(Translated by https://www.hiragana.jp/)
渡辺邦男 - Wikipedia コンテンツにスキップ

渡辺わたなべ邦男くにお

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
わたなべ くにお
渡辺わたなべ 邦男くにお
渡辺 邦男
キネマ旬報社きねまじゅんぽうしゃキネマ旬報きねまじゅんぽうだい114ごう(1955)より
生年月日せいねんがっぴ (1899-06-03) 1899ねん6月3にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1981-11-05) 1981ねん11月5にち(82さいぼつ
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん 静岡しずおかけん田方たがたぐん三島みしままちげん三島みしま
職業しょくぎょう 映画えいが監督かんとく俳優はいゆう
テンプレートを表示ひょうじ

渡辺わたなべ 邦男くにお(わたなべ くにお、1899ねん明治めいじ32ねん6月3にち - 1981ねん昭和しょうわ56ねん11月5にち[1])は、大正たいしょう昭和しょうわ俳優はいゆう映画えいが監督かんとく

経歴けいれき[編集へんしゅう]

静岡しずおかけん田方たがたぐん三島みしままちげん三島みしま出身しゅっしん

旧制きゅうせい静岡しずおか県立けんりつ沼津ぬまづ中学ちゅうがくげん静岡しずおか県立けんりつ沼津ぬまづひがし高等こうとう学校がっこう卒業そつぎょう早稲田大学わせだだいがく商学部しょうがくぶ入学にゅうがくし、浅沼あさぬま稲次郎いねじろうらと建設けんせつしゃ同盟どうめい結成けっせいし、左翼さよく運動うんどうとして活躍かつやく卒業そつぎょうはコネで朝日新聞社あさひしんぶんしゃ営業えいぎょうはいるが、部長ぶちょうから「もぐり入社にゅうしゃ」とわれ憤然ふんぜん退社たいしゃ劇団げきだんくわわり地方ちほう巡業じゅんぎょうるが、解散かいさんる。

仕事しごともとめて日活にっかつ大将軍だいしょうぐん撮影さつえい所長しょちょう池永いけなが浩久ひろひさ紹介しょうかいされる機会きかいち、面接めんせつ監督かんとく志望しぼうつたえるが「3年間ねんかん俳優はいゆうをしろ」とめいじられ、初任しょにんきゅう30えんやとわれる。

1924ねん大正たいしょう13ねん)、『青春せいしゅんうた』(村田むらたみのる監督かんとく)で、運動会うんどうかい応援おうえんだん旗手きしゅやく映画えいがデビュー。大部屋おおべや女優じょゆう結婚けっこんするが、スタアの児島こじま三郎さぶろうちされるなどにが下積したづ生活せいかつおくり、尾上おがみ松之助まつのすけまでさせられる。その巨匠きょしょう監督かんとく池田いけだ富保とみやす助監督じょかんとくになり、はやりのテクニックをマスター。

1928ねん昭和しょうわ3ねん)、日活にっかつ京都きょうと太秦うずまさ撮影さつえいしょうつり、池田いけだ長谷部はせべよししんのペンネームで脚本きゃくほんいた『けんらんもり』で監督かんとくデビュー。

1929ねん昭和しょうわ4ねん)5がつあね世話せわ結婚けっこん

1934ねん昭和しょうわ9ねん)、各社かくしゃ競作きょうさくになった『さくら音頭おんど』で5日間にちかん徹夜てつやし、9日間にちかんりあげ、他社たしゃいて公開こうかいだい成功せいこう。“はや監督かんとく”としてみとめられる。にちちゅう戦争せんそう激化げきかすると戦地せんち赴任ふにん

1935ねん昭和しょうわ10ねん)、『召集令しょうしゅうれい』という国策こくさく映画えいがる。同年どうねんミュージカル調ちょう映画えいが『うらがい交響楽こうきょうがく』(1935ねん)が東京とうきょう新聞しんぶんしゃげん毎日新聞社まいにちしんぶんしゃだい1かい映画えいがコンクールで1とう入選にゅうせん

1936ねん昭和しょうわ11ねん)、二・二六事件ににろくじけん高橋たかはし是清これきよ暗殺あんさつされると、おか譲二じょうじ高橋たかはしやくえ、大作たいさく高橋たかはし是清これきよでん まえへん』を監督かんとく評判ひょうばんになる。

1937ねん昭和しょうわ12ねん)、東宝とうほう移籍いせきはやし長二ちょうじろう長谷川はせがわ一夫かずお)の松竹しょうちくから東宝とうほうへの移籍いせきだいいちさく源九郎義経げんくろうよしつね』を監督かんとくするが、はやし松竹しょうちくけい会社かいしゃやとったヤクザにかおられるテロ事件じけんこり撮影さつえい中止ちゅうし

1939ねん昭和しょうわ14ねん)、満州まんしゅうロケを敢行かんこうし、復帰ふっきした長谷川はせがわ香蘭こうらん主演しゅえんとしたロマンスもの『はくらんうた』がだいヒット。

1946ねん昭和しょうわ21ねん)、『みどり故郷こきょう』、『麗人れいじん』の2ほんはら節子せつこ主演しゅえん一気いっきりあげる。

このとし東宝とうほう撮影さつえい所内しょないでは東宝とうほう争議そうぎこる。渡辺わたなべは「きくはた同志どうしかい」という反共はんきょう右派うはグループを主宰しゅさいし、はん組合くみあいのリーダーかくとなった。東宝とうほう社長しゃちょう渡辺わたなべ銕蔵からの命令めいれいけて、愚連隊ぐれんたい首領しゅりょうまんねん東一とういちに、日比谷ひびや映画えいがかんのストやぶりを依頼いらいした。

1947ねん昭和しょうわ22ねん)、はん組合くみあい東宝とうほう脱退だったいぐみつくられたしん東宝とうほううつり、同社どうしゃだい1さく今日きょうおどって』を監督かんとく同年どうねん富田とみた常雄つねお原作げんさくだれゆめなき』は大学だいがくのラグビー選手せんしゅめぐさんにん女性じょせいのすれちがいメロドラマで、主題歌しゅだいかとともにしん東宝とうほう最初さいしょのヒットさくになった。以後いごはやりでプログラム・ピクチャーを量産りょうさんしヒットをかさねる。

1952ねん昭和しょうわ27ねん)、「はやりの巨匠きょしょう」としてちょう高給こうきゅう東映とうえい移籍いせきし、ヒットさく連発れんぱつ。1953ねんには片岡かたおか千恵ちえぞう主演しゅえんの『大菩薩峠だいぼさつとうげさんさく10日とおかったという(内田吐夢うちだとむによるものとはべつ作品さくひん)。

1955ねん昭和しょうわ30ねん)、しん東宝とうほうしん社長しゃちょう大蔵おおくらみつぐ制作せいさく本部ほんぶちょうかくまねかれ、しん東宝とうほう復帰ふっき神業かみわざてきちゅう撮影さつえいで、わずか1週間しゅうかんわった作品さくひんもあった(通常つうじょう作品さくひんは30にちから45にち程度ていど)。

1956ねん昭和しょうわ31ねん)、年間ねんかん12ほん撮影さつえい経営けいえい危機ききおちいっていたしん東宝とうほうは、「はややすく」をモットーとする大蔵おおくら社長しゃちょうしん方針ほうしんした監督かんとく渡辺わたなべならわせるほどであった。

1957ねん昭和しょうわ32ねん)、『明治天皇めいじてんのうにち大戦たいせんそう』が封切ふうきりで8おくえんはいおさむをあげる史上しじょう空前くうぜんだいヒット。経営けいえいくるしむしん東宝とうほう負債ふさい一気いっき返済へんさいさせて救世主きゅうせいしゅとなり、「渡辺わたなべ天皇てんのう」の異名いみょうをとる。つづいて『ひばりさんやく きおいつやせつすすむ変化へんか』もだいヒット。

1958ねん昭和しょうわ33ねん)、しん東宝とうほう退社たいしゃ同年どうねん大映だいえいオールスター映画えいが忠臣蔵ちゅうしんぐら』をだいヒットさせたのち美空みそらひばりとコンビで東映とうえいの『べらんめえ芸者げいしゃ』シリーズなど、東映とうえい大映だいえい松竹しょうちくなどでフリーで活躍かつやくする。しかし、その映画えいが機会きかいになかなかめぐまれず、テレビにうつるなど冷遇れいぐうされた(このとき中村なかむら吉右衛門きちえもん主演しゅえんの『みぎもん捕物とりものじょう』(1969ねんNTVけい)の監修かんしゅう初期しょきかい監督かんとく手掛てがけている)。

1970ねん昭和しょうわ45ねん)、久々ひさびさった竹脇無我たけわきむが主演しゅえんの『姿すがた三四郎さんしろう』(松竹しょうちく)が最後さいご映画えいが監督かんとく作品さくひんとなる。

1975ねん昭和しょうわ50ねん)、くんさんとう瑞宝章ずいほうしょう受章じゅしょう

1976ねん昭和しょうわ51ねん)、健康けんこうがい引退いんたい

1981ねん昭和しょうわ56ねん)11月5にち肺炎はいえんのため死去しきょ享年きょうねん82。

人物じんぶつ・エピソード[編集へんしゅう]

「カット」をさけさい、いつもこうむっている鳥打帽とりうちぼう地面じめんげつけ、みにじるくせがあった。『日蓮にちれんこうむだい襲来しゅうらい』では、クレーンにって演出えんしゅつしていることをわすれ、カットのさいおもわず鳥打帽とりうちぼうげるが、当然とうぜん帽子ぼうし地面じめん落下らっかつづいてのくせ帽子ぼうしもうとした渡辺わたなべ監督かんとくあしはずし、地面じめん落下らっか、「カット」とさけんだものの、病院びょういんきとなった。これをていたなべおさみが、後年こうねんシャボンだまホリデー』でのたりやく、キントト映画えいが監督かんとくのモデルとした。また演出えんしゅつちゅうはずしてでもてあそんでいて、カチカチおとがノイズにはいってなんもリテイクをしたことがある[2]

「クニさん」の愛称あいしょうしたしまれ、くちヒゲがトレードマークだった。マキノ雅弘まさひろ監督かんとくならはやりの名人めいじんであり、稲垣いながきひろしは「はやりの西にし横綱よこづなはクニさんである」とべている。

昭和しょうわ13、4ねんごろ、弟子でし予定よてい日数にっすう半分はんぶんぎてもいっくに仕事しごとがはかどらないので、師匠ししょう稲垣いながき応援おうえんしていたとき、渡辺わたなべがちょうど『丹下たんげひだりぜん』をっていた。昼食ちゅうしょく二人ふたりかおわせると、渡辺わたなべが「きみンとこはいくカットった? オレのほうは30カットだ」とってきた。稲垣いながきは10カットもっていなかった。夕食ゆうしょくのとき、渡辺わたなべは「おい、70カットをしたぞオレのほうは」とニコニコしていた。そのばんたがいにだい徹夜てつやおこない、翌朝よくあさ食堂しょくどうかおわせると渡辺わたなべは「おい、160カットだぞ、どうだどうだ」とご満悦まんえつだった。稲垣いながきが「こっちは85カットだが、そのかわりさんせんフィートまわしたぞ」とうと、渡辺わたなべくやしそうなかおで「チェッ、しゃくけたか!」とかえした。稲垣いながきは「よほどシャクだったらしい」と、このときの渡辺わたなべ様子ようすかたっている[3]

渡辺わたなべ監督かんとくし、しん東宝とうほう製作せいさくされた『隠密おんみつ若衆わかしゅ』(1955ねん

しん東宝とうほう映画えいがみのおやであり、大蔵おおくらみつぐ社長しゃちょう就任しゅうにんは「娯楽ごらく映画えいが巨匠きょしょう」とばれた手腕しゅわんしん東宝とうほうなおしをはかっている、昭和しょうわ32ねんの『明治天皇めいじてんのうにち大戦たいせんそう』では、大蔵おおくら社長しゃちょうとともに企画きかくげていて、あらしひろし寿郎としお天皇てんのうやくをひきうけるよう説得せっとくにあたっている。アラカンが「そらあきまへん、不敬ふけいざいですわ、右翼うよくころしによります」とあわててことわったが、渡辺わたなべすずしいかおで「大丈夫だいじょうぶや、ボクかて右翼うよくやないか」とこたえたという。アラカンは「身体しんたいはこまいがきもたまふとい」とこの監督かんとくひょうしている。

しん東宝とうほう映画えいが映画えいが評論ひょうろんかいからは「Bきゅう娯楽ごらく専門せんもん」としてあしらわれ、ジャーナリストたちは試写ししゃにもなかった。渡辺わたなべ昭和しょうわ31ねんった『怨霊おんりょう佐倉さくら騒動そうどう』は、まわりのない異色いしょく時代じだいげきで、名主なぬしやく主演しゅえんのアラカンが刑場けいじょう子供こどもさきたれて「我々われわれさきころしてくれ!」と絶叫ぜっきょうする場面ばめんがクライマックスだったが、映画えいが批評ひひょうではありもしない「ラストのまわりに迫力はくりょくがある」などとかれる有様ありさまだった。たいする大蔵おおくら社長しゃちょうも『明治天皇めいじてんのうにち大戦たいせんそう以降いこうやなぎした泥鰌どじょうねらって天皇てんのう映画えいが熱中ねっちゅうする一方いっぽうだった。アラカンは「このあたりがゆうならワテのわかみち渡辺わたなべ監督かんとくはとっくに大蔵おおくらみつぐはんに見切みきりをつけておりました。『明治天皇めいじてんのうにち大戦たいせんそう』であてて、もうひとつおまけに『ゆきすすむ変化へんか』、美空みそらひばりでしこたま会社かいしゃかねもうけさせて、しん東宝とうほうからっていかはりました」とかたっている[4]

ろくなんななじょの8番目ばんめ三男さんなん。ヤス夫人ふじんとのあいだいちなんさんじょがあり、息子むすこ渡辺わたなべ邦彦くにひこ東宝とうほう監督かんとくになった。長兄ちょうけい友雄ともお三島みしま市長しちょうつとめ、あねひゃくごう(ゆり)は河井かわいみち門下生もんかせいコロンビア大学ころんびあだいがく卒業そつぎょうめぐみいずみおんな学園がくえん理事りじつとめているが、PWCのボナー・フェラーズとともに極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん東京とうきょう裁判さいばん)の天皇てんのう訴追そつい回避かいひ尽力じんりょくした「一色いっしきゆり一色いっしょく乕児と結婚けっこん)」のられる。

日本にっぽん太平洋戦争たいへいようせんそう敗北はいぼくすると、戦意せんい高揚こうよう映画えいがかかわった製作せいさくしゃたちがGHQからのきびしい追及ついきゅう尋問じんもんけたが、ほとんどの監督かんとく軍部ぐんぶおどされて仕方しかたなくったなどの姑息こそくないいわけ終始しゅうしするなか渡辺わたなべだけは「くにまもるためにった。自分じぶんなりのやりかたたたかったまでだ」などと主張しゅちょう尋問じんもんたっていたべいぐん将校しょうこうはすっくとがると渡辺わたなべ両手りょうてし「このくにはじめてサムライにった」といながら握手あくしゅもとめたという。

本人ほんにん計算けいさんでは作品さくひんすう225ほん。テレビで前述ぜんじゅつの『右門うもん捕物とりものじょう』をはじめ、『姿すがた三四郎さんしろう』(1963~1964ねん、1970ねん)、『やわら』(1964~1965ねん)、『明治天皇めいじてんのう』(1966ねん)、『旗本はたもと退屈たいくつおとこ』(1973~74ねん)など209ほん監督かんとくした。

渡辺わたなべ監督かんとくした映画えいがうらがい交響楽こうきょうがく』(1935ねん)とう原作げんさくしゃで、テレビドラマ『エノケンのホームランおう』(1955ねん)の脚本きゃくほん担当たんとうした サトウハチローは、「エジプトねこのミイラ殿どの渡辺わたなべ邦男くにおうた〉」[5]といういている。

おも監督かんとく作品さくひん[編集へんしゅう]

親族しんぞく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 渡辺わたなべ邦男くにお』 - コトバンク
  2. ^ クレージーのなぐ清水港しみずこう』DVD音声おんせい特典とくてんオーディオコメンタリーうちにおける、なべおさみの発言はつげんより(東宝とうほうビデオ)
  3. ^ 『ひげとちょんまげ』(稲垣いながきひろし毎日新聞社まいにちしんぶんしゃかん
  4. ^ 聞書ききがきアラカンいちだい - 鞍馬あんば天狗てんぐのおじさんは』(竹中たけなかろう白川しらかわ書院しょいん
  5. ^ 『サトウハチロー詩集ししゅう きなひとのうた』みゆき書房しょぼう、1968ねん、43-44ぺーじ 
  6. ^ 三島みしまアメニティだい百科ひゃっか 映画えいが演劇えんげき” (日本語にほんご). 2016ねん11月6にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]