成生岬なりうみさき

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成生岬なりうみさき
成生岬の位置を示した地図
成生岬の位置を示した地図
成生岬の位置を示した地図
成生岬の位置を示した地図
場所ばしょ 京都きょうと舞鶴まいづる成生なりゅう
座標ざひょう 北緯ほくい3536ふん13.3びょう 東経とうけい13527ふん45.1びょう / 北緯ほくい35.603694 東経とうけい135.462528 / 35.603694; 135.462528座標ざひょう: 北緯ほくい3536ふん13.3びょう 東経とうけい13527ふん45.1びょう / 北緯ほくい35.603694 東経とうけい135.462528 / 35.603694; 135.462528

成生岬なりうみさき(なりゅうみさき)は、京都きょうと舞鶴まいづる成生なりゅうぞくし、日本海にほんかい若狭湾わかさわん西部せいぶ)にめんするみさき北緯ほくい3536ふん13.3びょう東経とうけい13527ふん45.1びょう若狭湾わかさわん国定こくてい公園こうえんふくまれている。

地理ちり[編集へんしゅう]

大浦おおうら半島はんとう北端ほくたん成生なりゅう半島はんとう位置いちし、「京都きょうとさい東北とうほくはし」とされることもある。成生岬なりうみさき周辺しゅうへん標高ひょうこう100メートルから200メートルの山地さんちとなっている。先端せんたん成生岬なりうみさき灯台とうだいと、灯台とうだい保守ほしゅのためのふなつき設置せっちされている。沿岸えんがんひとをよせつけない断崖だんがいであり、灯台とうだいつうじる陸路りくろはない。山中さんちゅうにはかつて舞鶴まいづる要塞ようさい外郭がいかくだった防空ぼうくう砲台ほうだい土台どだいのこる。成生なりゅう半島はんとう東岸とうがんには成生なりゅう集落しゅうらくがあり、かつては成生岬なりうみさき周辺しゅうへん回遊かいゆうする「丹後たんごブリ」の産地さんちとしてられた。

周辺しゅうへんおもしま[編集へんしゅう]

歴史れきし[編集へんしゅう]

にちちゅう戦争せんそう勃発ぼっぱつまえの1936ねん昭和しょうわ11ねん)には、成生岬なりうみさき大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん防備ぼうびたい官舎かんしゃ防空ぼうくう砲台ほうだい設置せっちされた[1]

1999ねん平成へいせい11ねん)には成生岬なりうみさき山地さんちじん巨大きょだいスダジイ発見はっけんした[2]京都きょうとによると樹齢じゅれいは300ねん以上いじょうみきまわり13.8メートルであり、環境庁かんきょうちょうによると日本にっぽん確認かくにんされているシイのなかではもっとおおきいという[2]。2001ねん平成へいせい13ねん)3がつ30にちには「成生岬なりうみさきのスダジイ巨木きょぼく」が舞鶴まいづる天然記念物てんねんきねんぶつ指定していされた。

南側の青葉山から望む大浦半島、岬はその北端に位置する。岬の東側には毛島がある。
南側みなみがわ青葉山あおばやまからのぞ大浦おおうら半島はんとうみさきはその北端ほくたん位置いちする。みさき東側ひがしがわには毛島けじまがある。

観光かんこう[編集へんしゅう]

  • 成生なりゅう集落しゅうらくおくには、金閣寺きんかくじ放火ほうか事件じけん犯人はんにん生家せいかである寺院じいんがある。かつてどう事件じけん小説しょうせつ映画えいがでとりあげられ、当地とうち知名度ちめいど全国ぜんこくてきたかまった。
  • 半島はんとう東側ひがしがわ海域かいいき湾内わんないブリ回遊かいゆうルートであり、江戸えど時代じだいからられたこう漁場ぎょじょうである。そのため海面かいめんには定置網ていちあみ設置せっちされており、また漁業ぎょぎょうけんかんする紛争ふんそう多発たはつした敏感びんかん海域かいいきであるため、附近ふきん遊漁船ゆうぎょせん渡船とせんはトラブル回避かいひのため、当該とうがい海域かいいきには接近せっきんけている。周辺しゅうへんいそへのわたしをたのんでも、ことわられることがおおい。
  • 成生なりゅう漁港ぎょこう周辺しゅうへんいそクロダイなどのポイントがおおかったが、じんのゴミてに苦情くじょう結果けっか周辺しゅうへんりは禁止きんしされた。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん編纂へんさん委員いいんかい角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん 26 京都きょうと 下巻げかん角川書店かどかわしょてん、1982ねん、p.1060
  2. ^ a b 京都きょうと舞鶴まいづるでシイの大木たいぼくつかる」『朝日新聞あさひしんぶん』2000ねん7がつ6にち

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]