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尾形おがた藤吉とうきち

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尾形おがた藤吉とうきち
尾形おがたけいづくり
1959ねんごろ
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 北海道ほっかいどう有珠うすぐん伊達だてまち
げん北海道ほっかいどう伊達だて
生年月日せいねんがっぴ 1892ねん3月2にち
死没しぼつ (1981-09-27) 1981ねん9月27にち(89さいぼつ
騎手きしゅ情報じょうほう
所属しょぞく団体だんたい 日本にっぽん競馬けいばかい
東京とうきょう競馬けいば倶楽部くらぶ
所属しょぞく厩舎きゅうしゃ 菅野かんの小次郎こじろう目黒めぐろ (1908ねん-1911ねん)
調しらべ兼業けんぎょう目黒めぐろ-東京とうきょう (1911ねん-1936ねん)
はつ免許めんきょねん 1908ねん
免許めんきょ区分くぶん 平地ひらち速歩はやあし
騎手きしゅ引退いんたい 1936ねん
通算つうさん勝利しょうり 373せん148しょう
調教ちょうきょう情報じょうほう
はつ免許めんきょねん 1911ねん
調教ちょうきょう引退いんたい 1981ねん9月27にち死亡しぼう
じゅうしょう勝利しょうり 189しょう(1932ねん以降いこう
G1きゅう勝利しょうり 39しょうはちだい競走きょうそう
通算つうさん勝利しょうり 9390せん1670しょう(1954ねん以降いこう
経歴けいれき
所属しょぞく 目黒めぐろ競馬けいばじょう(1908ねん-1933ねん
東京競馬場とうきょうけいばじょう(1933ねん-1978ねん
美浦みほT.C. (1978ねん-1981ねん)
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尾形おがた 藤吉とうきち(おがた とうきち、1892ねん3月2にち - 1981ねん9月27にち)は、日本にっぽん騎手きしゅ調教ちょうきょう

1908ねんより騎手きしゅとなり、1911ねんからは騎手きしゅけん調教ちょうきょうとして初代しょだいハクショウアスコット、1936ねんより専業せんぎょう調教ちょうきょうとなってからは11せん無敗むはいクリフジJRA顕彰けんしょう)、はちだい競走きょうそう3しょうげ、日本にっぽんとしてはじめてアメリカのじゅうしょう競走きょうそうせいしたハクチカラ同前どうぜん)などすうおおくの名馬めいば手掛てがけた。日本中央競馬会にっぽんちゅうおうけいばかい(JRA)が発足ほっそくした1954ねん以降いこうだけでも年間ねんかん最多さいたかちを12かい記録きろくし、通算つうさん1670しょうおよび東京とうきょうゆう駿しゅん日本にほんダービー)8しょうをはじめとするきゅうはちだい競走きょうそう39しょうじゅうしょう189しょう(1932ねん以降いこう)は史上しじょう最多さいた勝利しょうり記録きろく。さらに門下もんかからはそれぞれJRA騎手きしゅ顕彰けんしょうしゃ保田やすだ隆芳たかよし野平のだい祐二ゆうじどう調教ちょうきょう顕彰けんしょうしゃ松山まつやま吉三郎きちさぶろう数々かずかず人材じんざい輩出はいしゅつした。その幾多いくた功績こうせきにより日本にっぽん競馬けいばかいにおいて「大尾たいびがた」としょうされる[1]

1964ねん黄綬おうじゅ褒章ほうしょう、1966ねんくんとうそうこう旭日きょくじつあきら受章じゅしょう。2004ねん調教ちょうきょう顕彰けんしょうしゃ選出せんしゅつおなじくJRA調教ちょうきょう尾形おがたもり長男ちょうなん尾形おがた充弘みつひろまご

出生しゅっしょうから1908ねんまでは「大河原おおがわらせいであり、また1911ねんから1946ねんまでは「尾形おがたけいづくり」と名乗なのっていたが、ほんこうでは統一とういつして「藤吉ふじよし」と記述きじゅつする。

経歴けいれき

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ち - 御料ごりょう牧場ぼくじょう

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1892ねん北海道ほっかいどう有珠うすぐん伊達だてまちげん北海道ほっかいどう伊達だて)の開拓かいたく農家のうかに、大河原おおかわら栄次郎えいじろう・キク夫妻ふさい次男じなんとしてまれる[2]父方ちちかた大河原おおがわら母方ははかた尾形おがたは、双方そうほうとも亘理わたり伊達だて旧臣きゅうしんであり、主君しゅくん伊達だてくになりしたがって当地とうち入植にゅうしょくしていた[2]いえでは2とう農耕のうこうい、栄次郎えいじろうはその手入ていれのすべてをみずかおこなうまきな人物じんぶつだった(藤吉ふじよしが3さいとき死去しきょ[2]藤吉ふじよし幼少ようしょうよりうましたしみ、尋常じんじょう小学校しょうがっこう入学にゅうがくしてからはなつになると裸馬はだかうまってまわし、友人ゆうじんらに「りのふじちゃん」とあだされた[2]

高等こうとう小学校しょうがっこう4ねんであった1907ねん9がつ異父いふおとうと川遊かわあそびの最中さいちゅう溺死できしする不幸ふこう見舞みまわれ、さらに10がつには大火たいか伊達だてまちおそい、藤吉ふじよし消沈しょうちんさせた[3]。しかしよく11がつ官営かんえい新冠にいかっぷ御料ごりょう牧場ぼくじょうつとめていた大叔父おおおじ阿部あべ哲三てつぞう火事かじ見舞みまいにおとずれると、藤吉ふじよしはこれをしんきょく打開だかい機会きかいとらえ、みずからを御料ごりょう牧場ぼくじょうれていくよう哲三てつぞうたのんだ。すると好感こうかんいた哲三てつぞうははキクの説得せっとくつとめ、これをみとめられて藤吉ふじよし哲三てつぞうとも御料ごりょう牧場ぼくじょううつり、馬術ばじゅつ見習みならいせいとなった[3]牧場ぼくじょうはいってしばらくは雑用ざつようをこなしていたが、2カ月かげつぜん担当たんとうしゃ過失かしつから「ごうサラ」のたね牡馬ぼばウヰリアムの運動うんどうあらたに担当たんとうすることになり、きょくのあるどううまとともに乗馬じょうば技術ぎじゅつみがいていった[4]。1908ねんには近隣きんりん牧場ぼくじょうから人馬じんばあつめておこなわれる祭典さいてん競馬けいばにも参加さんかし、2せん1しょう・2ちゃく1かい成績せいせきであったという[3]

職業しょくぎょう騎手きしゅとなる

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菅野かんのかかえていた園田そのだみのるとく目黒めぐろ競馬けいばじょう管轄かんかつする日本にっぽん競馬けいばかい[ちゅう 1]ちょうつとめた。馬術ばじゅつであったたけ彦七ひこしちあにで、のちにおいたけ富三とみぞう藤吉ふじよし弟子でしとなる。

1908ねん8がつ東京とうきょう園田そのだみのるとくかかえの騎手きしゅけん調教ちょうきょうつとめていた菅野かんの小次郎こじろうが、馬市うまいち参加さんかのため北海道ほっかいどうおとずれ、牧場ぼくじょうでの藤吉ふじよし乗馬じょうば姿すがため、みずからの弟子でしとすることを哲三てつぞう提案ていあんする[5]藤吉ふじよし同座どうざしたのち菅野かんのがあらためて入門にゅうもんさそうと、藤吉ふじよしふた返事へんじ了承りょうしょうし、翌日よくじつには御料ごりょう牧場ぼくじょうはな上京じょうきょういた[5]目黒めぐろ厩舎きゅうしゃ到着とうちゃくしてから正式せいしき菅野かんの弟子でし[6]兄弟子あにでしにはのち藤吉ふじよし弟子でしとなる内藤ないとうきよしちち内藤ないとう清一せいいちがいた[6]

2ねんじゃくさかのぼる1906ねんあき東京とうきょう競馬けいばかい池上いけがみ競馬けいばじょうおこなわれた馬券ばけん発売はつばいともな開催かいさい多額たがく収益しゅうえきげ、これに触発しょくはつされた全国ぜんこく各地かくち競馬けいば倶楽部くらぶ続々ぞくぞく設立せつりつされた[7]競馬けいば軍馬ぐんば改良かいりょうや、そのために必要ひつよううまさん振興しんこうといった公益こうえきてき名目めいもくしたおこなわれ、それをにな競馬けいば主催しゅさいしゃ収入しゅうにゅうげんとして、馬券ばけん発売はつばいは「黙許もっきょ」というかたちになっていた[7]。しかし営利えいり目的もくてきによる競馬けいば開催かいさい横行おうこうや、観客かんきゃく射幸しゃこうしん挑発ちょうはつ競馬けいば場内じょうないにおける騒擾そうじょう事件じけん頻発ひんぱつなどといった風紀ふうき紊乱びんらん弊害へいがい問題もんだいされ、藤吉ふじよし上京じょうきょうからわずか2カ月かげつの1908ねん10がつ6にちをもって馬券ばけん発売はつばい全国ぜんこくてき禁止きんしされた[8]。これにより財源ざいげんうしなった各地かくち競馬けいば主催しゅさいしゃだい打撃だげき[8]藤吉ふじよし先行さきゆきもにわかにくらいものとなった[9]。「もし競馬けいばができなくなったら、陸軍りくぐん調しらべにでもなるがいい」と、菅野かんの藤吉ふじよし陸軍りくぐん馬術ばじゅつ教範きょうはんあたえたほどであった[9]。しかし政府せいふからの補助ほじょきんたよりに競馬けいば開催かいさいそのものはつづけられることになり、12月13にち目黒めぐろ秋季しゅうき開催かいさい3にち内国ないこくさんよび競走きょうそう藤吉ふじよし騎手きしゅとしてはつ騎乗きじょうした[10]。4とうてのすべてが園田そのだみのるとく所有しょゆうで、藤吉ふじよしはホクエン、菅野かんのがここまで13せん全勝ぜんしょう帝室ていしつしょうてんにも優勝ゆうしょうしていたシノリに騎乗きじょうしていた。藤吉ふじよし最後さいごにシノリをみ、1ちゃく同着どうちゃくという結果けっかはつ騎乗きじょうはつ勝利しょうりげた。なお、藤吉ふじよしは「たしかにあたまひとつだけった」が「馬券ばけんはないし、2とうとも園田そのだ所有しょゆうだし、シノリの14せんも1ちゃくという記録きろくにしておきたかったのだろう」と述懐じゅっかいしている[10]

以後いご補助ほじょきんたのみの競馬けいば開催かいさいつづくなかで藤吉ふじよし騎手きしゅとして活動かつどうしたが、観客かんきゃくすくないさびしいものであったという[11]。1908ねん秋季しゅうき開催かいさいにおける全国ぜんこく7競馬けいばかい一般いっぱん入場にゅうじょうしゃすうは、1競馬けいばあたり1にち平均へいきん20にんというすくなさだった[9]。なお、1909ねん8がつ母方ははかた尾形おがた相続そうぞくじん早世そうせいしたことから、藤吉ふじよしわって家名かめいぎ、大河原おおかわら藤吉とうきちから尾形おがた藤吉とうきちへと改姓かいせいした[11]

多賀たがはじめとの出会であい - 独立どくりつ

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Hクラブ専属せんぞくのころ(22~23さい)。阿部あべ哲三てつぞう長男ちょうなん昌三しょうぞうと。

1911ねん元旦がんたん藤吉ふじよし菅野かんののもとをはなれ、明治天皇めいじてんのう御召おめし馬車ばしゃ御者ぎょしゃとしてみや内省ないせいしゅうまりょうつとめる多賀たがいち専属せんぞく騎手きしゅとしてかかえられることになった[12]多賀たが御者ぎょしゃのかたわらで新橋しんばし料亭りょうてい経営けいえいし、やはり料亭りょうてい経営けいえいおとうと平岡ひらおか広高ひろたか[ちゅう 2]末弟ばってい多賀たが半蔵はんぞう共同きょうどうで「Hクラブ」という名義めいぎもちいて競走きょうそう所有しょゆうしていた[12]。Hクラブはそれまで美馬みま孝之たかゆき専属せんぞくとしていたが、美馬みま当時とうじチリからの招聘しょうへいけて離日りにちする予定よていで、その後任こうにんとして藤吉ふじよしもとめられたものだった[12]多賀たがとの出会であいにより、藤吉ふじよしみや内省ないせい運営うんえいになる下総しもうさ御料ごりょう牧場ぼくじょう、および御料ごりょう匹敵ひってきするだい牧場ぼくじょうとして数々かずかず名馬めいば輩出はいしゅつする小岩井こいわい農場のうじょうとのあいだに、優先ゆうせんてきつながりをきずいていくことになる[13]

藤吉ふじよしはHクラブが所有しょゆうする祐天寺ゆうてんじ厩舎きゅうしゃうつり、5がつまつには目黒めぐろ競馬けいばじょう移籍いせき最初さいしょ開催かいさいむかえたが、しんよびせんしんうません)での騎乗きじょうちゅう進路しんろ妨害ぼうがいけてうまもろとも転倒てんとうし、16日間にちかん意識いしき不明ふめいとなる事態じたいおちいった[12]覚醒かくせい快方かいほうかったが、多賀たがつま厄払やくはらいとして藤吉ふじよし改名かいめいすすめ、姓名せいめい判断はんだんから藤吉ふじよしは「けいづくり」を名乗なのることとなった[12]以後いごこの名前なまえ太平洋戦争たいへいようせんそうのち戸籍こせきめいでの登録とうろく義務ぎむづけられるようになるまで使用しようされた[12]

北郷きたごう五郎ごろう藤吉ふじよし独立どくりつさいして北郷きたごうから助言じょげんけ、以後いご様々さまざま北郷きたごうたより、家族かぞくぐるみのいがあった[14]

以後いご騎手きしゅとして復帰ふっきし、Hクラブの所有しょゆうアスベル[ちゅう 3]、トクホといったうま成績せいせきげた。とくにトクホは当時とうじ最大さいだいきゅう牧場ぼくじょうであった小岩井こいわい農場のうじょう生産せいさんで、藤吉ふじよし手掛てがけた最初さいしょ小岩井こいわいであった[15]。Hクラブのおとうと広高ひろたか所有しょゆうだったが、どううまがデビューした1915ねん当時とうじ広高ひろたか料亭りょうてい花月かげつろう」が経営けいえいなんおちいっていたことから売却ばいきゃく視野しやれられていた[16]。しかしトクホは当時とうじだい競走きょうそうである優勝ゆうしょうない国産こくさん連合れんごう競走きょうそう連合れんごうまいる)をせいして賞金しょうきん3000えん獲得かくとくし、花月かげつろう経営けいえいすくうことになった[16]。また、藤吉ふじよしどう競走きょうそうで1ばん人気にんきだったミツイワヰに騎乗きじょうしていた重鎮じゅうちん北郷きたごう五郎ごろうとこれをしたしくまじわるようになり、のちにトクホを「名馬めいば以上いじょううまふくかみ」ととなえている[16]

よく1916ねんには多賀たがいちすすめでおもりょう勤務きんむする梶山かじやまかぶとづくりむすめ栄子えいこ結婚けっこん[16]やく半年はんとし半蔵はんぞう死去しきょこうこう多忙たぼうでHクラブの運営うんえいむずかしくなったことから、多賀たがはじめより独立どくりつすすめられる[14]藤吉ふじよし北郷きたごう相談そうだんしたこうこの提案ていあんれ、祐天寺ゆうてんじ厩舎きゅうしゃゆずけて騎手きしゅけん調教ちょうきょうとして独立どくりつした[14]独立どくりつ当初とうしょ管理かんり頭数とうすうは5~6とうであった[14]

藤吉ふじよし独立どくりつ目先めさき勝利しょうりよりもまず充実じゅうじつした厩舎きゅうしゃ下地したじづくりにちからそそいだ[17]。1918ねんには最初さいしょ弟子でしとなる美馬みま信次しんじ(Hクラブ専属せんぞくだった孝之たかゆきおとうと)が入門にゅうもん[17]同年どうねん藤吉ふじよしはシンオーミフジに騎乗きじょうしてさい高級こうきゅう競走きょうそう帝室ていしつしょうてん春季しゅんき阪神はんしん競馬けいば倶楽部くらぶ)にはつ優勝ゆうしょう[18]しているが、雨漏あまもりする厩舎きゅうしゃ屋根やねえることができないほど財政ざいせいめんではくるしかった[19]

1923ねん7がつ1にち馬券ばけん発売はつばい法的ほうてき根拠こんきょあたえる新制しんせい競馬けいばほう施行しこうされ、15ねんぶりに馬券ばけん発売はつばい復活ふっかつした[20]翌年よくねんはる目黒めぐろ開催かいさいでは前年ぜんねんあき優勝ゆうしょうない国産こくさん連合れんごう競走きょうそうせいしていたスターリングが競走きょうそうちゅう事故じこにより死亡しぼうする不幸ふこう見舞みまわれたが、それにわってチヱリーダッチェス、アストラルの牝馬ひんば2とう活躍かつやくし、前者ぜんしゃは1924ねんはる帝室ていしつしょうてん横浜よこはま)に優勝ゆうしょう後者こうしゃは1927ねんあき内外ないがい国産こくさんうま競走きょうそう帝室ていしつしょうてん横浜よこはま)に優勝ゆうしょうした[19]。チヱリーダッチェスはちゅうせん、アストラルは購買こうばいがく1350えんというやすだった[19][ちゅう 4]大正たいしょう末期まっきから昭和しょうわ初期しょきにかけては、ほかにもフロラーカツプクヰンフロラー、キングフロラー、アスベル、カイモン、クヰンホークといったうまだい競走きょうそう次々つぎつぎせいした[21]。また、このころには大久保おおくぼ亀治かめじ岩佐いわさそう五郎ごろう二本柳にほんやなぎいさむ古賀こが嘉蔵よしぞうといった弟子でしたち騎手きしゅとして成長せいちょうし、活躍かつやくをはじめた[21]

初代しょだいハクショウとアスコット

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アスコットと藤吉ふじよしくつわ多賀たがはじめ

どう時期じき藤吉ふじよし騎手きしゅとしてみずから「世紀せいき決戦けっせん[22]」としょうする競走きょうそう経験けいけんした。ハクショウのぞんだ1930ねん新設しんせつ内国ないこくさん競走きょうそう中山なかやまよんせんめーとる)である。この競走きょうそう中山なかやま競馬けいば倶楽部くらぶ理事りじちょう肥田ひだ金一郎きんいちろううま(5さい以上いじょううま)のそう決算けっさんてき競走きょうそうとして考案こうあんしたもので、ここまで17しょう引退いんたいレースとしてのぞんだナスノとハクショウのいちとなった。当時とうじ規定きていで2とうての競走きょうそう成立せいりつしないため、やぶれたほうが500えんはらうという条件じょうけんでゴーケツ(織田おだ紋次郎もんじろう騎手きしゅ)に出走しゅっそう要請ようせいし、3とうてでおこなわれた[23]。この競走きょうそう新聞しんぶん社会しゃかいめんげられるほど注目ちゅうもくあつ[23]当日とうじつ中山なかやま競馬けいばじょうには当時とうじとしては競馬けいばはじまって以来いらい藤吉ふじよし)という2まんにんめかけた[22]藤吉ふじよし得意とくい騎手きしゅであったが、この競走きょうそうではナスノをさきかせるとげきられるとの判断はんだんから一転いってんしてげをち、そのままゴールまでげきってナスノに3馬身ばしん優勝ゆうしょうたした[22]翌日よくじつ読売新聞よみうりしんぶんには「ナスノがけた」と観客かんきゃくたちが驚嘆きょうたんする様子ようすや、どううま騎乗きじょうしたきし三吉さんきちなみだしたという模様もようつたえられている[24]

また、1931ねんあきよりデビューしたアスコット藤吉ふじよし伝記でんきいちこうかれるなど特筆とくひつされる1とうである。どううま同年どうねんはるに5連勝れんしょうするなど当時とうじ尾形おがた厩舎きゅうしゃ筆頭ひっとうかくであったワカクサのおとうとで、農林省のうりんしょうしょうてん阪神はんしん)、中山なかやまよんせんめーとる帝室ていしつしょうてん目黒めぐろ)、目黒めぐろ記念きねん横浜よこはま特別とくべつなど17しょうげたが、性格せいかく温順おんじゅんさ、操縦そうじゅう容易たやすさもあって競走きょうそう引退いんたいひがし久邇くにみや稔彦としひこおう乗馬じょうばとして寄贈きぞうされ、陸軍りくぐん訓練くんれんけたのちに騎兵きへい大尉たいい西にし竹一たけいちと1936ねんベルリン五輪ごりん総合そうごう馬術ばじゅつ競技きょうぎ日本にっぽん代表だいひょうとして出場しゅつじょうした[25]結果けっかは50とうちゅうの12であったが、藤吉ふじよしは「アスコットが数々かずかず難関なんかんけて野外やがい騎乗きじょうでゴールにはいったという報告ほうこくいたときは、競馬けいばったときよりうれしかった」とべている[25]

騎手きしゅ引退いんたいまで

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日本にほんダービーに優勝ゆうしょうしたトクマサのくつわをとる藤吉ふじよしひだり伊藤いとうただし四郎しろう

1932ねん目黒めぐろ競馬けいばじょう管轄かんかつする東京とうきょう競馬けいば倶楽部くらぶ東京とうきょうゆう駿しゅんだい競走きょうそう日本にほんダービー)創設そうせつ藤吉ふじよしはそのだい1かい競走きょうそうに3とう管理かんりおくみ、自身じしんもオオツカヤマで騎手きしゅとして出走しゅっそうした。当日とうじつは6ばん人気にんきであった。レースはスタートから先頭せんとううばったワカタカがそのままげきって初代しょだいダービーとなり、後方こうほうからんだオオツカヤマは4馬身ばしんの2ちゃくとなった[26]翌年よくねん目黒めぐろ競馬けいばじょう府中ふちゅう移転いてんしてあらたに東京競馬場とうきょうけいばじょう竣工しゅんこうし、これにともな目黒めぐろ祐天寺ゆうてんじうらにあった尾形おがた厩舎きゅうしゃ府中ふちゅううつった。尾形おがた府中ふちゅうに2000つぼ土地とちい、16とう収容しゅうよう厩舎きゅうしゃを2むね自宅じたく雇員こいん小屋こやなどをてた[27]よく1934ねん東京競馬場とうきょうけいばじょうでのはつ開催かいさいとなった日本にほんダービーに藤吉ふじよしは4とうおくる。本命ほんめいされていた中村なかむら一雄かずお厩舎きゅうしゃ阪神はんしん)のミラクルユートピア競走きょうそう当日とうじつ怪我けが出走しゅっそうし、尾形おがた厩舎きゅうしゃフレーモア大久保おおくぼ亀治かめじ)、テーモア(伊藤いとうただし四郎しろう)、デンコウ(二本柳にほんやなぎいさむ)に人気にんきあつまると[28]結果けっかもこの3とうが1ちゃくから3ちゃくめ、藤吉ふじよしだい3かいにしてダービーはつ優勝ゆうしょうたした。翌年よくねんだい4かい競走きょうそうではアカイシダケに騎乗きじょうして2ちゃくとなり、これが騎手きしゅとして最後さいごのダービー出走しゅっそうとなった。1936ねんには伊藤いとうただし四郎しろう騎乗きじょうトクマサでダービー2しょうげた。

同年どうねん全国ぜんこく各地かくち独立どくりつ運営うんえいされていた11の競馬けいば倶楽部くらぶ日本にっぽん競馬けいばかいとして統合とうごうされるにたり、調教ちょうきょう騎手きしゅ職域しょくいき明確めいかくする「調ちょう分離ぶんり」がされた。藤吉ふじよしあらたに厩舎きゅうしゃはいった内藤ないとうきよし松山まつやま吉三郎きちさぶろう保田やすだ隆芳たかよし八木沢やぎさわ勝美かつみといったおおくの弟子でし成長せいちょうしつつあることにかんがみ、11月23にち目黒めぐろ記念きねんでアカイシダケに騎乗きじょうして4ちゃくとなったのを最後さいご騎手きしゅ引退いんたいし、以後いご調教ちょうきょう専業せんぎょうとなった[29]騎手きしゅ成績せいせき明確めいかく集計しゅうけいされている範囲はんいでは373せん148しょう勝率しょうりつは3わり9ふん6りん後年こうねん算出さんしゅつされるようになるれんたいりつ(2ちゃく以内いないりつ)は6わりちょうという高率こうりつであった[30]騎手きしゅとしての日本にほんダービー優勝ゆうしょうはならなかったが、帝室ていしつしょうてん11しょう最多さいた勝利しょうり記録きろくである。

太平洋戦争たいへいようせんそう終結しゅうけつまで

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1938ねん藤吉ふじよしテツモン同年どうねん創設そうせつされただい1かい農林省のうりんしょうしょうてんよんさいよび菊花賞きっかしょう)を制覇せいは。さらにアステリモアだい1かい阪神はんしんゆう駿しゅん牝馬ひんばゆう駿しゅん牝馬ひんば、オークス)もせいした。よく1939ねんには中山ちゅうざんよんさい牝馬ひんば特別とくべつ桜花おうかしょう)、横浜よこはま農林省のうりんしょうしょうてんよんさいよび皐月さつきしょう)が新設しんせつされ、日本にほんダービーとわせて日本にっぽんにおける「五大ごだいクラシック」が整備せいびされた。1940ねんにはタイレイ中山ちゅうざんよんさい牝馬ひんば特別とくべつ優勝ゆうしょう同年どうねん、Hクラブ時代じだい以来いらいいだった北郷きたごう五郎ごろう死去しきょし、藤吉ふじよしはそのいで日本にっぽん調教ちょうきょう騎手きしゅかい会長かいちょう就任しゅうにんした[31]。また、北郷きたごう弟子でしであった田中たなか康三やすぞう前田まえだ長吉ちょうきちのふたりを自身じしん厩舎きゅうしゃけている[31]

日本にほんダービーに優勝ゆうしょうしたクリフジと前田まえだ長吉ちょうきちくつわ栗林くりばやし友二ともじ

よく1941ねんには田中たなか和一郎かずいちろう厩舎きゅうしゃセントライト史上しじょうはつのクラシックさんかん達成たっせいしたが、同年どうねんまつより太平洋戦争たいへいようせんそう勃発ぼっぱつ日米にちべい開戦かいせんもしばらく競馬けいば開催かいさいされ、1943ねん藤吉ふじよし牝馬ひんばクリフジようしてクラシック戦線せんせんのぞんだ。クリフジは前田まえだ長吉ちょうきちにデビューから連勝れんしょうかさね、3せん日本にほんダービーでは2ちゃくに6馬身ばしん・レコードタイムで牝馬ひんばとして2とう優勝ゆうしょうたし、前田まえだも20さい3カ月かげつという史上しじょう最年少さいねんしょうダービージョッキーとなった。さらにあきには阪神はんしんゆう駿しゅん牝馬ひんばを10馬身ばしん京都きょうとのうしょうしょうしょうてんよんさいよび大差たいさせいし、よく1944ねん引退いんたいまで11せん全勝ぜんしょうという成績せいせきのこした。クリフジは後世こうせいまで史上しじょう最強さいきょう牝馬ひんばともひょうされ、藤吉ふじよしは「古今ここんつうじて、これほどつよ牝馬ひんばはいないというともえ御前ごぜんのような」とひょうした[32]。また藤吉ふじよし前田まえだについても「天才てんさい騎手きしゅといえるほどの少年しょうねん[32]」とたか評価ひょうかしている。なお、前田まえだ徴兵ちょうへいけて従軍じゅうぐんシベリア抑留よくりゅうとなり、1946ねん病気びょうきのため同地どうちぼっした。

1944ねんから競馬けいばは「能力のうりょく検定けんてい競走きょうそう」として東京とうきょう京都きょうとのみの観客かんきゃく開催かいさいとなる[33]かく馬主ばしゅ所有しょゆうはすべて日本にっぽん競馬けいばかいげ、良質りょうしつを「検定けんてい」としてのこし、調教ちょうきょうひとりにつき10とうずつられた[34]春秋しゅんじゅう2かい開催かいさいで、尾形おがた厩舎きゅうしゃ日本にほんダービーでシゲハヤが2ちゃくという成績せいせきのこしたが、やがて空襲くうしゅうはげしさをして都会とかいでの競馬けいば開催かいさいはできなくなり、競馬けいばかい支所ししょとして北海道ほっかいどう支所ししょ北海道ほっかいどう静内しずないまち)、東北とうほく支所ししょ岩手いわてけん滝沢たきざわむら)、関東かんとう支所ししょ栃木とちぎけん宇都宮うつのみや)の3カ所かしょ設置せっちされ、藤吉ふじよし弟子でし八木沢やぎさわ勝美かつみ田中たなか康三やすぞうらと東北とうほく支所ししょおもむき、総勢そうぜい70とう検定けんていをもって非公式ひこうしき競馬けいば開催かいさいつづけられた[33]。1945ねん8がつ14にちには東北とうほく支所ししょ検定けんてい競走きょうそうちゅう空襲くうしゅうけたが[33]よく15にち終戦しゅうせんむかえた。

戦後せんご競馬けいば

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終戦しゅうせん先行さきゆきが不透明ふとうめいなか藤吉ふじよし盛岡もりおかとどまっていたが、あきになり競馬けいば再開さいかいほうがあったことから東京とうきょうもどり、厩舎きゅうしゃ再建さいけんはじめた[34]戦後せんご競馬けいばは1946ねん10がつからの開催かいさいまり、競走きょうそうについては検定けんてい抽籤ちゅうせんかく馬主ばしゅさい配布はいふし、それらをさらに抽籤ちゅうせんしてかく調教ちょうきょうることになったが、藤吉ふじよし目立めだったうまたらず、再開さいかいだい1かい競馬けいば牝馬ひんばオホヒカリが3しょうげたことと、しん弟子でし当時とうじ18さい野平のだい祐二ゆうじがそのうち2しょうげたことが目立めだ程度ていどであった[34]。しかし1949ねんにはヤシマドオター桜花おうかしょうせいして戦後せんごのクラシックはつ勝利しょうりげる。どううまつぎはし日本にほんダービーで落馬らくば事故じこまれて重傷じゅうしょうったが、のちに快復かいふくし、よく1950ねんあき天皇てんのうしょう優勝ゆうしょうするなど活躍かつやくした。同年どうねんはほかにハタカゼじゅうしょう3しょうげるなどし、年間ねんかんでは99しょうげて戦前せんぜん最高さいこう成績せいせき上回うわまわった[35]。1951ねんにはハタカゼが天皇てんのうしょうあき)を制覇せいは、1952ねんにはオホヒカリのクリノハナ皐月さつきしょう日本にほんダービーのかんせいし、藤吉ふじよし五大ごだいクラシック競走きょうそう完全かんぜん制覇せいは達成たっせいした。

1953ねんにはハクリョウ菊花賞きっかしょう優勝ゆうしょうどううまよく1954ねんうま(5さい以上いじょううま)として確固かっことした存在そんざい成長せいちょうし、天皇てんのうしょうはる)などをせいし、同年どうねんよりけいしゅしゃがはじめた年度ねんど表彰ひょうしょうにおいて史上しじょうはつ年度ねんど代表だいひょう選出せんしゅつされた。また同年どうねんにはアメリカのローレルパーク競馬けいばじょうから国際こくさい競走きょうそうワシントンD.C.インターナショナル日本にっぽんとしてはじめて招待しょうたいけたが、巨体きょたいのため用意よういされた飛行機ひこうきでは輸送ゆそうむずかしいことがかり断念だんねんされた[36]。しかし1956ねんから1957ねんにかけて日本にほんダービー、天皇てんのうしょうあき)、有馬ありま記念きねんせいしたハクチカラが1958ねんからあらためてアメリカ遠征えんせいおこなうことになり、保田やすだ隆芳たかよしともなって渡米とべい保田やすだとのコンビでのぞんだ現地げんち4せんでは好成績こうせいせきのこせなかったが、現地げんち騎手きしゅのレイ・ヨークがった渡米とべい11せんのワシントンバースデーハンデキャップ(英語えいごばん)をげきって、日本にっぽんとしてはじめてアメリカのじゅうしょう競走きょうそうせいした[36][ちゅう 5]。また保田やすだ現地げんちモンキー習得しゅうとく帰国きこくに3ねん連続れんぞくして最多さいた勝利しょうり騎手きしゅとなるなどこう成績せいせきげ、あぶみのながい「天神てんじんり」が定着ていちゃくしていた日本にっぽんでのモンキー普及ふきゅうおおきく貢献こうけんした。

保田やすだによる1000しょう達成たっせい表彰ひょうしょうしきう(左端ひだりはし)。

1961ねんには2代目だいめとなるハクショウがメジロオーとの「かみ一本いっぽん」といわれた僅差きんさせいして日本にほんダービーに優勝ゆうしょう。1963ねんには尾形おがた厩舎きゅうしゃからメイズイグレートヨルカの2とうきょうとしてクラシックをたたかった。はるかんはメイズイがせいし、セントライト以来いらい2とうのクラシックさんかん確実かくじつといわれたが、さんかん最終さいしゅうせん菊花賞きっかしょうでは騎乗きじょうした森安もりやす重勝しげかつ騎乗きじょうミスもあって6ちゃくしずみ、わってグレートヨルカが最後さいごいちかんせいすることになった。このとき藤吉ふじよし茫然ぼうぜん自失じしつで、グレートヨルカ騎乗きじょう保田やすだからこえけられるまでどううま勝利しょうり気付きづかなかったともいわれ[37]、のちに森安もりやす騎乗きじょうを「だらしないの一語いちごきる」と指弾しだんしている[38]。また、同年どうねんコレヒサ天皇てんのうしょうはる)もせいしているほか、保田やすだ隆芳たかよし史上しじょうはつ通算つうさん1000しょうという記録きろく達成たっせいした。

1966ねんにはコレヒデ天皇てんのうしょうあき)と有馬ありま記念きねんせいし、尾形おがた厩舎きゅうしゃから4とう年度ねんど代表だいひょうとなる。1969ねんにはワイルドモアミノルハクエイホウメジロアサマの「尾形おがた四天王してんのう」がクラシック路線ろせんにぎわせ、うちワイルドモアが皐月さつきしょうせいした[39]同年どうねんにはシャダイターキンでオークスもせいし、年間ねんかん78しょう成績せいせき自身じしん12度目どめ年間ねんかん最多さいたかち記録きろくした[39]日本中央競馬会にっぽんちゅうおうけいばかい発足ほっそくした1954ねんから当年とうねんまでの15年間ねんかん関東かんとうではいち最多さいたかちゆずらず、年間ねんかん史上しじょう最多さいたしょう記録きろくである1959ねんの121しょう筆頭ひっとうに、100しょうえは3(1948~1953ねん国営こくえい時代じだいふくめると5)におよんだ[39]

斜陽しゃよう - 死去しきょ

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藤吉ふじよし最後さいごじゅうしょう勝利しょうりげたメジロティターン。

シャダイターキン以降いこう藤吉ふじよしはちだい競走きょうそう制覇せいはからとおざかり、勝利しょうりすうめんでも徐々じょじょ成績せいせきとしていった。1973ねんあき天皇てんのうしょうでは1ばん人気にんきされたハクホオショウ骨折こっせつ競走きょうそう中止ちゅうしし、斜陽しゃようをいっそう印象いんしょうづけた[40]。また、翌月よくげつにはハクホオショウの馬主ばしゅで、戦後せんご尾形おがた厩舎きゅうしゃささえた馬主ばしゅのひとりである西にしひろし死去しきょ[40]おなじころ藤吉ふじよし自身じしんこし怪我けがい、その経過けいかかんばしくなく、息子むすこもりまご充弘みつひろ厩舎きゅうしゃ管理かんり補佐ほさした[40]。また、藤吉ふじよし弟子でし保田やすだもり厩舎きゅうしゃ開業かいぎょうさいして自身じしん管理かんりぼうを10ずつ割譲かつじょうし、1975ねんからは競馬けいばかい調教ちょうきょう1にんたりの管理かんりぼうすう削減さくげんさくしたことから、さらに管理かんりすうらしていった[41]。そうした最中さいちゅうの1977ねん藤吉ふじよしラッキールーラ自身じしん8度目どめにして最後さいごのダービー優勝ゆうしょうたした。

1981ねん9がつ27にち、89さい死去しきょ[39]いきってからやく15ふんおこなわれたセントライト記念きねんメジロティターン優勝ゆうしょうしたのが最後さいごじゅうしょう勝利しょうりとなった。なお、一般いっぱん藤吉ふじよし通算つうさん成績せいせきは、日本中央競馬会にっぽんちゅうおうけいばかい発足ほっそくした1954ねん以降いこう成績せいせきをもって9390せん1670しょうとされる[42]史上しじょう最多さいた記録きろくであるが、全国ぜんこく統一とういつされた最初さいしょ競馬けいば組織そしきである日本にっぽん競馬けいばかい発足ほっそくした1937ねん以降いこうでは、14103せん2776しょうとなる[ちゅう 6]死後しごせいろくじょされた[39]

2004ねん日本にっぽん中央ちゅうおう競馬けいばかい50周年しゅうねん記念きねんしてホースマンの殿堂でんどうにあたる調教ちょうきょう騎手きしゅ顕彰けんしょうしゃ制度せいど創設そうせつされ、藤吉ふじよし弟子でし松山まつやま吉三郎きちさぶろうとともに調教ちょうきょう部門ぶもん選出せんしゅつされた[43]騎手きしゅ部門ぶもんでは保田やすだ隆芳たかよし野平のだい祐二ゆうじの2めい福永ふくなが洋一よういちとも同時どうじ選出せんしゅつされた[43][44]

特徴とくちょう評価ひょうか

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騎乗きじょう特徴とくちょう

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尾形おがた直伝じきでん[45]」とひょうされた伊藤いとうただし四郎しろう騎乗きじょうフォーム(ゼッケン4ばん)。

騎手きしゅとしての藤吉ふじよし馬術ばじゅつ仕込しこみの手綱捌たづなさばきでうまおさえ、戦法せんぽう得意とくいとしていた[46]毎日新聞まいにちしんぶん記者きしゃ高橋たかはしけんはその騎乗きじょう姿すがたひょうして「ながいアブミでかけぶねのようなスタイルよろしく、ゆうゆうとうまぐんのちからいき、3コーナーにかかるころからややぜんかたぶけ姿勢しせいになると強力きょうりょくあしでもみしながら、りょう手綱たづな一本いっぽんぼうのようにピンとってハミにわせて絶妙ぜつみょうみ」とべている[47]下半身かはんしん使つかってうことが特徴とくちょうであったようで、北郷きたごう門下もんかかじ与三よぞうおとこも「普通ふつうたたいたり、拍車はくしゃれてってくるのだが、あのひとこしでもみしてくる。達者たっしゃひとだった」とひょうしている[48]

ちょうあぶみの姿勢しせい姿すがた尾形おがた一門いちもん共通きょうつうし、「尾形おがたりゅう」ともいわれた[49]保田やすだ隆芳たかよしは「あぶみがながく、ハミあたりがやわらかく、しかも剛毅ごうきる」ことが一門いちもん特徴とくちょうだったとべている[50]。その一方いっぽうで、野平のだい祐二ゆうじ若手わかて時代じだいから独自どくじあぶみみじかいモンキーりをこころみていたが、厩舎きゅうしゃ伝統でんとうことなるフォームにも藤吉ふじよしからのしかげんはなかったという[49]

調教ちょうきょうほう

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1940年代ねんだい厩舎きゅうしゃ地区ちく様子ようす

記者きしゃ井上いのうえ康文やすふみ藤吉ふじよしに「調教ちょうきょう秘訣ひけつ」をたずねたさい藤吉ふじよしは「各人かくじん各様かくようのやりかたがある」「うま相談そうだんしなければならない、うま能力のうりょくらなければならない」などとかたったのみで、井上いのうえ調教ちょうきょう観察かんさつしたところでもメニューは適宜てきぎえられていた[51]保田やすだ隆芳たかよしによると、かれ入門にゅうもんした1934ねんごろには長距離ちょうきょりるイギリスしき調教ちょうきょう競馬けいばかい全体ぜんたい主流しゅりゅうで、尾形おがた厩舎きゅうしゃ場合ばあいうまそとうまや東京競馬場とうきょうけいばじょうまで10~15ふんほどあるき、東京競馬場とうきょうけいばじょうはいってから30ふんほどうごかし、コース(1しゅう2000メートル)にはいってからは速歩はやあしで1しゅうで2しゅうはんけい7000メートルが通常つうじょうメニューであり、りでもコース1しゅううことが普通ふつうだった[52]。これは1970年代ねんだいなかばから普及ふきゅうしていく短距離たんきょりませるアメリカしき調教ちょうきょうとはおおきくことなるが、当時とうじとしては主流しゅりゅう調教ちょうきょうほうであった[52]。また、府中ふちゅう尾形おがたたく高低こうていおおきな坂道さかみちそこにあり、藤吉ふじよしさかのぼくだりが鍛錬たんれんになると見越みこしてここで運動うんどうおこなわせていた[52]藤吉ふじよし太平洋戦争たいへいようせんそう前後ぜんこう時期じき友人ゆうじんでもあった伊藤いとう勝吉かつきちと「ひがし尾形おがた西にし伊藤いとう」とならしょうされたが、この言葉ことばだい勢力せいりょくであることのほかに、調教ちょうきょう運動うんどうりょうおおさもあらわしていたとされる[52]

藤吉ふじよしは1953ねん公務こうむとして津軽つがる義孝よしたかとアメリカまでうまけにおもむき、現地げんち競馬けいば見聞けんぶんしたが、「うま調教ちょうきょう騎乗きじょうについては、日本にっぽんもアメリカもそうわりなく、参考さんこうになることはあまりなかった」との感想かんそうのこしている[53]一方いっぽうでスピードかんんだアメリカ特有とくゆう競走きょうそう内容ないようについては「見習みならてんがある」とし、軍馬ぐんば改良かいりょう思想しそうからはじまり、耐久たいきゅうりょく重視じゅうししてきた日本にっぽん競馬けいば変化へんかしていくべきではないかとの提言ていげんおこなっていた[53]

また、藤吉ふじよし調教ちょうきょうみょう物語ものがた逸話いつわとして、つぎのようなものがある。1967ねん当時とうじ開業かいぎょう2ねんであった孫弟子まごでし伊藤いとう雄二ゆうじ管理かんりハイドルをようして日本にほんダービーへのぞむにたり、関東かんとうでの管理かんり藤吉ふじよし依頼いらいした。しかし東上とうじょうまえったそぎ蹄にくるいがあり、ハイドルのぜんあしがってしまっていた。これを藤吉ふじよしは、そう蹄師に適宜てきぎそぎ蹄の指示しじあたえつつ1にち調教ちょうきょうやすむことなく、ダービー当日とうじつまでにれをすっかりかせてしまった。日本にほんダービーでハイドルは23ちゃく大敗たいはいしたものの、伊藤いとうおおきくひらかされたという[54]。また、このとき藤吉ふじよし自宅じたく伊藤いとうかたってかせた「精神せいしんろん具体ぐたいてき方法ほうほうあわはなし」は、伊藤いとう競馬けいばろんの「根底こんていのテキスト」になったという[54]伊藤いとうは2014ねん松山まつやま吉三郎きちさぶろう松山まつやま康久やすひさとともに調教ちょうきょう顕彰けんしょうしゃ選出せんしゅつされた[55]

うまえら

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藤吉ふじよしうま購買こうばいするさい要点ようてんとして、まず血統けっとうさい重視じゅうししたといい、うまたいでは「むねり、あばらのりがよいのと、皮膚ひふうすいのをえらぶ。背中せなかからこしうつりがく、『名馬めいばだくさん』といわれるとおり、おおく、丈夫じょうぶうまがよい。膝下ひざもと骨太ほねぶとで、けんたまぶし(くるぶし)、つなぎ(くるぶしとあしあいだ)が丈夫じょうぶなもの。蹄はあまりあさいのはよくない」とべている[56]藤本ふじもととみりょう藤吉ふじよしうまえらびについて「たところモサッとしたような、中略ちゅうりゃくふとめとほそめのふたつにければ、ふとめのうまこのんでいたようだ」としている[57]数々かずかずだい馬主ばしゅめぐまれた藤吉ふじよしであったが、やす好成績こうせいせきげることを「うまうことで一番いちばん妙味みょうみ」ともべており、初代しょだいハクショウ、ヤマヤス、アスコット、トクマサ、クリフジ、タカハタ、スウヰイスーについては「大穴おおあなちゅう大穴おおあなてたような気分きぶんだった」としている[56]

また、藤吉ふじよしうまえらびにから逸話いつわとしてつぎのようなものがある。1934ねん小岩井こいわい農場のうじょういちひらかれたさい藤吉ふじよしとはべつ参加さんかしていた馬主ばしゅ高橋たかはしいっが、「うまがよくからないから」と、藤吉ふじよし目利めききを見越みこしてかれもっと高額こうがく提示ていじしたうまにさらにけてとすよう、調教ちょうきょう布施ふせ季三すえぞうにいいふくめてりにのぞんだ。藤吉ふじよしが「だい15シアンモア」にねつれているのを高橋たかはしは、高額こうがくしぶ布施ふせはげましながらつづけ、ついにどううまとした[58]。この「だい15シアンモア」はガヴァナー競走きょうそうめい[58]よく1935ねん日本にほんダービーに優勝ゆうしょうした。

人物じんぶつ

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人物じんぶつひょう

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1929ねん自邸じていにて。

徒弟とていせい色濃いろこかった戦前せんぜん戦後せんご競馬けいばかいにおいて、藤吉ふじよしきわめて厳格げんかくだったことでられる。おなじくきびしさでこえた武田たけだ文吾ぶんごでさえ、壮年そうねん藤吉ふじよしひょうして「本当ほんとうにおそろしいひとでした。関東かんとうおにおもったものです。ものすごい厳格げんかくひとで、ご自分じぶんにもいかめしかった。あしいちほんれても、小指こゆび一本いっぽんぐらいちぎれても、おれいたいといわんぞというひとでした。だから、挨拶あいさつするのもこわごわしたものです」とべている[59]保田やすだ隆芳たかよしは「厳格げんかく無口むくちうまたいしてはだれさきかないほどの愛情あいじょう相馬そうまぬしでした。先生せんせいまえではあの大久保おおくぼ房松ふさまつさんさえ、ステッキでなぐられた」と述懐じゅっかいしている[50]ひとにはいかめしかった反面はんめんうまたいしては折檻せっかんすることを厳禁げんきんしていた[60]むすめ恵美子えびすによれば「うま神様かみさままつられたもので、なかでいちばん正直しょうじき動物どうぶつだ」と口癖くちぐせのようにっていたといい、「うまをいじめるようなことはいちもなかった」という[61]

往時おうじ競馬けいばかいでは、「この世界せかい本当ほんとう先生せんせいといえるのは、尾形おがた藤吉とうきちただひとり」ともいわれていた[50]松山まつやま吉三郎きちさぶろうは、藤吉ふじよしあたまにはつね競馬けいばじん地位ちい向上こうじょうがあり、そのため礼節れいせつについてとくきびしく注意ちゅういしたのだとしている[62]弟子でしたいしては周囲しゅうい観察かんさつし、うまばかりではなく時事じじり、出来事できごとについて自分じぶんなりの意見いけんつことをうながし「ひとのことや世間せけんのことがわからんのにうまのことがわかるようにはならんぞ」としばしばいていたという[62]松山まつやまは「先生せんせいがいなかったら、うま社会しゃかいはもっともっとおくれていた」とべている[62]。また、藤本ふじもととみりょうは「あのほう紳士しんしでしたし、貫禄かんろくもあった。調教ちょうきょうとしてあれだけの人望じんぼうというか、信頼しんらいのおける人物じんぶつは、もうてこないでしょう」とひょうしている[63]

私生活しせいかつ

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私生活しせいかつではさけ非常ひじょうこのんだ。45さいのときに健康けんこうかんがえ、さけ煙草たばこ両天秤りょうてんびんけて煙草たばこち、以来いらい日本酒にほんしゅなら2しょう洋酒ようしゅなら1ほん」を適量てきりょうとしてさけつづけた[64]武田たけだ文吾ぶんごによれば、厳格げんかく藤吉ふじよしさけはいるとやわらかくなったといい、藤吉ふじよしんでいるあいだ弟子でし一息ひといきつけたのではないか、とべている[59]一方いっぽう弟子でしたちのおもばなしでは、いがまわると居並いなら内弟子うちでし堂々巡どうどうめぐりの説諭せつゆ毎晩まいばんのようにしていたともいい、保田やすだ藤吉ふじよしはなしながいあまりに正座せいざつづけたあししびれ、いずって部屋へやまでもどったというおもかたっている。しかしこのときの説諭せつゆ後々あとあとかてとしてのこってもいるという[64]

親族しんぞく

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1934ねん正月しょうがつ尾形おがたていひがし久邇くにみや稔彦としひこおうむかえて。みぎから2番目ばんめ藤吉ふじよし、ひとり多賀たがはじめ、ひとりもり三井みつい末太郎すえたろう恵美子えびすひがし久邇くにみや、ふたり栄子えいこ

長男ちょうなん尾形おがたもり当初とうしょ競馬けいばかいとはちがしょくいていたが、藤吉ふじよし負担ふたん軽減けいげんのため尾形おがた厩舎きゅうしゃ調教ちょうきょう助手じょしゅとなり[40]、やがて独立どくりつ調教ちょうきょうとなった。藤吉ふじよし死後しご管理かんりいだメジロティターンで1982ねん天皇てんのうしょうあき)をせいしている。また、もり充弘みつひろもやはり藤吉ふじよし体調たいちょうがすぐれなかったころ一般いっぱん企業きぎょうから調教ちょうきょう助手じょしゅてんじた[40]充弘みつひろ調教ちょうきょうとして1990年代ねんだいまつにGI競走きょうそうで4しょうげたグラスワンダーなどを管理かんりしているほか、2010ねんから2012ねんまで調教ちょうきょう会長かいちょうつとめた。

つま栄子えいこ藤吉ふじよしわりだい厩舎きゅうしゃ雑事ざつじをよくまわし、賢夫人けんぷじんとのごえたかかった[65]井上いのうえ康文やすふみは「尾形おがたさんにとってまさに至宝しほう[66]」という存在そんざいであったとひょうし、尾形おがた栄子えいこ臨終りんじゅうさいに「わたし今日きょうまでなれたのはおまえのおかげだ」としゃしたという[67]。1955ねん栄子えいこ大腸だいちょうがん死去しきょすると、むすめ恵美子えびす家事かじ仕切しきり、栄子えいこおとうとである梶山かじやま和義かずよし厩舎きゅうしゃ事務じむになった[67]恵美子えびすである尾形おがた重和しげかずしし医師いしとして社台やしろだいファーム勤務きんむした[68][ちゅう 7]

また、母方ははかた曾祖父そうそふ阿部あべ安貞やすさだからつらなる遠縁とおえんに、東京競馬場とうきょうけいばじょうちょうつとめた阿部あべ安之やすゆきメルボルンオリンピック日本にっぽん選手せんしゅだん馬術ばじゅつコーチをつとめたせらさとしまち秀雄ひでおがいる[69]

一門いちもん

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尾形おがた一門いちもん日本にっぽん競馬けいばかい最大さいだい勢力せいりょくであり[70]、『日本にっぽん調教ちょうきょうかい50ねん』に記載きさいされている直弟子じきでしだけでも45めいにのぼる[71]

おも門下生もんかせい

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一門いちもんおも系譜けいふ

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※『日本にっぽん調教ちょうきょうかい50ねん』に尾形おがたからつらなる系図けいず記載きさいされているもののみしるす。なお、このもととなったひょう作成さくせいたり、調教ちょうきょう助手じょしゅ出身しゅっしんしゃたいしてはアンケートによってそれぞれのさだめたとしており[72]最初さいしょ所属しょぞくした厩舎きゅうしゃなが所属しょぞくした厩舎きゅうしゃとはかならずしも一致いっちしない。

尾形おがた藤吉とうきち
美馬みま信次しんじ
||増本ますもといさむ
|||増本ますもとゆたか
||||小原おはら義之よしゆき
||||鮫島さめしま一歩はじめ
||||荻野おぎのかなめ
|||安達あだち昭夫あきお
||武田たけだつくる十郎じゅうろう
|||河内かわうちひろし
|||たけゆたか
||かじあずかよんまつ
||清水しみず久雄ひさお
大久保おおくぼ亀治かめじ
||吉永よしながたけし
||大久保おおくぼただし
|||大久保おおくぼりゅうこころざし
||松田まつだ幸春ゆきはる
||池添いけぞえ兼雄かねお
岩佐いわさそう五郎ごろう
||前田まえだただし
|||相沢あいざわいく
古賀こが嘉蔵よしぞう
||山崎やまざきあきらよし
|||岩戸いわとこうじゅ
|||国枝くにえださかえ
||||いきおいつかさ和浩かずひろ
||池上いけがみ昌弘まさひろ
伊藤いとうただし四郎しろう
||伊藤いとう雄二ゆうじ
|||千田せんだ輝彦てるひこ
松山まつやま吉三郎きちさぶろう
||吉永よしなが正人まさと
||中神なかがみあきら一郎いちろう
||さわみね
||松山まつやま康久やすひさ
|||中舘なかだて英二えいじ
||山内やまうち研二けんじ
内藤ないとうきよし
||浜田はまだ光正みつまさ
|||石山いしやましげる
保田やすだ隆芳たかよし
||保田やすだ一隆かずたか
野平のだい祐二ゆうじ
||和田わだ正道せいどう
|||上原うえはら博之ひろゆき
|||穂苅ほかり寿彦としひこ
||藤沢ふじさわ和雄かずお
|||橋本はしもと広喜ひろき
|||青木あおき芳之よしゆき
|||北村きたむら宏司ひろし
工藤くどうよしみ
||南井みない克巳かつみ
||菊沢きくざわたかしひとし
伊藤いとう修司しゅうじ
||寺井てらいせんまん
||松田まつだこくえい
|||すみきょ勝彦かつひこ
|||友道ともみち康夫やすお
森安もりやす弘昭ひろあき
||天間てんま昭一しょういち
|||はら田和たわしん
田中たなか和夫かずお
||笹倉ささくら武久たけひさ
|||宗像むねかたとおる
||畠山はたけやま重則しげのり
|||小檜山こびやまさとる
伊藤いとう正徳まさのり
||藤原ふじわら辰雄たつお
||後藤ごとうひろしてる
||小野寺おのでらゆうふとし
尾形おがたもり
||尾形おがた充弘みつひろ
|||さきはた寿ことぶき

騎手きしゅ成績せいせき

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通算つうさん成績せいせき 1ちゃく 2ちゃく 3ちゃく 騎乗きじょうすう 勝率しょうりつ れんたいりつ
けい 148 81 52 373 .396 .667

おも騎乗きじょう

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すべ尾形おがた管理かんり
括弧かっこない優勝ゆうしょう競走きょうそう[ちゅう 8]斜体しゃたい尾形おがた以外いがい騎乗きじょう優勝ゆうしょうした競走きょうそう
倶楽部くらぶ時代じだい同一どういつあるいは近似きんじめい競走きょうそう全国ぜんこく並立へいりつしていたため、便宜上べんぎじょう開催かいさいじょうめい競走きょうそうめいかんして記述きじゅつする。
  • トクホ(1915ねん秋季しゅうき目黒めぐろ連合れんごうない国産こくさん優勝ゆうしょう
  • シンオーミフジ(1918ねん阪神はんしん帝室ていしつしょうてんはる
  • クヰンマリー(1920ねん目黒めぐろ帝室ていしつしょうてんあき
  • スターリング(1923ねん目黒めぐろ連合れんごうない国産こくさん優勝ゆうしょうあき
  • アスベル(1927ねん阪神はんしんかく内国ないこくさんふる連合れんごうあき
  • チヱリーダッチェス(1924ねん横浜よこはま帝室ていしつしょうてんはる
  • キングフロラー(1928ねん目黒めぐろ帝室ていしつしょうてんはる
  • ハクショウ(1928ねん阪神はんしん帝室ていしつしょうてんあき阪神はんしんかく内国ないこくさんふる連合れんごうあき 1929ねん目黒めぐろかく内国ないこくさんふるあき 1930ねん東京とうきょうかく内国ないこくさんふるあきちゅう山内やまうち国産こくさん競走きょうそう
  • アストラル(1927ねん内外ないがい国産こくさんうま競走きょうそうあき
  • クヰンホーク(1928ねん東京とうきょう連合れんごうまいるあき 1929ねん目黒めぐろ帝室ていしつしょうてんあき
  • ハクシュン(1929ねん京都きょうとかく内国ないこくさん牝馬ひんば連合れんごうあき
  • サンシャイン(1929ねん中山なかやま秋季しゅうき特別とくべつ 1930ねん京都きょうとかく内国ないこくさん牝馬ひんば連合れんごうはる
  • アスパイヤリング(1930ねん横浜よこはま帝室ていしつしょうてんあき
  • サンシャイン(1931ねん福島ふくしま帝室ていしつしょうてん
  • ワカクサ(1931ねん横浜よこはま帝室ていしつしょうてんあき
  • オオツカヤマ(1932ねん中山なかやま農林省のうりんしょうしょうてんはる
  • ハクヨシ(1932ねん横浜よこはま帝室ていしつしょうてんあき横浜よこはま特別とくべつあき
  • アスコット(1932ねん春季しゅんき阪神はんしん農林省のうりんしょうしょうてん 1933ねん春季しゅんき東京とうきょう帝室ていしつしょうてん中山なかやまよんせんめーとる
  • ハクコウ(1932ねん秋季しゅうき中山なかやま秋季しゅうき特別とくべつ 1933ねん春季しゅんき東京とうきょう農林省のうりんしょうしょうてん東京とうきょうさい特別とくべつ横浜よこはま帝室ていしつしょうてん 秋季しゅうき中山なかやま秋季しゅうきさい特別とくべつ
  • ワカミチ(1934ねん春季しゅんき東京とうきょうさい特別とくべつ東京とうきょう農林省のうりんしょうしょうてん横浜よこはまよびさい
  • デンコウ(1934ねん東京とうきょう農林省のうりんしょうしょうてんあき阪神はんしん帝室ていしつしょうてんあき 1935ねん春季しゅんき中山なかやまよんせんまい
  • アカイシダケ(1935ねん秋季しゅうき 東京とうきょう農林省のうりんしょうしょうてん横浜よこはま帝室ていしつしょうてん 1936ねん春季しゅんき中山なかやまよんせんまい

調教ちょうきょう成績せいせき

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1954ねん以降いこう成績せいせき
通算つうさん成績せいせき 1ちゃく 2ちゃく 3ちゃく 騎乗きじょうすう 勝率しょうりつ れんたいりつ
平地ひらち 1471 1168 1056 8406 .175 .314
障害しょうがい 198 178 149 932 .212 .403
けい 1669 1346 1205 9338 .179 .323

おも管理かんり

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騎手きしゅ時代じだいおも騎乗きじょうとしてげたうま割愛かつあいする。

はちだい競走きょうそう

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強調きょうちょう表示ひょうじはちだい競走きょうそう。(のちのはちだい競走きょうそうふくむ)

じゅうしょう競走きょうそう

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  • ヨシノリュウジン(1977ねんスプリングステークス)
  • ラッキーウエスト(1978ねん新潟にいがた記念きねん
  • ハザマファースト(1979ねんクイーンステークス)
  • タケノハッピー(1980ねんクイーンステークス)
  • メジロティターン(1981ねんセントライト記念きねん

受賞じゅしょう

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  • 年間ねんかん最多さいた勝利しょうり調教ちょうきょう:13かい (1956ねん - 1966ねん、1968ねん、1969ねん) ※1956ねん以降いこう、11ねん連続れんぞく・13かいはともに歴代れきだい最長さいちょう最多さいた
  • 最優秀さいゆうしゅう調教ちょうきょうしょう1かい(1966ねん
  • 調教ちょうきょう技術ぎじゅつしょう3かい(1964ねん、1965ねん、1967ねん
  • 優秀ゆうしゅう調教ちょうきょうしょう18かい(1955ねん-1965ねん、1967ねん-1971ねん、1977ねん

記録きろく

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GⅠレースべつ最多さいた勝利しょうり記録きろく

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 東京とうきょう競馬けいば倶楽部くらぶ前身ぜんしんで、のち発足ほっそくする全国ぜんこく統一とういつ組織そしき日本にっぽん競馬けいばかいとはことなる。
  2. ^ 花月園かげつえんゆう園地えんち創業そうぎょうしゃ
  3. ^ 1926ねんあき帝室ていしつしょうてん横浜よこはま)、1927ねんはる優勝ゆうしょうない国産こくさん連合れんごう競走きょうそう鳴尾なるお)に優勝ゆうしょうするアスベルとはべつうま
  4. ^ 当時とうじ高額こうがくは3500えんほどの価格かかくだった[19]
  5. ^ 調教ちょうきょう管理かんり現地げんち調教ちょうきょうボブ・ウィラーに委任いにんされており、日本人にっぽんじんスタッフによるべいじゅうしょう勝利しょうりは2005ねんシーザリオによるアメリカンオークス制覇せいはまでつことになる。
  6. ^ ゆう駿しゅん』2009ねん6がつごう・7がつごう掲載けいさい成績せいせきひょうより集計しゅうけい
  7. ^ 出典しゅってんでは「社台やしろだい牧場ぼくじょう」となっているが、日本にっぽん中央ちゅうおう競馬けいばかい広報こうほうゆう駿しゅん』では社台やしろだいファームのしし医師いしとして度々どどコメントをしている。社台やしろだい牧場ぼくじょう社台やしろだいファームとはべつ運営うんえいされている牧場ぼくじょう
  8. ^ 日本中央競馬会にっぽんちゅうおうけいばかい発行はっこう日本にっぽん競馬けいばだい3かんかく競馬けいばじょう記事きじに「おも競走きょうそう」としてあつかわれているもののみ記載きさいする。
  9. ^ 田中たなか和一郎かずいちろうぐ。1952ねん皐月さつきしょう達成たっせい
  10. ^ 1957ねん有馬ありま記念きねん達成たっせい
  11. ^ 有馬ありま記念きねん創設そうせつまえななだい競走きょうそう完全かんぜん制覇せいは1954ねん天皇てんのうしょうはる達成たっせい
  12. ^ どういち調教ちょうきょうによる連覇れんぱどうレース史上しじょう唯一ゆいいつ
  13. ^ 稲葉いなば幸夫ゆきおならタイ記録たいきろくどういち調教ちょうきょうによる連覇れんぱどうレース史上しじょうはつ
  14. ^ ただし、当時とうじハンデキャップ競走きょうそうだった
  15. ^ 当時とうじは3200mの競走きょうそうだった。どういち調教ちょうきょうによる連覇れんぱどうレース史上しじょうはつ連覇れんぱ2かいどうレース史上しじょう唯一ゆいいつ

出典しゅってん

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  1. ^ ゆう駿しゅん』2009ねん6がつごう、p.121
  2. ^ a b c d 尾形おがた(1967)pp.25-27
  3. ^ a b c 尾形おがた(1967)pp.30-31
  4. ^ 尾形おがた(1967)pp.32-37
  5. ^ a b 尾形おがた(1967)pp.55-57
  6. ^ a b 尾形おがた(1967)p.60
  7. ^ a b 日本にっぽん競馬けいば だい2かん』pp.128-131
  8. ^ a b 日本にっぽん競馬けいば だい2かん』pp.210-216
  9. ^ a b c 尾形おがた(1967)pp.63-67
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  11. ^ a b 尾形おがた(1967)p.77
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  13. ^ 日本にっぽん騎手きしゅ』p.104
  14. ^ a b c d 尾形おがた(1967)pp.98-101
  15. ^ 井上いのうえ(1965)p.10
  16. ^ a b c d 尾形おがた(1967)pp.93-96
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  18. ^ 井上いのうえ(1964)p.31
  19. ^ a b c d 尾形おがた(1967)pp.111-114
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  23. ^ a b 井上いのうえ(1964)p.20
  24. ^ 井上いのうえ(1964)p.146
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  26. ^ 尾形おがた(1967)p.140
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  28. ^ 日本にほんダービー25ねん』p.33
  29. ^ 尾形おがた(1967)pp.168-169
  30. ^ 日本にっぽん騎手きしゅ』p.63
  31. ^ a b 尾形おがた(1967)pp.184-185
  32. ^ a b 尾形おがた(1967)p.189
  33. ^ a b c 日本にほんダービー25ねん』p.53
  34. ^ a b c 尾形おがた(1967)pp.192-196
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  36. ^ a b ゆう駿しゅん』1998ねん12がつごう、p.110
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  39. ^ a b c d e ゆう駿しゅん』2009ねん7がつごう、pp.121-123
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  71. ^ 日本にっぽん調教ちょうきょうかい50ねん』pp.204-205
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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 井上いのうえ康文やすふみ尾形おがた藤吉とうきち』(だい日本にっぽん競馬けいば図書としょ出版しゅっぱんかい、1964ねん
  • 尾形おがた藤吉とうきち競馬けいばひとすじ - わたしうまの60ねん』(徳間書店とくましょてん、1967ねん
  • 日本にっぽん中央ちゅうおう競馬けいばかいへん)『日本にっぽん競馬けいば - だい2かん 明治めいじ大正たいしょう時代じだい』(日本中央競馬会にっぽんちゅうおうけいばかい、1967ねん
  • 中央ちゅうおう競馬けいばピーアール・センターへん日本にっぽん名馬めいばめい勝負しょうぶ物語ものがたり』(中央ちゅうおう競馬けいばピーアール・センター、1980ねんISBN 4924426024
    • 高橋たかはしけん典型てんけいてき長距離ちょうきょりとして大成たいせい - ハクショウ」
  • 中央ちゅうおう競馬けいばピーアールセンターへん日本にっぽん騎手きしゅ』(中央ちゅうおう競馬けいばピーアール・センター、1981ねんISBN 4924426059
  • 中央ちゅうおう競馬けいばピーアール・センターへん調教ちょうきょうほんII』(中央ちゅうおう競馬けいばピーアール・センター、1991ねん
  • 中央ちゅうおう競馬けいばピーアール・センターへん名馬めいばづくり60ねん - 藤本ふじもととみりょう・わが競馬けいば人生じんせい』(中央ちゅうおう競馬けいばピーアール・センター、1991ねん
  • 木村きむら幸治こうじ調教ちょうきょう物語ものがたり』(よういずみしゃ、1997ねんISBN 4896912926
  • 鶴木つるき遵『調教ちょうきょう伊藤いとう雄二ゆうじ - ウソのないニッポン競馬けいば 』(ベストセラーズ、2000ねんISBN 458418545X
  • 日本にっぽん調教ちょうきょうかい50ねん編纂へんさん委員いいんかいへん)『日本にっぽん調教ちょうきょうかい50ねん』(日本にっぽん調教ちょうきょうかい、2002ねん
  • 藤野ふじの広一郎ひろいちろうなつかしき名馬めいばたち - ちょっとむかし名馬めいば物語ものがたり』(コスモヒルズ、1992ねんISBN 4877038094
  • ゆう駿しゅん』1963ねん8がつごう日本中央競馬会にっぽんちゅうおうけいばかい、1963ねん
  • ゆう駿しゅん』1977ねん9がつごう日本中央競馬会にっぽんちゅうおうけいばかい、1977ねん
    • 座談ざだんかい そだてる」
  • ゆう駿しゅん』1982ねん5がつごう日本中央競馬会にっぽんちゅうおうけいばかい、1982ねん
    • 「ターキーのべらんめえ対談たいだん 尾形おがた藤吉とうきち調教ちょうきょう長女ちょうじょ 尾形おがた恵美子えみこさん」
  • ゆう駿しゅん』1987ねん11がつごう日本中央競馬会にっぽんちゅうおうけいばかい、1987ねん
  • ゆう駿しゅん』1994ねん9がつごう日本中央競馬会にっぽんちゅうおうけいばかい、1994ねん
    • 吉川よしかわりょうもと調教ちょうきょう松山まつやま吉三郎きちさぶろうさん『競馬けいば人生じんせいいなし』」
  • ゆう駿しゅん』1998ねん12がつごう日本中央競馬会にっぽんちゅうおうけいばかい、1998ねん
  • ゆう駿しゅん』2004ねん3がつごう日本中央競馬会にっぽんちゅうおうけいばかい、2004ねん
  • ゆう駿しゅん』2009ねん6がつごう・7がつごう日本中央競馬会にっぽんちゅうおうけいばかい、2009ねん
    • 江面えづらひろ也「めい調教ちょうきょう列伝れつでん 尾形おがた藤吉とうきち前編ぜんぺん後編こうへん)」
  • ゆう駿しゅん』2014ねん6がつごう日本中央競馬会にっぽんちゅうおうけいばかい、2014ねん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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