(Translated by https://www.hiragana.jp/)
ストロング小林 - Wikipedia コンテンツにスキップ

ストロング小林こばやし

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ストロング小林こばやし
プロフィール
リングネーム ストロング小林こばやし
コリアン・アサシン
覆面ふくめん 太郎たろう初代しょだい
小林こばやし 省三しょうぞう
本名ほんみょう 小林こばやし 省三しょうぞう
ニックネーム 怒濤どとう怪力かいりき
怪力かいりき無双むそう
身長しんちょう 187cm
体重たいじゅう 125kg(ぜん盛時せいじ
誕生たんじょう (1940-12-25) 1940ねん12月25にち
死亡しぼう (2021-12-31) 2021ねん12月31にち(81さいぼつ
出身しゅっしん 東京とうきょう文京ぶんきょう本郷ほんごう
スポーツれき ボディビル
トレーナー 吉原よしはらいさお
マティ鈴木すずき
デビュー 1967ねん7がつ27にち
引退いんたい 1984ねん8がつ26にち
テンプレートを表示ひょうじ

ストロング小林こばやし(ストロングこばやし / Strong Kobayashi1940ねん12月25にち - 2021ねん12月31にち)は、日本にっぽんもとプロレスラータレント本名ほんみょうおよびきゅうリングネームは小林こばやし 省三しょうぞう(こばやし しょうぞう)。

現役げんえき選手せんしゅ時代じだいはパワーファイターとして活躍かつやくし、1970年代ねんだい前半ぜんはん国際こくさいプロレスではエースをつとめ、しん日本にっぽんプロレス移籍いせきもメインイベンターの一角いっかくになった。アメリカのマットかいにおいても、AWAWWWF(げん:WWE)などのメジャーテリトリーにおいて実績じっせきのこしている[1][2]

セミリタイア俳優はいゆうタレント転身てんしん1982ねん映画えいが伊賀いがしのぶ法帖ほうじょう出演しゅつえんをきっかけに、ストロング金剛こんごう(ストロングこんごう)の芸名げいめい活動かつどう[3]。2003ねんからはふたたびストロング小林こばやし芸名げいめい活動かつどうしていた。

来歴らいれき

[編集へんしゅう]

国際こくさいプロレス時代じだい

[編集へんしゅう]

東京とうきょう文京ぶんきょう本郷ほんごうまれ[4]どう青梅おうめ疎開そかいし、終戦しゅうせんもそのまま同地どうちそだった。中学ちゅうがく時代じだい相撲すもう部屋へやからスカウトがたがことわ[5]東京とうきょう都立とりつ農林のうりん高等こうとう学校がっこう卒業そつぎょう国鉄こくてつ就職しゅうしょくし、稲城長沼いなぎながぬまえき勤務きんむちち国鉄こくてつ勤務きんむしていた[6]勤務きんむかたわら、プロレスラー力道山りきどうざんぎゃく三角形さんかっけい肉体にくたいあこがれてボディビル[5]1966ねん10月、友人ゆうじん出場しゅつじょうしたボディビル大会たいかい会場かいじょうで、国際こくさいプロレス社長しゃちょう吉原よしはらいさお出会であい、その吉原よしはらマティ鈴木すずきにスカウトされ[7]団体だんたい旗揚はたあ間近まぢか同年どうねん11がつ1にち入門にゅうもん。そのボディビル大会たいかいには、のちしん日本にっぽんプロレスのレフェリーをつとめることになるミスター高橋たかはし出場しゅつじょうしていた[8]。プロレスラー転向てんこうかんしては、家族かぞくからプロレスラーになるために国鉄こくてつ退職たいしょくするのを反対はんたいされ、最終さいしゅうてき親戚しんせきまでんで説得せっとくしたという[9]ヒロ・マツダびととして全国ぜんこく巡業じゅんぎょう同行どうこうよく1967ねん7がつ27にちマスクマンの「覆面ふくめん太郎たろう」として大磯おおいそ相手あいてにデビュー。日本人にっぽんじんでデビューした覆面ふくめんレスラーだい1ごうとなるが[10]1968ねん1がつ3にち、TBSによる国際こくさいプロレスのテレビ放映ほうえい開始かいし同時どうじ素顔すがおになった[11]

当時とうじのブッカーだったグレート東郷とうごう国際こくさいプロレスと決別けつべつして帰国きこくするさい東郷とうごうからアメリカきを打診だしんされたが、そのさそいをことわ[7]、1968ねん10がつヨーロッパへのはつ海外かいがい修行しゅぎょう出発しゅっぱつ。その帰国きこく遠征えんせいかえなか実力じつりょくげ、パリでのIWA世界せかいタッグ王座おうざ奪取だっしゅ1969ねん5月18にちゆたかとうんでモンスター・ロシモフ&イワン・ストロゴフ勝利しょうり[12]東京とうきょうでのUSAヘビーきゅう王座おうざ獲得かくとく(1969ねん10がつ14にちバディ・コルトから奪取だっしゅ[13]アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくミネソタしゅうダルースでのIWA世界せかいヘビーきゅう王座おうざ戴冠たいかん1971ねん6月19にちぜん王者おうじゃビル・ミラー[14]1972ねんだい4かいIWAワールド・シリーズ優勝ゆうしょう決勝けっしょう相手あいてはロシモフ)などの実績じっせききずき、国際こくさいプロレスのエースに君臨くんりんする。当時とうじ国際こくさいプロレスの提携ていけい団体だんたいだったAWA総帥そうすいバーン・ガニアAWA世界せかいヘビーきゅう王座おうざにも、1970ねん2がつ大阪おおさか東京とうきょう連続れんぞく挑戦ちょうせん[15]。1971ねんのアメリカ遠征えんせいにおいても、ミネアポリスシカゴデンバーウィニペグミルウォーキーなど各地かくち再三さいさん挑戦ちょうせんした[16]。IWA世界せかいヘビーきゅう王者おうじゃとして凱旋がいせん帰国きこくするさいも、ガニアからはアメリカにのこるよう慰留いりゅうされたという[17]

IWA世界せかいヘビーきゅう王座おうざは1971ねん6がつ獲得かくとくからワフー・マクダニエルやぶれる1973ねん11月9にちまで2ねん6かげつあいだ保持ほじブラックジャック・ランザレッド・バスチェンバロン・フォン・ラシクジェリー・ブラウンダスティ・ローデスダン・ミラーカーティス・イヤウケアビル・ロビンソンクラッシャー・リソワスキーホースト・ホフマンマッドドッグ・バションエドワード・カーペンティアイワン・コロフディック・マードックぜん王者おうじゃミラー、そして同門どうもんラッシャー木村きむらなどの強豪きょうごう挑戦ちょうせんしゃに、25かい防衛ぼうえい記録きろくしている[18]。この記録きろくは、ジャイアント馬場ばばインターナショナル・ヘビーきゅう王座おうざ21かい連続れんぞく防衛ぼうえいやぶ当時とうじ日本人にっぽんじんしん記録きろくであった。しかし、のち馬場ばばPWFヘビーきゅう王座おうざの38かい連続れんぞく防衛ぼうえい達成たっせいかえした[19]

そのあいだ1972ねん7がつ7にちには、木村きむら返上へんじょう空位くういとなっていたIWA世界せかいタッグ王座おうざ決定けっていせんにおいて、グレート草津くさつとのしんコンビでミラー&バロン・シクルナやぶり、どう王座おうざへの2度目どめ戴冠たいかんたす。以後いご、シングルとタッグのIWA2かんおうとして、1973ねん4がつ18にちにバション&コロフにやぶれるまで、バディ・オースチン&ビル・ドロモディック・ザ・ブルーザー&クラッシャーなどのチームを相手あいてに6かい防衛ぼうえいせんおこなった[20]

国際こくさいプロレスの象徴しょうちょうでもあった金網かなあみデスマッチには、1971ねん10がつ26にちダニー・リンチせんはつ挑戦ちょうせん国際こくさい所属しょぞく選手せんしゅでは木村きむらサンダー杉山すぎやまいで3にん[21]以降いこう、IWA世界せかいヘビーきゅう王座おうざ防衛ぼうえいせんでは1972ねん1がつ27にちのイヤウケアせん同年どうねん11がつ28にちのクラッシャーせん、1973ねん1がつ16にちのザ・プロフェッショナル(ダグ・ギルバート)せん同年どうねん3がつ16にちのバションせんの4試合しあい金網かなあみデスマッチでおこなわれた。ノンタイトルせんでもオースチン、ドロモ、ベンジー・ラミレス、バスチェン、ターザン・タイラーラーズ・アンダーソン、ローデス、スカンドル・アクバ、マードック、ブラックジャック・マリガンなどと金網かなあみデスマッチで対戦たいせんした。

しん日本にっぽんプロレス時代じだい

[編集へんしゅう]

1973ねん11月30にちにマクダニエルからIWA世界せかいヘビーきゅう王座おうざ奪還だっかんし、1974ねん1がつ14にちと1がつ19にちカウボーイ・ビル・ワット相手あいてに2防衛ぼうえい成功せいこう[18]団体だんたい屋台骨やたいぼねとして順調じゅんちょう活躍かつやくしていた矢先やさき、『'74パイオニア・シリーズ』最終さいしゅうせん当日とうじつである1974ねん2がつ1にち国際こくさいプロレスへ辞表じひょう提出ていしゅつ[22]同年どうねん2がつ13にち小林こばやしはフリー宣言せんげんしてジャイアント馬場ばばアントニオ猪木いのきへの挑戦ちょうせん表明ひょうめいし、両者りょうしゃ内容ないよう証明しょうめい郵便ゆうびん挑戦ちょうせんじょうおくけ、IWA王座おうざ返上へんじょうして国際こくさいプロレスを退団たいだんした[23][24]。この事件じけん小林こばやしきを画策かくさくしていたしん日本にっぽんプロレス仕組しくんだシナリオであったとされているが[24]離脱りだつ背景はいけいにはマッチメーカーのグレート草津くさつとの確執かくしつがあり[25]小林こばやし自身じしんも「だれかの横槍よこやり吉原よしはら社長しゃちょう冷遇れいぐうされるようになり、以前いぜんから離脱りだつかんがえていた」などとかたっている[26]。また、2016ねんおこなわれただい位山くらいやま勝三かつぞう鶴見つるみ五郎ごろう対談たいだんでも、草津くさつ小林こばやしとの関係かんけいくなかったことがかされており、鶴見つるみによると草津くさつは、自身じしん団体だんたいのエースになれなかった嫉妬しっとしんから小林こばやしのことを随分ずいぶんいじめていたようであり、八戸はちのへから苫小牧とまこまいへのフェリーのふねちゅうで、さけって「おい小林こばやし、おまえだれのおかげでうえれてるとおもってんだ!」とからし、活字かつじ出来できないような罵詈ばり雑言ぞうごんびせたという[27]小林こばやし国際こくさいプロレス退団たいだん直後ちょくごしん日本にっぽんプロレスはすぐさまうごき、しんあいだ寿ことぶき小林こばやしとの極秘ごくひ交渉こうしょう開始かいしした一方いっぽうで、全日本ぜんにほんプロレスも『月刊げっかんプロレス編集へんしゅうちょうであった藤澤ふじさわ久雄ひさお依頼いらいして、しん日本にっぽん参戦さんせん阻止そしするよう依頼いらいした[28]。これをけて、同年どうねん3がつ8にちには吉原よしはら社長しゃちょう会見かいけんじょう小林こばやし契約けいやく違反いはん主張しゅちょう[23]国際こくさいプロレスは小林こばやしたい移籍いせききん要求ようきゅうするという事態じたい発展はってんしたが、当時とうじしん日本にっぽんプロレスは、テレビ中継ちゅうけい開始かいし旗揚はたあからの借金しゃっきんいまだにかかえており、違約いやくきん支払しはらえる余裕よゆうはなかった[24]最終さいしゅうてき東京とうきょうスポーツ新聞しんぶんしゃ仲介ちゅうかいはいり、東京とうきょうスポーツが1000まんえん国際こくさいプロレスに支払しはらうことで和解わかい一時いちじてき小林こばやし東京とうきょうスポーツ所属しょぞくのレスラーとなる[28][29]馬場ばば猪木いのき日本にっぽんプロレス離脱りだつ発行はっこう部数ぶすうちていた東京とうきょうスポーツにとっても、猪木いのきとのシングルマッチの開催かいさい発行はっこう部数ぶすう回復かいふく起爆きばくざいとして期待きたいされた[24]小林こばやし国際こくさいプロレス退団たいだんTBSTWWAプロレス中継ちゅうけい』における小林こばやし出場しゅつじょう試合しあい中継ちゅうけい問題もんだいなく同年どうねん2がつ16にち・3月9にち・3月16にちにそれぞれ放送ほうそうされた[30]

同年どうねん3がつ19にち蔵前くらまえ国技こくぎかんにおいて猪木いのきとのシングルマッチがおこなわれ、猪木いのき保持ほじするNWF世界せかいヘビーきゅう王座おうざ挑戦ちょうせん日本人にっぽんじん選手せんしゅ同士どうし団体だんたいエース同士どうしのタイトルマッチとして、おおきな話題わだいんだ(同門どうもん対決たいけつのタイトルマッチとしては、小林こばやしは1973ねん7がつ9にち大阪おおさか府立ふりつ体育館たいいくかんにおいてラッシャー木村きむら相手あいてにIWA世界せかいヘビーきゅう王座おうざ防衛ぼうえいせんおこなっている)。結果けっか猪木いのきジャーマン・スープレックス・ホールドやぶれる[31]。なおこのときのジャーマンは猪木いのきブリッジさいくびだけで二人ふたりぶん体重たいじゅうささえ、猪木いのきのレスラー人生じんせいなかもっと危険きけんかつうつくしい角度かくどまったといわれている。試合しあい当日とうじつは、しんあいだ同伴どうはんうえ会場かいじょうりしたという[28]。そのWWWFなどへの海外かいがい遠征えんせいて、同年どうねん12がつ12にちおなじく蔵前くらまえ国技こくぎかん再戦さいせんおこなわれたがまたもや敗退はいたい1975ねん5月、敗戦はいせん公約こうやくどおり新日本しんにほん正式せいしき入団にゅうだんした。

なお、WWWFではフレッド・ブラッシーマネージャーヒールとして活動かつどうし、1974ねん9がつ21にちフィラデルフィアにてブルーノ・サンマルチノWWWFヘビーきゅう王座おうざ挑戦ちょうせん[32]ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンにおける定期ていきせんでは、10月7にちキラー・コワルスキーんでアンドレ・ザ・ジャイアント&ビクター・リベラ対戦たいせん、11月18にちにはペドロ・モラレスとのシングルマッチもまれた[1][33]。WWWFりするまえの1974ねん5がつから7がつにかけてはNWAフロリダ地区ちくエディ・グラハム主宰しゅさいチャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ)を短期間たんきかんサーキットし、韓国かんこくじん選手せんしゅパク・ソンのタッグパートナーとして覆面ふくめんレスラーの「コリアン・アサシンThe Korean Assassin)」に変身へんしん覆面ふくめん太郎たろう以来いらいとなるマスクマンにふんした(マネージャーはゲーリー・ハート[26]どう時期じき、フロリダに遠征えんせいしてきた馬場ばばとも邂逅かいこうしており、そのさい全日本ぜんにほんプロレスりを打診だしんされたという[26]。しかし、前述ぜんじゅつ経緯けいいから小林こばやし東京とうきょうスポーツに恩義おんぎかんじており、しん日本にっぽんプロレスのリングにがることにした。

しん日本にっぽんプロレス入団にゅうだん坂口さかぐちせいとタッグをみ、1976ねん2がつ5にちNWA北米ほくべいタッグ王座おうざ獲得かくとく[34]以後いご3ねん2かげつわたり、モラレス&リベラ、コロフ&スーパースター・ビリー・グラハムパット・パターソン&ラリー・ヘニングスタン・ハンセン&ザ・ハングマンブルート・バーナード&キラー・カール・クラップピーター・メイビア&ヘイスタック・カルホーンボブ・ループ&クルト・フォン・ヘスなどの強豪きょうごうチームを相手あいて防衛ぼうえいタイガー・ジェット・シン&上田うえだすけともどう王座おうざめぐこうそうひろげ、しん日本にっぽんプロレスにおいて猪木いのき坂口さかぐち主力しゅりょくレスラーとして人気にんきはくした。当時とうじのキャッチフレーズは「怒濤どとう怪力かいりき」。しかし、腰痛ようつう悪化あっかもあって1979ねんには坂口さかぐちのパートナーの長州ちょうしゅうりょくゆずるなど、徐々じょじょにトップグループから退しりぞいていった。なお、1978ねん以降いこうしん日本にっぽんプロレスと国際こくさいプロレスの対抗たいこうせんさいしてはしん日本にっぽん一員いちいんとして国際こくさいぜいたたかっており、1979ねん8がつ26にちプロレスゆめのオールスターせんでは、当時とうじ国際こくさいのエースだった木村きむらとの久々ひさびさ対戦たいせん実現じつげん1980ねん6月29にちには、アニマル浜口はまぐち返上へんじょうして空位くういとなっていたIWA世界せかいタッグ王座おうざしん王者おうじゃチーム決定けっていせんえいみなもとはるかんで出場しゅつじょうジプシー・ジョー外国がいこくじん選手せんしゅ乱入らんにゅうマイティ井上いのうえ&寺西てらにしいさむくだし8ねんぶりにどう王座おうざかえいたが、半月はんつきの7がつ15にち井上いのうえ&浜口はまぐち奪還だっかんされた。

しん日本にっぽんプロレスでは役員やくいんにも就任しゅうにんするが[5]1981ねん10月16にち大分おおいた県立けんりつ総合そうごう体育館たいいくかんでの試合しあい星野ほしの勘太郎かんたろうんでのアブドーラ・ザ・ブッチャー&バッドニュース・アレンせん)を最後さいご[26]腰痛ようつう理由りゆう長期ちょうき欠場けつじょうし、レスラー活動かつどうはセミリタイア状態じょうたいとなる。同時どうじ俳優はいゆう・タレントとしての活動かつどうはじめ、1982ねん映画えいが伊賀いがしのぶ法帖ほうじょう』に出演しゅつえんしたさい役名やくめいが「きむつよしぼう」であったことから「ストロング金剛こんごう」に改名かいめいし、スキンヘッドとなる[35]以降いこう試合しあい出場しゅつじょうすることはなかったが、同年どうねん9がつ21にち大阪おおさか府立ふりつ体育館たいいくかんにおける猪木いのきvs木村きむらかみりデスマッチにおいて観客かんきゃくせきから国際こくさい軍団ぐんだん加勢かせいし、場外じょうがい乱闘らんとうさいにセコンドの浜口はまぐちにハサミをわたして観客かんきゃくのヒートをった。その復帰ふっき期待きたいされたものの、参戦さんせんたされぬまま1984ねん8がつ26にち福生ふっさ大会たいかいにて引退いんたい興行こうぎょうおこなわれ、正式せいしき引退いんたいした。

引退いんたい

[編集へんしゅう]

引退いんたい芸能げいのうかい転身てんしんし、『痛快つうかいなりゆき番組ばんぐみ 風雲ふううん!たけしじょう』や『ちょう電子でんしバイオマン』で怪人かいじんやくえんじるなどした。愛嬌あいきょうのあるキャラクターでおちゃあいだ子供こどもしたしまれる。スキンヘッドの怪人かいじんで「ストロング○○」というつパロディキャラクターも多数たすう誕生たんじょうした。

国際こくさいプロレス社長しゃちょうであった吉原よしはらいさお死去しきょする直前ちょくぜんに、小林こばやし吉原よしはらもと見舞みまいにおとずれ3あいだ会話かいわした。そのさい吉原よしはらから「わたしそだてたレスラーのなか小林こばやしくん一番いちばんだった」とわれたさいには、小林こばやし感謝かんしゃ気持きもちでいちはいだったという[7]

1992ねん3月1にち横浜よこはまアリーナにて開催かいさいされた、しん日本にっぽんプロレス設立せつりつ20周年しゅうねん記念きねん大会たいかい企画きかくとして、坂口さかぐちせいとタッグをエキシビション・マッチ出場しゅつじょう、タイガー・ジェット・シン&上田うえだすけ対戦たいせんした。なお、現役げんえき時代じだい使用しようしたガウンやタイツ、リングシューズなどのコスチュームは、ファンや知人ちじんにプレゼントしてしまいのこっていなかったため、さくつとむころもをガウンわりに、唯一ゆいいつ手元てもとのこっていたWWWFに遠征えんせいしたさい着用ちゃくようした田子たつこさくタイツを着用ちゃくようし、裸足はだし試合しあい出場しゅつじょうしている。

門馬もんま忠雄ただおによれば、小林こばやし面会めんかいしたさい国際こくさいプロレス時代じだいおもばなしはなしてくれたものの、しん日本にっぽんプロレス時代じだいおもかんしては一切いっさいかたろうとしなかったという[24]

バラエティ番組ばんぐみ天才てんさい・たけしの元気げんきるテレビ!!』で、沖縄おきなわ海岸かいがん島崎しまざき俊郎としおはしっているときとしあなとされるという企画きかくあなちるが、2メートルのふかさだったことから右足みぎあしわるくした。プロレス時代じだい腰痛ようつうとともに左足ひだりあしわるくしており、これで小林こばやしはしることが出来できなくなったという[5][36]。このときに、制作せいさく会社かいしゃとの補償ほしょう仲介ちゅうかいをすると俳優はいゆう協会きょうかいからけられたが、小林こばやしは「おおごとになるから、もういいんだよ」とことわっている[36]

1995ねん4がつ母親ははおや突然とつぜんしたことをきっかけに、自分じぶん自由じゆう時間じかん大事だいじにして健康けんこう長生ながいきしようと以降いこう芸能げいのう活動かつどう縮小しゅくしょうし、おもて舞台ぶたい姿すがたせる機会きかいっていった[5][36]

2003ねん芸名げいめいをストロング金剛こんごうからストロング小林こばやしもどした[5]芸能げいのう活動かつどう縮小しゅくしょうも、くびあしのトレーニングを毎日まいにち1あいだおこない、体重たいじゅうも100キロ以上いじょうたもっており、いためたこし影響えいきょう歩行ほこうつえ必要ひつようである以外いがいはいたって健康けんこうであった[26]

2021ねん11月6にちのスポーツ報知ほうち記事きじによると、芸能げいのう活動かつどうは26ねんまえ引退いんたいしており、また芸能げいのう活動かつどう引退いんたい脊髄せきずい損傷そんしょう重傷じゅうしょうい、その影響えいきょうから下半身かはんしん麻痺まひになり、3ねんまえの2018ねんからたきりの生活せいかつであることがかされている。ストロング小林こばやし本人ほんにん取材しゅざいっていたが、介護かいごしている親族しんぞくより「プロレスかいにストロング小林こばやしがいたっていうことをのこしてもらいたい」という希望きぼう仲介ちゅうかいやくとなり、インタビューをけている[37]

2021ねん12月31にち721ふんうみはいのため、東京とうきょう青梅おうめうち病院びょういん死去しきょ[38]。81さいぼつ。2021ねんなつごろから特別とくべつ養護ようご老人ろうじんホームに入居にゅうきょ生活せいかつしていたが、同年どうねん11がつ9にち吐血とけつして入院にゅういん一時いちじ危篤きとくおちいり、4にち意識いしきもどしたものの、たきりの状態じょうたいつづいていたことからはい状態じょうたい悪化あっかさせ、たんひだりはいはいんだうえ、みぎはいにはみずまる状態じょうたいとなっていた。その12がつまつ症状しょうじょう悪化あっかし、家族かぞく見守みまもられながらいきったという[4][38]葬儀そうぎ告別こくべつしきとしけた2022ねん1がつ9にち青梅おうめ市民しみん斎場さいじょうおこなわれ、しんあいだ寿ことぶきらが参列さんれつした。法名ほうみょうは「金剛こんごういんしゃくちかいしょう[39][40]

死後しご

[編集へんしゅう]

2023ねん12月には青梅おうめ市内しない西友せいゆう河辺かわべ店内てんない市民しみんホールにて、「ストロング小林こばやしてん実行じっこう委員いいんかい」により[41]「ストロング小林こばやしてん」が開催かいさいされ、しん日本にっぽんプロレス設立せつりつ20周年しゅうねん記念きねん大会たいかいのエキシビション・マッチにて着用ちゃくようした、唯一ゆいいつ手元てもとのこっていたWWWFに遠征えんせいしたさい着用ちゃくようしていた田子たつこさくタイツや、覆面ふくめん太郎たろう時代じだいのマスクとう貴重きちょう品々しなじな展示てんじされた[42]

得意とくいわざ

[編集へんしゅう]

外国がいこくじん選手せんしゅ力負ちからまけしないパワーファイターとしてられていた。バックブリーカーけいわざ多用たようしたため、後年こうねん腰痛ようつうなやまされるようになった。

獲得かくとくタイトル

[編集へんしゅう]

マネージャー

[編集へんしゅう]

追記ついき

[編集へんしゅう]
  • 国際こくさいプロレス離脱りだつしん日本にっぽんプロレス参戦さんせんという事件じけんは、その日本にっぽんプロレスおおきな影響えいきょうおよぼした。1974ねん3月のアントニオ猪木いのきたいストロング小林こばやしせん力道山りきどうざんたい木村きむら政彦まさひこせん以来いらい日本人にっぽんじんトップレスラー同士どうし対戦たいせんとなり、東京とうきょうスポーツ認定にんていプロレス大賞たいしょう「ベストバウトしょう」のだい1かい受賞じゅしょう試合しあいともなった。また、日本人にっぽんじん外国がいこくじんたたかいが主流しゅりゅうだった当時とうじ日本にっぽんのプロレスかいにおいて、日本人にっぽんじん同士どうし試合しあい興行こうぎょう目玉めだまになりることをしめした。16,500にんちょう満員まんいん札止ふだどめだったため[28]入場にゅうじょう出来できなかった観客かんきゃくからは「せっかく地方ちほうからたんだ。立見たちみでいいから1、2まんえんはらうんでれてくれよ」と入口いりくち問答もんどうした観客かんきゃくもいたといい[43]しんあいだ寿ことぶき証言しょうげんによると、当日とうじつけんもとめるきゃくたいしてスタッフはあたりにあったポスターをやぶいて「1000えん」といてチケットわりにして対処たいしょしたという[29]試合しあい当日とうじつは、蔵前くらのまええきから蔵前くらまえ国技こくぎかんまでの行列ぎょうれつ途絶とだえることがなかったほか収容しゅうよう人数にんずう上回うわまわ観客かんきゃくはいったことから、蔵前くらまえ国技こくぎかん水道すいどうかん破裂はれつしたり、蔵前くらまえ警察けいさつしょから厳重げんじゅう注意ちゅういされたという[24][44]。このいちせん実現じつげんするためにしんあいだは3週間しゅうかんわたって小林こばやし自宅じたくかよめ、そのうちに小林こばやしがたくさんっていたマルチーズのうちの1とうなついたという逸話いつわもある[29]
  • 大塚おおつか直樹なおきによれば、しん日本にっぽんプロレスが旗揚はたああいだもないころ興行こうぎょうポスターをっていたさい小林こばやし猪木いのきていたことから地元じもとのファンに「小林こばやしる!」とわれたことがあったという。1972ねん当時とうじTBS系列けいれつきょくは24きょくであったため、TBS系列けいれつきょく所在しょざいする地域ちいきでいかに小林こばやし人気にんきたかかっかがうかがれる[8]
  • 一方いっぽう国際こくさいプロレスは小林こばやし国際こくさいプロレス退団たいだん同調どうちょうするかたちTBSから1974ねん3がついっぱいでの放映ほうえいりを通達つうたつされており[45][46]小林こばやし離脱りだつ地方ちほう系列けいれつきょくたない東京とうきょう12チャンネル放送ほうそうきょく移行いこう。さらに、よく1975ねんからはAWAとの提携ていけい解消かいしょう大剛たいごう鉄之助てつのすけをブッカーに外国がいこくじん招聘しょうへいルートをカナダ独立どくりつけいプロモーションに変更へんこうしたが、これにより外国がいこくじん選手せんしゅのネームバリューがスケールダウンすることとなり、団体だんたいのマイナー拍車はくしゃがかかった。また小林こばやしが2にわたって猪木いのきやぶれたことや、えいはじめとのコンビでIWA世界せかいタッグ王座おうざ奪取だっしゅしたことも、国際こくさいプロレスのイメージダウンや『国際こくさいプロレスアワー』のさらなる視聴しちょうりつ低下ていかつながった。
  • WWE(WWWF / WWF)には、ブルーノ・サンマルチノWWWFヘビーきゅう王座おうざ挑戦ちょうせんした1974ねん以降いこうにも1978ねん4がつ1981ねん6がつ遠征えんせいしており、それぞれ北東ほくとう地区ちく短期間たんきかんサーキットしている。1978ねん遠征えんせいには当時とうじしん王者おうじゃボブ・バックランド挑戦ちょうせんし、ミル・マスカラスとも6にんタッグマッチで対戦たいせん[47]。1981ねん遠征えんせいにはドン・ムラコWWFインターコンチネンタル・ヘビーきゅう王座おうざキラー・カーンんでトニー・ガレア&リック・マーテルWWFタッグ王座おうざ挑戦ちょうせんした[48]
  • 生年月日せいねんがっぴについて一部いちぶ資料しりょうには「1944ねん1がつ15にちまれ」とされる場合ばあいがあるが、これは覆面ふくめん太郎たろうとしてのかりのプロフィールであり、実際じっさい出生しゅっしょう冒頭ぼうとう表記ひょうきとおりである[36]
  • ある熊本くまもとけん在住ざいじゅう知人ちじんから電話でんわかってさい知人ちじんから「小林こばやしさん、ちょっとめずらしいひとわります」とい、知人ちじんはその人物じんぶつ電話でんわわることにした。その人物じんぶつとはグレート草津くさつであり、小林こばやしたいして「オイ、おまえなにやってんだ、いま」とはなけられたが、だまって電話でんわったという[8]小林こばやしは「業界ぎょうかいからはなれてながいのに、いまさらおまえばわりされることはないとおもってね」とかたっている。
  • 2001ねん7がつ27にち青梅おうめ姉妹しまいバラバラ殺人さつじん事件じけん発生はっせい報道ほうどうされたさい小林こばやし夫妻ふさい事件じけんのあったマンションの近所きんじょんでいたため、夫妻ふさい寝間着ねまきとネグリジェのままレポーターのインタビューにこたえていた。また、小林こばやしつま犯人はんにん死体したいをバラバラにするチェーンソーのおといたという[49]

出演しゅつえん

[編集へんしゅう]

映画えいが

[編集へんしゅう]

テレビドラマ

[編集へんしゅう]

バラエティ

[編集へんしゅう]
  • パーラー金剛こんごう香川かがわけん
  • ド学園どがくえん
  • バーコードバトラー
  • しん会館かいかん 家族かぞくてい三重みえけん松阪まつさか
  • プラックス(ファイザーオーラルケア) 1989ねん

音楽おんがく

[編集へんしゅう]

シングル

[編集へんしゅう]
発売はつばい 規格きかく 規格きかく品番ひんばん めん タイトル 作詞さくし 作曲さっきょく 編曲へんきょく
クラウンレコード
1986ねん EP CWA-384 A それゆけきむつよし 荒木あらきとよひさ いずみはちすな 西崎にしざきすすむ
B まじめのみじめはくらめのとどめ
キングレコード
1988ねん EP K07D-80034 A はなおいもう みどりまさひろ いずみはちすな 西崎にしざきすすむ
B おれ闘犬とうけん 広田ひろた文男ふみお

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ a b Strong Kobayashi dead at 81” (英語えいご). Slam Wrestling (2022ねん1がつ6にち). 2022ねん3がつ11にち閲覧えつらん
  2. ^ Strong Kobayashi” (英語えいご). Wrestlingdata.com. 2014ねん2がつ8にち閲覧えつらん
  3. ^ もとプロレスラー、ストロング小林こばやしさん死去しきょ”. 産経さんけいニュース (2022ねん1がつ6にち). 2022ねん2がつ9にち閲覧えつらん
  4. ^ a b ストロング小林こばやしさんがのこした最後さいご伝説でんせつ危篤きとくからの脱出だっしゅつやまいとのたたか”. スポーツ報知ほうち. 報知新聞社ほうちしんぶんしゃ (2022ねん1がつ9にち). 2022ねん1がつ16にち閲覧えつらん
  5. ^ a b c d e f 吉田よしだつよしおきてポルシェ「ストロング小林こばやしインタビュー」『電池でんち以下いかアスペクト、2012ねん、104-110ぺーじISBN 978-4-7572-2125-3 初出しょしゅつは2004ねんCONTINUEVol.16。
  6. ^ 実録じつろく国際こくさいプロレス, pp. 18–19.
  7. ^ a b c わすれじの国際こくさいプロレス, p. 87.
  8. ^ a b c かけはし大林おおばやし (2022ねん1がつ7にち). “使つかてにされたなとおもったこともある」“猪木いのきのライバル”ストロング小林こばやしさん死去しきょ 昭和しょうわプロレス巨星きょせいかたっていた「しん」「猪木いのき」「国際こくさいプロレス」のこと”. 文春ぶんしゅんオンライン. 文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうしゃ. 2023ねん10がつ8にち閲覧えつらん
  9. ^ 実録じつろく国際こくさいプロレス, pp. 20–21.
  10. ^ 昭和しょうわめいレスラー」ストロング小林こばやしさん、偉業いぎょうをたたえる展覧てんらんかいがふるさとの青梅おうめ開催かいさい…「感謝かんしゃつたえたい」…12月じゅうにがつ15にちから西友せいゆう河辺かわべてん”. スポーツ報知ほうち (2023ねん10がつ13にち). 2024ねん4がつ10日とおか閲覧えつらん
  11. ^ 三熊さんのくま宏治こうじ「ストロング小林こばやしかたった国際こくさいプロレス離脱りだつ真相しんそうとアントニオ猪木いのきせん舞台裏ぶたいうら」」『プロレススキャンダル事件じけん いまかされる真相しんそう宝島社たからじましゃ別冊べっさつ宝島たからじま〉、2003ねん、56-58ぺーじISBN 4-7966-3742-7 
  12. ^ a b IWA World Tag Team Title” (英語えいご). Wrestling-Titles.com. 2014ねん7がつ13にち閲覧えつらん
  13. ^ a b 栄光えいこうかがや王座おうざ変遷へんせん: USAヘビーきゅう選手権せんしゅけん”. Rodmann's Pro-Wrestling Site. 2015ねん12月6にち閲覧えつらん
  14. ^ a b IWA World Heavyweight Title” (英語えいご). Wrestling-Titles.com. 2014ねん7がつ13にち閲覧えつらん
  15. ^ The Records of AWA World Heavyweight Championship Matches 1970” (英語えいご). Wrestling-Titles.com. 2013ねん10がつ7にち閲覧えつらん
  16. ^ The Records of AWA World Heavyweight Championship Matches 1971” (英語えいご). Wrestling-Titles.com. 2013ねん10がつ7にち閲覧えつらん
  17. ^ わすれじの国際こくさいプロレス, p. 85.
  18. ^ a b 『1945-1985 激動げきどうのスポーツ40ねん』 6 プロレス 秘蔵ひぞう写真しゃしんつづ激動げきどうスボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ、1986ねん、159ぺーじ 
  19. ^ わすれじの国際こくさいプロレス, p. 105.
  20. ^ わすれじの国際こくさいプロレス, p. 102.
  21. ^ IWE Big Challenge Series - Day 2” (英語えいご). Wrestlingdata.com. 2014ねん11月22にち閲覧えつらん
  22. ^ わすれじの国際こくさいプロレス, p. 25.
  23. ^ a b わすれじの国際こくさいプロレス, p. 111.
  24. ^ a b c d e f アントニオ猪木いのきvsストロング小林こばやし 昭和あきかずばん巌流島がんりゅうじま決闘けっとう”の真実しんじつ”. WANI BOOKS Newa Crunch. ワニブックス (2022ねん10がつ2にち). 2023ねん7がつ17にち閲覧えつらん
  25. ^ 「「実録じつろく国際こくさいプロレス」米村よねむら天心てんしんインタビュー」『Gスピリッツ』 Vol.29、辰巳たつみ出版しゅっぱん〈タツミムック〉、2013ねん、65ぺーじISBN 4777812359 
  26. ^ a b c d e 「「実録じつろく国際こくさいプロレス」ストロング小林こばやしインタビュー」『Gスピリッツ』 Vol.13、辰巳たつみ出版しゅっぱん〈タツミムック〉、2009ねん、82-87ぺーじISBN 4777807150 
  27. ^ 『Gスピリッツ Vol.42』P55(2016ねん辰巳たつみ出版しゅっぱんISBN 4777818128
  28. ^ a b c d 日本にっぽんプロレス事件じけん Vol.8, p. 4.
  29. ^ a b c しんあいだ寿ことぶき日本にっぽんプロレス目撃もくげきしゃかた真相しんそう! しんあいだ寿ことぶきいま戦場せんじょうり!』 獅子ししまき、ダイアプレス、2016ねん、52-53ぺーじISBN 978-4-8023-0188-6 
  30. ^ わすれじの国際こくさいプロレス, p. 97.
  31. ^ 猪木いのきさん死去しきょ坂口さかぐちせいせん黄金おうごんコンビ”はつのシングル対決たいけつほか/めい勝負しょうぶベスト30&番外ばんがいへん”. 日刊にっかんスポーツ (2022ねん10がつ1にち). 2022ねん12がつ10日とおか閲覧えつらん
  32. ^ WWE Yearly Results 1974” (英語えいご). The History of WWE. 2010ねん6がつ13にち閲覧えつらん
  33. ^ WWE Specific Arena Results: MSG 1970-1979” (英語えいご). The History of WWE. 2010ねん6がつ13にち閲覧えつらん
  34. ^ a b NWA North American Tag Team Title” (英語えいご). Wrestling-Titles.com. 2015ねん12月6にち閲覧えつらん
  35. ^ 日本にっぽん特撮とくさつ幻想げんそう映画えいが全集ぜんしゅう石井いしい博士はかせほか、勁文しゃ、1997ねん、283ぺーじISBN 4766927060 
  36. ^ a b c d 吉田よしだつよし吉田よしだつよしのセメント!!スーパースター列伝れつでんエンターブレイン〈Kamipro books〉、2006ねん、8,10,23-28ぺーじISBN 4-7577-2774-7 
  37. ^ ストロング小林こばやしさん「レスラーにとって最高さいこうほこり」アントニオ猪木いのきせんかたる…「昭和しょうわプロレス禁断きんだんたたかい」”. スポーツ報知ほうち. 報知新聞社ほうちしんぶんしゃ (2021ねん11月6にち). 2022ねん1がつ6にち閲覧えつらん
  38. ^ a b ストロング小林こばやしさん死去しきょ、81さい…1974ねんにアントニオ猪木いのき伝説でんせつたたかい、俳優はいゆうとしても活躍かつやく”. スポーツ報知ほうち. 報知新聞社ほうちしんぶんしゃ (2022ねん1がつ6にち). 2022ねん1がつ6にち閲覧えつらん
  39. ^ ストロング小林こばやしさん通夜つや遺影いえい現役げんえき時代じだいかがやいた筋骨きんこつ隆々りゅうりゅう姿すがた…「一番いちばんっていた写真しゃしんでした」”. スポーツ報知ほうち. 報知新聞社ほうちしんぶんしゃ (2022ねん1がつ8にち). 2022ねん1がつ16にち閲覧えつらん
  40. ^ ストロング小林こばやしさん告別こくべつしき、ひつぎに現役げんえき時代じだいのガウンがかけられる…しんあいだ寿ひさし「これほどのさびしさはありません」”. スポーツ報知ほうち. 報知新聞社ほうちしんぶんしゃ (2022ねん1がつ9にち). 2022ねん1がつ16にち閲覧えつらん
  41. ^ 「ストロング小林こばやしてん」…たった1にんのファンが「感謝かんしゃ」をとどけた奇跡きせきのイベントだった…「本当ほんとうにプロレスファンになってよかった」…19にちまで青梅おうめ西友せいゆう河辺かわべてん”. スポーツ報知ほうち (2023ねん12月17にち). 2023ねん12月17にち閲覧えつらん
  42. ^ 「ストロング小林こばやしてん」が開幕かいまく…オープニングに来場らいじょうしたアントニオしょう猪木いのき「とてもやさしくせっしてくれたこといまでもわすれません」…青梅おうめ西友せいゆう河辺かわべてん”. スポーツ報知ほうち (2023ねん12月16にち). 2023ねん12月17にち閲覧えつらん
  43. ^ 日本にっぽんプロレス事件じけん Vol.10, p. 4.
  44. ^ ストロング小林こばやしvs猪木いのき日本にっぽんちゅう熱狂ねっきょう仕掛しかじんしんあいだ寿ことぶき生前せいぜん小林こばやし言葉ことばかえる「昭和しょうわ巌流島がんりゅうじま”. Web Sportiva. 集英社しゅうえいしゃ (2022ねん1がつ14にち). 2023ねん7がつ17にち閲覧えつらん
  45. ^ TBSにおける録画ろくが中継ちゅうけい小林こばやし国際こくさい時代じだい最後さいごのシリーズとなった「'74パイオニア・シリーズ」が最後さいごとなった。
  46. ^ わすれじの国際こくさいプロレス, p. 8.
  47. ^ The WWE matches fought by Strong Kobayashi in 1978” (英語えいご). Wrestlingdata.com. 2019ねん4がつ1にち閲覧えつらん
  48. ^ The WWE matches fought by Strong Kobayashi in 1981” (英語えいご). Wrestlingdata.com. 2019ねん4がつ1にち閲覧えつらん
  49. ^ 新潮しんちょう45」編集へんしゅう へんあね電動でんどうノコギリできざんだいもうとが「えらんだおんな」 - 青梅おうめ姉妹しまい」バラバラ殺人さつじん事件じけん」『そのときころしのうごせたわざわい必然ひつぜんの9事件じけん新潮社しんちょうしゃ新潮しんちょう文庫ぶんこ〉、2003ねん6がつ1にち、278ぺーじISBN 978-4-10-123915-6 

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • わすれじの国際こくさいプロレス 国際こくさいプロレス解散かいさんから33ねんかたがれるたましい物語ものがたりスボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ〈B.B.mook 1018〉、2014ねん2がつ3にちISBN 978-4-583-62080-0 
  • 週刊しゅうかんプロレスSPECIAL 日本にっぽんプロレス事件じけん Vol.8 移籍いせきき・興行こうぎょう戦争せんそうスボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ〈B.B.mook 1178 週刊しゅうかんプロレススペシャル〉、2015ねん4がつ17にち、4ぺーじISBN 978-4-583-62269-9 
  • 週刊しゅうかんプロレスSPECIAL 日本にっぽんプロレス事件じけん Vol.10 暴動ぼうどう騒乱そうらんスボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ〈B.B.mook 1199 週刊しゅうかんプロレススペシャル〉、2015ねん6がつ17にち、4ぺーじISBN 978-4-583-62299-6 
  • Gスピリッツ編集へんしゅう へん実録じつろく国際こくさいプロレス』辰巳たつみ出版しゅっぱん〈G SPIRITS BOOK〉、2017ねん11月29にちISBN 978-4-777-81977-5 

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]