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つる -づる-

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つる
づる
監督かんとく 市川いちかわこん
脚本きゃくほん 和田わだなつじゅう
日高ひだかしん
市川いちかわこん
製作せいさく 高井たかい英幸ひでゆき
ナレーター 石坂いしざか浩二こうじ
音楽おんがく 谷川たにがわ賢作けんさく
撮影さつえい 五十畑いかばたさいわいいさむ
編集へんしゅう 長田ながた千鶴子ちづこ
製作せいさく会社かいしゃ 東宝とうほう映画えいが
配給はいきゅう 東宝とうほう
公開こうかい 日本の旗 1988ねん5がつ21にち
上映じょうえい時間じかん 93ふん[注釈ちゅうしゃく 1]
製作せいさくこく 日本の旗 日本にっぽん
言語げんご 日本語にほんご
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つる -づる-』は、1988ねん5月21にち公開こうかいされた日本にっぽん映画えいが製作せいさく東宝とうほう映画えいが配給はいきゅう東宝とうほうイーストマンカラービスタビジョンサイズ。文部省もんぶしょう選定せんてい

概要がいよう[編集へんしゅう]

日本にっぽん民話みんわづる恩返おんがえ』の映画えいが作品さくひん[2][1]吉永よしなが小百合さゆり映画えいが出演しゅつえん100ほん作品さくひんでもある[2][1]

製作せいさく[編集へんしゅう]

吉永よしなが小百合さゆりにとってのメモリアル作品さくひんとなったほんさくは、企画きかく東宝とうほうのみならず、東映とうえい独立どくりつプロからすうじゅうもの企画きかくあつまった。企画きかく選考せんこうや、監督かんとく指名しめい吉永よしなが主導しゅどうおこなわれ、吉永よしなが木下きのした順二じゅんじ原作げんさく戯曲ぎきょく夕鶴ゆうづる』の映画えいが希望きぼうして、監督かんとくには、『おはん』や『映画えいが女優じょゆう』で役者やくしゃとしてのしん境地きょうちしてくれた市川いちかわこん指名しめいするが、市川いちかわは2かげつわたって監督かんとく指名しめい固辞こじしただけでなく、吉永よしながの『夕鶴ゆうづる映画えいがにも反対はんたい表明ひょうめいした。じつは、ほんさく企画きかくからさかのぼることすうじゅうねんまえ市川いちかわがまだ大映だいえい契約けいやくしていたころに、一度いちど原作げんさくしゃ木下きのした面会めんかいして映画えいが許諾きょだく依頼いらいしたが、ことわられた経緯けいいがあったためである。当時とうじ木下きのしたは「のモノはなにでもあげるけど、『夕鶴ゆうづる』だけはこまる」「理由りゆうとくにない。この作品さくひんだけは、そっと手元てもといておきたいんだ」「もし映画えいがゆるになったら、かならずあなたにこえをかけてあげるから」と市川いちかわさとし、すうねん大阪おおさか万国博覧会ばんこくはくらんかいさいに、ふたた市川いちかわから人形にんぎょうげきとしての『夕鶴ゆうづる』の作品さくひん許諾きょだくがあったさいも、「『づる恩返おんがえ』という元々もともと民話みんわがあるのだから、それを脚色きゃくしょくしておやりなさい」と助言じょげんする徹底てっていぶりだった。[よう出典しゅってん]

市川いちかわ吉永よしながに「ぼく指名しめいしてくれたのはうれしいけど、原作げんさくもらえないことかってる。『づる恩返おんがえし』だと普通ふつうになってしまう」と反対はんたい理由りゆう説明せつめいしたが、吉永よしなが後援こうえんする東宝とうほう熱意ねついあらがえず、最終さいしゅうてきには監督かんとく受諾じゅだくすることになる。「『夕鶴ゆうづる』をはなれて『夕鶴ゆうづる』とおなばなしらねばならない、これが本当ほんとうからかった」と後年こうねん述懐じゅっかいすることになる市川いちかわだったが、やむなく、大阪おおさか万博ばんぱく使用しようした『づる恩返おんがえし』の短編たんぺん人形にんぎょうげきよう脚本きゃくほん映画えいがようにリライトして使用しようすることになった。[よう出典しゅってん]配役はいやくについては、大寿だいずやく野田のだ秀樹ひでき吉永よしなが推薦すいせん由良ゆらやく樹木きき希林きりん市川いちかわ依頼いらいで、各々おのおの出演しゅつえんすることになったが、後年こうねん市川いちかわが「さんしゃさんようのバランスがれていないですよね。樹木ききさんも野田のだくんも、面白おもしろ演技えんぎしゃなんですが、これは監督かんとく責任せきにんです」と失敗しっぱいみとめたように、満足まんぞくする配役はいやく結果けっかとはならなかった[3]

ロケ撮影さつえい新潟にいがた地方ちほうおこなわれ、事前じぜんにロケセットをて、ある程度ていど積雪せきせつ撮影さつえいはい予定よていだったが、そのとし新潟にいがた地方ちほうは60ねんぶりのゆき不足ふそく見舞みまわれ、撮影さつえいスケジュールを大幅おおはば修正しゅうせいする事態じたいとなってしまった[3]

クライマックスのづるぬのるシーンは製作せいさく当初とうしょからの課題かだいであった[2]。「影絵かげえ」「おとだけ」「大寿だいず芝居しばいのみ」などさまざまなあん検討けんとうされた結果けっか、プロデューサーの要望ようぼうもあり[3]造形ぞうけいぶつによる撮影さつえい決定けっていし、4かいなおしにより市川いちかわ満足まんぞくできるものとなった[2]

ほんさくはメインの上映じょうえいかんのみ、上映じょうえい直前ちょくぜん劇場げきじょうないゆきをイメージした照明しょうめい効果こうか発生はっせいして、そのまま映画えいがげきちゅうつながる特殊とくしゅ演出えんしゅつおこなわれた。これは大阪おおさか万博ばんぱくでの経験けいけんもと市川いちかわ東宝とうほう社長しゃちょう松岡まつおかいさおにアイディアをけ、松岡まつおか賛同さんどうして実現じつげんしたもので、この演出えんしゅつ効果こうか邪魔じゃまになるという理由りゆうで、本来ほんらい映画えいが冒頭ぼうとう登場とうじょうする東宝とうほうマークが、げきちゅう最後さいご挿入そうにゅうされている[3]

スタッフ[編集へんしゅう]

キャスト[編集へんしゅう]

受賞じゅしょう[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 書籍しょせき『ゴジラほう』では、「1あいだ32ふん」と記述きじゅつしている[1]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c ゴジラほう 1999, p. 204, 「つる -づる-」
  2. ^ a b c d 石井いしい博士はかせほか『日本にっぽん特撮とくさつ幻想げんそう映画えいが全集ぜんしゅう勁文しゃ、1997ねん、312ぺーじISBN 4766927060 
  3. ^ a b c d 市川いちかわこんもりゆうつくえ完本かんぽん 市川いちかわこん映画えいがたち』よういずみしゃ、2015ねん11月、pp.353 - 356

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 『ゴジラほう 東宝とうほう幻想げんそう映画えいがはん世紀せいきあゆみ』(だい3はんたけ書房しょぼう、1999ねん12月24にち原著げんちょ1993ねん12月21にち)。ISBN 4-8124-0581-5 

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]