(Translated by https://www.hiragana.jp/)
笑福亭松之助 - Wikipedia コンテンツにスキップ

わらいぶくてい松之助まつのすけ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
代目だいめ わらいぶくていしょうふくてい 松之助まつのすけまつのすけ
二代目 笑福亭(しょうふくてい) 松之助(まつのすけ)
1955ねん正月しょうがつ、「宝塚たからづか若手わかて落語らくごかい
前列ぜんれつひだりから2人ふたり松之助まつのすけ[注釈ちゅうしゃく 1]
本名ほんみょう 明石あかしあかし 徳三とくぞうとくぞう
生年月日せいねんがっぴ 1925ねん8がつ6にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (2019-02-22) 2019ねん2がつ22にち(93さいぼつ
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん兵庫ひょうごけん神戸こうべみなと西にし[2]
死没しぼつ 日本の旗 日本にっぽん兵庫ひょうごけん西宮にしのみや
師匠ししょう 五代目笑福亭松鶴
弟子でし 明石家あかしやさんま
明石家あかしやのんき
囃子ばやし 新曲しんきょく浦島うらしま[3]
活動かつどう期間きかん 1948ねん - 2019ねん
活動かつどう内容ないよう 上方かみがた落語らくご
軽演劇けいえんげき俳優はいゆう脚本きゃくほん
家族かぞく 明石家あかしやのんき長男ちょうなん
パーポ明石あかし次男じなん
所属しょぞく 吉本興業よしもとこうぎょう[2]
公式こうしきサイト プロフィール
おも作品さくひん
『テレビアラカルト』[4]
受賞じゅしょうれき
1999ねん 大阪おおさか市民しみん表彰ひょうしょう文化ぶんか功労こうろう
日本にっぽんマスターズ水泳すいえい協会きょうかいたん水路すいろ大阪おおさか大会たいかい100m自由形じゆうがた1
1994ねん 日本にっぽんマスターズ水泳すいえい協会きょうかいたん水路すいろ大阪おおさか大会たいかい200m自由形じゆうがた1
2010ねん ベストスイマーしょう[5]
2020ねん 上方かみがた演芸えんげい殿堂でんどう
備考びこう
上方かみがた落語らくご協会きょうかい会員かいいん(1957ねん - 退会たいかい時期じきしょう

代目だいめ わらいぶくてい 松之助まつのすけ(しょうふくてい まつのすけ、本名ほんみょう明石あかし 徳三とくぞう(あかし とくぞう)[6][7]1925ねん大正たいしょう14ねん8がつ6にち[2][8][6] - 2019ねん平成へいせい31ねん2がつ22にち[9][10][11][12])は、日本にっぽん落語らくご

喜劇きげき俳優はいゆうげき作家さっかとしても活動かつどうした。

概要がいよう[編集へんしゅう]

タレントの明石家あかしやさんま師匠ししょうとして一般いっぱんてきられている。落語らくごとしては関西かんさい拠点きょてん上方かみがた落語らくごえんじ、寄席よせえんじられる軽演劇けいえんげき俳優はいゆうげき作家さっかとしてもなが活動かつどうしていた。所属しょぞく事務所じむしょ吉本興業よしもとこうぎょう(1959ねん4がつ - 1961ねん3がつ、1967ねん3がつ[8] - 、所属しょぞくれき後述こうじゅつ)。

2000年代ねんだいには死去しきょいたるまで、上方かみがた芸能げいのうかいにおける最年長さいねんちょう落語らくごであった[13][注釈ちゅうしゃく 2]

愛称あいしょうは「まつちゃん(まっちゃん)」[14]血液けつえきがたABがた[6][2]おっちゃんVSギャルひとしのバラエティクイズ番組ばんぐみ出演しゅつえんしたときには「マッピー」という愛称あいしょうがつけられたこともあった。

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

[編集へんしゅう]

兵庫ひょうごけん神戸こうべみなと西にし(のちの兵庫ひょうご)で、ちち徳松とくまつ(とくまつ)とはは・ちょうのあいだに、長男ちょうなんとしてまれる[8][2]父親ちちおや大阪おおさか出身しゅっしん建築けんちく関係かんけい職人しょくにんだった[15]。かつてのインタビューしゅうでは、ぞくに「手伝てつだしょく(てったいしょく)」とばれる建築けんちく作業さぎょう補助ほじょてき部分ぶぶん担当たんとうする職人しょくにん[16][17]かたったが、晩年ばんねん自伝じでんでは父親ちちおや左官さかん道路どうろ舗装ほそうだけでなく、建物たてもの移築いちく解体かいたい請負うけおいにもたずさわったとかしている[15]母親ははおや兵庫ひょうごけん印南いなみぐん曽根そねまちげん高砂たかさご)の商家しょうか出身しゅっしんで、徳三とくぞうまれた時点じてんでは店舗てんぽ髪結かみゆだった[18][19][20]生家せいか湊川みなとがわ神社じんじゃ西側にしがわ有馬ありまみち多聞たもんとおる交差点こうさてん付近ふきん[21]繁華はんかがい新開地しんかいちが「はなさき[17]」にあった。

徳三とくぞうおさなころから芸能げいのうきのははれられ、新開地しんかいち寄席よせ芝居しばい小屋こや[18][19]映画えいがかん[22]とおった。演芸えんげいではとく奇術きじゅつこのんだ[23]ほか、漫才まんざいでは横山よこやまエンタツ花菱はなびしアチャコにあこがれた[24]たちばな尋常じんじょう小学校しょうがっこう1、2年生ねんせいころ同級生どうきゅうせいいえ大量たいりょうにあった初代しょだいかつらはるだんのレコードをかせてもらったのが、落語らくご面白おもしろさをるきっかけだったという[25]。また「かいのいえのおばさん」に雑誌ざっしキング』をり、連載れんさいされていた落語らくご速記そっきみふけった[22]同誌どうし掲載けいさいされた柳家やなぎやかねろう新作しんさく落語らくご夜明よあけかね』をクラスメイトのまええんじたという[26]。その一方いっぽう仕事しごとがせたがった父親ちちおやに、小学校しょうがっこう入学にゅうがくまえから建設けんせつ現場げんばれてかれ、さまざまな建築けんちく作業さぎょう仕込しこまれた[15]両親りょうしん熱心ねっしん浄土真宗じょうどしんしゅう信徒しんとであり、生家せいかにほどちか神戸こうべ布教ふきょうしょ日曜にちよう学校がっこうかよわされた[15]

尋常じんじょう高等こうとう小学校しょうがっこう卒業そつぎょうした1940ねんの4がつ[8]徳三とくぞう校長こうちょう推薦すいせんにより[27]養成ようせいこうとして[注釈ちゅうしゃく 3]三菱電機みつびしでんき神戸こうべ製作所せいさくしょはいると、戦争せんそう激化げきかしつつあったため就職しゅうしょく同時どうじ徴用ちょうようこうあつか[28]になり[注釈ちゅうしゃく 4]、また同社どうしゃ幹部かんぶ養成ようせい施設しせつであった神戸こうべ三菱電機みつびしでんき青年せいねん学校がっこう学籍がくせきた(中等ちゅうとう学校がっこう相当そうとう[28])。当初とうしょ潜水艦せんすいかん工場こうじょう設計せっけい配属はいぞくされ、うつし図工ずこう(トレーサー)として設計せっけい作成さくせい従事じゅうじしていた[28]が、すぐに製造せいぞう現場げんば配置はいちえされた。「不良ふりょう」の徳三とくぞう規則きそくしばられるのを徹底的てっていてききら[30]規則きそく丸刈まるがにせず長髪ちょうはつとお[30]工場こうじょうではつね仕事しごとをサボって倉庫そうこていた[28]ほか、青年せいねん学校がっこう軍事ぐんじ教練きょうれん授業じゅぎょう毎回まいかい病気びょうき理由りゆう見学けんがくしていたという[30]

17さいのときに父親ちちおや死去しきょ[31]徳三とくぞう家計かけいささえるため、「反戦はんせん医者いしゃ[31]」から「肺浸潤はいしんじゅん」とのうそ診断しんだんしょいてもらって長期ちょうき休職きゅうしょくし、健康けんこう保険ほけん組合くみあいから日給にっきゅう7わり相当そうとう療病りょうびょう手当てあて受給じゅきゅうしながら[31]アルバイトをはじめると、「ニュースかん」とばれたニュース映画えいがせんもん映画えいがかん映写えいしゃフィルムを自転車じてんしゃはこんだ[28] [31]。あるとき徳三とくぞうをニュースかんさそった友人ゆうじんから「余興よきょう」(よきょうや[注釈ちゅうしゃく 5])のアルバイトを紹介しょうかいされた[32]。このころ徳三とくぞう奇術きじゅつ本格ほんかくてき熱中ねっちゅうしており、その余興よきょう社長しゃちょうから奇術きじゅつジャグラーいち一陽いちようときいち)に紹介しょうかいけかけたが、空襲くうしゅう激化げきかのため弟子入でしいりのはなしえになった[33][32]。このころこのみせ経営けいえいしたこともあるという[34]

また徳三とくぞう徴兵ちょうへい検査けんさけたが、みぎみみ難聴なんちょう発覚はっかくしたために即時そくじ入隊にゅうたいまぬかれた[35]難聴なんちょうのほかは健康けんこうであったが、予備よびやく合格ごうかくしゃ出兵しゅっぺいはじまっても、終戦しゅうせんにいたるまで「どういうわけか、召集令状しょうしゅうれいじょうがこなんだ(引用いんようちゅうなかった)[32]」という。1945ねん3がつ17にち神戸大こうべだい空襲くうしゅう生家せいかふく一帯いったい甚大じんだい被害ひがいけたさいは、からだ半分はんぶんほどまでみずたされた防火ぼうか水槽すいそうはいり、母親ははおやとともにみずらした布団ふとんをかぶってほのお熱風ねっぷうけ、九死きゅうし一生いっしょう[35]生家せいか全焼ぜんしょうしたため、母子ぼし生田川いけだがわ沿いの借家しゃくやしたものの、6月5にち空襲くうしゅうでそこもされ[35]徳島とくしまけん池田いけだにあったあねたくへの疎開そかいをへて[36]終戦しゅうせん尼崎あまがさき親類しんるいたくむかえた[35]

芸界げいかい[編集へんしゅう]

終戦しゅうせん徳三とくぞう被災ひさい瓦礫がれき(がれき)の片付かたづけや建物たてもの解体かいたいなど、日雇ひやといの土木どぼく作業さぎょう従事じゅうじしたのち、鋳物いもの(いもの)工場こうじょう就職しゅうしょくした[37]が、あるとききなことをしてのう、そうせなそん[37]」とおもい、「んだときに新聞しんぶん名前なまえる(りゃく)、ちょっとでもひとってもらえる[36]」として芸人げいにんになることをおもった。「漫才まんざいは(りゃく相方あいかた喧嘩けんかするやろし、噺家はなしかならその心配しんぱいはない[36]」として、落語らくご目標もくひょうさだめた。

徳三とくぞうはこのころ毎月まいつきのように大阪おおさか寄席よせ出掛でかけて落語らくごいており[38]5代目だいめわらいぶくていまつづるの『尻餅しりもち』をき、もちつきをちんたりながら相撲すもう甚句じんくうた様子ようすえんじる姿すがたて、「おっ師匠ししょうはんのまえに、がボーッとがったような」がして、「客席きゃくせきでブルブルッと身震みぶるいするほど、ええなあと」かんじたことがあった[39]。また雑誌ざっししん演芸えんげい』で正岡まさおかひろしによる5代目だいめまつづる評論ひょうろんみ、ネタの出来できこまかくノートにつけていることをると「落語らくごにたいする愛情あいじょう情熱じょうねつふかさ」をかんじた[38]。こうして「入門にゅうもんするならここや」と決意けついかため、当時とうじまつづる出演しゅつえんしていた寄席よせ戎橋えびすばし松竹しょうちく」にみ、支配人しはいにんつうじて面会めんかいもうれた。楽屋がくや毛布もうふをかぶってていた5代目だいめは、徳三とくぞうがるなり、「ごはんべられへんで」とつぶやいた[38]。「それはもうわかってます」とこたえたとくさんに、5代目だいめは「そうか。そんなら明日あしたからおいで」とおうじた[39]。1948ねん6がつ4にち[38]、または7にち[8]のエピソードで、これ以降いこう自伝じでんしるした若手わかて時代じだい事柄ことがら比較的ひかくてき精細せいさい日付ひづけをあてたのは、入門にゅうもん当初とうしょ徳三とくぞう稽古けいこネタやえんじた場所ばしょ日付ひづけ報酬ほうしゅうなどをこまかくA5ばん大学だいがくノートにつけていたためである[40]

入門にゅうもんから数日すうじつの6がつ17にち[38]または6がつ19にち[8]に、徳三とくぞう初舞台はつぶたいんだ。寺田てらだまち大阪おおさか交通こうつうきょくりょうで、本名ほんみょうのまま[40]寄合よりあいさけ』をえんじた。徳三とくぞう師匠ししょういえんだりかよったりすることなく、戎橋えびすばし松竹しょうちく楽屋がくやかよって弟子でし修行しゅぎょうをおこなった[39]師匠ししょうには楽屋がくや片隅かたすみ小声こごえ稽古けいこをつけてもらい[41]、そのかたわら、兄弟子あにでしわらいぶくていこうづる(のちの6代目だいめわらいぶくていまつづる)とともに囃子はやしじょう手伝てつだった[39]。のちに松之助まつのすけは、この時期じきいちだけ「わらいぶくてい徳利とっくり」というたことを回想かいそうしている[40]入門にゅうもんねんの9がつ[42]、5代目だいめから「この名前なまえやったらつづくやろ」と、ひかりづるぜんだった「松之助まつのすけ」をあたえられる[40]。1950ねん1がつ1にち京都きょうと祇園ぎおん会館かいかんでの高座こうざをへて、11にち京都きょうと富貴ふうきてい寄席よせでの正式せいしきデビューとなった[8]寄席よせ出演しゅつえんだけでは生活せいかつできなかったため、出番でばんのない土木どぼく作業さぎょう日雇ひやと労働ろうどうつづけていた[42]

寄席よせ高座こうざがって半年はんとしの7がつ師匠ししょう・5代目だいめまつづるくなった。さらに、母親ははおや落語らくごをやめるようつよ主張しゅちょうしたことにショックをけ、服薬ふくやく自殺じさつはかるが、さけんでいたためくすり嘔吐おうと未遂みすいわる[注釈ちゅうしゃく 6]松之助まつのすけははとの不和ふわかんして、当時とうじ若手わかて指導しどうてき役割やくわりだった4代目だいめかつらべいだん相談そうだんしたところ、自分じぶんやしきで「おかねのあるときは不在ふざい、おかねがなくなれば在宅ざいたく」の「自由じゆう居候いそうろう」をしてはどうかと提案ていあんされ[43]松之助まつのすけ下座げざ囃子ばやしなみよし[注釈ちゅうしゃく 7]とともに、邸宅ていたくの2かいに1ねんほど寄寓きぐうする[44]松之助まつのすけは4代目だいめべいだんから9つのネタ(後述こうじゅつ)や、芸人げいにんとしての心構こころがまえをおそわった[43]

NHKラジオ大阪放送おおさかほうそうきょくの『上方かみがた演芸えんげいかい』の前説ぜんせつ担当たんとうした[43]えんで、同局どうきょくの1951ねん9がつ18にち放送ほうそうの『若手わかて演芸えんげい時間じかん』で放送ほうそうデビューすることになった。そこでべいだんからならった 『江戸えど荒物あらもの』をえんじた[45]

1952ねん3がつから1956ねん1がつにかけ、阪急はんきゅう東宝とうほうグループ小林こばやし一三かずみ発案はつあんで、宝塚たからづかだい劇場げきじょうにおいて「宝塚たからづか若手わかて落語らくごかい」が開催かいさいされた。松之助まつのすけ宝塚たからづか軽演劇けいえんげき公演こうえん参加さんかしながら(後述こうじゅつ)、ここで落語らくごうでみがいた[46]。1957ねん4がつには、上方かみがた落語らくご協会きょうかい結成けっせい参加さんか[45](のちに退会たいかい)。

喜劇きげき役者やくしゃとしての活躍かつやく[編集へんしゅう]

小林こばやし一三かずみ上述じょうじゅつ落語らくごかい先立さきだつ1950ねん様々さまざまなジャンルの芸能人げいのうじんあつめた「宝塚たからづかしん芸道げいどうじょう」を旗揚はたあげし、バラエティーショー公演こうえん準備じゅんびすすめており、よく1951ねんには拠点きょてん宝塚たからづか映画えいが劇場げきじょううつし、「宝塚たからづかしんげい」という軽演劇けいえんげき劇団げきだん模様替もようがえさせた。そのとしの9がつ松之助まつのすけ漫才まんざい漫才まんざい作家さっか志摩しま八郎はちろうからの封書ふうしょで、その一座いちざげをらされる。おなじくしんげい一員いちいんになることが内定ないていしていた山崎やまざき正三しょうさん推薦すいせんによるさそいだったという[47]月給げっきゅうせいかれたこと[47]や、同年どうねん10がつに4代目だいめべいだん急逝きゅうせいしたことで「あのおとこ弟子でしにしたら早死はやじににする」と師匠ししょうれん敬遠けいえんされ[48]寄席よせ出演しゅつえん機会きかいうしないかけていたことなどから、松之助まつのすけ入団にゅうだん決断けつだんする。1951ねん11月、公演こうえんなつかしの映画えいがじゅうねん』に活動かつどう弁士べんしやく[49]でゲスト出演しゅつえん[50]松之助まつのすけしんげい正式せいしきはいり、喜劇きげき役者やくしゃみちあゆんでいく。

入団にゅうだん当初とうしょ松之助まつのすけは「自分じぶん噺家はなしかなのか、役者やくしゃなのか、どうも気持きもちの整理せいりができなんだ(引用いんようちゅう=できなかった)」といい、「『噺家はなしかやがな』というはら」で、セリフをおぼえずに舞台ぶたいそでのスタッフにわすれた部分ぶぶんきにくなど、強引ごういん方法ほうほうわらいをっていた[51]。そのような松之助まつのすけ先輩せんぱい座員ざいん三角みすみ八重やえが、「そらあんたは落語らくごや。そんなつもりでええ加減かげんにやってんねやろけど、いま役者やくしゃとして給料きゅうりょうもらうてんのとちがうんかいな。それやったら、そのおかねれるだけの芝居しばいやってんか[52]」「落語らくごやというのならいますぐ役者やくしゃをやめて落語らくごになりぃな[53]」ときびしく叱責しっせきした。また、ちいさな落語らくごかいにばかり参加さんかしていた松之助まつのすけたいし、3代目だいめ林家はやしやしみまるが「もうあんたは(引用いんようしゃちゅう役者やくしゃとして)北野きたの劇場げきじょうコマ劇場げきじょうてなおおきなところへもられるようになってんねんさかい、落語らくごをやるとき場所ばしょえらびや」とアドバイスした[54]。これらの体験たいけんつうじ、幼少ようしょうしたしんだ仏教ぶっきょう思想しそう即時そくじ即今そっこんつねいまこの瞬間しゅんかんがあるだけだという概念がいねん)」をおもした松之助まつのすけ[53]、「区分くぶんちいさいこだわり」「自分じぶんは『芸人げいにん』」と意識いしきえ、「芝居しばいをやれとわれれば役者やくしゃえんじ、落語らくごをやれとわれれば噺家はなしかえんじる」と決心けっしんした[52]秋田あきたみのる漫才まんざいグループがしん会社かいしゃ上方かみがた演芸えんげい設立せつりつのため宝塚たからづかしんげいから退団たいだんすると、笑芸しょうげい出身しゅっしんしゃ座長ざちょうかくミヤコ蝶々ちょうちょう南都なんと雄二ゆうじ松之助まつのすけなど、わずかすうにんになったが、松之助まつのすけ芝居しばいなかでギャグをいちける役割やくわりになったため「おもいきりバカバカしいうごきをしたりしゃべったりでご機嫌きげんでした」と回想かいそうしている[55]

1953ねん4がつしんげい人気にんき演目えんもく中継ちゅうけいする『漫才まんざい学校がっこう』(ABCラジオ)の放送ほうそうはじまり、松之助まつのすけ番組ばんぐみのヒットとともに人気にんきタレントとなっていく[45]蝶々ちょうちょうゆう降板こうばんの『しん漫才まんざい学校がっこう』で構成こうせい作家さっか兼務けんむし、これが台本だいほん作家さっかとしてのキャリアのはじまりとなった[55]。また、NHKのテレビ実験じっけん放送ほうそう時代じだいからドラマに出演しゅつえんし、テレビ俳優はいゆうとしてもコンスタントに活動かつどうしはじめる[56]。1954ねん10がつには、アイスショー宝塚歌劇団たからづかかげきだんスケートチーム」のだい1かい公演こうえん白雪姫しらゆきひめ』に参加さんかし、アイススケートを特訓とっくんして白雪姫しらゆきひめははやくをつとめている[57]

菊田きくた一夫かずおのオファーを会社かいしゃ勝手かってことわったことをきっかけに、「他人たにん意思いし自分じぶん行動こうどう左右さゆうされる」「サラリーマン役者やくしゃ[55]立場たちば疑問ぎもんいだくにいたった松之助まつのすけは、1958ねんれ、突如とつじょしんげい退団たいだん[58]翌年よくねん3がつ[55]または4がつ[45]もと永田ながたキング門下もんか芸人げいにん当時とうじ興行こうぎょうをしていた北村きたむらハッピー紹介しょうかいされ[59]吉本興業よしもとこうぎょう契約けいやくする。同社どうしゃは3がつに「うめだ花月かげつ劇場げきじょう」を開館かいかんさせたばかりであり、独自どくじあらたな軽演劇けいえんげきのプログラムに役者やくしゃもとめていた。松之助まつのすけいわく、昭和中しょうわなか大阪おおさか芸界げいかいは「実力じつりょくさえあれば、なんぼでもわれる。会社かいしゃより芸人げいにんのほうがつよかった」という環境かんきょうであり、これ以降いこうの10年間ねんかんくままにプロダクションをわたあるいた[60]

1959ねん4がつ松之助まつのすけは「吉本よしもとヴァラエティ」、のちの「吉本よしもとしん喜劇きげき」の創設そうせつメンバーとなった。当時とうじしん喜劇きげきには、オリジナルの脚本きゃくほん演出えんしゅつ担当たんとうするもの進行しんこうがかり竹本たけもと浩三こうぞうだけしかおらず、ほとんど役者やくしゃによるアドリブで芝居しばいすすめる状態じょうたいだった[61]幹部かんぶ(のち社長しゃちょう)の中邨なかむら秀雄ひでおのすすめで、松之助まつのすけも「明石あかし光司こうじ」(あかし こうじ)のペンネームで脚本きゃくほんくことになった[62]。1959ねんの、改称かいしょう吉本よしもとしん喜劇きげきだい1かい公演こうえん夫婦ふうふ読本とくほん』は松之助まつのすけさく演出えんしゅつ主演しゅえんである[63]しん喜劇きげきでは、一時いちじ退社たいしゃした時期じきをはさんで「50ほんほどいた」という[62]松之助まつのすけのインタビューをおさめた4代目だいめ林家はやしやしみまる著書ちょしょわらいぶくてい松之助まつのすけ聞書ききがき いつも青春せいしゅんずっと青春せいしゅん』には、「明石あかし光司こうじさく三寒四温さんかんしおん[注釈ちゅうしゃく 8]全編ぜんぺんせている[64]

1961ねん4がつ[45]松竹しょうちく芸能げいのうあらたな軽演劇けいえんげきだん旗揚はたあげのため、契約けいやく期間きかん満了まんりょうひかえた松之助まつのすけきをはかった。吉本よしもとがわ松竹しょうちく主催しゅさい舞台ぶたい松之助まつのすけ客演きゃくえんさせ手打てうちにしようとした[65]が、松之助まつのすけさそいにおうじて松竹しょうちく移籍いせきした[66]。このとき松之助まつのすけ勘違かんちがいから吉本よしもととの契約けいやく期間きかんを1ヵ月かげつのこして移籍いせきしたため、幹部かんぶ(のち社長しゃちょう)の八田はった竹男たけお激怒げきどさせている[注釈ちゅうしゃく 9]劇団げきだんミスワカサ・とうひろしひきいる「松竹しょうちくとんぼり」として発足ほっそく松之助まつのすけ台本だいほん執筆しっぴつ演出えんしゅつ平尾ひらお晋作しんさくはなとう分担ぶんたんし、自身じしん役者やくしゃとして出演しゅつえんした[67]。ワカサ・ひろしがげ1ねん退団たいだん劇団げきだん松之助まつのすけ座長ざちょうえ「松竹しょうちくばく笑劇しょうげき[24][65]」と改称かいしょうする。ここで初代しょだいもり乃福ろう上方かみがたやなぎやなぎふとしとの3くみ主演しゅえん公演こうえん[67]などをがけた。

やがて、松之助まつのすけ台本だいほんたいする会社かいしゃがわの「的外まとはずれな」注文ちゅうもん干渉かんしょうかさなり、ストレスをつのらせていったほか[65]、「相談そうだんもなく役者やくしゃえられ(中略ちゅうりゃく)げたばこも1ばん下段げだん[24]」といった理不尽りふじんあつかいにこたえかねて、自身じしん台本だいほんではない公演こうえん最中さいちゅうに「こんな芝居しばいおもろないやろ、わらうな」と絶叫ぜっきょうする。これが新聞しんぶんりスキャンダルに発展はってんしたことをきっかけに、3ねん契約けいやく期間きかん満了まんりょうをもって退社たいしゃした[65]。のちに松竹しょうちくわなかった[24]回想かいそうしている。

その1964ねんの4がつ松之助まつのすけせん土地とち興行こうぎょう後身こうしん日本にっぽんドリーム観光かんこう移籍いせき[45][67]せんにち劇場げきじょう落語らくごえんじるかたわら軽演劇けいえんげきの「まつちゃん劇団げきだん」をひきいたほか、大阪おおさか劇場げきじょう公演こうえん出演しゅつえんしゃ演出えんしゅつ兼任けんにんした[67][68]。また、この時期じき3代目だいめ桂米朝かつらべいちょう司会しかい大喜だいぎ番組ばんぐみわらいとんちぶくろ』にレギュラー出演しゅつえん[60]2代目だいめ乃五ろう3代目だいめかつらべいむらさき4代目だいめかつらぶんべに3代目だいめわらいぶくてい仁鶴にかくとともに「実験じっけん寄席よせ」を主宰しゅさいすると、高座こうざ左右さゆういたスピーカーから効果こうかおんながしたり、当時とうじ洋画ようが落語らくご仕立したててえんじるなどの演出えんしゅつこころみ、わか観客かんきゃくやした[69]。なお、せん土地とち移籍いせきも、だい2の「松竹しょうちく家庭かていげき」にゲスト参加さんかした[65][45]

吉本よしもと復帰ふっき以降いこう[編集へんしゅう]

1967ねん3がつ[45]吉本よしもと社長しゃちょうとなった八田はった竹男たけお[24]幹部かんぶ中邨なかむら(なかむら)秀雄ひでお[70]もどされ、吉本よしもと復帰ふっきする。しん喜劇きげきや「ポケットミュージカルス」の台本だいほん執筆しっぴつをしばらく担当たんとうした[71]ほか、芸人げいにんたちと幕間まくあいのコントをえんじた。4代目だいめしみまる当時とうじ演目えんもくのうち、歌舞伎かぶきのパロディや浪曲ろうきょく漫才まんざい宮川みやがわ左近さこんショーをもじった「寺川てらがわ右近うこんショー」などを記憶きおくしている[72]。やがて、観客かんきゃくしん喜劇きげきもとめる「個人こじん演芸えんげい展示てんじ路線ろせんと、松之助まつのすけ志向しこうする芝居しばいのありかたへだたりがたことや、かつてとことなり専業せんぎょう台本だいほん作家さっか充実じゅうじつしたことからみずか退団たいだんもう[70]落語らくごなどのひとり舞台ぶたい専念せんねんする。

1970年代ねんだい以降いこう、これまでの落語らくごえんかたわらいがれなくなってきたとづいた松之助まつのすけは、テレビのCM番組ばんぐみ内容ないようをこきろす漫談まんだん調ちょう新作しんさく落語らくご『テレビアラカルト[注釈ちゅうしゃく 10]」(別名べつめい仮面かめんライダー [70]』『バカボン』)を創作そうさく[70]落語らくごとしての人気にんき[74][75]。また6代目だいめまつづるげた「セルシー落語らくごかい繁昌はんじょうてい」の出番でばんみ(でばんくみ)をぎ、後身こうしん育成いくせいたずさわった[76]松之助まつのすけわか観客かんきゃく発掘はっくつ積極せっきょくてきみ、心斎橋筋しんさいばしすじ2丁目ちょうめ劇場げきじょう開場かいじょうは、ジーンズの上下じょうげて、帽子ぼうしとサングラスで正体しょうたいかくし、落語らくご披露ひろうしていた[71]

1996ねん6がつから9ヵ月かげつあいだにわたってよるのニュース番組ばんぐみニュースステーション』(テレビ朝日てれびあさひけい)の金曜日きんようびコメンテーター [45]担当たんとうし、どう番組ばんぐみでは中継ちゅうけいレポーターにもいどんだ。松之助まつのすけ高速こうそく道路どうろのサービスエリアで停車ていしゃしている自動車じどうしゃを「45だい」と紹介しょうかいしたところ、キャスターの久米くめひろしが「くらいのにどうして45だいとわかったのですか」とうたので「ディレクターがそういえといったのです」とこたえて久米くめわらわせた[77]

2000ねん1がつ、4代目だいめ林家はやしやしみまるとともに若手わかて勉強べんきょうかい落語らくごはやらせたい』の顧問こもんとなる[45]松之助まつのすけなんばグランド花月ぐらんどかげつではじめて落語らくごえんじたのは、2007ねん6がつ28にちだった。2008ねん8がつ6にちにはトリイホールにて自身じしん芸能げいのう生活せいかつ60周年しゅうねん記念きねんする落語らくごかいせいまつづる 弟子でし生活せいかつろくじゅうねん記念きねんかい 自称じしょう天然記念物てんねんきねんぶつ認定にんてい』を開催かいさい

松之助まつのすけは80さいぎても40ふんえるちょうネタをえんじ、映画えいが監督かんとくをつとめ[78]、ブログを開設かいせつしてみずか積極せっきょくてきにメッセージを発信はっしんするなど、エネルギッシュに活動かつどうしていた。2009ねん6がつには、若手わかてじってしょうレース「S-1バトル」に挑戦ちょうせんしている[79]。2016ねん、90さいはつ著書ちょしょ上梓じょうしした[80]

2019ねん2がつ22にち午前ごぜん3ぎ、老衰ろうすいのため兵庫ひょうごけん西宮にしのみや病院びょういん死去しきょした[9][10][11][12][81]。93さいぼつ告別こくべつしき日本にっぽんキリスト改革かいかく教会きょうかい(甲子園こうしえん教会きょうかい)の吉田よしだたかし牧師ぼくし司式ししきによりおこなわれた。(https://www.facebook.com/photo/?fbid=2115656501836714&set=pcb.2115669218502109&locale=ja_JP)

年譜ねんぷ[編集へんしゅう]

芸風げいふう[編集へんしゅう]

古典こてん落語らくご豊富ほうふちネタがあった。上記じょうきとおり、若手わかて時代じだい習得しゅうとくしたネタについて、おそわった時期じき師匠ししょう仕草しぐさ・しゃべりかた指示しじあいだ意味いみなどを以下いかのようにこまかく記録きろくしていた[82]

古典こてん落語らくご矛盾むじゅんてんなおしたりサゲを「改訂かいてい」したほか、『さんじゅうせき』で舟歌ふなうたとともに自身じしんだし囃子ばやしでもある長唄ながうたの『新曲しんきょく浦島うらしま』をうたうなど[86]、さまざまなしん演出えんしゅつくわえた[87]。2008ねんには『曽根崎そねざき心中しんちゅうの』を落語らくご改題かいだいした[88]

1980年代ねんだいごろから、5代目だいめが『上方かみがたはなし』に速記そっきろくとしてのこした『たばこの』『とまとう』など、上方かみがたであまりえんじられなかった演目えんもく復刻ふっこくんだ[86]

芝居しばい素養そよう必要ひつようなネタが古典こてんおおいことや、俳優はいゆうとしての経験けいけんによってげいたかめた経験けいけんから、「落語らくごはお芝居しばいです」との信念しんねんっていた[88]。また、「落語らくごは『芸術げいじゅつ』ではない」「芸人げいにんはサービスぎょうなのです」とも主張しゅちょうした[89]

若手わかて落語らくごかい独演どくえんかい寄席よせではなくホールでおこな風潮ふうちょうを、あまりこのまなかった。「はじめから落語らくごきにきているのですから、周波数しゅうはすうわないということはありません。これではホントウの芸人げいにん経験けいけんめない」としていた[90]

晩年ばんねん落語らくごでなく「らくさとる」を自称じしょうしていた。たのしさをさとったという意味いみではなく「おきゃくさんにたのしさをってもらうもの[91]」の。「昨日今日きのうきょう弟子でしりしたものも落語らくご名乗なのることに違和感いわかんおぼえた[92]」ことや、5代目だいめまつづる[注釈ちゅうしゃく 11]弟子でしとしてのほこ[91]表現ひょうげんしたものだった。

評価ひょうか[編集へんしゅう]

いわゆる四天王してんのう(6代目だいめわらいぶくていまつづる・3代目だいめかつら米朝べいちょう5代目だいめかつら文枝ふみえ3代目だいめかつらはるだん)よりもおくれて入門にゅうもんしたこと、おおきな一門いちもん形成けいせいしていないこと、喜劇きげき役者やくしゃとして活躍かつやく落語らくごかいからはなれた時期じきがあること、新作しんさく落語らくごれたこと、上方かみがた落語らくご協会きょうかい離脱りだつしたことなどから、同年代どうねんだい落語らくごよりも一段いちだんひく評価ひょうかける傾向けいこうがある[だれによって?]立川談志たてかわだんしには、松之助まつのすけ大阪おおさか落語らくごからそうスカンをくらっているがげいりょくは6代目だいめまつづるおなじだとひょうされた[よう出典しゅってん]

弟子でし[編集へんしゅう]

まいささは、わらいぶくてい一門いちもん定紋じょうもんである。

松之助まつのすけは、おおくの弟子でし自身じしんちんごうわらいぶくてい」を名乗なのらせず、自身じしん本名ほんみょうにちなむ「明石家あかしや」のちんごうあたえた[94]。「屋号やごう自分じぶんたちの勢力せいりょく範囲はんいしめしているような」かんじに違和感いわかんがあったことや、しただけで区別くべつするほかないため、自身じしん若手わかて時代じだい不自由ふじゆうさをかんじたことによる[95]

さんまによれば、内弟子うちでしつとめた当時とうじ松之助まつのすけ弟子でし実家じっかにちなんだわった芸名げいめいけていた。それぞれの実家じっか生業せいぎょうをもとに、水産すいさん加工かこうぎょうのさんま、理髪りはつてん明石家あかしやパーマ自転車じてんしゃてん明石家あかしやサドル[96]下着したぎてん明石家あかしやパンツ[96]などのれい過去かこ存在そんざいした。

人物じんぶつ・エピソード[編集へんしゅう]

趣味しゅみ嗜好しこう交友こうゆう[編集へんしゅう]

水泳すいえい趣味しゅみいきえてマスターズ水泳すいえい優勝ゆうしょうするほど没頭ぼっとうし、80さいぎてからも毎日まいにち50メートルを10セットおよいでいた[5]。1994ねん明石あかし徳三とくぞうとして全日本ぜんにほんマスターズ水泳すいえいたん水路すいろ大会たいかい大阪おおさか会場かいじょう出場しゅつじょうし、65さい以上いじょうの100メートル自由形じゆうがた(1ふん22びょう64)、200メートル自由形じゆうがた(3ふん09びょう72)で優勝ゆうしょうした(全国ぜんこく6記録きろく[5])。またよく1995ねんには京都きょうと会場かいじょう・70さい以上いじょうの200メートル自由形じゆうがた個人こじん優勝ゆうしょう所属しょぞくの「マックスポーツ」チーム[注釈ちゅうしゃく 13]として混合こんごう100メートルメドレーリレーで団体だんたい優勝ゆうしょうした[97]。78さい日本にっぽんスイミングクラブ協会きょうかい(JSCA)マスターズ通信つうしん記録きろくかいで1500メートル自由形じゆうがた出場しゅつじょう、34ふん50びょう89のタイムを記録きろくした[5]。80さい自律じりつ神経しんけい失調しっちょうしょうのため入院にゅういんするまで、病院びょういん入院にゅういんした経験けいけんがなかった[98]。 2010ねんにはJSCAより、だい11かいベストスイマーしょう受賞じゅしょうした[5]

幼少ようしょう寺院じいんとおった影響えいきょうで、松之助まつのすけ阿弥陀あみだけい正信まさのぶ念仏ねんぶつをそらで暗唱あんしょうできた[99]。1969ねん母親ははおや死去しきょしたさいは、みずか正信まさのぶ念仏ねんぶつ引用いんようして戒名かいみょうおくった[100]

手先てさき器用きようで、子供こどものころから建築けんちく現場げんば手伝てつだっていたため、日曜にちよう大工だいく得意とくいだった。阪神はんしん淡路あわじ大震災だいしんさいさいには西宮にしのみや自宅じたくかべ外装がいそうちたが、すべてみずか修理しゅうりした[101]三菱電機みつびしでんき時代じだいおぼえた製図せいず技術ぎじゅつを、芸人げいにんになったのちもかした。前述ぜんじゅつしん喜劇きげき台本だいほんには、セットの寸法すんぽう材質ざいしつこまかく指示しじした見取みと記載きさいされている[102]。また1990年代ねんだいに、落語らくごよう見台けんだいひざかくしを設計せっけいして、かつら三枝みえ提供ていきょうした[103]

落語らくごになったのちも奇術きじゅつ研究けんきゅう没頭ぼっとうし、若手わかて時代じだい明石家あかしやさんまにも「なんでもやっとかなあかん」として奇術きじゅつ仕込しこんでいた[33]

ものだい苦手にがてだという。宝塚たからづかしんげい時代じだい巡業じゅんぎょうちゅう松之助まつのすけ一人ひとり部屋へやにいたところ、同行どうこうしていたミヤコ蝶々ちょうちょうがいたずらでねこ部屋へやほうみ、そとからめた。松之助まつのすけは『まんじゅうこわい』のように大騒おおさわぎしたという[104]

吉本よしもとしん喜劇きげきやなぎ浩二こうじ親交しんこうふかかった。[よう説明せつめい]

落語らくごかい[編集へんしゅう]

6代目だいめわらいぶくていまつづるとの関係かんけい[編集へんしゅう]

6代目だいめまつづる松之助まつのすけより7さい年上としうえだったが、「生意気なまいき」だった松之助まつのすけは、弟子でし修業しゅうぎょう当初とうしょからタメこうで6代目だいめせっしていた [105]。ただし、なが寝食しんしょくともにし、幼少ようしょうころからいていたあに存在そんざいへのあこがれもあって、6代目だいめを「兄貴あにき」「にいちゃん」とび、しんからしたっていた。松之助まつのすけは6代目だいめのために新作しんさく落語らくごすうほんろしている。

6代目だいめまつづる前座ぜんざめいいだまま、改名かいめい名跡みょうせきへの襲名しゅうめいおこなわず、生涯しょうがい松之助まつのすけとおした。6代目だいめ一存いちぞんでは改名かいめいさせられなかった事情じじょう[注釈ちゅうしゃく 14]のためとみられる。

6代目だいめおな松竹しょうちく芸能げいのう所属しょぞくした期間きかん前述ぜんじゅつとおみじかかったが、1962ねんかくでの襲名しゅうめい披露ひろう興行こうぎょうにちょうどめぐりった。所属しょぞく事務所じむしょことなればおな一門いちもんであっても襲名しゅうめい披露ひろう口上こうじょう参加さんかできない慣習かんしゅうだったため、松之助まつのすけ参加さんかがかなった当時とうじを「これもうんやね」としている[106]。6代目だいめは「よかったらこれをてくれ」と、襲名しゅうめい記念きねん自身じしんぞろいで仕立したてた長襦袢ながじばん松之助まつのすけおくっている[107]

6代目だいめ死去しきょしたさい松之助まつのすけ通夜つや葬式そうしき一切いっさいなかった。6代目だいめ弟子でし松之助まつのすけおい弟子でしたる笑福亭鶴瓶しょうふくていつるべは、この当時とうじ松之助まつのすけ態度たいどたいして「なぜ弔問ちょうもんないのか?」とおもっていたが、のちにづるびん直上ちょくじょう兄弟子あにでしわらいぶくてい松葉まつば[注釈ちゅうしゃく 15]死去しきょしたさい、あまりのかなしさに葬儀そうぎたくない感情かんじょうがこみげ、松之助まつのすけ気持きもちが「わかった」とのちにかたった。

明石家あかしやさんまとの関係かんけい[編集へんしゅう]

1974ねん3がつ京都きょうと花月かげつ楽屋がくやたずねて弟子入でしいりをもうたさんまに、松之助まつのすけが「なぜぼくえらんだのか」とうたところ、「あんたはセンスがええ。[108][95]」とかえされた。さんまに悪意あくいがなかったとはいえ不遜ふそん返答へんとうだったが、それにたいして松之助まつのすけは「それはどうも、めてもろておおきに。[108]」とこたえ、けっしておこらなかった。

松之助まつのすけは、弟子でしびととしてまわすより自宅じたく勉強べんきょうさせたほうがいいという主義しゅぎだったため、さんまは松之助まつのすけ仕事しごとさい留守番るすばんをし、掃除そうじ炊事すいじなどの家事かじ手伝てつだっていた[95]松之助まつのすけ息子むすこ弘之ひろゆき(のんき)から「にいちゃん(さんま)は、ひるまでている(師匠ししょう見送みおくったさんまがをしている)と耳打みみうちされた。それ以降いこうわすものをしたさいなどは、自宅じたくはいまえにわざとおおきなおとをたてたり、大声おおごえうたったり[95]することで、さんまが自分じぶんむかえるさいあわてないよう、自然しぜんますように仕向しむけていた。のちになぜ師匠ししょう弟子でし使つか必要ひつようがあったかと苦笑くしょうじりで回想かいそうしている[95]

これはあまやかしていたのではなく、普段ふだんのさんまが弟子でしとしての仕事しごとたしていたので、大目おおめたものだという[よう出典しゅってん]

さんまが落語らくごをしないと批判ひはんされ、んでいるとった松之助まつのすけはかつて自身じしん三角さんかくはちじゅうしかられたはなしいにし、タレントぎょうせいしたらよい、いま精一杯せいいっぱいきるということが大切たいせつはげました。それをけたさんまは、「師匠ししょうがそういわれるのなら落語らくごめます」と宣言せんげんすると[95]、すでにまっていた落語らくごかい出番でばんにタキシード姿すがたあらわれ、客席きゃくせきに「わたくし明石家あかしやさんまは今日きょうかぎり落語らくごをやめます」とげた[95]

松之助まつのすけは、晩年ばんねんまで上京じょうきょうしたさんまとしゅうに1つう手紙てがみをやりりしていた [95]。さんまは、週刊しゅうかん[どれ?]の「わたし宝物ほうもつ」という取材しゅざい松之助まつのすけからの手紙てがみたば紹介しょうかいした[95][109]松之助まつのすけはさんまに心配しんぱいされることをきらい、血管けっかん手術しゅじゅつをしたさいおしえなかった[95]

なお、松之助まつのすけはさんまの今日きょうまで[いつ?]活躍かつやくについて好意こういてきである。修業しゅうぎょう時代じだいナンパしながらおんなわらわせたことについて、師匠ししょうであればまゆをひそめるところを「芸人げいにんとしてむしろ勉強べんきょうしている」とめた。さんまがしたころ松之助まつのすけ高座こうざ開口一番かいこういちばんれているさんまの師匠ししょうわらいぶくてい松之助まつのすけです」とかならっていた。あるときは、えりおおきく「さんまの師匠ししょう」といた羽織はおり仕立したてて、高座こうざ着用ちゃくようした[110]。さんまの出演しゅつえんするテレビ番組ばんぐみをよくており、そのたびに「かれつね全力ぜんりょく投球とうきゅうで、絶対ぜったいいていない」と感心かんしんした。

「よしもとの天然記念物てんねんきねんぶつ保護ほごかい」(2008ねん11月16にちなんばグランド花月ぐらんどかげつ[注釈ちゅうしゃく 16])にさいし、なに手伝てつだわせてほしいとねがたさんまに松之助まつのすけは、「きみたらぼく目立めだたなくなるがな!」とかたくなに拒否きょひした。それでもがられ「えぇ? るの……?」とつぶやき、さんまを苦笑くしょうさせた。その本番ほんばんでは、弟子でしはもういらない、さんまの看板かんばんおおきいので十分じゅうぶん自慢じまん弟子でしほこらしげにかたり、さんまは「ぼくが53さい当時とうじ年齢ねんれい)になって、とっくに師匠ししょうんでるとおもっていたが……。一緒いっしょ舞台ぶたい共演きょうえんするなんておもわなかった」とかたった[111]

松之助まつのすけは、すうねんに1割合わりあいでさんまのかんむり番組ばんぐみである『さんまのまんま』にゲスト出演しゅつえんしている。このなかで、初孫はつまご(のんきの息子むすこ)が誕生たんじょうしたときに一切いっさい連絡れんらくをしなかった理由りゆうとして、「きみが『それがどないしたん?』っておもうとおもった」とかたり、さんまは苦笑くしょうして「師匠ししょうにそんなことくちけてもえまへん」とかえしている[よう出典しゅってん]

わらいてん』スペシャルに出演しゅつえんした松之助まつのすけは、つぎのようなさんまにちなむ回答かいとうをした[よう出典しゅってん]

  • 「さんまにジャンケンでけて、弟子でしになった」(2006ねん
  • ゆめいから てみたい 弟子でしのさんまにお年玉としだま」(2009ねん
  • 弟子でしのさんまが、さあるぞ! 今年ことしもお年玉としだまをもらおう」(2010ねん

家族かぞく[編集へんしゅう]

松之助まつのすけかたるところによると、松之助まつのすけは2結婚けっこんれきがある[112][113]最初さいしょつま宝塚歌劇団たからづかかげきだん団員だんいんで、松之助まつのすけ宝塚たからづかしんげいにいた1955ねん4がつ[45]結婚けっこんして2をもうけたが、義父ぎふ意見いけんわなかったことや自身じしんの「原因げんいん」のため12ねん離婚りこんした[113]松之助まつのすけ離婚りこん慰謝いしゃりょうとしていえふくすべての家財道具かざいどうぐ前妻ぜんさいがわゆずり、2人ふたり子供こどもが20さいになるまで養育よういく住宅じゅうたくローンをはらつづけた[112]弟子でしだったさんまも養育よういく前妻ぜんさいとどけるおつかいをたのまれたという。2番目ばんめつま逗子ずしみさをとは、1967ねん12月に結婚けっこんした[45]逗子ずしはのんき、パーポの生母せいぼ大阪おおさか松竹しょうちく歌劇かげきだん座員ざいんつとめ、大阪おおさか劇場げきじょうほん公演こうえんるかたわら、かくの「とんぼり」にも出演しゅつえんしていた[112]

その[編集へんしゅう]

松之助まつのすけ松竹しょうちく時代じだいから吉本よしもと復帰ふっきにいたるまで、「小心者しょうしんものであってさけいきおいをりねばならなかった」「面白おもしろいことをかんがえても、それをシラフでやるのがこわかった」[114]として、「毎日まいにちよいうてた」というほど酒浸さけびたりになった時期じきがあった。ったいきおいで高座こうざがるなり「わらいぶくてい松之助まつのすけです」とだけってりたことがあり、人気にんき絶頂ぜっちょうだった4代目だいめやなぎていたのしめいビラをせ、だまって自分じぶんかお指差ゆびさすだけで高座こうざりたのをまねた[115]

ったままきゃくまえあらわれ、「となりいえがこいができたな。ヘエ。もうええやろ。こんなぱらいの落語らくごいてても面白おもしろうないで。おあとと交替こうたいいたします」とうなり、3ふん高座こうざりた松之助まつのすけ姿すがた八田はった竹男たけおは、楽屋がくや黒板こくばんかれたこうばんひょうの、トリまえ松之助まつのすけ表記ひょうきし、前座ぜんざよりまええた[116]。そんななか、もっとすっきりしたあたまで、ちゃんと世間せけんようとおもち、翌日よくじつからさけ煙草たばこことわった。自身じしん記録きろくに1975ねん6がつ1にちのこととある[116][114]。この以降いこう一切いっさいさけくちにしなかったという[114]。52さい自動車じどうしゃ運転うんてん免許めんきょ取得しゅとくし(1977ねん前後ぜんこう)、70さいのときに返納へんのうした[117]

CD・DVD[編集へんしゅう]

  • 落語らくご歳時記さいじき だい2:5月 - 8がつ;人形にんぎょうい (わらいぶくてい松之助まつのすけ口演こうえん) 』東京とうきょう : ビクター(JL-334、JL-335)。録音ろくおんディスク 2まい : アナログ (LP) 33 1/3rpm ; 30cm。国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん書誌しょしID:000008684030
  • ともさく上方かみがた落語らくごだい全集ぜんしゅう 朝日放送あさひほうそう1080ふん落語らくごかい実況じっきょう録音ろくおんばん』テイチクレコード、1971ねんLPレコード3まいぐみEAN 229999025633
  • らくさとる わらいぶくてい松之助まつのすけ』(YOSHIMOTO WORKS製作せいさくにちさわ伸哉のぶや
    DVD+CDボックス。ABCラジオ主催しゅさいの「上方かみがた落語らくごをきくかい」などの音源おんげんからCDに18せき、『日本にっぽん話芸わげい』(NHK)などの録画ろくがからDVDに27せきをそれぞれ収載しゅうさい。「よしもとの天然記念物てんねんきねんぶつ保護ほごかい」での明石家あかしやさんまとの対談たいだんなども収録しゅうろく

著作ちょさく[編集へんしゅう]

監督かんとく[編集へんしゅう]

出演しゅつえん[編集へんしゅう]

映画えいが[編集へんしゅう]

おもなテレビバラエティ、コメディ舞台ぶたい中継ちゅうけい[編集へんしゅう]

テレビドラマ[編集へんしゅう]

ほか多数たすう

わらいぶくてい松之助まつのすけえんじた俳優はいゆう[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

本文ほんぶん典拠てんきょおも執筆しっぴつしゃの50おとじゅん

  • 桂米朝かつらべいちょう桂米朝かつらべいちょう わたし履歴りれきしょ日本経済新聞にほんけいざいしんぶん出版しゅっぱん日経にっけいビジネス人文じんぶん〉、2007ねん ISBN 978-4-532-19393-5
  • 長尾ながお和宏かずひろわらいぶくてい松之助まつのすけ 93さい老衰ろうすい」『平成へいせい臨終りんじゅうまき』ブックマンしゃ、2019ねん、192ぺーじ全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:23219503 
  • 林家はやしやしみまるわらいぶくてい松之助まつのすけ聞書ききがき いつも青春せいしゅんずっと青春せいしゅん燃焼ねんしょうしゃ、2000ねん ISBN 4-88978-001-7りゃく年譜ねんぷ」(207-208ぺーじ)ほか。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

関連かんれん資料しりょう[編集へんしゅう]

発行はっこうねんじゅん

  • 上方かみがたはなし』 創作そうさく落語らくご雑誌ざっし、1936ねん昭和しょうわ11ねん)6がつ1にち創刊そうかん1ごうから1940ねん昭和しょうわ15ねん)10がつ1にちおわりかん49ごうまで発行はっこう[注釈ちゅうしゃく 17]発行はっこうじん師匠ししょうの5代目だいめまつづるで、4代目だいめかつらべいだんは2代目だいめかつらべいじょ時代じだいに「代書だいしょ」を(1939ねん当時とうじ世相せそう)、3代目だいめわらいぶくていえだづるかつら花柳かりゅう時代じだいに「豆炭まめたん」を創作そうさくするあしがかりをたとされ[127]松之助まつのすけ投稿とうこうした。1972ねん昭和しょうわ46ねん)、6代目だいめまつづる復刻ふっこく出版しゅっぱんした[128]
  • 六代目笑福亭松鶴、わらいぶくてい松之助まつのすけ五郎ごろう演目えんもく解説かいせつ対談たいだん五郎ごろうへん)『五代目笑福亭松鶴集』東京とうきょう : 青蛙あおがえるぼう、1971ねん全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:75016511
  • わらいぶくてい松之助まつのすけ明石あかし弘之ひろゆき正之まさゆきおやせいかたろう(6)」『週刊しゅうかん平凡へいぼんだい28かんだい4ごう(1986・1・31ごう)、マガジンハウス(へん)1986ねん1がつ、90ぺーじ。コマ番号ばんごう0046.jp2、doi:10.11501/1787331国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんない限定げんてい公開こうかい
  • 夫婦ふうふ情景じょうけい(192)わらいぶくてい松之助まつのすけ明石あかし康子やすこ夫妻ふさい」『週刊しゅうかん朝日あさひだい108かんだい53ごうつうごう 4592)、東京とうきょう : 朝日新聞あさひしんぶん出版しゅっぱん、2003ねん11月、72-75ぺーじ国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん書誌しょしID:6739488
  • 林家はやしやしみまる五郎ごろうわらいぶくてい松之助まつのすけかつらはるだんかつら米朝べいちょうかつら文枝ふみえ平成へいせい紅梅こうばいてい特選とくせん落語らくごかい 上方かみがた落語らくご神髄しんずい大御所おおごしょかい : 読売よみうりテレビ開局かいきょく45ねん記念きねん』よみうりテレビ(PCBG-10636、PCBG-20019)、2004ねん。ビデオディスク 1まい (151ふん) : DVD。全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:20735755
  • 佐々木ささきたかし「シェイクスピア落語らくご『じゃじゃうまならし』にかんするいち考察こうさつ」『武蔵野短期大学むさしのたんきだいがく研究けんきゅう紀要きようだい35かん狭山さやま : 武蔵野短期大学むさしのたんきだいがく、2021ねん、25-46ぺーじNAID 40022574514

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 前列ぜんれつひだりよりかつらはるぼう代目だいめ五郎ごろう兵衛ひょうえ松之助まつのすけたちばなまどか二郎じろうよん代目だいめかつら文枝ふみえさん代目だいめ桂米朝かつらべいちょうわらいぶくていしょうつる(和多田わただまさるさん代目だいめかつらべいすけ後列こうれつひだりよりなみよし(五代目笑福亭松鶴夫人ふじん)、かつらあやめ(代目だいめかつら文枝ふみえあさひどう小南こみなみりょうさん代目だいめあさひどう南陵なんりょうろく代目だいめかつらしょう文吾ぶんごかつらむぎだん奥野おくのしげる(宝塚たからづか若手わかて落語らくごかい世話人せわにん[1]
  2. ^ 3代目だいめ桂米朝かつらべいちょう(2015ねんぼつ)はおなどしだが、松之助まつのすけより3かげつまれがおそかった。東西とうざい落語らくごかいとおして最年長さいねんちょう松之助まつのすけよりもまれが4かげつはや4代目だいめかつら米丸よねまる
  3. ^ 伝記でんき[28]23ぺーじ松之助まつのすけさくせい投影とうえいによる見台けんだいひざかくしの図面ずめんがある。
  4. ^ 後日ごじつたんとして68さいとき徴用ちょうようこうだった当時とうじ労働ろうどうしゃ年金ねんきん5ねんぶん年金ねんきんとして受給じゅきゅうできることが判明はんめいし、突然とつぜん80まんえんほどがころがりんだ。「厚生こうせい年金ねんきんをもろてる芸人げいにんぼくだけとちがうか」とかたっている[29]
  5. ^ 余興よきょうとは機材きざいのレンタルを兼業けんぎょうしたプロモーターのような事業じぎょう
  6. ^ デビュー番組ばんぐみかんし、資料しりょうでは『上方かみがた演芸えんげいかい』だったとしている[43]
  7. ^ はのちに5代目だいめまつづるつまになる。
  8. ^ うめだ花月かげつ1971ねん2がつだい3しゅうおか八郎はちろう船場ふなば太郎たろう室谷むろたに信雄のぶお山田やまだスミ子すみこ井上いのうえ竜夫たつおらが出演しゅつえんする公演こうえん台本だいほん
  9. ^ 吉本よしもと復帰ふっきしたときに八田はったからかされ、松之助まつのすけあせをかいたという[67]
  10. ^ 砂糖さとうつぼ=ウルトラマン」の比喩ひゆ自伝じでんによると、レコード『上方かみがた落語らくごだい全集ぜんしゅう 朝日放送あさひほうそう1080ふん落語らくごかい実況じっきょう録音ろくおんばん』(テイチク ABC-24)に描写びょうしゃおさめてある。「一文字いちもんじ隼人はやとかなんかいうのがやね、砂糖さとうつぼみたいなめんかぶってやね、オートバイにってはしるだけやねん[73]」。
  11. ^ 自宅じたくを「らくそう」と名付なづけ、戒名かいみょうが「まつづるいんしゃくさとるらく」。
  12. ^ さんまはさんばん弟子でしであるが、松之助まつのすけにとってはつ直弟子じきでしである。兄弟子あにでし2にん一門いちもんからうつりもんしてきたものであり、かついま廃業はいぎょうしているか死去しきょしているため松之助まつのすけ一門いちもんにおいては総領そうりょう弟子でしたる。
  13. ^ 松之助まつのすけ所属しょぞくはマックスポーツプラザ武庫川むこがわ[5]
  14. ^ 6代目だいめは5代目だいめ死後しご松之助まつのすけあずか弟子でしとはしていない。
  15. ^ わらいぶくてい松葉まつば7代目だいめわらいぶくていまつづる追贈ついぞうされる。
  16. ^ 松之助まつのすけ芸能げいのう生活せいかつ60周年しゅうねん記念きねんした吉本よしもと主催しゅさい舞台ぶたい
  17. ^ 原本げんぽんは『上方かみがたはなし』、落語らくごそう発行はっこう大阪おおさか中之島なかのしま図書館としょかん[125]京都大学きょうとだいがく図書館としょかんがそれぞれ収蔵しゅうぞうする。前者ぜんしゃ大阪おおさか資料しりょう典籍てんせきしつで〈藤沢ふじさわ文庫ぶんこ6009〉資料しりょうとして閲覧えつらんできる[126]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 桂米朝かつらべいちょう 2007, p. 93.
  2. ^ a b c d e 吉本興業よしもとこうぎょうによる公式こうしきプロフィール - どうサイトでは出身しゅっしんを「兵庫ひょうごけん明石あかし」としている。
  3. ^ 上方かみがた落語らくごだし囃子ばやし 内海うつみ英華えいかでございます
  4. ^ わらいぶくてい松之助まつのすけテレビ・アラ・カルト」『上方かみがた落語らくごだい全集ぜんしゅう ; 朝日放送あさひほうそう1080ふん落語らくごかい実況じっきょう録音ろくおんばん』トラック番号ばんごう B02、16ふん30びょう、Teichiku(OWCコード AB01)。国立こくりつ民族みんぞくがく博物館はくぶつかん音響おんきょう資料しりょう曲目きょくもくデータベース〈InfoLib 音響おんきょう資料しりょう曲目きょくもくデータベース P39085〉。1971ねん11月11にち大阪おおさかABCホールにて収録しゅうろく実況じっきょう録音ろくおん
  5. ^ a b c d e f くさのようにきられたら 2016, pp. 362–365.
  6. ^ a b c わらいぶくてい松之助まつのすけ』 - コトバンク 典拠てんきょは『デジタルばん 日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん+Plus』『タレントデータバンク』
  7. ^ 林家はやしやしみまる 2000, pp. 2–5.
  8. ^ a b c d e f g h i 林家はやしやしみまる 2000, pp. 207–208「りゃく年譜ねんぷ
  9. ^ a b 落語らくごわらいぶくてい松之助まつのすけさん死去しきょ 明石家あかしやさんまさんの師匠ししょう. 朝日新聞あさひしんぶんデジタル. (2019ねん2がつ23にち). https://www.asahi.com/articles/ASM2Q6WJJM2QPTFC02Q.html 2019ねん12がつ20日はつか閲覧えつらん 
  10. ^ a b 落語らくごわらいぶくてい松之助まつのすけさんが死去しきょ、93さい 明石家あかしやさんまさんの師匠ししょう. 毎日新聞まいにちしんぶんWEB. 毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ. (2019ねん2がつ22にち). https://mainichi.jp/articles/20190222/k00/00m/040/255000c.amp 2019ねん2がつ22にち閲覧えつらん 
  11. ^ a b わらいぶくてい松之助まつのすけさん死去しきょ 明石家あかしやさんまさん師匠ししょう上方かみがた落語らくごかいさい長老ちょうろう. 産経さんけいニュース (産経新聞さんけいしんぶんしゃ). (2019ねん2がつ22にち). https://www.sankei.com/life/news/190222/lif1902220057-n1.html 2019ねん2がつ22にち閲覧えつらん 
  12. ^ a b わらいぶくてい松之助まつのすけさんが死去しきょ、93さい老衰ろうすい明石家あかしやさんまの師匠ししょう - デイリースポーツ online 2019ねん2がつ22にち
  13. ^ 林家はやしやしみまる 2000, p. 8.
  14. ^ 林家はやしやしみまる 2000, pp. 79–81.
  15. ^ a b c d くさのようにきられたら 2016, pp. 8–14.
  16. ^ 林家はやしやしみまる 2000, p. 12.
  17. ^ a b くさのようにきられたら 2016, p. 12.
  18. ^ a b くさのようにきられたら 2016, p. 4.
  19. ^ a b くさのようにきられたら 2016, pp. 43–46.
  20. ^ 林家はやしやしみまる 2000, pp. 16-20-20.
  21. ^ 林家はやしやしみまる 2000, p. 110生家せいか位置いちしめ手書てがきの地図ちず
  22. ^ a b 林家はやしやしみまる 2000, pp. 16–20.
  23. ^ くさのようにきられたら 2016, pp. 360–361.
  24. ^ a b c d e よしもと100ねんわらいは地球ちきゅうすくう 「エンタツ・アチャコ」にあこがれて - ウェイバックマシン(2011ねん1がつ10日とおかアーカイブぶん)(スポーツニッポン、2009ねん10がつ17にちづけ
  25. ^ 林家はやしやしみまる 2000, p. 16.
  26. ^ くさのようにきられたら 2016, pp. 23–29.
  27. ^ くさのようにきられたら 2016, pp. 30–33.
  28. ^ a b c d e f 林家はやしやしみまる 2000, pp. 21–27.
  29. ^ 林家はやしやしみまる 2000, p. 28.
  30. ^ a b c くさのようにきられたら 2016, pp. 34–38.
  31. ^ a b c d くさのようにきられたら 2016, pp. 39–42.
  32. ^ a b c 林家はやしやしみまる 2000, pp. 29–31.
  33. ^ a b くさのようにきられたら 2016, p. 360.
  34. ^ くさのようにきられたら 2016, p. 367.
  35. ^ a b c d くさのようにきられたら, pp. 58–64.
  36. ^ a b c 林家はやしやしみまる 2000, pp. 34–36.
  37. ^ a b くさのようにきられたら, pp. 68–70.
  38. ^ a b c d e くさのようにきられたら, pp. 71–76.
  39. ^ a b c d 林家はやしやしみまる 2000, pp. 37–40.
  40. ^ a b c d 林家はやしやしみまる 2000, p. 48.
  41. ^ 林家はやしやしみまる, p. 47.
  42. ^ a b くさのようにきられたら, pp. 77–80.
  43. ^ a b c d くさのようにきられたら 2016, pp. 93–100.
  44. ^ a b c 林家はやしやしみまる 2000, p. 57.
  45. ^ a b c d e f g h i j k l 林家はやしやしみまる 2000, pp. 207–208, 「りゃく年譜ねんぷ」.
  46. ^ 林家はやしやしみまる 2000, pp. 66–73.
  47. ^ a b くさのようにきられたら 2016, pp. 101–102.
  48. ^ くさのようにきられたら 2016, pp. 103–106.
  49. ^ くさのようにきられたら 2016, pp. 107–110.
  50. ^ 林家はやしやしみまる 2000, p. 66.
  51. ^ 林家はやしやしみまる 2000, p. 79.
  52. ^ a b くさのようにきられたら 2016, pp. 79.
  53. ^ a b くさのようにきられたら 2016, pp. 111–114.
  54. ^ くさのようにきられたら 2016, p. 73.
  55. ^ a b c d くさのようにきられたら 2016, pp. 143–148.
  56. ^ くさのようにきられたら 2016, pp. 124–127.
  57. ^ くさのようにきられたら 2016, pp. 128–132.
  58. ^ 林家はやしやしみまる 2000, p. 99.
  59. ^ 林家はやしやしみまる 2000, p. 104.
  60. ^ a b c 林家はやしやしみまる 2000, p. 156.
  61. ^ くさのようにきられたら 2016, pp. 150–152.
  62. ^ a b 林家はやしやしみまる 2000, pp. 107–109.
  63. ^ くさのようにきられたら 2016, pp. 153–157.
  64. ^ 林家はやしやしみまる 2000, pp. 110–149.
  65. ^ a b c d e くさのようにきられたら 2016, pp. 158–166.
  66. ^ 林家はやしやしみまる 2000, p. 151.
  67. ^ a b c d e 林家はやしやしみまる 2000, pp. 152–153.
  68. ^ くさのようにきられたら 2016, pp. 167–171.
  69. ^ 林家はやしやしみまる 2000, p. 172.
  70. ^ a b c d くさのようにきられたら 2016, pp. 172–180.
  71. ^ a b くさのようにきられたら 2016, pp. 185–188.
  72. ^ 林家はやしやしみまる 2000, pp. 165–168.
  73. ^ くさのようにきられたら 2016, pp. 199–215.
  74. ^ ぴいぷる【わらいぶくてい松之助まつのすけ】“芸人げいにんらくさとる”は健在けんざい 代目だいめまつづる遺産いさんのこす『おそわった落語らくごしゅう』を執筆しっぴつちゅう (1/3ページ) ZAKZAK、2016ねん6がつ9にち
  75. ^ 芸能げいのうプレミアム】「さんまの師匠ししょう」まもなく91さい…ますます意気軒昂いきけんこうわらいぶくてい松之助まつのすけ(3/3ページ) 産経さんけいWEST、2016ねん6がつ18にち
  76. ^ 林家はやしやしみまる 2000, p. 173.
  77. ^ くさのようにきられたら 2016, pp. 222–226.
  78. ^ くさのようにきられたら 2016, pp. 227–229.
  79. ^ プレスリリース 2009ねん5がつ30にち ソフトバンクモバイル株式会社かぶしきがいしゃ S-1バトル大会たいかい事務じむきょく
  80. ^ わらいぶくてい松之助まつのすけはつ著書ちょしょおびにさんまコメント「師匠ししょう文才ぶんさいありますね」
  81. ^ 長尾ちょうび 2019, p. 192.
  82. ^ くさのようにきられたら 2016, pp. 246–252.
  83. ^ 林家はやしやしみまる 2000, pp. 49–54.
  84. ^ a b くさのようにきられたら 2016, pp. 167–207.
  85. ^ くさのようにきられたら, pp. 266–269.
  86. ^ a b 林家はやしやしみまる, pp. 178–181.
  87. ^ くさのようにきられたら 2016, pp. 270–273.
  88. ^ a b くさのようにきられたら 2016, pp. 254–255.
  89. ^ くさのようにきられたら 2016, pp. 256–261.
  90. ^ くさのようにきられたら 2016, pp. 274–279.
  91. ^ a b くさのようにきられたら, pp. 192–198.
  92. ^ くさのようにきられたら, pp. 256–261.
  93. ^ a b 林家はやしやしみまる, pp. 16-202-164.
  94. ^ 林家はやしやしみまる 2000, p. 2.
  95. ^ a b c d e f g h i j くさのようにきられたら 2016, p. 199.
  96. ^ a b さんま 芸名げいめい由来ゆらい 師匠ししょうおも秘話ひわ デイリースポーツ、2016ねん4がつ9にち配信はいしん
  97. ^ 林家はやしやしみまる 2000, pp. 200–201.
  98. ^ くさのようにきられたら 2016, pp. 230–242.
  99. ^ くさのようにきられたら 2016, pp. 8.
  100. ^ くさのようにきられたら 2016, pp. 43.
  101. ^ くさのようにきられたら 2016, pp. 218–221.
  102. ^ 林家はやしやしみまる 2000, p. 110.
  103. ^ 林家はやしやしみまる 2000, p. 21.
  104. ^ 林家はやしやしみまる 2000, pp. 86–87.
  105. ^ くさのようにきられたら 2016, p. 71.
  106. ^ a b 林家はやしやしみまる 2000, p. 152.
  107. ^ くさのようにきられたら 2016, pp. 165–166.
  108. ^ a b 林家はやしやしみまる 2000, pp. 187–189.
  109. ^ 林家はやしやしみまる 2000, pp. 189–196.
  110. ^ 林家はやしやしみまる 2000, pp. 187.
  111. ^ “さんま“師匠ししょうわらいぶくてい松之助まつのすけ芸能げいのう生活せいかつ60周年しゅうねん「さんまの看板かんばんおおきい」”. オリコンスタイル. (2008ねん11月16にち). https://www.oricon.co.jp/news/60139/full/ 2008ねん11月16にち閲覧えつらん 
  112. ^ a b c 林家はやしやしみまる 2000, p. 162.
  113. ^ a b くさのようにきられたら, pp. 136–138.
  114. ^ a b c くさのようにきられたら, pp. 188–192.
  115. ^ くさのようにきられたら 2016, pp. 356–357.
  116. ^ a b 林家はやしやしみまる 2000, pp. 165.
  117. ^ くさのようにきられたら 2016, pp. 374–376.
  118. ^ わらいぶくてい松之助まつのすけが90さいにしてはつ著書ちょしょ伝説でんせつてき芸人げいにん弟子でしさんまのエピソード収録しゅうろく」『おわらいナタリー』、2016ねん3がつ31にち2016ねん4がつ1にち閲覧えつらん
  119. ^ くさのようにきられたら 2016, p. 227.
  120. ^ 林家はやしやしみまる, pp. 207–208「りゃく年譜ねんぷ
  121. ^ 特集とくしゅう 学校がっこう怪談かいだん(4)わらいぶくてい松之助まつのすけインタビュー」『キネマ旬報きねまじゅんぽうだい1288ごうつうごう2102)、キネマ旬報社きねまじゅんぽうしゃ、1999ねん7がつ、70ぺーじ-。コマ番号ばんごう0036.jp2-、doi:10.11501/7906364国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんない公開こうかい
  122. ^ くさのようにきられたら 2016, p. 256.
  123. ^ くさのようにきられたら, p. 216.
  124. ^ わらいぶくてい松之助まつのすけ(代目だいめ) - オリコンTV出演しゅつえん情報じょうほう
  125. ^ 中之島なかのしま図書館としょかん藤沢ふじさわ文庫ぶんこ6009〉収載しゅうさいぶんだい3しゅう、から49しゅう(49さつ)のうち3–8、11、13–49しゅうの45さつ所蔵しょぞうかけごうは1、2、9、12しゅうの4さつ
  126. ^ 大阪おおさか府立ふりつ中之島なかのしま図書館としょかん 管理かんり番号ばんごう6001001252 (2013ねん8がつ6にち). “五代目笑福亭松鶴の発行はっこうした同人どうじん雑誌ざっし上方かみがたはなし」の原本げんぽん(1-49しゅう)をさがしております。中之島なかのしま図書館としょかん”. レファレンス協同きょうどうデータベース. 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん. 2021ねん9がつ15にち閲覧えつらん
  127. ^ 芸人げいにんまち片江かたえ”. 大阪おおさか. 2021ねん9がつ15にち閲覧えつらん
  128. ^ ろく代目だいめ わらいぶくていまつづる”. 大阪おおさか府立ふりつ上方かみがた演芸えんげい資料しりょうかん ワッハ上方かみがた. 2021ねん9がつ15にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]