炎上えんじょう (映画えいが)

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炎上えんじょう
Enjō
放火ほうか以前いぜん金閣寺きんかくじ
監督かんとく 市川いちかわこん
脚本きゃくほん 和田わだなつじゅう
長谷部はせべ慶治けいじ
原作げんさく 三島みしま由紀夫ゆきお金閣寺きんかくじ
製作せいさく 永田ながた雅一まさいち
出演しゅつえんしゃ 市川いちかわ雷蔵らいぞう
仲代なかだい達矢たつや
音楽おんがく まゆずみ敏郎としお
中本なかもと利生りしょう邦楽ほうがく
撮影さつえい 宮川みやがわ一夫かずお
編集へんしゅう 西田にしだ重雄しげお
製作せいさく会社かいしゃ 大映だいえい大映だいえい京都きょうと撮影さつえいしょ[1][2]
配給はいきゅう 大映だいえい
公開こうかい 日本の旗 1958ねん8がつ19にち
上映じょうえい時間じかん 99ふんモノクロ大映だいえいスコープ
製作せいさくこく 日本の旗 日本にっぽん
言語げんご 日本語にほんご
製作せいさく 2000まんえん[3][4]
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ロケがおこなわれた大覚寺だいかくじ

炎上えんじょう』(えんじょう)は、1958ねん昭和しょうわ33ねん8がつ19にち公開こうかい日本にっぽん映画えいが製作せいさく大映だいえい三島みしま由紀夫ゆきお長編ちょうへん小説しょうせつ金閣寺きんかくじ』をもとに市川いちかわこん監督かんとく映画えいがした99ぶんモノクロ作品さくひんである[5]

市川いちかわこんにとって日活にっかつから大映だいえい移籍いせきしてから5ほん大映だいえい作品さくひんで、主演しゅえん大映だいえい時代じだいげき俳優はいゆう市川いちかわ雷蔵らいぞう[6]。デビューから4ねん、48ほん映画えいがとなる雷蔵らいぞうはつ現代げんだいげき主演しゅえんさくで、吃音きつおんしょう青年せいねん好演こうえんしたことで数々かずかず主演しゅえん男優だんゆうしょう受賞じゅしょうするなど俳優はいゆうとしてたか評価ひょうかけた[6][7][8][9][10]

炎上えんじょう』は三島みしま文学ぶんがく映画えいがさくなかでもとく評価ひょうかたかいというだけでなく、白黒しろくろシネスコ表現ひょうげんされた見事みごと映像えいぞうなどで映画えいがのこ傑作けっさくひとつとして位置いちづけられており[5][9][11]市川いちかわこんだいいちきゅう監督かんとくとしてひろみとめられるきっかけとなった作品さくひんでもある[10]。なお、映画えいがでは「金閣寺きんかくじ」が「驟閣てら」(しゅうかくじ)という名称めいしょうになっているほか登場とうじょう人物じんぶつやあらすじの一部いちぶ原作げんさくことなるものとなっている[5][6]

公開こうかいの惹句は、「よごれたはは信頼しんらい裏切うらぎったなにかれ放火ほうかさせたのか、しんじるものをうしなった青年せいねんいかりと反抗はんこう!」、「三島みしまこん雷蔵らいぞうこの異色いしょくトリオがはなつ、本年度ほんねんどベストワンを約束やくそくされた文芸ぶんげいきょへん」、「金色きんいろ国宝こくほう放火ほうかしてまで、わかたましい反逆はんぎゃくつづけたものは…」、「だれらない! だれわかってくれない! 何故なぜおれが国宝こくほうをつけたかを…」である[7][12][13][14]併映へいえいは、天野あまのしん監督かんとくの『えた小判こばん屋敷やしき』(出演しゅつえん梅若うめわか正二しょうじ美川みかわ純子じゅんこ[15]

製作せいさく経緯けいい[編集へんしゅう]

企画きかくから脚本きゃくほんまで[編集へんしゅう]

市川いちかわこん監督かんとく[編集へんしゅう]

大映だいえいプロデューサー藤井ふじい浩明ひろあきは、人情にんじょうげき主流しゅりゅう当時とうじ日本にっぽん映画えいがあたらしい息吹いぶきれたいというかんがえのもとで、観念かんねんてきなものでもいいからいままでにいような映画えいが製作せいさくする構想こうそうをし、三島みしま由紀夫ゆきお小説しょうせつ金閣寺きんかくじ』が雑誌ざっし新潮しんちょう』に連載れんさいされだい1かい(1956ねん1がつごう)をんだときから「これだ」とおもっていた[5][16]藤井ふじい三島みしま原作げんさくどう時期じき連載れんさいの『ながすぎたはる』の映画えいが企画きかくもすでにやっており、三島みしま作品さくひん映画えいが積極せっきょくてきであった[16][注釈ちゅうしゃく 1]

藤井ふじい市川いちかわこん監督かんとく依頼いらいするが、『金閣寺きんかくじ』をんでいた市川いちかわ文学ぶんがく作品さくひんとして完成かんせいたか原作げんさくの「素晴すばらしい名文めいぶん」の観念かんねん世界せかい映画えいが表現ひょうげんするのは不可能ふかのうかんがえ、「とてもぼくにはえない」と一旦いったんことわった[3][5][6]。しかし3かげつもねばる藤井ふじい熱心ねっしんさにされ、「自分じぶんえないものをなにとか征服せいふくしたい」という気持きもちもおこったためにけることになった[3][5][6]

金閣寺きんかくじ住職じゅうしょくからの反対はんたい[編集へんしゅう]

しかし、『金閣寺きんかくじ』の映画えいがたいして、金閣寺きんかくじ住職じゅうしょくからやめてほしいというクレームがはいった[6]金閣寺きんかくじだけでなく京都きょうと仏教ぶっきょうかい反対はんたいし、今後こんご大映だいえいには時代じだいげき撮影さつえいはさせないと通達つうたつ[4]大映だいえい金閣寺きんかくじ説得せっとくするも、なかなか承認しょうにんられず、社長しゃちょう永田ながた雅一まさいちこまはてて「もうやめろ」と市川いちかわ監督かんとくらにいいだすようになった[4]

すでに美術びじゅつスタッフらは真面目まじめ建築けんちく研究けんきゅうしゃのふりをしててら訪問ほうもんし、内部ないぶ写真しゃしんをたくさんって調しらべていた[4]市川いちかわ監督かんとく京都きょうと実景じっけいはじめていたため、いまさらやめたくなく、じか老師ろうし説得せっとくするためいにき、そこでのはないでタイトルをえることと、てら名前なまえも「金閣寺きんかくじ」としないことでやっと了承りょうしょう[6]。そのさいクレジットに「三島みしま由紀夫ゆきお原作げんさく金閣寺きんかくじ』より」とれることは承諾しょうだくされた[6]。このクレームや、後段こうだん説明せつめいする配役はいやく変更へんこう製作せいさくはいるのが予定よていよりも半年はんとし以上いじょうおくれることとなった[3]。そのため、会社かいしゃから穴埋あなう映画えいがを1ほんつくるよう市川いちかわ監督かんとく打診だしんがあり、米国べいこく推理すいり小説しょうせつの『すばらしきわな』を脚色きゃくしょくした映画えいがあな』が製作せいさくされた[17]

脚本きゃくほん難航なんこう[編集へんしゅう]

市川いちかわ監督かんとく原作げんさく小説しょうせつ世界せかいかんかすために構成こうせいなどをえることにしたが、脚本きゃくほん和田わだなつじゅう市川いちかわこんつま)とともシナリオつくりに難航なんこうしていた[5][6]。そのことを藤井ふじい浩明ひろあき三島みしま由紀夫ゆきおはなすと、三島みしまなにかの参考さんこうになればと「『金閣寺きんかくじ創作そうさくノート」をし、たくされた藤井ふじい市川いちかわ監督かんとくにそれをわたした[5][6][16]市川いちかわ監督かんとくはそれを参考さんこうにしながらなつじゅう変更へんこうてんなどをげ、あらたな脚本きゃくほん出来上できあがっていった[5][6]

原作げんさくかすためには、あくまでも映画えいがとしてのオリジナルのくちたねばならないという発想はっそうから、原作げんさくにある有為ゆういり、トップとラスト・シーンの構成こうせい変更へんこうした。シナリオが難航なんこうしてこまっていたら、藤井ふじいくん大学だいがくノートさんよんさつって[注釈ちゅうしゃく 2]。それには、三島みしまさんが小説しょうせつくためあるいて取材しゅざいしたメモが、鉛筆えんぴつでビッシリいてあった(創作そうさくノート)。(中略ちゅうりゃく脚本きゃくほんなつじゅうさんと相談そうだんして、三島みしまさん独特どくとく名文めいぶんをいったんよこいて、親子おやこはなししぼることにした。「よしとはなにか」という抽象ちゅうしょうてきなことではなくて、うら日本にっぽんそだったなんでもない青年せいねんかたなやみ、おやとの離反りはん、そういったものを、金閣寺きんかくじ背景はいけい追求ついきゅうしてみよう、そのほうぎゃくに、原作げんさく主題しゅだいせまれるのではないかと。 — 市川いちかわこん映画えいが経緯けいい[5]

映画えいがはなしがあったとき原作げんさくしゃ三島みしま藤井ふじいに、「やりたいようにやってくれ」とまかせていたが、もとから映画えいがきの三島みしま映画えいがへの造詣ぞうけいふかく、自作じさく金閣寺きんかくじ』の映画えいがにも関心かんしんせ、市川いちかわ監督かんとく夫妻ふさいとも食事しょくじをしながら脚本きゃくほん原作げんさくについて様々さまざまなディスカッションをわして映画えいが論争ろんそうなどをした[6][11]。しかしながら三島みしま脚本きゃくほんへの指示しじ注文ちゅうもんなどをすることはまったくなく、あくまでも原作げんさくしゃ立場たちばをわきまえ、抽象ちゅうしょうろんしかはなさなかったという[6][11]

配役はいやく決定けってい[編集へんしゅう]

主役しゅやく変更へんこう[編集へんしゅう]

はじ市川いちかわこん監督かんとくは、主人公しゅじんこう青年せいねんそう現代げんだいげき青春せいしゅんスター・川口かわぐちひろしめていた[3][6][11]1957ねん昭和しょうわ32ねん)4がつに、映画えいがながすぎたはる』(1957ねん5がつ28にち封切ふうきり)の撮影さつえいしょ大映だいえい多摩川たまがわ撮影さつえいしょ)を原作げんさくしゃ三島みしま見学けんがくしたニュースをつたえる新聞しんぶん記事きじにも、川口かわぐちひろし主演しゅえん次回じかい公開こうかい予定よてい映画えいがが『金閣寺きんかくじ』であると紹介しょうかいされていた[11][18]

川口かわぐちひろしはそれ以前いぜんに、市川いちかわこん監督かんとくの『処刑しょけい部屋へや』(1956ねん6がつ28にち封切ふうきり)で主演しゅえんしており、市川いちかわ監督かんとく川口かわぐち演技えんぎ感触かんしょく把握はあくしていてふたた起用きようしたいと計画けいかくしていた[3][6]大映だいえい重役じゅうやくつとめていた川口かわぐち松太郎まつたろうひろし父親ちちおや)からも、「よろしくたのむわ」とわれていたため、ひろしでやっていこうとめていた[3]

ところが大映だいえい社長しゃちょう永田ながた雅一まさいちから突然とつぜん「あかん」、「とにかくひろしでなくやれ」と理由りゆうわからずに反対はんたいされた[3][6][11]ちない市川いちかわ監督かんとく川口かわぐち松太郎まつたろう永田ながた社長しゃちょう反対はんたいする理由りゆうたずねてみるも、松太郎まつたろうも「おれからん」と不明ふめいであった[6]市川いちかわ監督かんとく川口かわぐちひろしにも、「ひろし、おまえからも社長しゃちょうにいえ」とうながすが、川口かわぐちはのんびりしていて、「いやあ、社長しゃちょうがダメだといってるんならダメでしょ。こまったなぁ」と他人事たにんごとのようにすっかりあきらめていた[3]

こまりはてた市川いちかわ脳裡のうりにふと、『しん平家ひらか物語ものがたり』でわか清盛きよもりえんじた市川いちかわ雷蔵らいぞう素晴すばらしさがおもうかび、直観ちょっかんてき雷蔵らいぞう起用きようすることにした[3][6][11]時代じだいげき二枚目にまいめスターがくら徒弟とていそうやくけるかもあやうく、現代げんだいげきということもあり、会社かいしゃないでは、それまでの「よし剣士けんし」イメージがこわれてしまうという反対はんたい意見いけんや、スタッフからも雷蔵らいぞうではつとまらないのではないかという意見いけんもあった[3][6][11][19]とく雷蔵らいぞう大映だいえいりに尽力じんりょくした撮影さつえい所長しょちょう酒井さかいだい反対はんたいであった[19]。しかし市川いちかわ監督かんとくがまず会社かいしゃがわ交渉こうしょうすると「本人ほんにんがいいならOKだ」と返答へんとうされた[20]ので、直接ちょくせつ電話でんわ雷蔵らいぞう本人ほんにん依頼いらいすると、意外いがいにも雷蔵らいぞうはすぐ承諾しょうだくし「やりまひょか」と即答そくとうだった[3][6][11]

雷蔵らいぞう決意けつい[編集へんしゅう]

しん平家ひらか物語ものがたり』で演技えんぎ開眼かいがんしていた雷蔵らいぞうは、あたらしいやく挑戦ちょうせんしたいという意欲いよくえていた[6][21]雷蔵らいぞう自身じしん周囲しゅういおもうほど二枚目にまいめスター意識いしきはなく研究けんきゅう熱心ねっしん努力どりょくで、吃音きつおんしょう学生がくせいというかげのある人物じんぶつえんじることへの抵抗ていこうかんはなかった[6][11]。『炎上えんじょう公開こうかい前月ぜんげつ7がつに、雷蔵らいぞう後援こうえんかい会誌かいし以下いかのようにかたっている[21]

わたしが『炎上えんじょう』で丸坊主まるぼうずになってまであの主人公しゅじんこう宗教しゅうきょう学生がくせいをあえてやるというになったのはもとより、三島みしま由紀夫ゆきお原作げんさく金閣寺きんかくじ』の内容ないよう市川いちかわこん監督かんとくをはじめとする一流いちりゅうスタッフのかおぶれにほれんだこともおおきな原因げんいんですが、それと同時どうじわたしはこの作品さくひん契機けいきとして俳優はいゆう市川いちかわ雷蔵らいぞう大成たいせいさせるひとつの跳躍ちょうやくだいとしたかったからにほかありません。 — 市川いちかわ雷蔵らいぞう雷蔵らいぞう雷蔵らいぞうかたる」[21]

金閣寺きんかくじ』の映画えいが決定けっていいたとき三島みしま由紀夫ゆきお脳裡のうりには雷蔵らいぞうのイメージがあった[9][22]。そのことをつたいた雷蔵らいぞうは、ファンでもあった原作げんさくしゃ三島みしま監督かんとく同様どうよう自分じぶん希望きぼうしていることをって、より一層いっそう意欲いよくいた[9]後援こうえんかいなど周囲しゅうい反対はんたいもあったが雷蔵らいぞう意志いしかたく、雷蔵らいぞう会社かいしゃ説得せっとくするのに1ねんついやし、最後さいごまで反対はんたいだった撮影さつえい所長しょちょう酒井さかい箴をかたち徒弟とていそうやくをやることとなった[9][19][23]

うつくしく化粧けしょうをした端正たんせいかお美声びせいの「よし剣士けんし」が、素顔すがおえんがおゆがめて吃音きつおんはっするという対極たいきょくてき役柄やくがらへの挑戦ちょうせんであった[9]雷蔵らいぞうけなければ、映画えいが自体じたいながれていたかもしれなかった[24]宣伝せんでん所長しょちょう反対はんたいであまりされないなかクランクインまえには雷蔵らいぞう断髪だんぱつしきおこなわれ、若乃花わかのはな千代ちよやまとちにしきの3にん横綱よこづな力士りきし雷蔵らいぞうかみにハサミをれた[19][21][25][26]雷蔵らいぞう相撲すもうきであった[27]

このときちょうど名古屋なごや場所ばしょおこなわれた時期じきで、横綱よこづな3にん京都きょうとまでてもらい「さん横綱よこづなそろいみの断髪だんぱつしき」が実現じつげんした[19]現役げんえき横綱よこづなそろって京都きょうとおとずれることはそれまでなかったことから、この話題わだいニュース映画えいがにもなり一般いっぱん社会しゃかいめんるほど注目ちゅうもくされた[19]当初とうしょ宣伝せんでん担当たんとうしゃは、金閣寺きんかくじ背景はいけい村上むらかみ住職じゅうしょく雷蔵らいぞう剃髪ていはつをしてもらう「剃髪ていはつしき」を企画きかくてら依頼いらいしたが、「うちらは映画えいがつくるのやめてしいいうてるのに、それをあなたなにいうとるのか」と一喝いっかつされた[19]ことわられることはほぼ予想よそうできたが、この「になる」のあんてがたくダメもとたのんでみたという[19]

相手あいてやく[編集へんしゅう]

市川いちかわ監督かんとくは、雷蔵らいぞう時代じだいげきスター独特どくとく台詞せりふまわしやのこなしの技術ぎじゅつ駆逐くちくさせつつ、雷蔵らいぞう演技えんぎ現代げんだいげきかすため、相手あいてやくとしてちゅう若手わかて新劇しんげき俳優はいゆう仲代なかだい達矢たつや対照たいしょうてきにぶつけることにした[6]原作げんさくで「強度きょうどうち飜足」となっている動作どうさ演技えんぎは、仲代なかだい達矢たつや自身じしんかんがえて発明はつめいしたものだという[3]仲代なかだいがテストでやったあるかたて、市川いちかわ監督かんとく一発いっぱつでOKをした[3]

そして2人ふたりがアパートの一室いっしつ対峙たいじし、仲代なかだいやくかり罵詈ばり雑言ぞうごんびせ、怒鳴どなもっとむずかしいシーンからあえて初日しょにち撮影さつえいはいり、仲代なかだい演技えんぎからの刺激しげき雷蔵らいぞうあらたなめんすことにした[3][6]雷蔵らいぞう新劇しんげき演技えんぎどうずることなく、生身なまみ無手勝流むてかつりゅうはじめての現代げんだいげきやくになりきっていた[3][24]

撮影さつえい初日しょにちの6がつ7にち大映だいえい京都きょうと撮影さつえいしょ見学けんがくしに三島みしま由紀夫ゆきおも、記者きしゃ会見かいけんにまで突然とつぜんされたのちかり原作げんさくでは柏木かしわぎ)の下宿げしゅくのセットでおこなわれたそのシーンの撮影さつえい現場げんばていた[22][28]三島みしまはその随筆ずいひつ以下いかのようにめた[22]

セットは柏木かしわぎ下宿げしゅくである。仲代なかだい達矢たつやきみ柏木かしわぎで、市川いちかわ雷蔵らいぞうくんふんする主人公しゅじんこう難詰なんきつする場面ばめんあたまふんかりにした雷蔵らいぞうくんは、わたしまえから主張しゅちょうしてゐたとほり、映画えいがかい見渡みわたして、このひと以上いじょうてきやくはない。 — 三島みしま由紀夫ゆきお日記にっき――裸体らたい衣裳いしょう」(昭和しょうわ33ねん6がつ7にちづけ[22]

五番ごばんまち花街はなまち)の遊女ゆうじょやくは、たまたま俳優はいゆうスッピンあるいていた18さい中村なかむら玉緒たまお市川いちかわこんまり、「あれだ」と抜擢ばってきされたというはなし[29]雷蔵らいぞうからの推薦すいせんがあったかもしれないというはなし両方りょうほうある[6]

当初とうしょは、歌舞伎かぶき名門めいもん成駒屋なりこまやのおじょうさんに女郎じょろうやくをやらせるなどとんでもない、というだい反対はんたい意見いけん会社かいしゃからあったが、玉緒たまお本人ほんにんはあっさりと依頼いらい承諾しょうだくしてしまった[30]市川いちかわ監督かんとくは、まだ女優じょゆうになりたてのおじょうさまの玉緒たまおの「ぎこちなさ」をぎゃくなにとかかそうとし[6]実際じっさいにどううごけばいいのかは、市川いちかわみずからが玉緒たまおいや仕草しぐさをやってせて演技えんぎ指導しどうしたという[29]

映像えいぞう効果こうか[編集へんしゅう]

モノクロとシネスコ[編集へんしゅう]

撮影さつえい京都きょうと撮影さつえいしょ市川いちかわ東宝とうほう時代じだいの1952ねんに『あのこの』で1ほんだけまねかれたことがある)と京都きょうとロケでおこなわれた[6]。スケジュールがまっていたため、市川いちかわ監督かんとく冒頭ぼうとうからラストまでのコンテをえがいてスタッフにせた[3]カメラマン宮川みやがわ一夫かずおであった。そもそも市川いちかわこん日活にっかつから大映だいえい移籍いせきした理由りゆうひとつには、モノクローム芸術げいじゅつてき映像えいぞう定評ていひょうある宮川みやがわ一緒いっしょ仕事しごとをしたいというおもいもあったからだった[3][6][11][注釈ちゅうしゃく 3]

宮川みやがわ一夫かずお撮影さつえい実績じっせきは、『羅生門らしょうもん』(1950ねん)、『ゆうさま』(1951ねん)、『雨月物語うげつものがたり』(1953ねん)などがあり、監督かんとくたちから絶対ぜったいてき信頼しんらいかれる存在そんざいであった[3][11]市川いちかわとくに『雨月物語うげつものがたり』での宮川みやがわ撮影さつえい技術ぎじゅつ見事みごとさに感嘆かんたんしていた[3][6]

監督かんとくだれでもそうだとおもいますが、カメラワーク重要じゅうようします。映画えいがひかりかげですからね。宮川みやがわさんのカメラには底光そこびかりするような陰翳いんえいかんじられて、ドラマが濃密のうみつるんですね。とく見事みごとだとおもったのが溝口みぞぐちさんの『雨月物語うげつものがたり』です。 — 市川いちかわこん「『炎上えんじょう』とかみなりちゃん」[6]

市川いちかわこんは『金閣寺きんかくじ映画えいが製作せいさくにあたって会社かいしゃに、「モノクロ」にすることと、画面がめんサイズを「シネスコ」にすることの2つの要求ようきゅうしていた[6]人物じんぶつあいだ心理しんりてきリアリズムおもきをき、主人公しゅじんこう孤独こどく内面ないめんシュール方法ほうほう表現ひょうげんする演出えんしゅつ駆使くしする印象いんしょうてきなショットが、「モノクロ」と「シネスコ」により効果こうかてきになることを市川いちかわ監督かんとくねらっていた[6][11]

会社かいしゃとしてはカラー金閣寺きんかくじの「きむ」をえがいてもらいたいという意向いこうがあり3かげつほど論争ろんそうしたが、市川いちかわこんとしては「あかくメラメラとえたりするとやすっぽくなる」とおもい、それよりも「白黒しろくろ格調かくちょう」をしたい意図いとがあった[3][6]。シネスコでの撮影さつえい宮川みやがわにとってはつで、横長よこなが画面がめん空間くうかんをどうかすかなやみ、撮影さつえいちゅうはずっとカメラのファインダーのぞいていて、市川いちかわ監督かんとくは「のぞかせてもらうのが大変たいへんだった」という。最初さいしょころ意見いけんわず喧嘩けんかをすることもあったが、やがて気持きもちがかようようになった[3]人物じんぶつ単独たんどくショット中央ちゅうおうよりもすこよこにずらすなど、市川いちかわ監督かんとく宮川みやがわ一緒いっしょ検討けんとうしながら撮影さつえいし、主人公しゅじんこう母親ははおや対話たいわするよるのシーンなどに「ふか情感じょうかん」がるように工夫くふうされた[6]とく日本海にほんかいがわ風景ふうけいは、いろがつくときびしさがないとかんがえ、宮川みやがわ相談そうだんうえで、くもりのにロケ撮影さつえいねらったり、雷蔵らいぞうがけからうみ場面ばめんで、がけいちめん墨汁ぼくじゅう噴霧ふんむいてくろ強調きょうちょうさせ、ふゆきびしさを表現ひょうげんするひとし工夫くふうらした[31]

雷蔵らいぞう表現ひょうげんりょく[編集へんしゅう]

市川いちかわ監督かんとくとく印象いんしょうのこった映像えいぞうは、主人公しゅじんこう新京極しんきょうごく路地ろじある場面ばめんであった[3][6]主人公しゅじんこう孤独こどく見事みごと表現ひょうげんされ、俳優はいゆう演技えんぎえた雷蔵らいぞう自身じしん内面ないめんからにじるものもかもされていたとかたっている[5][6][11]。その雷蔵らいぞうかおて、「このひとやく実体じったいつかんでいるな、役柄やくがらだけじゃなく、やくとおしてなに自分じぶんというものを表出ひょうしゅつしようとしているな」と市川いちかわ監督かんとくかんじた[3][24]

炎上えんじょう』で、かみなりちゃんが新京極しんきょうごく路地ろじ一人ひとりでとぼとぼあるくシーンがありますけど、あそこはいいシーンですよね。野良犬のらいぬうしろをついて雑踏ざっとう彷徨ほうこう姿すがたじつ孤独こどくで、主人公しゅじんこうふかかなしみというのがよくています。ぼくかみなりちゃんのちについてくわしいことはりませんけど、あのひと自分じぶんなかかかえてきてきたもの、なにかそういうのがてたのとちがいますか。それは演技えんぎというのとはちがうところで、なに自分じぶんというものを表現ひょうげんしようとしてたというのかな。ぼくは、あの新京極しんきょうごくあるくところのうし姿すがた、おそらくあれがかみなりちゃんの本質ほんしつだとおもいます。とてもきです。 — 市川いちかわこん「『炎上えんじょう』とかみなりちゃん」[6]

雑踏ざっとうなかくろいぬ執拗しつよう描写びょうしゃすることで主人公しゅじんこう孤独こどく表現ひょうげんされている原作げんさくを、映画えいが脚本きゃくほんでは、主人公しゅじんこうめてっぽをったくろけんあと主人公しゅじんこうっていくシーンとなるが、プロデューサーの藤井ふじい浩明ひろあきもその孤独こどくかんただよ場面ばめんに、「原作げんさくにもシナリオにもない計算けいさんえた表現ひょうげんが、突然とつぜんまれた」ことにおどろいたとしている[5]

炎上えんじょうシーンの特撮とくさつ[編集へんしゅう]

金閣寺きんかくじは、大覚寺だいかくじいけのほとりに原寸げんすんだいのセットがてられた[4][5]本物ほんもの金閣寺きんかくじさんそうだが、「驟閣てら」はそうにした[4]原作げんさくで「おびただしいび、きむかくそら金砂子きんすなごいたやう」と表現ひょうげんされている炎上えんじょうのシーンでは、嵐山あらしやまかわ中州なかすに2ぶんの1のミニチュアつくられた[3][4]。それより縮尺しゅくしゃくちいさいとやしても質感しつかんせず、ハイスピードでっても縮尺しゅくしゃくかってしまうからであった[3]

その2ぶんの1のミニチュアをやし、35ミリ撮影さつえいしてシネスコサイズにばしたものと、通常つうじょうのものと両方りょうほうモンタージュして炎上えんじょうシーンをつくった[3]夜空よぞらがるシーンでは、ミニチュアを一度いちど派手はでやしたところ、かつら離宮りきゅうほうまでんでしまい、かつら離宮りきゅうからひどくおこられてしまった[4]

そのため河原かわらはこんだカンナくずやすが、画面がめんがほとんどうつらず、つぶはいっているようなものしかれなかった[4]。ラッシュ(部分ぶぶん現像げんぞう)をときに、おおきすぎてつくものめいてえるという意見いけん監督かんとくやスタッフからて、なんもテストがかえされた[3][5]様々さまざまなアイデアがい、金粉きんぷんほのおなかぜるというあん[5]

美術びじゅつスタッフは、くろぬのもちあみのようなものと扇風機せんぷうき使つかって金粉きんぷんわせ、逆光ぎゃっこう照明しょうめい技術ぎじゅつ駆使くしして終盤しゅうばんでのかねかく炎上えんじょう映像えいぞうをリアルに再現さいげんすることに成功せいこうした[4][5]。こうした特撮とくさつのようなものはスタッフのあいだでは「みさおつまみ」とんでいたという[4]

金砂子きんすなごというのは金箔きんぱくくずにしたようなもので、ふすまのりいて金砂子きんすなごくという手法しゅほう京都きょうとでよく使つかわれていた。それだけだとかねってくるだけなので、ふすままいぐらいのくろぬのバックに、もちあみのようなもののしたから扇風機せんぷうき金粉きんぷんのぼらせ、さらにふうながれるようにせるために、よこから団扇うちわあおぐ。 — 西岡にしおか善信よしのぶ映画えいが美術びじゅつとはなにか」[32]

音響おんきょう効果こうか[編集へんしゅう]

まゆずみ敏郎としおとのだいディスカッション[編集へんしゅう]

完成かんせいした脚本きゃくほんんだまゆずみ敏郎としお市川いちかわ監督かんとく直接ちょくせつ参加さんか志願しがんする手紙てがみし、快諾かいだく音楽おんがく担当たんとうすることになる。まゆずみおとづくりからかかわりをせ、全編ぜんぺんにわたって声明せいめい主体しゅたいとしたげきともつくられた。ところが完成かんせいしたげきとも映像えいぞうあまりにも調和ちょうわしすぎていたことに市川いちかわ監督かんとくったをかけ、「声明せいめいなんていらない。もっと現代げんだいてきにしてほしい」と要望ようぼうすると、「いや、これが現代げんだいてきなんだ」とまゆずみゆずらず、真夜中まよなかのダビングルームのひょう延々えんえん議論ぎろんした結果けっか声明せいめいりのげきともはタイトルバックのみに使用しようするという妥協だきょうあんいた[33]

あらすじ[編集へんしゅう]

驟閣てら徒弟とてい溝口みぞぐちわれ(21さい小谷おたに大学だいがく3年生ねんせい)は、驟閣てら放火ほうかしたうたがいにより取調とりしらべしつ調書ちょうしょられるが一言ひとことはっせず刑事けいじらをこずらせていた。溝口みぞぐち小刀こがたな睡眠薬すいみんやくカルチモン所持しょじし、むねには自殺じさつしようとしたかたなきずがあった。茫然ぼうぜんとした様子ようす溝口みぞぐち放火ほうかいたるまでの経緯けいい回想かいそうする……

7ねんまえ舞鶴まいづる成生岬なりうみさき小寺こでら僧侶そうりょだったちちうけたまわみちくなり、ちち遺言ゆいごんしょにより溝口みぞぐちちち修行しゅぎょう時代じだい友人ゆうじん田山たやまみちかい老師ろうし住職じゅうしょくつとめる驟閣てら修行しゅぎょうすることとなった。驟閣てらふくつかさ溝口みぞぐちがやってたことで後継こうけい自分じぶん息子むすこでなく溝口みぞぐちになるとかんが面白おもしろくなく、溝口みぞぐち吃音きつおんしょうだとわかると「なんやどもりか」と馬鹿ばかにした。その言葉ことばから溝口みぞぐちは、同級生どうきゅうせいたちに吃音きつおんをからかわれ、かれらが尊敬そんけいする海軍かいぐん機関きかん学校がっこうすすんだ先輩せんぱいっていたうつくしい短剣たんけんさやみにくきずをつけたことをおもす。

しかしそんなみぞこうにも徒弟とてい生活せいかつ鶴川つるかわというやさしい友人ゆうじん出来できた。鶴川つるかわ溝口みぞぐち吃音きつおんまったにしなかった。鶴川つるかわ東京とうきょうやまてら息子むすこで、溝口みぞぐち同様どうよう修行しゅぎょうそうとしてんでいた。戦争せんそう空襲くうしゅうしたであったが、けいだけはどもらない溝口みぞぐちは、うつくしい驟閣のがわくれせるだけで満足まんぞくし驟閣のなかんでもいいとおもっていた。だが溝口みぞぐち母親ははおや・あきは、息子むすこが驟閣てら住職じゅうしょくとして出世しゅっせすることをのぞみ、食料しょくりょうなど手土産てみやげって老師ろうし挨拶あいさつたりした。

溝口みぞぐちははいとわしくてならなかった。中学生ちゅうがくせいとき溝口みぞぐちはは親戚しんせきおとこ関係かんけいしている現場げんば目撃もくげきしてしまったことがあった。結核けっかく持病じびょう病弱びょうじゃくちちはは不貞ふていっていて、そのときそっと息子むすこおおった。ちち日本海にほんかいのぞみさきち、驟閣ほどうつくしいものはこのにない、そのうつくしさをればなかきたないものみにくいものはわすれられると息子むすこおしえた。だが、そのちちまもっていた実家じっかてらも、抵当ていとうはいっていたため人手ひとでわたってしまったとははからげられた。

戦争せんそうわり、やがて驟閣てらにも米兵べいへい見学けんがくにやって俗世ぞくせのみだらな風俗ふうぞくむらがるにいたった。敗戦はいせんから2ねんてらふくつかさ拝観はいかんりょうかね勘定かんじょういそしんでいた。ある米兵べいへい怒鳴どなっている派手はで娼婦しょうふが驟閣のなかにゅうろうとするのを溝口みぞぐちは、驟閣がよごされるとおもおんなたおしてしまった。腹痛はらいた見舞みまわれたおんな米兵べいへい溝口みぞぐちれいい、煙草たばこを2カートンわたした。娼婦しょうふ妊娠にんしんなからしかった。

溝口みぞぐち煙草たばこ老師ろうしわたときおんなたおしたつみ告白こくはくしようとしたがいそびれてしまった。そのてら流産りゅうざんしたおんながクレームをいにたらしく、老師ろうしかねへんをつけたようであった。溝口みぞぐち老師ろうし米兵べいへい娼婦しょうふばしたとき事情じじょうはなそうとするが、なにこうとしない老師ろうしつめたくあしらわれてしまう。また、はは・あきが炊事すいじがかりとして驟閣てらむようになる一方いっぽう友人ゆうじん鶴川つるかわ母親ははおや危篤きとく東京とうきょうかえってしまった。

小谷おたに大学だいがくやすみがちになった溝口みぞぐちだが、どう大学だいがく学生がくせいうちはんあし障害しょうがい孤独こどくかり友達ともだちになろうとちかづき、「ドモれ、ドモれ」と叱咤しったされた。溝口みぞぐちは、超越ちょうえつしゃをきどるかり奇妙きみょう友人ゆうじん関係かんけいむすぶようになるが、かり障害しょうがい逆手さかてにとって高慢こうまん令嬢れいじょう大胆だいたん振舞ふるまいをして篭絡ろうらくし、美人びじんはな師匠ししょうなずけるようなおとこであった。なかがどんなにわろうと驟閣てらわらないとみぞこうに、かり永遠えいえんなものなどありはしないと反論はんろんする。

あるよる学校がっこうをサボっていることを母親ははおやにうるさく説教せっきょうされてそとした溝口みぞぐちは、よる新京極しんきょうごく繁華はんかがい老師ろうし芸妓げいぎあるいているのをかけた。溝口みぞぐちはすぐに路地ろじかくしたが、じゃれるくろけんあとううちに、芸妓げいぎくるまもうとする老師ろうしとバッタリってしまい、尾行びこうしていたと勘違かんちがいされてしまう。

鶴川つるかわ事故死じこししたことも気落きおちする溝口みぞぐちは、かり下宿げしゅくたずねるようになった。かり尺八しゃくはちうつくしい音色ねいろ溝口みぞぐちはききいり、父親ちちおや形見かたみだという1ほん尺八しゃくはちかりからもらった。かりぜんてら息子むすこであった。祇園ぎおんわか芸妓げいぎかこっている老師ろうしうらかおはなシニカルかりは、老師ろうし性根しょうこんためすため老師ろうしいやがることをわざとやってみろと溝口みぞぐちをけしかけた。

溝口みぞぐち芸妓げいぎ写真しゃしん朝刊ちょうかんはさんで老師ろうしわたしてみたが、無言むごん溝口みぞぐちつくえ写真しゃしんだけかえされていた。溝口みぞぐち老師ろうしじか対話たいわこころみるが、老師ろうし芸妓げいぎのことも、「っておるのがどうした」とひらなおり、「ゆくゆくはわたし後継こうけいしゃにとかんがえていたが、いまはもうそのこころづもりはない」とあしらった。

溝口みぞぐち小刀こがたなとカルチモンをい、かりから借金しゃっきんしたかね故郷こきょう舞鶴まいづるかいみさきからうら日本にっぽんうみれるうみつめた。実家じっかてらもんをじっとながめながら、溝口みぞぐちちちひつぎ海岸かいがん火葬かそうしたはなかこまれたちち死顔しにがおおもす。1人ひとり宿屋やどやにずっといる溝口みぞぐち不審ふしんがった宿やど内儀ないぎ通報つうほうにより、溝口みぞぐち警官けいかんともなわれて驟閣てらもどってた。そんな息子むすこははきじゃくりながら「親不孝おやふこうしゃ」となじり、自分じぶんももうてらられず、おまえのことも野垂のたにしようがどうなろうとらない、おまえなんかむんじゃなかった、とててった。

偽悪ぎあくてきかりが、溝口みぞぐち借金しゃっきん利子りし滞納たいのう老師ろうしいつけにた。老師ろうし学生がくせい同士どうし利子りしらないと、もと借金しゃっきんぶんだけ全額ぜんがく肩代かたがわりしてかりわたした。かりかえると、溝口みぞぐち老師ろうしからもらった授業じゅぎょうりょうってかり下宿げしゅく利子りしぶんはらった。老師ろうしへの反逆はんぎゃくめるかりたい溝口みぞぐちはそれを否定ひていしながら、驟閣てらものにしているものたちへの失望しつぼうかたったのち五番ごばんまち遊廓ゆうかくった。遊女ゆうじょなにもせずはなしだけし、驟閣がもしけたらビックリするかと溝口みぞぐちいた。呑気のんきおんなかるながし、カレンダー英語えいごどもらない溝口みぞぐち声音こわねめたりした。

溝口みぞぐちてらかえると、くわぜんうみ老師ろうし歓談かんだんしていた。ぜんうみ和尚おしょう溝口みぞぐちちちとも修行しゅぎょう時代じだい友人ゆうじんであった。老師ろうしぜんうみ和尚おしょう溝口みぞぐち紹介しょうかいするときには体裁ていさいく、よう修行しゅぎょうはげんでおる、とうそをついていた。妊娠にんしんした芸妓げいぎ使つかいからの電話でんわ老師ろうしせきをはずしているあいだ溝口みぞぐちぜんうみ和尚おしょうに「わたし本心ほんしん見抜みぬいてください」とるが、ぜんうみ和尚おしょうは、「見抜みぬ必要ひつようはない。なにかんがえんのが一番いちばんいいかんがえだ」とこたえた。

溝口みぞぐちよるの驟閣てらつめながら、「おれのすることはたったひとのこっているだけや」「だれわかってくれへんなあ」とつぶやく。一方いっぽう老師ろうしは驟閣のほうにうずくまってひざまずき、なにかを懺悔ざんげしているようであった。みな寝静ねしずまった夜中よなか溝口みぞぐちは驟閣てら放火ほうかした。メラメラとがるてらおどろいた老師ろうしは、「ふつさばきじゃ」と茫然ぼうぜんとする。

溝口みぞぐちあせだくで裏山うらやまほうのぼり、くるしいいきなか夜空よぞらうつくしい驟閣のた。警察けいさつ逮捕たいほされて現場げんば検証けんしょうともなわれた溝口みぞぐちは、えたのちの驟閣てら湖水こすいに、うつくしかった驟閣の幻影げんえい苦痛くつうちた表情ひょうじょうじた。

7ねんけいまった溝口みぞぐち手錠てじょうをはめられたまま刑事けいじらに連行れんこうされ、東京とうきょうきの汽車きしゃった。その2かげつまえ溝口みぞぐちはは鉄道てつどう自殺じさつしていた。汽車きしゃなかだまってなにかをおもいつめた様子ようす溝口みぞぐちは、1人ひとり刑事けいじともなわれて便所べんじょ途中とちゅう突然とつぜん連結れんけつからりた。自動車じどうしゃけつけたさきほどの刑事けいじらが、線路せんろわきでむしろをかけられた溝口みぞぐち遺体いたいほうあるいていく。

キャスト[編集へんしゅう]

出典しゅってん[5][34][35]

スタッフ[編集へんしゅう]

出典しゅってん[5][34][35]

評価ひょうか[編集へんしゅう]

炎上えんじょう』は市川いちかわこん監督かんとくにとって傑作けっさく映画えいがひとつとなるとともに、市川いちかわ雷蔵らいぞうもその演技えんぎりょくたか評価ひょうかされ、だい32かいキネマ旬報きねまじゅんぽう主演しゅえん男優だんゆうしょうだい9かいブルーリボンしょう主演しゅえん男優だんゆうしょうなどを受賞じゅしょうし、雷蔵らいぞう俳優はいゆうとしておおきく成長せいちょうしトップスターになる転機てんきとなった作品さくひんだった[8][9][10][11]ロンドン映画えいがさいベニス国際こくさい映画えいがさいにも出品しゅっぴんされ[36]、イタリアの映画えいが『シネマ・ヌオボ』最優秀さいゆうしゅう男優だんゆうしょう受賞じゅしょうした[9][15][25]

印象深いんしょうぶかい『炎上えんじょう』について雷蔵らいぞうは、「しょうをいただいたうれしさもさることながら、この映画えいがをつくるにたってかたむけた演技えんぎ以前いぜんのひたむきな情熱じょうねつが、ついにここにはなむすんだという意味いみで、なににもしての感激かんげきなのです」とかたっている[37]

映画えいが会社かいしゃのスター・システムの原則げんそく度外視どがいしし、時代じだいげき貴公子きこうしイメージの俳優はいゆう劣等れっとうかんなや貧困ひんこん吃音きつおん青年せいねんやくはいするという異例いれい映画えいがであったが、結果けっかとして雷蔵らいぞう代表だいひょうさくとなり、三島みしま由紀夫ゆきお取材しゅざいノートをヒントにさい構成こうせいされた脚本きゃくほんリアリズム仕立したてたてん結果けっかになり成功せいこう要素ようそとなった[5][10][11]監督かんとく市川いちかわこんも、「かみなりちゃんとったなかでは『炎上えんじょう』が一番いちばんきです」とかたっている[24]

キネマ旬報きねまじゅんぽうベストテンだい4となったさい点数てんすう評価ひょうかでは合計ごうけいすう179てん獲得かくとく[38]、10てん満点まんてんけた評者ひょうしゃ押川おしかわ義行よしゆき北川きたがわふゆ酒井さかい章一しょういち淀川よどがわ長治ながはるの4めいで、9てんこう得点とくてんは、岩崎いわさきあきらおか俊雄としお花田はなた清輝きよてるみなみひろしの4めいけている[38]

増村ますむらたもつづくりは、小説しょうせつ映画えいが成功せいこうさせるポイントを、「小説しょうせつ複雑ふくざつ構成こうせい解体かいたいし、ひとつのテエマつけ、そのテエマにもとづいて、必要ひつようにして十分じゅうぶん要素ようそ採集さいしゅう、もしくは、附加ふかして、それを緊密きんみつさい構成こうせいすること」だとし、そのさいに「具体ぐたいてきおと表現ひょうげん出来できない主観しゅかんてきなものは、徹底的てっていてき客観きゃっかんてきなものに転換てんかんしなければならない」と説明せつめい[5][39]、「〈映画えいがにならない小説しょうせつ〉を見事みごと映画えいがした成功せいこうれい」として『炎上えんじょう』をげてこう評価ひょうかしている[5][11][39]

三島みしま由紀夫ゆきお小説しょうせつ金閣寺きんかくじ」にけるきむかくは、主人公しゅじんこうにとって、ひとつの主観しゅかんてき美意識びいしきであり、映画えいが追究ついきゅうするには厄介やっかい対象たいしょうであった。ところが市川いちかわ監督かんとくは、映画えいがさいし、この『きむかく』を、主人公しゅじんこう父親ちちおやへの愛情あいじょうと、社会しゃかいてき正義せいぎかん結晶けっしょう転換てんかんし、かれかねかくたいする愛情あいじょう見事みごと客観きゃっかんてきえがしたのである。『炎上えんじょう』はその意味いみで、小説しょうせつあざやかな映画えいがてきさい構成こうせいえるであらう。 — 増村ますむらたもつづくり原作げんさく映画えいがとその映画えいが[39]

原作げんさくしゃ三島みしま由紀夫ゆきおは『炎上えんじょう』の試写ししゃを8がつ12にちて、「シナリオ劇的げきてき構成こうせいにはややなんがあるが、この映画えいが傑作けっさくといふに躊躇ちゅうちょしない」として、以下いかのようにこまかく随筆ずいひつ高評こうひょうしている[40]後年こうねんになっても三島みしま自作じさく映画えいが作品さくひんなかで『炎上えんじょう』が一番いちばん出来栄できばえだったとしている[41]

黒白くろしろ画面がめんうつくしさはすばらしく、全体ぜんたい重厚じゅうこう沈痛ちんつうおもむきがあり、しかもふしぎなシュール・レアリスティックうつくしさをつてゐる。放火ほうかまえ主人公しゅじんこうが、すでに人手ひとでわたりつた故郷こきょうてらて、みしらぬ住職じゅうしょく梵妻ぼんさいおくられててくる山門さんもんが、ながらにして回想かいそう場面ばめんうつり、おな山門さんもんから、突然とつぜん粛々しゅくしゅく葬列そうれつがあらはれるところは、こわしい白日はくじつゆめるやうである。俳優はいゆうも、雷蔵らいぞう主人公しゅじんこうといひ、鴈治郎がんじろう住職じゅうしょくといひ、これ以上いじょうのぞめないほどだ。試写ししゃかいのあとの座談ざだんかいで、市川いちかわこん監督かんとく雷蔵らいぞうくんまえに、わたしばなしでめた。かういふ映画えいが是非ぜひ外国がいこくつてくべきである。センチメンタリズムのすこしもないところが、外国がいこくじんにうけるだらう。 — 三島みしま由紀夫ゆきお日記にっき――裸体らたい衣裳いしょう」(昭和しょうわ33ねん8がつ12にちづけ[40]

佐藤さとう忠男ただおは、原作げんさく小説しょうせつ基礎きそにしながらも「平明へいめいなリアリズム」として脚本きゃくほんなおしてえがかれた『炎上えんじょう』の意味いみを、時代じだいげき端正たんせいなスターがせい反対はんたい役柄やくがらえんじて成功せいこうしたことと当時とうじ敗戦はいせん時代じだい状況じょうきょうらしわせながらこう評価ひょうかしている[10]

本来ほんらい貴公子きこうしのような青年せいねんでありものこそが劣等れっとうかんにうちひしがれていることこそ敗戦はいせん日本にっぽんきびしい時代じだい精神せいしんであったとあらためて認識にんしきさせるちからがそこにあった。これは三島みしま由紀夫ゆきお原作げんさくたいするひとつのすぐれた解釈かいしゃくであったとえる。 — 佐藤さとう忠男ただお日本にっぽん映画えいが2 1941-1959」[10]

日本にっぽん国外こくがいでは1964ねんニューヨーク映画えいがさい市川いちかわセレクションとして2作品さくひん上映じょうえいされたうちの1つで、ニューヨーク・タイムズは「才能さいのうゆたかな監督かんとく市川いちかわこんわか徒弟とてい精神せいしん崩壊ほうかいしていくさまをしっかりてて全体ぜんたいてきすぐれている。仏教ぶっきょうという神聖しんせい世界せかいはいんだことで腐敗ふはいする世界せかい若者わかもの苦悩くのう理想りそう主義しゅぎてきたましい物語ものがたりである。皮肉ひにくなことにフレームワークはおもいやりのある構成こうせいでその純真じゅんしんさが全体ぜんたいてき傾向けいこうであり、興味深きょうみぶかいことにぜんよりあく重要じゅうようになっている。てらふくつかさ学校がっこう生徒せいとから吃音きつおん馬鹿ばかされるシーンや仲代なかだい達矢たつやかなしそうなをする中村なかむら鴈治郎がんじろうといった俳優はいゆう華麗かれいでこれらの部分ぶぶん完成かんせいされている。このおごそかなしっかりした映画えいがひとかなしい歴史れきしれているが、その妥協だきょう腐敗ふはいうず説得せっとくりょくがあり記憶きおくのこる」とべた[42]TV Guideは「若者わかもの最後さいご出来事できごとまで詳述しょうじゅつしていて素晴すばらしい」とべた[43]

受賞じゅしょうれき[編集へんしゅう]

市川いちかわ雷蔵らいぞう三島みしま由紀夫ゆきお[編集へんしゅう]

市川いちかわ雷蔵らいぞうは『炎上えんじょう』の演技えんぎ評価ひょうかされ、男優だんゆうしょうなど数々かずかずしょう受賞じゅしょうした。雷蔵らいぞうはさらに俳優はいゆうとしての力量りきりょう発揮はっき進歩しんぽさせたいとかんがえ、いたずらに興行こうぎょうてき安全あんぜんねらった娯楽ごらくぶつだけではなくて「演技えんぎのやり甲斐がいのある芸術げいじゅつせいわれる作品さくひん」に出演しゅつえんする心構こころがまえが強固きょうこになった[48][49]

実際じっさい犯罪はんざい事件じけん芸術げいじゅつ作品さくひんにまでたかめ、「主人公しゅじんこう溝口みぞぐちへの憧憬どうけい疎外そがいかん難解なんかい観念かんねん、そして金閣寺きんかくじ放火ほうかおもむ心理しんり」を一人称いちにんしょう独白どくはくつむ三島みしま文章ぶんしょうみながら、演技えんぎっていた雷蔵らいぞうの「役者やくしゃたましい」にがつき、表現ひょうげんしゃとしておおいに感化かんかされたのではないかと大西おおにしのぞむ考察こうさつ[9]山内やまうち由紀ゆきじんも、三島みしま作品さくひん俳優はいゆうとして成長せいちょうした雷蔵らいぞうが、その三島みしま作品さくひん出演しゅつえんのぞむのは自然しぜんなことと解説かいせつしている[49]

炎上えんじょう主演しゅえん以来いらい雷蔵らいぞうはプロデューサーの藤井ふじい浩明ひろあきとも懇意こんいとなり、あたらしい映画えいが演劇えんげきについてあつかたり、三島みしま1961ねん昭和しょうわ36ねん)に発表はっぴょうした小説しょうせつししじゃ』の映画えいが企画きかく作品さくひんにも出演しゅつえんすることを熱望ねつぼうした[49][50][51]。しかし、雷蔵らいぞうみずか演出えんしゅつ川島かわしま雄三ゆうぞう監督かんとく依頼いらいする計画けいかくをしていた矢先やさきに、川島かわしま雄三ゆうぞう突然とつぜんくなってしまった[51]

炎上えんじょう』での市川いちかわ雷蔵らいぞう演技えんぎんだ三島みしま由紀夫ゆきおは、1964ねん昭和しょうわ39ねん)に『勧進かんじんちょう』の舞台ぶたい歌舞伎かぶき役者やくしゃとしての雷蔵らいぞうを「雷蔵らいぞうたけ」とんで敬意けいいあらわし、今後こんご俳優はいゆう人生じんせい期待きたいをかけていた[9][52]

きみ演技えんぎに、いままで映画えいがでしかせっすることのなかつたわたしであるが、「炎上えんじょう」のきみにはまった感心かんしんした。市川いちかわこん監督かんとくとしても、すばらしい仕事しごとであつたが、きみ主役しゅやくも、リアルな意味いみで、ひとのこのやくかんがへられぬところまでくだりつていた。ああいふ孤独こどくかんは、なかなかせないものだが、きみはあのやくに、きみ人生じんせいからげたあらゆるものをんだのであらう。わたしもあの原作げんさくに「金閣寺きんかくじ」の主人公しゅじんこうに、やはり自分じぶん人生じんせいからげたあらゆるものをんだ。さういふとき、作家さっか仕事しごと俳優はいゆう仕事しごと境地きょうちにおいてなんかわるところがない。 — 三島みしま由紀夫ゆきお雷蔵らいぞうたけのこと」[52]

雷蔵らいぞう多忙たぼうなか三島みしま小説しょうせつけん』が1963ねん昭和しょうわ38ねん)10がつ発表はっぴょうされるやいなや、映画えいがみずか企画きかく主演しゅえんもした[9][49][50][53]藤井ふじい浩明ひろあき作風さくふうてき映画えいがにはかないとかんが難色なんしょくしめしたが、雷蔵らいぞうは『けん』の映画えいが熱望ねつぼうした[49][54]雷蔵らいぞうは1964ねん昭和しょうわ39ねん)の年明としあけすぐに撮影さつえい準備じゅんびはい[53]、1がつ4にち三島みしま参加さんかしている早朝そうちょう午前ごぜん4からの学習院大学がくしゅういんだいがく剣道けんどう寒稽古かんげいこ見学けんがくさんとう歓談かんだんした[9][55]

けん』は原作げんさく発表はっぴょうからわずか5かげつの3がつ14にち映画えいが公開こうかいされた[9]。その時期じき雷蔵らいぞうは『ねむり狂四郎きょうしろう』や『しのびのもの』の人気にんきシリーズで活躍かつやく大映だいえいのスターとして多忙たぼうきわめていたが、けてもれてもおなじパターンの映画えいがよりも、自分じぶん自身じしん本当ほんとうにやりたい作品さくひんでリフレッシュしたかったのではないかと藤井ふじいかたっている[49][54]。『けん』の脚本きゃくほん舟橋ふなばし和郎かずおであったが、そのとしの5がつ23にち公開こうかいされた映画えいがししじゃれ』の脚本きゃくほん舟橋ふなばし担当たんとうした。しかしながら雷蔵らいぞうはスケジュールてき多忙たぼうからか『ししじゃれ』の出演しゅつえんにはいたらなかった[49]

三島みしま映画えいがけん』での雷蔵らいぞう演技えんぎにも感銘かんめいし、主人公しゅじんこう国分こくぶ次郎じろう肝心かんじん要素ようそである「あるるはかなさ」を十全じゅうぜん表現ひょうげんしていた雷蔵らいぞう評価ひょうかした[9][56]雷蔵らいぞうは『炎上えんじょう』では「よし」から疎外そがいされた人物じんぶつ、『けん』では対極たいきょくてきな、「よし」そのものの人物じんぶつ好演こうえんしたが、どちらも「はん時代じだいてき青年せいねん」、印象いんしょうてきな「微笑びしょう」をせるということでは共通きょうつうし(『金閣寺きんかくじ』では「人生じんせい参与さんよ」することをあきらめてから溝口みぞぐちは「微笑びしょう」しす)、それが三島みしま文学ぶんがく登場とうじょうする「〈よし〉を象徴しょうちょうする人物じんぶつ」の特徴とくちょうであった[9]

炎上えんじょう』の溝口みぞぐちでは雷蔵らいぞうを「このひと以上いじょうてきやくはない」とかたった三島みしまだが[22]、『けん』の国分こくぶ次郎じろうでも雷蔵らいぞう三島みしまにとって適役てきやくであった[9][56]。なお、三島みしま自作じさくの『憂国ゆうこく』を映画えいがして上映じょうえいするときには、雷蔵らいぞうの『ねむり狂四郎きょうしろう』か、あるいはかつ新太郎しんたろうの『座頭市ざとういち』との2本立ほんだてにすることをのぞんだという[16]

その雷蔵らいぞうやまいわずらうようになるが、の3かげつまえ病床びょうしょう闘病とうびょうしながら三島みしま長編ちょうへんはるゆき』の舞台ぶたい構想こうそうし、「仕事しごとがしたい……」とっていた[9][50]。『はるゆき』の舞台ぶたい企画きかく雷蔵らいぞう約束やくそくして病室びょうしつのちにした藤井ふじい浩明ひろあきプロデューサーだが、それが雷蔵らいぞうかおわせた最後さいごとなった[50]。『ししじゃれ』や『はるゆき以外いがいにも雷蔵らいぞうは、映画えいがはなおかあおしゅうつま』などで一緒いっしょ仕事しごとをした増村ますむらたもつづくり監督かんとく二・二六事件ににろくじけん青年せいねん将校しょうこうやくもやりたいと相談そうだんしていたという[9]二・二六事件ににろくじけん将校しょうこうらは三島みしまが『憂国ゆうこく』や『英霊えいれいこえ』でえがいた重要じゅうようなテーマであった[9][57]

大西おおにしのぞむは、そんなふうに三島みしま作品さくひん出演しゅつえん熱望ねつぼうした雷蔵らいぞうについて、「一人ひとり俳優はいゆうが、これほどに三島みしま由紀夫ゆきお作品さくひん映画えいが主演しゅえんしたいとったれいがあるだろうか」とべ、三島みしま自身じしん雷蔵らいぞうっていた共鳴きょうめい関係かんけいかんがみつつ、分野ぶんやちがっても「三島みしま雷蔵らいぞう追求ついきゅうしていたものがていた」としている[9]。そして三島みしま文学ぶんがく登場とうじょうする悲劇ひげきてき主人公しゅじんこうたちの「微笑びしょう」を絶妙ぜつみょうえんじられる雷蔵らいぞう表現ひょうげんりょくについて考察こうさつしている[9]

雷蔵らいぞうは、俳優はいゆう市川いちかわ雷蔵らいぞう」のアイデンティティーはん時代じだいてきもとめていたようにおもう。それは、市川いちかわこん監督かんとくが「わかいくせにみょうクラシックなところがあって、そのくせ強情ごうじょうなんですよ」とったように、雷蔵らいぞう生来せいらい性質せいしつだったかもしれない。(中略ちゅうりゃく雷蔵らいぞう三島みしま作品さくひんによって自己じこ表現ひょうげんすることが出来できた。自分じぶんおも存分ぞんぶん表現ひょうげん出来でき作品さくひんめぐまれなかったかつ新太郎しんたろうくらべると、雷蔵らいぞう俳優はいゆう人生じんせいにとって三島みしま作品さくひんは、かけがえのない存在そんざいであっただろう。
三島みしま由紀夫ゆきおえがき、市川いちかわ雷蔵らいぞう体現たいげんしたはん時代じだいてき青年せいねんは、三島みしま理想りそうとしたはん時代じだいてきな「よし」を象徴しょうちょうする人物じんぶつでもある。三島みしまはこういった青年せいねんえがくときに、共通きょうつうした特徴とくちょうたせている。それが「微笑びしょう」である。(中略ちゅうりゃく市川いちかわ雷蔵らいぞうという俳優はいゆう自体じたい生活せいかつしゅうがなく人生じんせいにも芸道げいどうにもストイックなところがあった。そこが「人生じんせい」よりも「よし」をえら三島みしま作品さくひん主人公しゅじんこうたちを表現ひょうげんできた所以ゆえんだろう。(中略ちゅうりゃく雷蔵らいぞうが『奔馬ほんば』のくんえんじる機会きかいがなかったのがやまれる。雷蔵らいぞうであれば、三島みしま文学ぶんがくの「微笑びしょう」の系譜けいふつくれたのではないだろうか。 — 大西おおにしのぞむ市川いちかわ雷蔵らいぞうの『微笑びしょう』――三島みしま原作げんさく映画えいが市川いちかわ雷蔵らいぞう――」[9]

雷蔵らいぞう病気びょうき入院にゅういんしているころ三島みしまかつ新太郎しんたろうからのつよ要望ようぼうで、映画えいがひと』に出演しゅつえんすることとなった[16]大映だいえい京都きょうと撮影さつえいしょおもむき、かち部屋へや本読ほんよみの打合うちあわせをえて部屋へや藤井ふじい浩明ひろあき三島みしまは、まえ雷蔵らいぞう部屋へやがひっそりとしているのをのぞいて、言葉ことばもなかった[58]そとると三島みしまはしばらくの沈黙ちんもくのち、「帰京ききょうしたら雷蔵らいぞうさんを見舞みまいにこうと約束やくそくしたけれど、あれはめよう。雷蔵らいぞうくんえば『ひとり』出演しゅつえんはなしるだろう。それは病床びょうしょう雷蔵らいぞうくんかなしませることになるから…」と、雷蔵らいぞうしんなかおもんばかったという[58]

雷蔵らいぞう翌年よくねん1970ねん昭和しょうわ45ねん)11月に三島みしま事件じけんこり、三島みしまくなるが、そのやく2週間しゅうかんまえ三島みしま由紀夫ゆきおてん」が池袋いけぶくろ東急とうきゅう百貨店ひゃっかてん開催かいさいされ、藤井ふじいはそのよるさんとう帰途きとともにした[58]文京ぶんきょう小日向おびなたたい雷蔵らいぞうていとおくにえてると、雷蔵らいぞう残念ざんねんがっていた三島みしまは、藤井ふじいつぎ雷蔵らいぞうほん機会きかいがあれば、編集へんしゅうけるとったという[58]。すでにそのときさんとう決意けついしていたのをまったらない藤井ふじいは、その言葉ことば雷蔵らいぞう自分じぶんへの友情ゆうじょうしめわかれの言葉ことばとはづかず、三島みしま編集へんしゅうする雷蔵らいぞう追悼ついとう豪華ごうかほん夢見ゆめみていた[58]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 藤井ふじい浩明ひろあきは、じつは『はなざかりのもり以来いらいから三島みしま作品さくひんんでいた[5][16]小樽おたる高等こうとう商業しょうぎょう学校がっこうげん小樽商科大学おたるしょうかだいがく)にいた藤井ふじい戦争せんそうちゅう勤労きんろう動員どういん群馬ぐんまけん新田にったぐん太田おおたまち中島なかじま飛行機ひこうき小泉こいずみ製作所せいさくしょにいたが、みかどだい法学部ほうがくぶ学生がくせい動員どういんされ、そのなかに『はなざかりのもり』の作者さくしゃ三島みしま由紀夫ゆきおがいるといううわさつたわって[16]藤井ふじい大映だいえい社員しゃいんとして三島みしまはじめてい、三島みしままで交流こうりゅうつづいたが、おな工廠こうしょう勤労きんろう動員どういんされていたことはいそびれたままであったという[16]
  2. ^ 実際じっさいには藤井ふじいは2さつ大学だいがくノートをわたした[5]
  3. ^ 市川いちかわこん日活にっかつめた理由りゆうは、『ビルマの竪琴たてごと』の公開こうかいをめぐる問題もんだいであった[6]。それを市川いちかわは、以前いぜんからこえをかけられていた大映だいえい移籍いせきした[6]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 炎上えんじょう”. 角川かどかわ映画えいが. 2021ねん1がつ28にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2022ねん9がつ13にち閲覧えつらん
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  4. ^ a b c d e f g h i j k 西岡にしおか善信よしのぶ映画えいが美術びじゅつのうらおもて」(室岡むろおか 1993, pp. 51–86)
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 藤井ふじい浩明ひろあき三島みしま文学ぶんがく映画えいが」(論集ろんしゅうII 2001, pp. 154–176)
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am 市川いちかわこん「『炎上えんじょう』とかみなりちゃん」(DVD 2004, pp. 8–17)
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]