桂枝雀かつらしじゃく (2代目だいめ)

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代目だいめ かつらかつら えだすずめしじゃく
二代目 桂(かつら) 枝雀(しじゃく)
ゆいさんかしわは、かつらべいちょう一門いちもん定紋じょうもんである。
本名ほんみょう 前田まえだまえだ いたるとおる
別名べつめい 爆笑ばくしょうおう
生年月日せいねんがっぴ 1939ねん8がつ13にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1999-04-19) 1999ねん4がつ19にち(59さいぼつ
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん兵庫ひょうごけん神戸こうべなだ中郷ちゅうごうまち
死没しぼつ 日本の旗 日本にっぽん大阪おおさか吹田すいた
師匠ししょう 3代目だいめ桂米朝かつらべいちょう
弟子でし 3代目だいめかつら南光なんこう
3代目だいめかつらすずめ三郎さぶろう
3代目だいめかつらぶんすけ
かつらすずめ
かつらきゅうすずめ
4代目だいめかつらぶん
(かつらすずめ)
かつら紅雀べにすずめ
名跡みょうせき 1. 10代目だいめかつら小米こごめ
(1961ねん - 1973ねん
2. 2代目だいめ桂枝雀かつらしじゃく
(1973ねん - 1999ねん
囃子ばやし ひるまま
活動かつどう期間きかん 1961ねん - 1999ねん
活動かつどう内容ないよう 上方かみがた落語らくご
配偶はいぐうしゃ かつらえだだい
家族かぞく マジカルたけしおとうと
かつらりょうば長男ちょうなん
CUTT次男じなん
所属しょぞく 松竹しょうちく芸能げいのう
べいちょう事務所じむしょ
おも作品さくひん
崇徳院すとくいん」「代書だいしょ」「宿替やどが
備考びこう
上方かみがた落語らくご協会きょうかい会員かいいん(1961ねん - 1994ねん

代目だいめ かつら えだすずめ(かつら しじゃく、1939ねん昭和しょうわ14ねん8がつ13にち - 1999ねん平成へいせい11ねん4がつ19にち)は、兵庫ひょうごけん神戸こうべまれの落語らくご囃子ばやしは『ひるまま』。本名ほんみょう前田まえだ いたる(まえだ とおる)。

3代目だいめ桂米朝かつらべいちょう弟子入でしい、2代目だいめ桂枝雀かつらしじゃく襲名しゅうめいして頭角とうかくあらわす。古典こてん落語らくご踏襲とうしゅうしながらも、きゃくだい爆笑ばくしょうさせる芸風げいふうで、師匠ししょうべいちょうなら上方かみがた落語らくごさかい代表だいひょうする人気にんき噺家はなしかとなった。たか人気にんきたもっているなかうつびょう発症はっしょうし、1999ねん自殺じさつはかって意識いしき不明ふめいとなったまま死去しきょした。

おとうとはマジシャンのまつあさひひとしたけし長男ちょうなんかつらりょうば[1]

来歴らいれき[編集へんしゅう]

弟子でしりまで[編集へんしゅう]

1939ねん神戸こうべなだ中郷ちゅうごうまちにブリキこういとなちち長男ちょうなんとしてまれた[2]うえあねが3にんおり、5にんきょうだいの4番目ばんめだった[2]

1945ねん6がつ、5さいとき神戸大こうべだい空襲くうしゅう罹災りさいし、父親ちちおや出身しゅっしんである鳥取とっとりけん倉吉くらよし当時とうじ倉吉くらよしまち)の親類しんるいもと疎開そかい[2][3][4]。1946ねん4がつ倉吉くらよし町立ちょうりつ明倫めいりん小学校しょうがっこう入学にゅうがくするが、やく1かげつちち紡績ぼうせき工場こうじょうしょく兵庫ひょうごけん伊丹いたみうつみ、伊丹いたみ市立しりつ神津こうづ小学校しょうがっこう[注釈ちゅうしゃく 1]転校てんこうする[3][6]中学ちゅうがくは、伊丹いたみ市立しりつきた中学校ちゅうがっこう進学しんがくする[6]小中学校しょうちゅうがっこうつう学業がくぎょう優秀ゆうしゅうだった一方いっぽうで、授業じゅぎょうちゅうにクラスメイトや教員きょういんに「ちょっかいをかけ」ることがおおく、「きがない」ともひょうされた[6]

中学ちゅうがく卒業そつぎょう元来がんらい進学しんがく希望きぼうしていたが、中学ちゅうがく3年生ねんせいの7がつちち死去しきょしたことで家族かぞく生計せいけいくるしくなり、やむをず1955ねん4がつ三菱電機みつびしでんき伊丹いたみ製作所せいさくしょ養成ようせいこうとして就職しゅうしょくする[7]養成ようせいこう」といっても、製作所せいさくしょないにある年限ねんげん3ねん養成ようせい学校がっこう企業きぎょうない学校がっこう)で学科がっか実技じつぎまな事実じじつじょう学生がくせい生活せいかつだった[7]。1ねんの1956ねん4がつ養成ようせいこう身分みぶんのまま、伊丹いたみ市立しりつ高等こうとう学校がっこう定時ていじせい進学しんがくする[8][注釈ちゅうしゃく 2]入学にゅうがく試験しけん成績せいせきがトップ(英語えいご数学すうがくはほぼ満点まんてん)だったことから、指名しめいされて新入生しんにゅうせい代表だいひょうとして入学にゅうがくしきでの挨拶あいさつをおこなった[8]一方いっぽう養成ようせいこう課程かてい実習じっしゅうえてくると、製造せいぞう実務じつむかないと自他じたともにみとめるところとなり、1957ねんはる三菱電機みつびしでんき退社たいしゃして兵庫ひょうご県立けんりつ伊丹いたみ高等こうとう学校がっこう給仕きゅうじ仕事しごといた[9]

1957ねんあき以降いこうおとうと朝日放送あさひほうそうラジオのリスナー参加さんか番組ばんぐみ漫才まんざい教室きょうしつ』(同年どうねん7がつ放送ほうそう開始かいし)に出場しゅつじょうする[10]。この番組ばんぐみでは審査しんさいん評価ひょうかによって合格ごうかくした出場しゅつじょうしゃさん段階だんかいで「昇格しょうかく」するシステムがられ、最後さいごは「卒業そつぎょう試験しけん」にいた構成こうせいになっていたが、前田まえだ兄弟きょうだい出演しゅつえんのたびにたか評価ひょうか短期間たんきかんで「卒業そつぎょう試験しけん」に到達とうたつした[10]。ところが、賞金しょうきん生活せいかつしにしていた兄弟きょうだいは「卒業そつぎょうしたらこまる」とうったえ、「卒業そつぎょう試験しけん」ではわざと落選らくせんさせたため、観客かんきゃく騒然そうぜんとなり、審査しんさ委員いいんちょう秋田あきたみのるが「げいそれぞれにレベルというものがあって…」と釈明しゃくめいしたエピソードがある[10]。その兄弟きょうだいは「研究生けんきゅうせい」という肩書かたがきで出演しゅつえんしたりした[10]

しかし、いたる漫才まんざいから落語らくご転向てんこうする。背景はいけいには、プロりを目指めざしておとずれた芸能げいのう事務所じむしょで「芸人げいにん日曜にちようほういそがしい」とわれてやすみがなくなるのはいやだ(きな卓球たっきゅうもできなくなる)とかんがえたり、たたかれるやくおおおとうとはなれたりといった事情じじょうがあった[11]。「素人しろうと落語らくごノド自慢じまん」「素人しろうと演芸えんげいコンクール」(いずれもABCラジオ、1958ねん)などに出演しゅつえん、「素人しろうと落語らくごノド自慢じまん」では5しゅう連続れんぞくで「名人めいじん」を獲得かくとくした[11]。これらの番組ばんぐみには審査しんさいんとして桂米朝かつらべいちょう出演しゅつえんしており、才能さいのう着目ちゃくもくしたべいちょう自宅じたく指導しどうけるようになる[11]。また、この時期じきにリスナー参加さんか番組ばんぐみでやはり常連じょうれんだった岡本おかもと武士たけし(のちの3代目だいめわらいぶくてい仁鶴にかく)と出会であい、二人ふたり落語らくご集団しゅうだん天狗てんぐれん」をつくって自前じまえ落語らくごかい慰問いもんなどをおこなっていた[12]

1959ねん桂米朝かつらべいちょうから弟子入でしいりの承諾しょうだくける[13]。これにさいしては、反対はんたいする母親ははおや英語えいご教員きょういんにしたい意向いこうっていた)をあね助力じょりょく説得せっとくする曲折きょくせつている[13]。「前田まえだクンならプロになれるとおもっていた」べいちょうもうれを即座そくざ了承りょうしょうした[13]

1960ねん昭和しょうわ35ねん)に神戸大学こうべだいがく文学部ぶんがくぶ合格ごうかくし、相談そうだんしたべいちょうすすめで入学にゅうがくしたが、1年間ねんかんとおったのち大学だいがくべつたいしたところやない」(べいちょう証言しょうげん)「もうええわとおもいまして」(えだすずめ後年こうねん述懐じゅっかい)という理由りゆうでやめ、1961ねん昭和しょうわ36ねん)4がつに「10代目だいめかつら小米こごめ」として正式せいしきべいちょう弟子でしとなる[14]兄弟子あにでしに3代目だいめかつらべいむらさき月亭つきていあさがいるが、内弟子うちでしとしてはべいちょう一番いちばん弟子でしである[15]

小米こごめ時代じだい[編集へんしゅう]

入門にゅうもんから稽古けいこには熱心ねっしんで、深夜しんや歩行ほこうちゅうにネタりをして警察けいさつ通報つうほうされたり、ネタりに没頭ぼっとうするあまり掃除そうじ部屋へや随所ずいしょにぶつけて什器じゅうきこわしたりした[15]べいちょうつまは、「まわりをにせずのめりひとは、のちにもさきにもあののほかにはいなかった」とひょうしている[15]。この「私生活しせいかつあいだ落語らくご稽古けいこをする」という習慣しゅうかんは、えだすずめとしてをなした後年こうねんわらなかった[15]

1962ねん昭和しょうわ37ねん)4がつせんにち劇場げきじょうはつ舞台ぶたい[16]1963ねん昭和しょうわ38ねんはるに2ねんで「年季ねんきけ」となり、実家じっかもど[17]年季ねんきけまでは通常つうじょう3ねんのところ、弟子入でしいまえから稽古けいこけていたという理由りゆうであるが[17]べいちょうつまは「要領ようりょうかった」とべている[15]同年どうねん9がつより、2代目だいめかつらはるちょう主導しゅどう千日前せんにちまえにある安寺あてら会場かいじょうとしてはじまった「上方かみがたばなし若手わかてかい」に参加さんかする[17][18]最初さいしょ参加さんかメンバーであるはるちょう小米こごめ仁鶴にかく桂朝丸かつらちょうまる(のちの2代目だいめかつらざこば)・わらいぶくていこうづる(のちの5代目だいめわらいぶくていえだづる)は「若手わかてにんかい」をしょうした[18]。1965ねんには関西かんさいテレビ大喜だいぎ中継ちゅうけい番組ばんぐみわらいとんちぶくろ」にも出演しゅつえんする[17]番組ばんぐみでの小米こごめについて、共演きょうえんしていた4代目だいめかつらぶんべには、「発想はっそう奇抜きばつで、そんなことあるかーというようなことを、さもあるかのようにってわらいをった。くるまぎれにかれこたえ珍無類ちんむるいだった」とべている[17]

1969ねん昭和しょうわ44ねん)7がつから、木津川きつかわはかる世話人せわにんとして、かつらはるちょうと「小米こごめはるちょうにんかい」を開始かいし、1972ねん8がつまで10かいかぞえる[19]大阪おおさかでの二人ふたりかい終了しゅうりょう翌月よくげつの1972ねん9がつには東京とうきょうでも1にちだけ開催かいさい、これを矢野やの誠一せいいちは『週刊しゅうかん明星みょうじょう』に「最近さいきん落語らくごかいにはない強烈きょうれつ刺激しげきけた」「たんなるテクニックだけをげたら、この二人ふたりよりもうえ若手わかてが、東京とうきょうには何人なんにんもいる。だが、これだけおかしい落語らくごのしゃべれる若手わかてとなると残念ざんねんながら東京とうきょうには見当みあたらない。」とひょうした[19][20][注釈ちゅうしゃく 3]

しょう佐田さた定雄さだお小米こごめ時代じだい芸風げいふうについて「大阪おおさか落語らくごではめずらしく、繊細せんさい鋭角えいかくてき」とひょうし、「けるひとにはけている」という反応はんのうで、支持しじするがわにも「きみたちとはちょっとちがうんだぞ」という雰囲気ふんいきがあったという[21]。また、べいちょうから「そのこえではうしろのおきゃくさんまでとどかない」と注意ちゅういけるような、繊細せんさい声色こわいろだった[21]矢野やの誠一せいいちは、楽屋がくや片隅かたすみ芸人げいにんからはなれてすわ道元どうげんの『せい法眼ほうげんぞう』をみながら一人ひとり「これはおかしい」「ええなあ」とわら小米こごめ姿すがたのこしている[17]

落語らくご以外いがいにもABCラジオの「ポップたい歌謡かようきょく」やラジオ大阪おおさかの「オーサカ・オールナイト さけべ!ヤングら」といった番組ばんぐみディスクジョッキーつとめる[22]番組ばんぐみでは「宇宙うちゅうはなしとか死後しご世界せかいとか、仏教ぶっきょうてきはなし」(かつら南光なんこう)といった、のディスクジョッキーとは一線いっせんかくする話題わだいあつかった[23]。そのくちぶりをいた一人ひとり高校生こうこうせいが1969ねんはる小米こごめもとおとずれ、その小米こごめいえかよって稽古けいこけられたのち高校こうこう卒業そつぎょうした1970ねん昭和しょうわ45ねん)3がつに「かつらべかこ」(のちの3代目だいめかつら南光なんこう)として最初さいしょ弟子でしとなった[22][24][注釈ちゅうしゃく 4]小米こごめ当初とうしょべかこに「兄弟きょうだいのような関係かんけいでやっていこう」と「師匠ししょう」ではなく「にいさん」とばせたが、べいちょうから「それではけじめがつかんやないか」としかられた[22]。1971ねん3がつにはかつらすずめ三郎さぶろう入門にゅうもんし、同年どうねん5がつからは「かつら小米こごめかい」としょうした自身じしん弟子でしらによる落語らくごかい伊丹いたみ市内しない寺院じいんはじめ、会場かいじょう変更へんこうやく2ねんえだすずめ襲名しゅうめい直前ちょくぜんまで)つづいた[25]

また、小米こごめ時代じだいには吾妻あづまひなとテレビやラジオでたびたび共演きょうえんし、論理ろんりてき小米こごめとざっくばらんで陽気ようきなひないは若者わかものにとどまらないひろそうから人気にんきたとひょうされた[26]二人ふたり共演きょうえんした「ヒットでヒット バチョンといこう!」(ラジオ大阪おおさか)のディレクターは、二人ふたり会話かいわ夢路ゆめじいとし・あじこいしの「漫才まんざいあいだちかいプロのあじがしました」とのちべている[26]

私生活しせいかつでは1970ねん10がつに、女性じょせい浪曲ろうきょく漫才まんざいトリオ「ジョウサンズ」でアコーディオンいていたにち吉川よしかわ良子りょうこ結婚けっこんする[27]出会であったのは前年ぜんねん8がつで、翌年よくねん2がつ交際こうさいはじめたときから小米こごめ結婚けっこんしようとちかけた[27]。あるとき、ちちうしなってあいだがなく挙式きょしき費用ひようせないのでこまると良子りょうこうと、「そんな、みなしごみたいなさがしてたんや。いえいえいがかなわん。結婚式けっこんしきはせんでもええ」とこたえた[27]結局けっきょく出会であってから1ねんあまりで、安寺あてら結婚式けっこんしきげた[27]結婚けっこんさいして「わたしおくさんにならなくてもいい。噺家はなしかおくさんになってくれ」と小米こごめからはわれていた[28]良子りょうこは、小米こごめいえでは世間せけんばなしもテレビ視聴しちょうもしない「陰気いんき」な姿すがたであることに、交際こうさいさけはいって陽気ようき印象いんしょうちがっておどろいたという[28]結婚けっこんまえから高校こうこう時代じだい恩師おんしいえ下宿げしゅくしており、結婚けっこんもしばらくその生活せいかつつづいたが[27]つま懐妊かいにん判明はんめいした1971ねん8がつ大阪おおさか豊中とよなか借家しゃくや転居てんきょした[29]

最初さいしょのうつびょう[編集へんしゅう]

1972ねん3がつ長男ちょうなんまれる[29]同年どうねん5がつごろから、落語らくごだけに専念せんねんしたいと芸能げいのう仕事しごとをやめ、いえでひたすらネタりに没頭ぼっとうするようになっていた[30]

1973ねん2がつ1にち道頓堀どうとんぼりかく出演しゅつえんするためつまめたタクシーにったが「こわい、かへん」とりてしゃがみんでしまう[30]つまは「えらいことになりました」とべいちょう連絡れんらくし、病院びょういんれていったところ、おもうつびょう診断しんだんされた[30]家庭かてい弟子でしった責任せきにんからくるプレッシャーや自身じしんげいへの不満ふまんくわえ、健康けんこう被害ひがい社会しゃかい問題もんだいしていたPCB自分じぶんむしばまれているのではないかという不安ふあんから「んだらどうなるのか、ぬのがこわい」という強迫きょうはく観念かんねんいていた[30]部屋へやじこもり、食事しょくじ風呂ふろもしなくなった[30]。「しあわせにしようとおもったが、もうだめだ。わかれてくれ」とわれたつまは、わかれるまえ病気びょうきなおそうとはげました[30]なんしょもの医師いし病院びょういんたずね、最後さいごった阪大はんだい病院びょういん医師いしが「いまくすりらない。一番いちばん大事だいじなのは休息きゅうそくです。のうやすめなさい」とはなし、時間じかんって小米こごめはなしみみかたむけた[31]医師いしからは「不安ふあんになったらいつでもどうぞ」と自宅じたく電話でんわ番号ばんごうつたえられた[31]みじか問診もんしん投薬とうやくだけでませていたそれまでとはちが対応たいおうけて、症状しょうじょう回復かいふくかった[31]。1973ねん4がつ16にちに「小米こごめかい」を再開さいかい、その案内あんないじょうでは、病気びょうきのブランクを「しんたび」としるした[31]

回復かいふくした小米こごめつまに「あんなしんどい病気びょうきにはもうなりたくない」「これからはわらいの仮面かめんをかぶる」とはなした[31]自身じしんののちの講演こうえんでは、発症はっしょうまえは「たのしいことを、たのしくない姿勢しせいかんがえていた」とかえり、その「間違まちがいにづき」「(わらいの)仮面かめんなんじゅうねんもかぶりつづければ、仮面かめんかおか、かお仮面かめんか、となります」というかんがえをべている[31]

2代目だいめえだすずめ襲名しゅうめい[編集へんしゅう]

1973ねん昭和しょうわ48ねん)10がつ道頓堀どうとんぼりかくで「2代目だいめ桂枝雀かつらしじゃく」を襲名しゅうめいわらいぶくていえだづるかつらぶくだんとのトリプル襲名しゅうめいであった)[32][33]。この襲名しゅうめいは、6代目だいめわらいぶくていまつづるの「小米こごめにはえだすずめという名前なまえがええで!」という意向いこうまった[33]

これをにそれまでの落語らくごおおきくえる[34][35]初代しょだいかつらはるだんにもたとえられる所作しょさこえはげしい芸風げいふうとなり、おおくの観客かんきゃく爆笑ばくしょうさせ、大衆たいしゅうてき人気にんき[34][35][注釈ちゅうしゃく 5]前出ぜんしゅつしょう佐田さた定雄さだお人気にんき理由りゆうに、げいくわえてえだすずめが「ひと安心あんしんさせる」笑顔えがお高座こうざのぼるようになったこともげている[34]

1976ねん10がつには、べいちょうつづいてサンケイホールでの独演どくえんかいひらき、以後いご継続けいぞくする[37]初年度しょねんどは1にちのみだった上演じょうえんとしってび、1981ねんにはこれもべいちょう連続れんぞく6日間にちかんの『えだすずめじゅうはちばん』の開催かいさいいたった[37][注釈ちゅうしゃく 6]最初さいしょの『十八番じゅうはちばん』はダフまで人気にんきぶりだった[40]

このあいだ、1979ねん9がつには朝日放送あさひほうそうテレビかんむり番組ばんぐみである『えだすずめ寄席よせ』がスタートする[41]

1982ねん昭和しょうわ57ねん)に日本にっぽん放送ほうそう演芸えんげい大賞たいしょう大賞たいしょう1983ねん昭和しょうわ58ねん)に芸術げいじゅつ選奨せんしょう新人しんじんしょうをそれぞれ受賞じゅしょうした[41]

1984ねん昭和しょうわ59ねん3月28にち東京とうきょう歌舞伎座かぶきざにて「桂枝雀かつらしじゃく独演どくえんかい」を開催かいさいする[42]歌舞伎座かぶきざでの上方かみがた噺家はなしかによる独演どくえんかいはじめてだった[42]。チケットは完売かんばいとなり、[42]かつらすずめかつらべかこが前座ぜんざはいり、えだすずめは「かぜうどん」をえんじたのち中入なかいりとし、前後ぜんごへんけることのおおい「地獄じごく八景はっけい亡者もうじゃおどけ」を一気いっきえんじきった[42]終了しゅうりょう緞帳どんちょうりても観客かんきゃく拍手はくしゅまず、ふたた緞帳どんちょうひら感謝かんしゃ挨拶あいさつをおこなった[42]歌舞伎座かぶきざでの公演こうえんはこのあと、1987ねん4がつに「えだすずめさん」をおこなっている[43]

1983ねんごろから英語えいご落語らくご後述こうじゅつ)をはじめるようになる[44]。1985ねん7がつ6にちには大阪おおさかテイジンホールで『だい1かい 桂枝雀かつらしじゃく英語えいご落語らくご独演どくえんかい』をひらき、以後いご1995ねん9がつまで合計ごうけい12かい開催かいさいした[45]だい1かい演目えんもくは「なつ医者いしゃ」「ショート落語らくご定期ていきけんいぬ)」「かぜうどん」だった[45]1987ねん昭和しょうわ62ねん)6がつにはホノルルロサンゼルスバンクーバーにてはつ英語えいごによる海外かいがい落語らくご公演こうえんをおこなった[46]演目えんもくは「ロボットしずかちゃん[よう出典しゅってん]

また、1985ねん6がつ7にちから1986ねん7がつ4にちまで、毎月まいつき1かい桂枝雀かつらしじゃく フリー落語らくごかい」という公演こうえん御堂みどう会館かいかん開催かいさいする[47]。この公演こうえんではトリに「らくご」とだいした実験じっけん落語らくご観客かんきゃくからだいつのったり、上下じょうげかた日本語にほんご英語えいご使つかけるなど)をえんじた[47]戸田とだまなぶは、英語えいご落語らくごとこのフリー落語らくごが「えだすずめ落語らくご変貌へんぼうおおきなきっかけ」とひょうしている[47]

1981ねんのNHKドラマ『なにわの源蔵げんぞう事件じけんちょう』の主演しゅえん皮切かわきりに映画えいがドグラ・マグラ」やTVドラマ「じゅんちゃんの応援おうえん」「ふたりっ」に役者やくしゃとして出演しゅつえんし、俳優はいゆうとしてもその演技えんぎりょくをみせた。だが、メインは落語らくごであり、それ以外いがいのバラエティやTVの仕事しごとおおくするようなことは最後さいごまでなかった。『なにわの源蔵げんぞう事件じけんちょう』も、続編ぞくへんでは7にんものレギュラー俳優はいゆうさい登板とうばんするなか主演しゅえん芦屋あしや雁之助がんのすけゆずっている。結局けっきょくわかいころのラジオ番組ばんぐみレギュラーをえたあとは、終生しゅうせい落語らくご以外いがい複数ふくすうねんにまたがるような仕事しごとたなかった。

1988ねん2がつ25にち上方かみがた落語らくご協会きょうかい定期ていき総会そうかいふく会長かいちょう選出せんしゅつされるが、「自分じぶんにはいていない」という理由りゆう辞退じたいした[48]。この総会そうかい会長かいちょう選出せんしゅつされたべいちょうも、相談役そうだんやくという「隠居いんきょ」であることを理由りゆう辞退じたいしている[48]

1994ねん5月(平成へいせい6ねん)、えだすずめ一門いちもん8にん上方かみがた落語らくご協会きょうかい脱退だったいした(一部いちぶ弟子でし孫弟子まごでしが2008ねんれに復帰ふっき)。同年どうねん12月27にちにはNHKで「やまのあなたのそらとおく」というえだすずめ特集とくしゅうする番組ばんぐみ全国ぜんこく放送ほうそうされた。

うつびょう再発さいはつ[編集へんしゅう]

1997ねん1がつあらたなこころみとして、観客かんきゃくを「50にんから200にん程度ていどとして自分じぶんだけが出演しゅつえんする「えだすずめばなしのかい」をスタートさせる[49]。しかしその直後ちょくごには、夜中よなかきてネタりをすることを「なにでこんなにまでせんといかんのかとおもって、なみだてくることがあるのです」と高座こうざなみだかべてはなしたことがあった[49]。この時期じき出演しゅつえんしていた「ふたりっ」では自分じぶんのミスが周囲しゅうい迷惑めいわくになっていないかという強迫きょうはく観念かんねんられた[50]。ドラマの収録しゅうろく最終さいしゅうにプロデューサーの長沖ながおきわたるに「セリフがはいらない」と電話でんわつたえ、おどろいた長沖ながおきえだすずめをスタジオまでび、「顔面がんめん蒼白そうはくうつ状態じょうたい」で1カットずつ収録しゅうろくすることになった[51]。そして4がつの2かいの「えだすずめばなしのかい」では「うつなんです」と告白こくはくし、客席きゃくせきわらごえに「わらいごとじゃないんですよ」とつづけた[49]。このかいのち出演しゅつえんひかえて闘病とうびょう生活せいかつはい[49]内臓ないぞうにも異常いじょうがあり、うつびょう症状しょうじょうは1973ねんよりもおもかった[49]。4月に入院にゅういんし、6月の一門いちもん総出そうでによる南座みなみざでの公演こうえん海道かいどういちおとこたち」に出演しゅつえんしたものの、終了しゅうりょう再度さいど休養きゅうようした[52][53]。8がつまつ広島ひろしまけん落語らくごかいで「なつ医者いしゃ」を口演こうえん、その万全ばんぜんはかるため」出演しゅつえんひかえたのち、10月に京都きょうと大阪おおさかでの独演どくえんかい本格ほんかく復帰ふっきほうじられた[52]。しかし復帰ふっき客席きゃくせきいても満足まんぞくする反応はんのうせず、つまべいちょうの「最近さいきんえだすずめ落語らくごはええよ」という言葉ことばつたえてもわらなかった[49]。1998ねん1がつ14にち香川かがわけん高松たかまつの「朝日あさひ落語らくごかい」でえんじた『宿替やどがえ』が最後さいご高座こうざとなる[49]

1997ねんなつごろ親交しんこうのある戸田とだまなぶが「還暦かんれきとしに『十三夜じゅうさんや』をやりましょう」と提案ていあんするとえだすずめみをかべたという[54][注釈ちゅうしゃく 7]よく1998ねんなつ、「還暦かんれきとしちネタとしている60せき(1にち3せきで20日間にちかん)を口演こうえんする企画きかく」を戸田とだしめし、その演目えんもくひょうもまもなくつくげた[54]会場かいじょうワッハ上方かみがたのホールで、1999ねんあきしゅう5にち上演じょうえん月曜げつよう火曜かよう休演きゅうえん)で開催かいさいする構想こうそうだった[54]。これにわせて、『えだすずめ落語らくご全集ぜんしゅう』や『桂枝雀かつらしじゃく写真しゃしんしゅう』の刊行かんこう計画けいかくされていた[54]。このあいだ、1998ねん7がつ26にちに『えだすずめ寄席よせ』の収録しゅうろく現場げんばおとずれ、非公式ひこうしきで「どうらんのさいわいすけ」をえんじて拍手はくしゅけたが、かつら南光なんこうによると「アカン、こんなもんやない」という反応はんのうだった[55]

その矢先やさき1999ねん3月13にちよる大阪おおさか吹田すいた自宅じたく首吊くびつ自殺じさつはかっているところを発見はっけんされ、意識いしき不明ふめい状態じょうたい病院びょういん搬送はんそうされた[50]当初とうしょはこの事実じじつ関係かんけいしゃ以外いがいせられ、一般いっぱんほうじられたのは11にちであった[50]。しかし、意識いしき回復かいふくすることなく同年どうねん4がつ19にち心不全しんふぜんのため死去しきょ[50]まん59さいぼつ享年きょうねん61)。遺書いしょやそれらしい発言はつげんまったくなく、真相しんそう不明ふめいである。遺志いしにより通夜つや告別こくべつしき実施じっししなかった[56]死去しきょほうけてよく4がつ20日はつか師匠ししょうべいちょう弟弟子おとうとでしかつらざこば筆頭ひっとう弟子でしかつら南光なんこうらの関係かんけいしゃ大阪おおさか市内しない記者きしゃ会見かいけんひらき、べいちょうは「覚悟かくご自殺じさつというより衝動しょうどうてきなもの。いっぺんんでみよか、ちゅうもんかもしれん。そんながしてならんのですけどねえ」とべ、ざこばは「これがにいちゃんがえらんだみちやったんならと、おつかれさんでしたとおわかれをいました」、南光なんこうは「まれなはなしですから、うちの師匠ししょうえるひとはいないとおもう」とおもいをかたった[57]

遺墨いぼく前記ぜんき還暦かんれき記念きねん20日はつか公演こうえん(「えだすずめろくじゅうばん」)よう演目えんもくひょうだけであった[58]

朝日放送あさひほうそうラジオは死去しきょ5にちの1999ねん4がつ24にち追悼ついとう番組ばんぐみ「さよなら桂枝雀かつらしじゃくさん 上方かみがた落語らくご爆笑ばくしょうおうのすべて」を放送ほうそうし、えだすずめの「どうらんのさいわいすけ」「宿替やどがえ」ノーカット口演こうえん弟子でし9にんによるトークという内容ないようだった[59]同年どうねん8がつの「べいちょう一門いちもんかい」(大阪おおさか・サンケイホール、2日間にちかん)と「桂枝雀かつらしじゃく一門いちもんかい」(尼崎あまがさきピッコロシアター)が「追悼ついとう落語らくごかい」として開催かいさいされた[60]

墓所はかしょ中山寺なかやまじ

没後ぼつご、2001年度ねんどだい6かい上方かみがた演芸えんげい殿堂でんどう選出せんしゅつされた[61]

えだすずめ落語らくご[編集へんしゅう]

持論じろん[編集へんしゅう]

緊張きんちょう緩和かんわ
緊張きんちょう緩和かんわ」がわらいをむとする独自どくじ落語らくご理論りろんわらいの緊緩理論りろん、緊緩の法則ほうそく)をとなえた[注釈ちゅうしゃく 8]著書ちょしょ『らくごDEえだすずめ』(ちくま文庫ぶんこ)に詳述しょうじゅつされている[63]。またEXテレビ(テレビ出演しゅつえん参照さんしょう)において、上岡うえおか龍太郎りゅうたろうとのいにより、わらいの分析ぶんせき理論りろんとして、サゲの4分類ぶんるいとともに図示ずしされ例示れいじされながらかれている。
サゲの4分類ぶんるい
はなしのサゲ(ち)には、伝統でんとうてきに「にわかち」「かんがち」「しぐさち」などのかたがあるとされるが、なにをもって分別ふんべつするかの視点してんさだまらないなど問題もんだいてんもある。そこでえだすずめは、わらいがどこできるかというてん視点してんさだめ、独自どくじに「ドンデン」「なぞき」「へん」「わせ」の4つのかた分類ぶんるいした。詳細しょうさいぺーじ参照さんしょう

ほかにも、物事ものごとを「かげ」と「」や「じ」と「ひらき」で表現ひょうげんするなどの「2きょく分類ぶんるい」をもちいたり、また、かれこのんでえんじた「ぱらい」のえんかたこまかく説明せつめいするなどした。

ちネタ[編集へんしゅう]

えだすずめ襲名しゅうめいちネタを60とめ、これらの研鑽けんさん専念せんねんするようになった(途中とちゅうえもあり)[64]えだすずめ襲名しゅうめい直前ちょくぜんの1973ねん10がつ自宅じたく稽古けいこじょう欄間らんま演題えんだいが64はいがくけ、1974ねん4がつ雑誌ざっし掲載けいさいされた写真しゃしんでは58、ぼっした時点じてんでは56の演題えんだいれられていた[64]書籍しょせきで60のちネタを公表こうひょうしたのは1981ねんの『まるく、まぁ~るく 桂枝雀かつらしじゃく[65]』が初出しょしゅつで、以後いごすう公表こうひょうて、さい晩年ばんねん還暦かんれき記念きねんろくじゅうばん企画きかくいた[64]

このうち代表だいひょうてきちネタとしては「代書だいしょ代書だいしょ)」「宿替やどが」がげられる。えだすずめの「代書だいしょ」は、サゲが元々もともとだいいのはなしになるものであったが、あるときから「わたし本職ほんしょくは、ポンで~す」とポン菓子かし製造せいぞう内容ないようさら人気にんきのあるネタとなった[注釈ちゅうしゃく 9]。「宿替やどがえ」は初代しょだいかつらはるだんさんゆうていひゃくせい録音ろくおんをもとに独自どくじ脚色きゃくしょくくわえている(まえ荷造にづくりのだんからはじめるのは、はるだん流儀りゅうぎによる)[35]

代表だいひょうてきな60のネタ

青菜あおな」「あくびの稽古けいこ」「愛宕山あたごやま」「池田いけだいのしし」「いらちの愛宕あたごまい」「植木うえきむすめ」「うし丸薬がんやく」「うなぎや」「のべはく」「親子おやこしゅ」「親子おやこ茶屋ちゃや」「かぜうどん」「義眼ぎがん」「くちいれ」「くっしゃみ講釈こうしゃく」「くび提灯ぢょうちん」「くやみ」「ぞう丁稚でっちよんだん」「高津たかつとみ宿屋やどやとみ」「鴻池こうのいけいぬ」「仔猫こねこ」「こぶ弁慶べんけい」「ほめ」「べいざる」「権兵衛ごんべえたぬき」「さぎとり」「佐々木ささきさばき」「さら屋敷やしき」「算段さんだんたいら兵衛ひょうえ」「へび含草」「崇徳院すとくいん」「住吉すみよしかご」「千両せんりょう蜜柑みかん」「代書だいしょ」「ちしゃ医者いしゃ」「茶漬ちゃづけえん」「つぎ御用ごよう」「つぼさん」「鉄砲てっぽう勇助ゆうすけ」「天神山てんじんやま」「胴切どうぎり」「道具どうぐ」「胴乱どうらんさいわいすけ」「どきうどん」「なつ医者いしゃ」「ねこ忠信ちゅうしん」「寝床ねどこ」「のき」「はちろう坊主ぼうず」「はてなの茶碗ちゃわん」「はないかだ」「ななきつね」「質屋しちやぞう」「一人ひとり酒盛さかもり」「ふたなり」「不動ふどうぼう」「ふね弁慶べんけい」「まんじゅうこわい」「宿替やどが」「宿屋やどやかたき

新作しんさく落語らくごにもみ、1977ねんはじめた「えだすずめかい」では自作じさくえんじた[21]。このかいとおったしょう佐田さた定雄さだお自作じさく落語らくご(「幽霊ゆうれいつじ」)をえだすずめおくるとそれを口演こうえんし、以後いごしょう佐田さたえだすずめ新作しんさくがけることになる[21]

一方いっぽうで「たぬきさい」は「博打ばくちをやるはなしきらい」という理由りゆうえんじなかった[68]

ショート落語らくご[編集へんしゅう]

SR(S・R)というショート落語らくご考案こうあんしている。これは出演しゅつえんするラジオ番組ばんぐみおもいついたネタで[よう出典しゅってん]普通ふつうわらいは緊張きんちょうから緩和かんわ状態じょうたいがやってくるが、SRは緊張きんちょう状態じょうたい最後さいごまで緊張きんちょうのこしたままわるという構造こうぞうをしている。おおきなわらいはれないが、すこわったネタをこの玄人くろうとけのネタだという[よう出典しゅってん]。このこころみに立川談志たてかわだんしは「面白おもしろいからつづけてしい」と評価ひょうかしている[よう出典しゅってん]

英語えいご落語らくご[編集へんしゅう]

えだすずめ少年しょうねん時代じだいより英語えいご熱心ねっしんで、定時ていじせい高校生こうこうせいころ英語えいご専門せんもん研究けんきゅうんでいたという証言しょうげんがある[9]

噺家はなしかになってからも英語えいご教室きょうしつ複数ふくすうめぐった[44]。1983ねんからかよした「HOEインターナショナル」で、英会話えいかいわ落語らくごに「気持きもちをれてはなす」という共通きょうつうてんいだし、校長こうちょう山本やまもとただしあきららの協力きょうりょくで「落語らくご英語えいごにする」こころみをはじめる[44]。1984ねん帰国きこくしたもと講師こうし故郷こきょうアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくペンシルバニアしゅう)をたずね、はじめて「なつ医者いしゃ」の英語えいごばんえんじる[44]前述ぜんじゅつとおり、1987ねんより正式せいしき海外かいがい公演こうえん開始かいしし、1996ねんまで(1989ねんと1993ねんのぞいて)ほぼ毎年まいとし、12かいにわたって外国がいこく訪問ほうもんして公演こうえんをおこなった[46]

当初とうしょはきちんと(ネタを)英語えいごやくさんと、とおもっておったんですが、いまでは落語らくご雰囲気ふんいきわかってもらえればええんや、とあるときふといたんです」という趣向しゅこうのため、英語えいごがよくからなくてもたのしめるという内容ないようになっている[よう出典しゅってん]演目えんもくとしては、古典こてん落語らくごの「愛宕山あたごやま」「宿屋やどやかたき」「さぎり」、新作しんさくの「動物どうぶつえん」などがある[44]。1988ねんには第一学習社だいいちがくしゅうしゃ高等こうとう学校がっこういち年生ねんせい英語えいご教科書きょうかしょに「ロボットしずかちゃん」が教材きょうざいとして掲載けいさいされた[47]

英語えいご落語らくごえだすずめのち複数ふくすう噺家はなしかがけている[46]

げい変遷へんせん芸風げいふう[編集へんしゅう]

まくらながくとる、一部いちぶからオーバーアクションと酷評こくひょう[よう出典しゅってん]された豪快ごうかい陽気ようき所作しょさつかう、表情ひょうじょうゆたかにかたる、抑揚よくよう(めりはり)のいた発声はっせいはなしす、といった派手はでやかな落語らくごつかであったが[注釈ちゅうしゃく 10]後年こうねんまくら端折はしょる、所作しょさ表情ひょうじょうおさえる、こえすらひくしぶ落語らくごする、サゲも短縮たんしゅく、というものへ変化へんかした。

旧来きゅうらい大阪おおさかまちことばに堪能かんのうであり、それを流暢りゅうちょうあやつるものだから、はじめてえだすずめ落語らくごをCDのみで鑑賞かんしょうした関東かんとうけん落語らくごファンは、なにっているのかからない[よう出典しゅってん]、そのくらい研究けんきゅう熱心ねっしんであった。ちなみに書籍しょせきでは関東かんとうけん落語らくごファンにもたのしめるようまくら部分ぶぶん標準ひょうじゅんほどこされている。

1983ねん2がつの『えだすずめ寄席よせ』で「池田いけだいのししい」をえんじたさいには、てっぽうをこしらえるタイミング(えだすずめ手拭てぬぐいと扇子せんすもちいてビジュアルな鉄砲てっぽうこしらえた[注釈ちゅうしゃく 11])など段取だんどりの不調ふちょうがあり、サゲののちに「まことにあいすまんこって」と観客かんきゃくびる一幕ひとまくがあった[71]

発言はつげん[編集へんしゅう]

  • えだすずめかおただけであー、おもろかったと満足まんぞくしていただけるような芸人げいにんになりたい[よう出典しゅってん]。」
  • わたしなかわたしてるえだすずめがいてこれがわたしになかなかオーケーをしてくれなかったんです。それがこのごろはだいぶオーケーにちかづいてきた。ててください。もうじき自分じぶん落語らくご完成かんせいさせます。」(1996ねん平成へいせい8ねんまつのコメント[よう出典しゅってん]

評価ひょうか[編集へんしゅう]

  • えだすずめわたしよりもおおきい存在そんざいになると、ずっとおもっていたからね。自分じぶんよりも一皮ひとかわむけてうえくことをわたし期待きたいしていた。」(桂米朝かつらべいちょう (3代目だいめ)回想かいそう[72]
  • えだすずめがいなくなって、わたし荷物にもつおもくなった。ぼつぼつらくしようと、仕事しごと半分はんぶんぐらいをまかせかけていたときだったのに。もうわたしなんか、ムチってもあきまへんわな。なのに、そうもいかなくなってしまいました。」(えだすずめくなった数日すうじつべいちょうのコメント)
  • ぬよりほかなかったのかといまおもう。」(べいちょう著書ちょしょ桂米朝かつらべいちょう わたし履歴りれきしょ」(日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ)の一章いっしょうえだすずめ追悼ついとう」より)
  • 「オーバーアクションといわれるのは(弟子でしとしては)心外しんがいおさえるところはおさえたうえで、全部ぜんぶ理屈りくつうえでやっているんです。」「ぼくらはちょっとけると『それでいい』となるが、師匠ししょうは『もっとけるはずだ』とそのさきかんがえた」(かつら南光なんこう[よう出典しゅってん]
  • 最高さいこうにノッているえだすずめ寄席よせはなぜかからないけど鳥肌とりはだってけてくる。もちろん本人ほんにんはそんな意図いとではやっていないだろうけど。」「芸人げいにん寛美ひろみさんやえだすずめさんのようにつね作品さくひんつくっていかなければならない。ぼくはそういうひとになりたいとおもう。」(松本まつもと人志ひとし[73][出典しゅってん無効むこう]
  • ちいさいときから、なぜかはからないけど、すごいことをやってるがしてましたね。(中略ちゅうりゃく間口まぐちひろげて、敷居しきいげて、オーバーアクションで落語らくごえんじっていて、それもえだすずめ師匠ししょうのサービス精神せいしんあらわれだとおもうんですよ。」「落語らくご上手じょうず噺家はなしかさんはいっぱいいらっしゃるけど、えだすずめ師匠ししょうは“面白おもしろい”。ほかのひと一眼いちがんレフってるのに、『うつルンです』ですごくいい写真しゃしんる、みたいなかんじですよね。」「ファミレスなのに高級こうきゅうフレンチみの料理りょうりすような、すごいんだけどお手軽てがるせているかんじなんですよ。」 (千原ちはらジュニア[74] 
  • べいちょう師匠ししょう以上いじょう真面目まじめひと。(中略ちゅうりゃく小米こごめころ古典こてん落語らくご)をじゅうさんじゅうきちっとおぼえていてわたしはあのころえだすずめさんのほうきだった。ところがえだすずめ襲名しゅうめいした途端とたん荒唐無稽こうとうむけいなスタイルになって、リアリズムからはなれてしまった。かぎられたネタをやるぶんにはそれでもいいし、実際じっさいウケるんですが、トータルでると、げいびないし、おきゃくさんも食傷しょくしょう気味ぎみになる。えだすずめさんとしては師匠ししょう真似まねをしたくないという切実せつじつおもいがあって、ああいうふうなスタイルにしていったんでしょうけど、それを真面目まじめきつめていった結果けっか自分じぶんをもいつめてしまったんでしょう。」(三遊亭圓楽さんゆうていえんらく (5代目だいめ)[75]

俳優はいゆうとして[編集へんしゅう]

落語らくごとして名声めいせいのち、『なにわの源蔵げんぞう事件じけんちょう』(NHK総合そうごう、1981ねん)で連続れんぞくテレビドラマにはつ主演しゅえん[76]、1988ねん映画えいがドグラ・マグラ』では作品さくひん主役しゅやくである正木まさき博士はかせえんじた[77]

前者ぜんしゃでは、原作げんさくをすでにんでいたにもかかわらず、出演しゅつえん依頼いらい同意どういしたのは7かいはないだったという[76]えだすずめ起用きようは「あのあたまやから親方おやかたやんのに散髪さんぱつしてもらわんでもええし」というスタッフの「ダメもと」での提案ていあんからだった[78]えだすずめは、サゲで「これまでのことは全部ぜんぶウソですよ」という自分じぶんには、幕切まくぎれで犯人はんにん啖呵たんか源蔵げんぞうえんじられないという理由りゆうしぶった[76]最終さいしゅうてきには、尊敬そんけいする広沢ひろさわひさごみぎ衛門えもん出演しゅつえん条件じょうけん同意どういする[78]はつ収録しゅうろくには「(『神妙しんみょうにさらせ』という言葉ことばが)神妙しんみょうにさらしてちょうだいなら、すんなりえるんやけど」とった弟子でしかつらぶんらした[76]。また出演しゅつえんしゃのセリフにたいする演技えんぎが(一人ひとりぜんやくをこなす)噺家はなしか自分じぶんにはむずかしいとも収録しゅうろく現場げんばはなしていた[78]。それでもドラマは好評こうひょうはくし、オリジナル脚本きゃくほんくわえた23かい放送ほうそうされた[76]

後者こうしゃは、監督かんとく松本まつもと俊夫としおが「そのひとっている意外いがい局面きょくめんせるほう面白おもしろくなる」というかんがえで起用きようし、ひげ眼鏡めがね白衣はくいえんじたやくは「見事みごとかいえんじしている」という評価ひょうか[77]

また、1997ねんにはNHK総合そうごうのドラマ『はなへんろだい4しんはなへんろ)で、前年ぜんねん死去しきょした渥美あつみきよしわってナレーターに起用きようされ(収録しゅうろく前記ぜんき休養きゅうようまえ)、ほかにも複数ふくすうのキャスト変更へんこうがあったことからその経緯けいい説明せつめいするためだい1冒頭ぼうとう遍路へんろ姿すがた登場とうじょうしている[79]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

芸能げいのう活動かつどう[編集へんしゅう]

結婚けっこんさいつまには「噺家はなしかつまになってほしい」とたのみ、弟子でしへの態度たいどでは見解けんかい対立たいりつしたこともあった(あまりしからないえだすずめたいし、つまきびしい修行しゅぎょうをした経験けいけんがあった)が、自身じしん落語らくごについてはつま意見いけんこととなえることはなく、「反応はんのうにしていた」[28]

春風亭小朝しゅんぷうていこあさとの対談たいだんで「自分じぶん落語らくごるのが一番いちばんきです。自分じぶんはなし一番いちばん面白おもしろいですからね。それはおそらく、ききてわたしと、えんじ(や)りわたしのセンスがっているからだとおもいます」とはなしており[80]自身じしん出演しゅつえんするビデオをわらいながら写真しゃしんのこされている[81]

初代しょだいかつらはるだん晩年ばんねんいたるまで意識いしきし、「もしだれ一人ひとりだけにわせてやるといわれたら、ぼくは初代しょだい引用いんようしゃちゅうはるだん)というおひとにはいちかい(お)うてみたいとおもうねん」という言葉ことばのこされている[82]

私生活しせいかつ[編集へんしゅう]

前記ぜんきとおり、私生活しせいかつでも稽古けいこかさなかったが、家庭かていでは子煩悩こぼんのう父親ちちおやで、長男ちょうなん回想かいそうでは1970年代ねんだいなかごろには、夕方ゆうがたともに銭湯せんとうかけ(内風呂うちぶろはあったがかよっていた)、そのあしパチンコっていた[83]。もうすこには、大阪おおさかまで長男ちょうなんして一緒いっしょ食事しょくじをし、タクシーで帰宅きたくしていた[83]

テレビは「あたまわるくする」という理由りゆうどもには1にち2あいだしかゆるさなかった[84]。せがまれて「いちにち1あいだ」という約束やくそく購入こうにゅうしたファミリーコンピュータには、「スーパーマリオブラザーズ」のみ自身じしん熱中ねっちゅうし、次男じなんとプレー時間じかんをめぐって口論こうろんするほどだった[84]次世代じせだいスーパーファミコンさいには「スーパーマリオカート」にハマり、自身じしんのベストタイムと対決たいけつできるゴーストシステムをたか評価ひょうかしていたという[85][出典しゅってん無効むこう]

新聞しんぶん記事きじを「ようできたつづものものだっせ」とべていた[86]。ただし、スポーツ報道ほうどうにはまった関心かんしんがなく、1985ねん11月2にちよる阪神はんしんタイガースはつ日本にっぽんシリーズ制覇せいは群衆ぐんしゅうまった梅田うめだ歩道橋ほどうきょうをタクシーからながめたさいには「ほんまに、ぎょうさんの人出ひとででんなあ」とべただけでその理由りゆう詮索せんさくすることもなく、同乗どうじょうしていたしょう佐田さた定雄さだおとの落語らくご談義だんぎ没頭ぼっとうしていた[86]

もの趣味しゅみは「しょうかつしょう」だった[87]結婚けっこん直後ちょくごつまにくって毎日まいにちのようにべ、半年はんとし痛風つうふう発症はっしょうした[87]洋食ようしょく熱中ねっちゅうして弟子でしかつらすずめまつげん3代目だいめかつらぶんすけ)に毎日まいにちざいてんかすいにかせたところ、あるてん主人しゅじんから「にいちゃんとこ、このか」とかれたという[87]きになったみせかよめた[87]

自筆じひつでの返書へんしょ」「日記にっき」「書道しょどう」「ミュージックソー」などに興味きょうみしめし、道具どうぐ購入こうにゅうしたが結局けっきょく使用しようしないままだった[87]。1985ねんごろには写真しゃしん撮影さつえいはじめたがつづかなかった[87]

りの使つかわれている陶器とうきかれ、家族かぞくれでやく20ねん窯元かまもとかよってつくった陶器とうきが3つのこされている[87]

弟子でし[編集へんしゅう]

えだすずめ一門いちもんぞくする弟子でしかつらおとふくめると9にんおと也と南光なんこう同着どうちゃく一番いちばん弟子でしとした。おと也はえだすずめよりも年上としうえでしかも大学だいがく先輩せんぱいたる人物じんぶつである。弟子でしにはネタを積極せっきょくてき伝授でんじゅし、いちれいとして南光なんこう時代じだいに20ものネタをけられている[88]。「落語らくごをしゃべるテクニック以外いがいのニュアンスがつたわる」という理由りゆうで、ほぼすべての弟子でし入門にゅうもんから2年間ねんかんみをさせる内弟子うちでし修行しゅぎょうした[89]まえ弟子でしから10ねん以上いじょうあいだいて最後さいご弟子でしとなったかつら紅雀べにすずめ当初とうしょがよいとしたが、まもなく内弟子うちでしわった[89]。ただし、かつら南光なんこう証言しょうげんでは紅雀べにすずめたいしては「一言ひとこといち稽古けいこける従来じゅうらいのスタイルをえ、おしえたとおえんじなくても「あのほうがおもしろいから」ととがめなかったという[90]

吉本よしもとしん喜劇きげきたかおみゆきは、弟子入でしいりを志願しがんするもえだすずめから「おんな落語らくごになれないとおもってます。落語らくごになりたいなら、おんな弟子でしほうのところにきなさい」とわれて断念だんねんし、えだすずめ没後ぼつご弟子でしいたほんに「もう1かい志願しがんに)たらるつもりだった」とかれていたことをってショックをけたとべている[91]

現在げんざい一門いちもんは「すずめ学校がっこう」とだい勉強べんきょうかい開催かいさいしている。

廃業はいぎょう[編集へんしゅう]

家族かぞく[編集へんしゅう]

  • おとうとマジカルたけし
    本名ほんみょう前田まえだ 武司たけし(まえだ たけし)。あにえだすずめとともにアマチュアとして『漫才まんざい教室きょうしつ』に出演しゅつえん奇術きじゅつまつあさひひとしたけし(しょうきょくさい たけし)をへて、のちに落語らくご奇術きじゅつ融合ゆうごうさせた「まじかる落語らくご」を標榜ひょうぼうして活動かつどうした[92]
  • 夫人ふじんかつらえだだい
    本名ほんみょう前田まえだ こころざしだい(まえだ しよこ)。浪曲ろうきょく漫才まんざいジョウサンズ」のメンバー・にち吉川よしかわ良子りょうこ(ひよしがわ よしこ)をへて、お囃子はやし三味線しゃみせん
  • 長男ちょうなんかつらりょうば(1972ねん3がつ3にち - )
    本名ほんみょう前田まえだ 一知かずとも(まえだ かずとも)。本名ほんみょう俳優はいゆう笑殺しょうさつ軍団ぐんだんリリパットアーミー所属しょぞく)およびドラマーとして活動かつどうグルグル映畫えいがかん、hate77とう)。2010ねんからアマチュア落語らくごはじめ、2015ねん8がつかつらざこばに入門にゅうもん。「かつらりょうば」の高座こうざめいあたえられた。2016ねん1がつ7にちどうらくていはつ高座こうざ[93]
  • 次男じなんCUTT(1977ねん3がつ17にち - )
    本名ほんみょう前田まえだ 一史かずし(まえだ かずひと)
    ミュージシャン(もとShameORCAのボーカルおよびギター担当たんとう)。

出演しゅつえん[編集へんしゅう]

<以下いかれき省略しょうりゃく>

テレビ[編集へんしゅう]

ラジオ[編集へんしゅう]

舞台ぶたい芝居しばい[編集へんしゅう]

  • 1986ねん9がつ3にち~27にち 東京とうきょう新橋しんばし演舞えんぶじょうで「好色こうしょくいちだいおとこ~おらんだ西鶴さいかく~」さく演出えんしゅつ早坂はやさかあきら
  • 1984ねん10がつ22にち~29にち 大阪おおさか一心寺いっしんじシアターで落語らくご芝居しばい変身へんしんさく演出えんしゅつ早坂はやさかあきら
  • 1996ねん3がつ20日はつか~22にち 東京とうきょう銀座ぎんざ中央ちゅうおう会館かいかん落語らくご芝居しばいおんな相撲すもう - ハワイだい巡業じゅんぎょうさく演出えんしゅつ早坂はやさかあきら

映画えいが[編集へんしゅう]

CD[編集へんしゅう]

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

  • わらいころげてたっぷりえだすずめ』レオ企画きかく1983ねん1がつ
  • まるくわらってらくごDEえだすずめPHP研究所けんきゅうじょ、1983ねん6がつ3にち
  • 桂枝雀かつらしじゃく おもしろ対談たいだん - “えだすずめ寄席よせ”より』(ぜん2しゅうあわ交社、1984ねん - 1990ねん
  • 桂枝雀かつらしじゃくと61にん仲間なかま徳間書店とくましょてん、1984ねん7がつ
    • 桂枝雀かつらしじゃくのらくご案内あんない えだすずめと61にん仲間なかま筑摩書房ちくましょぼう<ちくま文庫ぶんこ>、1996ねん12月
  • えだすずめのアクション英語えいご高座こうざ - 英語えいご落語らくごたのしんで英会話えいかいわにつくほん祥伝社しょうでんしゃ<祥伝社しょうでんしゃ新書しんしょ>、1988ねん7がつ
  • 桂枝雀かつらしじゃくのいけいけえだすずめいやよく』毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、1988ねん12月
  • えだすずめのトラベル英会話えいかいわ わらってOK』つくもとしゃ1990ねん6がつ
  • えだすずめとヨメはんとななにん弟子でし飛鳥新社あすかしんしゃ1990ねん10月
  • 上方かみがた落語らくご 桂枝雀かつらしじゃく爆笑ばくしょうコレクション』筑摩書房ちくましょぼう<ちくま文庫ぶんこ>(ぜん5しゅう)、2005ねん - 2006ねん4がつ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 入学にゅうがくは「兵庫ひょうごけん川辺かわべぐん神津こうづ国民こくみん学校がっこう」で、1947ねん3がつに「伊丹いたみ市立しりつ神津こうづ国民こくみん学校がっこうどう4がつに「伊丹いたみ市立しりつ神津こうづ小学校しょうがっこう」と改称かいしょうされた[5]
  2. ^ 当時とうじ伊丹いたみ市立しりつ高等こうとう学校がっこう全日ぜんじつせい定時ていじせい併設へいせつだった。その、1967ねん全日ぜんじつせい課程かてい伊丹いたみ市立しりつ伊丹いたみ高等こうとう学校がっこう改称かいしょうし、定時ていじせいのみの高校こうこうとなったが、2015ねん3がつかぎりで閉校へいこう兵庫ひょうご県立けんりつ阪神はんしん昆陽こや高等こうとう学校がっこう統合とうごう)となった。
  3. ^ 上田うえだ戸田とだでは、矢野やの文章ぶんしょう引用いんよう内容ないよう一部いちぶ相違そういがある。ここでは上田うえだによる引用いんようしるした。
  4. ^ アナウンサーだったかつらおとがべかこよりさき指導しどうけていたが弟子でしではなかった。またかつら南光なんこう回想かいそうでは、小米こごめいえかよしたときにはかつらけいという内弟子うちでしさきにいたものの、1969ねんあきごろ噺家はなしか断念だんねんして僧職そうしょくてんじたという[24]
  5. ^ 初代しょだいはるだんかかわった経験けいけんのある吉本興業よしもとこうぎょう会長かいちょうはやし正之助しょうのすけは、1990ねんえだすずめ高座こうざなんばグランド花月ぐらんどかげつ観覧かんらんしたさい面白おもしろい。はるだんにようてる」とべた[36]
  6. ^ べいちょう一門いちもんで『十八番じゅうはちばん』の連続れんぞく独演どくえんかいひらいたのはながらくべいちょうえだすずめのみ(ともに2かい)であったが[38]、2019ねん5がつかつら吉弥よしやが『吉弥よしや十八番じゅうはちばん』をサンケイホールの後身こうしんたるサンケイホールブリーゼ開催かいさいした[39]
  7. ^ 十三夜じゅうさんや』とばれる落語らくご口演こうえんは、通算つうさん13日間にちかんえんじるかたちで、2代目だいめかつらはるだんが1951ねん朝日放送あさひほうそうラジオけにはじめておこない、6代目だいめわらいぶくていまつづる(1979ねんと1984ねん)おこなった前例ぜんれいがあった[54]
  8. ^ かれによる初期しょき文書ぶんしょは、サンケイホールでの独演どくえんかいだいさんかい1978ねん)のプログラムじょうでなされている。「たのしいということは緊張きんちょう緩和かんわ適度てきど共存きょうぞんであります。・・・緊張きんちょうてば「しんどいなァ」となりますし、緩和かんわてば「くだらんなァ」となるのであります。・・・実際じっさいには緊張きんちょうすこったものをしとするおひとと、緩和かんわすこったものをしとするおひとがございますので、その塩梅あんばい(あんばい)がまことにむずかしいのでございます。」[62]
  9. ^ ほんさくえだすずめだい師匠ししょうたる4代目だいめかつらべいだんによる新作しんさく落語らくごである[66]。しかし師匠ししょうべいちょうは、3代目だいめかつらはるだんが「はるだん」を襲名しゅうめいする直前ちょくぜん、ネタの伝授でんじゅもとめるはるだん意気いきってほんさくつたえ、「自分じぶんはしばらくえんじない」とした経緯けいいがあった[67]
  10. ^ くるわ、op.cit.「わたし元来がんらい緊張きんちょうった落語らくごでございましたが、えだすずめ襲名しゅうめいにこれではいかぬ、すこ緩和かんわやさねばとおもち、具体ぐたいてきには落語らくごをわざと漫画まんがするということをこころみたのであります。」[69]。また桂米朝かつらべいちょうは「・・・強情ごうじょうなとこもあるんですわ。なんべんいうてやっても得心とくしんせなやらん(得心とくしんしないとしない(加筆かひつしゃ以下いか同様どうよう))。えだすずめになってからはこえ振幅しんぷく極端きょくたんおおきく、ていこえがきこえんので、ていこえでしゃべっているようにいえ(え)といってもなおさんと(なおさずに)、ねんもたってから得心とくしんしたのか工夫くふうしだしました。テレビの場合ばあい高座こうざときえろというてるんですが、もうひとつ納得なっとくしてないようですなあ。テレビはすぐアップにするから表情ひょうじょうやしぐさのオーバー倍加ばいかされますからなあ。・・・。」とする[70]
  11. ^ 桂枝雀かつらしじゃく爆笑ばくしょうコレクション 3』(ちくま文庫ぶんこ、2006ねん)のp.131にその姿すがたとらえた写真しゃしん掲載けいさいされている。
  12. ^ 1983ねん11月からの「しん・なにわの源蔵げんぞう事件じけんちょう」では主人公しゅじんこう芦屋あしや雁之助がんのすけ変更へんこうとなった

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]