(Translated by https://www.hiragana.jp/)
三波伸介 (初代) - Wikipedia コンテンツにスキップ

三波みなみ伸介しんすけ (初代しょだい)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
初代しょだい さんみなみ 伸介しんすけしんすけ
本名ほんみょう 澤登さわのぼりさわと 三郎さぶろうさぶろう
ニックネーム 三波みなみちゃん
リーダー
キャップ
生年月日せいねんがっぴ 1930ねん6月28にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1982-12-08) 1982ねん12月8にち(52さいぼつ
出身しゅっしん 東京とうきょう東京とうきょう本郷ほんごう
げん東京とうきょう文京ぶんきょう
言語げんご 日本語にほんご
方言ほうげん 標準ひょうじゅん
出身しゅっしん 劇団げきだんひがしわらわ
コンビめい てんぷく集団しゅうだん
トリオめい てんぷくトリオ
相方あいかた 伊東いとう四朗しろう(トリオ→集団しゅうだん
戸塚とつか睦夫むつお(1973ねんまで)
芸風げいふう コント
漫談まんだん
位置いち 中央ちゅうおう
事務所じむしょ 太田おおたプロダクション
→サワズ
活動かつどう時期じき 1940ねん - 1982ねん
過去かこ代表だいひょう番組ばんぐみ てなもんや三度笠さんどがさ
わらいてん
わらいオンステージ
スターどっきり(報告ほうこく
三波みなみ伸介しんすけ凸凹おうとつだい学校がっこう
作品さくひん ダメおやじ映画えいが
活動かつどう 俳優はいゆう司会しかいしゃ
配偶はいぐうしゃ 澤登さわのぼり和子かずこ
親族しんぞく 代目だいめ三波みなみ伸介しんすけ長男ちょうなん
弟子でし 代目だいめ三波みなみ伸介しんすけ
ホームラン・たにし
テンプレートを表示ひょうじ

三波みなみ 伸介しんすけ(みなみ しんすけ、本名ほんみょう澤登さわのぼり 三郎さぶろう〈さわと さぶろう〉、1930ねん昭和しょうわ5ねん6月28にち - 1982ねん昭和しょうわ57ねん12月8にち[1])は、日本にっぽんコメディアン俳優はいゆうテレビ司会しかいしゃタレント昭和しょうわ代表だいひょうするテレビスターのひとり。東京とうきょう東京とうきょう本郷ほんごうげん東京とうきょう文京ぶんきょう出身しゅっしん血液けつえきがたはBがた長男ちょうなん喜劇きげき役者やくしゃ代目だいめ三波みなみ伸介しんすけ

たりギャグは「びっくりしたなぁ、もう!」。

来歴らいれき人物じんぶつ

[編集へんしゅう]

てんぷくトリオ結成けっせいまで

[編集へんしゅう]

本郷ほんごう根津ねづにて5にん兄弟きょうだい三男さんなんとしてまれる。

ちち倉蔵くらぞう木挽こびきまちテイラーオーダーメイド紳士しんしふく店舗てんぽかま仕立したて工場こうじょう比較的ひかくてき裕福ゆうふく家庭かてい環境かんきょうそだつ。

杉並すぎなみだいいち尋常じんじょう小学校しょうがっこう1941ねん杉並すぎなみだいいち国民こくみん学校がっこう改称かいしょうげん杉並すぎなみ区立くりつ杉並すぎなみだいいち小学校しょうがっこう)に入学にゅうがく国民こくみん学校がっこう同期どうき一番いちばんなかかったのは、当時とうじ鉄道てつどうファンのち帝都ていと高速度こうそくど交通こうつう営団えいだん就職しゅうしょくして車両しゃりょう部長ぶちょうにもなったさとけいであった。さとでんさんとは同一どういつ学級がっきゅう(=クラス)になったこともあったうえに、いえ近所きんじょという関係かんけいであった。さんさとでん卒業そつぎょうべつ進路しんろあゆんだため30ねん以上いじょう音信いんしん不通ふつうであったが、1975ねん学校がっこう100ねんさいでの卒業生そつぎょうせいつどいで再会さいかいし、以後いごさん死去しきょまで二人ふたり交流こうりゅうつづいた。そのさいさんさとでんたいして「やっぱ鉄道てつどうになったか。おまえ鉄道てつどうきだったもんなぁ。」とこえけたが、これをいたさとでん小学生しょうがくせいころ鉄道てつどうファンだったことを鮮明せんめいおぼえていたことについて、さん記憶きおくりょくたかさにおどろいたむね自著じちょ車両しゃりょうつくるという仕事しごと - もと営団えいだん車両しゃりょう部長ぶちょうかた地下鉄ちかてつ発達はったつ』(交通こうつう新聞しんぶんしゃ。2014ねん4がつ15にち発売はつばい)でかたっていた。なお、どう著書ちょしょ記述きじゅつではさんのことを本名ほんみょう澤登さわのぼりくんび、さんさととが前後ぜんごうつっている写真しゃしんが1まいのみ掲載けいさいされている。

小学校しょうがっこう4年生ねんせいであった1940ねん児童じどう劇団げきだんひがしわらわ[注釈ちゅうしゃく 1]加入かにゅう芸能げいのう活動かつどう開始かいし

戦後せんご日本にっぽん大学だいがくだい高等こうとう学校がっこう卒業そつぎょう進学しんがくした日本にっぽん大学だいがく芸術げいじゅつ学部がくぶ映画えいが学科がっか中退ちゅうたいのち浅香あさか光代みつよ一座いちざ参加さんか。ここの座員ざいんには戸塚とつか睦夫むつお客演きゃくえんなどで玉川たまがわ良一りょういち出入でいりしていた。

その東洋とうよう興業こうぎょうけい劇場げきじょうはいり、ここの座員ざいん石井いしいひとしって加入かにゅうした戸塚とつか夜間やかんっていたキャバレーまわりの余興よきょう営業えいぎょう石井いしい都合つごうからわっていだ。

さん戸塚とつかコンビ」でよるはキャバレーステージ、昼間ひるま劇場げきじょう座付ざつき舞台ぶたい活動かつどうをしていたが突然とつぜん出奔しゅっぽん中座ちゅうざ大阪おおさか単身たんしんみ1年余ねんよ玉川たまがわ良一りょういちひがしけんじらとコント「おとぼけガイズ」を結成けっせいし、おも大阪おおさか劇場げきじょう出演しゅつえんしていた時期じきもある。

てんぷくトリオ

[編集へんしゅう]

「おとぼけガイズ」を解消かいしょう1961ねん東京とうきょう舞台ぶたい復帰ふっきし、さん個人こじんとして太田おおたプロダクション所属しょぞくする一方いっぽう、キャバレーの余興よきょう営業えいぎょう戸塚とつかとその劇団げきだん仲間なかまだった伊東いとう四朗しろうが「さん戸塚とつかコンビ」として継続けいぞくしていた[注釈ちゅうしゃく 2]。「(ニセ)三波みなみ伸介しんすけ[2]として馴染なじ人気にんきになっていた伊東いとうはずわけにはいかず[3][注釈ちゅうしゃく 3]、あらためて「本当ほんとう伊東いとう四朗しろう本物ほんもの三波みなみ伸介しんすけ本人ほんにん戸塚とつか睦夫むつお」とキャバレーの司会しかいしゃ自己じこ紹介しょうかいし「さん戸塚とつか伊東いとうトリオ」の3にん営業えいぎょう活動かつどう再開さいかいし、あるきっかけから「ぐうたらトリオ」に改名かいめいした。

わらいてん』で司会しかいしゃ

[編集へんしゅう]

1970ねん12月20にち日本にほんテレビわらいてん』の3代目だいめ司会しかいしゃ就任しゅうにん。そのきっかけは、同年どうねん2がつ8にちにてんぷくトリオとしてゲスト出演しゅつえんした札幌さっぽろ地方ちほう収録しゅうろくかいで、飛行機ひこうき欠航けっこうにより出演しゅつえんできなかった前田まえだ武彦たけひこ代役だいやくとして司会しかいつとめたこと。当時とうじはまだ司会しかい経験けいけんあさかったものの、元々もともと落語らくご造詣ぞうけいふかかったこともあり、落語らくごいたる相手あいて大喜だいぎ仕切しきり、このとき司会しかい好評こうひょうで、さん代目だいめ司会しかいしゃにすんなりおさまった[4]豪快ごうかい外見がいけんとは裏腹うらはら繊細せんさい研究けんきゅう熱心ねっしん台本だいほんながれをシミュレーションして収録しゅうろくのぞんでいた。大喜だいぎでは、立川談志たてかわだんし初代しょだい司会しかいしゃ時代じだいのナンセンスなブラックユーモアを主体しゅたいにしたいから、落語らくご丁々発止ちょうちょうはっしによるいに代表だいひょうされるようなかりやすいドタバタ路線ろせん変更へんこう家族かぞくたのしめるわらいにこだわり、番組ばんぐみ自体じたい人気にんきげたことはもちろん、自身じしんがピン芸人げいにんとしてブレイクするきっかけとなった。『わらいてんじゅうねん』ではさんを「わらいてん中興ちゅうこう」として位置付いちづけても異論いろんはないとしるされている[4]

1973ねん5月12にちさんわらいてん収録しゅうろくった矢先やさき戸塚とつか肝硬変かんこうへんのため42さい死去しきょさん戸塚とつか死去しきょり、ふかかなしみにおちいる。その戸塚とつか遺志いしのためにのこった伊東いとう2人ふたりで「てんぷく集団しゅうだん」と改名かいめい活動かつどうつづけた。

その「てんぷく」の活動かつどうおさえ、個人こじんでテレビや舞台ぶたい喜劇きげき俳優はいゆう司会しかいしゃとして活動かつどうNHK総合そうごうテレビわらいオンステージ』の「減点げんてんパパ(減点げんてんファミリー)」コーナーでは、毎回まいかいゲストの芸能人げいのうじん似顔絵にがおえをゲストの家族かぞくとおりにえがげ、みずから「阿佐谷あさがやセザンヌ」としょうした。

また、フジテレビ『よるのヒットスタジオ』の司会しかい1974ねん4がつから1976ねん3がつまでつとめたほか同局どうきょくスターどっきり()報告ほうこく』や毎日放送まいにちほうそうTBS伸介しんすけのがっちりショッピング』、東京とうきょう12チャンネル→テレビ東京てれびとうきょう三波みなみ伸介しんすけ凸凹おうとつだい学校がっこう』などの司会しかいつとめた。

晩年ばんねん突然とつぜん

[編集へんしゅう]

三波みなみ伸介しんすけ凸凹おうとつだい学校がっこう収録しゅうろく翌日よくじつ1982ねん12月8にち15ぎ、かりがちた自宅じたく居間いまたおれているのを、外出がいしゅつからもどってつま和子わこびとなみれん太郎たろう発見はっけん救急きゅうきゅうしゃ病院びょういんはこばれたがすで呼吸こきゅうしん停止ていし意識いしき不明ふめい状態じょうたいで、解離かいりせい大動脈だいどうみゃくこぶ破裂はれつにより、意識いしきもどらないまま急逝きゅうせいした。52さいぼつ

肥満ひまんたいであったことと、多忙たぼうのためおおでも3〜5あいだしか睡眠すいみんれず、タバコいちにち最低さいていでも3はこっていた。くなる2ヵ月かげつまえにあった名古屋なごや中日ちゅうにち劇場げきじょうでの座長ざちょう公演こうえんさいには、朝食ちょうしょくべず昼食ちゅうしょく味噌みそ煮込にこみうどん夕食ゆうしょくはホテルで300グラムのビーフステーキという生活せいかつを、1ヵ月かげつ公演こうえんちゅう毎日まいにちつづけたという。これについてさんのマネージャーは「健康けんこうのためにきらいなものをべるのもひとつのかた。でも、きなものを毎日まいにちべてあのくのもひとつのかた」とべている。その一方いっぽうさけ下戸げこいちてきまなかった。ビートたけしさん早世そうせいについて、わかころヒロポン注射ちゅうしゃしていたためではないかと指摘してきしている[5]

おおくのレギュラー番組ばんぐみかかえ、めい司会しかいしゃとして順風じゅんぷうまん芸能げいのう生活せいかつおくっていた矢先やさきだった。突然とつぜん訃報ふほうけつけた盟友めいゆう伊東いとうは、対面たいめん開口一番かいこういちばん「こりゃあウソだろう。てるんだろう!」とはっし、記者きしゃ会見かいけんで「(さん亡骸なきがらさわったときに)からだがまだあたたかいんですよ。あたたかいものだからんだがしなくて……。らば大樹たいじゅかげで、わたしなどはかれのおかげでここまでれた。(てんぷくトリオは)もう一人ひとりになってしまったんだなぁ……」といながらなみだした。さん亡骸なきがらかんおさめられるさいには、つま和子わこ長男ちょうなん伸一しんいち伊東いとうによって、くろ紋付もんつはかませられた。

テレビとそのおちゃあいだ人気にんきしゃ訃報ふほうマスコミ取材しゅざい活動かつどう過熱かねつしたが、関係かんけいしゃ遺族いぞくへの接触せっしょく遮断しゃだん和子わこいちだけすべてのマスコミ記者きしゃインタビューにおうじてち、「パパ(さん)はよくんだふりをして家族かぞくをからかうことがあったため、このときもしばらく『んだふりをしているのだろう』とおもっていたところ、様子ようすがおかしいのに気付きづいて救急きゅうきゅうしゃんだ(大意たいい)。」とかたり、その様子ようすワイドショー番組ばんぐみやニュースでかえ放送ほうそうされた。

後年こうねん時期じき不明ふめい)、「すぐ救急きゅうきゅうしゃんでいたらさんなせずにんだかもしれない」とやんでいたという[注釈ちゅうしゃく 4]

コメディアンや演芸えんげいじんには、仲間なかま自身じしん生涯しょうがいめくくる儀式ぎしきで、かなしみをやわらげるために不謹慎ふきんしん言動げんどうやわざわざ手段しゅだん遺言ゆいごんのこすなど不文ふぶんりつ慣習かんしゅう傾向けいこう一部いちぶにみられ、さんとはフランス時代じだいの「同僚どうりょう」で、一線いっせん退しりぞ家庭かていはいるまでなが芸歴げいれきとその交遊こうゆう関係かんけいきずき(後述こうじゅつ)、ふかつながりからこの発言はつげん事前じぜんかんがえて内容ないよう用意よういしたふしがあり、発言はつげんのなかで「さんはよくんだふりをして家族かぞくをからかうこと」は家族かぞくよろこぶイタズラ(サプライズのおくものなど)をよく仕掛しかけていたとされるさん信条しんじょうはんし、真偽しんぎさだかでない。

葬儀そうぎ告別こくべつしき12月11にち東京とうきょう中野なかの宝仙寺ほうせんじいとなまれ、葬儀そうぎ委員いいんちょう伊東いとうつとめた。葬儀そうぎには芸能げいのう放送ほうそう関係かんけいしゃやファンらやく1,600にん参列さんれつし、さん突然とつぜんいたんだ。弔辞ちょうじは『おわらいオンステージ』のチーフプロデューサーをつとめた増子ましこ正利まさとしらがみ、仕事しごと都合つごう参列さんれつできなかった中村なかむらメイコ事前じぜん対面たいめんし、ちょうかんに「てんぷく笑劇しょうげきじょう」の配役はいやくよう製作せいさくした指輪ゆびわ[注釈ちゅうしゃく 5]おさめ、しきには肉声にくせいテープが式場しきじょうないながされた。「参列さんれつできずごめんなさい。でも、きのメイコがにっこりわらって舞台ぶたいつとめます。(中略ちゅうりゃく大衆たいしゅうむすびついた喜劇きげきをまっしぐらにったあなた。日本にっぽんちゅうおおきなわらいをりまいたあなたに拍手はくしゅおくります。さようならはいません。おつかさまでした。」ときながらさん最後さいごのメッセージをかたつづけた。出棺しゅっかん遺体いたい東京とうきょう新宿しんじゅく落合おちあい斎場さいじょう荼毘だびされた。

戒名かいみょうは「ほどこせあかりいんふとししん三省みつよし居士こじ」。さんはか埼玉さいたまけん所沢ところざわの「所沢ところざわ聖地せいち霊園れいえん」に所在しょざいする。墓石はかいしには、さん座右ざゆうめいであった「喜劇きげきとはわらわすだけにあらず 三波みなみ伸介しんすけ」ときざまれている。

人気にんき絶頂ぜっちょう1982ねん12月急死きゅうししたため、事前じぜん収録しゅうろくされて翌年よくねん放送ほうそう予定よていであった正月しょうがつ番組ばんぐみでは「この番組ばんぐみは○がつにち収録しゅうろくしたものです」とのテロップがながれた。正月しょうがつ放送ほうそう予定よていだったドラマ『ザ・サスペンス 刑事けいじガモさん - さらばいとしきテニスつまよ』は、予定よてい変更へんこうして年末ねんまつの12月11にちげて放送ほうそうされた。

遺産いさん不動産ふどうさんのみであり、初代しょだい伸介しんすけ死後しご預金よきん通帳つうちょう遺族いぞく確認かくにんしたしょまったのこっていなかった。

エピソード

[編集へんしゅう]
  • さん代表だいひょうてきなギャグ「びっくりしたなぁ、もう」は、幼少ようしょう息子むすこであるのち代目だいめ三波みなみ伸介しんすけっていた言葉ことば。ある営業えいぎょうさきでマネしたさいきゃくにウケ、それから使つかはじめたというせつと、『大正たいしょうテレビ寄席よせはつ出演しゅつえん国定くにさだ忠治ただはるやく戸塚とつかがタイミングを間違まちがえて突然とつぜん抜刀ばっとうおどろいた伸介しんすけのとっさの一言ひとことだったというせつがある。
  • さんらがきずいた「トリオブーム」をおどかした後輩こうはいコント55ごう、とりわけ萩本はぎもと欽一きんいちとのあいだには長年ながねん不仲ふなかつたえられていた。しかし実際じっさいはおたが対抗たいこう意識いしきく、さん萩本はぎもと可愛かわい後輩こうはいとしてつねあたたかく見守みまもっていたという。さん生前せいぜん萩本はぎもと愛称あいしょうで「欽坊」とび、萩本はぎもとさんを「おにいさん」とんでしたっていた。急逝きゅうせい追悼ついとう番組ばんぐみとして放送ほうそうされた『三波みなみ伸介しんすけ凸凹おうとつだい学校がっこう最終さいしゅうかいでは、萩本はぎもと出演しゅつえん故人こじんしのぶコメントをのこしており、さんくなるわずか20あいだまえ収録しゅうろくされたVTRが放映ほうえいされた。
  • ザ・ドリフターズのリーダー・いかりや長介ちょうすけとも親交しんこうふかく、兄弟分きょうだいぶん間柄あいだがらであった(さんほうが1さいじょう)。いかりやの自伝じでん『だめだこりゃ』によると、いかりやは自分じぶん同年輩どうねんぱい仲間なかま周囲しゅういにほとんどおらず、コメディの世界せかいではさんだけが唯一ゆいいつ同年輩どうねんぱいで、しかもおな東京とうきょう下町したまちまれであったため、さんとは共通きょうつう話題わだいつことができてうれしかったという。
  • 実際じっさいさんがライバルしていたのは渥美あつみきよし藤山ふじやま寛美ひろみであり、とく渥美あつみたいしては敵意てきいをむきしにしていたとわれる。さん渥美あつみともおなストリップ小屋こやから軽演劇けいえんげきもの同士どうしであり、さん大阪おおさかからもど再起さいきしたころには渥美あつみすでにトリオコントから脱皮だっぴして一流いちりゅう芸能人げいのうじん仲間入なかまいりをしていたことや、またさんつま渥美あつみ旧知きゅうち間柄あいだがらであったことなども、さん一層いっそう敵対心てきたいしんいだかせた原因げんいんといわれる。
  • さん渥美あつみ敵視てきしするようになったきっかけは、おな舞台ぶたい役者やくしゃであったつま和子わこ結婚けっこんまえ新橋しんばしでデートしているところ渥美あつみ遭遇そうぐう渥美あつみさん無視むししてつまはなみ、さいに「おれさきってってるからな、おまえはぼちぼちいよ」とつぶやかれたからであると、息子むすこ伸一しんいち証言しょうげんしている。渥美あつみ当時とうじにちげきばれて一流いちりゅう芸人げいにん仲間入なかまいりをたした時期じきであり、さんっていた新聞しんぶん地面じめんたたけてくやしがったという。さん息子むすこ渥美あつみ藤山ふじやま寛美ひろみのビデオをせて、自分じぶんとどっちが面白おもしろいかをたずねるなど、終生しゅうせいライバルしていたが、同時どうじに『おとこはつらいよ』の映画えいが全部ぜんぶており、おどろくほどこまかいところまで観察かんさつしていた。テレビなどでは披露ひろうされなかったが、渥美あつみ物真似ものまね上手うまく、芸人げいにんとしての力量りきりょうみとめていたからこそのライバルであったことがうかがわれる。1977ねん公開こうかいされた松竹しょうちく映画えいが幸福こうふく黄色きいろいハンカチ』(山田やまだ洋次ようじ監督かんとく高倉たかくらけん主演しゅえん)で渥美あつみえんじた渡辺わたなべ係長かかりちょうやくを、1982ねん菅原すがわら文太ぶんた主演しゅえんテレビドラマでリメイクされたさいさんがこのやくえんじている。
  • さんは50さいになったころからテレビでの活動かつどうらし、舞台ぶたいでの活動かつどうちからそそはじめていた。好評こうひょうだったNHK『おわらいオンステージ』が10ねん区切くぎりとして1982ねん4がつ4にち放送ほうそうぶん終了しゅうりょう。そのコーナーのひとつだったてんぷく笑劇しょうげきじょうもとに、舞台ぶたい心機一転しんきいってんはかったともされるが[注釈ちゅうしゃく 6]、その目標もくひょう自身じしんによりこころざしなかばでたれることとなった。
  • よるのヒットスタジオ』の2代目だいめ司会しかいしゃとなったさい当時とうじのスタッフがさん期待きたいしたのはいわゆるコメディリリーフとしての役割やくわりであり、当初とうしょ司会しかい進行しんこうにはあまりかかわっていなかったが、朝丘あさおか雪路ゆきじ降板こうばん進行しんこうにも本格ほんかくてき参加さんかするようになった。さん毎週まいしゅう本番ほんばん前日ぜんじつかならふくすうちゃく新調しんちょうしてこの番組ばんぐみのぞむようにこころがけていたとつたえられている。このエピソードから構成こうせいつとめていた塚田つかだしげるは「三波みなみさんには三枚目さんまいめ役割やくわり期待きたいしたが、どうしても二枚目にまいめになってしまう」と当時とうじ司会しかいぶりを回顧かいこしている。前任ぜんにんのフリートーク・知的ちてき毒舌どくぜつりとした前田まえだ武彦たけひこ後任こうにんのエンターテイナーぶりを徹底てっていしていた井上いのうえじゅんあいださん司会しかいぶりは埋没まいぼつされたが、前任ぜんにん前田まえだこした「共産党きょうさんとうバンザイ事件じけん」(くわしくは『よるのヒットスタジオ』「前田まえだ武彦たけひこ」の項目こうもく参照さんしょうのこと)によるダメージから比較的ひかくてきはや段階だんかい軌道きどう修正しゅうせい成功せいこうした。どう番組ばんぐみさんとも司会しかいつとめた芳村よしむら真理まり番組ばんぐみ勇退ゆうたいをするさい特番とくばん1988ねん2がつ)では前田まえだ井上いのうえ古舘ふるたち伊知郎いちろうさん以外いがい芳村よしむらとも司会しかいつとめた3にん出演しゅつえんして各々おのおののコンビ時代じだいかえるコーナーがあったが、さんすで故人こじんだったため、伊東いとう四朗しろうさん司会しかい時代じだいのパートで芳村よしむらともにしている。
  • 生前せいぜんミニカーライター絵画かいが造詣ぞうけいっており、三波みなみ伸介しんすけ一門いちもん運営うんえいしている「三波みなみ伸介しんすけ記念きねんかん」のホームページで形見かたみ所蔵しょぞうひんとして公開こうかいしている。
  • 上記じょうきのように絵画かいが似顔絵にがおえ特技とくぎであり、『おわらいオンステージ』の「減点げんてんパパ(減点げんてんファミリー)」コーナーでもこれがかされていた。ある伸一しんいち(2代目だいめ伸介しんすけ)と一緒いっしょ新幹線しんかんせんっていたとき一人ひとりのおばあさんがにんまえち、サインでもしいのかとおもったら「わたし記憶きおくたしかなうちに主人しゅじん似顔絵にがおええがいてしい」ということだった。このおばあさんのおっと太平洋戦争たいへいようせんそうなか出征しゅっせいして戦死せんし自分じぶん東京とうきょうだい空襲くうしゅういえかれておっと写真しゃしんすべ焼失しょうしつおっと肖像しょうぞう自分じぶん記憶きおくなかにしかないという状態じょうたいだった。そしてさん似顔絵にがおええがげると、おばあさんは「これが主人しゅじんです」と感激かんげきし、似顔絵にがおえきしめて号泣ごうきゅうしたという[6]
  • スポーツマニアとしても有名ゆうめいで、とく都市とし対抗たいこう野球やきゅう大会たいかいはほぼ毎年まいとし観戦かんせんしており、伸一しんいち(2代目だいめ伸介しんすけ)によると、熱海あたみへの温泉おんせん合宿がっしゅく旅行りょこうとともにさん澤登さわのぼり)の夏休なつやすみの恒例こうれい行事ぎょうじだったという[7][8]
  • つまとのあいだには伸一しんいちあねたるむすめもいたが、1963ねん6がつ生後せいごわずかいちにちくなっている[9]
  • 飛行機ひこうき苦手にがてだった[10]
  • 息子むすこ伸一しんいちが「2代目だいめ三波みなみ伸介しんすけ」をぐべきという意見いけんかく方面ほうめんからがったことや、生前せいぜん伸介しんすけ自身じしん死後しご伸一しんいちが2代目だいめぐことを希望きぼうしていた経緯けいいもあり、2009ねんじゅうなな回忌かいき襲名しゅうめいおこなわれることとなった。2009ねん12月8にちだい三波みなみ伸介しんすけ襲名しゅうめい披露ひろうパーティーが東京とうきょうドームホテル[注釈ちゅうしゃく 7]にておこなわれた[11][12]

わらいてん時代じだいでのエピソード

[編集へんしゅう]
  • 前述ぜんじゅつとおり、『わらいてん』でのはつ司会しかい1970ねん2がつ8にち放送ほうそうかいであり、このかい北海道ほっかいどう収録しゅうろく実施じっしされたが収録しゅうろく当日とうじつ飛行機ひこうき欠航けっこうにより当時とうじ司会しかいしゃであった前田まえだ急遽きゅうきょ休演きゅうえんした。この伊東いとう四朗しろう戸塚とつか睦夫むつおともてんぷくトリオ演芸えんげいゲストとしてたまたま収録しゅうろく参加さんかしており、当時とうじはまだ司会しかい経験けいけんあさかったが、落語らくご元々もともと造詣ぞうけいふかかったこともあり急遽きゅうきょ代理だいり司会しかい担当たんとうしたところその進行しんこうぶりが好評こうひょうであったことから3代目だいめ司会しかいしゃとして白羽しらはった。また、このかい伊東いとう戸塚とつか座布団ざぶとんはこびとして大喜だいぎとぎ部分ぶぶん収録しゅうろくにも参加さんかしている。
  • 豪快ごうかい外見がいけんとは裏腹うらはら繊細せんさい研究けんきゅう熱心ねっしんであり、台本だいほんながれをシミュレーションして毎回まいかい収録しゅうろくのぞんでおり、大喜だいぎでは、初代しょだい司会しかいしゃであった立川談志たてかわだんし時代じだいのナンセンスなブラックユーモアを主体しゅたいにしたいから、落語らくご丁々発止ちょうちょうはっしによるいに代表だいひょうされるようなかりやすいドタバタ路線ろせん変更へんこうしたところ、家族かぞくたのしめるわらいにこだわり、番組ばんぐみ自体じたい人気にんきげたことはもちろん、自身じしんがピン芸人げいにんめい司会しかいしゃとしてブレイクするきっかけとなった。
  • わらいてん司会しかいしゃ当時とうじ、レギュラー出演しゅつえんしゃ桂歌丸かつらうたまるさんゆうていしょうえんゆう大喜だいぎにおける罵倒ばとう合戦かっせん激化げきかしたため、2人ふたりの「和解わかいしき」を提案ていあんさん当時とうじ大喜だいぎとぎメンバーのリーダーかくであった5代目だいめ三遊亭圓楽さんゆうていえんらく立会たちあいじんとなり、1972ねん8がつ27にち放送ほうそうなか実際じっさいおこなわれた。
  • 親分おやぶんはだ性格せいかくで、てんぷくトリオや『わらいてん』メンバーらをまとめる統率とうそつりょく非常ひじょうすぐれており、歌丸うたまるしょうえんゆうののしごういをはじめ、林家はやしや久蔵きゅうぞうげんひさおうぎ)の「いやんばか〜ん」、林家はやしやこんたいらの「チャラーン!」などの定番ていばんネタは、さんのリードで名物めいぶつになったものである。三波みなみ自身じしんもしばし「ぶた」などその容姿ようし回答かいとうのネタにされることもおおく、いわゆる司会しかいしゃイジりを定着ていちゃくさせたのもこのころからである。また、座布団ざぶとんはこびの松崎まつざきしん紹介しょうかいするときの「りくがったトドの死体したい」「うしのよだれ」といったフレーズはかたぐさになっている[4][注釈ちゅうしゃく 8]
  • 現在げんざいのように司会しかいしゃがオープニングで客席きゃくせきすわって挨拶あいさつするスタイルを最初さいしょれたのはさんであり、「『わらいてん』のかおとして、お客様きゃくさまなかはいいち体感たいかんちたい」とのかんがえからはじめたとわれる。なお、さん司会しかい当時とうじちかくにすわ観客かんきゃくにインタビューすることもおおく、観客かんきゃくとのやりりが番組ばんぐみ名物めいぶつひとつとなっていた。
  • なまもの苦手にがてで、香川かがわロケで当地とうち一番いちばんといわれる料亭りょうてい招待しょうたいされたさいには、された白魚しらうお刺身さしみ同行どうこうしていたマネージャーにどんどんすすめて自分じぶんぶんまでべてもらい、雰囲気ふんいきこわさないようっていたという。
  • わらいてん』とおな日本にほんテレビ製作せいさく当時とうじ正月しょうがつ放送ほうそうされていた『番組ばんぐみ対抗たいこうかくしげい大会たいかい』には1983ねんわらいてんチームで参加さんか予定よていで、くなる4にちまえ12月4にちさん参加さんかして演目えんもく収録しゅうろくおこなわれたが、死去しきょともないエントリーをめた。そのものは『カルメン』であり、しくも心臓しんぞうさえながら最期さいごむかえるやくえんじていた[4]。この模様もようはエントリーの辞退じたいともないおぞうりとなっていたが、さん死去しきょからやく23ねん経過けいかした2005ねん11月23にち発売はつばいの「わらいてん だい博覧はくらんかい DVD-BOX」に収録しゅうろくされ、このときはじめて公開こうかいされた。
  • さん急死きゅうしともない、前述ぜんじゅつした『かくしげい大会たいかい』のエントリーめなど様々さまざま対応たいおうわれたが、1983年版ねんばんわらいてんカレンダーについてはすでに発売はつばいされ、回収かいしゅう不可能ふかのうであったためさん文字もじのこっており、前年ぜんねんよりもきがびたという。
  • さん急死きゅうし時点じてんで、1982ねん年内ねんない放送ほうそう3ほんぶん(12月12にち・19にち・26にち放送ほうそうぶん)はすでに収録しゅうろくえ、OAちとなっていたが[注釈ちゅうしゃく 9]急死きゅうし直後ちょくごかいである12月12にち放送ほうそうぶん冒頭ぼうとう挨拶あいさつなど一部いちぶえて、こんひら進行しんこうのもとのこったメンバーでさん追悼ついとう特集とくしゅう放送ほうそうし、それ以降いこう収録しゅうろくのテロップきで予定よていどお放送ほうそう三波みなみ死去しきょ時点じてん収録しゅうろくとなっていた1983ねん1がつ2にち放送ほうそう新春しんしゅんSPについては愛川あいかわ欽也きんや林家はやしやこんたいらがそれぞれ代理だいり司会しかいつとめてり、新年しんねんほん放送ほうそう1かいとなる1がつ9にち放送ほうそうぶんからは1977ねん3がつ27にち番組ばんぐみ卒業そつぎょうしていた5代目だいめ三遊亭圓楽さんゆうていえんらくが4代目だいめ司会しかいしゃ就任しゅうにんした。圓楽えんらく当初とうしょは2かいだけの臨時りんじ司会しかいのつもりで司会しかいけていたことを後日ごじつかしており、司会しかいしゃ候補こうほにはえんたのし以外いがい多数たすうがっていたことものちあきらかとなっている。その圓楽えんらく2006ねん5月14にち放送ほうそう番組ばんぐみ降板こうばんするまで歴代れきだい最長さいちょうとなる23ねんわた司会しかいつとめた。この記録きろく現在げんざいやぶられていない。

弟子でし

[編集へんしゅう]

直弟子じきでし

[編集へんしゅう]

孫弟子まごでし

[編集へんしゅう]

代目だいめ三波みなみ伸介しんすけ弟子でし

音楽おんがく作品さくひん

[編集へんしゅう]

シングル

[編集へんしゅう]

テレビ出演しゅつえん

[編集へんしゅう]

バラエティ

[編集へんしゅう]
NHK
日本にほんテレビ
TBS
フジテレビ
NET→テレビ朝日てれびあさひ
東京とうきょう12チャンネル→テレビ東京てれびとうきょう

音楽おんがく番組ばんぐみ

[編集へんしゅう]

ほか

ほか

映画えいが

[編集へんしゅう]

ほか

ドキュメント番組ばんぐみ

[編集へんしゅう]

文献ぶんけん

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ 東宝とうほう傘下さんか初井はついげんさかえらが在籍ざいせきしていた。
  2. ^ 石井いしい時代じだいからキャバレーとはある芸能げいのう事務所じむしょ仲介ちゅうかいしていたため、さん失踪しっそうかく意図いとがあった。これ以前いぜんにも度々どどさん代役だいやく伊東いとうつとめている。
  3. ^ 石井いしいひとし一座いちざ解散かいさんさん復帰ふっき時期じきについては資料しりょうによってちがいがられ、西条さいじょうのぼるわらいでん三波みなみ伸介しんすけ―びっくりしたなあ、もう』では一座いちざ解散かいさんにコンビからてんじたトリオに復帰ふっきとしている。
  4. ^ ただし、息子むすこの2代目だいめ三波みなみ伸介しんすけはこのせつ否定ひていしている。以下いか喜劇きげき役者やくしゃ代目だいめ三波みなみ伸介しんすけオフィシャルブログ」の「はははなし その11」より引用いんよう(2012-6-14閲覧えつらん)(引用いんよう開始かいし)「そんなわけないでしょう!!//イタズラと本当ほんとうたおれているのはあきらかにちがいます!/はははすぐにづきましたよ!/すぐに救急きゅうきゅうしゃ手配てはいもしてます。/たしかにははは/「わたしがいればかった!パパを一人ひとりにするんじゃかった!パパを一人ひとりなせたこと生涯しょうがい背負せおっていく!」/とさけんでいました。/しかし複数ふくすう医師いし判断はんだんは/「発作ほっさきてじゅうすうびょう意識いしきうしなっています。/たと医師いしよこてもたすけるのはむずかしい。奥様おくさま、ご自分じぶんめないように」とのことです。/はは名誉めいよためしるしました。」(引用いんよう終了しゅうりょう)
  5. ^ 大抵たいてい中村なかむらメイコの役名やくめい本名ほんみょうである(神津こうづがつで、おおむさん中村なかむら夫婦ふうふやくだったが、あるときにはよめしゅうと、またあるときにはおさななじみなどいくつかの設定せっていがあった。
  6. ^ 当時とうじ芸能げいのうかいにおいて喜劇きげき役者やくしゃ代表だいひょうは、映画えいが渥美あつみきよし舞台ぶたい藤山ふじやま寛美ひろみ、そしてテレビのさんすのが通例つうれいであり、さんはテレビでの成功せいこうおさめたのち今度こんど渥美あつみ藤山ふじやまのライバルとしてかれらとおな舞台ぶたいきそうことをあらたな目標もくひょうにしていたともわれる。
  7. ^ わらいてん』の収録しゅうろく会場かいじょうである後楽園こうらくえんホールちかくにある。
  8. ^ なお、座布団ざぶとんはこびにたいする紹介しょうかいキャッチフレーズは5代目だいめ圓楽えんらく司会しかい一旦いったん廃止はいしされたが歌丸うたまる司会しかい就任しゅうにん復活ふっかつした。
  9. ^ 12月12にち・19にち放送ほうそうぶん同年どうねん10がつ30にちに、26にち放送ほうそうぶん死去しきょ4にちまえの12月4にち収録しゅうろくされており、同日どうじつには1983ねん正月しょうがつ放送ほうそうの『番組ばんぐみ対抗たいこうかくしげい大会たいかい』にエントリーする予定よていだった演目えんもく『カルメン』の収録しゅうろくおこなわれている。
  10. ^ 放送ほうそう当時とうじいわゆる「腸捻転ちょうねんてん解消かいしょうまえであったためTBS系列けいれつであった。
  11. ^ 1973ねん4がつ-1974ねん3がつ戸塚とつか睦夫むつお(1973ねん5がつ12にち死去しきょ)・伊東いとう四朗しろう共演きょうえん。1975ねん10がつ-1976ねん9がつケイ・アンナ共演きょうえん
  12. ^ BSわらいてんドラマスペシャル』(BSにっテレ)でもおなじくさんやく出演しゅつえんしている。

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ 初代しょだい三波みなみ伸介しんすけ履歴りれきしょ 三波みなみ伸介しんすけ記念きねんかん
  2. ^ 「にせ三波みなみ伸介しんすけ」という表記ひょうき伊東いとう四朗しろうちょ『このかおわるいか』や伊東いとう本人ほんにんとのインタヴューにる。
  3. ^ 西条さいじょうのぼるわらいでん三波みなみ伸介しんすけ―びっくりしたなあ、もう』2000ねん風塵ふうじんしゃ、58ぺーじから引用いんよう「(さんは)『ここで伊東いとうをクビにするのはなにだから、さんにんでやろうか。』(伊東いとう述懐じゅっかい証言しょうげんから)」。営業えいぎょうさき馴染なじ人気にんきになっていた伊東いとうはずわけにはいかなかった事情じじょうがあった。
  4. ^ a b c d ぴあMOOK『わらいてんねん 1966-2016』109ページ
  5. ^ 芸人げいにんヤクちゅう暴露ばくろ立川談志たてかわだんしかくせいざい逮捕たいほ見抜みぬいていた!? zakzak 2010ねん8がつ19にち
  6. ^ 悲劇ひげき喜劇きげき早川書房はやかわしょぼう)2009ねん1がつごう p.36 - 39「特集とくしゅう喜劇きげき『びっくりしたなぁ、もう! ―わがちち三波みなみ伸介しんすけのこと― 三波みなみ伸一しんいち』」より。
  7. ^ 2代目だいめ三波みなみ伸介しんすけ (2016ねん3がつ27にち). 代目だいめ三波みなみ伸介しんすけ減点げんてん小僧こぞうちち衝撃しょうげき告白こくはく究極きゅうきょく悪役あくやく」と内通ないつう?”. デイリースポーツ. 神戸新聞社こうべしんぶんしゃ. https://origin.daily.co.jp/gossip/minamishinsuke/2016/03/27/0008942125.shtml 2021ねん9がつ12にち閲覧えつらん 
  8. ^ 2代目だいめ三波みなみ伸介しんすけ. “わたし喜劇きげき人生じんせい-2(コメディ・ライフ)”. 代目だいめ三波みなみ伸介しんすけ Official Website. 2021ねん9がつ12にち閲覧えつらん
  9. ^ 『パパ、しあわせをたくさんたくさんありがとう』(澤登さわのぼり和子かずこちょ二見ふたみ書房しょぼう) p.76 - 82
  10. ^ 『パパ、しあわせをたくさんたくさんありがとう』 p.211
  11. ^ 2代目だいめ三波みなみ伸介しんすけ、8にち襲名しゅうめい 45さい息子むすこおもいをぐ」 - 朝日新聞あさひしんぶん、2009ねん12月7にち
  12. ^ 27ねんぶり2代目だいめ三波みなみ伸介しんすけ誕生たんじょうあたらしい東京とうきょう喜劇きげき目指めざす」 - にっテレNEWS24、2009ねん12月8にち
  13. ^ a b 『おわらいスター誕生たんじょう!!』名鑑めいかん【な】
  14. ^ a b c d さん一門いちもん情報じょうほう - 代目だいめ三波みなみ伸介しんすけホームページ
  15. ^ アンデルセン物語ものがたり”. メディア芸術げいじゅつデータベース. 2016ねん10がつ29にち閲覧えつらん
  16. ^ おどろきももの20世紀せいき放送ほうそう一覧いちらん

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]