ジャンボ鶴田
ジャンボ Jumbo Tsuruta | |
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プロフィール | |
リングネーム |
ジャンボ トミー・ツルタ |
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ニックネーム |
|
196cm | |
127kg( | |
1951 | |
2000 | |
| |
| |
スポーツ |
レスリング バスケットボール |
トレーナー |
ジャイアント ドリー・ファンク・ジュニア テリー・ファンク ルー・テーズ マティ |
デビュー |
1973 |
1999 |
1970 | フリー100kg | |
1971 | フリー100kg | |
1971 | グレコローマン100kg | |
1972 | フリー100kg | |
1972 | グレコローマン100kg |
ジャンボ
概要 [編集 ]
1972
オリンピック
来歴 [編集 ]
プロ入 りまで[編集 ]
プロレスは
レスリングでの
全日本 プロレス入団 [編集 ]
1973
20
1974
1970年代 中盤 :ライバル達 との出世 争 い[編集 ]
1970
この
1980年代 前半 :世界 の鶴田 へ[編集 ]
1980
1983
6月8
7
8
1984
AWA
これらの
1980年代 中盤 :超 獣 コンビ、ウォリアーズ、ジャパンプロレス勢 との闘 い[編集 ]
「プロレス
しかし、この
1980年代 後半 - 1992年 :天龍 同盟 、超 世代 軍 との闘 い[編集 ]
1988
1989
1991
また10
この
ファンやマスコミを
1991
1992年 入院 以降 [編集 ]
1992
1993
1999
ただし
引退 - 闘病 - 突然 の死 [編集 ]
1999
この
没後 [編集 ]
2014
2022
年表 [編集 ]
日川 高校 時代 、バスケットボール部 で全国 高校 選手権 大会 に出場 。中央大学 時代 、レスリングで全日本 選手権 制覇 。そのうち1971年 のフリースタイルはレスリングでの実績 がない選手 2人 を破 っての優勝 であり、同年 のグレコローマンは他 に出場 選手 がなく不戦勝 による優勝 [47]となっている。- 1971
年 のレスリング世界 選手権 にフリー[48]・グレコ[49]両 スタイルで出場 するが、ともに2戦 2敗 で敗退 。 - 1972
年 のレスリング全日本 選手権 では、同 選手権 での優勝 経歴 のある磯貝 頼 秀 、山口 勇雄 を抑 えてのフリー・グレコ両 部門 2連覇 をはたしている。 - ミュンヘンオリンピックで、レスリング グレコローマン100kg
超 級 に出場 するも、2戦 2敗 [50]。 - ジャイアント
馬場 にスカウトされ、プロレス界 入 り。 - 1973
年 3月 22日 、アメリカ修行 。150戦 消化 の後 同年 10月 1日 帰国 。10月6日 、後楽園 ホールで日本 デビュー戦 。 - 1975
年 、馬場 と組 んでのインタータッグ選手権 。相手 はザ・ファンクス。 - 1976
年 8月 28日 、UNヘビー級 タイトル獲得 。 - 3
月 10日 - 1979年 1月 5日 まで、十 番 勝負 。通算 成績 、4勝 2敗 4分 。 - 1983
年 8月 31日 、ブルーザー・ブロディよりインターナショナル・ヘビー級 王座 を奪取 。第 14代 チャンピオンとなった。 - 1984
年 2月 23日 、蔵前 国技 館 においてニック・ボックウィンクルとのAWA世界 ヘビー、インター・ヘビーのダブルタイトル戦 を行 い、鶴田 が勝利 しインター・ヘビー級 王座 防衛 ともに、日本人 初 の第 30代 AWA世界 ヘビー級 王者 となった。- その
後 、AWA王座 を同年 5月 13日 にリック・マーテルに敗 れるまで16回 の防衛 を果 たした。日米 2国 間 を往復 しての世界 王座 防衛 は、日本人 初 の快挙 。
- その
- 1984
年 9月 23日 、元 日本航空 のキャビンアテンダント・荒牧 保子 と結婚 。 - 1985
年 11月14日 、長州 力 とのシングルマッチ。結果 は60分 時間切 れ引 き分 け。控 え室 で完全 なスタミナ切 れを起 こしていた長州 を尻目 に、鶴田 は街 へ飲 みに繰 り出 すという伝説 を残 した。 - 1988
年 6月 10日 、日本武道館 でインターナショナル・タッグ王者 ・ロード・ウォリアーズに勝利 し、PWF世界 タッグと王座 統一 し、初代 世界 タッグ王者 となった(パートナーは谷津 嘉章 )。 - 1989
年 4月 18日 、東京 大田 区 体育館 で三 冠 統一 戦 を行 いハンセンを破 り、インター・ヘビー級 ・PWFヘビー級 ・UNヘビー級 の各 王座 を統一 し、三 冠 統一 初代 王者 となった。 - 1990
年 4月 19日 、最後 の対 天龍 源一郎 戦 。鶴田 が勝利 し、三 冠 王座 二 度目 の防衛 (天龍 戦 の通算 成績 は4勝 3敗 2分 )。天龍 はそれまでに日本人 レスラーで唯一 、馬場 にピンフォ ール勝 ち(3カウント勝 ち)をしたレスラーで、それまで鶴田 とも対等 の闘 いをしていたが、前 シリーズでタッグ決別 したハンセンによる試合 前 の襲撃 (ラリアット)のダメージが回復 しないまま、鶴田 の勝利 に終 わる。シリーズ終了 後 に行 われた新 日本 ・全日本 ・WWF共催 の東京 ドーム大会 直後 、天龍 は突如 全日本 プロレスを退団 し、SWSに移籍 する。 - 1992
年 11月13日 、B型 肝炎 発症 を告白 、昭和大学 病院 へ長期 入院 。 - 1993
年 3月 退院 。同年 9月 23日 、リング上 挨拶 。同年 10月 23日 復帰 戦 。 - 1994
年 10月 28日 、筑波大学 大学院 修士 課程 体育 研究 科 コーチ学 、社会 人 特別 選抜 枠 で受験 し合格 。 - 1996
年 4月 より、慶應義塾大学 ・桐 蔭 横浜 大学 の講師 に就任 。 - 1997
年 3月 、筑波大学 大学院 修了 。4月より中央 大学 の講師 となった。 - 1998
年 5月 1日 、全日本 初 の東京 ドーム大会 に出場 。菊地 毅 にバックドロップを披露 。 - 1998
年 9月 11日 、現役 最後 の試合 。馬場 ・ラッシャー木村 と組 み、渕 正信 ・永 源 遙 ・菊地 組 と対戦 。 - 1999
年 2月 20日 、キャピトル東急 ホテルで引退 記者 会見 。全日本 プロレス取締役 の辞任 も併 せて発表 される。 - 3月6
日 、日本武道館 に於 いて引退 セレモニー。 - 3
月 10日 、ポートランド州立 大学 に赴任 。 - 2000
年 5月 13日 、マニラで肝臓 移植 手術 中 にショック症状 、出血 多量 により死去 した。49歳 没 。 - 6月18
日 、「ジャンボ鶴田 メモリアル献花 式 」が青山 葬儀 所 で執 り行 われる。 現在 、山梨 県 の実家 近 くの慶徳 寺 に墓 がある。墓碑 には「人生 はチャレンジだ!!」と刻 まれている。
得意 技 [編集 ]
その
フィニッシュ・ホールド[編集 ]
- バックドロップ
- この
技 自体 は、鶴田 が若手 時代 から使用 していた技 なのだが、当時 は相手 の股 へ手 を差 し込 んだ抱 え式 のバックドロップであった[注 16]。しかし、1982年 の夏 頃 から反 り投 げ式 のバックドロップ[注 17]をフィニッシュに使用 しはじめ、そして同年 秋 にバックドロップの祖 であるルー・テーズから「ヘソで小 さく弧 を描 くように投 げろ」とアドバイスを受 け、自分 の頭 を相手 の脇 下 にいれ、相手 の胴 を両手 でクラッチしてブリッジを効 かせて投 げるルー・テーズ型 バックドロップに磨 きをかけるようになる。1983年 4月 にルー・テーズ杯 のためにテーズが再度 全日 を訪 れた際 には本格 的 なマンツーマン特訓 も受 け、以後 はジャーマン・スープレックスに代 わる鶴田 の絶対 的 な切 り札 となる。アブドーラ・ザ・ブッチャーや、身長 2m、体重 190kgの超 肥満 体型 選手 だったワンマン・ギャングのように、腰 回 りが非常 に大 きくクラッチするのが難 しいレスラーも綺麗 に投 げてみせた事 もある。 最初 はつま先 をマットにつけたまま素早 く低 く叩 きつける低空 高速 型 [注 18]だったが、観客 の見栄 えを意識 してか徐々 につま先 を流 しながら高 く持 ち上 げ落下 させるスタイルに変化 させていく。相手 の受身 の力量 によって落 とす角度 を変 えており、三沢 や川田 に対 してはとんでもない角度 で落 としていた。別名 「岩石 落 とし」である。- 1980
年代 前半 のある時 、「ルー・テーズばりの本物 のバックドロップを見 せてくれよ」と日本 テレビ側 からけしかけられたこともあって、対戦 相手 のハーリー・レイスに危険 な角度 でバックドロップを行 った。受身 技術 では当時 世界 最高 レベルと評価 された[51]ほどのレイスだが、試合 後 に鶴田 の元 へ怒鳴 り込 んで「お前 、この場 でもう1回 やってみろよ!」と凄 んだ。これに反省 したのか、鶴田 は相手 の受 け身 の角度 によってバックドロップで投 げる角度 を調整 するようになったという[26] - バックドロップ・ホールド
- つま
先 をつけたまま、低 い体勢 で素早 く叩 きつけるスタイルの低空 高速 式 バックドロップは後 のバックドロップ・ホールドへと昇華 されていく。ニック・ボックウィンクルとのAWA世界 ヘビー級 戦 でバックドロップ・ホールドでフォールしてベルトを奪取 して以降 、鶴田 の代名詞 と呼 ばれるようになり、また、AWA世界 王座 奪取 の決 め手 のなったことから「世界 を獲 ったバックドロップ」とも言 われていた。 倒 れ込 み式 バックドロップ・ホールド投 げた時 の勢 いでブリッジが崩 れたが、そのまま倒 れ込 んで強引 に相手 の体 をクラッチしたままホールドする。使用 される頻度 は比較的 少 ない。ジャンボ鶴田 が三 冠 ヘビー級 選手権 防衛 戦 で川田 利明 をこのタイプのバックドロップ・ホールドで倒 して脚光 を浴 びた。- ジャーマン・スープレックス
- 1982
年 のリック・フレアーとのNWA世界 ヘビー級 戦 まで鶴田 の最大 のフィニッシュホールドであり、この試合 を最後 に封印 された技 。封印 の理由 は諸説 あり、高 角度 からほぼ垂直 に落下 するタイプで「恐 ろしい威力 を誇 り危険 であり調節 も難 しいため[注 19]」や、和田 京平 レフェリー曰 く「頭 が薄 くなってしまうのが嫌 だから」などもあった。鶴田 のジャーマン・スープレックスは、ファンクス道場 で「観客 によく見 えるようにゆっくり大 きく投 げるよう心掛 ける」と教 えを受 けていたため、スピードを落 として持 ち上 げて一旦 止 めてから投 げていく、現在 でいう二 段 モーション式 ジャーマンを主 に採用 していた。ただし、ハーリー・レイス戦 などで、スピードを落 とさない、高速 ワンモーションのジャーマンも時折 出 していたが、こちらも円 を描 くような形 で投 げ、落下 角度 が急 になるため危険 とされていた。 - ミサイルキック
倉持 隆夫 アナ(日本 テレビ)からはウルトラCドロップキック、もしくはジャンボ・ミサイルキックと呼 ばれていた。1975年 全日本 に参戦 したリッキー・ギブソンが公開 、ドロップキックを得意 技 にしていた鶴田 はこのミサイルキックを自分 のものとした。ジャーマン・スープレックスと共 に若手 時代 の鶴田 のフィニッシュだった。スワンダイブ式 が全盛 の現代 と違 い、2m近 い巨体 の鶴田 が体 を捻 りながら蹴 るミサイルキックの威力 は高 く、ミル・マスカラス、リック・フレアーといった一流 どころからも3カウントを奪 っている。
投 げ技 [編集 ]
- ブレーンバスター
海外 で言 うバーティカル・スープレックスの形 で投 げており、多少 滞空 時間 の長 いタイプであった。雪崩 式 ブレーンバスター- ブレーンバスターを
相手 がコーナーポスト上 にいる状態 から投 げる技 で、1988年 4月 19日 のブルーザー・ブロディとのインターナショナル・ヘビー級 戦 使 われたのが有名 である。 前方 叩 き付 け式 ブレーンバスター- レーンバスターの
体勢 から、前方 に向 かって相手 を投 げ落 とし、背面 からマットへ叩 き付 ける技 で、どちらかといえば小型 中型 の選手 に対 して使用 していた。 - 4
種類 のスープレックス - ・ジャーマン・スープレックス
- ・サイド・スープレックス
- ・ダブルアーム・スープレックス
- ・フロント・スープレックス
鶴田 は4種類 のスープレックスを使 いこなし、ジャーマン・スープレックスは前述 の通 りであり、サイド・スープレックスについては、長身 の馬場 を投 げきる場面 が印象 的 な映像 として頻繁 に流 されている。最 もよく使 われており得意 としていたのはダブルアーム・スープレックスで、ジャンピングニー、ボストンクラブなどとともに、80年代 前半 は大 試合 で必 ず見 られるムーブのひとつであった。鶴田 のオリジナルというべきフロントスープレックスは4種類 のスープレックスで一番 難 しく、本当 に受身 の上手 い選手 にしか使 わない」とされ[52]、鶴田 曰 く「ジャーマンは1週間 で習得 出来 たが、フロントは4週間 かかったとのこと。また、フロント・スープレックスをフィニッシュにしたレスラーは鶴田 が初 めてで[52][注 20][11]、ジャック・ブリスコからUNヘビー級 王座 を奪取 する決 め手 となったのはフロントだった。- ランニング・ネックブリーカー・ドロップ
走 りこんで相手 の首 に腕 を掛 けそのままマットに相手 の後頭部 を叩 きつける。師匠 馬場 の必殺 技 であった。- パイルドライバー
- ドリル・ア・ホール
式 で、相手 の頭 を股間 に挟 み込 んでリングへ脳天 を叩 きつける。技 の妨害 を受 ける心配 がない場合 は挟 み込 んだ体勢 で四方 に身体 を向 けてアピールしてから落 とすこともあった。また、ライバルのブロディのパイルドライバー同様 何 らかの工夫 をしていたのか、決 まった時 の衝撃 音 が非常 に大 きかった。 - ショルダースルー
- この
技 はほとんど相手 の反撃 にあって失敗 する。いわゆる「お約束 」的 なムーブである。相手 の攻撃 を「引 き出 す」ための動 きだが、鶴田 に比較的 余裕 のある状態 で行 われるため、やや不自然 なものであることが多 い。ブルーザー・ブロディとのシングル戦 では、双方 がショルダースルーに行 こうとしては反撃 で失敗 する「ダブルお約束 」的 シーンが見 られた。 - ジャンボ・ホイップ
- アトミック・ドロップの
体勢 で抱 え上 げ、前方 へ放 り投 げる荒 技 。菊地 が主 な犠牲 者 。ホイップせずにそのままアトミック・ドロップに行 くことも。第 一線 を退 いた後 、田上 明 がこの技 を引 き継 いだ。 - パワーボム
天龍 との1989年 4月 20日 大阪 における三 冠 ヘビー級 選手権 で、喉笛 へのチョップを何 度 も食 らったために怒 りで我 を忘 れた鶴田 が、その天龍 に対 し放 った技 。のちに「ジャンボ・リフト」の別名 がついたそのパワーボムは超 急 角度 かつハイスピードなもので、頭 から垂直 に落 とされた天龍 は口 から泡 を吹 いて失神 。直後 に天龍 の異変 に気付 いた鶴田 が慌 ててフォールし、試合 を終 わらせている。引退 後 に振 り返 った鶴田 は「これはちょっとやり過 ぎたかな」と述懐 している。
関節 技 [編集 ]
拷問 コブラツイスト通常 のコブラツイストと異 なり、かけた相手 の頬 ・側 頭部 を上 から押 さえつける。川田 との拷問 コブラ合戦 は名 場面 の一 つであった。菊地 はこの技 を文字通 り「押 し潰 される」ように受 けたという。逆 エビ固 め(ボストンクラブ)- キャリア
前半 では、ジャンピング・ニーバットからスープレックスへのつなぎ技 として多用 していた。キャリア終盤 時 は体格 差 のある菊地 へ決 めた形 が片仮名 の「コ」に見 えることから「コの字 固 め」とも呼 ばれていた。師 である馬場 の「試合 終了 間際 に攻 めている方 が強 くみえる」という教 えに沿 って、残 り時間 が30秒 を切 ってから仕掛 けることもよくあった。 - インディアン・デスロック
鶴田 が試合 の前半 から中盤 にかけて見 せていた技 で、技 をかけながら相手 選手 に張 り手 を入 れたりもする。天龍 らギブアップを取 った技 でもある。- アームブリーカー
立 ったまま脇 固 めのような体勢 で捕 らえ、飛 び上 がって相手 の体 をマットにうつ伏 せに叩 きつけ、相手 の肩 ・腕 に衝撃 を与 える。また、そのまま脇 固 めへと移行 する場合 もある。- サーフボード・ストレッチ
背後 に立 ち、相手 の両 手首 を、それぞれ自分 の腕 で掴 んで背中 側 に引 っ張 り、同時 に自分 の片足 裏 あるいは片 膝 を相手 の背面 に当 てて、そのまま相手 の体 を反 らせて背骨 にダメージを与 える技 。- ジャイアント・バックブリーカー
師匠 馬場 のオリジナル複 合 ストレッチ技 。スタンディングで後方 からコブラクラッチを決 め、そのまま相手 体 を反 らせながら自 らの片 膝 をマットに付 け、相手 の背中 を自 らの片 膝頭 に押 し付 ける、コブラクラッチとバックブリーカーの組 み合 わせた技 。
打撃 技 [編集 ]
- エルボー・バット
- エルボー・スマッシュ
- ローリング・エルボー
鶴田 が大 きな技 へのつなぎ技 、反撃 の糸口 として使 うエルボー・バットはエルボー・スマッシュと、体 を半 回転 させて打 ち込 む、今 でいうローリング・エルボーの形 に近 いものが多 かった。どちらもドリー・ファンク・ジュニアの得意 技 で、ファンクス道場 での修業 中 にドリーから教 えられたもの。- ジャンボ・ラリアット
- スタン・ハンセンのような
一撃 必殺 技 とは行 かないが、試合 の要所 でこの技 を使用 した。キャリアが中盤 になるころから使 い出 した技 。1984年 のテリー・ゴディとの一 騎 討 ちあたりから黒 いアームサポーターをしごいて放 つジャンボラリアットが誕生 したと言 われる。鶴田 のラリアットの打 ち方 は特徴 があり、通常 は下 から体 ごと伸 び上 がりながらノドを突 き上 げる。ただし、菊地 毅 のような小柄 のレスラーには肘 を曲 げて上 から体重 を乗 せるような打 ち方 をした。いずれにせよ、鶴田 の身長 を上手 く利用 した打 ち方 であった。また、長州 力 のリキラリアット同様 、使用 した当初 は腕 を痛 めたポーズをとっていた。 - ジャンピング・ニー・バット
- ダイビング・ニー・アタック
- ダブル・ジャンピング・ニー・バット
一時期 「鶴田 が相手 をロープに振 ったら90%この技 」といわれた。決 まった後 は右手 を高々 と掲 げ「オー!」と叫 んでアピールする事 がほとんど。現在 では秋山 準 が鶴田 から直接 教 わったことを明言 して、得意 技 としている。バスケの経験 から得 た跳躍 力 を活 かしている。若手 時代 は「相手 に考慮 し」当 たる瞬間 体 を横 に向 け太 もものあたりを当 てるようにしていたが、天龍 との抗 争 からそのまま真 っ直 ぐ飛 んで鋭角 的 な膝 を顔面 に叩 き込 むようになった。重要 な一 戦 ではコーナーポスト最 上段 から放 つダイビング式 [注 21]やランニング式 も使用 し、ハンセンを失神 させた事 もある。- この
技 のバリエーションとして、同時 に相手 の脳天 に肘 を落 すジャンピング・エルボ―・ニー・バットや、両 膝 でジャンプし相手 に当 てるダブル・ジャンピング・ニー・バットも一時期 使用 している。 - ダブルチョップ
- ダブルハンマーとも。
頭上 から両手 を揃 えて相手 の背中 へ張 り手 のように放 つチョップ。超 世代 軍 相手 に放 つことが多 く、その威力 と大 きな音 で場内 がどよめくことも多 かった。技 自体 は単純 だが、相手 に格 の違 いを見 せ付 ける色合 いが強 い打撃 技 である。 - ドロップキック
新人 時代 に多用 したが、キャリア中盤 以降 も印象 的 な場面 でしばしば用 いた。持 ち前 のバネを活 かした打点 の高 さ、威力 、タイミング、フォームの美 しさ、どれも随一 で若手 時代 は「日本人 No.1のドロップキックの使 い手 」と評 された。馬場 との初 対決 でこの技 を繰 り出 した時 には、あまりに高 く飛 び上 がりすぎて足 先 が馬場 の頭部 (2m9cm)を越 えてしまったこともある。- フライング・ボディシザース・ドロップ(テーズ・プレス)
- ジャンプして
相手 に飛 びついて、馬乗 りになるような状態 で背中 から叩 きつける。1983年 4月 、ルー・テーズにバックドロップを習 った際 に一緒 に教 わったもの。そのままフォールの体勢 になることも多 いが、トップロープに自 らの喉元 を打 ち付 ける誤爆 も多 かった。また長身 でジャンプ力 のある鶴田 が使 うと勢 い余 ってヒップドロップの形 で落下 してしまうこともあった。技 の説得 力 から使用 回数 の割 にフィニッシュムーブとなることが多 かった。 - タックル
- この
技 も、ほとんど相手 の反撃 にあって失敗 する。いわゆる「お約束 」的 な動 きである。コーナーに投 げた相手 に向 かってタックルをかけるべく頭 から突進 するがキックを食 らうかもしくは自爆 。決 まったことは数 えるほどしかない。 場外 でのヘッドロックから鉄柱 攻撃 - この
技 もまた、ほとんど反撃 にあって失敗 する。いわゆる「お約束 」的 な動 きである。場外 で相手 をヘッドロックにかかえたまま相手 の頭部 を鉄柱 に打 ち当 てるべく突進 。頭 を抜 かれて自分 が鉄柱 に体当 たりする。 - キチンシンク
- ロープに
振 り、戻 ってきた相手 の腹部 に膝 蹴 りを入 れる。2、3回 ほど行 うのが常 だった。長州 が全日 に参戦 していた直後 から鶴田 も使 い始 めた事 から、長州 に影響 を受 けたものと思 われる。 - レッグ・ラリアット
対 ブルーザー・ブロディ用 秘密 兵器 、という触 れ込 みで開発 された。木村 健吾 の同名 技 とはまったく違 い、ジャンピング・ニーバットが横 に流 れた形 。膝 ではなく、脛 が相手 の首 にヒットする。見 た目 がほとんどジャンピング・ニー・バットと変 わらないことからあまり評判 が良 くなかったのか、数 回 使 っただけで封印 された。延髄 斬 り相手 の延髄 めがけてジャンプをしながらハイキックを入 れる。天龍 が多用 していた技 でもある。鶴田 の場合 は軸 足 を掴 まれた状態 から放 つキャッチ式 延髄 斬 りをここ一番 で効果 的 に使 っていた。- ビッグブーツ
相手 レスラーに向 かってフロントキックをぶちかます。福沢 朗 は十 四 文 キック、若林 健治 はジャンボ・キックと呼称 していた。ライバルであったブルーザー・ブロディの死後 、折角 威力 のある技 であるし、ファンがブロディを忘 れることがないようにと使 うようにした。事実 、試合 でヘビー級 レスラーをも吹 っ飛 ばしていた。1989年 4月 20日 の三 冠 ヘビー級 選手権 では、天龍 をパワーボムで失神 させる前 に、この技 で天龍 の歯 をへし折 っている。また、馬場 とのコンビではダブル・フロントキックをよく使 っていた[注 22]。
人物 [編集 ]
現役 時代 からフォークシンガーとしてレコードを発売 したり、ファンの前 でギター片手 に歌 うこともあった。井上 陽水 の「傘 がない」をテレビで披露 したこともある。ただし、付 き添 った川田 曰 く「アンコールは無 かったんだけどね」とのことである。中央大学 へはバスケットのスポーツ推薦 でなく、一般 入試 を受 け合格 したとされている[12]。しかし中大 レスリング部 、及 びミュンヘンオリンピックレスリング代表 の同期 だった鎌田 誠 [53]や、中大 で同級生 だったミスター・ポーゴは「鶴田 はバスケットボール部 の特待 生 だった」と明言 している。自著 の受験 指南 書 『ジャンボ鶴田 の受験 は格闘技 だ』では、大学院 入試 の経験 については詳細 であるが、大学 受験 に関 しては具体 的 に語 られていない。- 1975
年 頃 に新 間 寿 が、鶴田 を新 日本 プロレスへ引 き抜 くことを計画 していた。しかしこの計画 が当時 東京 スポーツの社長 だった井上 博 や、当時 の三浦 甲子 二 テレビ朝日 専務 の怒 りを買 うことになってしまう。最終 的 に新 間 による鶴田 引 き抜 き計画 は失敗 に終 わった[54]。 - レスラー
時代 にはバラエティ番組 にもゲスト出演 していた事 もある。[注 23]また日野自動車 のトラックや、井関農機 のコンバイン「太郎 」シリーズのCMにも出演 経験 がある。 虫 が大 の苦手 であり、セミは勿論 のことで妻 の話 によると「毛虫 なんかはもってのほか」であったという[要 出典 ]。鶴田 自身 が家宝 にしていたのは坂本 龍馬 の像 であり、プロレスで得 たトロフィーや記念 盾 、パネル写真 などは無造作 に押入 れの中 へ保管 したり、欲 しい人 に差 し上 げていた。- アメリカ
遠征 中 に航空機 に搭乗 した際 、乱気流 に巻 き込 まれて墜落 するのではないかと思 った経験 から、大 の飛行機 嫌 いであった。そのため、国内 の長距離 移動 であっても鶴田 だけは航空機 を利用 せずに列車 で移動 していた。阪神 ・淡路 大震災 の発生 から2日 後 である1995年 1月 19日 開催 の大阪 府立 体育 会館 大会 は、長期 欠場 明 けの出場 となったため、東京 から大阪 まで鶴田 単独 で移動 することになったが、東海道新幹線 は京都 駅 での折 り返 し運転 となっており、大阪 へ向 かう手段 であったJR京都 線 も本 数 を減 らして運転 していたため、関西国際空港 着 の航空機 で大阪 入 りした[注 24]。その際 鶴田 は「何 年 かぶりに飛行機 に乗 った」と述 べている[55]。 若手 時代 に鶴田 の付 き人 を務 めた三沢 によると、たとえ後輩 であっても名前 を呼 び捨 てで言 ったり使 い走 りしたりはせず、誰 にでも「君 」付 けで呼 んだりするなど、先輩 風 を吹 かせたり無茶 を言 いつけたりすることも無 かったという[56]。リングを降 りるとマイペースを貫 き、若手 選手 と飲食 店 で同席 しても特 に奢 る様 なことはせずに、1人 でコンビニエンスストアの袋 を手 に持 って宿泊 施設 へ戻 るなど、プライベートでは普通 に「鶴田 友美 」として過 ごしていた[56]。生前 の三沢 と親交 があった徳光 正行 によると、三沢 は自身 の付 き人 に対 して雑用 を多 くやらせたり、小言 を口 にしたりすることも無 かったが、これは自身 が付 き人 を務 めた鶴田 が干渉 をあまりしない性格 だったことが影響 しているといい[57]、また三沢 自身 も、新人 時代 に先輩 から理不尽 な仕打 ちを受 けた経験 から「自分 は下 の人間 に対 して、同 じようなことは絶対 にしない」と心 に誓 ったのだという[58]。この「使 い分 け」は外国 人 選手 に対 しても同様 であったため、テリー・ファンクも1983年 の一 度目 の引退 のあと「馬場 の次 のボスは鶴田 ではなくて、天龍 なんだよね」と語 っていた。天龍 はプロレス転身 当初 、鶴田 から気 の良 さそうな挨拶 を受 け、後年 「ジャンボのおかげもあってこのプロレス界 にはスッと入 っていけた所 はあるよ。もしあの時 に、元 関取 でも『プロレス界 ってのは、そうはいかないんだぞ!』みたいなムードを俺 が感 じていたら、その後 のプロレスへの取 り組 み方 は変 わってたかもしれないよね」と振 り返 っている。- しかし、2016
年 に天龍 はインタビューの中 で「リングの中 で相手 を見下 したような試合 をしたり、リングの外 で“プロレスラーの鶴田 友美 です”というのが嫌 そうなジャンボを見 て、段々 と違和感 を持 つようにはなったけどね」と、1987年 春 の鶴 龍 コンビに嫌気 がさしていた頃 の様子 を語 っている。同 じインタビューで天龍 は、またリング上 で常 に余裕 のある自分 を見 せたがっていた鶴田 の生前 のその姿勢 を指摘 している[59]。
新 弟子 時代 の大 仁田 厚 は、高 い具 材 が入 っているちゃんこが道場 に用意 されても先輩 に良 い具 材 を先 に取 られてしまい、残 っているのがいつも野菜 しか残 らず落胆 することがあった。一方 、鶴田 が毎回 作 っていた「鶏 の湯豆腐 」は材料 費 が安 い分 だけ肉 が沢山 あったため、当時 新 弟子 であった大仁田 でも肉 にありつけた。また「食 べる時 は平等 だからさ」と日頃 から話 し、新 弟子 でも最初 から箸 を付 けて食 べることが出来 た。このように思 いやりのある鶴田 を大仁田 は慕 っており「おれは鶴田 さんが好 きだったよ」と、現在 も尊敬 している[60]。
- ある
時 天龍 に連 れられて懐石 料理 を食 べさせてもらったが、すぐさまおもむろに立 ち上 がってラーメンを食 べに出掛 けた。天龍 は後 に「彼 は味 が濃 くて腹 いっぱいになるものがよくて、懐石 料理 をちまちま食 っているのは性 に合 わないんだ。地方 巡業 ではどこに行 っても、その辺 でラーメンを食 べていたし、ファンの目 を気 にしないおおらかさがあった。それがジャンボらしいところだよね」と解説 している。相撲 時代 に味 を覚 えて舌 が肥 えていた天龍 とは対照 的 であった[61]。
田上 明 によると、ひどい悪 ふざけをするが後輩 の食事 は必 ず奢 ってくれる天龍 とは逆 であり、特 に奢 ることはしなかった[62]。その一方 で付 き人 時代 の三沢 によると、オフになると鶴田 に食事 に連 れて行 ってもらうことがあり「夢 を持 たせてくれたよね。"プロレスラーをやっていれば、こういう店 に来 れるんだ!"みたいなね」と回想 している[63]。
佐藤 昭雄 は、鶴田 に関 して「馬場 さんや猪木 さんの様 に『俺 の会社 なんだから、俺 が作 って、俺 が客 を一 杯 にしてやるんだ』という事 には余 り関心 が無 かったのかな。結局 リングの中 で良 い試合 をして、控室 に帰 って意気揚々 とコメントをしても、常 に馬場 さんが葉巻 を咥 えて大 きな態度 で座 っている訳 で。ジャンボにもう一 歩 、物足 りなさを感 じたのはそういう所 かもしれないね。それは何 かというと、独立 してお山 の大将 にならないと最終 段階 というのは作 れないから。その点 がジャンボには無 かったかもしれない」と語 っている[64]。
- 「ナチュラルな
強 さ」と評 される事 も多 い。弟子 の三沢 も「鶴田 さんが筋力 トレーニングをしているところを見 たことがない。おそらく好 きなテニスやバスケットボールを楽 しみながら必要 な筋肉 を付 けていたんだと思 う」と著書 の中 で述 べている[56]。生 まれ持 った運動 基礎 能力 が格段 に優 れていたようで、吉田 豪 曰 く「若 い頃 に山道 を自転車 で普通 に走 り回 り、それだけで自然 と超 人的 な体力 が付 き、特 に目立 った練習 をしないままオリンピックに出 られた人物 」である。大学 1年生 の時 に「ずっと打 ち込 んで来 たバスケでは、五輪 出場 は難 しいかも」と不安 を抱 き、バスケを辞 める事 を決意 する。しかし鶴田 は「僕 は五輪 に出 たい。種目 はなんでもいい。時間 は3年間 しかない」という強 い想 いから、各 スポーツを検討 した結果 「アマレスなら希望 がある」と想定 してレスリングを選 んだ。しかしバスケットボール特待 生 で大学 に入 った男 が「いくら頑張 っても、五輪 には出 られないから」という理由 でバスケを辞 め、レスリングを始 めるというのは理解 出来 ない事 でもあった。そのためレスリング部 は鶴田 の入部 希望 を断 っている。
入部 を断 られて途方 に暮 れてしまった鶴田 は、自衛隊 体育 学校 では一般人 でもレスリングが練習 可能 だと知 り、そこで練習 を始 める。自衛隊 学校 のコーチは鶴田 の非凡 な運動 能力 に気 づき、本腰 を入 れて指導 すると、鶴田 は経験 なしの状態 からすぐに「全日本 社会人選手権 」と「国体 」の両 大会 で優勝 を果 たした。日本 のアマレスレベルは、数 多 くのメダリストを輩出 しているように非常 に高 く、驚異 的 な事 であった。少 し前 に鶴田 の入部 を断 ったレスリング部 からは逆 に「鶴田 君 、是非 こっちに来 てくれないか?」と誘 われるようになる。鶴田 は当初 入部 する気 はなかったが、自衛隊 体育 学校 のコーチから入部 を薦 められ所属 した。
鶴田 はレスリング経験 が若干 2年 余 りで、ミュンヘンオリンピック出場 を勝 ち取 った。しかしオリンピック本戦 では、経験 不足 はどうしようにも出来 ず、戦術 の乏 しさと国際 ルールの不慣 れに戸惑 い、器用 なヨーロッパ選手 の敵 ではなく、肝心 の攻撃 がほとんど出来 る事 なく警告 負 けに終 わった。
- 1985
年 の夏 、B型 肝炎 のウィルスキャリアが判明 してから本当 にハードなトレーニングが出来 なくなり、もっぱら趣味 のスポーツで体力 を維持 していた。それに対 し天龍 はオフでも週 に5日 は練習 や稽古 を欠 かさない「稽古 の鬼 」であったが、ハードトレーニングをしなくても怪物 的 な強 さを見 せ付 ける鶴田 に「こいつと俺 らは、持 って生 まれたものが違 うんだなぁ」としみじみ思 ったという[28]。三沢 も自著 で「鶴田 さんは持 って生 まれたものが凄 すぎた。レスラーに必要 な能力 を全 て備 えていた」と語 っている。
鶴田 は自身 が肝炎 キャリアであることを自覚 していながら、周囲 のレスラーや関係 者 にはその事実 を伏 せてリングに上 がっていた。これは血液 などの体液 によって感染 するB型 肝炎 では非常 に危険 かつ非常識 な行為 と言 わざるを得 ない。
- レスリングでは
鶴田 よりも身長 が13センチ低 い[66][67]小柄 な磯貝 頼 秀 に一 度 も勝利 することが出来 なかったなど、国内 において無敵 の選手 であったとは言 い難 い面 もある。なお五輪 など国際 戦 では外国 人 選手 に全敗 している。しかし、ジャンボ鶴田 試練 の十 番 勝負 の第 7戦 目 では1972年 ミュンヘン五輪 レスリングの男子 フリースタイル120kg級 銅 メダリストのクリス・テイラーに勝利 している。
タイトル歴 [編集 ]
三 冠 ヘビー級 王座 - 3度 戴冠 - AWA
世界 ヘビー級 王座 - インターナショナル・ヘビー
級 王座 - 3度 戴冠 - UNヘビー
級 王座 - 5度 戴冠 - インターナショナル・タッグ
王座 - パートナーはジャイアント馬場 、天龍 源一郎 、谷津 嘉章 。 - PWF
世界 タッグ王座 - パートナーはタイガーマスク(2代目 )、谷津 嘉章 。 世界 タッグ王座 - 7度 戴冠 。パートナーは谷津 嘉章 (5回 )、ザ・グレート・カブキ、田上 明 (各 1回 )- NWA
認定 デトロイトタッグ王座 - パートナーはジャイアント馬場 。1980年 6月 28日 にアメリカ合衆国 デトロイトで行 われたワンナイトトーナメントで優勝 して獲得 したが、1度 も防衛 戦 を行 わずにタイトルを返上 した。 - チャンピオン・カーニバル - 2
度 優勝 。(1980年 、1991年 )
入場 テーマ曲 [編集 ]
- チャイニーズ・カンフー
- ローリング・ドリーマー - リリースした
同名 レコード曲 のインスト版 - T.T.バックドロップ - 1983
年 8月 31日 のブロディ戦 (リングアウト勝 ちによりインターヘビー級 奪取 の試合 )のみの限定 使用 - J(
作曲 :鈴木 宏昌 )- 1983年 12月から。当初 は鈴木 宏昌 録音 のオリジナル音源 が使用 されていたが、1984年 のレコード化 に伴 いカバー音源 が新 たに録音 され、会場 使用 音源 もカバー音源 に変更 された。1992年 にオリジナル音源 に戻 され引退 まで使用
音楽 [編集 ]
シングル[編集 ]
# | A/B |
タイトル | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
CBS・ソニー | |||||||
1 | 1980 3 |
A |
ローリング・ドリーマー | 06SH-737 | |||
B |
|||||||
ミノルフォン | |||||||
2 | 1981 6 |
A |
ローリング・ドリーマー(インスト) | - | KA-3015 | ||
B |
サヨナラは |
||||||
キャニオン・レコード | |||||||
3 | 1984 4 |
A |
7A-0370 | ||||
B |
なみだ |
著書 [編集 ]
- 『リングより
愛 をこめて―ジャンボ鶴田 のファッショナブル・トーク』(1981年 12月1日 、講談社 )ISBN 978-4061277694 - 『ジャンボ
鶴田 の受験 は格闘技 だ―志望校 を突破 する“七 つの必殺 ワザ”を伝授 しよう』(1996年 11月1日 、ごま書房 )ISBN 978-4341017477 - 『ジャンボ
鶴田 のナチュラルパワー強化 バイブル―プロレス流 筋力 パワーアップ・トレーニングとスーパータフネスの秘密 』(1999年 3月 1日 、ナツメ社 )ISBN 978-4816325335
関連 書籍 [編集 ]
東海林 さだお『ラーメン大好 き!!』(1982年 10月 、冬樹 社 )久 堂 一 『熱 き若武者 の叫 び―ジャンボ鶴田 "青春 マインド"』(1983年 1月 1日 、笠倉出版社 )ISBN 978-4905587743東海林 さだお『ラーメン大好 き!!(新潮 文庫 )』(1985年 8月 1日 、新潮社 )ISBN 978-4101364025黒瀬 悦 成 『ジャンボ鶴田 第 二 のゴング』(1999年 3月 1日 、朝日 ソノラマ)ISBN 978-4257035275鶴田 保子 『つぅさん、またね。―ジャンボ鶴田 を支 えた家族 の記録 』(2000年 11月1日 、ベ ースボ ール・マガジン社 )ISBN 978-4583035956
脚注 [編集 ]
注釈 [編集 ]
- ^ 2016
年 時点 の取材 によると、兄 の恒 良 は山梨 市 牧丘 町 でぶどう農園 を営 んでおり、その農園 は『ジャンボ鶴田 園 』という名称 で2022年 現在 も運営 中 である。また恒 良 も身長 が190cmの大柄 で、弟 ・友美 の196cmと変 わらぬ良 い体格 をしている。 - ^
試合 結果 の方 は、1勝 1敗 の引 き分 けという鶴田 の健闘 ぶりが際立 っていた。 - ^ これは1973
年 8月 6日 に日本 テレビのロサンゼルス支局 が、テキサス州 エルパソへ取材 に行 ってきた際 に報 じたことで注目 を浴 びた - ^ またはミサイルキックである。
- ^
当時 、NWA・AWA・WWFの世界 ヘビー級 王座 が世界 三 大 王座 と言 われていた。 - ^
翌年 鶴田 はAWA世界 王者 に就 いたが、テーズに本当 に100万 ドルを払 ったかどうかは不明 である。なお、当時 のレートで100万 ドルは2億 円 以上 になる[要 出典 ]。 - ^ 1981
年 の1-2での敗北 、1982年 のダブルフォールでの引 き分 け(この時 の試合 は一本 勝負 )。 - ^
後 のAWA王座 を奪取 するまでの間 「鶴田 が世界 に一番 近 づいた日 」と呼 ばれていた[要 出典 ] - ^
三本 勝負 の場合 は、2本 共 にピンフォ ール勝 ち、ノックアウト勝 ちもしくはギブアップ勝 ちでないと王座 は移動 しない。 - ^ 1978
年 の三 本 勝負 で鶴田 の2-1だが3本 目 が反則 勝 ちで、1980年 一本 勝負 で鶴田 の反則 勝 ち、1982年 一本 勝負 で両者 リングアウト、3試合 ともニックの防衛 である。 - ^ だが、ニックも
鶴田 の腕 を徹底的 に攻 めるなど、鶴田 に主導 権 を取 らさせず追 い詰 める試合 巧者 ぶりを発揮 し、それまでの反則 やリングアウトで勝利 するダーティーなレスラーというイメージを払拭 している。 - ^
天龍 と阿修羅 ・原 のタッグネーム。 - ^ この
試合 後 に、勝 った三沢 はリング上 で倒 れ込 んだままになっており、敗 れた鶴田 はレフェリーに抗議 している。 - ^ この
段階 で川田 を戦意 喪失 にさせてしまっており、既 に半 失神 状態 に追 い込 んでいるものの、鶴田 の怒 りは収 まらずに無理矢理 起 こして次 の攻撃 を続 けている。 - ^
鶴田 が三沢 を呼 ぶ際 の愛称 であった。 - ^ これは、
馬場 やドリーのバックドロップと同 じ形 である。 - ^
現在 で言 うところの投 げっぱなしのスタイル。 - ^
渕 正信 や蝶 野 正洋 が使用 しているタイプ。 - ^
第 8回 チャンピオン・カーニバルの決勝 で仕掛 けられたディック・スレーターが首 を負傷 してしまったのは有名 。 - ^ カール・ゴッチは『
私 は彼 (鶴田 )が騒 がれる前 からサルト(フロント)を使用 していた』と主張 しているが、ゴッチが試合 でフロントを使用 したという記録 は少 なくとも現時点 では存在 していない。 - ^ ダイビング・ニー・アタックとも
呼 ばれた。 - ^
実況 では三 十 文 キックとも呼 ばれた。 - ^
明石家 さんまがメインのトーク番組 であった「さんまのまんま」などにもゲスト出演 していた。 - ^
全日本 プロレスの他 の選手 は、前日 に興行 が行 われた愛知 県 田原 町 からバスで大阪 入 りしていた。
出典 [編集 ]
- ^
特別 対談 ジャンボ鶴田 -早川 武彦 対談 者 略歴 - ^ 『G SPIRITS Vol.42』(
辰巳 出版 ・ISBN 9784777818129)p.40 - ^ 『
全日本 プロレス中継 スペシャル』「ジャンボ鶴田 と5人 のライバル」 - ^ a b c 『G SPIRITS Vol.42』(
辰巳 出版 ・ISBN 9784777818129)p.41 - ^ a b 『G SPIRITS Vol.42』(
辰巳 出版 ・ISBN 9784777818129)p.42 - ^ 『ジャンボ
鶴田 の受験 は格闘技 だ』(ごま書房 ,1996年 ) ISBN 4-341-01747-0 - ^ ミルホンネット「ある
極悪 レスラーの懺悔 」より。 - ^ 『G SPIRITS Vol.42』(
辰巳 出版 ・ISBN 9784777818129)p.7 - ^
後 の運動 部長 となる人物 である。 - ^ a b 『G SPIRITS Vol.42』(
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天龍 さんが語 る“勝負 メシ”大 横綱 ・大鵬 の大 好物 をこっそり盗 み食 い!そのお味 は?(3/4ページ) AERAdot. 2023/06/11 07:00 (2023年 6月 11日 閲覧 ) - ^ 【レスラーめし】ファンを
熱狂 させた「四天王 プロレス」田上 明 壮絶 な闘病 体験 とステーキ屋 の話 【鶴田 と天龍 】 メシ通 2020-07-21 (2020年 8月 10日 閲覧 ) - ^
小佐野 景 浩 『至高 の三冠王 者 三沢 光晴 』(2022年 ・ワニブックス・ISBN 9784847071355)p113 - ^ 『G SPIRITS Vol.42』(
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永遠 の最強 王者 ジャンボ鶴田 』(ワニブックス・ISBN 9784847099199) - ^ Olympics at Sports-Reference.com Tomomi Tsuruta Height:6'4" (194 cm)[リンク
切 れ]Archived 2020年 4月 17日 , at the Wayback Machine. - ^ Olympics at Sports-Reference.com Yorihide Isogai Height:5'11" (181 cm)[リンク
切 れ]Archived 2020年 4月 17日 , at the Wayback Machine.
関連 項目 [編集 ]
- プロレスラー
一覧 男子 レスリング選手 一覧 鶴 藤 長 天 - ジャンボ
鶴田 試練 の十 番 勝負 清 雲 栄 純 甲斐 錦 勝 -鶴田 の叔父 に当 たる。田崎 史郎 -大学 学部 の同級生 。
外部 リンク[編集 ]
- ジャンボ
鶴田 園 山梨 観光 推進 機構 - ジャンボ鶴田 の実家 のぶどう園 - ジャンボ
鶴田 の部屋 - ウェイバックマシン(2014年 4月 22日 アーカイブ分 )(2013年 5月 13日 更新 終了 ) - プロレス
最強 王者 列伝 第 2回 ジャンボ鶴田 - ウェイバックマシン(2011年 5月 19日 アーカイブ分 ) - ジャンボ
鶴田 さん追悼 特集 - ウェイバックマシン(2001年 3月 4日 アーカイブ分 ) - ジャンボ
鶴田 - Olympedia(英語 ) - Profile at OWW
- Profile at Cagematch
鶴田 友美 -日本 レスリング協会 選手 &大会 データベース