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田中たなか友幸ともゆき

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たなか ともゆき
田中たなか 友幸ともゆき
田中 友幸
本名ほんみょう 田中たなか 友幸ともゆき
べつ名義めいぎ 神宮寺じんぐうじ八郎はちろう
生年月日せいねんがっぴ (1910-04-26) 1910ねん4がつ26にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1997-04-02) 1997ねん4がつ2にち(86さいぼつ
出生しゅっしょう 日本の旗 大阪おおさか柏原かしわばら
職業しょくぎょう 映画えいがプロデューサー
ジャンル 映画えいがテレビドラマ
活動かつどう期間きかん 1940ねん - 1997ねん
配偶はいぐうしゃ 中北なかきた千枝子ちえこつま女優じょゆう
 
受賞じゅしょう
ブルーリボンしょう
作品さくひんしょう
1980ねん影武者かげむしゃ
そのしょう
藤本ふじもとしょう
1991ねんゴジラ
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田中たなか 友幸ともゆきたなか ともゆき[出典しゅってん 1]1910ねん明治めいじ43ねん[出典しゅってん 2]4がつ26にち[出典しゅってん 3] - 1997ねん平成へいせい9ねん[8]4がつ2にち[5][7])は、映画えいがプロデューサー東宝とうほう映画えいが代表だいひょう取締役とりしまりやく会長かいちょう[出典しゅってん 4]日本にっぽん創造そうぞう企画きかく代表だいひょう取締役とりしまりやく会長かいちょう日本にっぽんアカデミーしょう協会きょうかいふく会長かいちょう日本にっぽん映画えいがテレビプロデューサー協会きょうかい顧問こもん歴任れきにん世界せかいてき有名ゆうめい怪獣かいじゅうゴジラ」の設定せってい着想ちゃくそうした人物じんぶつとしてられる。

映画えいが惑星わくせい大戦たいせんそう』では、神宮寺じんぐうじはちろうのペンネームで原作げんさく担当たんとうした[11]大阪おおさか[出典しゅってん 5]したけんげん柏原かしわばら出身しゅっしん[1]趣味しゅみ旅行りょこうとおとして、「友幸ともゆき」を「ゆうこう」とむことがおお[6]

サイン

家族かぞく

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  • 田中たなか友之ともゆきすすむ父親ちちおや陸軍りくぐん中佐ちゅうさ
  • 田中たなかコウ(母親ははおや
  • 田中たなか友信とものぶおとうと軍人ぐんじん、1992ねんに78さい他界たかい
  • 田中たなか由起子ゆきこいもうと
  • 中北なかきた千枝子ちえこつま女優じょゆう

学歴がくれき

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職歴しょくれき

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来歴らいれき

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大阪おおさか協同きょうどう劇団げきだんでの演劇えんげき活動かつどうて、東宝とうほう映画えいがプロデューサーとして活躍かつやく[8]。『ゴジラ』(1954ねん以降いこう同社どうしゃ看板かんばんシリーズとなった怪獣かいじゅう・SF映画えいがのほとんどをプロデュース[出典しゅってん 11]。また、「8.15」シリーズをはじめとするアクション映画えいが戦記せんき大作たいさく黒澤くろさわあきら岡本おかもと喜八きはちなどの監督かんとく作品さくひん手掛てがけ、喜劇きげき文芸ぶんげい作品さくひん専門せんもん分野ぶんやとしていたプロデューサー・藤本ふじもと真澄ますみとともに東宝とうほう黄金おうごん時代じだい牽引けんいんした[7]。なお、関西大学かんさいだいがくから演劇えんげき活動かつどうにかけての仲間なかまからは、俳優はいゆう志村しむらたかし脚本きゃくほん木村きむらたけしがのちに結集けっしゅうして特撮とくさつ路線ろせんささえている。

元々もともと健全けんぜん市民しみんカラーのつよ東宝とうほうにあって、ひたすら日常にちじょう世界せかい豪快ごうかい男性だんせい路線ろせん時代じだいげきふくむアクション映画えいが怪獣かいじゅう・SF映画えいが戦争せんそう・パニック映画えいが)にこだわりつづけた。東宝とうほう社内しゃない異端いたんわるべきところ、すうかいにわたって日本にっぽん映画えいが興行こうぎょう成績せいせき記録きろく更新こうしんするという空前絶後くうぜんぜつごのヒットメーカーぶりを発揮はっき結局けっきょく会社かいしゃいろまでえてしまった。今日きょうでは東宝とうほう創立そうりつ以来いらいのサラリーマン喜劇きげき文芸ぶんげい映画えいが以上いじょうに、田中たなか主導しゅどうした特撮とくさつ&アクション路線ろせん印象いんしょうつよくなっている。とりわけ『日本にっぽん沈没ちんぼつ』でだいヒットをばして以後いご東宝とうほうけい映画えいが館主かんしゅから絶大ぜつだい信頼しんらいけた。黒澤くろさわあきら作品さくひんも、田中たなかがプロデュースした1960ねんから1980ねんにかけての時期じき娯楽ごらくせいつよく、だいヒットさくおおい。

1976ねん前半ぜんはん黒澤くろさわ映画えいがいちにプロデュースして名声めいせいはくしながら東宝とうほうわれ、ピンク映画えいが監督かんとくてんじていたかつての同僚どうりょう本木もとぎそう二郎じろう窮死きゅうししたさい東宝とうほう関係かんけいしゃ唯一ゆいいつ葬儀そうぎ出席しゅっせき[よう出典しゅってん]した。そのすこまえには宝塚たからづか映画えいがあたりで本木もときをカムバックさせられないか打診だしんしていたといわれる。

三船みふねプロダクション設立せつりつ運営うんえいにももり岩雄いわお藤本ふじもと真澄ますみかわ喜多きた長政ながまさらとおおきく尽力じんりょくした[17]

没後ぼつご製作せいさくされた『モスラ3 キングギドラ来襲らいしゅう』(1998ねん)のげきちゅうに、主人公しゅじんこう祖父そふ肖像しょうぞうとして田中たなか写真しゃしんかざられている[18]

ゴジラシリーズについて

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ゴジラのみのおやとして紹介しょうかいされるのは円谷つぶらや英二えいじであることがおおいが、一般いっぱんられているゴジラの基本きほん設定せっていおもいつき、実際じっさい企画きかくげたのは田中たなかである[出典しゅってん 12][注釈ちゅうしゃく 3]田中たなかは、映画えいがキング・コング』を特撮とくさつ可能かのうせいかんじ『ゴジラ』のような映画えいが目指めざすようになったといい、世界せかいてきなキャラクターを創造そうぞうできたことは自身じしんほこりであるとべている[12]田中たなかはこのことにつよ自負じふいていたらしく、キネマ旬報きねまじゅんぽう誌上しじょう[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]北島きたじま明弘あきひろ執筆しっぴつしたゴジラ関連かんれん記事きじ自分じぶんへの言及げんきゅうがないことに不満ふまんいてし、インタビューを掲載けいさいさせたこともある[注釈ちゅうしゃく 4]

メカゴジラの逆襲ぎゃくしゅう』(1975ねん)でゴジラシリーズが一旦いったん終了しゅうりょうしたのちも、田中たなか陣頭じんとうってゴジラ復活ふっかつけた活動かつどうおこな[15][21]、『ゴジラ』(1984ねん)を実現じつげんさせるにいたった[22]東宝とうほうプロデューサーの富山とみやま省吾しょうごは、田中たなかはネバーギブアップのひとであったとひょうしている[23]

『ゴジラ』(1984年版ねんばん)では、9ねんぶりに復活ふっかつするゴジラであることからとくちかられていたといい、原案げんあんとして脚本きゃくほん作業さぎょう直接ちょくせつ意見いけんおこなったり、撮影さつえいでも現場げんば直接ちょくせつ指示しじをしたりするなどしていた[出典しゅってん 13]制作せいさく協力きょうりょく田中たなか文雄ふみおは、人生じんせい最後さいご作品さくひんであるかのように情熱じょうねつかたむけ、自身じしん怪獣かいじゅう映画えいがそう決算けっさんのようであったとひょうしている[24]。また、監督かんとく橋本はしもと幸治こうじは、田中たなかがゴジラを侮辱ぶじょくするようなセリフにいきどおっていたことにさいし、田中たなか自身じしんとゴジラをかさわせているのだと解釈かいしゃくしている[25]一方いっぽうで、どう作品さくひんがゴジラ復活ふっかつもとめていたファンからの評価ひょうかかんばしくなかったことについてはおもめ、つぎさくゴジラvsビオランテ』(1989ねん)ではストーリーの公募こうぼおこない、バイオテクノロジーの設定せっていれるなどハリウッド映画えいがのようなエンターテイメントせい重視じゅうしし、スタッフの世代せだい交代こうたいはかるなど、あらたな要素ようそ精力せいりょくてきれていった[26]

ゴジラをつうじてかく問題もんだいえがくことも重視じゅうししており、『ゴジラ』(1984年版ねんばん)ではスタッフの反対はんたいってゴジラが原子力げんしりょく発電はつでんしょ襲撃しゅうげきするシーンをんだほか[24]、『ゴジラvsキングギドラ』(1991ねん)では日本にっぽん企業きぎょう原子力げんしりょく潜水せんすいかんもちいてゴジラを誕生たんじょうさせるという展開てんかいつよ反対はんたいした[27][28]特技とくぎ監督かんとく中野なかのあきらけいは、ゴジラからかく要素ようそはずすことを提案ていあんしたところ、田中たなかは「かくもう」であることがゴジラのテーマだとべたことを証言しょうげんしている[29]一方いっぽうで、『vsキングギドラ』では水爆すいばく実験じっけんでゴジラが誕生たんじょうする瞬間しゅんかんえがくことにも反対はんたいしており、東宝とうほうプロデューサーの富山とみやま省吾しょうごによればエンターテイメントとしてどこまでむべきか田中たなか懸念けねんしていたといい、映画えいがのテーマはかくすという美学びがくぬしでもあったとべている[30]

『vsビオランテ』の監督かんとくつとめた大森おおもり一樹かずきは、田中たなか高齢こうれいながら自身じしんめてうごいて映画えいがつくっているという姿勢しせいであり、「ゴジラとはわたしだ」という田中たなか意志いしつよかんじていたといい、事実じじつじょうどう作品さくひん田中たなか最後さいごのゴジラ映画えいがであったとかたっている[31]完成かんせい田中たなかから握手あくしゅもとめられ「ありがとう」とわれ、大森おおもりはすごい仕事しごとをしたのだと実感じっかんしたと述懐じゅっかいしている[32]

富山とやまによれば、『vsビオランテ』では特技とくぎ監督かんとく川北かわきた紘一こういちによる改訂かいてい脚本きゃくほんもあったとされるが、田中たなかは「円谷つぶらやにもやらせなかったことは川北かわきたにやらせない」として、特撮とくさつ監督かんとく脚本きゃくほんくことをれなかったという[32]大森おおもりは、田中たなかがプロデューサーとしてひからせ自身じしん川北かわきたをうまくコントロールしていたと述懐じゅっかいしている[31]

ゴジラを自分じぶん息子むすこともしょうしており、『vsキングギドラ』でのインタビューでは「ゴジラだけはだれにもつくらせられないし、つくらせたくない」ともべていた[3]。しかし、『vsキングギドラ』以降いこうは、田中たなか体調たいちょう問題もんだいがあり、プロデューサー業務ぎょうむ富山とみやま省吾しょうご比重ひじゅうかれていった[33][23][注釈ちゅうしゃく 5]。1992ねんの『ゴジラvsモスラ』からは広尾ひろお自宅じたくでリハビリ療養りょうようをとりながら東宝とうほうスタジオへ視察しさつするかたちとなり、わせは富山とやまはやし芳信よしのぶ社長しゃちょう自宅じたく訪問ほうもんしておこなかたちとなった[35][23]平成へいせいゴジラVSシリーズの最終さいしゅうさくにして、田中たなかたずさわった最後さいごのゴジラ作品さくひんでもある『ゴジラvsデストロイア』(1995ねん)では、ゴジラをなせることを了承りょうしょうしつつ、シリーズ自体じたい継続けいぞくできるような結末けつまつとすることを要望ようぼうしたという[出典しゅってん 14]

1998ねん公開こうかいされた『GODZILLA』のエンドクレジットの最後さいごには、「田中たなか友幸ともゆきおもささぐ」という一文いちぶんしるされている。

人物じんぶつ

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その硬派こうは一貫いっかんした作品さくひんぐん上記じょうきのインタビューのような強気つよきなエピソード、三菱みつびし創価学会そうかがっかいともふといパイプをきず東宝とうほうグループ製作せいさく部門ぶもん君臨くんりんした晩年ばんねんのポジションなどから、強面こわおもてなイメージでかたられることもおおいが、実際じっさい柔和にゅうわ温厚おんこう調整ちょうせいがた人物じんぶつであったとされる。試写ししゃでまずいところがあると、隣席りんせき監督かんとくをつねってくるなど、お茶目ちゃめめんもあった。なお、1970年代ねんだい後半こうはんには本社ほんしゃ専務せんむ取締役とりしまりやくである西野にしの一夫かずお社長しゃちょうねる東宝とうほう映像えいぞう会長かいちょうをつとめるなど、藤本ふじもと引退いんたい年齢ねんれいもあって本社ほんしゃ役員やくいんじん上手じょうず長老ちょうろうとしてぐうされながらも、もり藤本ふじもと[注釈ちゅうしゃく 6]とはことなっていち本社ほんしゃ取締役とりしまりやくにはかなかった。そのため、本体ほんたい中枢ちゅうすうりとえにプロデューサーの肩書かたがきをはずさざるをなかったかれ[注釈ちゅうしゃく 7]ちがって、終生しゅうせい製作せいさく部隊ぶたいである株式会社かぶしきがいしゃ東宝とうほう映画えいが膝下ひざもとかかえ、オーナーがたでさえ海外かいがいにもるいのない、86さいまでなく作品さくひん発表はっぴょうするという映画えいがプロデューサー人生じんせいを、しかもサラリーマンがたでまっとうすることとなった[注釈ちゅうしゃく 8]

ゴジラ委員いいんかい委員いいんちょうつとめた東宝とうほう堀内ほりうち實三じつぞうは、田中たなかについて熱心ねっしんでしつこい人物じんぶつであったとひょうしており、時間じかんわず電話でんわをかけてきてすで会議かいぎした内容ないようについてなんはなすこともおおかったという[6]。また、田中たなかとくにゴジラにたいしておもれがふかかったとべている[6]

富山とやまも、田中たなか夜中よなかでも仕事しごと電話でんわをかけてきて、てしまうと30ふんではまなかったと証言しょうげんしている[23]

あかつき追跡ついせき』ではじめて田中たなかんだ映画えいが監督かんとく市川いちかわこんは、「あのひとわかいころから、”田中たなかぎゅう五郎ごろう”なんてわれるくらい、ねば有名ゆうめいだったんですよ」と、後年こうねん取材しゅざい証言しょうげんしている。『てんいち番手ばんて 青春せいしゅんぜにがた平次へいじ』でふたた田中たなかんださい主役しゅやく起用きようかんして、大谷おおや友右衛門ともえもんしたい田中たなか突然とつぜん市川いちかわ監督かんとく自宅じたくにやってはないをはじめたが、元々もともと池部いけべりょう主演しゅえん映画えいがすすめていた市川いちかわとのあいだいがつかず、挙句あげくてに応接間おうせつまのソファーに平然へいぜんよこになってねば態度たいどはじめたため、最初さいしょつま和田わだなつじゅう助言じょげんもあってことわるつもりでいた市川いちかわも、ついに根負こんまけして大友おおとも起用きようするにいたった逸話いつわ[38]富山とやまは、しゃべりもはなやかではないが、力強ちからづよあきらめずにすすむことから「ウシの田中たなか」とばれていたと証言しょうげんしている[23]

中野なかのは、田中たなか勉強べんきょうで、新聞しんぶん全紙ぜんしとっており、自宅じたくには週刊しゅうかんかさねられており、それらからアイデアを記事きじやぶってあるいていたと証言しょうげんしている[39]ときには百科ひゃっか事典じてんやぶっていたこともあったという[39]。また、田中たなか円谷つぶらや英二えいじねばづよさをっていたといい、藤本ふじもと企画きかく許可きょかもとめたさいには、寝入ねいった藤本ふじもとのベッドのよこつづけていたこともあった[39]

撮影さつえい現場げんばでは、プライベートで撮影さつえい風景ふうけい8ミリカメラおさめており、モノクロ映画えいがである『用心棒ようじんぼう』のカラーメイキングや、カットとなりフィルムが現存げんそんしないとされる『モスラ』の九州きゅうしゅうロケの様子ようすなど、貴重きちょう映像えいぞうのこされている[40]田中たなか死後しご、これらのフィルムはカメラマンであった古山ふるやまただし保管ほかんしている[40]

中野なかのは、田中たなか正面しょうめんからの正義せいぎのドラマづくりをこのんでおり、また破壊はかい描写びょうしゃこのみ、画面がめん派手はでであればよろこんでいたと証言しょうげんしている[29]富山とやまは、田中たなかから映画えいがづくりのコツとして「10ふんに1かい、30ふんに1かいおおきな最後さいごにクライマックス」とおしえられたという[23]

戦争せんそう映画えいがでは『連合れんごう艦隊かんたい』(1981ねん)が自身じしん集大成しゅうたいせいであるとかたっており、どう作品さくひんとゴジラ映画えいが自身じしん双璧そうへきであるとべている[3]

田中たなかものきであったといい、鉄道てつどう旅行りょこうこのんでいたほか、仕事しごとでも映画えいがプロデューサーが使用しようしていないころから運転うんてん手付てつきのくるま移動いどうしていたという[23]

博覧はくらんかいとのかかわり

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1967ねん1がつ大阪おおさか万博ばんぱくけて、三菱みつびし万国博ばんこくはく綜合そうごう委員いいんかい寺尾てらお一郎いちろう委員いいんちょうから三菱みつびしパビリオンのプロデューサー就任しゅうにんもとめられる。基本きほん出展しゅってん構想こうそうるために起案きあんメンバーに未来みらい志向しこう福島ふくしま正実まさみほし新一しんいち矢野やのとおる真鍋まなべひろし起用きようする。同年どうねん三菱みつびしかんのテーマ「日本にっぽん自然しぜん日本人にっぽんじんゆめ」にまる。かんめいを「三菱みつびし来館らいかん」とし、明解めいかいなメッセージを発信はっしんする。プロローグとエピローグは歩行ほこうどうせんぜんしつ映像えいぞうつつまれる日本にっぽん自然しぜんと50ねん日本にっぽんの「そら」「うみ」「りく」の未来みらいゾーンは、うご歩道ほどうつよ制動せいどうせんとする。田中たなかプロデューサーの意図いとする展示てんじかりやすさと臨場りんじょうかん見事みごと観客かんきゃくつたわった。EXPO'70では人気にんきベストスリーとなり、三菱みつびし来館らいかんは1,142まんにん動員どういんほこる。

1971ねん1がつ8にち東宝とうほう三菱商事みつびししょうじ三菱地所みつびしじしょ出資しゅっしにより日本にっぽん創造そうぞう企画きかく株式会社かぶしきがいしゃ東京とうきょう千代田ちよだまるうち)を設立せつりつ田中たなか友幸ともゆき創業そうぎょう社長しゃちょうとなる。時代じだい先取さきどりする「レジャー」、「教育きょういく環境かんきょう」、「流通りゅうつう」の企画きかく制作せいさく営業えいぎょうはしらとする。

とく博覧はくらんかい部門ぶもんは「沖縄おきなわ海洋かいようはく」、「ポートピア'81」、「科学万博かがくばんぱくつくば'85」では三菱みつびし来館らいかん総合そうごうプロデューサーを歴任れきにんする。

田中たなか友幸ともゆき博覧はくらんかいへの信条しんじょうは、かかげたテーマをかりやすく具現ぐげんし、動員どういんすうたかめるため駆動くどう装置そうち(ライド)を導入どうにゅうすることであった。海洋かいようはくでは高低こうていのあるムービングシート1しゅう140m、ポートピア'81では直径ちょっけい28m回転かいてん劇場げきじょう / ラウンドロード、科学万博かがくばんぱくではモーションコントロール・カー1しゅう160m16車両しゃりょうによる強制きょうせいどうせん採用さいようする。三菱みつびしグループ企業きぎょうのうちの三菱重工業みつびしじゅうこうぎょうのハード技術ぎじゅつ博覧はくらんかい活用かつようさせる。

それぞれの博覧はくらんかいでは、「うみ資源しげん展開てんかいする海洋かいようはく」、「宇宙うちゅうから深海しんかいまでの生活せいかつおよぼす事象じしょうポートピア'81」、「生命せいめい起源きげんから宇宙うちゅう開発かいはつめぐ科学万博かがくばんぱく」のふくあい展示てんじ採用さいようした。

映画えいがじん田中たなか友幸ともゆきにとっての博覧はくらんかい徹底てっていしたライブかん持続じぞくしていた。博覧はくらんかい開幕かいまくしてもパビリオンにはいると展示てんじ手直てなおしを要求ようきゅうする。博覧はくらんかい展示てんじものである。その持論じろんときがなかった。反面はんめん映画えいがちが一発いっぱつ勝負しょうぶ博覧はくらんかいである、と。そのこわさををもって体験たいけんされていた。

日本にっぽん創造そうぞう企画きかくでは、取締役とりしまりやく社長しゃちょうを21年間ねんかん取締役とりしまりやく会長かいちょうを5年間ねんかんつとめる。株式会社かぶしきがいしゃ東宝とうほう映画えいがプロデューサーのなか、イベント会社かいしゃ多角たかくてき活動かつどうしたものめずらしい。田中たなか友幸ともゆきはかねがね一発いっぱつ勝負しょうぶ仕事しごともさりながら継続けいぞくせいのあることに専念せんねんせよととなえていた。日本にっぽん創造そうぞう企画きかく出資しゅっし会社かいしゃ三菱地所みつびしじしょから横浜よこはまみなとみらい21地区ちく横浜よこはまランドマークタワー展望てんぼうフロアスカイガーデン」などの集客しゅうきゃく施設しせつ運営うんえい業務ぎょうむに携り、田中たなか友幸ともゆき提唱ていしょうこたえている。

交友こうゆう関係かんけい

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東宝とうほう俳優はいゆうであった夏木なつき陽介ようすけによれば、田中たなか夏木なつき鶴田つるた浩二こうじさかい左千夫さちお仲代なかだい達矢たつやなどを自宅じたくまねいてよく麻雀まーじゃんをやっていた[41]

夏木なつきは、自身じしんのチームが出場しゅつじょうしたパリ・ダカールラリー壮行そうこうかい田中たなかにスピーチを依頼いらいするなど、俳優はいゆうぎょう以外いがいでも生涯しょうがい交流こうりゅうがあったという[41]

おも製作せいさく担当たんとう作品さくひん

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東宝とうほう社員しゃいん時代じだい契約けいやくプロデューサー時代じだい

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東宝とうほう映像えいぞう社長しゃちょう時代じだい

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東宝とうほう映画えいが社長しゃちょう時代じだい

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東宝とうほう映画えいが会長かいちょう時代じだい

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東宝とうほう映画えいが相談役そうだんやく時代じだい

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受賞じゅしょうれき

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 資料しりょうによっては、1939ねん記述きじゅつしている[8]
  2. ^ 書籍しょせき『ゴジラ来襲らいしゅう』では、「1948ねん」と記述きじゅつしている[10]
  3. ^ 円谷つぶらやだい1さくでは実質じっしつカメラを有川ありかわさだあきらまかせて特撮とくさつ全体ぜんたい指揮しきしていたものの、タイトルじょう特殊とくしゅ撮影さつえい担当たんとうしゃとして、特殊とくしゅ美術びじゅつ合成ごうせいならぶ3にんの「特殊とくしゅ技術ぎじゅつ」の1人ひとりとしてしかあつかわれていない。
  4. ^ 北島きたじまはそのおもれのつよさにかんったとしるしている。
  5. ^ どう作品さくひん監督かんとく大森おおもり一樹かずきは、このころから田中たなかはあまり意見いけんさず、譲歩じょうほすることがおおくなったと証言しょうげんしている[34]
  6. ^ あるいは田中たなかのち東宝とうほう映画えいが社長しゃちょういたはやし芳信よしのぶ島谷しまたに能成よしなり市川南いちかわみなみ
  7. ^ 藤本ふじもと退社たいしゃにフリープロデューサーにてんじる予定よていだったがによってたせなかった。
  8. ^ 東宝とうほうプロデューサーの田中たなか文雄ふみおは、プロデューサーぎょう消耗しょうもうはげしいので5ねんもてばいいかただといい、これをつづけている友幸ともゆきすごひとだとひょうし、はたやくとしても重要じゅうようであったとべている[22]

出典しゅってん

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  34. ^ 平成へいせいゴジラクロニクル 2009, pp. 226–229, 「だい7しょう 平成へいせいゴジラシリーズをつくったおとこたち 大森おおもり一樹かずき
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出典しゅってん(リンク)

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • Gakken MOOK(Gakken
    • 『ENCYCLOPEDIA OF GODZILLA ゴジラだい百科ひゃっか監修かんしゅう 田中たなか友幸ともゆき責任せきにん編集へんしゅう 川北かわきた紘一こういちGakken〈Gakken MOOK〉、1990ねん1がつ1にち 
    • 『ENCYCLOPEDIA OF GODZILLA 最新さいしんゴジラだい百科ひゃっか監修かんしゅう 田中たなか友幸ともゆき責任せきにん編集へんしゅう 川北かわきた紘一こういち、Gakken〈Gakken MOOK〉、1991ねん12月1にち 
    • 『ENCYCLOPEDIA OF GODZILLA ゴジラだい百科ひゃっか しんモスラへん監修かんしゅう 田中たなか友幸ともゆき責任せきにん編集へんしゅう 川北かわきた紘一こういち、Gakken〈Gakken MOOK〉、1992ねん12がつ10日とおか 
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  • テレビマガジン特別とくべつ編集へんしゅう 誕生たんじょう40周年しゅうねん記念きねん ゴジラだい全集ぜんしゅう構成こうせい執筆しっぴつ:岩畠いわはた寿明としあき(エープロダクション)、赤井あかいまさしなお講談社こうだんしゃ、1994ねん9がつ1にちISBN 4-06-178417-X 
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  • 別冊べっさつ映画えいが秘宝ひほう モスラ映画えいが大全たいぜんよういずみしゃよういずみしゃMOOK〉、2011ねん8がつ11にちISBN 978-4-86248-761-2 
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  • コンプリーションシリーズ(ホビージャパン
    • 『ゴジラVSビオランテ コンプリーション』ホビージャパン、2015ねん12月16にちISBN 978-4-7986-1137-2 
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    • 『ゴジラVSキングギドラ コンプリーション』ホビージャパン、2020ねん3がつ31にちISBN 978-4-7986-2176-0 
  • 別冊べっさつ映画えいが秘宝ひほう編集へんしゅう へん『ゴジラとともに 東宝とうほう特撮とくさつVIPインタビューしゅうよういずみしゃ映画えいが秘宝ひほうCOLLECTION〉、2016ねん9がつ21にちISBN 978-4-8003-1050-7 

外部がいぶリンク

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先代せんだい
藤本ふじもと真澄ますみ
株式会社かぶしきがいしゃ東宝とうほう映画えいが社長しゃちょう
だい2だい(1975ねん - 1981ねん
次代じだい
はやし芳信よしのぶ