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佐多さた稲子いなこ

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佐多さた 稲子いなこ
(さた いねこ)
1954ねんごろ
誕生たんじょう 佐田さた イネ
(さた いね)
1904ねん6月1にち
日本の旗 日本にっぽん長崎ながさきけん長崎ながさき
死没しぼつ (1998-10-12) 1998ねん10月12にち(94さいぼつ
墓地ぼち 八王子はちおうじ富士見台ふじみだい霊園れいえん
職業しょくぎょう 小説しょうせつ
言語げんご 日本語にほんご
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
ジャンル 小説しょうせつ
文学ぶんがく活動かつどう プロレタリア文学ぶんがく戦旗せんき
代表だいひょうさく 『キャラメル工場こうじょうから』(1928ねん
『くれなゐ』(1936ねん - 1938ねん
わたし東京とうきょう地図ちず』(1946ねん - 1948ねん
樹影じゅえい』(1972ねん
ときつ』(1975ねん
なつしおり』(1983ねん
おも受賞じゅしょうれき 女流じょりゅう文学ぶんがくしょう(1962ねん
野間のま文芸ぶんげいしょう(1972ねん
川端かわばた康成やすなり文学ぶんがくしょう(1976ねん
毎日まいにち芸術げいじゅつしょう(1983ねん
読売よみうり文学ぶんがくしょう(1986ねん
デビューさく 『キャラメルの工場こうじょうから』(1928ねん
配偶はいぐうしゃ 窪川くぼかわ鶴次郎つるじろう(1926ねん - 1945ねん
子供こども 窪川くぼかわ健造けんぞう長男ちょうなん
佐多さた達枝たつえ次女じじょ
ウィキポータル 文学ぶんがく
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佐多さた 稲子いなこ - 窪川くぼかわ 稲子いねこ(さた いねこ - くぼかわ いねこ、1904ねん明治めいじ37ねん6月1にち - 1998ねん平成へいせい10ねん10月12にち)は、日本にっぽん小説しょうせつである。しょく転々てんてんとしたのち、プロレタリア作家さっかとして出発しゅっぱつし、日本にっぽん共産党きょうさんとうへの入党にゅうとう除名じょめい窪川くぼかわ鶴次郎つるじろうとの離婚りこんなどをて、戦後せんごなが活躍かつやくした。左翼さよく運動うんどう夫婦ふうふ関係かんけいなかでの苦悩くのうえが自伝じでんてき作品さくひんおおい。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

1929ねん
ひだりからはやし芙美子ふみこ佐多さた稲子いなこ吉屋よしや信子のぶこ宇野うの千代ちよ。1935ねん11月撮影さつえい
長男ちょうなん窪川くぼかわ健造けんぞう次女じじょ佐多さたたちえだとともに(1936ねん

1904ねん長崎ながさきまれる。出生しゅっしょう当時とうじ両親りょうしんはいずれも学生がくせいじゅうだいだったため、戸籍こせきじょう複雑ふくざつ経過けいかをたどっていた。母親ははおや結核けっかくくし、小学校しょうがっこう修了しゅうりょうまえ一家いっか上京じょうきょう稲子いねこ神田かんだのキャラメル工場こうじょう勤務きんむする。このときの経験けいけんがのちに『キャラメル工場こうじょうから』という作品さくひんにまとめられ、彼女かのじょ出世しゅっせさくとなる。上野うえのにん料理りょうりせいりょうてい」の女中じょちゅうになり、芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけ菊池きくちひろしなど著名ちょめい作家さっかたちといになる。その丸善まるぜん店員てんいんになり、資産しさん当主とうしゅ慶應大学けいおうだいがく学生がくせいであった 小堀こぼりえんじゅさんとの縁談えんだんがあり結婚けっこんするが、わかくして当主とうしゅとなり兄弟きょうだいあいだ係争けいそうえなかったおっと稲子いなこにも病的びょうてき猜疑心さいぎしんけるようになり、夫婦ふうふともに精神せいしんてきめられた結果けっかにん自殺じさつはかる。未遂みすいわったがその離婚りこんし、小堀こぼりとのである長女ちょうじょ葉子ようこんで一人ひとりそだてる[1][ちゅう 1]

最初さいしょ結婚けっこん失敗しっぱいしたあと、東京とうきょう本郷ほんごうのカフェーにつとめ、雑誌ざっし驢馬ろば同人どうじんの、中野なかの重治しげはるほり辰雄たつおたちとい、創作そうさく活動かつどうをはじめる。1926ねん、『驢馬ろば同人どうじん1人ひとり貯金ちょきんきょくつとめていた窪川くぼかわ鶴次郎つるじろう結婚けっこんする。そのため、最初さいしょ窪川くぼかわ稲子いねこ作品さくひん発表はっぴょうした。1928ねん、『キャラメル工場こうじょうから』を発表はっぴょうし、プロレタリア文学ぶんがくあたらしい作家さっかとしてみとめられる。1929ねんにはカフェの女給じょきゅう経験けいけんつづった『レストラン・洛陽らくよう』を発表はっぴょうし、川端かわばた康成やすなり激賞げきしょうされた[2][3]。『レストラン・洛陽らくよう』の同僚どうりょう女給じょきゅう夏江なつえ」は伊藤いとう初代はつよがモデルだったが、川端かわばたはその奇遇きぐうらずに選評せんぴょうしていた[2]雑誌ざっしはたら婦人ふじん』の編集へんしゅうにもたずさわり、創作そうさく活動かつどう文化ぶんか普及ふきゅう運動うんどうともに貢献こうけんした。1932ねんには非合法ひごうほうであった日本にっぽん共産党きょうさんとう入党にゅうとうしている[4]同年どうねん日本にっぽんプロレタリア文化ぶんか連盟れんめい(コップ)への弾圧だんあつによりおっと窪川くぼかわ逮捕たいほ翌年よくねん保釈ほしゃくされたが、1935ねんにはコップ発行はっこうの『はたら婦人ふじん』の編集へんしゅう発行はっこうじんであった佐多さた逮捕たいほ留置とめおきしょなか小説しょうせつつづけた[5]

プロレタリア文学ぶんがく運動うんどう弾圧だんあつにより停滞ていたいした時代じだいには、おっと窪川くぼかわ田村たむら俊子としことの不倫ふりんもあって、夫婦ふうふ関係かんけいのありかたをつめた『くれなゐ』(1936ねん)を執筆しっぴつし、長編ちょうへん作家さっかとしての力量りきりょうしめした。しかし、戦争せんそう激化げきかとともに、権力けんりょくとの対抗たいこう姿勢しせいをつらぬくことが困難こんなんになり、時流じりゅうながされていくようになる。戦場せんじょうへの慰問いもんにもくわわり、時流じりゅう妥協だきょうした作品さくひん執筆しっぴつした。

戦後せんご[編集へんしゅう]

婦人ふじん民主みんしゅクラブ中心ちゅうしんメンバー(1946ねん撮影さつえい)。前列ぜんれつひだりからいちにんおいて、加藤かとうシヅエ厚木あつぎたか宮本みやもと百合子ゆりこ佐多さた稲子いなこ櫛田くしたふき羽仁はに説子せつこ後列こうれつひだりからいちにんおいて、せきあきら藤川ふじかわ幸子さちこ山室やまむろ民子たみこ
佐多さた長男ちょうなん窪川くぼかわ健造けんぞう次女じじょ佐多さたたちえだ。「北多摩きたたま文学ぶんがく」のメンバーとともに。1950ねん撮影さつえい
1954ねん土門どもんけん撮影さつえい

1945ねん5がつ窪川くぼかわ離婚りこんあきごろから筆名ひつめい佐多さた稲子いなことする[6]戦時せんじちゅう行動こうどうわれてしん日本にっぽん文学ぶんがくかい創立そうりつ発起人ほっきにんにはならなかったが、当初とうしょより活躍かつやくした。

同年どうねん11がつ佐多さた羽仁はに説子せつこ加藤かとうシヅエ宮本みやもと百合子ゆりこ山本やまもとすぎ赤松あかまつ常子つねこ松岡まつおか洋子ようこ山室やまむろ民子たみこの8にんびかけにんとなり、婦人ふじん団体だんたい結成けっせいけた運動うんどう開始かいし佐多さた綱領こうりょう起草きそうした[7]準備じゅんびかいかさねられ、1946ねん3がつ16にち、「婦人ふじん民主みんしゅクラブ」の創立そうりつ大会たいかい神田かんだ共立きょうりつ講堂こうどうおこなわれた[7][8][9]初代しょだい委員いいんちょうには松岡まつおかいた[10]

戦後せんご民主みんしゅ運動うんどう貢献こうけんするも、戦後せんご50ねん問題もんだいにち共産党きょうさんとう関係かんけい悪化あっかなど日本にっぽん共産党きょうさんとうとの関係かんけいにはくるしみ、とりわけ部分ぶぶんてきかく実験じっけん禁止きんし条約じょうやくめぐっては、批准ひじゅん反対はんたいしていたどうとうたいし、野間のまひろしらと批判ひはんかえしていたことから、最終さいしゅうてきには除名じょめいされるにいたった。佐多さた作品さくひんには、戦前せんぜん経験けいけん活動かつどうえがいた『わたし東京とうきょう地図ちず』(1946ねん)、『歯車はぐるま』(1958ねん)があるが、『よる記憶きおく』(1955ねん)、『渓流けいりゅう』(1963ねん)、『塑像そぞう』(1966ねん)など、そうした戦後せんご共産党きょうさんとうとのいきさつを体験たいけんそくしてえがいた作品さくひんおおい。

自身じしん体験たいけん取材しゅざいした作品さくひん以外いがいにも、戦後せんご女性じょせいをめぐるさまざまな問題もんだい作品さくひんとしてえがいたものもおおく、それらは婦人ふじん雑誌ざっし週刊しゅうかんなどに連載れんさいされ、映画えいがやテレビドラマになったものもある。

社会しゃかいてき活動かつどうにも積極せっきょくてき参加さんかし、松川まつかわ事件じけん被告ひこく救援きゅうえん活躍かつやくもした。1967ねん3がつ日本にっぽん社会党しゃかいとう関連かんれん団体だんたい財団ざいだん法人ほうじん社会新報しゃかいしんぽう翌月よくげつ東京とうきょう都知事とちじ選挙せんきょけて『わがあいする東京とうきょう革新かくしん都政とせい期待きたいする』を出版しゅっぱん吉永よしなが小百合さゆり淡谷あわやのり著名ちょめいじん27にんがそれぞれ都政とせいたいするおもいをつづなかで、佐多さた明確めいかく美濃部みのべ亮吉りょうきち支持しじ表明ひょうめいした[11]

1970ねん婦人ふじん民主みんしゅクラブが主流しゅりゅうはん主流しゅりゅう分裂ぶんれつ除名じょめいされたはん主流しゅりゅうは「婦人ふじん民主みんしゅクラブ再建さいけん連絡れんらくかい」を結成けっせいし、主流しゅりゅう名前なまええずに活動かつどう継続けいぞく[9]同年どうねん6がつ佐多さた主流しゅりゅう婦人ふじん民主みんしゅクラブ(げんふぇみん婦人ふじん民主みんしゅクラブ)の委員いいんちょう就任しゅうにんした[6]

1985ねん樋口ひぐち一葉かずはの『たけくらべ』の結末けつまつ美登利みどり変貌へんぼうするのを、初潮しょちょうたからだとする従来じゅうらい定説ていせつたいして、娼婦しょうふとしての水揚みずあげがあったのではないかとき、「たけくらべ」論争ろんそうこした。現在げんざいでは一般いっぱんてき両論りょうろん併記へいきとなっている。なお、このせつはすでに窪川くぼかわ鶴次郎つるじろうも、『東京とうきょう散歩道さんぽみち』(1964ねん現代げんだい教養きょうよう文庫ぶんこ)でべていた[よう出典しゅってん]

晩年ばんねん文学ぶんがくてき社会しゃかいてき活動かつどうから退しりぞいて特養とくようホームでらし[5]、1998ねん敗血症はいけつしょうのため死去しきょ[12]

家族かぞく[編集へんしゅう]

  • ちち田島たじま正文まさふみ佐賀さが県立けんりつ中学ちゅうがく在学ざいがくちゅうに18さい稲子いなこちちとなる。三菱重工業みつびしじゅうこうぎょう長崎造船所なかざきぞうせんじょはたらいたが、1915ねん夜逃よに同然どうぜん上京じょうきょう定職ていしょくがなく困窮こんきゅうし、1917ねん兵庫ひょうごけん相生あいおい転居てんきょ翌年よくねん稲子いなこせ、1919ねん再婚さいこん[13][14]
  • はは高柳たかやなぎユキ ‐ 佐賀さが県立けんりつ高等こうとう女学校じょがっこう在学ざいがくちゅうの15さい稲子いなこ出産しゅっさんもうけ1906ねん正文せいぶん入籍にゅうせきするも1911ねん肺結核はいけっかく死去しきょ[13]
  • 叔父おじ佐田さた秀実ひでみ正文せいぶんおとうと。25さい早世そうせい早稲田大学わせだだいがく法科ほうかまなび、芸術げいじゅつ (劇団げきだん)にもぞくした芸術げいじゅつはだ青年せいねんで、稲子いなこ影響えいきょうあたえた。佐多さた稲子いなこ佐多さたはこの叔父おじせいよりったもの。[13]
  • おっと小堀こぼりえんじゅさん地主じぬし小堀こぼり三男さんなん嗣子しし慶応大けいおうだい在学ざいがくちゅうの1924ねん結婚けっこん資産しさんだが借金しゃっきんもあり、自身じしんあねおっと稲子いなことの関係かんけいうたがい、稲子いなこ虐待ぎゃくたい、1925ねん夫婦ふうふ心中しんちゅうの未遂みすい離婚りこん。のち保阪ほさかじゅんむすめ再婚さいこん叔父おじ岳父がくふ兵頭ひょうどうただし[15][16][17]
  • おっと窪川くぼかわ鶴次郎つるじろう
  • 長女ちょうじょみなと葉子ようこ小堀こぼりとの
  • 長男ちょうなん窪川くぼかわ健造けんぞう映画えいが監督かんとく
  • 二女じじょ佐多さた達枝たつえ戦後せんご代表だいひょうする振付ふりつけ一人ひとり
  • めい田島たじま和子かずこ女優じょゆう稲子いなこ実弟じってい田島たじま正人まさとむすめ[18]

作家さっかとの交流こうりゅう[編集へんしゅう]

芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけ[編集へんしゅう]

上野うえのせいりょうてい」につとめていたじゅうだいのころ、きゃくとしてあらわれた芥川あくたがわて、女中じょちゅう仲間なかまに「芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけだ」とったところ、その女中じょちゅう芥川あくたがわに「おきゃくさんをっているものがいる」とはなし、個人こじんてきいかと勘違かんちがいした芥川あくたがわせきんだのがきっかけで、顔見知かおみしりとなった[1]芥川あくたがわ佐多さたを「おいねさん」とんで贔屓ひいきにしていた[19]佐多さたいきしま銘仙めいせんくろえり姿すがたはたらくきゃしゃなむすめで、仲間なかまうちからは、芥川あくたがわ佐多さた好意こういっているようだとられていた[20]芥川あくたがわくなる4にちまえには芥川あくたがわから連絡れんらくがあって自殺じさつしゃ心理しんりかれたという[1]

中野なかの重治しげはる[編集へんしゅう]

稲子いねこ当初とうしょ自発じはつてき執筆しっぴつ活動かつどうはじめたのではなかったが、彼女かのじょおさなころ労働ろうどう体験たいけんいた随筆ずいひつんだ中野なかの小説しょうせつ仕上しあげるようおっと窪川くぼかわつうじてもと完成かんせいした作品さくひんが『キャラメル工場こうじょうから』である。中野なかのは「『くれない』の作者さくしゃことよせて」において「一人ひとりおんな窪川くぼかわ稲子いねこつけたのは窪川くぼかわ鶴次郎つるじろうであるが、そのなかにすぐれた小説しょうせつだしたのはわたしであった」といている。その生涯しょうがいつうじて中野なかの稲子いなこ盟友めいゆうでありつづけた。中野なかの逝去せいきょ稲子いなこ執筆しっぴつした回想かいそうろくが『なつしおり』である[21]

壺井つぼいさかえ[編集へんしゅう]

1929ねん雑誌ざっし戦旗せんき』での執筆しっぴつえんで、同誌どうし仕事しごとっていた壺井つぼい繁治しげじと、そのつまさかえ夫妻ふさい親交しんこうつようになる。のちにさかえ生活苦せいかつくもあって雑誌ざっししゃ懸賞けんしょう応募おうぼするようになっていくが、そのおり彼女かのじょ作風さくふう稲子いねこは、その素質そしつをプロレタリア文学ぶんがくではなく娯楽ごらく小説しょうせつとく児童じどう文学ぶんがく童話どうわ)にいたものであると気付きづき、さかえ坪田つぼた譲治じょうじ作品さくひんことすすめて童話どうわ一般いっぱん小説しょうせつ執筆しっぴつするようにいた。これによって壺井つぼいさかえ執筆しっぴつしたのが、彼女かのじょのち商業しょうぎょうデビューさくとなる「大根だいこん」であり、以降いこうさかえ稲子いなこ予見よけんしたとお児童じどう文学ぶんがく作家さっかとして活躍かつやくし、のちに映画えいがもされた『じゅうよんひとみ』を執筆しっぴつする[22]

受賞じゅしょうれき[編集へんしゅう]

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

  • 『くれなゐ』(中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ新潮しんちょう文庫ぶんこ角川かどかわ文庫ぶんこ、1938ねん)※窪川くぼかわ稲子いねこ名義めいぎ
  • 女性じょせい言葉ことば』(高山たかやま書院しょいん、1940ねん)※窪川くぼかわ稲子いねこ名義めいぎ
  • 素足すあしむすめ』(新潮社しんちょうしゃ角川かどかわ文庫ぶんこ新潮しんちょう文庫ぶんこ、1940ねん)※窪川くぼかわ稲子いねこ名義めいぎ
  • おんなさんにん』(時代じだいしゃ、1940ねん)※窪川くぼかわ稲子いねこ名義めいぎ
  • うつくしいひとたち』(金星かなぼしどう、1940ねん)※窪川くぼかわ稲子いねこ名義めいぎ
  • 新緑しんりょく』(新潮社しんちょうしゃ旺文社おうぶんしゃ文庫ぶんこ、1940ねん
  • 日々ひび伴侶はんりょ』(時代じだいしゃ、1941ねん
  • ぶし随筆ずいひつ』(万里ばんりかく、1941ねん
  • しんどおりはむ』(学芸がくげいしゃ、1941ねん
  • とびら』(きのえとり書林しょりん、1941ねん
  • ゆめおおほこ』(学芸がくげいしゃ、1941ねん
  • こうにおいふ』(あきらもりしゃ、1942ねん
  • 女性じょせい文学ぶんがく』(実業之日本社じつぎょうのにほんしゃ、1943ねん
  • 女流じょりゅう作家さっか叢書そうしょづかざりき』(全国ぜんこく書房しょぼう、1943ねん
  • わかつまたち』(葛城かつらぎ書店しょてん、1944ねん
  • 牡丹ぼたんのあるいえ』(あづみ書房しょぼう、1946ねん
  • 『キャラメル工場こうじょうから』(新興しんこう出版しゅっぱんしゃ角川かどかわ文庫ぶんこ、1946ねん
  • 『たたずまひ』(万里ばんりかく、1946ねん
  • 旅情りょじょう』(飛鳥あすか書店しょてん、1947ねん
  • わたし長崎ながさき地図ちず』(がつ書房しょぼう講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ、1948ねん
  • 四季しきくるま』(労働ろうどう文化ぶんかしゃ、1948ねん
  • わたし東京とうきょう地図ちず』(しん日本にっぽん文学ぶんがくかい講談社こうだんしゃ文庫ぶんこ講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ、1949ねん
  • ひらかれたとびら』(八雲やくも書店しょてん、1949ねん
  • 黄色きいろけむり』(筑摩書房ちくましょぼう、1954ねん
  • もえゆるかぎり』(筑摩書房ちくましょぼう、1955ねん
  • 子供こども』(角川かどかわ小説しょうせつ新書しんしょ角川かどかわ文庫ぶんこ、1955ねん
  • よる記憶きおく』(河出かわで新書しんしょ、1955ねん
  • 機械きかいのなかの青春せいしゅん』(角川かどかわ小説しょうせつ新書しんしょ、1955ねん
  • 『みどりの並木なみき』(しん評論ひょうろんしゃ、1955ねん
  • もえゆるかぎり』(筑摩書房ちくましょぼう、1955ねん
  • 『いとしい恋人こいびとたち』(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうしんしゃ角川かどかわ文庫ぶんこ、1956ねん
  • 智恵ちえ』(現代げんだいしゃ、1956ねん
  • かじをわがに』(東方とうほうしゃ、1956ねん
  • よるひるをおもてに』(東方とうほうしゃ、1956ねん
  • ふう青春せいしゅん』(角川かどかわ小説しょうせつ新書しんしょ、1956ねん
  • しんたな』(現代げんだいしゃ、1956ねん
  • 『あるおんな戸籍こせき』(東方とうほうしゃ、1956ねん
  • おんな一生いっしょう』(酒井さかい書店しょてん、1956ねん
  • 々のさやぎ』(東方とうほうしゃ、1957ねん
  • つみつくり』(現代げんだいしゃ、1957ねん
  • からだなかふう』(だい日本にっぽん雄弁ゆうべんかい講談社こうだんしゃ角川かどかわ文庫ぶんこ新潮しんちょう文庫ぶんこ、1957ねん
  • 人形にんぎょうふえ』(パトリア→旺文社おうぶんしゃ文庫ぶんこ、1957ねん
  • 佐多さた稲子いなこ作品さくひんしゅうぜん15かん筑摩書房ちくましょぼう、1958ねん - 1959ねん
  • あいとおそれと』(だい日本にっぽん雄弁ゆうべんかい講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ文庫ぶんこ、1958ねん
  • 歯車はぐるま』(筑摩書房ちくましょぼう角川かどかわ文庫ぶんこ旺文社おうぶんしゃ文庫ぶんこ、1959ねん
  • 『ばあんばあん』(しんそうしゃ、1959ねん
  • はたら女性じょせいせいきかた』(知性ちせいしゃ、1959ねん
  • 灰色はいいろ午後ごご』(講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ、1960ねん
  • りむいたあなた』(講談社こうだんしゃ角川かどかわ文庫ぶんこ、1961ねん
  • ひと屋根やねした』(中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1962ねん
  • よるひると』(角川書店かどかわしょてん、1962ねん
  • おんな宿やど』(講談社こうだんしゃ旺文社おうぶんしゃ文庫ぶんこ講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ、1963ねん
  • 『あねといもうと』(東方とうほうしゃ、1963ねん
  • おんなちゃわん』(三月書房さんがつしょぼう、1963ねん
  • 渓流けいりゅう』(講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ文庫ぶんこ、1964ねん
  • きるということ』(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうしんしゃ、1965ねん
  • おんなたち』(講談社こうだんしゃ、1965ねん
  • おんなみちづれ』(講談社こうだんしゃ、1966ねん
  • 塑像そぞう』(講談社こうだんしゃ、1966ねん
  • ふうになじんだうた』(新潮社しんちょうしゃ、1967ねん
  • 『あとにきるものへ わがしんいのりをこめて』(青春せいしゅん出版しゅっぱんしゃ、1969ねん
  • 『ひとりあるき』(三月書房さんがつしょぼう、1969ねん
  • あわれ』(新潮社しんちょうしゃ、1969ねん
  • おもながれに』(講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ文庫ぶんこ(2さつ分冊ぶんさつ)、1970ねん
  • 樹影じゅえい』(講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ文庫ぶんこ講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ、1972ねん
  • 『ひとりたびふたりたび』(北洋ほくようしゃ、1973ねん
  • 『ふときこえた言葉ことば』(講談社こうだんしゃ、1974ねん
  • ときつ』(河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ河出かわで文庫ぶんこ講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ、1976ねん
  • 『おみずり』(平凡社へいぼんしゃカラー新書しんしょ、1977ねん共著きょうちょ清水しみずこうあきら
  • 佐多さた稲子いなこ全集ぜんしゅうぜん18かん講談社こうだんしゃ、1977ねん - 1979ねん
  • 由縁ゆえん』(新潮社しんちょうしゃ、1978ねん
  • 『きのうのにじ』(毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、1978ねん
  • 『ひとりたびふたりたび』(北洋ほくようしゃ、1978ねん
  • とおちかく』(筑摩書房ちくましょぼう、1979ねん
  • ときひとわたしのこと』(講談社こうだんしゃ、1979ねん
  • 年々ねんねん手応てごたえ』(講談社こうだんしゃ、1981ねん
  • なつしおり 中野なかの重治しげはるをおくる』(新潮社しんちょうしゃ新潮しんちょう文庫ぶんこ講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ、1983ねん
  • 年譜ねんぷ行間ぎょうかん』(中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ中公ちゅうこう文庫ぶんこ、1983ねん
  • 出会であったえん』(講談社こうだんしゃ、1984ねん
  • つきうたげ』(講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ、1985ねん
  • ちいさいやま椿つばきはな』(講談社こうだんしゃ、1987ねん
  • おもうどち』(講談社こうだんしゃ、1989ねん
  • 『あとやさきき』(中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ中公ちゅうこう文庫ぶんこ、1993ねん
  • しろむらさき 佐多さた稲子いなこ自選じせん短篇たんぺんしゅう』(学芸がくげい書林しょりん、1994ねん
  • 『キャラメル工場こうじょうから─佐多さた稲子いなこ傑作けっさく短篇たんぺんしゅう』(ちくま文庫ぶんこ、2024ねん佐久間さくま文子ふみこ へん

関連かんれん図書としょ[編集へんしゅう]

  • 長谷川はせがわあきら佐多さた稲子いなころん』(オリジン出版しゅっぱんセンター、1992ねんISBN 4-7564-0162-7
  • 北川きたがわ秋雄あきお佐多さた稲子いなこ研究けんきゅう』(そうぶんしゃ出版しゅっぱん、1993ねんISBN 4-88164-348-7
  • 小林こばやし裕子ゆうこ長谷川はせがわあきらへん佐多さた稲子いなこ戦後せんご日本にっぽん』(ななもりしょかん、2005ねん
  • 杉山すぎやま直樹なおきをわたる』自由じゆう国民こくみんしゃ、2011ねん発行はっこうISBN 978-4-426-10888-5
  • 佐多さた稲子いなこ研究けんきゅうかい へん佐多さた稲子いなこ文学ぶんがくアルバム りんとしてつ』菁柿どう、2013ねん8がつ23にちISBN 978-4434182747 

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ (文学ぶんがくアルバム) 6 「『驢馬ろば同人どうじんとの出会であい」冒頭ぼうとうの「初婚しょこんから再婚さいこんまで」のしょうくわしい。また、「別冊べっさつ婦人ふじん公論こうろん編集へんしゅう菱田ひしだ順子じゅんことのインタビューをまとめるかたちでつくられた『年譜ねんぷ行間ぎょうかん』(1983ねん)の「よん 結婚けっこん心中しんちゅうの未遂みすい破局はきょく」ではおっと小堀こぼりが「長男ちょうなん廃嫡はいちゃく次男じなん他家たけ養子ようしに、そして三男さんなんのそのひとおっと)が当主とうしゅにな」ったことで「おれ財産ざいさん番人ばんにんにさせられた」とべていたこと、心中しんちゅうの未遂みすいいた経緯けいい、その父親ちちおやのもとにれられてもど長女ちょうじょ出産しゅっさんしたこと、小堀こぼりむかえにたがおっと態度たいどわっていなかったため離婚りこん決意けついしたことなどがかたられている。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c カルチャーラジオ NHKラジオアーカイブス「佐多さた稲子いなこ(「文学ぶんがく回想かいそう」1983ねん8がつ2にち放送ほうそうから) 」[リンク]
  2. ^ a b 佐多さた稲子いなこ川端かわばたさんとのえん」(『近代きんだい作家さっか追悼ついとうぶん集成しゅうせい 高橋たかはし和巳かずみ志賀しが直哉なおや川端かわばた康成やすなり』)(ゆまに書房しょぼう、1999ねん
  3. ^ 川端かわばた康成やすなり文芸ぶんげい時評じひょう 窪川くぼかわの『レストラン・洛陽らくよう』」(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 1929ねん10がつごう掲載けいさい
  4. ^ Obituary: Ineko Sata by James Kirkup, The Independent(Great Britain), 29 October 1998
  5. ^ a b 戦後せんご左翼さよく人士じんしぐんぞう増山ますやま太助たすけ、つげ書房しょぼうしんしゃ、2000、p279-282
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  8. ^ ふぇみんとは”. ふぇみん婦人ふじん民主みんしゅクラブ. 2024ねん2がつ20日はつか閲覧えつらん
  9. ^ a b 婦人ふじん民主みんしゅクラブ』 - コトバンク
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  11. ^ 『わがあいする東京とうきょう革新かくしん都政とせい期待きたいする』財団ざいだん法人ほうじん社会新報しゃかいしんぽう、1967ねん3がつ10日とおか
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  15. ^ うつくしいひと佐多さた稲子いなこ昭和しょうわ だい23かいあいのない不幸ふこう結婚けっこん」②佐久間さくま文子ふみこ、ART ACCESS、芸術げいじゅつ新聞しんぶんしゃ
  16. ^ 佐多さた稲子いなこ恋愛れんあいかん野本のもと泰子やすこ、Comparatio. 4, pp.82-96, 2000-03-30. 九州大学大学院比較社会文化研究科比較文化研究会
  17. ^ 人事じんじ興信録こうしんろく だい14はん 』1943「保坂ほさかじゅん
  18. ^ 佐多さた稲子いなこ全集ぜんしゅう 18』96ページ
  19. ^ 『わがなつかしき文学ぶんがくしゃたち』中島なかじま和夫かずお文芸ぶんげいしゃ, 2006[リンク]
  20. ^ 宇野うの浩二こうじ文学ぶんがくさんじゅうねん』 (文芸ぶんげい選書せんしょ)福武書店ふくたけしょてん、1983
  21. ^ (文学ぶんがくアルバム)「6 『驢馬ろば同人どうじんとの出会であい」および「14 晩年ばんねん達成たっせい」を参照さんしょう
  22. ^ 旺文社おうぶんしゃ文庫ぶんこかきのあるいえ』(壺井つぼいさかえちょ初版しょはん1970ねん著者ちょしゃ年譜ねんぷより
  23. ^ 朝日あさひしょう 1971-2000年度ねんど”. 朝日新聞社あさひしんぶんしゃ. 2022ねん9がつ2にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 航路こうろじゅうねん婦人ふじん民主みんしゅクラブの記録きろく婦人ふじん民主みんしゅクラブ、1967ねん11月1にち 
  • せん会館かいかん調査ちょうさ出版しゅっぱん へん全国ぜんこく組織そしき婦人ふじん団体だんたい名簿めいぼ財団ざいだん法人ほうじんせん会館かいかん、1981ねん8がつ 

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]