山本やまもとしょうてつ

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山本やまもと しょうてつ
プロフィール
リングネーム 山本やまもと しょうてつ
ヤマモト[1]
オキ・ヤマハ[2]
オニ・ヤマハ[2]
本名ほんみょう 山本やまもと まさる
ニックネーム おに軍曹ぐんそう
人間にんげんばくだん
身長しんちょう 170 cm
体重たいじゅう 100 kg
誕生たんじょう (1941-10-30) 1941ねん10月30にち
死亡しぼう (2010-08-28) 2010ねん8がつ28にち(68さいぼつ
出身しゅっしん 神奈川かながわけん横浜よこはまみなみ
所属しょぞく しん日本にっぽんプロレス
デビュー 1963ねん7がつ19にち
引退いんたい 1980ねん4がつ4にち
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山本やまもと しょうてつ(やまもと こてつ、1941ねん10月30にち - 2010ねん8がつ28にち)は、日本にっぽんプロレスラー本名ほんみょう山本やまもと まさる(やまもと まさる)。リングネームゆたかとう命名めいめい神奈川かながわけん横浜よこはまみなみ出身しゅっしんしん日本にっぽんプロレス所属しょぞくタレントとしても活動かつどうしており、芸能げいのう事務所じむしょインターテイク所属しょぞくであった。

現役げんえき引退いんたいワールドプロレスリング解説かいせつしゃマッチメイカーレフェリーとして活躍かつやくしていた。

来歴らいれき[編集へんしゅう]

横浜よこはま市立しりつ横浜よこはま商業しょうぎょう高等こうとう学校がっこう卒業そつぎょう東海とうかい金属きんぞく工業こうぎょう勤務きんむしながらYMCAでボディビルにみ、1963ねん日本にっぽんプロレス入門にゅうもん同年どうねん12がつ力道山りきどうざんくなったことから、力道山りきどうざん最後さいご弟子でしとなった。同年どうねん7がつ19にち北沢きたざわみきこれせんでデビューした。

1964ねん10月31にち石巻いしのまき市立しりつ石巻いしのまき小学校しょうがっこう特設とくせつリングで挙行きょこうされた日本にっぽんプロレス石巻いしのまき大会たいかいでの興行こうぎょうでは、高千穂たかちほ明久あきひさザ・グレート・カブキ)のデビューせん相手あいてつとめている[3][4]

1967ねん1がつ星野ほしの勘太郎かんたろうともアメリカ武者むしゃ修業しゅうぎょう出立しゅったつカリフォルニアしゅうロサンゼルスWWA皮切かわきりに、小型こがたでもパワフルであると評判ひょうばんだったヤマハ日本にっぽんせいオートバイにあやかったヤマハ・ブラザーズThe Yamaha Brothers)のチームめいのもと、テネシーしゅうメンフィス拠点きょてんとするNWAミッドアメリカ(CWA)を主戦しゅせんじょう活動かつどうした。そのあいだ単独たんどくテキサスしゅうダラスのNWAビッグタイム・レスリング(のWCCW)にも参戦さんせんフリッツ・フォン・エリックいえみ、子供こども時代じだいケビンデビッドケリーらのあそ相手あいてをしていたという[1]どう地区ちくではジャック・ダニエルズスカンドル・アクバロニー・エチソンマリオ・ミラノワルドー・フォン・エリックゴリー・ゲレロターザン・タイラーバディ・オースチンブルート・バーナードビクター・リベラキンジ渋谷しぶやジャック・ブリスコポール・ジョーンズなどと対戦たいせんした[5]

凱旋がいせん帰国きこくは、ジャイアント馬場ばば&アントニオ猪木いのきBIほうんでの6にんタッグマッチなどでメインイベントにも度々たびたび出場しゅつじょう[6]1969ねんだい11かいワールドリーグせんでは、5月2にち長崎ながさき公会堂こうかいどう大会たいかいにおいて[7]優勝ゆうしょう候補こうほ一角いっかくだったゴリラ・モンスーンやぶだい金星きんぼしげた[8]外国がいこくじんレスラーとのシングルマッチでは、若手わかて時代じだいボビー・ダンカンジェリー・ブリスコジャッキー・ファーゴなどからも勝利しょうりおさめている[6]

1971ねん12月、猪木いのきによる日本にっぽんプロレス騒動そうどう発覚はっかくすると猪木いのき協力きょうりょくしたため、よしさと淳三じゅんぞうから自宅じたく謹慎きんしんをいいわたされる。これを不服ふふくとして猪木いのき日本にっぽんプロレスを除名じょめいされた2にちの12月15にち日本にっぽんプロレスを退団たいだん[9]よく1972ねんしん日本にっぽんプロレス旗揚はたあげに参加さんか。このころから現場げんば責任せきにんしゃ・コーチとして活動かつどうしている。

1979ねん1がつ21にちに「ヤマハ・ブラザーズ」として国際こくさいプロレス後楽園こうらくえんホール大会たいかいみ、グレート草津くさつ&アニマル浜口はまぐちやぶってIWA世界せかいタッグ王座おうざ獲得かくとくした[10]。この時期じき異名いみょう人間にんげんばくだんであった。

1980ねん4がつ4にち引退いんたいは、レフェリー(のち審判しんぱん部長ぶちょう)をつとめるかたわら、どう団体だんたい道場どうじょうのコーチやしん日本にっぽんプロレス学校がっこう校長こうちょう歴任れきにんし、おにコーチおに軍曹ぐんそうばれながら若手わかてレスラーをそだてた[11]。また「ワールドプロレスリング」のレギュラー解説かいせつしゃとして古舘ふるたち伊知郎いちろう桜井さくらい康雄やすおんだ。一方いっぽうでは審判しんぱん部長ぶちょうとして試合しあい見守みまも役目やくめっており、試合しあいめるべくせきまえの「あっ、ちょっとってください」という一言ひとことは、著書ちょしょのタイトルにもなっている。

1983ねん当時とうじしん日本にっぽんプロレスの興行こうぎょう盛況せいきょうはくしていたが、利益りえきおよ給与きゅうよひくく、猪木いのき経営けいえいには不満ふまんものおおかった。山本やまもとはこの勢力せいりょく中心ちゅうしんにあり、同年どうねん8がつ25にち緊急きんきゅう役員やくいん会議かいぎ社長しゃちょう猪木いのきふく社長しゃちょう坂口さかぐちせい退任たいにんさせ、自身じしん望月もちづき和治かずはる大塚おおつか博美ひろみとも代表だいひょう取締役とりしまりやく就任しゅうにんする。しかししん日本にっぽんプロレスを支援しえんしていたテレビ朝日てれびあさひはこのクーデターをゆるさず、11月には猪木いのき社長しゃちょう復帰ふっき山本やまもとらの政権せいけん短命たんめいわった[12]

しん日本にっぽんプロレスでは企画きかく宣伝せんでん部長ぶちょうつとめたり、しん日本にっぽんプロレスの子会社こがいしゃの「しん日本にっぽんプロレスサービス」の代表だいひょう取締役とりしまりやく社長しゃちょうつとめたこともある[13]

その永田ながた裕志ひろし中西なかにしまなぶ藤田ふじた和之かずゆきケンドー・カシンによる「チーム・ジャパン」後見人こうけんにんのほか、J sports ESPN放送ほうそうされていた「しん日本にっぽんプロレス S.X.W」の解説かいせつつとめた。

しん日本にっぽんプロレスには、カール・ゴッチ理論りろんてき技術ぎじゅつゴッチイズム」と、それに山本やまもとかんがえの根性こんじょうろんしょうてつイズム」という概念がいねんがある。

2010ねん8がつ24にち家族かぞく旅行りょこうさき長野ながのけん軽井沢かるいざわまち昼食ちゅうしょくをとったのち意識いしき不明ふめいとなり[14]、4にち8がつ28にち午前ごぜん642ふんていさん素性すじょう脳症のうしょうのため死去しきょ[15]。68さいだった。戒名かいみょうは「清巌せいがんいんたたかえほまれしょうてつ居士こじ[16]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

山本やまもとしょうてつのプッシュアップボード

一度いちど日本にっぽんプロレス入門にゅうもんもうれたとき力道山りきどうざんから「おまえようなチビがレスラーになれるか!」と怒鳴どなりつけられ、門前払もんぜんばらいをけた。しかしプロレスラーへのゆめあきられない山本やまもとは、その1年間ねんかんかけて徹底的てっていてきからだきたえ、再度さいど力道山りきどうざんもと出向でむ直談判じかだんぱんした。このときも「なんても駄目だめなものは駄目だめだ!」と一喝いっかつされたが、力道山りきどうざんかおにらけたまま微動びどうだにせず、かたにぎったこぶしをブルブルとふるわせる山本やまもと姿すがたて「こいつの意思いし本物ほんものだ…」とかんじ、特別とくべつ入門にゅうもん許可きょかしたという。山本やまもと日本にっぽんプロレス退団たいだん日本にっぽんプロレスを告訴こくそして勝訴しょうそし、やく200まんえん退職たいしょくきんにしている[9]

しん日本にっぽんプロレス旗揚はたあ当時とうじ道場どうじょうようリングを資金しきんがなく、道場どうじょうようリングの資金しきんすべ山本やまもと負担ふたんした[9]

非常ひじょう真面目まじめ人物じんぶつであり、えたしもネタわるふざけを極度きょくどきらっていた。あるテレビ番組ばんぐみ出演しゅつえんちゅう自分じぶんアダルトビデオなんかいちたことはないし、たいともおもわないね」とってのけた。また、みずからがおし発展はってんさせたしん日本にっぽんプロレスのレスリングスタイルにはほこりをっており、スーパーJカップ参戦さんせんした男色なんしょくディーノ男色なんしょく連想れんそうさせるしたネタをまじえたプロレススタイルに激高げっこうしたことがあった。生真面目きまじめ性格せいかくあらわ逸話いつわとして「すべての迷惑めいわくメールに丁寧ていねいことわりの返信へんしんをしていた」というものもある。

スキンヘッド強面こわおもて外見がいけんとは裏腹うらはらに、礼儀れいぎをわきまえたうえせっしたさい物腰ものごしやわらかい人柄ひとがらであり、愛妻あいさいでもあった。また一人娘ひとりむすめ非常ひじょう可愛かわいがっており、巡業じゅんぎょうちゅう出産しゅっさんえなかったことからむすめ出生しゅっしょうからの日数にっすうつねえるよう心掛こころがけていた。晩年ばんねんになってからは、まご出生しゅっしょうからの日数にっすうまでカウントしていた。

現役げんえき引退いんたいおよび『ワールドプロレスリング解説かいせつしゃ就任しゅうにんにあたっては、当時とうじのテレビ中継ちゅうけいでは新聞しんぶん記者きしゃがりの人物じんぶつ解説かいせつしゃつとめることがほとんどだったことから「いま中継ちゅうけい解説かいせつしゃには、レスラーがりでわざすごさやいたみを理解りかいしているじんがいないんだよ」として、猪木いのきから直接ちょくせつ依頼いらいされたという。しかし山本やまもとは「あと5ねん現役げんえきつづけたい」としていちことわったものの、猪木いのきに「ギャラは現役げんえき時代じだい同額どうがく保証ほしょうするから」と再度さいど要請ようせいされており、仕方しかたなくけたとのこと[17]。これにともなって元来がんらい口下手くちべただった山本やまもとは、テレビ局てれびきょく迷惑めいわくをかけまいと「はなかた教室きょうしつ」にとおった。正確せいかくには「落合おちあい恵子けいこ主宰しゅさいする『日本にっぽんはなかた講座こうざ』の通信つうしん教育きょういくけた」とのことである[17]解説かいせつしゃとなった当初とうしょは、放送ほうそうちゅう自分じぶんのことをアナウンスの禁則きんそく事項じこうでもある「オレ」とくちにしてしまったりと、実況じっきょう古舘ふるたち伊知郎いちろう困惑こんわくさせたこともあった。

指導しどうしゃとしては「おに軍曹ぐんそう」とばれ[18]道場どうじょうでの若手わかて指導しどうには厳格げんかくだった。そのきびしさから前田まえだ日明ひあがりは「キャデラック山本やまもと愛車あいしゃ)のおとこえるだけでふるえがまらなかったね」とかたっている。また藤原ふじわら喜明よしあきは、若手わかて時代じだいあしいたむため山本やまもとたいして「今日きょう稽古けいこやすませてください」ともうたが「なにだとぉ?あしいたけりゃなぁ、あし運動うんどうをやればなおものなんだよ。この馬鹿ばか野郎やろうが!」と一蹴いっしゅうされたうえに、さらにスクワットをするようめいじられたため[19]一時期いちじき山本やまもと包丁ほうちょうころ練習れんしゅうをしたほどうらんでいたという。実際じっさい道場どうじょうまえにある白樺しらかんばには包丁ほうちょうしたきず沢山たくさんあった、と前田まえだ日明ひあがり当時とうじのことを述懐じゅっかいしている[20]。しかし山本やまもと練習れんしゅう以外いがいではやさしくせっしており、新人しんじん若手わかてとも食事しょくじをするなどコミュニケーション努力どりょくもしていた。藤原ふじわらたいしても食事しょくじさけこころよなん振舞ふるまってくれたために「ころすのは今度こんどにしようかな…」と殺害さつがいばしていたとかたっている。後年こうねん藤原ふじわら山本やまもとに「なにかおまえおれころそうとしてたらしいな?」といわれて「はい、そうでしたね…」と素直すなお白状はくじょうしたところ山本やまもとは「もう過去かこはなしだからいいよ、な!」と笑顔えがおながしてくれたともかたっている。

練習れんしゅうわり、食事しょくじ時間じかんになると選手せんしゅたち一緒いっしょちゃんこなべかこんでコミュニケーションをるなど、若手わかて新人しんじんたいして「練習れんしゅうきびしく・プライベートではやさしく」するように硬軟こうなん使つかけていた。またくち指示しじするだけはなく、若手わかて選手せんしゅおな運動うんどうをしてともあせながして60さいぎて身体しんたいおもうようにうごかなくても、出来できかぎりのトレーニングをつづけており「おれみたいな年寄としよりがこれだけうごけるというのに、おまえらには出来できないのかよ!」と発破はっぱつづけていた。 まただれにでもきびしくするわけではなく、レスリングの学生がくせいチャンピオンとなりオリンピックにも長州ちょうしゅうりょくには入団にゅうだんからなにしてもどうじない基礎きそがあるとしてきびしくそだてた一方いっぽう藤波ふじなみたつなんじ中学ちゅうがく陸上りくじょうをやった程度ていどほそからだだったため「つよくなったよな」「うでふとくなったよな」とめてあまなぐることはしないようにし、くさらせずにばすことを意識いしきした[20]。 このよう人格じんかくしゃとしてのめんつことから、しん日本にっぽんプロレスをはなれて総合そうごう格闘技かくとうぎ方面ほうめんった前田まえだや、船木ふなきまことかちなどからもうやまわれていた。

一連いちれん厳格げんかくかつぜん時代じだいてき指導しどうばかりがげられてしまい「山本やまもとしょうてつ=根性こんじょうろんかたまり」とされがちであるが、けっしてそれだけではなかった。当時とうじ新人しんじんだった山本やまもと尚史ひさしちゅう邑真輔らをテレビ番組ばんぐみ企画きかく指導しどうしたさいは、試合しあい想定そうていした基本きほんてきスクワット方法ほうほうだけではなく、試合しあいちゅうにこっそり仕掛しかけられるシュート技術ぎじゅつおしえるなど、合理ごうりてき指導しどう披露ひろうしている。このほか自身じしんが170センチと小柄こがら体格たいかくであったことから、身長しんちょう当時とうじ入門にゅうもん規定きていらなかったものでも努力どりょくをしてきた場合ばあい入門にゅうもん例外れいがいてきゆるしており、しししんサンダー・ライガーリッキー・フジなどは「山本やまもとしょうてつさんのおかげで、自分じぶんはプロになれましたから」と感謝かんしゃしめしている[21]

若手わかてレスラーには「自分じぶんつよくなれば、だれ文句もんくわなくなるよ」という趣旨しゅし言葉ことば度々たびたびはなしており、入団にゅうだん当時とうじ小柄こがらだった鈴木すずきみのる先輩せんぱいからの理不尽りふじんなしごきに辛酸しんさんめていた真壁まかべがたなよしは、その言葉ことばはげまされたと後年こうねんかたっている。

猪木いのき日本にっぽんプロレス追放ついほう発表はっぴょう記者きしゃ会見かいけんで、星野ほしの坂口さかぐち小鹿こじからととも乾杯かんぱい[22][9]していたことにたいしてだい激怒げきどする。そのような経緯けいいもあって坂口さかぐちらが日本にっぽんプロレスから新日本しんにほん移籍いせきしたのち日本にっぽんプロレス崩壊ほうかいメキシコ遠征えんせいしていた星野ほしのしん日本にっぽんプロレスに移籍いせきさせるにたり、猪木いのき坂口さかぐち山本やまもと了解りょうかいったという経緯けいいがある。

ミスター高橋たかはしとは幼馴染おさななじみ親友しんゆう同士どうしだったが、後年こうねん高橋たかはし暴露ばくろほんして以降いこうは「リングのたましいかねえたやつだから、親友しんゆうなんかじゃないね」と絶縁ぜつえん状態じょうたいであった。

プロレスかい発展はってんのために女子じょしレスラーへの指導しどうおこなったり、バラエティ番組ばんぐみなどでレフェリーやくつとめるなど、プロレス以外いがい分野ぶんやでもその人柄ひとがらとキャラクターは重宝ちょうほうされており、幅広はばひろ活躍かつやくしていた。筋肉きんにく番付ばんづけのめんこスタジアムのレフェリーを担当たんとうしたこともある。

上記じょうきよう弟子でしたちからうやまわれていたため、葬儀そうぎにはしん日本にっぽんプロレスの所属しょぞくレスラー・関係かんけいしゃだけでなく、武藤むとうたかし船木ふなきまことしょう高山たかやまよしひろ鈴木すずきみのる・神取かんどりしのぶなど団体だんたい垣根かきねえての参列さんれつしゃがあり、遺族いぞくから依頼いらいけた前田まえだ日明ひあがり弔辞ちょうじげた[23][24]。また「ワールドプロレスリング」でのめいコンビであった古舘ふるたち伊知郎いちろうは、8がつ30にちよるの『報道ほうどうステーション』(テレビ朝日てれびあさひ番組ばんぐみないにて山本やまもととのおもばなし披露ひろうし「本当ほんとうにお世話せわになりまして、残念ざんねんです。かなしいです」と故人こじんしのんだ[25]

エピソード[編集へんしゅう]

  • しん日本にっぽんプロレスのライオンマークのエンブレムとキャッチフレーズである「キング・オブ・スポーツ」は山本やまもと考案こうあんしたものである[9][20]
  • 天才てんさい!たけしの元気げんきるテレビ」の企画きかく出演しゅつえんしゃたちとある幼稚園ようちえん教室きょうしつあつめられて催眠さいみんじゅつに「しん幼稚園ようちえん時代じだいもどる」催眠さいみんじゅつをかけられて出演しゅつえんしゃたちあそはじめたり、喧嘩けんかはじめてしたりと幼児ようじいをせたが、山本やまもとだけ反応はんのうであった。レポーターの勝村かつむら政信まさのぶ山本やまもとにその事情じじょうくと「幼稚園ようちえんとおった経験けいけんがないので」とはなすハプニングがあった。ロケ終了しゅうりょう勝村かつむら番組ばんぐみがわ確認かくにん不足ふそくであったこと山本やまもと謝罪しゃざいしたが、山本やまもとから「幼稚園ようちえんとおった経験けいけんがない自分じぶんにとっては、幼稚園ようちえん施設しせつないこと出来でき非常ひじょうたのしいロケでしたね」と、感謝かんしゃのコメントをけたこと勝村かつむら番組ばんぐみないかしている。

得意とくいわざ[編集へんしゅう]

ヤマハブラザーズの連携れんけいわざ二人ふたりをつないで相手あいて喉元のどもとうではたきこむ。


タイトルれき[編集へんしゅう]

NWAミッドアメリカ
国際こくさいプロレス

出演しゅつえん[編集へんしゅう]

テレビ番組ばんぐみ
テレビドラマ
ラジオ番組ばんぐみ
CM

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

  • 『ザ・ストロングスタイル』タッチダウン原著げんちょ1982ねん9がつ10日とおか)。 
  • しょうてつ古舘ふるたちあいしてるぜプロレス』 1984ねん
  • 『あっ、ちょっとってください』 1984ねん
  • 闘魂とうこんプロレス 決定けっていばん しょうてつえらんだベストバウト!』 実業之日本社じつぎょうのにほんしゃ、1985ねんISBN 4-408-39314-2
  • 『いちばんつよいのはだれだ』 講談社こうだんしゃ、1997ねんISBN 4-06-208890-8
  • 人間にんげんばくだん発言はつげん』 勁文しゃ、2000ねんISBN 4-7669-3628-0
  • 『プロレス金曜きんよう8黄金おうごん伝説でんせつ講談社こうだんしゃ、2005ねんISBN 4-06-213059-9
  • 山本やまもとしょうてつ人生じんせい大学だいがくプロレス学部がくぶ実業之日本社じつぎょうのにほんしゃ、2008ねんISBN 4-408-45188-6
  • 日本にっぽんたましい講談社こうだんしゃ、2009ねん前田まえだ日明ひあがりとの共著きょうちょISBN 4062154021

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 『Gスピリッツ Vol.53』P54-55(2019ねん辰巳たつみ出版しゅっぱんISBN 4777824128
  2. ^ a b Kotetsu Yamamoto”. Wrestlingdata.com. 2019ねん10がつ7にち閲覧えつらん
  3. ^ 東京とうきょうスポーツ 2011ねん4がつ7にち発行はっこう 6ぺーじ参照さんしょう
  4. ^ 週刊しゅうかんプロレス No.1837ごう【2016ねん3がつ9にちごう】 57ぺーじ プロレスアルバム『ザ・グレート・カブキ』参照さんしょう
  5. ^ The WCCW matches fought by Kotetsu Yamamoto in 1967”. Wrestlingdata.com. 2022ねん3がつ23にち閲覧えつらん
  6. ^ a b 『Gスピリッツ Vol.53』P19-20(2019ねん辰巳たつみ出版しゅっぱんISBN 4777824128
  7. ^ JWA 1969 The 11th Annual World League”. Puroresu.com. 2021ねん1がつ17にち閲覧えつらん
  8. ^ ワールドだいリーグせん だい11~14かい”. 昭和しょうわプロレス研究けんきゅうしつ. 2021ねん1がつ17にち閲覧えつらん
  9. ^ a b c d e 日本にっぽんプロレス事件じけん vol.12』P2 - P11
  10. ^ a b IWA World Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2019ねん8がつ6にち閲覧えつらん
  11. ^ しん日本にっぽんおに軍曹ぐんそう山本やまもとしょうてつさん突然とつぜん”. 日刊にっかんスポーツ (2010ねん8がつ30にち). 2022ねん8がつ19にち閲覧えつらん
  12. ^ 西にしはないけ湖南こなん猪木いのき馬場ばばをなぜつぶせなかったのか: 80年代ねんだいプロレス暗闘あんとう河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、2017ねん、106-111ぺーじ
  13. ^ 書籍しょせき紹介しょうかい日本にっぽんたましい著者ちょしゃプロフィールに記載きさい 全国ぜんこく書店しょてんネットワーク 2009ねん9がつ
  14. ^ しょうてつさんく4にちまえ心肺しんぱい停止ていししていた 日刊にっかんスポーツ 2010ねん9がつ4にちづけ
  15. ^ 訃報ふほう山本やまもとしょうてつさん逝去せいきょ しん日本にっぽんプロレスプレスリリース 2010ねん8がつ29にちづけ
  16. ^ しんおに軍曹ぐんそう山本やまもとしょうてつさん通夜つやに500にん”. 日刊にっかんスポーツ (2010ねん9がつ3にち). 2022ねん8がつ26にち閲覧えつらん
  17. ^ a b 東京とうきょうスポーツ・2010ねん7がつ1にちづけ コラム「山本やまもとしょうてつ おに自白じはく
  18. ^ しん日本にっぽんおに軍曹ぐんそう山本やまもとしょうてつさん突然とつぜん”. 日刊にっかんスポーツ (2010ねん8がつ30にち). 2023ねん6がつ26にち閲覧えつらん
  19. ^ もっと藤原ふじわらちょう人的じんてき肉体にくたいつよさは有名ゆうめいであり、それを信頼しんらいしてのきびしさともいえる。
  20. ^ a b c 山本やまもとしょうてつ前田まえだ日明ひあがり日本にっぽんたましい講談社こうだんしゃ
  21. ^ ロックンロールなプロレス人生じんせい!! リッキー・フジ「いまおれからじゃ想像そうぞうできないけど、UWFにあこがれて……」:Dropkick”. Dropkick:ブロマガ - ニコニコチャンネル (2018ねん11月6にち). 2022ねん2がつ12にち閲覧えつらん
  22. ^ ちなみに木戸きどおさむ藤波ふじなみ会場かいじょうにいたものの、乾杯かんぱい写真しゃしん撮影さつえい姿すがたした。藤波ふじなみ木戸きど猪木いのき追放ついほう会見かいけん翌日よくじつ日本にっぽんプロレスを退団たいだんしている。またジャイアント馬場ばば上田うえだすけは、最初さいしょから乾杯かんぱいせき参加さんかしていなかった。
  23. ^ しんおに軍曹ぐんそう山本やまもとしょうてつさん通夜つやに500にん 日刊にっかんスポーツ紙面しめん2010ねん9がつ3にちづけ
  24. ^ しょうてつさん葬儀そうぎ武藤むとう高山たかやま船木ふなきら300にん 日刊にっかんスポーツ9がつ3にちづけ
  25. ^ 古舘ふるたちキャスター「しょうてつさん、かなしいです」 サンケイスポーツ 2010ねん8がつ31にち閲覧えつらん
  26. ^ 実況じっきょうなどで「ガメラしき」とも呼称こしょうされた。
  27. ^ Yamaha Brothers: Title Reigns”. Cagematch.net. 2019ねん8がつ8にち閲覧えつらん
  28. ^ 毎度まいどおさわがせします(3) - ドラマ詳細しょうさいデータ - ◇テレビドラマデータベース◇”. テレビドラマデータベース. 2019ねん3がつ10日とおか閲覧えつらん
  29. ^ ブスのひとみこいしてる - ドラマ詳細しょうさいデータ - ◇テレビドラマデータベース◇”. テレビドラマデータベース. 2019ねん3がつ10日とおか閲覧えつらん
  30. ^ 棚橋たなはしちゅう邑両選手せんしゅがTVCMに出演しゅつえん”. しん日本にっぽんプロレスリング. 2017ねん11月30にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 週刊しゅうかんプロレスSPECIAL 日本にっぽんプロレス事件じけん Vol.12』スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ、2015ねんISBN 9784583623252 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]