ドン荒川あらかわ

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ドン荒川あらかわ
プロフィール
リングネーム ドン荒川あらかわ
荒川あらかわ しん
本名ほんみょう 荒川あらかわ しん
ニックネーム 前座ぜんざ力道山りきどうざん
身長しんちょう 170cm - 175cm
体重たいじゅう 95kg - 100kg
誕生たんじょう (1946-03-06) 1946ねん3月6にち
死亡しぼう (2017-11-05) 2017ねん11月5にち(71さいぼつ
出身しゅっしん 鹿児島かごしまけん出水いずみ
スポーツれき レスリング
柔道じゅうどう
トレーナー 山本やまもとしょうてつ
デビュー 1972ねん9月19にち
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ドン荒川あらかわ(ドンあらかわ、1946ねん3月6にち - 2017ねん11月5にち[1] )は、日本にっぽんプロレスラー本名ほんみょう荒川あらかわ しん(あらかわ まこと)。鹿児島かごしまけん出水いずみ出身しゅっしん

来歴らいれき[編集へんしゅう]

学生がくせい時代じだい柔道じゅうどうこころざしており、出水しゅっすい学園がくえん出水しゅっすい中央ちゅうおう高等こうとう学校がっこう卒業そつぎょう上京じょうきょうする。当時とうじレスリング大会たいかい出場しゅつじょうしていたころ、その試合しあいちゅうドロップキックはな反則はんそくけをられる珍事ちんじこした。当時とうじ試合しあい対戦たいせん相手あいてのち国会こっかい議員ぎいんとして活躍かつやくした松浪まつなみ健四郎けんしろうである。

1972ねん7がつ、26さいしん日本にっぽんプロレス入門にゅうもんする。その2ヶ月かげつの9がつ19にちリトル浜田はまだ(グラン浜田はまだせんでプロレスラーとしてデビューした[2]。また栗栖くりすただししんとはおな鹿児島かごしまけん出身しゅっしんで、プロレスラーとしてデビューした年月としつきも72ねん9がつというどう時期じきでもあり[3]体格たいかく試合しあいはこびもているライバル同士どうしだった。2人ふたりとの対戦たいせんは「鹿児島かごしま選手権せんしゅけん」としょうされ、ファンからも注目ちゅうもくされる。

1979ねんプエルトリコはつ遠征えんせいした。カルロス・コロン主宰しゅさいするWWCにて、ケンドー・キムラ木村きむら健吾けんご[4]との日本人にっぽんじんコンビでWWCカリビアン・タッグ王座おうざ獲得かくとくした[5]どう遠征えんせい戦績せんせき自己じこ申告しんこくであるが46戦中せんちゅう45しょうとほぼ無敗むはい成績せいせきのこしており、1はいは「くま相手あいて対戦たいせんだった。

ストロングスタイルつねとしていたしん日本にっぽんプロレスのなかで、えいみなもとはるからとたのしい『ひょうきんプロレス』を展開てんかい[6]。そして「カンチョー攻撃こうげき」や「ローリング・キョンシー・アタック」などの斬新ざんしん奇抜きばつ面白おもしろわざし、ファンから人気にんきともわらいもはじめた。

またからだきやファイトスタイルが力道山りきどうざんていたこともあり[7]別名べつめい前座ぜんざ力道山りきどうざん」ともばれていた[8]

ひょうきん路線ろせん地道じみち活躍かつやくしていたが、80年代ねんだい中頃なかごろになってUWF維新いしん軍団ぐんだんカルガリーハリケーンズと、しん日本にっぽんから次々つぎつぎ若手わかて中堅ちゅうけん・ベテラン選手せんしゅ大量たいりょう離脱りだつした。そのため手薄てうすとなった選手せんしゅおぎなうべく、荒川あらかわはジュニアヘビーきゅう戦線せんせんにも参戦さんせんした。1985ねん8がつにはザ・コブラNWA世界せかいジュニアヘビーきゅう王座おうざに、つづいて10がつにはWWFジュニアヘビーきゅう王座おうざにも挑戦ちょうせんしている[9]さら翌年よくねん1986ねんおこなわれた初代しょだいIWGPジュニアヘビーきゅう王座おうざ決定けっていせんにも出場しゅつじょうした。道場どうじょうほうでは若手わかてのコーチとして、山本やまもとしょうてつとも選手せんしゅのまとめやくとなって活躍かつやくした。

1989ねん3月、しん日本にっぽんプロレスへ1972ねん9がつにデビューして以来いらい16ねんはんわた現役げんえき生活せいかつから、一旦いったん退しりぞいた[10]

1990ねん10月16にちメガネスーパー設立せつりつしたしん団体だんたいSWS」への入団にゅうだん表明ひょうめいし、しん日本にっぽん退団たいだんから1ねん7かげつぶりに現役げんえき復帰ふっきたした[11]

1992ねん6がつ、SWSが崩壊ほうかいしたのち荒川あらかわ1人ひとりのみメガネスーパー社員しゃいんレスラーとしてSWS所属しょぞく名乗なのっており[12]プロフェッショナルレスリング藤原ふじわらぐみなどに参戦さんせんした。

1996ねん藤原ふじわら喜明よしあきとともに全日本ぜんにほんプロレスはつ参戦さんせん。6にんタッグマッチながらジャイアント馬場ばばとのはつ対戦たいせん実現じつげんした。翌年よくねん1997ねんには、全日本ぜんにほんプロレスの25周年しゅうねん記念きねん前夜祭ぜんやさい馬場ばばえいはじめと3にんトリオをんで出場しゅつじょうしている。その2006ねんにはビッグマウス・ラウドなどにも参戦さんせんした。

2007ねん5月2にち・3にちの2日間にちかんしん日本にっぽんプロレス創立そうりつ35周年しゅうねん節目ふしめとなる後楽園こうらくえんホール2連戦れんせんで1989ねん3がつ以来いらい、18ねんぶりに古巣ふるすマットへ登場とうじょうした。いずれもだい1試合しあい若手わかて[13]相手あいてにコミカルなファイトをせて健在けんざいぶりをアピールし、見事みごと勝利しょうりおさめた。

2011ねん3月6にちNJPWグレーテストレスラーズ受賞じゅしょう[14]

2017ねん11月5にち死去しきょ。71さいぼつ関係かんけいしゃはなしによると、荒川あらかわ一線いっせん退しりぞいたのち携帯けいたいゲームの会社かいしゃ営業えいぎょう部長ぶちょうしょくつとめていたが、1ねんぐらいまえから連絡れんらくれなくなっていたという[1]

エピソード[編集へんしゅう]

  • ひととすぐにってしたしく出来できあかるい性格せいかくぬしで、これまでにおおくのタニマチとの交流こうりゅうをはじめ、ひとひととのコミュニケーション大切たいせつにする人物じんぶつだった。本人ほんにんいわく「自分じぶんわせがくても全国ぜんこく美味おいしいものべられたので、本当ほんとうにありがたいです」とかたっている。また1990ねん当時とうじメガネスーパー社長しゃちょうであった田中たなか八郎はちろうとのつながりがえんで、しん団体だんたいSWSが旗揚はたあげされている[15]。また長嶋ながしま茂雄しげおい、SWSの会場かいじょう招待しょうたいしたこともあった。その経緯けいいは「多摩川たまがわ沿いをジョギングしているときによく長嶋ながしまさんとおいしまして、それからようになりましたね」[16]とのこと。
  • 試合しあいほうではコミカルなうごきにてっしていたが、実際じっさいシュート即座そくざ対応たいおう出来でき屈指くっし実力じつりょくしゃでもあった。またスパーリングでも容赦ようしゃ手加減てかげんはせず、若手わかて選手せんしゅ徹底的てっていてききたいている[17]。しかし調子ちょうし短所たんしょがあり、道場どうじょうアントニオ猪木いのき々とシュートをいどむが、かえちにってとされている。またタイガーマスクになるまえ佐山さやまさとし練習れんしゅうで「オィ、ちょっと佐山さやまぁ!、よくいてろよ!おまえにはなぁ、真剣しんけん勝負しょうぶというものおしえてやるんだからさ!ちょっといいかぁ、よくてるんだぞ!」とみずか意気込いきごんでいたが、佐山さやまのキック一発いっぱつであっけなくたおされてしまった[1]
  • 前座ぜんざおも出場しゅつじょうした選手せんしゅであったが、選手せんしゅ全員ぜんいん集結しゅうけつするになるとアントニオ猪木いのき坂口さかぐちせいぐ3番目ばんめ存在そんざいだった。また猪木いのきたいし「今日きょうはちょっと二日酔ふつかよいでからだがしんどいんですよねぇ…」ともうると「あ〜、そうなのか?じゃあ今日きょうは(試合しあいを)べつやすみにしてもかまわないし。きにめちゃっていいよ」とわれ、特別とくべつ試合しあい欠場けつじょうするのを許可きょかされていた。
  • 試合しあいはこびにかんしては選手せんしゅからも一目いちもくかれた存在そんざいで、ほとんどの選手せんしゅひかしつからせきはなれて観戦かんせんしていた[18]大会たいかいじょう限定げんていてきおこなわれたえいはじめとのひょうきんなシングルせんは、ファンだけでなく猪木いのきひそかにたのしみにしていた。
  • 橋本はしもとしんは「荒川あらかわさんには本当ほんとう色々いろいろ人生じんせいおしえてもらったんだよなぁ…」とかたるほどふか師事しじし、非常ひじょう信頼しんらいいていた。橋本はしもとさけせきちらし寿司ずしを3はい余裕よゆうたいらげたのちに、寿司ずしべさせてさらにく追加ついか注文ちゅうもんしたり、さけ沢山たくさんってきなだけませていた。またさけったいきおいと若気わかげいたりもあり、調子ちょうしりタニマチのまえ生意気なまいきなことをくちにした橋本はしもとこうに、ばし小突こづいてだまらせたという微笑ほほえましいエピソードもある。しかし荒川あらかわ橋本はしもとのことを手厚てあつ可愛かわいがってており、地元じもと鹿児島かごしま酒造しゅぞう会社かいしゃである神酒みきづくりに「破壊はかいおう」という焼酎しょうちゅう受注じゅちゅうしていた。またプロレスリングZERO-ONE崩壊ほうかい現役げんえき復帰ふっき準備じゅんびすすめていた橋本はしもとのためにスポンサー獲得かくとく奔走ほんそうしていた[19]
  • ホノルルマラソン参加さんかしたことがあり、見事みごと完走かんそうした実績じっせきっている[20]
  • からだ非常ひじょうやわらかく柔軟じゅうなんうえに、また特技とくぎひとつとしていた。試合しあい開始かいしまえにはウォーミングアップねて自慢じまんまたりを時折ときおりコーナーで披露ひろうすることもあり、観客かんきゃくから歓声かんせいがりじょうなごませていた。

逸話いつわ[編集へんしゅう]

  • しん日本にっぽんプロレス時代じだいに、合宿がっしゅくしょぎてしまいはらくるしくなり、救急きゅうきゅうしゃ病院びょういん搬送はんそうされてなか洗浄せんじょう措置そちをした。その体調たいちょうはすっかりと回復かいふくし、ケロッとして合宿がっしゅくしょかえるといきなり第一声だいいっせいに「あ〜あ〜!、おなかいてしまってどうしょうもないんだけどなぁ〜」と、おもわずさけんでしまった。
  • わかころ中性ちゅうせい脂肪しぼう平均へいきん正常せいじょうが、通常つうじょう『150』以内いないだったにもかかわらず自身じしんなんと『3250』もあり、普通ふつうひととは非常ひじょうはなれた数値すうち自慢じまんひとつでもあった。
  • 巡業じゅんぎょうさき旅館りょかんでは藤原ふじわら喜明よしあき佐山さやまサトル前田まえだ日明ひあがり。そして荒川あらかわの4にん女性じょせい風呂ふろへの「のぞ目的もくてき」のためにほぼ毎日まいにちかよってあしはこび、腕立うでたて・懸垂けんすい状態じょうたい試合しあいとき以上いじょう真剣しんけん心構こころがまえと顔付かおつきでのぞきにいどんだ。前田まえだはこのころについて「練習れんしゅうでやる腕立うでたてや懸垂けんすいってさ、すぐつかれるし長続ながつづきはしないうえにやるしなかったけど、これが「のぞ目的もくてき」になると不思議ふしぎとやるきるし、気合きあいや根性こんじょうはいってなんでも出来できちゃってさ、ながつづけられたよな。あのとき精神せいしんりょくすごかったなぁって本当ほんとうかんじるんだよ。やれってわれてもいまじゃ出来できないね」と、若手わかて時代じだい回顧かいこしている。
  • とある荒川あらかわ藤原ふじわら佐山さやま2人ふたり女性じょせい風呂ふろへののぞきにさそわれた。だが「おれかないからわるいね!」と、それをってしまう。翌朝よくあさになっても女性じょせい風呂ふろにはだれないうえに、佐山さやまからだえて風邪かぜいた。それから30ねんほど経過けいかしたとき荒川あらかわ藤原ふじわらに「じつはあのときのおはなしだけどさ、旅館りょかんでチェックインしたときに、女将おかみさんにおきゃくさんは沢山たくさんてますか?ってたずねたら、今日きょうだれていないなんていちゃったらかないよねぇ…。わるいんだけど」と告白こくはくした。それをいた藤原ふじわらは「え〜っ!それをさきおしえてくれなきゃなぁ〜。おれたちはあのときあさ4までっても女性じょせい全然ぜんぜんないし、佐山さやま風邪かぜくしさぁ〜。あのときはやられたよね」と、ぼやき気味ぎみけていた。
  • 若手わかて時代じだいころからだせんこまかかった前田まえだ日明ひあがりから「荒川あらかわさぁ〜ん!かた筋肉きんにくけるにはどうしたらいいんですかね?」とかれたが、そのさいに「それにはまずおまえさぁ、はじめにベンチプレス一番いちばんだよね!」とおしえ「では、背中せなか筋肉きんにくはどうすればきますかね?」とつづけてかれて「それにもまずおまえさぁ、はじめにベンチプレスが一番いちばんだよね!」とつづおなおしえをいており、ベンチプレスをもちいたトレーニングの大切たいせつさを伝授でんじゅしている。
  • おなじく若手わかて時代じだい前田まえだ日明ひあがりたいして、かれ大切たいせつ愛飲あいいんしていたプロテインを「わるいけど、だまってすこんじゃおうかなぁ…」といういたずらこころみる。しかし前田まえだからの仕返しかえしとして、そのなか異物いぶつはいったプロテインをまされるという、ぎゃくにいたずらをかえされてしまった。
  • 「よおっしい、けぇ〜ぃ!!」「よっしゃあ、どんどんやれぇ〜ぃ!!」などとリング元気げんきよくおおきなこえげることもあり、選手せんしゅたい直接ちょくせつ気合きあいをれてけた[23]
  • 前座ぜんざ試合しあい中心ちゅうしん荒川あらかわは、試合しあいのテレビ中継ちゅうけいがほとんどかった。しかしメインイベントのテレビ中継ちゅうけいで、試合しあいちゅう試合しあい終了しゅうりょう自分じぶんがテレビにうつ位置いちへセコンド・リングサイドにしっかりと正確せいかく陣取じんどっており、試合しあいわるとさきにリングインしてテレビへ確実かくじつうつ自分じぶん存在そんざい全国ぜんこくひろめるという「目立めだちたがり」のいちめんっていた。
  • 宴席えんせきさい猪木いのき坂口さかぐちらがそろそろかえりたくなってると「おいちょっと荒川あらかわァ…。すまないがたのむよ〜」とたすけをもとめてるので、アイス・ペール高級こうきゅうしゅであるレミー・マルタン・コニャックを遠慮えんりょなくみ、それを豪快ごうかい一気いっきみして「あぁ〜、美味うまいよねぇ〜!! 是非ぜひもういちはい、おねがいしまぁ〜す!!」というながれになると、たとえ支援しえんしゃ後援こうえんかいであっても一本いっぽんすうまんえんする高級こうきゅうしゅなんほん豪快ごうかい一気いっきみされてしまうと、予算よさんかさ経理けいりにも影響えいきょうるため宴席えんせきほうも「さぁて、もうそろそろかえりましょうか〜」と、ながてきにおひらきになるという宴席えんせきでの役割やくわり充分じゅうぶん心得こころえていた。
  • 長州ちょうしゅうりょくひきいる長州ちょうしゅうぐんしん日本にっぽんプロレスから大量たいりょう離脱りだつした当日とうじつ荒川あらかわ新人しんじんでスター候補こうほ武藤むとうたかし橋本はしもとしん姿すがたえてしまう。新日本しんにほん首脳しゅのうじんは「やっぱり武藤むとう橋本はしもとも、かれら(長州ちょうしゅうぐん)にかれたのかなぁ…。まいったよね」と残念ざんねんそうにかたっていた。なかあきらめていたところ荒川あらかわ武藤むとう橋本はしもとれて悠々ゆうゆうかえってた。じつかれらを荒川あらかわ大好だいすきなソープランドさそい、あそびにってただけのはなしであった[18]
  • 試合しあいでは体力たいりょく消耗しょうもうせずぎゃく温存おんぞんしてしまい、ほとんど自身じしんからだ使つかわないでわるため、あせなが目的もくてきもあり試合しあい最低さいてい1あいだほどランニングをし、そのぶん体力たいりょく消費しょうひするようにしていた。

得意とくいわざ[編集へんしゅう]

身体しんたい非常ひじょうやわらかい荒川あらかわせるわざであり、かたちととのった綺麗きれいなジャーマン・スープレックスを披露ひろうしていた。
相手あいて選手せんしゅタイツすそ[24]ってTバックじょうにしてげてしまい、観客かんきゃくさらようにした。
まえみつつひだりけんげて、みぎこぶし相手あいてあごはなつ。形勢けいせい逆転ぎゃくてんねらうときにした打撃だげきわざである。
荒川あらかわ十八番じゅうはちばんわざひとつでタイミングも絶妙ぜつみょうである。相手あいて選手せんしゅ気付きづかれずに不意打ふいうちに攻撃こうげきするのも見所みどころであった。
相手あいて選手せんしゅをコーナーポストにばしてはしぜんてんをする。その両手りょうて不格好ぶかっこう非常ひじょう奇妙きみょうかつ魑魅魍魎ちみもうりょうかんじで、まるで幽霊ゆうれいおよびれいまぼろし道士どうし登場とうじょうするキョンシーように、りょう手首てくび下向したむきにしてダランとさせており、そのりょう手首てくび上向うわむきにえ、何故なぜ手前てまえすという異質いしつ不可解ふかかいなポーズをり、そしてうさぎカエルまたはカンガルーように『ピョッコォォ〜ン!・ピョッコォォ〜ン!』と、斬新ざんしん奇抜きばつねながら移動いどうをしてコーナーの相手あいて目掛めが喉元のどもとくという、のある非常ひじょうにユニークな攻撃こうげきだった[25]
時折ときおり披露ひろうし、フィニッシャーにもしていた。シューターとしての荒川あらかわ技量ぎりょう一端いったん垣間見かいまみせてくれるわざである。
  • 看護かんごかた
監獄かんごくかためをアレンジしたようなわざで、基本きほんてきにはおなじである。
  • 市役所しやくしょかた
監獄かんごくがためにているが、自分じぶんあしではなくうで相手あいてあしをロックする。
  • サラ金さらきんかた
くびきわめるわざ名前なまえ由来ゆらいは「借金しゃっきんで『くび』がまわらなくなるから」が由来ゆらい
  • 年金ねんきんかた

など、名前なまえ面白おもしろたのしませたわざ色々いろいろっていた。

タイトルれき[編集へんしゅう]

  • WWCカリビアン・タッグ王座おうざ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c プロレスラー、ドン荒川あらかわさん死去しきょ…「ひょうきんプロレス」で新日本しんにほん前座ぜんざ戦線せんせんかす”. スポーツ報知ほうち (2017ねん12月2にち). 2018ねん3がつ5にち閲覧えつらん
  2. ^ 新人しんじん時代じだい浜田はまだは、リングネームを「リトル浜田はまだ」に改名かいめいして活躍かつやくしたことがあり、ちいさな体格たいかくであるが身長しんちょう195センチの大柄おおがらレスラーであった小沢おざわただしこころざしキラー・カーン)に勝利しょうりした実績じっせきもある。
  3. ^ 荒川あらかわ栗栖くりすは1946ねんまれのおなとしでもあり、さらにレスリングの経歴けいれき双方そうほうにあってさらにプロレススタイルもているため、新人しんじん時代じだいからつね意識いしきうライバル同士どうしでもあった。試合しあい開始かいしまえになるとおたがいのおでことおでこをつきわせて、非常ひじょうはげしいにらいをする場面ばめん見受みうけられた。
  4. ^ 木村きむら健吾けんご海外かいがい遠征えんせいをしていた当時とうじ短期間たんきかんではあるがべつのリングネームである「ケンドー・キムラ」を名乗なのって活躍かつやくしていた。
  5. ^ WWC Caribbean Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2012ねん4がつ8にち閲覧えつらん
  6. ^ 80年代ねんだい初期しょきから放送ほうそうしていたフジテレビのバラエティー番組ばんぐみオレたちひょうきんぞくないのコーナー「ひょうきんプロレスアワー」とのつながりがある。どうコーナーには、荒川あらかわえいはじめ2人ふたりもゲストとして出演しゅつえんしていた。
  7. ^ 荒川あらかわ試合しあい着用ちゃくようしていたタイツが力道山りきどうざんおなじくくろいロングタイプだったため、容姿ようし体格たいかく力道山りきどうざんていたところもあった。
  8. ^ バラエティー番組ばんぐみドキュメント番組ばんぐみ再現さいげんドラマで力道山りきどうざんやくとして出演しゅつえんしたこともある。
  9. ^ 荒川あらかわ試合しあい健闘けんとうしたものの、とも荒川あらかわのピンフォールけで決着けっちゃくいている。
  10. ^ 荒川あらかわはこのとき、プロレスを退しりぞいたことについて「しん日本にっぽんプロレスから円満えんまん退社たいしゃしただけであって、プロレスをめたわけではありません」とマスコミにたいしてコメントし、現役げんえき引退いんたい否定ひていしている。
  11. ^ 現役げんえき復帰ふっきたした団体だんたいがこのとき古巣ふるすしん日本にっぽんプロレスからではなく何故なぜライバルとなるしん団体だんたいのSWS(エス・ダブリュー・エス)からだったのか、その真相しんそういまだに不明ふめいである。
  12. ^ SWS(エス・ダフリュー・エス)が崩壊ほうかい組織そしき自体じたいすう年間ねんかんのこっていたこともあり、荒川あらかわ所属しょぞくレスラーを名乗なのつづけていた。なお実際じっさいなん年間ねんかんSWSが現存げんそんしたのかは不明ふめいであり、現在げんざい完全かんぜん消滅しょうめつしている。
  13. ^ 「ワールドプロレスリング」放送ほうそう予定よてい(5がつ19にち放送ほうそうぶん”. しん日本にっぽんプロレス (2007ねん5がつ18にち). 2017ねん12月16にち閲覧えつらん
  14. ^ ドン荒川あらかわ受賞じゅしょう! 「NJPWグレーテストレスラーズ」授賞じゅしょうしき”. しん日本にっぽんプロレス. 2017ねん12月6にち閲覧えつらん
  15. ^ 荒川あらかわは1990ねん10がつに、1ねん7かげつぶりに現役げんえき復帰ふっきたした。ただし古巣ふるすであるしん日本にっぽんプロ・レスリングからではなく、旗揚はたあげしたばかりのしん団体だんたいSWS(エス・ダブリュー・エス)よりあらたに復帰ふっきさいデビュー)するかたちとなった。こういったてんもメガネスーパー社長しゃちょうとのつながりが関係かんけいしている。
  16. ^ なおしん日本にっぽん在籍ざいせき当時とうじから定期ていきてき横浜よこはま中華ちゅうかがいにある、長嶋ながしま名付なづおやみせ天外てんがいてん」で会食かいしょくをしており、しん日本にっぽん若手わかてたち長嶋ながしま紹介しょうかいしていた。
  17. ^ カール・ゴッチスパーリングをしたさいにもなかきわめさせず、しびれをらせたゴッチは荒川あらかわくちゆびまれたこともある。
  18. ^ a b 藤波ふじなみが、初代しょだいタイガーが、武藤むとうがドン荒川あらかわさん生前せいぜん豪快ごうかい秘話ひわかす”. スポーツ報知ほうち (2017ねん12月2にち). 2017ねん12月3にち閲覧えつらん
  19. ^ その橋本はしもとは2005ねんに40さい逝去せいきょし、復帰ふっきほうかなわなかった。
  20. ^ ホノルルマラソン参加さんかのパートナーには、えいみなもとはるかっていた。
  21. ^ しかし、アントニオ猪木いのきがインタビューでブラジルにけるゆめあつかたぎたため、時間切じかんぎれで木村きむら荒川あらかわきょく披露ひろうされなかった。
  22. ^ ほかにもだい1にはアントニオ猪木いのき出演しゅつえんしており、ほかにもジョージ高野たかの小林こばやし邦昭くにあき佐山さやまさとし・リングアナウンサーのばいしょう鉄夫てつお・レフェリーのミスター高橋たかはしなどもゲスト出演しゅつえんしていた。
  23. ^ 元気げんき大声おおごえ同時どうじに、選手せんしゅ背中せなかかたしり素手すでおもいきりぱたいて気合きあいをれた。これはSWS(エス・ダブリュー・エス)に移籍いせきしたのち同様どうようであり、セコンドにいたときおなパライストラ選手せんしゅ部屋へやのエースだったジョージ高野たかのたいし、試合しあいちゅうセコンドにいておおきなこえげて背中せなかかたしり素手すでおとくらいに「パン!、パン!」とつよたたいて選手せんしゅ気合きあいをけている。荒川あらかわ威勢いせいさに周囲しゅうい観客かんきゃくからは、わらいやどよめきがきていた。
  24. ^ 相手あいて選手せんしゅのタイツのすそ両手りょうて強引ごういんげ、それをやぶれてしまうくらい無理矢理むりやりつよるため、タイツが相手あいて選手せんしゅしりようになっていた。
  25. ^ しかしこのわざは、相手あいて選手せんしゅをコーナーポストにばしたのちすき出来できるため、攻撃こうげきけられることもあった。また『ピョッコォォ〜ン!・ピョッコォォ〜ン!』と摩訶不思議まかふしぎ面白おもしろ可笑おかしくへんてこにねている最中さいちゅうは、観客かんきゃくせきからわらいがきてたのしく愉快ゆかいわざでもあった。