逸見 いつみ 政孝 まさたか (いつみ まさたか、1945年 ねん 〈昭和 しょうわ 20年 ねん 〉2月 がつ 16日 にち - 1993年 ねん 〈平成 へいせい 5年 ねん 〉12月25日 にち )は、日本 にっぽん のフリーアナウンサー 、テレビ司会 しかい 者 しゃ 、タレント 。
元 もと フジテレビ アナウンサー 。フジテレビ退社 たいしゃ 後 ご は、三木 みき プロダクション と業務 ぎょうむ 提携 ていけい する個人 こじん 事務所 じむしょ 「オフィスいっつみい(逸見 いつみ の死後 しご オフィスいつみに名称 めいしょう 変更 へんこう )」に所属 しょぞく していた。大阪 おおさか 府 ふ 大阪 おおさか 市 し 阿倍野 あべの 区 く 出身 しゅっしん 。
妻 つま はエッセイスト で所属 しょぞく 事務所 じむしょ 社長 しゃちょう だった逸見 いつみ 晴恵 はるえ 。長男 ちょうなん はタレント の逸見 いつみ 太郎 たろう 、長女 ちょうじょ は元 もと 女優 じょゆう の逸見 いつみ 愛 あい 。
父親 ちちおや は広島 ひろしま 県 けん 尾道 おのみち 市 し の出身 しゅっしん で旧姓 きゅうせい は毛利 もうり 、菓子 かし 問屋 とんや を営 いとな んでいた逸見 いつみ 家 か に養子 ようし として入 はい った。父親 ちちおや は長 なが く福徳 ふくとく 相互 そうご 銀行 ぎんこう に勤務 きんむ した。母親 ははおや は大阪 おおさか の出身 しゅっしん 。
子 こ どもの頃 ころ から映画 えいが 鑑賞 かんしょう が趣味 しゅみ で、特 とく にチャップリン と黒澤 くろさわ 明 あきら の作品 さくひん はすべて観 み たという。「この2人 ふたり に関 かん しては映画 えいが 評論 ひょうろん 家 か の方 かた たちと話 はな してもなんとかなる」と自信 じしん を持 も っていた。
逸見 いつみ が挙 あ げた日本 にっぽん 映画 えいが の最高 さいこう 傑作 けっさく も黒澤 くろさわ の『生 い きる 』だった。フジテレビに入社 にゅうしゃ して間 あいだ もない頃 ころ は、映画 えいが 番組 ばんぐみ を担当 たんとう している先輩 せんぱい アナウンサーのところに映画 えいが の試写 ししゃ 会 かい の案内 あんない が多 おお く届 とど くのを見 み て「自分 じぶん もああなりたい」と思 おも っていたという。後年 こうねん 、映画 えいが 賞 しょう の審査 しんさ 員 いん にも起用 きよう され、それがきっかけで逸見 いつみ にも映画 えいが 試写 ししゃ 会 かい の招待 しょうたい 状 じょう が届 とど くようになって希望 きぼう は果 は たされた。
大阪 おおさか 市立 しりつ 阪南 はんなん 小学校 しょうがっこう 、大阪 おおさか 市立 しりつ 阪南 はんなん 中学校 ちゅうがっこう を経 へ て、大阪 おおさか 府立 ふりつ 阿倍野 あべの 高等 こうとう 学校 がっこう に入学 にゅうがく 。野球 やきゅう 好 す きが高 こう じて硬式 こうしき 野球 やきゅう 部 ぶ に入部 にゅうぶ したが、家計 かけい が苦 くる しくユニフォームが買 か えなかったことやリトルリーグの経験 けいけん がなかったことからマネージャーを志願 しがん し、辣腕 らつわん を振 ふ るう。マネージャーの仕事 しごと が暇 ひま になると、放送 ほうそう 部 ぶ をはじめ様々 さまざま な部 ぶ 活動 かつどう を掛 か け持 も ちしていた。関西学院大学 かんせいがくいんだいがく の受験 じゅけん に失敗 しっぱい した際 さい 、当時 とうじ 付 つ き合 あ っていた女性 じょせい にふられてしまい「見返 みかえ してやりたい」という気持 きも ちがあったことと、文化 ぶんか 祭 さい の司会 しかい や放送 ほうそう 部 ぶ の経験 けいけん から「自分 じぶん にもできそうで高 こう 収入 しゅうにゅう の仕事 しごと 」という理由 りゆう で在京 ざいきょう テレビ局 てれびきょく のアナウンサーを志 こころざ す。早稲田大学 わせだだいがく に進学 しんがく したのも、アナウンサーになるのに最 もっと も有利 ゆうり な大学 だいがく という判断 はんだん からだった。逸見 いつみ の大学 だいがく 時代 じだい は学生 がくせい 運動 うんどう の盛 さか んな時期 じき だったが、就職 しゅうしょく に向 む けた準備 じゅんび に追 お われて目 め もくれなかったという。
1年間 ねんかん の浪人 ろうにん 生活 せいかつ を経 へ て、早稲田大学 わせだだいがく 第 だい 一 いち 文学部 ぶんがくぶ 演劇 えんげき 学科 がっか に入学 にゅうがく 。大学 だいがく ではアナウンス研究 けんきゅう 会 かい に所属 しょぞく 。大阪 おおさか 出身 しゅっしん であったためそれまでは大阪 おおさか 方言 ほうげん を話 はな していたが、標準 ひょうじゅん 語 ご のアクセントを徹底的 てっていてき に覚 おぼ えた。ラジオとテープレコーダーを購入 こうにゅう し、ラジオでアナウンサーの声 こえ を聞 き き、テープレコーダーで新聞 しんぶん 記事 きじ を読 よ む自分 じぶん の声 こえ を録音 ろくおん 。アクセント辞典 じてん を見 み ながら録音 ろくおん した自分 じぶん の声 こえ を聞 き き、間違 まちが ったアクセントで発音 はつおん した語句 ごく はペンでマーク。また、その語句 ごく を黒板 こくばん に書 か き、覚 おぼ えるまで消 け さないようにした。さらに、日常 にちじょう でも標準 ひょうじゅん 語 ご で話 はな すようにした。こうした努力 どりょく が実 みの り、フジテレビのアナウンサー試験 しけん では試験 しけん 官 かん から出身 しゅっしん 地 ち を確 たし かめられたという程 ほど の実力 じつりょく で、フジテレビ入社 にゅうしゃ 後 ご には、毎年 まいとし の新 しん 社員 しゃいん 研修 けんしゅう にて「当社 とうしゃ にはアクセント辞典 じてん を食 た べた特異 とくい 体質 たいしつ の男 おとこ がいる」と語 かた られるようになる。逸見 いつみ は自著 じちょ で「大学 だいがく 時代 じだい 、(第 だい 2外国 がいこく 語 ご で必要 ひつよう だった)フランス語 ふらんすご 辞典 じてん は真 ま っ白 しろ だったが、アクセント辞典 じてん は真 ま っ黒 くろ だった」と語 かた っている。父親 ちちおや に「アナウンサーになりたい」と告 つ げると「お前 まえ のやりたいようにやれや」と認 みと められた。大学 だいがく 時代 じだい は早稲田 わせだ 祭 さい で司会 しかい を務 つと めた。
大阪 おおさか 弁 べん を完全 かんぜん に矯正 きょうせい して専 もっぱ ら標準 ひょうじゅん 語 ご で話 はな していた一方 いっぽう で[ 注 ちゅう 1] 、言葉 ことば 以外 いがい では関西 かんさい 出身 しゅっしん 者 しゃ としての誇 ほこ りを持 も ち続 つづ けた。当時 とうじ 、大阪 おおさか から東京 とうきょう に進出 しんしゅつ したばかりで、全国 ぜんこく 的 てき には無名 むめい だったお笑 わら いコンビのダウンタウン などの若手 わかて タレントを可愛 かわい がり、プロ野球 やきゅう は当時 とうじ 低迷 ていめい が続 つづ いていた阪神 はんしん タイガース を生涯 しょうがい 変 か わらず愛 あい し続 つづ けた。関東 かんとう での阪神 はんしん の試合 しあい には、家族 かぞく で頻繁 ひんぱん に応援 おうえん に訪 おとず れていた。父親 ちちおや ・政孝 まさたか ・息子 むすこ の太郎 たろう と親子 おやこ 3代 だい 続 つづ く阪神 はんしん ファン だと著書 ちょしょ で公言 こうげん している。
早稲田大学 わせだだいがく の同期 どうき で友人 ゆうじん でもあった松倉 まつくら 悦郎 えつろう とともにフジテレビのアナウンサー試験 しけん を突破 とっぱ し、大学 だいがく 卒業 そつぎょう 後 ご の1968年 ねん 4月 がつ 、フジテレビに入社 にゅうしゃ 。同期 どうき 入社 にゅうしゃ にはアナウンサーでは松倉 まつくら 、山川 やまかわ 建夫 たけお 、小林 こばやし 節子 せつこ 、竹下 たけした 典子 のりこ 、山根 やまね 佳代子 かよこ [ 5] 、他 た 職 しょく では坂井 さかい 義則 よしのり 、須賀 すか 勝彌 かつや がいる。
最終 さいしゅう 面接 めんせつ の際 さい 、当時 とうじ のフジテレビ社長 しゃちょう だった鹿内 しかない 信隆 のぶたか が「早稲田 わせだ の文学部 ぶんがくぶ から2人 にん 受 う けているか。君 きみ 、どちらか1人 にん しか受 う からないとなったらどうするかね?」という質問 しつもん をした。質問 しつもん に困 こま り果 は てた逸見 いつみ はとっさに「そ、それは困 こま ります」と答 こた え[ 注 ちゅう 2] 、その場 ば にいた重役 じゅうやく たちは笑 え みを浮 う かべた。逸見 いつみ は、「松倉 まつくら にも同 おな じ質問 しつもん をして松倉 まつくら も同 おな じように答 こた えたのだな」と思 おも ったという。この言葉 ことば が最終 さいしゅう 的 てき に2人 ふたり そろっての採用 さいよう の決 き め手 て になったと言 い われる。なお、1967年 ねん 7月 がつ 3日 にち 午後 ごご 5時 じ というフジテレビの入社 にゅうしゃ 試験 しけん の合格 ごうかく 発表 はっぴょう の日時 にちじ を、逸見 いつみ は終生 しゅうせい 覚 おぼ えていたという。また、並行 へいこう して高校 こうこう の先輩 せんぱい の乾 いぬい 浩明 ひろあき がいた地元 じもと ・大阪 おおさか の朝日放送 あさひほうそう の入社 にゅうしゃ 試験 しけん も受 う けてカメラテストまで通過 つうか していたが、フジテレビの内定 ないてい を得 え たため辞退 じたい した。
若手 わかて 時代 じだい の逸見 いつみ は、「暗 くら い」「つまらない」「売 う れないだろう」という否定 ひてい 的 てき な見方 みかた が大勢 おおぜい であったが、大橋 おおはし 巨泉 きょせん は「わかんないぞ。逸見 いつみ が突然 とつぜん 、人気 にんき アナウンサーになるかもしれない」と後年 こうねん の活躍 かつやく を予見 よけん していたという。若手 わかて 時代 じだい 組合 くみあい 運動 うんどう に熱心 ねっしん だった時期 じき があり、先輩 せんぱい アナの岩佐 いわさ 徹 とおる 等 ひとし も声 こえ をかけ、岩佐 いわさ が断 ことわ ると一 いち 時期 じき 逸見 いつみ との関係 かんけい が気 き まずくなった時期 じき があるという。
当初 とうしょ はスポーツ アナウンサーとして活躍 かつやく し、輪島 わじま 功一 こういち の世界 せかい タイトルマッチ の実況 じっきょう を中心 ちゅうしん にプロボクシング 中継 ちゅうけい を担当 たんとう 。ボクサーより先 さき に倒 たお れるのではないかと思 おも われる程 ほど の絶叫 ぜっきょう 調 ちょう の実況 じっきょう で頭角 とうかく を現 あらわ した[ 注 ちゅう 3] 。ボクシング以外 いがい にもバレーボール の実況 じっきょう 中継 ちゅうけい も担当 たんとう しており、全国 ぜんこく 高等 こうとう 学校 がっこう バレーボール選抜 せんばつ 優勝 ゆうしょう 大会 たいかい や日本 にっぽん バレーボールリーグ の中継 ちゅうけい でもマイクロフォン サイドに立 た っている。ただし自著 じちょ によると、練習 れんしゅう 当初 とうしょ はバレーボールの六 ろく 人 にん 制 せい と九 きゅう 人 にん 制 せい とのルールの違 ちが いも知 し らなかったという。
スポーツ中継 ちゅうけい と並行 へいこう して、ワイドショー 『3時 じ のあなた 』のサブ司会 しかい 者 しゃ としても活躍 かつやく した。また、フジテレビが制作 せいさく に関 かか わっていたテレビドラマ『金 きん メダルへのターン! 』や、特撮 とくさつ テレビ映画 えいが 『ミラーマン 』にもアナウンサー役 やく で出演 しゅつえん している。
その後 ご は報道 ほうどう 番組 ばんぐみ へ転属 てんぞく し、1976年 ねん に『FNNテレビ土曜 どよう ・日曜 にちよう 夕刊 ゆうかん 』で週末 しゅうまつ のニュースを担当 たんとう したことを皮切 かわき りに、1978年 ねん 平日 へいじつ 放送 ほうそう の『FNNニュースレポート6:30 』(関東 かんとう ローカル番組 ばんぐみ )のキャスターとなった。当時 とうじ のニュース番組 ばんぐみ のキャスターに逸見 いつみ の年代 ねんだい で起用 きよう されるのは珍 めずら しかった[ 注 ちゅう 4] 。それから2年 ねん 余 あま りが経過 けいか した頃 ころ 、TBSで同 どう 時間 じかん 帯 たい に放送 ほうそう されていた『テレポート6 』を見 み て感銘 かんめい を受 う けた事 こと から、アナウンス研究 けんきゅう 会 かい の先輩 せんぱい でもあり、当時 とうじ 同 どう 番組 ばんぐみ のキャスターであったTBS アナウンサーの山本 やまもと 文郎 ふみお に直接 ちょくせつ 電話 でんわ をかけ、どのようにすれば質 しつ の高 たか いニュース番組 ばんぐみ になるのかを尋 たず ねた。山本 やまもと からは「できるだけ現場 げんば へ行 い くように」と指導 しどう を受 う けた。その後 ご 、逸見 いつみ は共演 きょうえん の田丸 たまる 美寿々 みすず とともに、様々 さまざま な現場 げんば へ取材 しゅざい に出向 でむ く。取材 しゅざい 範囲 はんい は原則 げんそく 的 てき に関東 かんとう 地方 ちほう に限 かぎ られたが、時折 ときおり それ以外 いがい の地域 ちいき へ赴 おもむ いたこともあり、山口組 やまぐちぐみ 三 さん 代目 だいめ 田岡 たおか 一雄 かずお 組長 くみちょう 狙撃 そげき 犯 はん の死体 したい が発見 はっけん された際 さい には、神戸 こうべ の山口組 やまぐちぐみ 本部 ほんぶ に突撃 とつげき 取材 しゅざい を行 おこな ったこともある。
1980年 ねん 頃 ごろ から、自宅 じたく 新築 しんちく のために結婚式 けっこんしき の司会 しかい などの副業 ふくぎょう を始 はじ めた。知名度 ちめいど が上 あ がるのに伴 ともな って副 ふく 収入 しゅうにゅう も増 ふ え、フジテレビを退社 たいしゃ する頃 ころ には給料 きゅうりょう の倍 ばい 以上 いじょう の額 がく を稼 かせ ぐ程 ほど になっていた。このため、20年 ねん 返済 へんさい で組 く んだ住宅 じゅうたく ローンもわずか6年 ねん で完済 かんさい 。一方 いっぽう で、副 ふく 収入 しゅうにゅう が増 ふ えたことで追徴 ついちょう 課税 かぜい がなされるようになっていた。逸見 いつみ がこのことを知人 ちじん に相談 そうだん したところ「必要 ひつよう 経費 けいひ が認 みと められるから独立 どくりつ するのが一番 いちばん 良 よ い」と返答 へんとう された。それまで「フリーには絶対 ぜったい ならない」と公言 こうげん していた逸見 いつみ は、「管理 かんり 職 しょく 昇進 しょうしん でアナウンスの現場 げんば から離 はな れたくない」という気持 きも ちもあり、方針 ほうしん を転換 てんかん し、独立 どくりつ を検討 けんとう する契機 けいき となった。
1984年 ねん 4月 がつ にワシントン支局 しきょく 長 ちょう になった山川 やまかわ 千秋 ちあき の後任 こうにん として『FNNニュースレポート6:00 』のキャスターに就任 しゅうにん し、同年 どうねん 10月 がつ に後 こう 番組 ばんぐみ としてスタートした『FNNスーパータイム 』の初代 しょだい メインキャスターも引 ひ き続 つづ き担当 たんとう 。幸田 こうだ シャーミン とのコンビで人気 にんき を博 はく す。また、1985年 ねん 4月 がつ から開始 かいし した『スーパータイム』の前 ぜん 時間 じかん 帯 たい の生放送 なまほうそう 番組 ばんぐみ 『夕 ゆう やけニャンニャン 』に設 もう けられていた同 どう 番組 ばんぐみ の予告 よこく コーナーに、放送 ほうそう 曜日 ようび である月曜 げつよう から金曜 きんよう まで毎日 まいにち に渡 わた って出演 しゅつえん したが、片岡 かたおか 鶴太郎 つるたろう やとんねるず との当意即妙 とういそくみょう なやりとりが視聴 しちょう 者 しゃ の注目 ちゅうもく を集 あつ め、これが逸見 いつみ の転機 てんき となった。当時 とうじ までのニュースキャスターといえば堅物 かたぶつ で真面目 まじめ 一直線 いっちょくせん といった人間 にんげん が就 つ く職業 しょくぎょう というイメージしかなく、当時 とうじ の逸見 いつみ の外見 がいけん も「七 なな 三 さん 分 わ け」に「黒縁 くろぶち メガネ」と、その例 れい に漏 も れなかったが、ひょうきんなキャラクター、そのギャグセンスの高 たか さとのギャップが若年 じゃくねん 層 そう の視聴 しちょう 者 しゃ に意外 いがい 性 せい をもって受 う け入 い れられた。そして、番組 ばんぐみ 開始 かいし からおよそ1か月 げつ 後 ご 、「逸見 いつみ のことを知 し りたい」という十 じゅう 代 だい の視聴 しちょう 者 しゃ からの投書 とうしょ が番組 ばんぐみ に舞 ま い込 こ むようになり、それに応 こた えるかたちで別 べつ コーナーにもゲスト出演 しゅつえん する。逸見 いつみ の番組 ばんぐみ 内 ない 人気 にんき は過熱 かねつ の様相 ようそう を呈 てい していて、鶴太郎 つるたろう から「ブロマイド は出 だ さないんですか?」とアイドル的 てき 人気 にんき にひっかけたギャグを振 ふ られるなどして大 おお いに盛 も り上 あ がるが、早速 さっそく 翌日 よくじつ にはマルベル堂 どう から本当 ほんとう にブロマイド発行 はっこう のオファーが舞 ま い込 こ み、フジテレビと逸見 いつみ は驚 おどろ きながらも受諾 じゅだく 。テレビアナウンサーのブロマイド製作 せいさく は史上 しじょう 初 はつ の出来事 できごと であったが、何 なん の変哲 へんてつ もない中年 ちゅうねん 男性 だんせい の外見 がいけん であった逸見 いつみ の心配 しんぱい をよそに瞬 しばた く間 あいだ に大 だい ヒットし、売 う れ筋 すじ 商品 しょうひん となった[ 7] 。その後 ご も『夕 ゆう やけニャンニャン』と『スーパータイム』の視聴 しちょう 率 りつ が上 あ がるに連 つ れ、逸見 いつみ の人気 にんき も急上昇 きゅうじょうしょう し、1年間 ねんかん で170社 しゃ もの取材 しゅざい を受 う け、著書 ちょしょ やレコードも立 た て続 つづ けに出 だ していくようになる[ 8] 。
1985年 ねん 8月 がつ 12日 にち 、『スーパータイム』の担当 たんとう を先輩 せんぱい の露木 つゆき 茂 しげる に任 まか せ、夏休 なつやす みを取 と って一家 いっか 全員 ぜんいん で大阪 おおさか へ帰省 きせい した。この時 とき 、羽田 はた 発 はつ 伊丹 いたみ 行 くだり 日本航空 にほんこうくう 123便 びん への搭乗 とうじょう を希望 きぼう していたが、すでに満席 まんせき で予約 よやく できなかった。その後 ご 、晴恵 はるえ が実母 じつぼ に帰省 きせい の件 けん を話 はな すと「もし事故 じこ でも起 お きたらどうするんだい」と言 い われ、この一言 ひとこと に重 おも みを感 かん じて「4人 にん なら新幹線 しんかんせん の方 ほう が安 やす い」と提案 ていあん し、直前 ちょくぜん に東海道新幹線 とうかいどうしんかんせん に変更 へんこう したため、墜落 ついらく 事故 じこ の難 なん を逃 のが れた[ 9] 。逸見 いつみ は団欒 だんらん の際 さい にテレビで事故 じこ の第一報 だいいっぽう を知 し り、すぐさま報道局 ほうどうきょく に電話 でんわ を入 い れたが「とりあえずいいよ」と返答 へんとう された。もっとも、電話 でんわ した時点 じてん で交通 こうつう 手段 しゅだん が乏 とぼ しく、当日 とうじつ 中 ちゅう に東京 とうきょう に戻 もど れる目途 もくと が立 た たなかったため、すっぱり諦 あきら めて『FNN報道 ほうどう 特別 とくべつ 番組 ばんぐみ 』を見守 みまも ることにした。「翌日 よくじつ の一番 いちばん で帰京 ききょう しても、ニュースのクライマックス、いちばんおいしいところだけをいただくために帰 かえ るようなものだ。もし自分 じぶん が逆 ぎゃく の立場 たちば だったら、替 か わろうと言 い われても、マイクにしがみついて離 はな さないだろう」と考 かんが え、翌 よく 13日 にち も帰京 ききょう せず、予定 よてい 通 どお り家族 かぞく で京都 きょうと 見物 けんぶつ に出 で かけた。フジテレビのクルーがいち早 はや く伝 つた えた事故 じこ の奇跡 きせき 的 てき な救出 きゅうしゅつ 劇 げき は、京都 きょうと 駅 えき 前 まえ で配 くば られた号外 ごうがい を受 う け取 と って知 し った。この時 とき の露木 つゆき の仕事 しごと ぶりに逸見 いつみ はいたく感銘 かんめい し、「徹夜 てつや 体制 たいせい だったこの時 とき 、原稿 げんこう なしでニュース画面 がめん だけを見 み ながら何 なん 時 じ 間 あいだ も話 はな し続 つづ けられるアナウンサーは、業界 ぎょうかい 広 ひろ しといえども露木 つゆき しかいないだろう。その手腕 しゅわん を遺憾 いかん なく発揮 はっき した見事 みごと な報道 ほうどう 、キャスターぶりを民放 みんぽう 一 いち のアナウンサーだ」と、後 のち に著書 ちょしょ で絶賛 ぜっさん した(事実 じじつ 、露木 つゆき はこの一 いち 件 けん で日本 にっぽん 新聞 しんぶん 協会 きょうかい 賞 しょう を受賞 じゅしょう した)。
人気 にんき の高 たか まりを受 う け、1986年 ねん には映画 えいが 『コミック雑誌 ざっし なんかいらない! 』にも出演 しゅつえん 。奇 く しくも、日本航空 にほんこうくう 123便 びん の機 き 影 かげ が羽田 はた のレーダーから消 き えたと臨時 りんじ ニュースで報 ほう じるアナウンサー役 やく であった。
また、バラエティ番組 ばんぐみ への出演 しゅつえん が増 ふ え、同年 どうねん からそれまで21年 ねん 連続 れんぞく で司会 しかい を務 つと めてきた高橋 たかはし 圭三 けいぞう の勇退 ゆうたい を受 う けて、『新春 しんしゅん かくし芸 げい 大会 たいかい 』の司会 しかい を芳村 よしむら 真理 まり とのコンビで担当 たんとう 、名実 めいじつ 共 ども にフジテレビを代表 だいひょう する看板 かんばん アナウンサーとしての地位 ちい を確立 かくりつ する。また、この年 とし にはベスト・ファーザー イエローリボン賞 しょう にも選出 せんしゅつ された。
1987年 ねん に勤続 きんぞく 20年 ねん を迎 むか えた逸見 いつみ は、管理 かんり 職 しょく に昇格 しょうかく したことにより、『スーパータイム』以外 いがい の番組 ばんぐみ への出演 しゅつえん 機会 きかい が徐々 じょじょ に減少 げんしょう 。「生涯 しょうがい 、一 いち アナウンサーでありたい」との思 おも いが強 つよ くなり、同年 どうねん 11月 がつ に退職 たいしょく 願 ねがい を提出 ていしゅつ 。翌 よく 1988年 ねん 3月 がつ 末 まつ を以って、アナウンス部 ぶ 副 ふく 部長 ぶちょう 待遇 たいぐう を最後 さいご にフジテレビを円満 えんまん 退職 たいしょく 。三木 みき プロダクションと業務 ぎょうむ 提携 ていけい を結 むす んだ「オフィスいっつみい」を設立 せつりつ (社長 しゃちょう は晴恵 はるえ で、逸見 いつみ は平 ひら 社員 しゃいん 。逸見 いつみ の死後 しご 「株式会社 かぶしきがいしゃ オフィスいつみ」に社名 しゃめい 変更 へんこう )し、フリーへ転身 てんしん 。
『スーパータイム』については、コンビを組 く んでいた安藤 あんどう 優子 ゆうこ が強 つよ く希望 きぼう したことから、フリー宣言 せんげん 後 ご にも1年間 ねんかん キャスターを続 つづ けた[ 注 ちゅう 5] 。テレビでは『クイズ世界 せかい はSHOW by ショーバイ!! 』、『夜 よる も一生 いっしょう けんめい。 』、『たけし・逸見 いつみ の平成 へいせい 教育 きょういく 委員 いいん 会 かい 』など数 すう 多 おお くの人気 にんき 番組 ばんぐみ の司会 しかい を務 つと め、「いっつみい(It's me)」の愛称 あいしょう で、視聴 しちょう 者 しゃ から高 たか い好感 こうかん 度 ど を得 え た。ラジオの『オールナイトニッポン 』でパーソナリティを務 つと めたこともある。バラエティ番組 ばんぐみ の司会 しかい を担当 たんとう するようになってから、「いっつみい」というニックネームがついた。本人 ほんにん も「司会 しかい は"いっつみい"、逸見 いつみ 政孝 まさたか です」、「司会 しかい はいっつみい、それは私 わたし です」と自己 じこ 紹介 しょうかい をする番組 ばんぐみ も多 おお かった。メディアでの「ユーモア」も評価 ひょうか を増 ま し、1991年 ねん には『ゆうもあ・くらぶ』主催 しゅさい のゆうもあ大賞 たいしょう が授与 じゅよ された[ 11] 。
個性 こせい がまったく異 こと なるタモリ ・ビートたけし ・明石家 あかしや さんま からなるBIG3 を仕切 しき ることができた稀有 けう な司会 しかい 者 しゃ として、また日本 にっぽん を代表 だいひょう する司会 しかい 者 しゃ として知 し られており、前述 ぜんじゅつ の通 とお りBIG3を束 たば ねる能力 のうりょく を持 も つほぼ唯一 ゆいいつ の人物 じんぶつ でもあったため、結果 けっか 的 てき には逸見 いつみ の逝去 せいきょ がBIG3関連 かんれん 企画 きかく の失速 しっそく につながった。なお、逸見 いつみ は著書 ちょしょ で「『SHOW by ショーバイ!!』と『平成 へいせい 教育 きょういく 委員 いいん 会 かい 』が自分 じぶん にとって一番 いちばん 思 おも い入 い れのある仕事 しごと である」と述 の べている。また、BIG3との共演 きょうえん に関 かん して「BIG3の仕切 しき り役 やく だけは絶対 ぜったい 誰 だれ にも譲 ゆず らない」と語 かた った(実際 じっさい には、1990年 ねん の『テレビ夢 ゆめ 列島 れっとう 』では全 ぜん コーナーをフジテレビアナウンサーが進行 しんこう する方針 ほうしん だったことから露木 つゆき が進行 しんこう を担当 たんとう したが、それ以外 いがい はすべて逸見 いつみ が進行 しんこう を担当 たんとう )。また、『夜 よる も一生 いっしょう けんめい。』では、音痴 おんち でありながらも精 しらげ 一 いち 杯 はい に熱唱 ねっしょう していた。
フリー転身 てんしん 後 ご 、間 ま もなく司会 しかい 者 しゃ としての地位 ちい を確立 かくりつ したこともあり、パネラー・解答 かいとう 者 しゃ として他 ほか のバラエティ番組 ばんぐみ に出演 しゅつえん することはほとんどなかったが、例外 れいがい として1993年 ねん 春 はる のTBS 『オールスター感謝 かんしゃ 祭 さい 』に、『逸見 いつみ のその時 とき 何 なに が! 』の代表 だいひょう として、また同年 どうねん 7月 がつ 『マジカル頭脳 ずのう パワー!! 』にはゲスト解答 かいとう 者 しゃ として出演 しゅつえん している。
1991年 ねん 、古舘 ふるたち 伊知郎 いちろう の姉 あね が癌 がん で他界 たかい 。同 おな じフリーアナウンサーであり、比較的 ひかくてき 若 わか い年齢 ねんれい で兄弟 きょうだい を癌 がん で亡 な くした悲 かな しみを知 し る者 もの として、古舘 ふるたち にお悔 く やみの手紙 てがみ を送 おく った。また、四 よん 十 じゅう 九 きゅう 日 にち 法要 ほうよう の際 さい には霊前 れいぜん に手 て を合 あ わせ、思 おも い出 で 話 ばなし をしていったという。これをきっかけに2人 ふたり は親交 しんこう を持 も つようになり、古舘 ふるたち は逸見 いつみ の癌 がん での休養 きゅうよう 中 ちゅう 、『クイズ世界 せかい はSHOW by ショーバイ!!』の店長 てんちょう 代理 だいり として2度 ど 代理 だいり 司会 しかい を担当 たんとう した[ 12] 。2016年 ねん 10月28日 にち 放送 ほうそう の『中居 なかい 正広 まさひろ の金曜日 きんようび のスマイルたちへ 』に出演 しゅつえん した古舘 ふるたち は、後述 こうじゅつ の記者 きしゃ 会見 かいけん 前 まえ に逸見 いつみ 宅 たく で事前 じぜん に告知 こくち され、古舘 ふるたち は姉 あね の死 し 同様 どうよう に逸見 いつみ に対 たい して言葉 ことば をかけられずに涙 なみだ を流 なが すことしかできなかったと明 あ かした。記者 きしゃ 会見 かいけん をテレビで見 み た後 のち 、「立派 りっぱ でした。素晴 すば らしかったです」と逸見 いつみ に電話 でんわ で励 はげ ました[ 13] 。
順調 じゅんちょう に仕事 しごと をこなす中 なか 、1992年 ねん 11月には世田谷 せたがや 区 く 奥沢 おくさわ の131坪 つぼ の土地 とち に12億 おく 円 えん (当時 とうじ )のイギリス風 ふう の鉄筋 てっきん レンガ造 づくり 3階 かい 建 だ て7LDKの大 だい 豪邸 ごうてい を築 きず きあげた。同時 どうじ に大阪 おおさか に居住 きょじゅう していた両親 りょうしん を呼 よ び寄 よ せ、旧宅 きゅうたく に住 す まわせた。
癌 がん で入院 にゅういん ・手術 しゅじゅつ 、短期間 たんきかん で退院 たいいん [ 編集 へんしゅう ]
1979年 ねん 、2歳 さい 年下 としした の実弟 じってい ・憲治 けんじ (同志社大学 どうししゃだいがく の相撲 すもう 部 ぶ 副 ふく 主将 しゅしょう で在学 ざいがく 中 ちゅう は学生 がくせい 相撲 すもう でならした。後 ご の横綱 よこづな ・輪島 わじま (日本 にっぽん 大学 だいがく )が学生 がくせい 横綱 よこづな を決 き めた一番 いちばん の相手 あいて だった)が胃癌 いがん の中 なか で最 もっと も予 よ 後 ご の悪 わる いものであるスキルス胃癌 いがん で半年 はんとし 間 あいだ の闘病 とうびょう の末 すえ 、1980年 ねん 3月22日 にち に32歳 さい の若 わか さで他界 たかい 。このことから逸見 いつみ は人一倍 ひといちばい 、癌 がん に対 たい して気 き を付 つ け、年 とし 一 いち 回 かい の検診 けんしん も欠 か かさず受診 じゅしん していた。しかし1993年 ねん 1月 がつ 18日 にち 、胸 むね のみぞおちの辺 あた りに痛 いた みを訴 うった え、番組 ばんぐみ で共演 きょうえん していた江川 えがわ 卓 たく に紹介 しょうかい された前田 まえだ 外科 げか 病院 びょういん (現 げん :赤坂 あかさか 見附 みつけ 前田 まえだ 病院 びょういん )に、年 とし に1度 ど の定期 ていき 健診 けんしん も兼 か ねて受診 じゅしん 。その際 さい 、担当 たんとう 医 い から胃癌 いがん の診断 しんだん が下 くだ された。突然 とつぜん の癌 がん 告知 こくち に、逸見 いつみ 夫妻 ふさい は大 おお きなショックを受 う けて言葉 ことば を失 うしな うほどだったが、それでも担当 たんとう 医 い は「あくまでも初期 しょき の癌 がん ですから、手術 しゅじゅつ すればすぐに完治 かんじ しますよ」と笑顔 えがお で語 かた っていた。
1週間 しゅうかん 後 ご の1月 がつ 25日 にち に入院 にゅういん 、前田 まえだ 昭二 しょうじ 院長 いんちょう はじめ医師 いし の執刀 しっとう により、同年 どうねん 2月 がつ 4日 にち に胃 い の4分 ぶん の3と周囲 しゅうい のリンパ節 ぶし 、腹膜 ふくまく の転移 てんい 病巣 びょうそう を切除 せつじょ する3時 じ 間 あいだ 程度 ていど の手術 しゅじゅつ を受 う けた。本人 ほんにん には胃 い の3分 ぶん の2を取 と り除 のぞ いたと伝 つた えられたが、晴恵 はるえ だけには前田 まえだ 院長 いんちょう が「ご主人 しゅじん の病状 びょうじょう は、実際 じっさい は初期 しょき の癌 がん ではなかった。ギリギリの所 ところ ですべての癌 がん 細胞 さいぼう を取 と り除 のぞ いたんですが、残念 ざんねん ながら5年 ねん 先 さき の生存 せいぞん 率 りつ はゼロに近 ちか いでしょう」と宣告 せんこく していた。実際 じっさい 、逸見 いつみ の死後 しご に前田 まえだ 外科 げか 病院 びょういん は、この手術 しゅじゅつ の時点 じてん ですでに癌 がん が胃 い に近接 きんせつ する腹膜 ふくまく にまで転移 てんい していたことを公表 こうひょう している。
手術 しゅじゅつ から1か月 げつ 後 ご の同年 どうねん 2月 がつ 25日 にち に退院 たいいん 。翌日 よくじつ には『夜 よる も一生 いっしょう けんめい。』の収録 しゅうろく で早 はや くも仕事 しごと 復帰 ふっき 。当初 とうしょ 逸見 いつみ は、病名 びょうめい を穿孔 せんこう 性 せい 十二指腸 じゅうにしちょう 潰瘍 かいよう と偽 いつわ って公表 こうひょう していた。退院 たいいん 後 ご も抗癌剤 こうがんざい 投薬 とうやく や前田 まえだ 外科 げか 病院 びょういん への検査 けんさ 通院 つういん を続 つづ け、同年 どうねん 春 はる から『逸見 いつみ のその時 とき 何 なに が!』など新 しん 番組 ばんぐみ も始 はじ まったことで、逸見 いつみ は再 ふたた び軌道 きどう に乗 の り始 はじ めたかに思 おも えた。
だが、同年 どうねん 5月 がつ 下旬 げじゅん 頃 ごろ になるとメスを入 い れた手術 しゅじゅつ 痕 こん の線上 せんじょう がケロイド 状 じょう に膨 ふく れ始 はじ めた。担当 たんとう 医 い からは当初 とうしょ 「通常 つうじょう 、手術 しゅじゅつ 後 ご に起 お こる症状 しょうじょう であるから心配 しんぱい ない」と言 い われたが、その突起 とっき 物 ぶつ が次第 しだい に大 おお きくなり、やがて服 ふく を着 き る時 とき に邪魔 じゃま になるほどになっていた。逸見 いつみ のスケジュールの都合 つごう ですぐには精密 せいみつ 検査 けんさ を受診 じゅしん せず、夏休 なつやす み中 ちゅう の同年 どうねん 8月 がつ 12日 にち にその「突起 とっき 物 ぶつ を除去 じょきょ する」という名目 めいもく で2度目 どめ の手術 しゅじゅつ を受 う けたが、癌 がん はすでに腹腔 ふくこう 全体 ぜんたい に広 ひろ がるまでに進行 しんこう しており、もはや手 て のつけようがない状態 じょうたい だった。しかしながら執刀 しっとう 医 い は、逸見 いつみ 本人 ほんにん には癌 がん の再発 さいはつ を一切 いっさい 告知 こくち しなかった[ 注 ちゅう 6] 。
当時 とうじ の逸見 いつみ は前田 まえだ 外科 げか 病院 びょういん に全幅 ぜんぷく の信頼 しんらい を置 お いており、またセカンド・オピニオン も一般 いっぱん 的 てき には定着 ていちゃく していなかったため、晴恵 はるえ や三木 みき プロの三木 みき 治 おさむ 社長 しゃちょう などから何 なん 度 ど も周囲 しゅうい から別 べつ の病院 びょういん での診察 しんさつ を勧 すす められてもまったくき入 きい れず 、加 くわ えてこの時期 じき にはレギュラー番組 ばんぐみ を週 しゅう 5本 ほん も抱 かか えており[ 注 ちゅう 7] 、極 きわ めて多忙 たぼう な日々 ひび を送 おく っていた。
しかし再 さい 手術 しゅじゅつ にあたり、逸見 いつみ が前田 まえだ 院長 いんちょう に直接 ちょくせつ 「執刀 しっとう をしてくれますね?」と尋 たず ねた際 さい 、院長 いんちょう は笑 え みを浮 う かべながら「ちょうどその頃 ころ 、僕 ぼく は夏休 なつやす みに入 はい っているんだよなあ」と思 おも わぬ返答 へんとう をされ、代 か わりに副 ふく 院長 いんちょう が手術 しゅじゅつ する方針 ほうしん であることが告 つ げられた。さらに前田 まえだ 院長 いんちょう から勧 すす められたアメリカでの民間 みんかん 療法 りょうほう が直前 ちょくぜん で取 と り止 や めになったことから、逸見 いつみ は次第 しだい に前田 まえだ 外科 げか への不信 ふしん 感 かん を抱 いだ き始 はじ め、晴恵 はるえ や三木 みき 社長 しゃちょう らの勧告 かんこく もあって[ 注 ちゅう 8] 、同年 どうねん 9月3日 にち にようやく東京女子医科大学 とうきょうじょしいかだいがく 病院 びょういん へ『夜 よる も一生 いっしょう けんめい。』(森 もり 進一 しんいち 、西郷 さいごう 輝彦 てるひこ のゲスト回 かい 2本 ほん 録 ろく り)収録 しゅうろく 前 まえ の午前 ごぜん 中 ちゅう に訪 おとず れ、この時 とき に初 はじ めて癌 がん の再発 さいはつ を宣告 せんこく される。そして、羽生 はぶ 冨士夫 ふじお 教授 きょうじゅ をはじめとする医師 いし 団 だん からは、触診 しょくしん の際 さい に「何故 なぜ ここまで放 はな っておいたのですか!?」と非常 ひじょう に厳 きび しい口調 くちょう で叱責 しっせき され、厳 きび しい現状 げんじょう を告 つ げられた。そのことを受 う け止 と めた逸見 いつみ は、東京女子医科大学 とうきょうじょしいかだいがく 病院 びょういん での手術 しゅじゅつ を決意 けつい した。受診 じゅしん 後 ご の収録 しゅうろく は予定 よてい 通 どお り行 おこな われ、共演 きょうえん 者 しゃ ・スタッフも会見 かいけん で事実 じじつ を知 し ったというほど気丈 きじょう な態度 たいど で仕事 しごと に臨 のぞ んだ。収録 しゅうろく を終 お えると自 みずか ら旧宅 きゅうたく に向 む かい、両親 りょうしん に癌 がん 再発 さいはつ を報告 ほうこく した。
癌 がん 再発 さいはつ で再 さい 入院 にゅういん 直前 ちょくぜん 、自 みずか ら異例 いれい の告白 こくはく 記者 きしゃ 会見 かいけん [ 編集 へんしゅう ]
1993年 ねん 9月 がつ 6日 にち 午後 ごご 3時 じ 、当時 とうじ の日本 にほん テレビ麹 こうじ 町 まち 本社 ほんしゃ 内 うち 2階 かい の大型 おおがた ホールで緊急 きんきゅう 記者 きしゃ 会見 かいけん を行 おこな い、各局 かくきょく のワイドショーで生 なま 中継 ちゅうけい された。冒頭 ぼうとう のコメントでこう述 の べた。
こういう
形 かたち でのこういう
記者 きしゃ 会見 かいけん は
賛否 さんぴ あると
思 おも いますけれども、
入院 にゅういん してから
事務所 じむしょ を
通 つう じてコメントを
発表 はっぴょう するってことも1つの
手 て ではあるんですけれど、
私 わたし 自身 じしん それで
私 わたし の
真意 しんい が
伝 つた わらなかったり、あるいは
誤解 ごかい を
生 しょう じてもいけませんので、
直接 ちょくせつ 私 わたし の
口 くち からお
話 はなし することによって、
皆 みな さんに
理解 りかい して
頂 いただ きたいと、
言 い う
気持 きも ちで
集 あつ まって
頂 いただ きました。
最初 さいしょ に
皆 みな さんにお
詫 わ びをしなければいけないのですが、
今年 ことし の1
月 がつ から2
月 がつ にかけて
私 わたし が
入院 にゅういん いたしまして、
手術 しゅじゅつ そして
退院 たいいん した
時 とき に、やはり
集 あつ まって
頂 いただ きました。その
時 とき に
私 わたし が
発表 はっぴょう した
病名 びょうめい は
大変 たいへん 申 もう しわけなかったのですが、
嘘 うそ の
病名 びょうめい を
発表 はっぴょう 致 いた しました。これはなぜかと
言 い いますと、
当時 とうじ 、
本当 ほんとう のことを
言 い うことによって、
迷惑 めいわく をかかる
人 ひと が
大変 たいへん に
多 おお かったということがありまして、
私 わたし 自身 じしん 本当 ほんとう に
心苦 こころぐる しかったんですけれども、いずれ
折 おり を
見 み て、
本当 ほんとう のことを
言 い うことができるときには、それを
言 い おうという
風 ふう に
思 おも っておりました。そして、その
時 とき にあえて
嘘 うそ をついたのですが、その
嘘 うそ は、
許 ゆる される
嘘 うそ だと
思 おも ってつきました。ただ、こういう
形 かたち で
本当 ほんとう のことを
申 もう し
上 あ げなければならない
事態 じたい になったことは、
私 わたし はまったく
予想 よそう もしなかったことですし、
非常 ひじょう に
残念 ざんねん であります。
今回 こんかい は、
嘘 うそ をつくことによって、
迷惑 めいわく かける
方々 かたがた が
非常 ひじょう に
多 おお いということで、
本当 ほんとう のことを
申 もう し
上 あ げます。
私 わたし が
今 いま 、
侵 おか されている
病気 びょうき の
名前 なまえ 、
病名 びょうめい は、
癌 がん です。
— 逸見 いつみ 政孝 まさたか 、『逸見 いつみ 政孝 まさたか さんの生 せい きかた』 1994
この会見 かいけん で、自 みずか ら進行 しんこう 胃癌 いがん (スキルス胃癌 いがん )であることを、初 はじ めて公 おおやけ の場 ば で告白 こくはく した。そして、これから癌 がん 闘病 とうびょう 生活 せいかつ を送 おく ることを述 の べた逸見 いつみ は、記者 きしゃ から闘病 とうびょう に挑 いど む心境 しんきょう を尋 たず ねられ「自分 じぶん にとって難 むずか しいことですけど、仕事 しごと を忘 わす れるってことですね。いちばんそれが難 むずか しい事 こと じゃないかと思 おも いますけれどね、まぁなるべくそうして、闘 たたか いに行 い ってきます」と述 の べた。会見 かいけん の最後 さいご の方 ほう では、「もう一 いち 回 かい 、いいかたちで生還 せいかん しましたというふうに言 い えればいいなと思 おも っています」と復帰 ふっき に懸 か ける闘病 とうびょう への意気込 いきご みを語 かた った[ 注 ちゅう 9] 。記者 きしゃ 会見 かいけん を終 お えると古巣 ふるす のフジテレビアナウンス部 ぶ を訪 おとず れ、挨拶 あいさつ や治療 ちりょう への覚悟 かくご 、会見 かいけん に至 いた るまでのいきさつを語 かた った。
会見 かいけん をコーディネイトした小杉 こすぎ 善信 よしのぶ は、会見 かいけん 場所 ばしょ が日本 にほん テレビであることや、他 た 局 きょく より先行 せんこう している『ザ・ワイド 』の放送 ほうそう 時間 じかん を利用 りよう して、逸見 いつみ に黙 だま って出 だ し抜 ぬ こうと画策 かくさく していた。当 とう の逸見 いつみ は、各局 かくきょく のワイドショーが出揃 でそろ う15時 じ ぴったりにホールに到着 とうちゃく できるよう控室 ひかえしつ からの移動 いどう 時間 じかん を事前 じぜん に測 はか って逆算 ぎゃくさん し、公平 こうへい に事実 じじつ が発表 はっぴょう できるようにした。会見 かいけん 後 ご 、小杉 こすぎ に「今日 きょう は数字 すうじ (視聴 しちょう 率 りつ )取 と ってるね」と声 こえ をかけたといい、「視聴 しちょう 率 りつ のグラフを思 おも い描 えが きながら喋 しゃべ っているようで、まるで『逸見 いつみ ショー』だった」と述懐 じゅっかい している[ 15] 。
翌 よく 9月 がつ 7日 にち からすべての仕事 しごと を休止 きゅうし 。この会見 かいけん が入院 にゅういん 後 ご に放送 ほうそう された収録 しゅうろく 済 ず みの番組 ばんぐみ を除 のぞ くと公 おおやけ の場 ば に見 み せた最後 さいご の姿 すがた であり、結果 けっか 的 てき には9月4日 にち に収録 しゅうろく した『いつみても波瀾万丈 はらんばんじょう 』(ゲスト:蔵 ぞう 間 あいだ 竜也 たつや [ 注 ちゅう 10] )が、当時 とうじ のレギュラーでは最後 さいご の仕事 しごと となった[ 注 ちゅう 11] 。東京女子医科大学 とうきょうじょしいかだいがく 病院 びょういん に入院 にゅういん しての本格 ほんかく 的 てき な闘病 とうびょう 生活 せいかつ に入 はい り、9月16日 にち に13時 じ 間 あいだ [ 注 ちゅう 12] にも及 およ ぶ大 だい 手術 しゅじゅつ を受 う けた。
手術 しゅじゅつ 後 ご は歩行 ほこう 訓練 くんれん を行 おこな ったり、お粥 かゆ などの流動 りゅうどう 食 しょく から好物 こうぶつ のたこ焼 や きを食 た べるなど、経過 けいか は良好 りょうこう だった。10月1日 にち にはかつてキャスターを務 つと めた『スーパータイム』スタッフ宛 あて にメッセージを送 おく り、安藤 あんどう 優子 ゆうこ が読 よ み上 あ げた。10月8日 にち に太郎 たろう が留学 りゅうがく 先 さき のボストン から一時 いちじ 帰国 きこく すると、病室 びょうしつ を訪 おとず れた様子 ようす が週刊 しゅうかん 誌 し 等 とう のメディアで報道 ほうどう され、回復 かいふく ぶりがアピールされた。
ところが、手術 しゅじゅつ から1か月 げつ が経過 けいか していた10月23日 にち 、突然 とつぜん 激 はげ しい腹痛 はらいた を起 お こし、食 た べ物 もの を嘔吐 おうと した。この日 ひ は一時 いちじ 帰宅 きたく 日 び であったが、その後 ご の検査 けんさ 結果 けっか が腸閉塞 ちょうへいそく と判明 はんめい したために中止 ちゅうし となった。これにより、普通 ふつう 食 しょく 禁止 きんし の絶対 ぜったい 安静 あんせい となり、絶食 ぜっしょく 状態 じょうたい を余儀 よぎ なくされたため高 こう 栄養 えいよう の点滴 てんてき をつけられたが、逸見 いつみ は徐々 じょじょ に衰弱 すいじゃく していった。その状態 じょうたい にもかかわらず、11月上旬 じょうじゅん から抗癌剤 こうがんざい の投与 とうよ が開始 かいし され、副作用 ふくさよう の影響 えいきょう から日頃 ひごろ の表情 ひょうじょう 豊 ゆた かであった逸見 いつみ とは程遠 ほどとお い状態 じょうたい に陥 おちい った。
激 はげ しい吐 は き気 け を催 もよお して意識 いしき が朦朧 もうろう となり、うわ言 ごと を発 はっ するなど日 ひ に日 ひ に病状 びょうじょう は悪化 あっか していった。体重 たいじゅう が50kgを下回 したまわ っていた12月16日 にち には、再 さい 検査 けんさ で腸 ちょう にも転移 てんい した癌 がん が見 み つかった。主治医 しゅじい は、12月1日 にち に「ご主人 しゅじん の体 からだ に再 ふたた びメスを入 い れる事 こと はこれ以上 いじょう 不可能 ふかのう 。残念 ざんねん な話 はなし ですが、年 とし を越 こ せるかは厳 きび しい状況 じょうきょう です」と家族 かぞく に宣告 せんこく 。
12月24日 にち 、意識 いしき 不明 ふめい の危篤 きとく 状態 じょうたい に陥 おちい る。翌 よく 12月25日 にち 午後 ごご 0時 じ 47分 ふん 、家族 かぞく らが見守 みまも る中 なか 、末期 まっき のスキルス胃癌 いがん ・再発 さいはつ 転移 てんい による癌 がん 性悪 しょうわる 液 えき 質 しつ のため、東京女子医科大学 とうきょうじょしいかだいがく 病院 びょういん で死去 しきょ 。48歳 さい 没 ぼつ [ 16] 。戒名 かいみょう は、誠實 せいじつ 院 いん 温 ゆたか 譽 ほまれ 和 わ 顔 がお 政孝 まさたか 居士 こじ (じょうじついんおんよわげじょうこうこじ)。最期 さいご の言葉 ことば は朦朧 もうろう とする意識 いしき で言 い った「三 さん 番 ばん が正解 せいかい です」だったとされる[ 17] 。しかし、死去 しきょ 発表 はっぴょう 時 じ の内容 ないよう ・弔問 ちょうもん の様子 ようす が記 しる された翌 よく 26日 にち 朝刊 ちょうかん の紙上 しじょう では、見舞 みま いに来 き た親族 しんぞく に対 たい して言 い った「もういいから帰 かえ れ」という言葉 ことば を最後 さいご に容体 ようだい が急変 きゅうへん し、危篤 きとく 状態 じょうたい になったとされている[ 18] 。
結果 けっか 的 てき に癌 がん の再発 さいはつ を根治 こんじ することはできず、胃壁 いへき の中 なか に広 ひろ がる特殊 とくしゅ な進行 しんこう 癌 がん という特質 とくしつ 上 じょう 、死後 しご 「末期 まっき の状態 じょうたい であったにもかかわらず、なぜ大 だい 手術 しゅじゅつ を受 う けた(受 う けさせた)のか」「クオリティ・オブ・ライフ を無視 むし した手術 しゅじゅつ だった」といった疑問 ぎもん ・批判 ひはん の意見 いけん が多数 たすう あがった。
当時 とうじ の医学 いがく 水準 すいじゅん での意見 いけん として、手術 しゅじゅつ も抗癌剤 こうがんざい 投与 とうよ も行 おこな わず処置 しょち した方 ほう が、苦 くる しむこともなく1年 ねん 程度 ていど は長 なが く生 い きることができたとの見方 みかた もあった[ 注 ちゅう 13] 。
一方 いっぽう では腸閉塞 ちょうへいそく を防 ふせ ぐため、中 なか ・長期 ちょうき 的 てき な生存 せいぞん のためには、このような大 だい 手術 しゅじゅつ が必要 ひつよう であったという見方 みかた もあり、賛否 さんぴ 両論 りょうろん がある[ 注 ちゅう 14] 。
また、THE TIMERS が、医師 いし が逸見 いつみ に抗 こう がん剤 ざい を使用 しよう した事 こと を批判 ひはん する「イツミさん」という歌 うた をアルバムに載 の せている[ 注 ちゅう 15] 。
新宿 しんじゅく 区 く にある千日谷会堂 せんにちだにかいどう で12月26日 にち に通夜 つや が、12月27日 にち に葬儀 そうぎ ・告別 こくべつ 式 しき がしめやかに営 いとな まれた。出棺 しゅっかん 後 ご 、TBS(先代 せんだい の本社 ほんしゃ 屋 や 、後 ご の赤坂 あかさか メディアビル )→テレビ朝日 てれびあさひ (当時 とうじ のアークヒルズ本社 ほんしゃ )→テレビ東京 てれびとうきょう (当時 とうじ の虎ノ門 とらのもん 本社 ほんしゃ )→NHK放送 ほうそう センター を周 まわ り、告別 こくべつ 式 しき の後 のち は、フリー転身 てんしん 後 ご に最初 さいしょ の他 た 局 きょく レギュラー番組 ばんぐみ を持 も った日本 にほん テレビ(当時 とうじ の麹 こうじ 町 まち 本社 ほんしゃ )、そして最後 さいご に古巣 ふるす のフジテレビ(当時 とうじ の河田 こうだ 町 まち 本社 ほんしゃ )を経由 けいゆ したのち、午後 ごご 5時 じ 20分 ふん 、落合 おちあい 斎場 さいじょう で荼毘 だび に付 ふ された。棺 かん には、ゴルフウェアを着 き せられた遺体 いたい と共 とも に、愛 あい の「たくさんのカエルコールをして欲 ほ しい」という願 ねが いから大量 たいりょう のテレホンカード、『平成 へいせい 教育 きょういく 委員 いいん 会 かい 』で着 き た学級 がっきゅう 委員 いいん 長 ちょう の制服 せいふく (複数 ふくすう あり、一部 いちぶ は自宅 じたく に保管 ほかん されていた。)も一緒 いっしょ に納 おさ められ、死 し 化粧 けしょう はIKKO が施 ほどこ した。
遺影 いえい は、自身 じしん が司会 しかい を務 つと める予定 よてい であった『平成 へいせい 初恋 はつこい 談義 だんぎ 』[ 注 ちゅう 16] のPRや番 ばん 宣 せん ポスターなどに使用 しよう するために撮影 さつえい されたものである[ 注 ちゅう 17] 。
墓所 はかしょ は、東京 とうきょう 都 と 世田谷 せたがや 区 く の伝 つて 乗 じょう 寺 てら [ 20] 。
初代 しょだい キャスターを務 つと めた『FNNスーパータイム』では、逸見 いつみ の訃報 ふほう をトップ項目 こうもく として扱 あつか い、その死 し を悼 いた んだ。この時 とき 訃報 ふほう を伝 つた えたのは、逸見 いつみ の13期 き 後輩 こうはい にあたる山中 やまなか 秀樹 ひでき であった。『FNN NEWSCOM 』の土曜 どよう 版 ばん でも訃報 ふほう をトップ項目 こうもく として扱 あつか い、逸見 いつみ の15期 き 後輩 こうはい にあたる牧原 まきはら 俊幸 としゆき が訃報 ふほう を伝 つた え、14期 き 後輩 こうはい にあたる向坂 さきさか 樹 いつき 興 きょう が生 お い立 た ち等 とう のVTRナレーションを担当 たんとう した。
告別 こくべつ 式 しき の営 いとな まれた12月27日 にち には、露木 つゆき 茂 しげる が『スーパータイム』でニュースを読 よ み上 あ げた。露木 つゆき は癌 がん を公表 こうひょう した記者 きしゃ 会見 かいけん の後 のち 、本番 ほんばん 前 まえ の露木 つゆき の元 もと へ挨拶 あいさつ に来 き た逸見 いつみ に「掛 か ける言葉 ことば が見 み つからなかった」というエピソードも明 あ かしている。安藤 あんどう 優子 ゆうこ は葬儀 そうぎ の模様 もよう をレポートし、生放送 なまほうそう 中 ちゅう のVTR終了 しゅうりょう 後 ご に嗚咽 おえつ した。また、亡 な くなる前夜 ぜんや 、危篤 きとく の一報 いっぽう を『NEWSCOM』で伝 つた えた木村 きむら 太郎 たろう は、逸見 いつみ に最後 さいご のエールを送 おく っている。
また、亡 な くなった直後 ちょくご に日本 にほん テレビで放送 ほうそう された『夜 よる も一生 いっしょう けんめい。』では急遽 きゅうきょ 内容 ないよう を変更 へんこう して放送 ほうそう 。入院 にゅういん に際 さい して同 どう 番組 ばんぐみ の司会 しかい を引 ひ き継 つ いでいた徳光 とくみつ 和夫 かずお は、CM中 ちゅう にスタジオの隅 すみ で号泣 ごうきゅう していたとされ、後 のち に報道陣 ほうどうじん に向 む けてのインタビューでは「遺影 いえい を前 まえ にして、お別 わか れの言葉 ことば なんてとても言 い えなかった…」と涙 なみだ を流 なが している。『クイズ世界 せかい はSHOW by ショーバイ!!』で司会 しかい 者 しゃ として共演 きょうえん した渡辺 わたなべ 正行 まさゆき と電話 でんわ を繋 つな いだが、渡辺 わたなべ はショックのあまり嗚咽 おえつ を漏 も らし続 つづ けながら慟哭 どうこく し、終始 しゅうし 声 こえ にならない声 こえ で心境 しんきょう を語 かた った。
さらに、逸見 いつみ のレギュラー番組 ばんぐみ だった『クイズ世界 せかい はSHOW by ショーバイ!!』、『平成 へいせい 教育 きょういく 委員 いいん 会 かい 』、『いつみても波瀾万丈 はらんばんじょう 』でも追悼 ついとう 特番 とくばん を放送 ほうそう した。『平成 へいせい 教育 きょういく 委員 いいん 会 かい 』は死去 しきょ 当日 とうじつ が放送 ほうそう 日 び であったが、急遽 きゅうきょ 追悼 ついとう 番組 ばんぐみ に切 き り替 か えられた[ 注 ちゅう 18] 。出演 しゅつえん した天本 あまもと 英世 ひでよ は番組 ばんぐみ 内 ない で「自分 じぶん の方 ほう が生 い き残 のこ ってしまった」、「人間 にんげん は年老 としお いた者 もの から順番 じゅんばん に死 し んでいくものなのに、逸見 いつみ さんはあまりにも早 はや 過 す ぎた」ことや「日本人 にっぽんじん はいかんですね。国 くに から会社 かいしゃ から社会 しゃかい から、すべてが狂 くる ってますね。忙 いそが しいことがいいことなんて、とんでもない間違 まちが いです。芸能人 げいのうじん も毎日 まいにち 多忙 たぼう なのが良 よ い俳優 はいゆう ・タレントだなんて、あまりにも馬鹿 ばか げてますよ。自分 じぶん 自身 じしん のことをもっと考 かんが えなきゃね。会社 かいしゃ のためとか国 くに のためとか、そんなもの絶対 ぜったい ダメですよ。『平成 へいせい 教育 きょういく 委員 いいん 会 かい 』なんか春 はる に越 こし 真一 しんいち プロデューサー[ 注 ちゅう 19] が32歳 さい で自殺 じさつ したんですからね。(逸見 いつみ を入 い れると)これで2人 ふたり 目 め ですよ。僕 ぼく は今後 こんご あんなもの(『平成 へいせい 教育 きょういく 委員 いいん 会 かい 』の番組 ばんぐみ )に、ケラケラ笑 わら って出 で たくないです」、「『仕事 しごと が趣味 しゅみ 』だって言 い うのは可笑 おか しいです。やっぱり体調 たいちょう が悪 わる ければ、断 ことわ らなきゃダメなんですよ」等 とう と、終始 しゅうし 憤慨 ふんがい しながら発言 はつげん 。天本 あまもと は言葉 ことば 通 どお り、以降 いこう 『平成 へいせい 教育 きょういく 委員 いいん 会 かい 』には一切 いっさい 出演 しゅつえん しないまま、2003年 ねん 3月 がつ 23日 にち にこの世 よ を去 さ った[ 注 ちゅう 20] 。
BIG3として共演 きょうえん が多 おお かった明石家 あかしや さんまは「逸見 いつみ さんがテレビで癌 がん を告白 こくはく したとき、『この人 ひと はもう2度 ど と帰 かえ ってこれないだろうな』と正直 しょうじき 思 おも いました。正直 しょうじき ね…」と、すでに逸見 いつみ の死 し を覚悟 かくご していたと言 い う。加 くわ えて『クイズ世界 せかい はSHOW by ショーバイ!!』にレギュラー出演 しゅつえん していた高田 たかだ 純 じゅん 次 じ は、癌 がん 告白 こくはく の会見 かいけん から死去 しきょ するまでの約 やく 3か月 げつ 間 あいだ 半 はん が「あっという間 あいだ だった…」と無念 むねん の胸中 きょうちゅう を語 かた っている。さらに『なんてたって好奇心 こうきしん 』で同時 どうじ 出演 しゅつえん していた西田 にしだ 敏行 としゆき は「なんで良 よ い人 ひと ばかり逝 い っちゃうんですかね…残念 ざんねん です」と絶句 ぜっく 。そして『いつみても波瀾万丈 はらんばんじょう 』で共演 きょうえん した野際 のぎわ 陽子 ようこ も「(番組 ばんぐみ で共演 きょうえん してから)まだ半年 はんとし も経 た たない内 うち に、まさかそんなに早 はや く。絶対 ぜったい 戻 もど ってくると信 しん じていたのに…」と言葉 ことば を詰 つ まらせた。
逸見 いつみ が解答 かいとう 者 しゃ として出演 しゅつえん した1993年 ねん 春 はる の『オールスター感謝 かんしゃ 祭 さい 』にて、総合 そうごう 司会 しかい の島田 しまだ 紳助 しんすけ は、春先 はるさき に手術 しゅじゅつ を受 う けていた逸見 いつみ の本当 ほんとう の病名 びょうめい を知 し らずに、番組 ばんぐみ 本番 ほんばん 中 ちゅう に解答 かいとう 者 しゃ 席 せき に座 すわ っていた逸見 いつみ に向 む かって「実 じつ は癌 がん なんです」「もうすぐ死 し にますよ」など冗談 じょうだん をい放 いはな った。その後 ご 、紳助 しんすけ は自 みずか らの冗談 じょうだん が本当 ほんとう だったことに驚 おどろ きながらも「やっぱりな」と感 かん じたという。亡 な くなった日 ひ の夜 よる に紳助 しんすけ はインタビューで「癌 がん という重病 じゅうびょう を抱 かか えているのに何 なん で仕事 しごと してたんですか。ドアホですよ、逸見 いつみ さんは」と泣 な きながらコメントを述 の べていた。
また、ナンシー関 せき は「他 た の芸能人 げいのうじん の時 とき とは違 ちが い、まるで自分 じぶん の親戚 しんせき が死 し んでしまったかのような気持 きも ちになった」と逸見 いつみ の死 し を悼 いた んだ[ 21] 。他 ほか にも、同 おな じ関西 かんさい 出身 しゅっしん 者 しゃ という共通 きょうつう 点 てん から何 なん 度 ど も番組 ばんぐみ で共演 きょうえん していたダウンタウン の2人 ふたり も、「逸見 いつみ さんには本当 ほんとう によくしていただき、感謝 かんしゃ しています」と、涙 なみだ ながらに語 かた った。特番 とくばん の『逸見 いつみ ・森口 もりぐち の平成 へいせい 初恋 はつこい 談義 だんぎ 』で、一緒 いっしょ に司会 しかい を務 つと めた森口 もりぐち 博子 ひろこ は逸見 いつみ の訃報 ふほう に泣 な きじゃくり、『夜 よる も一生 いっしょう けんめい。』等 とう で共演 きょうえん した美川 みかわ 憲一 けんいち も「クリスマス の日 ひ に逸見 いつみ さんが亡 な くなるなんて…だから一生 いっしょう 、忘 わす れられないわね」と沈痛 ちんつう な表情 ひょうじょう を浮 う かべている。TBSで葬儀 そうぎ の模様 もよう を中継 ちゅうけい した特別 とくべつ 番組 ばんぐみ (『スーパーワイド』のタイトル差 さ し替 か え)でも、2期 き 上 じょう の先輩 せんぱい だった司会 しかい の宮崎 みやざき 総子 ふさこ や葬儀 そうぎ 場 じょう からリポートした同期 どうき の竹下 たけした 典子 のりこ が故人 こじん を惜 お しむコメントを残 のこ した。
ビートたけし は告別 こくべつ 式 しき にて、参列 さんれつ 者 しゃ 席 せき で号泣 ごうきゅう しており、隣席 りんせき の山城 やましろ 新伍 しんご に「こんなにこたえることはないね…」と語 かた ったという。前述 ぜんじゅつ の通 とお り、自身 じしん にとって思 おも い入 い れの番組 ばんぐみ だった『平成 へいせい 教育 きょういく 委員 いいん 会 かい 』と『クイズ世界 せかい はSHOW by ショーバイ!!』で立 た ち上 あ げから長 なが らく共演 きょうえん し、親友 しんゆう であり続 つづ けたたけしと山城 やましろ は、1993年 ねん 初頭 しょとう の手術 しゅじゅつ の際 さい 、実 じつ は癌 がん であったことを本人 ほんにん からそれぞれ伝 つた えられたと告白 こくはく している。記者 きしゃ 会見 かいけん の前日 ぜんじつ 、癌 がん の再発 さいはつ で再 さい 入院 にゅういん する事実 じじつ を告 つ げられたたけしは、その日 ひ から告別 こくべつ 式 しき の日 ひ まで一切 いっさい 酒 さけ を断 た ち、告別 こくべつ 式 しき では「いい人 じん ばかり先 さき に死 し んじゃうんだ。俺 おれ がもっと悪 わる いことを教 おし えてあげれば良 よ かった」と涙 なみだ ながらに語 かた った。1997年 ねん 9月に『平成 へいせい 教育 きょういく 委員 いいん 会 かい 』は最終 さいしゅう 回 かい を迎 むか えたが、番組 ばんぐみ 終了 しゅうりょう 時 じ の記者 きしゃ 会見 かいけん でたけしは「逸見 いつみ さんと最後 さいご までやりたかった。それが心残 こころのこ り」と述 の べている。
告別 こくべつ 式 しき の弔辞 ちょうじ は、三木 みき プロの三木 みき 治 おさむ 社長 しゃちょう 、松倉 まつくら 悦郎 えつろう 、山城 やましろ 新伍 しんご [ 注 ちゅう 21] が読 よ み上 あ げた。
「
逝 ゆ く者 もの は斯 か くの如 ごと きか、昼夜 ちゅうや を舎 しゃ かず」と
言 い いますが、こうして
君 きみ の
遺影 いえい の
前 まえ に
立 た っていると、30
年間 ねんかん の
思 おも い
出 で が
走馬灯 そうまとう のように
駆 か け
巡 めぐ ります。あのエネルギッシュで
人懐 ひとなつ っこい
逸見 いつみ 政孝 まさたか 君 くん が、
命 いのち 終 おわり してしまったなんて、
未 いま だに
信 しん じたくありません。
逸見 いつみ との
出会 であ いは
昭和 しょうわ 39
年 ねん の4
月 がつ 、
早稲田 わせだ のキャンパスでした。
今朝 けさ 、
早 はや く
起 お きてその
場所 ばしょ へ
行 い ってきました。30
年 ねん 前 まえ とまったく
変 か わっていませんでした。
弊衣破帽 へいいはぼう 、
素足 すあし に
高下駄 たかげた の
逸見 いつみ は
バンカラ そのもの。それでいて、
神田 かんだ 川 がわ の
近 ちか くの2
階 かい 3
畳 じょう 間 あいだ の
下宿 げしゅく は
塵 ちり ひとつなく、きちんと
整理 せいり 整頓 せいとん されており、
小 ちい さな
黒板 こくばん にはその
日 ひ に
間違 まちが えた
言葉 ことば のアクセントが
横書 よこが きに
几帳面 きちょうめん な
字 じ で
記 しる されていたのが
印象 いんしょう 的 てき でした。
大阪 おおさか 生 う まれ、
大阪 おおさか 育 そだ ちの
君 きみ は、アクセント、イントネーションのハンデ
克服 こくふく のため、
百 ひゃく 数 すう 十 じゅう ページにも
及 およ ぶ
発音 はつおん アクセント
辞典 じてん を
最初 さいしょ のページから
覚 おぼ えはじめ、
覚 おぼ えた
言葉 ことば は
片 かた っ
端 ぱし から
赤 あか 鉛筆 えんぴつ で
塗 ぬ りつぶし、
大学 だいがく 4
年間 ねんかん で3
冊 さつ もダメにしてしまうなど、
普通 ふつう の
人間 にんげん には
到底 とうてい 真似 まね のできない、
筋金入 すじがねい りの
努力 どりょく 家 か でした。
情熱 じょうねつ 家 か の
逸見 いつみ は、よく
片思 かたおも いもしました。
人 ひと を
好 す きになっては
振 ふ られ、
気分 きぶん 転換 てんかん と
称 しょう しては
丸坊主 まるぼうず になり、しばらくするとまた、
別 べつ の
女性 じょせい に
思 おも いを
寄 よ せる、
多 おお い
年 とし は1
年間 ねんかん に3
回 かい も
頭 あたま を
丸 まる めたことを
記憶 きおく しています。でも、マーちゃん!こうしたほろ
苦 にが い
体験 たいけん を
重 かさ ねたからこそ、ハーちゃん、
晴恵 はるえ さんを
射止 いと めることができたのです。マーちゃん、ハーちゃんは
今日 きょう も
気丈 きじょう に
立 た ち
居 い 振舞 ふるま っています。
安心 あんしん してください。
昭和 しょうわ 43
年 ねん 、
私 わたし たちは
幸運 こううん にもフジテレビジョンにアナウンサーとして
入社 にゅうしゃ することができました。
逸見 いつみ は
報道 ほうどう 、
私 わたし はスポーツと
仕事 しごと の
分野 ぶんや は
違 ちが っても、お
互 たが い
切磋琢磨 せっさたくま し、
友人 ゆうじん として、
時 とき にライバルとしてのよい
関係 かんけい が
続 つづ きました。
一 いち 度 ど としてお
互 たが い
気 き まずい
思 おも いをしたことがなかったのが、
誇 ほこ りとしているところです。アナウンサー
生活 せいかつ 20
年 ねん を
契機 けいき にフリーの
道 みち を
選 えら んだ
君 きみ は、
瞬 またた く
間 ま にお
茶 ちゃ の
間 あいだ の
顔 かお となりました。「アナウンサーは50
歳 さい までが
勝負 しょうぶ だ」という、かねてからの
持論 じろん を
実践 じっせん するかのように。そんな
逸見 いつみ が50
歳 さい 前 まえ に
逝 い ってしまうなんて、
余 あま りにも
残酷 ざんこく すぎます。
癌 がん と
闘 たたか うことを
宣言 せんげん してからの
君 きみ は、
最後 さいご まで
弱音 よわね ひとつ
吐 は きませんでした。お
見舞 みま いに
行 い っても
口 くち をついて
出 で るのは
仕事 しごと の
話 はなし 。
根 ね っからの
仕事 しごと 大好 だいす き
人間 にんげん でした。
律儀 りちぎ な
君 きみ は、11月に
私 わたし たちフジテレビのアナウンサー
同窓会 どうそうかい が
開 ひら かれた
時 とき も、
病床 びょうしょう からメッセージを
届 とど けてくれました。「ご
承知 しょうち のように、
私 わたし は
今 いま 、
癌 がん と
闘 たたか っています。
癌 がん 患者 かんじゃ にとって
辛 つら いい
方 いかた ですが、もし、
来年 らいねん 命 いのち があれば、どんなことがあっても
参加 さんか したいと
思 おも います。
明日 あした からいよいよ
抗癌剤 こうがんざい の
投与 とうよ です。
頑張 がんば ります」。
皆 みな 、
涙 なみだ なくしては
読 よ めませんでした。
最後 さいご に
見舞 みま った
時 とき 、ベッドから
不自由 ふじゆう な
体 からだ を
起 お こすようにして、
私 わたし に
手 て を
振 ふ った
君 きみ の
姿 すがた 。あれは
何 なに だったんでしょう。お
別 わか れの
挨拶 あいさつ だったとは
決 けっ して
思 おも いたくありません。12月24
日 にち 、
容体 ようだい 急変 きゅうへん の
知 し らせを
受 う けて
駆 か け
付 つ けたときの
君 きみ は、
今 いま にも
命 いのち の
炎 ほのお が
燃 も え
尽 つ きてしまうかのようでした。そんな
中 なか で、「
逸見 いつみ !
俺 おれ だよ!
松倉 まつくら だよ!わかるだろ!」という
私 わたし の
問 と いかけに、かすかではありましたが、
反応 はんのう を
示 しめ してくれました。「
明朝 みんちょう まで
持 も てばいいでしょう」と
言 い われるほどの
悪 わる い
状態 じょうたい にも
関 かか わらず、
君 きみ の
強靭 きょうじん な
精神 せいしん 力 りょく 、
生 い きることへの
執念 しゅうねん は、
一度 いちど ならずも
死線 しせん を
乗 の り
越 こ えました。あの
朦朧 もうろう とした
意識 いしき の
中 なか で、2
度 ど にわたって
起 お き
上 あ がろうとした
仕草 しぐさ は、やり
残 のこ した
仕事 しごと に
対 たい する
未練 みれん だったに
違 ちが いありません。
今際 いまわ の
際 さい まで
仕事 しごと のことを
思 おも い
続 つづ けた
逸見 いつみ 。
君 くん の
思 おも いは
必 かなら ずや、
太郎 たろう 君 くん に
受 う け
継 つ がれていくことでしょう。
君 きみ が
目 め の
中 なか に
入 い れても
痛 いた くないほど
可愛 かわい がっていた
愛 あい ちゃんも、
君 きみ の
壮絶 そうぜつ なる
闘 たたか いを
通 とお して
命 いのち の
尊厳 そんげん を
深 ふか く
深 ふか く
心 しん に
刻 きざ んだに
違 ちが いありません。ハーちゃんも、
太郎 たろう 君 くん も、
愛 あい ちゃんも、お
年 とし を
召 め したご
両親 りょうしん も
皆 みな 、しっかりしています。
人一倍 ひといちばい 、
心配 しんぱい 性 せい の
君 きみ ですが、
決 けっ して
心配 しんぱい することはありません。どうか
広々 ひろびろ としたグリーンの
上 うえ で、
周囲 しゅうい に
気 き を
遣 つか うことなく、
好 す きなゴルフを
心行 こころゆ くまで
楽 たの しんでください。30
年間 ねんかん 世話 ぜわ になりっぱなしでしたが、これからのお
付 つ き
合 あ いは
倶会一 いち 処 しょ でと
願 ねが っています。お
別 わか れに
万感 ばんかん の
思 おも いをこめて…。ありがとう、
逸見 いつみ !さようなら、
逸見 いつみ 政孝 まさたか !!
— 松倉 まつくら 悦郎 えつろう 、[要 よう 出典 しゅってん ]
色々 いろいろ あなたに
語 かた りかけたいのですが…
何 なに を
言 い うか、
気持 きも ちが
乱 みだ れております。また
例 れい によってあなたをハラハラさせてはいけませんので、
原稿 げんこう 用紙 ようし に
朝 あさ 起 お きてまとめてきました。
生 う まれて
初 はじ めての
体験 たいけん です、
弔辞 ちょうじ らしきものを
読 よ むのは。どれだけの
長 なが さとか、そういった
事 こと はよく
分 わ かりません。あなたの、その
指 ゆび で、
原稿 げんこう が
長 た ければ
巻 ま きを
入 い れてください。
逸見 いつみ さん、
本当 ほんとう にご
苦労 くろう さんでした。ご
家族 かぞく ・
全国 ぜんこく のファンのみなさんの
願 ねが いもむなしく
逝 い ってしまったあなた。
思 おも えば
今年 ことし の1
月 がつ 、あなたは
普段 ふだん とまったく
変 か わらぬにこやかな
顔 かお で、「
山城 やましろ さん、
番組 ばんぐみ 収録 しゅうろく 後 ご 10
分 ふん か20
分 ふん ちょっとお
話 はな ししたいんですが、
時間 じかん はありますか?」と
切 き り
出 だ されましたね。「もちろん」と
答 こた え
部屋 へや で
待 ま っていますと、あなたは
真顔 まがお で「
実 じつ は
早期 そうき 発見 はっけん なので
幸 さいわ いでしたが、
僕 ぼく は
癌 がん です」と
切 き り
出 だ されました。プロデューサーの
小杉 こすぎ さんと、
僕 ぼく と、
三 さん 人 にん きりでした。「
世間 せけん に
向 む けては
違 ちが う
病名 びょうめい として
発表 はっぴょう するが、
本当 ほんとう のことを
知 し っていてほしい」と、
冷静 れいせい な、
時 とき には
笑顔 えがお を
見 み せながら、
僕 ぼく に
伝 つた えてくれましたね。それはあなたの
責任 せきにん 感 かん が
成 なり せる
技 わざ で、「1、2
週 しゅう ストックがなく
抜 ぬ けるので、
僕 ぼく に
司会 しかい を
代 か わってやってくれ」というために
告白 こくはく されました。「よ、
頼 たの むよ」で
済 す む
話 はなし をそこまで
気 き を
遣 つか うなんて、なんといういい
人 じん なんだろうと
僕 ぼく の
方 ほう が
取 と り
乱 みだ しそうになりました。「ほかにもご
存 ぞん じの
方 ほう がいらっしゃるんですか?」と
聞 き くと、「
身内 みうち 以外 いがい では
山城 やましろ さんと
小杉 こすぎ プロデューサーだけです」とおっしゃいました。あなたの
言葉 ことば 通 どお り、
戻 もど ってこられて
番組 ばんぐみ を
続 つづ けていたあなた。
仕事 しごと への
責任 せきにん 感 かん とそれ
以上 いじょう に「
仕事 しごと が
好 す きで
好 す きでたまらない」といった
表情 ひょうじょう で、
嬉々 きき として
仕事 しごと をしていたあなた。こんな
結末 けつまつ が
待 ま っているとは
想像 そうぞう だにできず、
心 しん の
底 そこ から
帰還 きかん を
喜 よろこ びました。
秘密 ひみつ を
知 し っている
僕 ぼく は、どうしても
責任 せきにん から
他 た のメンバーには
悟 さと られないように、
復帰 ふっき 後 ご はプロレスでいう「
善玉 ぜんだま 」と「
悪玉 あくだま 」、いわゆる「ヒール」の
二人 ふたり で
作 つく った
関係 かんけい をさらに
強 つよ め、あなたに
友情 ゆうじょう ある、
愛 あい のある、ツッコミを
仕掛 しか けました。
嬉 うれ しそうに
受 う けてくれたあなた。そして、
自 みずか らが
癌 がん の
告知 こくち に
至 いた る
少 すこ し
前 まえ のフジテレビの24
時 じ 間 あいだ 番組 ばんぐみ (
平成 へいせい 教育 きょういく テレビ)のなかで、『
平成 へいせい 教育 きょういく 委員 いいん 会 かい 』に
僕 ぼく が
出演 しゅつえん した
時 とき 、「24
時 じ 間 あいだ も
出 で ずっぱりで、
人一倍 ひといちばい 気遣 きづか いのあなたは
大丈夫 だいじょうぶ かな?」と
心配 しんぱい がよぎりました。あなたの
表情 ひょうじょう ばかり
追 お っていると、あなたは
膝 ひざ を、
偶然 ぐうぜん なのでしょうが、ガクッと
折 お ったような、セットに
躓 つまず いたような
瞬間 しゅんかん がありました。もちろんプロのあなたが
画面 がめん に
映 うつ るような
場面 ばめん じゃなく、CMに
入 はい って
気 き をふっと
抜 ぬ かれた
時 とき にです。「
大丈夫 だいじょうぶ ?」とそっと
僕 ぼく が
聞 き くと、「
大丈夫 だいじょうぶ 」とにっこり
愛 あい らしい
人懐 ひとなつ っこい
笑顔 えがお で
応 こた えてくれましたね。あの
一言 ひとこと が、あなたと
交 か わす
最後 さいご の
一言 ひとこと になってしまいました。
逸見 いつみ さん、
本当 ほんとう にありがとう。5
年 ねん 目 め を
迎 むか える
短 みじか いお
付 つ き
合 あ いになってしまいましたが、
年長 ねんちょう の
僕 ぼく を
立 た ててくれて、
時 とき には
自宅 じたく に
電話 でんわ をくれて、「これこれこういう
仕事 しごと が
来 き ているんだ。これこれこういう
理由 りゆう で
断 ことわ ろうかと
思 おも うんですが、どう
思 おも いますか?」とか、
慎重 しんちょう のあなたの
中 なか では
結論 けつろん が
出 で ているだろうに、さらに
確認 かくにん のためによく
電話 でんわ をくれましたね。テレビの
世界 せかい で
頂点 ちょうてん を
極 きわ めたあなたの、
謙虚 けんきょ な
謙虚 けんきょ な
一 いち 面 めん でした。
僕 ぼく の
映画 えいが の
試写 ししゃ 会 かい に
来 き てくれて、その
後 ご のパーティであなたと
畑違 はたけちが いの
映画 えいが 関係 かんけい の
輪 わ の
中 なか に
僕 ぼく がいる。
人 ひと の
群 む れの
中 なか で
遠 とお くにいたあなたと
目線 めせん が
合 あ ったので、あなたのそばにいこうとすると
手 て で
制 せい して、
遠 とお くから
手 て で
大 おお きな
輪 わ を
描 えが いて「
良 よ かったよ」のサインを
示 しめ して、
去 さ っていったあなた。
涙 なみだ が
出 しゅっ そうになりました。「ねえ、
逸見 いつみ さん。"
不老 ふろう 長寿 ちょうじゅ "じゃないよ、"
不良 ふりょう 長寿 ちょうじゅ "だよ。
不良 ふりょう しようよ」と
冗談 じょうだん でよく
誘 さそ いましたね。「
不良 ふりょう したいですね」と
笑顔 えがお で
返 かえ すあなたには
不良 ふりょう が
立 た ち
入 い れる、そして
染 そ まる
状況 じょうきょう じゃないのは
一目瞭然 いちもくりょうぜん でした。これは
身内 みうち の
方 ほう に
聞 き いた
話 はなし ですが、
薄 うす れゆく
意識 いしき の
中 なか で、あなたはうわ
言 ごと で「3
番 ばん が
正解 せいかい です」との
言葉 ことば を
発 はっ せられたと
聞 き きました。クリスマスの
夜 よる はこの
言葉 ことば を
聞 き いて
朝 あさ まで
眠 ねむ れませんでした。「3
番 ばん が
正解 せいかい です」。クイズの
司会 しかい か、はたまた
大好 だいす きなゴルフのクラブを
選 えら ぶ
夢 ゆめ をご
覧 らん になっていたのでしょう。
最後 さいご の
最後 さいご まで
仕事 しごと への
情熱 じょうねつ を
捨 す てなかったあなた。
春 はる にはまたあなたと
一緒 いっしょ に
両 りょう 軍 ぐん に
分 わ かれて、
憎 にく まれ
口 ぐち を
聞 き くのを
心 しん から
楽 たの しみにしていたのに
本当 ほんとう に
残念 ざんねん です。
試行錯誤 しこうさくご をしながら、あなたと
番組 ばんぐみ に
意見 いけん を
言 い いながら
作 つく ってきた
自負 じふ もあります。そんなわがままをプロデューサーはよく
聞 き いてくれましたね。あなたが
作 つく り
上 あ げた
遺産 いさん を
大切 たいせつ に
守 まも っていきます。と
言 い うより「
管理人 かんりにん 」として
守 まも っていきます。
天国 てんごく でゆっくり、
視聴 しちょう 率 りつ を
気 き にしないで
見 み ていてください。
毎年 まいとし 、12月25
日 にち はあなたを
偲 しの ぶ
日 ひ です。やや
時代 じだい 錯誤 さくご で
突然 とつぜん ですが、
広沢 ひろさわ 虎造 とらぞう さんの
浪曲 ろうきょく で
吉良 きら の仁吉 にきち が
亡 な くなった
描写 びょうしゃ を、「ほしい
男 おとこ を
亡 な くしたものだ」と
次郎 じろう 長 ちょう さんが
嘆 なげ くセリフがあります。
本来 ほんらい の
日本語 にほんご なら「おしい
男 おとこ を
亡 な くしたものだ」なのですが、
何 なん 度 ど 聞 き いても「ほしい
男 おとこ 」になっています。
録音 ろくおん ミスかなとも
思 おも いましたが、あなたが
去 さ って
行 い った
今 いま 、ご
家族 かぞく にも、ファンの
皆様 みなさま にも、
我々 われわれ 友人 ゆうじん たちにとっても、「ほしい
男 おとこ 」が
正解 せいかい のような
気 き がします。もう
一度 いちど 言 い わせてください。「ほしい
男 おとこ を
亡 な くしたものだ」。あなたが
送 おく ってくれたさわやかな
風 ふう は、
今 いま も
僕 ぼく の
心 しん の
中 なか に
吹 ふ いています。
天国 てんごく に
悪人 あくにん どもが
増 ふ えたので、
善人 ぜんにん 逸見 いつみ さんを
呼 よ ぼうというのは、
神様 かみさま のわがままの
様 よう な
気 き がします。
悔 くや しいです。さようなら
逸見 いつみ さん。たくさんの
友情 ゆうじょう をありがとう。
奥様 おくさま 、お
子様 こさま 達 たち 、こんな
素敵 すてき な
父 ちち を、
夫 おっと を
持 も ったことを
誇 ほこ りにしてください。テレビらしく、どうやらあなたの
指 ゆび から
巻 ま きが
入 はい っています。とりあえずお
別 わか れします。
友人 ゆうじん 代表 だいひょう ならぬ、
一緒 いっしょ に
愛 あい した
番組 ばんぐみ 代表 だいひょう 、
山城 やましろ 新伍 しんご 。
— 山城 やましろ 新伍 しんご 、[要 よう 出典 しゅってん ]
先述 せんじゅつ の世田谷 せたがや の豪邸 ごうてい の竣工 しゅんこう 後 ご 、わずか1年 ねん 余 あま りで逸見 いつみ が死去 しきょ (逸見 いつみ 自身 じしん は新居 しんきょ に9か月 げつ 余 あま りしか居住 きょじゅう できなかった)したため、残 のこ された家族 かぞく には12億 おく 円 えん とされるほぼすべてのローンに加 くわ え、年 とし 400万 まん 円 えん とされる固定 こてい 資産 しさん 税 ぜい や月 つき 10万 まん 円 えん 以上 いじょう の光熱 こうねつ 費 ひ が重 おも く圧 お し掛 か かることになった[ 22] 。妻 つま の晴恵 はるえ が預貯金 よちょきん や生命 せいめい 保険 ほけん 等 とう 、ありとあらゆる現金 げんきん をかき集 あつ めたところ7億 おく 円 えん 集 あつ まったが、それでも5億 おく 円 えん の借金 しゃっきん が残 のこ った。太郎 たろう らは自宅 じたく を処分 しょぶん することを提案 ていあん したが、晴恵 はるえ は頑 がん として聞 き かなかったという[ 23] 。晴恵 はるえ はエッセイの執筆 しっぴつ や講演 こうえん 会 かい などで借金 しゃっきん を返 かえ し続 つづ けたが、2010年 ねん に子宮 しきゅう 癌 がん で病死 びょうし 。太郎 たろう によると、晴恵 はるえ の生命 せいめい 保険 ほけん で全額 ぜんがく 返 かえ し終 お えたという。また、晴恵 はるえ の友人 ゆうじん からは「晴恵 はるえ さんはあの家 いえ に殺 ころ されたのよ」と面 めん と向 む かって言 い われたという。現在 げんざい は、太郎 たろう と太郎 たろう の家族 かぞく (妻 つま と息子 むすこ )、愛 あい が住 す んでいる。
「アナウンサーの仕事 しごと の中 なか で一番 いちばん 好 す きな仕事 しごと は何 なに か?」と質問 しつもん された逸見 いつみ は「インタビュー」であると答 こた えている。実際 じっさい に『夜 よる も一生 いっしょう けんめい。』や『いつみても平平凡凡 へいへいぼんぼん 』など、トーク番組 ばんぐみ の司会 しかい の仕事 しごと 経験 けいけん から「同 おな じインタビューでも、タレントのき方 きかた とアナウンサーのき方 きかた はまったく違 ちが う自負 じふ がある」と発言 はつげん 。また、「『夜 よる も一生 いっしょう けんめい。』で下手 へた な歌 うた を歌 うた っていられるのも、その前 まえ のトークパートではきちんと仕事 しごと をしているという自信 じしん があるからだ」とも発言 はつげん している。逸見 いつみ は「自然体 しぜんたい だが鋭 するど く切 き り込 こ んでいく」スタイルのインタビューを理想 りそう としていた。自 みずか らが取材 しゅざい やインタビューをする立場 たちば を経験 けいけん していることもあり、逆 ぎゃく に取材 しゅざい やインタビューを申 もう し込 こ まれた時 とき には、極力 きょくりょく 受 う けるようにしていたという。ただし、インタビューへの思 おも い入 い れの強 つよ さもあってか、特 とく に若手 わかて の記者 きしゃ ・インタビュアーへの評価 ひょうか はかなり厳 いかめ しかった。
一般 いっぱん 的 てき に「マジメ」と思 おも われていた逸見 いつみ だが、著書 ちょしょ 『新版 しんぱん 逸見 いつみ 政孝 まさたか 魔法 まほう のまじめがね』では、山城 やましろ 新伍 しんご とビートたけしの親友 しんゆう 2人 にん が揃 そろ って「マジメだとは思 おも わない」と述 の べた。山城 やましろ は「必要 ひつよう 以上 いじょう に人 ひと に気 き を遣 つか う人 ひと 。良 い しにつけ悪 わる しにつけテレビ人間 にんげん と思 おも える節 ふし がある。もう少 すこ し無責任 むせきにん になった方 ほう がいい」と述 の べた。また、直接 ちょくせつ 「もう少 すこ し悪人 あくにん になってもいい」とアドバイスしたこともあるとし、本人 ほんにん は笑 わら って否定 ひてい したという。たけしは「逸見 いつみ さんみたいな人 ひと は、今 いま だからマジメと言 い われるだけで、昔 むかし なら不 ふ マジメ。昔 むかし は一 ひと つのものに集中 しゅうちゅう する人 ひと がマジメだったが、逸見 いつみ さんは色 いろ んなことに夢中 むちゅう になっているからね」と述 の べている。
プライベートでは亭主関白 ていしゅかんぱく でも知 し られ、それにまつわるエピソードも数多 かずおお く残 のこ されている。菓子 かし 問屋 とんや が空襲 くうしゅう で焼失 しょうしつ し、銀行 ぎんこう に再 さい 就職 しゅうしょく するまで虚脱 きょだつ 状態 じょうたい になっていた父 ちち と缶詰 かんづめ 工場 こうじょう で手 て を火傷 かしょう まみれにしながら働 はたら く母 はは の背中 せなか を見 み て「長男 ちょうなん である自分 じぶん がしっかりしなければ」と思 おも ったのが昔気質 むかしかたぎ な性格 せいかく を形成 けいせい した。また、短気 たんき な性格 せいかく と妥協 だきょう を許 ゆる さない仕事 しごと 熱心 ねっしん な姿勢 しせい もあって、番組 ばんぐみ の共演 きょうえん 者 しゃ やスタッフと口論 こうろん することも珍 めずら しくなかった[ 24] 。
NHK 連続 れんぞく テレビ小説 しょうせつ 『青春 せいしゅん 家族 かぞく 』に俳優 はいゆう として出演 しゅつえん した。同 どう ドラマで逸見 いつみ が演 えん じた岩井 いわい 一之 かずゆき は、アメリカに永住 えいじゅう してビデオレターを送 おく ったりもしたが、アルコール依存 いぞん 症 しょう で途中 とちゅう 帰国 きこく するという役 やく 設定 せってい だった。この役柄 やくがら 設定 せってい は、酒飲 さけの みだった三木 みき プロダクションの三木 みき 豊 ゆたか 常務 じょうむ をモチーフにしたものである。
『NHK紅白 こうはく 歌合戦 うたがっせん 』の司会 しかい を目指 めざ していた[ 25] 。なお実際 じっさい 、1991年 ねん 前後 ぜんこう には紅白 こうはく の白 しろ 組 ぐみ 司会 しかい の候補 こうほ に挙 あ がっていたとされる[ 注 ちゅう 22] 。
前述 ぜんじゅつ の通 とお り、アナウンサーとして多忙 たぼう な中 なか 、結婚式 けっこんしき の司会 しかい を数多 かずおお くこなした。最後 さいご に司会 しかい を務 つと めた三浦 みうら 知良 かずよし ・設楽 したら りさ子 こ 夫妻 ふさい の結婚式 けっこんしき では、逸見 いつみ 本人 ほんにん の強 つよ い希望 きぼう で高田 たかだ 純 じゅん 次 じ とペアを組 く んだ[ 26] 。一方 いっぽう 、フジテレビ時代 じだい には休日 きゅうじつ に司会 しかい のアルバイトを詰 つ め込 こ んで体 からだ を壊 こわ したこともあり、先輩 せんぱい の岩佐 いわさ 徹 とおる は「この時 とき の働 はたら きぶりが早 はや すぎる死 し を招 まね いたのではないか」と指摘 してき している[ 24] 。
几帳面 きちょうめん ゆえに自他 じた 共 ども に時間 じかん 厳守 げんしゅ を重 おも んじた。例 たと えば、逸見 いつみ とのプライベートのゴルフで一緒 いっしょ にラウンドする予定 よてい だった者 もの が断 ことわ りもなく遅刻 ちこく してきた時 とき には、逸見 いつみ はその者 もの とプレー中 ちゅう 一 いち 切口 きりくち を利 き かなかっただけでなく、以降 いこう その者 もの を二度 にど とゴルフに誘 さそ わなかったという。また、取材 しゅざい や番組 ばんぐみ 収録 しゅうろく に向 む かうため、テレビ局 てれびきょく が手配 てはい したタクシーに乗 の っていても、道路 どうろ 渋滞 じゅうたい で「約束 やくそく の時間 じかん に遅 おく れてしまう」と判断 はんだん すると、すぐに乗 の り捨 す てて鉄道 てつどう に乗 の り換 か えることがしばしばあったという[ 28] 。
1993年 ねん 9月6日 にち 15時 じ から行 おこな われた「癌 がん 告白 こくはく 会見 かいけん 」は日本 にほん テレビ系 けい 『ザ・ワイド 』、TBS系 けい 『スーパーワイド 』、フジテレビ系 けい 『タイム3 』で生 なま 中継 ちゅうけい され、大 おお きな反響 はんきょう を呼 よ んだ。
3番組 ばんぐみ の合計 ごうけい 視聴 しちょう 率 りつ は30%を超 こ え、3番組 ばんぐみ の前 ぜん 4週間 しゅうかん の合計 ごうけい 平均 へいきん 20%台 たい 前半 ぜんはん を大幅 おおはば に上回 うわまわ った[ 29] 。この3番組 ばんぐみ のうち、『ザ・ワイド』と『スーパーワイド』は約 やく 30分 ぶん の会見 かいけん の全編 ぜんぺん を途中 とちゅう CM挿入 そうにゅう なしで完全 かんぜん 中継 ちゅうけい した。特 とく に『スーパーワイド』は当初 とうしょ 全編 ぜんぺん 放映 ほうえい の予定 よてい ではなかったにもかかわらず、会見 かいけん の開始 かいし 後 ご に急遽 きゅうきょ 全編 ぜんぺん 放映 ほうえい に切 き り替 か えたという。
逸見 いつみ が死去 しきょ した12月25日 にち の午後 ごご (12時 じ 47分 ぶん の死去 しきょ の直後 ちょくご )には、日本 にほん テレビとフジテレビで緊急 きんきゅう 追悼 ついとう 番組 ばんぐみ が放送 ほうそう された。いずれも高 こう 視聴 しちょう 率 りつ を記録 きろく し、視聴 しちょう 者 しゃ からの強 つよ い関心 かんしん を集 あつ めた。
まず日本 にほん テレビが13時 じ 42分 ふん から13時 じ 55分 ふん に『全日本 ぜんにほん 仮装 かそう 大賞 たいしょう クリスマス特選 とくせん 集 しゅう 』と題 だい された第 だい 40回 かい 大会 たいかい (本 ほん 放送 ほうそう は同年 どうねん 9月 がつ 30日 にち )の再 さい 放送 ほうそう を全 ぜん 作品 さくひん の披露 ひろう が終了 しゅうりょう した時点 じてん で打 う ち切 き り(表彰 ひょうしょう 以降 いこう は未 み 放送 ほうそう )、『緊急 きんきゅう !逸見 いつみ 政孝 まさたか さん壮絶 そうぜつ ガン死 し !』を放送 ほうそう 。視聴 しちょう 率 りつ は2桁 けた に達 たっ した[ 29] 。
引 ひ き続 つづ き日本 にほん テレビは15時 じ 30分 ふん から16時 じ 25分 ふん に『大 だい 病気 びょうき バラエティー』を差 さ し替 か えて同 どう タイトルの番組 ばんぐみ を放送 ほうそう 。こちらは20%近 ちか い視聴 しちょう 率 りつ を記録 きろく した[ 29] 。なお、『大 だい 病気 びょうき バラエティー』は高嶋 たかしま ひでたけ の持 も ち込 こ み企画 きかく (司会 しかい も兼任 けんにん )であったが、後日 ごじつ 改 あらた めて放送 ほうそう されることなく、お蔵 ぞう 入 い り となった[ 31] [ 32] 。
さらにフジテレビでも18時 じ 30分 ふん から19時 じ 54分 ふん に『幽 かそけ ☆遊 ゆう ☆白書 はくしょ 』『平成 へいせい 教育 きょういく 委員 いいん 会 かい 』を差 さ し替 か えて『追悼 ついとう ・衝撃 しょうげき のガン告白 こくはく から110日 にち …逸見 いつみ 政孝 まさたか さんついに逝 ゆ く』を放送 ほうそう し、30%に迫 せま る視聴 しちょう 率 りつ を記録 きろく [ 29] 。そして日本 にほん テレビも19時 じ から19時 じ 54分 ふん に『なんだろう!?大 だい 情報 じょうほう ! 』を差 さ し替 か えて『逸見 いつみ 政孝 まさたか さん追悼 ついとう ・逸見 いつみ さん安 やす らかに…あなたの笑顔 えがお をいつまでも忘 わす れません』を放送 ほうそう し13時 じ 台 だい の放送 ほうそう を上回 うわまわ る視聴 しちょう 率 りつ を記録 きろく した[ 29] 。なお、日本 にほん テレビではその後 ご の『夜 よる も一生 いっしょう けんめい』と翌日 よくじつ の『波瀾万丈 はらんばんじょう 』も生放送 なまほうそう の追悼 ついとう 企画 きかく に差 さ し替 か えた。クロスネット局 きょく のうち、テレビ宮崎 てれびみやざき はフジテレビ、テレビ大分 てれびおおいた と鹿児島 かごしま テレビは日本 にほん テレビ側 がわ の追悼 ついとう 特番 とくばん を同時 どうじ ネットしていた。
19時 じ 台 だい には上記 じょうき 2局 きょく で逸見 いつみ の緊急 きんきゅう 追悼 ついとう 番組 ばんぐみ が放送 ほうそう される運 はこ びとなり、より多 おお くの視聴 しちょう 者 しゃ からの関心 かんしん を集 あつ めることになった(視聴 しちょう 率 りつ はいずれもビデオリサーチ社 しゃ ・関東 かんとう 地区 ちく 調 しら べ)[ 29] 。
一 いち 周忌 しゅうき に合 あ わせて日本 にほん テレビでは1994年 ねん 12月20日 にち に『逸見 いつみ 政孝 まさたか ・メモリアル 特別 とくべつ 番組 ばんぐみ 』を21時 じ 03分 ふん から22時 じ 54分 ふん に放送 ほうそう 。『いつみても波瀾万丈 はらんばんじょう 』の司会 しかい を引 ひ き継 つ いだ福留 ふくとめ 功男 いさお と永井 ながい 美奈子 みなこ が進行 しんこう 役 やく となり、『クイズ世界 せかい はSHOW by ショーバイ!!』からは渡辺 わたなべ ・山城 やましろ ・高田 たかだ (馬場 ばば と野沢 のざわ 直子 なおこ はVTRコメントで出演 しゅつえん )と逸見 いつみ から司会 しかい を引 ひ き継 つ いだ福澤 ふくさわ 朗 あきら 、『夜 よる も一生 いっしょう けんめい。』からは徳光 とくみつ (美川 みかわ はVTRコメントで出演 しゅつえん )、『いつみても波瀾万丈 はらんばんじょう 』からは寛平 かんぺい がそれぞれ出演 しゅつえん し、加 くわ えてフジテレビの後輩 こうはい である寺田 てらだ 理恵子 りえこ ・有賀 ありが さつき ・河野 こうの 景子 けいこ 、ゴルフ番組 ばんぐみ で共演 きょうえん した湯原 ゆはら 信光 のぶみつ も出演 しゅつえん した。この他 ほか 、VTRで上記 じょうき 3名 めい に加 くわ えて堺 さかい 正章 まさあき 、森口 もりぐち 博子 ひろこ 、古舘 ふるたち 伊知郎 いちろう 、三波 みなみ 春夫 はるお 、大橋 おおはし 巨泉 きょせん 、和田 わだ アキ子 あきこ 、島田 しまだ 紳助 しんすけ もコメントを述 の べた。前半 ぜんはん は『クイズ世界 せかい はSHOW by ショーバイ!!』『夜 よる も一生 いっしょう けんめい。』『いつみても波瀾万丈 はらんばんじょう 』及 およ び『いつみても平々凡々 へいへいぼんぼん 』の総集編 そうしゅうへん を、終盤 しゅうばん には『いつみても波瀾万丈 はらんばんじょう 』のメインコーナーだった「波瀾万丈 はらんばんじょう 伝 でん 」の逸見 いつみ 版 ばん を放送 ほうそう した。この特番 とくばん は20%を超 こ える視聴 しちょう 率 りつ を記録 きろく した(ビデオリサーチ社 しゃ 関東 かんとう 地区 ちく 調 しら べ)[ 33] 。
癌 がん 告白 こくはく 会見 かいけん 直前 ちょくぜん の1993年 ねん 7月 がつ 23日 にち に『金曜 きんよう エンタテイメント 』で放送 ほうそう された『人間 にんげん ドキュメント 石原 いしはら 裕次郎 ゆうじろう 物語 ものがたり 』では逸見 いつみ がナビゲーターを務 つと めたが、奇 く しくも一 いち 周忌 しゅうき が迫 せま った1994年 ねん 12月23日 にち に、同 おな じ『金曜 きんよう エンタテイメント』にて、逸見 いつみ 自身 じしん の生涯 しょうがい 、及 およ び闘病 とうびょう 生活 せいかつ を描 えが いたドラマ『人間 にんげん ドキュメント 逸見 いつみ 政孝 まさたか 物語 ものがたり 』が放送 ほうそう され、三田村 みたむら 邦彦 くにひこ が逸見 いつみ を演 えん じた(この他 ほか の出演 しゅつえん 者 しゃ は、妻 つま ・晴 はれ 恵 めぐみ 役 やく に坂口 さかぐち 良子 りょうこ 、長男 ちょうなん ・太郎 たろう 役 やく に河相 かあい 我聞 がもん 、長女 ちょうじょ ・愛 あい 役 やく に田中 たなか 有紀美 ゆきみ 。脚本 きゃくほん :信 しんじ 本 もと 敬子 けいこ 、演出 えんしゅつ :上川 かみかわ 伸廣 のぶひろ [ 34] )。
報道 ほうどう ・情報 じょうほう 番組 ばんぐみ (フリー後 ご も含 ふく めて)
期間 きかん
番組 ばんぐみ 名 めい
役職 やくしょく
担当 たんとう 日 び
備考 びこう
1973年 ねん 5月 がつ 14日 にち
1974年 ねん 4月 がつ 30日 にち
3時 じ のあなた
司会 しかい
月 つき ・火曜日 かようび
1974年 ねん 5月 がつ 9日 にち
1977年 ねん 3月 がつ 31日 にち
木 き ・金曜日 きんようび
1976年 ねん 10月 がつ
1978年 ねん 10月 がつ 1日 にち
FNNテレビ土曜 どよう ・日曜 にちよう 夕刊 ゆうかん
キャスター
休日 きゅうじつ
1977年 ねん 4月 がつ 1日 にち
1977年 ねん 5月 がつ 27日 にち
3時 じ のあなた
司会 しかい
水 みず ~金曜日 きんようび
1977年 ねん 5月 がつ 31日 にち
1978年 ねん 3月 がつ 31日 にち
水 みず ・金曜日 きんようび
1978年 ねん 4月 がつ 5日 にち
1978年 ねん 9月 がつ 28日 にち
水 みず ・木曜日 もくようび
1978年 ねん 10月 がつ 2日 にち
1984年 ねん 3月 がつ 30日 にち
FNNニュースレポート6:30
キャスター
平日 へいじつ
18時 じ 台 だい 後半 こうはん のローカルニュース番組 ばんぐみ として放送 ほうそう
1984年 ねん 4月 がつ 2日 にち
1984年 ねん 9月 がつ 21日 にち
FNNニュースレポート6:00
番組 ばんぐみ 終了 しゅうりょう まで1週間 しゅうかん は、報道 ほうどう 部 ぶ (当時 とうじ )の竹内 たけうち 貞男 さだお が担当 たんとう
1984年 ねん 10月 がつ 1日 にち
1989年 ねん 3月 がつ 31日 にち
FNNスーパータイム
1985年 ねん 4月 がつ よりスポーツコーナーのパートナーキャスターを兼務 けんむ 、番組 ばんぐみ 降板 こうばん まで1年 ねん はフリーとして出演 しゅつえん
1986年 ねん 10月 がつ 16日 にち
1988年 ねん 3月 がつ
なんてったって好奇心 こうきしん
司会 しかい
木曜日 もくようび
同局 どうきょく 退社 たいしゃ に伴 ともな い降板 こうばん し、司会 しかい は西田 にしだ 敏行 としゆき 、江本 えもと 孟紀 たけのり と交代 こうたい
バラエティ・特別 とくべつ 番組 ばんぐみ など(フリー後 ご も含 ふく めて)
湯原 ゆはら ・逸見 いつみ のゴルフ苦楽 くらく 部 ぶ (1989年 ねん -1991年 ねん )
シュガーレディ (妻 つま ・晴 はれ 恵 めぐみ と共演 きょうえん )
旭 あさひ ホームズ
マツダ (西 にし ドイツ顧客 こきゃく 満足 まんぞく 度 ど No.1編 へん )
HOYA (長女 ちょうじょ ・愛 あい と共演 きょうえん )
明治生命 めいじせいめい (現 げん 明治 めいじ 安田 やすだ 生命 せいめい )
ダスキン (創立 そうりつ 30周年 しゅうねん 記念 きねん CMにさだまさし と共演 きょうえん 。逸見 いつみ が生涯 しょうがい 最後 さいご に出演 しゅつえん したCMでもある)
PCエンジンワールド(PCエンジン用 よう のプロモーションビデオにナレーションとして出演 しゅつえん )
逸見 いつみ 政孝 まさたか 『マジメまして逸見 いつみ です』フジテレビ出版 しゅっぱん 、1985年 ねん 12月。ISBN 978-4-8935-3068-4 。
逸見 いつみ 政孝 まさたか 『素敵 すてき します 新装 しんそう 開店 かいてん いっつみいさん』講談社 こうだんしゃ 、1988年 ねん 5月 がつ 。ISBN 978-4-0620-3889-8 。
逸見 いつみ 政孝 まさたか 『逸見 いつみ 政孝 まさたか 魔法 まほう のまじめがね ブラウン管 ぶらうんかん は思 おも いやり発信 はっしん 局 きょく 』ネスコ、1989年 ねん 4月 がつ 。ISBN 978-4-8903-6765-8 。
新版 しんぱん 逸見 いつみ 政孝 まさたか 魔法 まほう のまじめがね ブラウン管 ぶらうんかん は思 おも いやり発信 はっしん 局 きょく (逸見 いつみ 政孝 まさたか 、1993年 ねん )
逸見 いつみ 政孝 まさたか 『ガン再発 さいはつ す』逸見 いつみ 晴恵 はるえ 補筆 ほひつ 、廣済堂 こうさいどう 出版 しゅっぱん 、1994年 ねん 2月 がつ 。ISBN 978-4-3315-0434-5 。 - 同 どう 文庫 ぶんこ 版 ばん 1995年 ねん 角川 かどかわ 文庫 ぶんこ
^ ただし、『タモリ・たけし・さんまBIG3 世紀 せいき のゴルフマッチ』では大阪 おおさか 弁 べん でツッコミを入 い れることが多 おお かった。
^ 後 のち に鹿内 しかない の娘 むすめ 婿 むこ である鹿内 しかない 宏明 ひろあき が同局 どうきょく のアナウンサーとなった木幡 きばた 美子 よしこ の入社 にゅうしゃ 試験 しけん での面接 めんせつ の際 さい にも木幡 きばた に対 たい して同 おな じ質問 しつもん を行 おこな っている。また木幡 きばた の回答 かいとう も逸見 いつみ と同 おな じものであった。(木幡 きばた の上智大学 じょうちだいがく の同級生 どうきゅうせい である田代 たしろ 尚子 しょうこ も、同 おな じ時期 じき にフジテレビを受験 じゅけん していた。こちらも逸見 いつみ たちと同様 どうよう 、2人 ふたり とも採用 さいよう されている。)
^ 後 のち に自身 じしん が司会 しかい を務 つと めた『クイズ世界 せかい はSHOW by ショーバイ!! 』で紹介 しょうかい された
^ 1978年 ねん 当時 とうじ 33歳 さい 。当時 とうじ の報道 ほうどう キャスターは40代 だい 後半 こうはん が多 おお かった。
^ 『天国 てんごく へのメッセージ』によれば、逸見 いつみ 自身 じしん はフリーになる前 まえ に『なんてったって好奇心 こうきしん 』の司会 しかい 継続 けいぞく も望 のぞ んでいたが、「退社 たいしゃ した人間 にんげん を複数 ふくすう の番組 ばんぐみ に起用 きよう するのは社風 しゃふう に反 はん する」という当時 とうじ のフジテレビの意向 いこう で『スーパータイム』のみ継続 けいぞく となった。また『スーパータイム』を1年 ねん で降板 こうばん した理由 りゆう は「報道 ほうどう アナウンサー時代 じだい に10年間 ねんかん ポケベルを持 も たされ、それに振 ふ り回 まわ される生活 せいかつ をフリーになっても続 つづ けたくなかった」ことであり、降板 こうばん 発表 はっぴょう の記者 きしゃ 会見 かいけん でも「これでポケベルを持 も たずに済 す みます」と発言 はつげん していた。
^ 晴 はれ 恵 めぐみ は癌 がん 再発 さいはつ を告知 こくち するように依頼 いらい するも、執刀 しっとう 医 い から「逸見 いつみ との信頼 しんらい 関係 かんけい を崩 くず すから告知 こくち しない」と断固 だんこ 拒否 きょひ されたという。
^ 『クイズ世界 せかい はSHOW by ショーバイ!!』、『夜 よる も一生 いっしょう けんめい。』、『たけし・逸見 いつみ の平成 へいせい 教育 きょういく 委員 いいん 会 かい 』、『いつみても波瀾万丈 はらんばんじょう 』、『逸見 いつみ のその時 とき 何 なに が!』の5本 ほん 。
^ 後 のち に晴恵 はるえ は、逸見 いつみ に「お願 ねが いですから他 た の病院 びょういん で診 み て貰 もら ってください!」と土下座 どげざ してまで頼 たの み込 こ んだというエピソードを明 あ かしている。
^ なおこの際 さい 記者 きしゃ から「生還 せいかん してください」と声 こえ をかけられている。
^ 蔵 ぞう 間 あいだ も出演 しゅつえん 時 じ に大病 たいびょう (慢性 まんせい 骨髄 こつづい 性 せい 白血病 はっけつびょう )を患 わずら っており、逸見 いつみ の死 し から1年 ねん が経過 けいか した1995年 ねん 1月 がつ に死去 しきょ した。なお、番組 ばんぐみ 収録 しゅうろく 後 ご に共演 きょうえん 者 しゃ の間 あいだ 寛平 かんぺい と野際 のぎわ 陽子 ようこ は逸見 いつみ から番組 ばんぐみ を休 やす んで闘病 とうびょう 生活 せいかつ に入 はい ることを秘密裏 ひみつり に告白 こくはく されている。
^ レギュラー出演 しゅつえん した番組 ばんぐみ の放送 ほうそう は『平成 へいせい 教育 きょういく 委員 いいん 会 かい 』12月4日 にち 放送 ほうそう 分 ぶん (死去 しきょ の約 やく 3週間 しゅうかん 前 まえ )が最後 さいご であった。これは北野 きたの 武 たけし が映画 えいが 製作 せいさく に入 はい る関係 かんけい 上 じょう 、記者 きしゃ 会見 かいけん 前 まえ に約 やく 3か月 げつ 分 ぶん の撮 と り溜 だ めが行 おこな われたためである。
^ 臓器 ぞうき 摘出 てきしゅつ 手術 しゅじゅつ に5時 じ 間 あいだ 、大腿 だいたい 部 ぶ から腹部 ふくぶ への皮膚 ひふ 移植 いしょく 手術 しゅじゅつ に8時 じ 間 あいだ 。
^ 一般 いっぱん 的 てき にはS-1とシスプラチンによる術 じゅつ 前 ぜん 補助 ほじょ 療法 りょうほう と術後 じゅつご 抗癌剤 こうがんざい 逐次 ちくじ 投与 とうよ を組 く み合 あ わせた治療 ちりょう が有用 ゆうよう であるとされる。ただし、遠隔 えんかく 腹膜 ふくまく 転移 てんい がある場合 ばあい は、手術 しゅじゅつ 適応 てきおう 外 がい ー胃癌 いがん 取扱 とりあつか い規約 きやく 第 だい 12版 はん P2/P3ーとされる。
^ 慶應義塾大学 けいおうぎじゅくだいがく 医学部 いがくぶ の近藤 こんどう 誠 まこと 教授 きょうじゅ は、前田 まえだ 外科 げか 病院 びょういん と東京女子医科大学 とうきょうじょしいかだいがく の治療 ちりょう ・手術 しゅじゅつ 方法 ほうほう の問題 もんだい 点 てん を自著 じちょ 『がんは切 き ればなおるのか』で指摘 してき しており、「同年 どうねん 2月 がつ の手術 しゅじゅつ の段階 だんかい の病状 びょうじょう でいかなる治療 ちりょう を受 う けても助 たす かる見込 みこ みは100%なかった」「この際 さい に手術 しゅじゅつ を行 おこな わなければ、あと数 すう 年 ねん は生 い きられた」と述 の べている[ 19] 。
^ 公式 こうしき には「ボーカルのZERRYとよく似 に ている人物 じんぶつ 」とされている忌野 いまわの 清志郎 きよしろう も2009年 ねん に咽頭 いんとう がん で亡 な くなっている。忌野 いまわの 自身 じしん も抗 こう がん剤 ざい での治療 ちりょう を試 こころ みていた。
^ 1993年 ねん 10月 がつ よりスペシャル番組 ばんぐみ からレギュラー番組 ばんぐみ に昇格 しょうかく 。
^ 晴 はれ 恵 めぐみ の著書 ちょしょ の表紙 ひょうし にもこの写真 しゃしん が使 つか われている。
^ なお、追悼 ついとう 番組 ばんぐみ は『幽 かそけ ☆遊 ゆう ☆白書 はくしょ 』を休止 きゅうし し、18:30からの90分 ふん 番組 ばんぐみ として、須田 すだ 哲夫 てつお と大坪 おおつぼ 千夏 ちなつ の司会 しかい で放送 ほうそう された。
^ 『平成 へいせい 教育 きょういく 委員 いいん 会 かい 』の初代 しょだい プロデューサー。
^ この他 ほか には、『3時 じ のあなた 』で共演 きょうえん した坪内 つぼうち ミキ子 みきこ や『FNNスーパータイム 』で共演 きょうえん した長田 ながた 渚左 なぎさ 、『平成 へいせい 初恋 はつこい 談義 だんぎ 』司会 しかい の板東 ばんどう 英二 えいじ と森口 もりぐち 博子 ひろこ (両者 りょうしゃ とも途中 とちゅう から)が出演 しゅつえん した。
^ 当初 とうしょ は、ビートたけしが弔辞 ちょうじ を読 よ み上 あ げる予定 よてい だったが、号泣 ごうきゅう で弔辞 ちょうじ を読 よ み上 あ げる状況 じょうきょう ではなかったため、山城 やましろ が代読 だいどく した。
^ 1991年 ねん に『ザテレビジョン 』が誌上 しじょう で「紅 べに 組 ぐみ 司会 しかい :山田 やまだ 邦子 くにこ 、白 しろ 組 ぐみ 司会 しかい :逸見 いつみ 」と同年 どうねん の『第 だい 42回 かい NHK紅白 こうはく 歌合戦 うたがっせん 』の両 りょう 組 くみ 司会 しかい の人選 じんせん 予想 よそう を行 おこな っていた。
人物 じんぶつ データ研究 けんきゅう 会 かい 編 へん 『逸見 いつみ 政孝 まさたか さんの生 せい きかた 48年 ねん の人間 にんげん 記録 きろく あなたは新 あら たなる自分 じぶん を発見 はっけん する』三笠 みかさ 書房 しょぼう 、1994年 ねん 2月 がつ 。ISBN 978-4-8379-1539-3 。
三木 みき 治 おさむ 『天国 てんごく へのメッセージ 逸見 いつみ 政孝 まさたか その出会 であ いから別 わか れまで』廣済堂 こうさいどう 出版 しゅっぱん 、1994年 ねん 7月 がつ 。ISBN 978-4-3315-0445-1 。
逸見 いつみ 晴恵 はるえ 『二 に 十 じゅう 三 さん 年 ねん 目 め の別 わか れ道 みち はじめて明 あ かす夫 おっと ・逸見 いつみ 政孝 まさたか の闘病 とうびょう 秘話 ひわ とそれからのこと』フジテレビ出版 しゅっぱん 、1994年 ねん 11月。ISBN 978-4-5841-8169-0 。 - 2003年 ねん 文庫 ぶんこ 化 か
ゴンドラの詩 し 父 ちち が遺 のこ してくれたもの(著 ちょ :逸見 いつみ 愛 あい 、1995年 ねん )
息子 むすこ への遺書 いしょ (てがみ) 夫 おっと ・逸見 いつみ 政孝 まさたか が遺 のこ した家族 かぞく への愛 あい と絆 きずな (著 ちょ :逸見 いつみ 晴恵 はるえ 、1995年 ねん 、(2003年 ねん 、文庫 ぶんこ 化 か ))
原 はら 國雄 くにお 、板倉 いたくら 俊彦 としひこ 、松永 まつなが 邦久 くにひさ 、見城 けんじょう 美枝子 みえこ - 早稲田大学 わせだだいがく 時代 じだい のアナウンス研究 けんきゅう 会 かい の同僚 どうりょう ・同期 どうき 。逸見 いつみ や同 おな じく同期 どうき の松倉 まつくら とともに放送 ほうそう 局 きょく のアナウンサーとなった。
福岡 ふくおか 政行 まさゆき - 早稲田大学 わせだだいがく 時代 じだい のアナウンス研究 けんきゅう 会 かい の同僚 どうりょう ・同期 どうき 。アナウンサーにはならなかったが、研究 けんきゅう 会 かい での経験 けいけん を活 い かし、大学 だいがく 教授 きょうじゅ とリポーターを兼業 けんぎょう していた時期 じき があった。
出演 しゅつえん したテレビ番組 ばんぐみ
バラエティ番組 ばんぐみ 報道 ほうどう ・情報 じょうほう 番組 ばんぐみ スポーツ中継 ちゅうけい 番組 ばんぐみ 特別 とくべつ 番組 ばんぐみ テレビドラマ
同期 どうき 入社 にゅうしゃ 関連 かんれん 項目 こうもく 関連 かんれん 人物 じんぶつ
家族 かぞく フジテレビ関係 かんけい 者 しゃ フジテレビ以外 いがい の アナウンサー 番組 ばんぐみ 共演 きょうえん 者 しゃ その他 た
放送 ほうそう 履歴 りれき 歴代 れきだい 製作 せいさく 総 そう 指揮 しき 歴代 れきだい 総合 そうごう 司会 しかい 歴代 れきだい 番組 ばんぐみ パーソナリティー歴代 れきだい 進行 しんこう アナウンサーベース番組 ばんぐみ 通常 つうじょう 番組 ばんぐみ からのコーナースピンオフ 枠 わく 内 ない 特別 とくべつ コーナー関連 かんれん 項目 こうもく 関連 かんれん 人物 じんぶつ
注 ちゅう 1:6月放送 ほうそう 、注 ちゅう 2:8月放送 ほうそう 、注 ちゅう 3:9月放送 ほうそう 、注 ちゅう 4:11月放送 ほうそう 、注 ちゅう 5:放送 ほうそう 中止 ちゅうし
カテゴリ
平成 へいせい 教育 きょういく 委員 いいん 会 かい シリーズ
レギュラー番組 ばんぐみ スペシャル番組 ばんぐみ 司会 しかい (学級 がっきゅう 委員 いいん 長 ちょう 及 およ び助手 じょしゅ )アシスタント(教育 きょういく 実習 じっしゅう 生 せい ) 代理 だいり 司会 しかい (特別 とくべつ 講師 こうし など)関連 かんれん 項目 こうもく ナレーター 関連 かんれん 人物 じんぶつ
カテゴリ
全般 ぜんぱん 国立 こくりつ 図書館 としょかん 学術 がくじゅつ データベース芸術 げいじゅつ 家 か