ勿論もちろんのことでつまはなしによると「毛虫けむしなんかはもってのほか」であったという[よう出典しゅってん]
  • 鶴田つるた自身じしん家宝かほうにしていたのは坂本さかもと龍馬りょうまぞうであり、プロレスでトロフィー記念きねんたて、パネル写真しゃしんなどは無造作むぞうさ押入おしいれのなか保管ほかんしたり、しいひとげていた。
  • アメリカ遠征えんせいちゅう航空機こうくうき搭乗とうじょうしたさい乱気流らんきりゅうまれて墜落ついらくするのではないかとおもった経験けいけんから、だい飛行機ひこうききらいであった。そのため、国内こくない長距離ちょうきょり移動いどうであっても鶴田つるただけは航空機こうくうき利用りようせずに列車れっしゃ移動いどうしていた。阪神はんしん淡路あわじ大震災だいしんさい発生はっせいから2にちである1995ねん1がつ19にち開催かいさい大阪おおさか府立ふりつ体育たいいく会館かいかん大会たいかいは、長期ちょうき欠場けつじょうけの出場しゅつじょうとなったため、東京とうきょうから大阪おおさかまで鶴田つるた単独たんどく移動いどうすることになったが、東海道新幹線とうかいどうしんかんせん京都きょうとえきでのかえ運転うんてんとなっており、大阪おおさかかう手段しゅだんであったJR京都きょうとせんほんすうらして運転うんてんしていたため、関西国際空港かんさいこくさいくうこうちゃく航空機こうくうき大阪おおさかりした[ちゅう 24]。そのさい鶴田つるたは「なんねんかぶりに飛行機ひこうきった」とべている[55]
  • 若手わかて時代じだい鶴田つるたびとつとめた三沢みさわによると、たとえ後輩こうはいであっても名前なまえてでったり使つかはしりしたりはせず、だれにでも「きみけでんだりするなど、先輩せんぱいふうかせたり無茶むちゃいつけたりすることもかったという[56]。リングをりるとマイペースをつらぬき、若手わかて選手せんしゅ飲食いんしょくてん同席どうせきしてもとくおごようなことはせずに、1人ひとりコンビニエンスストアふくろって宿泊しゅくはく施設しせつもどるなど、プライベートでは普通ふつうに「鶴田つるた友美ゆみ」としてごしていた[56]生前せいぜん三沢みさわ親交しんこうがあった徳光とくみつ正行まさゆきによると、三沢みさわ自身じしんびとたいして雑用ざつようおおくやらせたり、小言こごとくちにしたりすることもかったが、これは自身じしんびとつとめた鶴田つるた干渉かんしょうをあまりしない性格せいかくだったことが影響えいきょうしているといい[57]、また三沢みさわ自身じしんも、新人しんじん時代じだい先輩せんぱいから理不尽りふじん仕打しうちをけた経験けいけんから「自分じぶんした人間にんげんたいして、おなじようなことは絶対ぜったいにしない」としんちかったのだという[58]。この「使つかけ」は外国がいこくじん選手せんしゅたいしても同様どうようであったため、テリー・ファンクも1983ねんいち度目どめ引退いんたいのあと「馬場ばばつぎのボスは鶴田つるたではなくて、天龍てんりゅうなんだよね」とかたっていた。天龍てんりゅうはプロレス転身てんしん当初とうしょ鶴田つるたからさそうな挨拶あいさつけ、後年こうねん「ジャンボのおかげもあってこのプロレスかいにはスッとはいっていけたところはあるよ。もしあのときに、もと関取せきとりでも『プロレスかいってのは、そうはいかないんだぞ!』みたいなムードをおれかんじていたら、そののプロレスへのかたわってたかもしれないよね」とかえっている。
  • しかし、2016ねん天龍てんりゅうはインタビューのなかで「リングのなか相手あいて見下みくだしたような試合しあいをしたり、リングのそとで“プロレスラーの鶴田つるた友美ゆみです”というのがいやそうなジャンボをて、段々だんだん違和感いわかんつようにはなったけどね」と、1987ねんはるつるりゅうコンビに嫌気いやけがさしていたころ様子ようすかたっている。おなじインタビューで天龍てんりゅうは、またリングじょうつね余裕よゆうのある自分じぶんせたがっていた鶴田つるた生前せいぜんのその姿勢しせい指摘してきしている[59]
  • しん弟子でし時代じだいだい仁田にったあつしは、たかざいはいっているちゃんこが道場どうじょう用意よういされても先輩せんぱいざいさきられてしまい、のこっているのがいつも野菜やさいしかのこらず落胆らくたんすることがあった。一方いっぽう鶴田つるた毎回まいかいつくっていた「にわとり湯豆腐ゆどうふ」は材料ざいりょうやすぶんだけにく沢山たくさんあったため、当時とうじしん弟子でしであった大仁田おおにたでもにくにありつけた。また「べるとき平等びょうどうだからさ」と日頃ひごろからはなし、しん弟子でしでも最初さいしょからはしけてべることが出来できた。このようにおもいやりのある鶴田つるた大仁田おおにたしたっており「おれは鶴田つるたさんがきだったよ」と、現在げんざい尊敬そんけいしている[60]
  • あるとき天龍てんりゅうれられて懐石かいせき料理りょうりべさせてもらったが、すぐさまおもむろにがってラーメンをべに出掛でかけた。天龍てんりゅうのちに「かれあじくてはらいっぱいになるものがよくて、懐石かいせき料理りょうりをちまちまっているのはせいわないんだ。地方ちほう巡業じゅんぎょうではどこにっても、そのあたりでラーメンをべていたし、ファンのにしないおおらかさがあった。それがジャンボらしいところだよね」と解説かいせつしている。相撲すもう時代じだいあじおぼえてしたえていた天龍てんりゅうとは対照たいしょうてきであった[61]
  • 田上たうえあきらによると、ひどいわるふざけをするが後輩こうはい食事しょくじかならおごってくれる天龍てんりゅうとはぎゃくであり、とくおごることはしなかった[62]。その一方いっぽうびと時代じだい三沢みさわによると、オフになると鶴田つるた食事しょくじれてってもらうことがあり「ゆめたせてくれたよね。"プロレスラーをやっていれば、こういうみせれるんだ!"みたいなね」と回想かいそうしている[63]
  • 佐藤さとう昭雄あきおは、鶴田つるたかんして「馬場ばばさんや猪木いのきさんのように『おれ会社かいしゃなんだから、おれつくって、おれきゃくいちはいにしてやるんだ』ということにはあま関心かんしんかったのかな。結局けっきょくリングのなか試合しあいをして、控室ひかえしつかえって意気揚々いきようようとコメントをしても、つね馬場ばばさんが葉巻はまきくわえておおきな態度たいどすわっているわけで。ジャンボにもういち物足ものたりなさをかんじたのはそういうところかもしれないね。それはなにかというと、独立どくりつしておやま大将たいしょうにならないと最終さいしゅう段階だんかいというのはつくれないから。そのてんがジャンボにはかったかもしれない」とかたっている[64]
  • 「ナチュラルなつよさ」とひょうされることおおい。弟子でし三沢みさわも「鶴田つるたさんが筋力きんりょくトレーニングをしているところをたことがない。おそらくきなテニスやバスケットボールをたのしみながら必要ひつよう筋肉きんにくけていたんだとおもう」と著書ちょしょなかべている[56]まれった運動うんどう基礎きそ能力のうりょく格段かくだんすぐれていたようで、吉田よしだつよしいわく「わかころ山道さんどう自転車じてんしゃ普通ふつうはしまわり、それだけで自然しぜんちょう人的じんてき体力たいりょくき、とく目立めだった練習れんしゅうをしないままオリンピックにられた人物じんぶつ」である。大学だいがく1年生ねんせいときに「ずっとんでたバスケでは、五輪ごりん出場しゅつじょうむずかしいかも」と不安ふあんいだき、バスケをめること決意けついする。しかし鶴田つるたは「ぼく五輪ごりんたい。種目しゅもくはなんでもいい。時間じかんは3年間ねんかんしかない」というつよおもいから、かくスポーツを検討けんとうした結果けっか「アマレスなら希望きぼうがある」と想定そうていしてレスリングをえらんだ。しかしバスケットボール特待とくたいせい大学だいがくはいったおとこが「いくら頑張がんばっても、五輪ごりんにはられないから」という理由りゆうでバスケをめ、レスリングをはじめるというのは理解りかい出来できないことでもあった。そのためレスリング鶴田つるた入部にゅうぶ希望きぼうっている。
  • 入部にゅうぶことわられて途方とほうれてしまった鶴田つるたは、自衛隊じえいたい体育たいいく学校がっこうでは一般人いっぱんじんでもレスリングが練習れんしゅう可能かのうだとり、そこで練習れんしゅうはじめる。自衛隊じえいたい学校がっこうのコーチは鶴田つるた非凡ひぼん運動うんどう能力のうりょくづき、本腰ほんごしれて指導しどうすると、鶴田つるた経験けいけんなしの状態じょうたいからすぐに「全日本ぜんにほん社会人選手権しゃかいじんせんしゅけん」と「国体こくたい」のりょう大会たいかい優勝ゆうしょうたした。日本にっぽんのアマレスレベルは、すうおおくのメダリストを輩出はいしゅつしているように非常ひじょうたかく、驚異きょういてきことであった。すこまえ鶴田つるた入部にゅうぶことわったレスリングからはぎゃくに「鶴田つるたくん是非ぜひこっちにてくれないか?」とさそわれるようになる。鶴田つるた当初とうしょ入部にゅうぶするはなかったが、自衛隊じえいたい体育たいいく学校がっこうのコーチから入部にゅうぶすすめられ所属しょぞくした。
  • 鶴田つるたはレスリング経験けいけん若干じゃっかん2ねんあまりで、ミュンヘンオリンピック出場しゅつじょうった。しかしオリンピック本戦ほんせんでは、経験けいけん不足ふそくはどうしようにも出来できず、戦術せんじゅつまずしさと国際こくさいルールの不慣ふなれに戸惑とまどい、器用きようヨーロッパ選手せんしゅてきではなく、肝心かんじん攻撃こうげきがほとんど出来できことなく警告けいこくけにわった。
  • 1985ねんなつBがた肝炎かんえんのウィルスキャリアが判明はんめいしてから本当ほんとうにハードなトレーニングが出来できなくなり、もっぱら趣味しゅみのスポーツで体力たいりょく維持いじしていた。それにたい天龍てんりゅうはオフでもしゅうに5にち練習れんしゅう稽古けいこかさない「稽古けいこおに」であったが、ハードトレーニングをしなくても怪物かいぶつてきつよさをける鶴田つるたに「こいつとおれらは、ってまれたものがちがうんだなぁ」としみじみおもったという[28]三沢みさわ自著じちょで「鶴田つるたさんはってまれたものがすごすぎた。レスラーに必要ひつよう能力のうりょくすべそなえていた」とかたっている。
  • 鶴田つるた自身じしん肝炎かんえんキャリアであることを自覚じかくしていながら、周囲しゅういのレスラーや関係かんけいしゃにはその事実じじつせてリングにがっていた。これは血液けつえきなどの体液たいえきによって感染かんせんするBがた肝炎かんえんでは非常ひじょう危険きけんかつ非常識ひじょうしき行為こういわざるをない。 

天龍てんりゅう源一郎げんいちろう証言しょうげん「(つるりゅう対決たいけつ当時とうじ、すでにジャンボはBがた肝炎かんえんのキャリアだったんだけど、本人ほんにん以外いがいには馬場ばばさんしからなかったんだよね。よくよくいたらジャンボは『流血りゅうけつせんになるようなことにはえないから…』ってったらしいんだよね」[65]

  • レスリングでは鶴田つるたよりも身長しんちょうが13センチひく[66][67]小柄こがら磯貝いそがいよりゆきしゅういち勝利しょうりすることが出来できなかったなど、国内こくないにおいて無敵むてき選手せんしゅであったとはがためんもある。なお五輪ごりんなど国際こくさいせんでは外国がいこくじん選手せんしゅ全敗ぜんぱいしている。しかし、ジャンボ鶴田つるた試練しれんじゅうばん勝負しょうぶだい7せんでは1972ねんミュンヘン五輪ごりんレスリングの男子だんしフリースタイル120kgきゅうどうメダリストのクリス・テイラー勝利しょうりしている。

タイトルれき[編集へんしゅう]

入場にゅうじょうテーマきょく[編集へんしゅう]

  • チャイニーズ・カンフー
  • ローリング・ドリーマー - リリースした同名どうめいレコードきょくインストはん
  • T.T.バックドロップ - 1983ねん8がつ31にちのブロディせん(リングアウトちによりインターヘビーきゅう奪取だっしゅ試合しあい)のみの限定げんてい使用しよう
  • J(作曲さっきょく鈴木すずき宏昌ひろあき)- 1983ねん12月から。当初とうしょ鈴木すずき宏昌ひろあき録音ろくおんのオリジナル音源おんげん使用しようされていたが、1984ねんのレコードともないカバー音源おんげんあらたに録音ろくおんされ、会場かいじょう使用しよう音源おんげんもカバー音源おんげん変更へんこうされた。1992ねんにオリジナル音源おんげんもどされ引退いんたいまで使用しよう

音楽おんがく[編集へんしゅう]

シングル[編集へんしゅう]

# 発売はつばい A/Bめん タイトル 作詞さくし 作曲さっきょく 編曲へんきょく 規格きかく品番ひんばん
CBS・ソニー
1 1980ねん
3がつ
Aめん ローリング・ドリーマー 喜多きたじょうただし 川口かわぐちしん 06SH-737
Bめん いもうと
ミノルフォン
2 1981ねん
6がつ
Aめん ローリング・ドリーマー(インスト) - 川口かわぐちしん 伊勢谷いせやたけ KA-3015
Bめん サヨナラはわないで 鶴田つるた友美ゆみ
キャニオン・レコード
3 1984ねん
4がつ
Aめん 明日あしたがあるさ 山田やまだ孝雄たかお さいわい耕平こうへい 南郷なんごう達也たつや 7A-0370
Bめん なみだ

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

  • 『リングよりあいをこめて―ジャンボ鶴田つるたのファッショナブル・トーク』(1981ねん12月1にち講談社こうだんしゃISBN 978-4061277694
  • 『ジャンボ鶴田つるた受験じゅけん格闘技かくとうぎだ―志望校しぼうこう突破とっぱする“ななつの必殺ひっさつワザ”を伝授でんじゅしよう』(1996ねん11月1にちごま書房しょぼうISBN 978-4341017477
  • 『ジャンボ鶴田つるたのナチュラルパワー強化きょうかバイブル―プロレスりゅう筋力きんりょくパワーアップ・トレーニングとスーパータフネスの秘密ひみつ』(1999ねん3がつ1にちナツメしゃISBN 978-4816325335

関連かんれん書籍しょせき[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 2016ねん時点じてん取材しゅざいによると、あにつねりょう山梨やまなし牧丘まきおかまちでぶどう農園のうえんいとなんでおり、その農園のうえんは『ジャンボ鶴田つるたえん』という名称めいしょうで2022ねん現在げんざい運営うんえいちゅうである。またつねりょう身長しんちょうが190cmの大柄おおがらで、おとうと友美ゆみの196cmとわらぬ体格たいかくをしている。
  2. ^ 試合しあい結果けっかほうは、1しょう1はいけという鶴田つるた健闘けんとうぶりが際立きわだっていた。
  3. ^ これは1973ねん8がつ6にち日本にほんテレビのロサンゼルス支局しきょくが、テキサスしゅうエルパソへ取材しゅざいってきたさいほうじたことで注目ちゅうもくびた
  4. ^ またはミサイルキックである。
  5. ^ 当時とうじNWAAWAWWF世界せかいヘビーきゅう王座おうざ世界せかいさんだい王座おうざわれていた。
  6. ^ 翌年よくねん鶴田つるたはAWA世界せかい王者おうじゃいたが、テーズに本当ほんとうに100まんドルをはらったかどうかは不明ふめいである。なお、当時とうじのレートで100まんドルは2おくえん以上いじょうになる[よう出典しゅってん]
  7. ^ 1981ねんの1-2での敗北はいぼく、1982ねんのダブルフォールでのけ(このとき試合しあい一本いっぽん勝負しょうぶ)。
  8. ^ のAWA王座おうざ奪取だっしゅするまでのあいだ鶴田つるた世界せかい一番いちばんちかづいた」とばれていた[よう出典しゅってん]
  9. ^ 三本みもと勝負しょうぶ場合ばあいは、2ほんともにピンフォふぉル勝るがち、ノックアウトちもしくはギブアップちでないと王座おうざ移動いどうしない。
  10. ^ 1978ねんさんほん勝負しょうぶ鶴田つるたの2-1だが3ほん反則はんそくちで、1980ねん一本いっぽん勝負しょうぶ鶴田つるた反則はんそくち、1982ねん一本いっぽん勝負しょうぶ両者りょうしゃリングアウト、3試合しあいともニックの防衛ぼうえいである。
  11. ^ だが、ニックも鶴田つるたうで徹底的てっていてきめるなど、鶴田つるた主導しゅどうけんらさせずめる試合しあい巧者こうしゃぶりを発揮はっきし、それまでの反則はんそくやリングアウトで勝利しょうりするダーティーなレスラーというイメージを払拭ふっしょくしている。
  12. ^ 天龍てんりゅう阿修羅あしゅらはらのタッグネーム。
  13. ^ この試合しあいに、った三沢みさわはリングじょうたおんだままになっており、やぶれた鶴田つるたはレフェリーに抗議こうぎしている。
  14. ^ この段階だんかい川田かわた戦意せんい喪失そうしつにさせてしまっており、すではん失神しっしん状態じょうたいんでいるものの、鶴田つるたいかりはおさまらずに無理矢理むりやりこしてつぎ攻撃こうげきつづけている。
  15. ^ 鶴田つるた三沢みさわさい愛称あいしょうであった。
  16. ^ これは、馬場ばばやドリーのバックドロップとおながたである。
  17. ^ 現在げんざいうところのげっぱなしのスタイル。
  18. ^ ふち正信まさのぶちょう正洋まさひろ使用しようしているタイプ。
  19. ^ だい8かいチャンピオン・カーニバル決勝けっしょう仕掛しかけられたディック・スレーターくび負傷ふしょうしてしまったのは有名ゆうめい
  20. ^ カール・ゴッチは『わたしかれ鶴田つるた)がさわがれるまえからサルト(フロント)を使用しようしていた』と主張しゅちょうしているが、ゴッチが試合しあいでフロントを使用しようしたという記録きろくすくなくとも現時点げんじてんでは存在そんざいしていない。
  21. ^ ダイビング・ニー・アタックともばれた。
  22. ^ 実況じっきょうではさんじゅうぶんキックともばれた。
  23. ^ 明石家あかしやさんまがメインのトーク番組ばんぐみであった「さんまのまんま」などにもゲスト出演しゅつえんしていた。
  24. ^ 全日本ぜんにほんプロレスのほか選手せんしゅは、前日ぜんじつ興行こうぎょうおこなわれた愛知あいちけん田原たはらまちからバスで大阪おおさかりしていた。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 特別とくべつ対談たいだん ジャンボ鶴田つるた早川はやかわ武彦たけひこ 対談たいだんしゃ略歴りゃくれき
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  7. ^ ミルホンネット「ある極悪ごくあくレスラーの懺悔ざんげ」より。
  8. ^ 『G SPIRITS Vol.42』(辰巳たつみ出版しゅっぱんISBN 9784777818129)p.7
  9. ^ 運動うんどう部長ぶちょうとなる人物じんぶつである。
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関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]