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花田清輝 - Wikipedia コンテンツにスキップ

花田はなた清輝きよてる

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花田はなた 清輝きよてる
(はなだ きよてる)
1948ねん
誕生たんじょう (1909-03-29) 1909ねん3月29にち
大日本帝国の旗 大日本帝国だいにっぽんていこく福岡ふくおかけん福岡ふくおか東公園ひがしこうえん
死没しぼつ (1974-09-23) 1974ねん9月23にち(65さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう新宿しんじゅく信濃しなのまち
慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく病院びょういん
墓地ぼち 日本の旗 日本にっぽん千葉ちばけん松戸まつど
はちはしら霊園れいえん
職業しょくぎょう 文芸ぶんげい評論ひょうろん
小説しょうせつ
言語げんご 日本語にほんご
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
最終さいしゅう学歴がくれき 京都きょうと帝国ていこく大学だいがく文学部ぶんがくぶ英文えいぶん学科がっか除籍じょせき
活動かつどう期間きかん 1931ねん - 1974ねん
ジャンル 評論ひょうろん小説しょうせつ戯曲ぎきょく
文学ぶんがく活動かつどう しん日本にっぽん文学ぶんがくかい
だいいち戦後せんご作家さっか
代表だいひょうさく復興ふっこう精神せいしん』(1946ねん
ふたつの世界せかい』(1949ねん
『アヴァンギャルド芸術げいじゅつ』(1954ねん
鳥獣ちょうじゅうおどけはなし』(1962ねん
日本にっぽんのルネッサンスじん』(1974ねん
おも受賞じゅしょうれき 週刊しゅうかん読売よみうり新劇しんげきしょう(1958ねん
毎日まいにち出版しゅっぱん文化ぶんかしょう(1962ねん
デビューさくなな」(1931ねん
親族しんぞく 花田はなたじゅうてるまご
ウィキポータル 文学ぶんがく
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花田はなた 清輝きよてる(はなだ きよてる、1909ねん明治めいじ42ねん3月29にち - 1974ねん昭和しょうわ49ねん9月23にち)は、作家さっか文芸ぶんげい評論ひょうろんたくみなレトリックを駆使くしした文体ぶんたい特徴とくちょうとし、映画えいが演劇えんげき評論ひょうろんおおがけ、日本にっぽんアヴァンギャルド芸術げいじゅつろん先駆せんくてき存在そんざいであった。

生涯しょうがい

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福岡ふくおかけん福岡ふくおか東公園ひがしこうえんまれ、一人ひとりとしてそだつ。先祖せんぞ毛利もうり輝元てるもとであり、清輝きよてる祖父そふ黒田くろだはん右筆ゆうひつで、名前なまえには代々だいだいてる」のけるならいだった[1]旧制きゅうせい福岡ふくおか中学ちゅうがくげん福岡ふくおか県立けんりつ福岡ふくおか高等こうとう学校がっこう時代じだい柔道じゅうどう熱中ねっちゅうし、またちちともに短歌たんか新聞しんぶんとう投稿とうこうしていた。

鹿児島かごしまだいなな高等こうとう学校がっこう入学にゅうがくし、西田にしだ哲学てつがく没入ぼつにゅう、またりょう白光はっこう』を創刊そうかん長編ちょうへん下石上しもいしがみ」などを発表はっぴょう。しかし読書どくしょ熱中ねっちゅうして出席しゅっせき日数にっすう不足ふそくで2つづけて落第らくだい退学たいがく福岡ふくおかもどって九州きゅうしゅう帝国ていこく大学だいがく哲学てつがく聴講生ちょうこうせいて、1929ねん京都きょうと帝国ていこく大学だいがく文学部ぶんがくぶ選科せんかせいとして入学にゅうがく。この時期じき、『白光はっこう』に小説しょうせつ「ひとつの習作しゅうさくとそのはかないひとりごとのはなし」、戯曲ぎきょくまど」「構成こうせい美学びがく-エドガア・ポオ瞥見べっけん掲載けいさい。1931ねん小杉こすぎ雄二ゆうじのペンネームで『サンデさんで毎日まいにち大衆たいしゅう文芸ぶんげい応募おうぼした小説しょうせつなな」が、入選にゅうせん掲載けいさいされる[2]父親ちちおや事業じぎょう失敗しっぱいにより学費がくひはらえなくなり、同年どうねん11がつ京大きょうだい文学部ぶんがくぶ英文えいぶん除籍じょせきされる。しかし滝川たきがわ事件じけんこると、古谷ふるやつなただし高木たかぎようらとともに文部省もんぶしょうによる大学だいがく自治じちへの干渉かんしょう反対はんたいする文学部ぶんがくぶ運動うんどう指導しどうした。福岡ふくおかちち経営けいえいする食堂しょくどうはたらいたが、1933ねん上京じょうきょう翻訳ほんやく下請したうけなどで生計せいけいて、ななだか時代じだい友人ゆうじん辛島からしま紅葉こうよう義兄ぎけいにあたる三浦みうら義一ぎいちいえ一時いちじ滞在たいざいした。新聞しんぶん広告こうこくて、朝鮮ちょうせんじんジャーナリストで独立どくりつ運動うんどうひがしさいかち秘書ひしょをつとめる。

戦前せんぜん戦中せんちゅうまで

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1935ねん朝鮮ちょうせんじんジャーナリスト依頼いらいまんしゅうわたり、朝鮮ちょうせんじんのコロニーを取材しゅざい。また福岡ふくおか中学ちゅうがく先輩せんぱい中野なかのただしつよし秘書ひしょをしていたわがかんしゃ進藤しんどう一馬かずま知遇ちぐうて、東方とうほうかい機関きかんかん』(東大とうだいりく』に改名かいめい)に「朝鮮ちょうせん民族みんぞく史的してき変遷へんせん」など時事じじ論文ろんぶんなどを執筆しっぴつ。また大野おおの正夫まさお片山かたやま敏彦としひこ長谷川はせがわ四郎しろうらの雑誌ざっし世代せだい』、大井おおい廣介ひろすけらの『現代げんだい文学ぶんがく』に文芸ぶんげいろん発表はっぴょうした。1939ねんには東大とうだいりくしゃ入社にゅうしゃして『東大とうだいりく』の実質じっしつてき編集へんしゅうちょうとなり[3](これらは、戦後せんご吉本よしもと隆明たかあきとの論争ろんそうにおいて「東方とうほうかい下郎げろう」と誹謗ひぼうされる根拠こんきょとなった)、中野なかのただしつよし実弟じってい中野なかの秀人ひでと野口のぐち米次郎よねじろう福池ふくいけ立夫たつおらと「文化ぶんか再出発さいしゅっぱつかい」を結成けっせいし、中野なかのただしごうから資金しきん機関きかん文化ぶんか組織そしき』を創刊そうかん。『自明じめい』や『復興ふっこう精神せいしん』としてまとめられる一連いちれん文章ぶんしょう発表はっぴょうした。1940ねんに『東大とうだいりく編集へんしゅうめ、秋山あきやまきよし紹介しょうかい林業りんぎょう新聞しんぶんしゃ入社にゅうしゃ。1941ねん文化ぶんか再出発さいしゅっぱつかいの「魚鱗ぎょりん叢書そうしょ」として『自明じめい』を刊行かんこうするが、「文化ぶんか再出発さいしゅっぱつかい」は中野なかのただしつよしとの関係かんけいたれ、経営けいえいくるしくなった。1942ねん以後いごサラリーマンしゃ時局じきょく月報げっぽう』、木材もくざい通信つうしんしゃ木材もくざい通信つうしん』、軍事ぐんじ工業こうぎょう新聞しんぶんしゃ軍事ぐんじ工業こうぎょう新聞しんぶん』など記者きしゃ社説しゃせつ執筆しっぴつなどもつとめる。また1943ねんに『現代げんだい文学ぶんがくに、大東だいとうじゅく顧問こもん三浦みうら義一ぎいち尾崎おざき士郎しろう対談たいだん影山かげやま正治しょうじ批判ひはんした「虚実きょじついりみだれて」を発表はっぴょうし、大東だいとうじゅく関係かんけいしゃ暴行ぼうこうけ、謝罪しゃざいぶんかされる。また戦時せんじ雑誌ざっし統合とうごうで『文化ぶんか組織そしき』はおわりかんとなる。

アヴァンギャルドろん

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鎌倉かまくら材木座ざいもくざ敗戦はいせんむかえ、1946ねんには中野なかのただしつよし息子むすこ中野なかの達彦たつひこ泰雄やすお兄弟きょうだい要請ようせい出版しゅっぱんしゃ真善美しんぜんびしゃ編集へんしゅう顧問こもんとなり、『かん』を改題かいだいした『真善美しんぜんび』の編集へんしゅう参加さんか北多摩きたたまぐん狛江こまえむらにある戦中せんちゅう緒方おがた竹虎たけとら疎開そかいしていた中野なかの家宅かたくうつむ。おも戦中せんちゅうのエッセイ『復興ふっこう精神せいしん』を真善美しんぜんびしゃ処女しょじょ出版しゅっぱんとして刊行かんこう戦中せんちゅう戦後せんごのエッセイを収録しゅうろくした『錯乱さくらん論理ろんり』、永井ながい荷風かふう太宰だざいおさむ椎名しいな麟三りんぞう坂口さかぐち安吾あんごらへの批評ひひょうふくむ『ふたつの世界せかい』などで注目ちゅうもくされるようになる。「砂漠さばくについて」(『ふたつの世界せかい』)は安部あべ公房こうぼうの『すなおんな執筆しっぴつ影響えいきょうあたえた[4]。また加藤かとう周一しゅういち中村なかむら眞一郎しんいちろう福永ふくなが武彦たけひこ小野おの十三郎じゅうざぶろう野間のまひろし福田ふくだひさしそん佐々木ささき基一きいち埴谷はにやゆうだかなどだいいち戦後せんご作家さっか作品さくひんを「アプレゲ—ル新人しんじん創作そうさくせん」として出版しゅっぱん、これにより「アプレゲール」という言葉ことば一般いっぱんした。戦前せんぜん木材もくざい通信つうしんしゃった田中たなか吉六きちろくの『スミスとマルクス』も花田はなた斡旋あっせん真善美しんぜんびしゃより刊行かんこうされ、題名だいめい花田はなたすすめでまった。同年どうねん近代きんだい文学ぶんがく』の同人どうじんになる。1947ねん岡本おかもとじゅん加藤かとう周一しゅういち関根せきねひろし中野なかの秀人ひでと中村なかむら眞一郎しんいちろうらと「綜合そうごう文化ぶんか協会きょうかい」を結成けっせい真善美しんぜんびしゃ事務所じむしょき、機関きかん綜合そうごう文化ぶんか』を発行はっこう同年どうねん埴谷はにやゆうだか佐々木ささき基一きいち野間のまひろし岡本おかもと太郎たろう関根せきねひろしと「よるかい結成けっせい。1948ねん野間のまひろし寺田てらだとおる杉浦すぎうらあきらたいららの「未来みらいかい」に参加さんか。1949ねん日本にっぽん共産党きょうさんとう入党にゅうとう月曜げつよう書房しょぼう戦後せんご文学ぶんがくしょう銓衡せんこう委員いいんとなり、安部あべ公房こうぼう「デンドロカカリヤ」を推薦すいせんした。1950ねん月曜げつよう書房しょぼうから田中たなか英光ひでみつ遺書いしょしたがって『田中たなか英光ひでみつ選集せんしゅう刊行かんこう

しん日本にっぽん文学ぶんがくかいには1946ねん入会にゅうかいし、1948ねんに『しん日本にっぽん文学ぶんがく編集へんしゅういん、1952ねん編集へんしゅうちょう、1954ねんには宮本みやもと顕治けんじ原稿げんこう拒否きょひしたたことから編集へんしゅうちょう解任かいにんされた。

1950年代ねんだいから美術びじゅつ映画えいが評論ひょうろんちからそそぎ、『アヴァンギャルド芸術げいじゅつ』『さちゅりこん』『政治せいじてき動物どうぶつについて』などの著書ちょしょで、わか世代せだいつよ影響えいきょうあたえた。1957ねん安部あべ公房こうぼう岡本おかもと太郎たろう大西おおにし巨人きょじん竹内たけうちみのる長谷川はせがわ四郎しろうらと「記録きろく芸術げいじゅつかい結成けっせい機関きかん現代げんだい芸術げいじゅつ』を創刊そうかん総合そうごう芸術げいじゅつ共同きょうどう制作せいさく実現じつげん目標もくひょうとした。1959ねん安部あべ千田せんだ是也これや木下きのした順二じゅんじ野間のまらと演劇えんげき運動うんどうの「さんかい」を結成けっせい

論争ろんそう

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1955ねんに「ゴロツキのべん」(『群像ぐんぞう』)、「はん俗物ぞくぶつてき俗物ぞくぶつ-高見たかみじゅんに」(『文学ぶんがくかい』)を発表はっぴょうし、高見たかみじゅんとのゴロツキろんそうとなる。1956ねんには「モラリスト批判ひはん(『群像ぐんぞう』)を発表はっぴょうし、あら正人まさと埴谷はにやゆうだから『近代きんだい文学ぶんがく同人どうじんとのモラリスト論争ろんそう。また1956ねんの『現代げんだい誌上しじょうでの岡本おかもとじゅん吉本よしもと隆明たかあきとの鼎談ていだん芸術げいじゅつ運動うんどう今日きょうてき課題かだい」を発端ほったんとし、つづいて1957ねん「ヤンガー・ゼネレーションへ」、1959ねんに「戦後せんご文学ぶんがくだい批判ひはん」(『群像ぐんぞう』)、「プロレタリア文学ぶんがく批判ひはんをめぐって」(『文学ぶんがく』)に、吉本よしもとは「もと芸人げいにん入山にゅうざんもん-花田はなた清輝きよてるろうへのかいコトバ」(『日本にっぽん読書どくしょ新聞しんぶん』)をき、これに「反論はんろん-吉本よしもと隆明たかあきに」(同紙どうし)など、吉本よしもと隆明たかあきらと転向てんこう戦争せんそう責任せきにん問題もんだいについて花田はなた吉本よしもと論争ろんそうひろげた。 1961ねん日本にっぽん共産党きょうさんとうだい8かい大会たいかいにあたって、しん日本にっぽん文学ぶんがくかい共産きょうさん党員とういんグループによるとう運営うんえい批判ひはんする声明せいめいしょなどを公表こうひょうとう除名じょめいされる。 1966ねん新日本しんにほん文学ぶんがくかい議長ぎちょう選出せんしゅつされる。

戯曲ぎきょく演劇えんげき

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1957ねん安部あべ公房こうぼう岡本おかもと太郎たろう大西おおにし巨人きょじん竹内たけうちみのる長谷川はせがわ四郎しろうらと、総合そうごう芸術げいじゅつ共同きょうどう制作せいさく目指めざす「記録きろく芸術げいじゅつかい結成けっせいし、1958ねん歴史れきしものの長編ちょうへん戯曲ぎきょく泥棒どろぼう論語ろんご』を執筆しっぴつ。そのとしあきまいげいによって俳優座はいゆうざ劇場げきじょう公演こうえんされ、だい1かい週刊しゅうかん読売よみうり新劇しんげきしょう受賞じゅしょう

1962ねん劇団げきだん俳優座はいゆうざから公演こうえん台本だいほんとして依頼いらいされた「爆裂ばくれつだん」を発表はっぴょうしたが、公演こうえんスケジュールにわず、わりに1963ねん劇団げきだん演劇えんげきなどの有志ゆうしによって俳優座はいゆうざ劇場げきじょう公演こうえんされた。戯曲ぎきょくについて和田わだ芳恵よしえは「壮士そうしくが浩然こうぜんかんじさせる明治めいじ調ちょうがこの戯曲ぎきょくのようにあらわれたものが、これまでなかったようながした」とひょうしたが、公演こうえんりはガラガラという状態じょうたいだった。

つづいて1963ねんに「ものみなうたでおわる」を日生劇場にっせいげきじょう開場かいじょう記念きねん公演こうえんとしてろし、千田せんだ是也これや演出えんしゅつ水谷みずたに八重子やえこ仲代なかだい達矢たつやなどの出演しゅつえん公演こうえんしたがだい不評ふひょうで、「ものみな不入ふいりでおわる」とだいした記事きじかれた。

爆裂ばくれつだん」は1968ねん劇団げきだん演劇えんげきにより明治めいじひゃくねん批判ひはん公演こうえんとして上演じょうえんされた。

1973ねん長谷川はせがわ四郎しろう佐々木ささき基一きいち広末ひろすえたもつ、うえまつたかしの5にんが「記録きろく芸術げいじゅつかい」につづあたらしい演劇えんげき活動かつどうこそうとして、演劇えんげき団体だんたいろくかい」を結成けっせいし、1974ねんだい1かい公演こうえんで「ものみなうたでおわる」を六本木ろっぽんぎ俳優座はいゆうざ再演さいえん千田せんだ是也これや一門いちもん中堅ちゅうけん若手わかて俳優はいゆうえんじ、満員まんいん大盛おおもりきょうとなった。 ろくかいだい2かい公演こうえんでは、花田はなた提案ていあん魯迅ろじんの「故事こじ新編しんぺん」を素材そざいとした共同きょうどう制作せいさくおこなうこととし、4へんのうち花田はなたは「くびんでも-眉間みけんじゃく」を執筆しっぴつ。しかしこの上演じょうえんされた1974ねん11がつまえ花田はなた死去しきょし、公演こうえん追悼ついとう公演こうえんとしておこなわれた。

戯曲ぎきょくとしては、ラジオドラマ「わたしはかいになった」、テレビドラマ「就職しゅうしょく試験しけん」「佐倉さくらあきらくんでん」がある[5]

小説しょうせつ

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1960ねんから「鳥獣ちょうじゅうおどけはなし」「小説しょうせつ平家へいけ」などの歴史れきしものの小説しょうせつ執筆しっぴつはじめる。1962ねん鳥獣ちょうじゅうおどけはなし』で毎日まいにち出版しゅっぱん文化ぶんかしょう受賞じゅしょう埴谷はにやゆうだかが「花田はなた小説しょうせつは『ある事物じぶつへの感覚かんかくてき集中しゅうちゅう表現ひょうげん』がない」と批評ひひょうしたことにたいして、「かれは小説しょうせつらしい小説しょうせつきなのだろう。せいぜい、柄杓ひしゃくうえはねやすめているやんまのイメージでもえがくがよい」と、もり鷗外阿部あべ一族いちぞく」のディテール描写びょうしゃ俗物ぞくぶつせいいに、自身じしん立場たちばあらわしている(「方法ほうほう序説じょせつ」『はこなかはなし』)。


1974ねん5がつ慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく病院びょういん入院にゅういん一旦いったん退院たいいんするがさい入院にゅういんし、9月に脳出血のうしゅっけつのためどう病院びょういん死去しきょ

1963-66ねんに『花田はなた清輝きよてる著作ちょさくしゅうぜん7かん来社らいしゃから、没後ぼつご花田はなた清輝きよてる全集ぜんしゅうぜん15かん別巻べっかん2かん講談社こうだんしゃから刊行かんこうされた。

東北大学とうほくだいがく金属きんぞく材料ざいりょう研究所けんきゅうじょ教授きょうじゅであった花田はなたはじむもん息子むすこアニメ脚本きゃくほん花田はなたじゅうてるまご

著書ちょしょ

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  • 自明じめい文化ぶんか再出発さいしゅっぱつかい魚鱗ぎょりん叢書そうしょ、1941ねん戦後せんごさい編集へんしゅうして『錯乱さくらん論理ろんり』と改題かいだい
  • 復興ふっこう精神せいしんわがかんしゃ 1946ねん のち角川かどかわ文庫ぶんこ講談社こうだんしゃ文庫ぶんこ講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ
  • 錯乱さくらん論理ろんり真善美しんぜんびしゃ 1947ねん のち講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ
  • ふたつの世界せかい月曜げつよう書房しょぼう 1949ねん のち講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ
  • 『カフカ小品しょうひんしゅう世紀せいきかい 1950ねん翻訳ほんやく
  • 『アヴァンギャルド芸術げいじゅつ未來社みらいしゃ筑摩ちくま叢書そうしょ講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ
  • 『さちゅりこん 花田はなた清輝きよてる評論ひょうろんしゅう未來社みらいしゃ 1956ねん
  • 政治せいじてき動物どうぶつについて 現代げんだいモラリスト批判ひはん青木あおき書店しょてん 1956ねん
  • 乱世らんせいをいかにきるか』山内やまうち書店しょてん 1957ねん
  • 大衆たいしゅうのエネルギー』だい日本にっぽん雄弁ゆうべんかい講談社こうだんしゃ 1957ねん
  • 映画えいがてき思考しこう未來社みらいしゃ、1958ねん(1962ねん収録しゅうろく文章ぶんしょう一部いちぶさしかえて『新編しんぺん映画えいがてき思考しこう』とする) のち講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ
  • 泥棒どろぼう論語ろんごなな未來社みらいしゃ 1959ねん戯曲ぎきょく
  • 近代きんだい超克ちょうこく未來社みらいしゃ 1959ねん のち講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ
  • 『もうひとつの修羅しゅら筑摩書房ちくましょぼう 1961ねん のち講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ
  • 鳥獣ちょうじゅうおどけはなし講談社こうだんしゃ 1962ねん小説しょうせつ)のち講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ
  • 『いろはにほへと』二村にむら次郎じろう写真しゃしん 未來社みらいしゃ 1962ねん
  • 『シラノの晩餐ばんさん未來社みらいしゃ 1963ねん
  • 爆裂ばくれつだん來社らいしゃ 1963ねん戯曲ぎきょく)のち講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ
  • 『ものみなうたでおわる かぶきの誕生たんじょうかんするいち考察こうさつ晶文社しょうぶんしゃ 1964ねん戯曲ぎきょく)のち講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ
  • 俳優はいゆう修業しゅうぎょう講談社こうだんしゃ 1964ねん小説しょうせつ)のち講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ
  • 恥部ちぶ思想しそう講談社こうだんしゃ 1965ねん のち講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ
  • 小説しょうせつ平家へいけ講談社こうだんしゃ 1967ねん小説しょうせつ)のち講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ
  • 古典こてん現代げんだい未來社みらいしゃ 1967ねん
  • 随筆ずいひつ三国志さんごくし筑摩書房ちくましょぼう 1969ねん のちレグルス文庫ぶんこ講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ
  • 乱世らんせい今昔こんじゃくだん講談社こうだんしゃ、1970ねん講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ収録しゅうろくにあたって『ここだけのはなし』と改題かいだい
  • 東洋とうようてき回帰かいき現代げんだいのエッセイ)』文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1971ねん
  • 冒険ぼうけん日和見ひよりみ 文藝ぶんげい評論ひょうろんしゅうそうじゅしゃ 1971ねん のち増補ぞうほばん
  • 室町むろまち小説しょうせつしゅう講談社こうだんしゃ、1973ねん小説しょうせつ)のち講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ
  • 日本にっぽんのルネッサンスじん朝日新聞社あさひしんぶんしゃ 1974ねん のち朝日あさひ選書せんしょ講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ
  • はこはなし潮出版社うしおしゅっぱんしゃ 1974ねん のち講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ合冊がっさつ
  • 洛中らくちゅう洛外らくがい平凡社へいぼんしゃ 1974ねん

共編きょうへんちょ

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全集ぜんしゅう作品さくひんしゅう

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だい1かん (復興ふっこう精神せいしん,錯乱さくらん論理ろんり) 1964ねん
だい2かん (大衆たいしゅうのエネルギー,ふたつの世界せかい) 1963ねん
だい3かん (アヴァンギャルド芸術げいじゅつ,さちゅりこん) 1964ねん
だい4かん (近代きんだい超克ちょうこく,もうひとつの修羅しゅら) 1964ねん
だい5かん (仮面かめんかお,きも大小だいしょうしんろく) 1965ねん
だい6かん (泥棒どろぼう論語ろんご,爆裂ばくれつだん,ものみなうたでおわる,就職しゅうしょく試験しけん,佐倉さくらあきらくんでん) 1965ねん
だい7かん (鳥獣ちょうじゅうおどけはなし,俳優はいゆう修業しゅうぎょう,冠者かんじゃでん) 1966ねん
  • 『さまざまな戦後せんご 花田はなた清輝きよてる芸術げいじゅつ論集ろんしゅう読売新聞社よみうりしんぶんしゃ、1974ねん
  • 花田はなた清輝きよてる全集ぜんしゅうぜん15かん別巻べっかん2 講談社こうだんしゃ 1977-80ねん
  • 『ザ・花田はなた清輝きよてる 花田はなた清輝きよてるさつ全集ぜんしゅう だい活字かつじばんだいさんしょかん 2008ねん
  • 日本にっぽんプロレタリア文学ぶんがく大系たいけい 8、別巻べっかん2』さんいち書房しょぼう 1955ねん
  • 現代げんだい日本にっぽん文学ぶんがく全集ぜんしゅう 95 現代げんだい文芸ぶんげい評論ひょうろんしゅう筑摩書房ちくましょぼう 1958ねん(「変形へんけいたん」「絶望ぜつぼうについて」などを収録しゅうろく
  • 日本にっぽん現代げんだい文学ぶんがく全集ぜんしゅう 104』講談社こうだんしゃ 1966ねん
  • 現代げんだい短篇たんぺん文学ぶんがく全集ぜんしゅう 48』筑摩書房ちくましょぼう 1969ねん
  • 現代げんだい日本にっぽん文学ぶんがく大系たいけい 84』筑摩書房ちくましょぼう 1972ねん
  • 現代げんだい文学ぶんがく 4』講談社こうだんしゃ 1974ねん
  • 筑摩ちくま現代げんだい文学ぶんがく大系たいけい 71』筑摩書房ちくましょぼう 1978ねん
  • 現代げんだい推理すいり小説しょうせつ大系たいけい 別巻べっかん2』講談社こうだんしゃ 1981ねん
  • 鳥獣ちょうじゅうおどけはなし小説しょうせつ平家へいけ講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ 1988ねん
  • なな錯乱さくらん論理ろんりふたつの世界せかい講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ 1989ねん
  • 花田はなた清輝きよてる評論ひょうろんしゅう粉川こかわ哲夫てつおへん 岩波いわなみ文庫ぶんこ 1993ねん
  • 『ちくま日本にっぽん文学ぶんがく全集ぜんしゅう 60 花田はなた清輝きよてる筑摩書房ちくましょぼう 1993ねん
  • 日本にっぽん幻想げんそう文学ぶんがく集成しゅうせい 29 花田はなた清輝きよてる池内いけうちおさむへん 国書刊行会こくしょかんこうかい 1994ねん
  • はこはなし・ここだけのはなし講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ 1994ねん
  • 『ものみなうたでおわる・爆裂ばくれつだん講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ 1996ねん
  • 『ものみな映画えいがわる 花田はなた清輝きよてる映画えいが論集ろんしゅう清流せいりゅう出版しゅっぱん 2007ねん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 別冊べっさつしんひょう 花田はなた清輝きよてる世界せかいしんひょうしゃ 1977ねん
  • 島田しまだ昭男あきおばんえつ花田はなた清輝きよてる年譜ねんぷ」(『日本にっぽん現代げんだい文学ぶんがく全集ぜんしゅう 104』)
  • 島田しまだ昭男あきお年譜ねんぷ」(『復興ふっこう精神せいしん講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ 1986ねん

ちゅう

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  1. ^ 小沢おざわ信男のぶお作家さっか案内あんない」(『室町むろまち小説しょうせつしゅう講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ 1990ねん
  2. ^ 泥棒どろぼう論語ろんご』(1959ねん)で単行たんこう本初ほんしょ収録しゅうろくされた。千葉ちば亀雄かめおは「りにったしっとりした重苦おもくるしさをそなえ」「ドイツの怪奇かいき小説しょうせつでも感触かんしょく」「解決かいけつ予想よそうがいたくみさも、すべてめずらしい作物さくもつだ」とひょうしている。
  3. ^ 武井たけい昭夫あきお芸術げいじゅつ運動うんどうとしての花田はなた清輝きよてる——対立たいりつぶつ対立たいりつしたまま統一とういつする花田はなた弁証法べんしょうほう実践じっせん社会しゃかい評論ひょうろん110ごう
  4. ^ 佐々木ささき基一きいち著者ちょしゃわって読者どくしゃ砂漠さばく思想しそう」(『なな錯乱さくらん論理ろんりふたつの世界せかい講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ 1989ねん
  5. ^ 小沢おざわ信男のぶおくもをつかむおとこ-げき作家さっか花田はなた清輝きよてる」(『ものみなうたわる・爆裂ばくれつだん 現代げんだい日本にっぽん戯曲ぎきょく講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ 1996ねん

関連かんれん書籍しょせき

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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