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ふち正信まさのぶ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ふち 正信まさのぶ
渕 正信の画像
2019.11.21後楽園こうらくえん
プロフィール
リングネーム ふち 正信まさのぶ
マサ・フチ
AKA-ONI
本名ほんみょう ふち 正信まさのぶ
ニックネーム 王道おうどう伝道でんどう
あかおに
地獄じごく仕事しごとじん
ロンリーワン
ジュニアのひょう
独身どくしんおとこ
全日本ぜんにほん最後さいご良心りょうしん
色白いろじろダンディズム
かい覆面ふくめんX
身長しんちょう 183cm
体重たいじゅう 100kg
誕生たんじょう (1954-01-14) 1954ねん1がつ14にち(70さい
出身しゅっしん 福岡ふくおかけん北九州きたきゅうしゅう戸畑とばた
所属しょぞく 全日本ぜんにほんプロレス
スポーツれき レスリング
陸上りくじょう
トレーナー ジャイアント馬場ばば
ザ・デストロイヤー
コシロ・バジリ
ビル・ロビンソン
カール・ゴッチ
ルー・テーズ
マティ鈴木すずき
デビュー 1974ねん4がつ22にち
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ふち 正信まさのぶ(ふち まさのぶ、1954ねん1がつ14にち - )は、日本にっぽん男性だんせいプロレスラー福岡ふくおかけん北九州きたきゅうしゅう戸畑とばた出身しゅっしん血液けつえきがたBがた全日本ぜんにほんプロレス所属しょぞく愛称あいしょうは「フッチー」。

来歴らいれき

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八幡やはた大学だいがく付属ふぞく高校こうこう時代じだいは、レスリング陸上りくじょう競技きょうぎきたげる。八幡やはた大学だいがく進学しんがく中退ちゅうたいし、日本にっぽんプロレスへの入門にゅうもん目指めざ上京じょうきょうするが、列車れっしゃなかんだ九州きゅうしゅうスポーツにちプロの崩壊ほうかいり、ふち一旦いったん九州きゅうしゅうかえらざるをえなくなった。

1974ねん4がつ10日とおか全日本ぜんにほんプロレスに入門にゅうもん。このとし、ライバル団体だんたいであるしん日本にっぽんプロレスもすでに旗揚はたあげされていたが、にちプロ時代じだいのファンでもあるふちは「馬場ばばさん猪木いのきさんでは、スターとしてはかくがまったくちがうじゃないですか」とのちかたるほど馬場ばばあこがれており、全日本ぜんにほんプロレスをえらんだ。入門にゅうもんわずか12にち徳島とくしまけん三好みよしきゅう池田いけだまち四国電力しこくでんりょくよこ広場ひろばでのだい仁田にったあつしせんでデビューした。当時とうじは、大仁田おおにた園田そのだ一治いちじともふち若手わかて三羽烏さんばがらす一人ひとりとして頭角とうかくあらわしていった。

1980ねん海外かいがい武者むしゃ修行しゅぎょう出立しゅったつプエルトリコにて大仁田おおにた合流ごうりゅうし、1981ねん3月よりマサ・フチMasa Fuchi)のリングネームテネシーしゅうメンフィスCWA参戦さんせん[1]トージョー・ヤマモトマネージャーむかえ、大仁田おおにたとのコンビでジェリー・ローラー&ビル・ダンディーロックンロール・エクスプレスリッキー・モートン&ロバート・ギブソン)とAWA南部なんぶタッグ王座おうざあらそい、どうタイトルを通算つうさん3かい獲得かくとくした[2]出身しゅっしんは、長崎ながさき出身しゅっしん大仁田おおにたわせ広島ひろしま出身しゅっしんとされていた。

1981ねん10がつからはNWAのフロリダ地区ちくエディ・グラハム主宰しゅさいCWF)に出場しゅつじょうして、大仁田おおにたとのコンビでジャック・ブリスコ&ジェリー・ブリスコブッチ・リード&スウィート・ブラウン・シュガーなどのチームと対戦たいせん[3]。このフロリダ滞在たいざいふち全日本ぜんにほんプロレスのレスラーにはめずらしくカール・ゴッチより指導しどうけている[4]大仁田おおにた帰国きこくはプエルトリコをて、1982ねん11月より単身たんしんでミッドアトランティック地区ちくジム・クロケット・ジュニア主宰しゅさいMACW)に転戦てんせん[5]リッキー・スティムボートロディ・パイパーワフー・マクダニエルボブ・オートン・ジュニアマイク・ロトンドリック・フレアーらトップスターのジョバーつとめた[6][7]

1983ねん8がつ凱旋がいせん帰国きこくたし、アメリカでのブッカーでもあったテリー・ファンク引退いんたい試合しあいおこなわれた8がつ31にち蔵前くらまえ国技こくぎかん大会たいかいにおいて[5]チャボ・ゲレロNWAインターナショナル・ジュニアヘビーきゅう王座おうざ挑戦ちょうせん[8]。そのはジュニアに転向てんこうしたマイティ井上いのうえや、だい1UWFから移籍いせきしてきたグラン浜田はまだ、マジック・ドラゴン(ハル薗田そのだ)、2代目だいめタイガーマスクらのサポートにまわったり、怪我けがから復帰ふっきしてきた大仁田おおにた前座ぜんざ対戦たいせんするなどしていたが、2代目だいめタイガーマスクのヘビーきゅう転向てんこうけて再度さいどジュニアのおもて舞台ぶたいち、1987ねん小林こばやし邦昭くにあきから世界せかいジュニアヘビーきゅう王座おうざはつ奪取だっしゅする。以降いこう5どう王座おうざ獲得かくとくし、ふちもジュニアヘビーきゅうのトップレスラーとしての地位ちい確立かくりつする。

三沢みさわ光晴みつはるひきいるちょう世代せだいぐんジャンボ鶴田つるたひきいる鶴田つるたぐんとのこうそうでは、ふち鶴田つるたぐんについてメインイベントなどでたたかほかえいみなもとはるか大熊おおくまもとつかさらととも悪役あくやく商会しょうかい一員いちいんとして馬場ばばラッシャー木村きむららのファミリー軍団ぐんだんこうそうひろげるなど、めいバイプレイヤーとして分裂ぶんれつまえ全日本ぜんにほんささえた。木村きむら試合しあいマイクパフォーマンスでは、ふち長年ながねん独身どくしんであることをネタにされていた。なおこのあいだ1984ねん12月4にち高松たかまつ市民しみん文化ぶんかセンター開催かいさいされた「ジャパンプロレスリングチャリティー興行こうぎょう プロローグ 維新いしん夜明よあけ」に「かい覆面ふくめんX」として登場とうじょうしている[9]マシーン軍団ぐんだんあか覆面ふくめん乱入らんにゅうしてきたかい覆面ふくめんXは長州ちょうしゅうりょく対戦たいせん、わずか95びょうやぶれている。「かい覆面ふくめんX」については当時とうじから正体しょうたいふちではないかとのせつがあったが、後年こうねんふちみずか正体しょうたいとしてみとめている。

2000ねんこった選手せんしゅ大量たいりょう離脱りだつ騒動そうどうけて当初とうしょ現役げんえき引退いんたい決意けついしたが、馬場ばば元子もとこの「全日本ぜんにほんプロレスとして馬場ばばさんさん回忌かいきをやりたい」という発言はつげんけ、現役げんえき続行ぞっこう決断けつだん[10]中堅ちゅうけんレスラーとして活躍かつやくしていたふちは、トップをらざるをなくなった。

同年どうねん8がつしん日本にっぽんプロレスのG1 CLIMAX大会たいかいにおいて、ふちはスーツ姿すがたしん日本にっぽんプロレスのリングにがり、「30ねんながあいだ全日本ぜんにほんプロレスとしん日本にっぽんプロレスとのあいだには、あつかべがありました。今日きょう、そのかべをぶちやぶりにました。全日本ぜんにほんプロレスは選手せんしゅ2にんしかいませんが、看板かんばんおおきさとプライドは新日本しんにほんけてはいません!」と歴史れきしのこるマイクアピールをおこない、しん日本にっぽんプロレス現場げんば責任せきにんしゃ当時とうじ)の長州ちょうしゅうりょくかた握手あくしゅわした。このときちょう正洋まさひろ長州ちょうしゅうふちまえあらわれてリングインし、「オイ!ここはテメェのがるリングじゃねぇんだ、オラ! とっととりろ!」と激怒げきどしてこうむっていた帽子ぼうしげつけたが、ふち余裕綽々よゆうしゃくしゃく態度たいどくずさずちょうかえぎわには「ちょうわすものだ!」とちょう帽子ぼうしがえし、かくけしないいをけた。最後さいごふちは、「我々われわれげもかくれもしない! ちょうるならい!」、「しん日本にっぽんプロレスのファンの皆様みなさま、どうも大変たいへんさわがせしました!」とめくくったことから、会場かいじょうからは異例いれいだい「フッチー」コールがこった。のち全日本ぜんにほんのリングでふちちょう対戦たいせんしてやぶれはしたものの、ふち全日本ぜんにほん代表だいひょうレスラーとして価値かちあるプレーをせつけた。

しん日本にっぽんプロレスから武藤むとうたかし小島こじまさとしらが移籍いせきし、徐々じょじょ所属しょぞく選手せんしゅ団体だんたいとして活気かっき徐々じょじょもどしてくると、ふちふたた中堅ちゅうけんベテランレスラーとしてガッチリわきかため、リングがいではスポークスマンとして活動かつどう2004ねん5月22にちには、天龍てんりゅう源一郎げんいちろうとのコンビでだい76だいアジアタッグ王者おうじゃ獲得かくとくした。

ふち後述こうじゅつ世界せかいジュニア最多さいた防衛ぼうえい記録きろくもと保持ほじしゃであったが、ゆえTAKAみちのくが14度目どめ防衛ぼうえい対戦たいせん相手あいてとしてめていたのがふちであったり、以前いぜん保持ほじしゃ近藤こんどう修司しゅうじ執拗しつようふちとの世界せかいジュニアせん要求ようきゅうしていた。しかしふち体力たいりょくてきおとろえはかくせず、きくタロー荒谷あらやのぞむほまれともにおわらいスタイルのだいいち試合しあい興行こうぎょうあたためるやくてっしていた。なお、ふち自身じしんきくタローにはシングルでいちけていなかった。

ふちは、和田わだ京平きょうへいレフェリーとも団体だんたいきの人物じんぶつとして全日本ぜんにほんプロレスの看板かんばんまもとお重鎮じゅうちんでもあったが、2009ねんよりふち全日本ぜんにほんプロレスの所属しょぞくレスラーとしての契約けいやくをしていないこと同社どうしゃ取締役とりしまりやく同年どうねん辞任じにんしていたこと判明はんめいしたため、以降いこうふちはフリーランスの立場たちば全日本ぜんにほんプロレスに参戦さんせんしていた[11]契約けいやくてきには問題もんだいいため、団体だんたいへの出場しゅつじょう可能かのう実際じっさいにオファーもていたが[11]団体だんたい興行こうぎょうには出場しゅつじょうせず、全日本ぜんにほんプロレスの興行こうぎょうにのみ出場しゅつじょうしている[12]ふちは「全日本ぜんにほんプロレスが消滅しょうめつしたら、引退いんたいする」と公言こうげんもしているほど、全日本ぜんにほんあいだれにもけていなかった。

2013ねん7がつ14にち全日本ぜんにほんプロレス取締役とりしまりやく相談役そうだんやく就任しゅうにんした[13]

2014ねん還暦かんれき記念きねん特別とくべつ試合しあいを1がつに、3月には40周年しゅうねん特別とくべつ記念きねん試合しあいおこなった。12月14にち後楽園こうらくえんホールでおこなわれた全日本ぜんにほんプロレス「和田わだ京平きょうへいレフェリー40周年しゅうねん&還暦かんれき記念きねん大会たいかい和田わだ京平きょうへいプロデュース〜」では青木あおき篤志あつし世界せかいジュニアヘビーきゅう選手権せんしゅけんに5ねんぶりに挑戦ちょうせんし20ふん以上いじょうたたかったが、試合しあい青木あおきかたがためでふちがギブアップけをきっした[14]

2016ねん11月27にちふち両国りょうこく国技こくぎかん大会たいかいにて同期どうき大仁田おおにたとタッグをみ、しくも薗田そのだ命日めいにちにアジアタッグ選手権せんしゅけん試合しあい挑戦ちょうせん王者おうじゃぐみ変態へんたい自衛隊じえいたい佐藤さとうひかりとめ&青木あおき篤志あつしくみ)をやぶり、だい100だい王者おうじゃかがやいた[15]。なお、62さい10かげつ当時とうじ)での戴冠たいかんはアジアタッグ王者おうじゃ最年長さいねんちょう記録きろくとなった。

網膜剥離もうまくはくりのため2023ねん1がつ2にち試合しあい最後さいご長期ちょうき欠場けつじょうをしていたが、2023ねん9がつ8にちに8かげつぶりにリング復帰ふっき[16]

得意とくいわざ

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60さいぎてもなおおとろえず、老獪ろうかいなプレーで相手あいて翻弄ほんろうさせる。

フィニッシュ・ホールド

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バックドロップ
ふち伝家でんか宝刀ほうとう海外かいがい遠征えんせいから帰国きこくしたころ長州ちょうしゅうのようなこう角度かくどひねしきバックドロップをジャンプしながらはなっていたことから、「ジャンピング・バックドロップ」と呼称こしょうされた。しかし、バックドロップの元祖がんそであるルー・テーズから「バックドロップで大切たいせつなのはたたきつけるスピード。たかさはあまり関係かんけいない」とアドバイスされ、現在げんざい低空ていくう高速こうそくでブリッジをかせたヘソでげるタイプに変更へんこうしている。一時いちじ全日本ぜんにほんプロレスにおいては鶴田つるたスティーブ・ウイリアムス小川おがわ良成よしなりならふちもバックドロップのよんだい名手めいしゅばれた。だい一番いちばんになると連続れんぞくして相手あいてし、1ダース(12はつ以上いじょう連発れんぱつすることもあり、とくだい10代世界せかいジュニア王者おうじゃ時代じだい防衛ぼうえいせん菊地きくちあつしした10連発れんぱつは、いま伝説でんせつてきなものとなっている。
延髄えんずい
一連いちれんのコンビネーションのなかでタイミングめる。ふち場合ばあいは、元祖がんそアントニオ猪木いのきのようにタメをかせておおきくえがくようにめるのが特徴とくちょうである。かくれた名手めいしゅとしてもられ、一撃いちげきダニー・クロファットしずめたこともある。長期ちょうき政権せいけんきずいただい10代世界せかいジュニア王者おうじゃ時代じだいには、バックドロップにふちのフィニッシュとしても使用しようされていた。
フィスト・ドロップ
トップロープからのダイビングしきはここ一番いちばん使用しようしたり、長期ちょうき政権せいけんきずいただい10代世界せかいジュニア王者おうじゃ時代じだいなどにはふちかくしフィニッシュてき使用しようされていた。ヒールユニット・ブードゥー・マーダーズ一時いちじてき共闘きょうとうし、AKA-ONIを名乗なのっていたときはメインフィニッシュホールドとした。
スモール・パッケージ・ホールド(くびかため)
ふち場合ばあいは4かい、5かい連続れんぞくすことがあり、あきらめてフォールをうばわれた選手せんしゅおおい。

打撃だげきわざ

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低空ていくうドロップキック
ふち開発かいはつした相手あいてひざ関節かんせつ足元あしもとへのドロップキック。ちょう世代せだいぐんとのこうそうさいひざ古傷ふるきずかかえている三沢みさわはなったのが最初さいしょであり、現在げんざいはプロレスにかせないものとなった。
フロントハイキック
ふち場合ばあいは、容赦ようしゃ相手あいて顔面がんめんをリングシューズのうらける。相手あいてとの間合まあいのかた絶妙ぜつみょうである。
ナックル・パート
猪木いのきのナックル・アローのようおおきくりかぶり、タメをつくって一気いっき頭部とうぶこぶしなぐける。本来ほんらい反則はんそくわざ
ヘッドロック・パンチ
相手あいてをヘッドロックにらえ、レフェリーにえないように反則はんそく顔面がんめんパンチをはなつ。相手あいてふち反則はんそくをレフェリーにうったえるも、ふち反則はんそくではないてのひらそこをアピールするのがお約束やくそく(そのさい観客かんきゃくからはアピールにわせ「パー」とコールががる)。

わざ

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ボディスラム
滞空たいくう時間じかんながいハイアングルしきわざはなったのち観客かんきゃくあふられて、こしいたみにえる仕種しぐさまじえつつふたたわざをかけてこたえることもある。ちょう世代せだいぐんとのこうそうは、コーナーへ顔面がんめんをぶつけるタイプ(スタンガン)や、トップロープや鉄柵てっさく喉元のどもとをぶつけるタイプ(ギロチン・ホイップ)も使用しようした。
ダブルアーム・スープレックス・ホールド
1980年代ねんだい後半こうはんから1990年代ねんだいにかけて、ふちのフィニッシュとして多用たようした。前述ぜんじゅつバックドロップや延髄えんずいりとならわざとし、10代世界せかいジュニア王者おうじゃ時代じだい防衛ぼうえいせんでもわざとしてなん使用しようした。しかし、1990年代ねんだいなかばに使用しよう頻度ひんど減少げんしょうし、しだいに使用しようする機会きかいもなくなった。
カーフ・ブランディングうし焼印やきいんし)
1985ねんころより使つかし、ダイナマイト・キッドらによく仕掛しかけていたが、ふちが「あかおに」と異名いみょうもらはじめたころより派手はでわざはじめたため、封印ふういん状態じょうたいになっている。
ジャンピングしきドリル・ア・ホール・パイルドライバー
全盛期ぜんせいきにここ一番いちばんせることがあり、長期ちょうき政権せいけんきずいただい10代世界せかいジュニア王者おうじゃ時代じだいなどにはフィニッシュとしたこともある。
ジャーマン・スープレックス
ふち海外かいがい遠征えんせいより帰国きこくしたさい得意とくいわざとしていた。しかも、ゴッチ直伝じきでんをアピールするように「ドイツしき敬礼けいれいした状態じょうたいのままブリッジしたあしかたち」である。

わざさえわざ

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フェイスロック
三沢みさわ得意とくいとするステップ・オーバーしきばれる、すわっている相手あいてうしろから片足かたあし相手あいて片腕かたうでまえしてりかかるようにしてきわめる顔面がんめんめ。じつは、三沢みさわとの練習れんしゅうちゅう二人ふたり考案こうあんした型式けいしきでもある。
顔面がんめんみつけ
仰向あおむけの相手あいて顔面がんめん片足かたあしみにじる。挑発ちょうはつ意味いみおおきいわざ
ジャイアント・バックブリーカー
コブラクラッチとバックブリーカーのわせたストレッチわざで、ふち師匠ししょう馬場ばばのオリジナルわざであった。
各種かくしゅ拷問ごうもん関節かんせつわざ
ふち若手わかて時代じだい指導しどうけたゴッチ直伝じきでんで、そのかずは48実際じっさいのところは不明ふめい)におよぶとわれる。代表だいひょうてきなものとしてはコーナーじょう相手あいて仰向あおむけにかせてそのうえりかかり、片足かたあし相手あいてあごみつけ、もう片方かたがたあし相手あいて片足かたあしみつけてりかかるようにして、相手あいてをコーナーポストを支点してんゆみりにしていためつけるものがある。
わきかた
またき(レッグ・スプレッド)
チキンウィング・アームロック
グラウンドで、うつせの相手あいてにリバース状態じょうたいめるものが得意とくい
スタンディング・クラッチ(ひざがため)
すわっている相手あいて後方こうほうち、相手あいてりょうかたをまたいで相手あいてくびうしろにすわむ。その状態じょうたいから相手あいて片足かたあしつかみ、自分じぶんほうせながらげる。ひざ股間こかんのほか、くびにもダメージがある。1990年代ねんだい前半ぜんはんいたわざとして多用たようし、世界せかいジュニア王者おうじゃ時代じだいにはフィニッシュとなったこともある。当時とうじふち拷問ごうもん関節かんせつわざ代表だいひょうてきわざだった。
各種かくしゅさえわざ
前述ぜんじゅつのスモール・パッケージ・ホールド(くびかため)のほか、ふちはジャックナイフしきエビかため、サムソン・クラッチ、さかさえ回転かいてんエビかた後方こうほう回転かいてんエビがためなど様々さまざまかたわざ得意とくいとする。2000年代ねんだいなか以降いこうは、スモール・パッケージ・ホールドを多用たようしている。

入場にゅうじょうきょく

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タイトルれき

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全日本ぜんにほんプロレス
だい10代王座おうざ時代じだい在位ざいい期間きかん3ねん7ヶ月かげつ歴代れきだい最長さいちょうで、防衛ぼうえいすう14かいは28だいカズ・ハヤシ更新こうしん(17かい)されるまでは、最多さいた記録きろくだった。
CWA
  • AWA南部なんぶタッグ(パートナーはだい仁田にったあつし
  • NWA南部なんぶタッグ(パートナーはだい仁田にったあつし
プロレス大賞たいしょう
  • 努力どりょくしょう(1976ねん
  • 努力どりょくしょう(1983ねん

その

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  • 婚姻こんいんれきまったく、『週刊しゅうかんゴング』や『週刊しゅうかんプロレス』の読者どくしゃコーナーに度々どどふち独身どくしんネタが投稿とうこう掲載けいさいされることがあるほか、ラッシャー木村きむらからネタにされたこともおおい。えいはじめが「ふち結婚けっこんしないのは、マザコンだからだよ!」とネタにしている。
  • ふち開発かいはつした低空ていくうドロップキックおおくのプロレスラー、とくにジュニアヘビーきゅうのファイトスタイルにきわめておおきな影響えいきょうおよぼしている。低空ていくうドロップキックと無数むすう関節かんせつ・ストレッチわざ、ナックルパートや顔面がんめんキック、アトミック・ドロップの体勢たいせいからの急所きゅうしょ攻撃こうげきなど、テクニックとラフをそなえた観客かんきゃくつよ刺激しげきするファイトスタイルを確立かくりつしてジュニアのみならず三沢みさわらヘビーきゅうとも堂々どうどうわたい、以後いごふちは「あかおに」の異名いみょうった。
  • 低空ていくうドロップキックはちょう世代せだいぐんとのたたかいのなかでクローズアップされたが、その原型げんけいひだり膝蓋骨しつがいこつ粉砕ふんさい骨折こっせつによる欠場けつじょうから復帰ふっきしてきた大仁田おおにたたいし、連日れんじつタッグマッチで対戦たいせんまれていたころ出来上できあがった。この攻撃こうげきについては当時とうじ、「かわいそう」「(せっかく復帰ふっきしたのに)そこまでやらなくても…。」との批判ひはんもあったが、攻撃こうげき仕掛しかけるふちも、ける大仁田おおにたも「プロなら当然とうぜんこと」とコメントしていた。
  • 全日本ぜんにほんプロレス入門にゅうもん前後ぜんこうには、神奈川かながわけん茅ヶ崎ちがさき在住ざいじゅうしており、そこから道場どうじょうかよっていた。ふちがアマレス出身しゅっしんであったこともあり、おなじアマレス出身しゅっしんふちよりさき入門にゅうもんしていた鶴田つるたとは、全日本ぜんにほんプロレスの初期しょきによくスパーリングしていたことをかたっている[17]
  • ふち全日本ぜんにほんプロレス出身しゅっしんとして数少かずすくないカール・ゴッチの指導しどうけたレスラーだが、ゴッチからくびきたえること重要じゅうようという理由りゆうで、ひたすらブリッジをやらされたと回想かいそうしている。
  • 大仁田おおにた馬場ばばびとだったころふち馬場ばばれられて大仁田おおにたさんにん寿司すしべにったが、大仁田おおにた使つかって馬場ばばよりもワンランクのネタをたのんでいた。しかしふちは、無礼講ぶれいこうとはいえウニイクラだいトロなど遠慮えんりょせずに次々つぎつぎ注文ちゅうもんしてしまう。あきれてしまった馬場ばば食事しょくじに「おう、大仁田おおにたぁ、ふちはもう二度にどと(お寿司すしさんには)れてかないぞ」とげている[18]
  • 一時期いちじき全日本ぜんにほんプロレス中継ちゅうけいでの解説かいせつつとめたことがあるが(1991 - 1992ねんごろ)、基本きほんてきおおやけでの発言はつげんはあまりられず、無口むくち口下手くちべた印象いんしょうあたえていた[独自どくじ研究けんきゅう?]。しかし2000ねん8がつしん日本にっぽんプロレスのG1 CLIMAX両国りょうこく国技こくぎかんでの観客かんきゃくたいするマイクアピール、さらにはちょうたいするパフォーマンスはこれまでのふち印象いんしょうをガラリとえるものであり、会場かいじょうしん日本にっぽんファンからもだい喝采かっさいびた。
  • 生前せいぜん志村しむらけんとはだい親友しんゆうであった。
  • 2007ねん1がつ4にちおこなわれたしん日本にっぽんドーム大会たいかいで、実況じっきょうアナから「全日本ぜんにほん最後さいご良心りょうしん」や「色白いろじろダンディズム」という、なぜかいままでわれたことのないニックネームでばれていた。
  • だいキティちゃんきとしてもられ、一時いちじ全日本ぜんにほんのスポンサーでもあるあすなろしゃからつくってもらった世界せかいいちちゃくしかないキティちゃんのガウンを入場にゅうじょうしていた。デザインはキティちゃんのかお胴体どうたいヘビのようなものが背中せなかかれたブルゾンである。
  • 場内じょうないの「フッチー(チャチャチャ) フッチー(チャチャチャ)」のコールは定番ていばんである。
  • むね皮膚ひふよわく、小島こじまカズ・ハヤシぎゃく水平すいへいチョップ胸板むないたになっている姿すがた度々たびたびられる(ニックネームの“あかおに”もこれに由来ゆらいする)。
  • 諏訪すわからは、一番いちばん苦手にがてつよ相手あいてわれている。理由りゆうなどをすべてっていく実力じつりょくがあるため。
  • 2019ねん5月3にち埼玉さいたまけん加須かぞ観光かんこう大使たいし就任しゅうにんした。
  • テリー・ファンク死去しきょさいには「わたしはん世紀せいきのレスラー人生じんせい一番いちばん世話ぜわになった外国がいこくじんレスラーはデストロイヤーとテリー・ファンク。1981ねん3がつ、(米国べいこく・テキサスの)アマリロで1カ月かげつ以上いじょう自宅じたく居候いそうろうさせてもら大仁田おおにたあつしくんともども世話せわになった。おもおおすぎる」とコメントをせている[19]

著書ちょしょ

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メディア出演しゅつえん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Memphis Wrestling History 1981”. Memphis Wrestling History. 2011ねん9がつ19にち閲覧えつらん
  2. ^ AWA Southern Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2011ねん9がつ19にち閲覧えつらん
  3. ^ The CWF matches fought by Masanobu Fuchi in 1982”. Wrestlingdata.com. 2023ねん12月24にち閲覧えつらん
  4. ^ 『Gスピリッツ Vol.25』P39(2012ねん辰巳たつみ出版しゅっぱんISBN 4777810615
  5. ^ a b 『Gスピリッツ Vol.70』P20(2023ねん辰巳たつみ出版しゅっぱんISBN 4777831043
  6. ^ The WCW matches fought by Masanobu Fuchi in 1982”. Wrestlingdata.com. 2023ねん12月24にち閲覧えつらん
  7. ^ The WCW matches fought by Masanobu Fuchi in 1983”. Wrestlingdata.com. 2023ねん12月24にち閲覧えつらん
  8. ^ AJPW Super Power Series 1983 - Tag 11”. Cagematch.net. 2023ねん12月24にち閲覧えつらん
  9. ^ ふち正信まさのぶ④】ついに!かい覆面ふくめん正体しょうたいあきらかに?! - 木原きはらオヤジのプロレスはなそうぜ!inジャイアント馬場ばばバル
  10. ^ ふち正信まさのぶ王道おうどうブルース』徳間書店とくましょてん、2022ねん3がつ29にち、237-239ぺーじISBN 978-4198653903 
  11. ^ a b 別冊べっさつ宝島たからじま『プロレスだい貧民ひんみん』のふち正信まさのぶインタビューより
  12. ^ 数少かずすくない例外れいがいとして、2013ねん5月11にち開催かいさいされた小橋こはし建太けんた引退いんたい興行こうぎょうで、小橋こはし本人ほんにんからの直接ちょくせつのオファーにより、小橋こはし引退いんたい興行こうぎょうならと快諾かいだく出場しゅつじょうしている。
  13. ^ ふち取締役とりしまりやく相談役そうだんやくに「生涯しょうがい全日本ぜんにほん デイリースポーツ 2013ねん7がつ15にち
  14. ^ 試合しあいリポート 全日本ぜんにほん12・14後楽園こうらくえん」、『週刊しゅうかんプロレス』No.1771、スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ平成へいせい26ねん12月31にちごう(12月17にち発行はっこう)、29ぺーじ、2014ねん
  15. ^ だい100だいアジアタッグ王者おうじゃぐみだい仁田にったあつしふち正信まさのぶがハル薗田そのださんの命日めいにち前日ぜんじつ君臨くんりん”. バトル・ニュース (2016ねん11月28にち). 2021ねん8がつ30にち閲覧えつらん
  16. ^ 栗田くりた尚樹なおき (2023ねん9がつ8にち). “全日本ぜんにほんふち正信まさのぶかえってきた!網膜剥離もうまくはくりから8カ月かげつぶりのリングで白星しろぼし「いやあ、きついね」 - プロレス : 日刊にっかんスポーツ”. nikkansports.com. 2023ねん9がつ9にち閲覧えつらん
  17. ^ Gスピリッツ No.17『追憶ついおく昭和しょうわ全日本ぜんにほん』(辰巳たつみ出版しゅっぱん)のふち正信まさのぶインタビューより
  18. ^ 「おれは鶴田つるたさんがきだった」なみだのカリスマ・大仁田おおにたあつ。その波乱万丈はらんばんじょうなレスラー人生じんせい【レスラーめし】 メシどおり 2019-01-16(2020ねん1がつ6にち閲覧えつらん
  19. ^ 全日本ぜんにほんふち正信まさのぶ、テリー・ファンクさん死去しきょに「一番いちばん世話ぜわになった外国がいこくじんレスラー」 日刊にっかんスポーツ 2023ねん8がつ24にち1419ふん (2023ねん8がつ24にち閲覧えつらん)

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