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岸田劉生 - Wikipedia コンテンツにスキップ

岸田きしだ劉生りゅうせい

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
岸田きしだ 劉生りゅうせい
自画像じがぞう
誕生たんじょう 1891ねん6月23にち
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう銀座ぎんざ
死没しぼつねん (1929-12-20) 1929ねん12月20にち(38さいぼつ
死没しぼつ 日本の旗 日本にっぽん山口やまぐちけん徳山とくやま (げんしゅう南市みなみいち)
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
運動うんどう動向どうこう ヒュウザンかい くさしゃ
芸術げいじゅつ分野ぶんや 洋画ようが
教育きょういく 白馬はくばかい葵橋あおいばし洋画ようが研究所けんきゅうじょ
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岸田きしだ 劉生りゅうせい(きしだ りゅうせい、男性だんせい1891ねん明治めいじ24ねん6月23にち - 1929ねん昭和しょうわ4ねん12月20にち)は、大正たいしょうから昭和しょうわ初期しょき洋画ようが父親ちちおや新聞しんぶん記者きしゃ実業じつぎょう岸田きしだ吟香ぎんこう

来歴らいれき人物じんぶつ

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岸田きしだ劉生りゅうせい肖像しょうぞう写真しゃしん明治めいじ

1891ねん明治めいじ24ねん)、薬屋くすりやらくぜんどう」を経営けいえいする実業じつぎょう岸田きしだ吟香ぎんこうよんおとことして東京とうきょう銀座ぎんざまれる[1]おとうとはのちに浅草あさくさオペラ活躍かつやく宝塚歌劇団たからづかかげきだんげき作家さっかになる岸田きしだたつわたる東京とうきょうだか附属ふぞく中学ちゅうがく中退ちゅうたい1908ねん明治めいじ41ねん)、東京とうきょう赤坂あかさか溜池ためいけにあった白馬はくばかい葵橋あおいばし洋画ようが研究所けんきゅうじょはい黒田くろだ清輝きよてる師事しじした。1910ねん明治めいじ43ねん文展ぶんてんに2てん作品さくひん入選にゅうせんしている。

1911ねん明治めいじ44ねん)『白樺しらかんば主催しゅさい美術びじゅつてんがきっかけでバーナード・リーチい、やなぎ宗悦むねよし武者小路むしゃのこうじ実篤さねあつら『白樺しらかんば周辺しゅうへん文化ぶんかじんともうようになった。劉生りゅうせい自身じしん生前せいぜんは『初期しょき肉筆にくひつ浮世絵うきよえ』、『図画ずが教育きょういくろん』や、没後ぼつごされた随筆ずいひつ本体ほんたい』(河出かわで書房しょぼう)、『演劇えんげきろん』(かたなこう書院しょいん)など、おおくの文章ぶんしょうのこし、これらは『岸田きしだ劉生りゅうせい全集ぜんしゅう』(ぜん10かん岩波書店いわなみしょてん)にまとめられた。

1912ねん明治めいじ45ねん)、高村たかむら光太郎こうたろうばん鉄五郎てつごろう斎藤さいとう与里より清宮きよみやあきら木村きむら荘八しょうはちらとともにヒュウザンかい結成けっせいだい1かいヒュウザンかいてんには14てん出品しゅっぴんした。これが画壇がだんへの本格ほんかくてきなデビューといえる。鏑木かぶらき清方きよかた日本にっぽんまなんでどう展覧てんらんかい観覧かんらんていた小林こばやし(しげる)と翌年よくねん7がつ結婚けっこんをする。(なお、ヒュウザンかいてんは2かい終了しゅうりょうし、1913ねん大正たいしょう2ねん)のだい2かいてんではフュウザンかい改称かいしょうしていた)。劉生りゅうせい初期しょき作品さくひんポスト印象派いんしょうはとくセザンヌ影響えいきょうつよいが、このころからヨーロッパのルネサンスやバロックの巨匠きょしょうとくデューラー影響えいきょう顕著けんちょ写実しゃじつてき作風さくふううつっていく。1914ねん大正たいしょう3ねん)にむすめ麗子れいこ誕生たんじょう、1918ねん以降いこう彼女かのじょをモデルとしたおおくの「麗子像れいこぞう」をえがく。

1915ねん大正たいしょう4ねん)、現代げんだい美術びじゅつしゃ主催しゅさいだい1かい美術びじゅつてんだい2かいてん以降いこう名称めいしょうは「くさしゃてん」)に出品しゅっぴんする。くさしゃのメンバーは木村きむら荘八しょうはち清宮きよみやあきら中川なかがわ一政かずまさ椿つばき貞雄さだお高須たかす光治こうじ河野こうの通勢つうせいらであった。くさしゃ1922ねん大正たいしょう11ねん)までに9かい展覧てんらんかいひらき、劉生りゅうせいはそのすべてに出品しゅっぴんしている。1915ねんえがかれ、翌年よくねんだい2かいくさしゃてん出品しゅっぴんされた『切通きりどおしの写生しゃせい道路どうろ土手どてへい)』は劉生りゅうせい風景ふうけい代表だいひょうさくひとつである。

1917ねん大正たいしょう6ねん)、結核けっかくうたがわれ、友人ゆうじん武者小路むしゃのこうじ実篤さねあつんでいた神奈川かながわけん藤沢ふじさわまち鵠沼くげぬまかし別荘べっそう転地てんち療養りょうよう目的もくてき居住きょじゅう

1918ねん大正たいしょう7ねん)、高村たかむら光太郎こうたろううながされた高田たかだ博厚ひろあつ自画像じがぞうてもらいに鵠沼くげぬまおとずれる。岸田きしだ自画像じがぞうめたが、かたわらにあった麗子像れいこぞう実力じつりょくかんじた高田たかだは「あいつには一生いっしょうかかってもかなわない」と絵画かいがをあきらめ彫刻ちょうこくみちすすむこととなった[2]

1920ねん大正たいしょう9ねん)、30さいになったことを日記にっきぼっするまでつけはじめ、幅広はばひろ交友こうゆう関係かんけいうかがわれる。後年こうねん劉生りゅうせい全集ぜんしゅう』や、『劉生りゅうせい日記にっき』(かく岩波書店いわなみしょてん)にまとめられている。劉生りゅうせいしたい、くさしゃ椿つばき貞雄さだお横堀よこぼり角次郎かくじろう鵠沼くげぬまむようになり、中川なかがわ一政かずまさらのように岸田きしだ食客しょっきゃくとなる若者わかものもいた。1923ねん大正たいしょう12ねん)、関東大震災かんとうだいしんさい自宅じたく倒壊とうかいし、京都きょうと転居てんきょ鎌倉かまくら居住きょじゅう。この鵠沼くげぬま時代じだいがいわば岸田きしだ劉生りゅうせい最盛さいせいであった。劉生りゅうせい京都きょうと移住いじゅうともない、くさしゃ自然しぜん解散かいさんかたちになったが、劉生りゅうせいふくめメンバーのおおくは春陽しゅんようかい活動かつどううつした。

1929ねん昭和しょうわ4ねん)9がつまつから、みなみまんしゅう鉄道てつどうまんてつ)の松方まつかた三郎さぶろうまねきで生涯しょうがいただいち海外かいがい旅行りょこうかけ、大連たいれん奉天ほうてんハルビンなどに滞在たいざいする。劉生りゅうせいまんしゅうって資金しきんつくり、ヨーロッパに算段さんだんてていたとされる[3]。このため、劉生りゅうせいまんしゅう複数ふくすうえがいた[3]。しかし、現地げんちらしになじめなかったこともあり、11月27にちにはまんしゅうって帰国きこくいた[3]帰国きこく直後ちょくご同行どうこう画商がしょう田島たじま一郎いちろうともなわれ、田島たじま郷里きょうり山口やまぐちけん徳山とくやまげんしゅう南市みなみいち)に3週間しゅうかん滞在たいざいした。

しかし、12月14にち体調たいちょう不良ふりょううったえ、2にちの16にち医者いしゃから慢性まんせい腎臓炎じんぞうえんによる視力しりょく障害しょうがい診断しんだんされるも、かれ腎臓じんぞうだけでなく肝臓かんぞう心臓しんぞうまでもやまいおかされていた。18にちあさかれは「くらい、えない!」とうったえ、日本にっぽん画壇がだん支配しはいしていたアンリ・マティスをあげて「マティスの馬鹿ばか野郎やろう!」とさけつづけた。それから2にち20日はつかに、胃潰瘍いかいよう尿毒症にょうどくしょうのため死去しきょした。38さいぼつ墓所はかしょ多磨たま霊園れいえんにある。徳山とくやま市民しみんかん前庭ぜんてい岸田きしだ劉生りゅうせい記念きねんが、1971ねん昭和しょうわ46ねん)12月4にちてられた。現在げんざいは、文化ぶんか会館かいかん前庭ぜんていになっている。武者小路むしゃのこうじ実篤さねあつ岸田きしだ劉生りゅうせい終焉しゅうえんまち」、川端かわばた康成やすなりよし」、梅原うめはら龍三郎りゅうさぶろう一世いっせいえらとも劉生りゅうせいけい」ときざまれている。

当時とうじから潔癖けっぺきしょうられており、汚物おぶつうで付着ふちゃくしたことがあったときには「うでとせ」といいはり、周囲しゅうい困惑こんわくさせたことがある。病的びょうてき神経質しんけいしつでもあり、くしゃみをすればアスピリン服用ふくようし、さむときには布団ふとんろくまいけたり、トイレではかみいちたけ使つかっていたという[4]。また、癇癪かんしゃくちでらないことがあるとあたらすなど、社交しゃこうてきとはいいがた人物じんぶつであった。家庭かていにおいてもしばしば癇癪かんしゃくおこしていたが、そのときはまってちかくの海岸かいがんうみながめて気持きもちをしずめ、麗子れいこに「わるとうさんはうみててきた」とあやまるなど家族かぞくたいしてはやさしさをせていた。

狂言きょうげん影響えいきょうけた初期しょき歌舞伎かぶき岩佐いわさ又兵衛またべえらの初期しょき浮世絵うきよえなどに共通きょうつうする、生々なまなましさやしつこく表現ひょうげんを「デロリ(デレリ、デロデロ)としている」とって分析ぶんせき解説かいせつした。それになぞらえて日本にっぽん美術びじゅつあらわれる不気味ぶきみなリアリズムや、劉生りゅうせい自身じしん作品さくひんふく生々なまなましさをった絵画かいが甲斐かいしょうくすのきおん稲垣いながきなかしずなどが後世こうせい美術びじゅつ論壇ろんだんで「デロリ」の系譜けいふ位置付いちづけて紹介しょうかいされることがある[5][6][7]

晩年ばんねんまでパリくことが願望がんぼうであったが、「パリにったあかつきには、フランスの画家がかおしえてやる」などと豪語ごうごしていた。

代表だいひょうさく

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道路どうろ土手どてへい切通きりとおし写生しゃせいげん渋谷しぶや代々木よよぎ4丁目ちょうめ
作品さくひんめい 技法ぎほう 形状けいじょう員数いんずう 寸法すんぽうたてxよこcm) 所有しょゆうしゃ 制作せいさくねん 出品しゅっぴん展覧てんらんかい サイン 備考びこう
B.L.の肖像しょうぞう(バーナード・リーチぞう) 油彩ゆさい・キャンバス がく1めん 61.5×46.0 東京とうきょう国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかん 1912ねん だい1かい生活せいかつしゃてん
道路どうろ土手どてへい切通きりとおし写生しゃせい 油彩ゆさい・キャンバス がく1めん 56.0×53.0 東京とうきょう国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかん 1915ねん だい2かいくさしゃてん 重要じゅうよう文化財ぶんかざい
古屋こやくん肖像しょうぞう (くさてるおとこ肖像しょうぞう) 油彩ゆさい・キャンバス がく1めん 45.5×33.5 東京とうきょう国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかん 1916ねん だい3かいくさしゃてん
つぼうえ林檎りんごって 油彩ゆさいいた がく1めん 40.0×29.5 東京とうきょう国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかん 1916ねん だい3かいくさしゃてん
近藤こんどう医学いがく博士はかせこれぞう 油彩ゆさい・キャンバス 45.8×37.7 神奈川かながわ県立けんりつ近代きんだい美術館びじゅつかん 1925ねん だい3かい春陽しゅんようかいてん
童女どうじょ/麗子れいこ立像りつぞう」1923ねん(神奈川かながわ県立けんりつ近代きんだい美術館びじゅつかん)

麗子像れいこぞう一覧いちらん

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作品さくひんめい 技法ぎほう 形状けいじょう員数いんずう 寸法すんぽうたてxよこcm) 所有しょゆうしゃ 制作せいさくねん 出品しゅっぴん展覧てんらんかい サイン 備考びこう
麗子像れいこぞう林檎りんごてる麗子れいこ インク、水彩すいさい 26.0x16.0 ウッドワン美術館びじゅつかん 1917ねん4がつ5にち
林檎りんごてる麗子れいこ インク、水彩すいさい 22.2x17.5 個人こじん 1917ねん4がつ15にち
麗子れいこ肖像しょうぞう麗子れいこさいこれぞう 油彩ゆさい作品さくひん・キャンバス がく1めん 45.3×38.0 東京とうきょう国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかん 1918ねん10がつにち だい6かいくさしゃてん
麗子れいここれぞう 木炭もくたん、コンテ・ 30.6x23.4 笠間かさま日動にちどう美術館びじゅつかん 1918ねんあき
麗子れいころくさいこれぞう 木炭もくたん淡彩たんさい 36.5x28.0 いずみはく古館ふるたて分館ぶんかん 1919ねん2がつ5にち
麗子れいころくさいこれぞう 水彩すいさい 41.4×32.0 東京とうきょう国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかん 1919ねん3がつ7にち 岩波いわなみ茂雄しげおきゅうぞう
麗子像れいこぞう コンテ・ 37.3x27.8 個人こじん 1919ねん3がつ19にち
林檎りんごてる麗子れいこ 水彩すいさいかみ 38.2x28.3 メナード美術館びじゅつかん 1919ねん3がつ25にち
麗子像れいこぞう 木炭もくたん、クレヨン・ 34.0x31.5 個人こじん 1919ねん4がつ21にち
むらむすめ 木炭もくたん、パステル、水彩すいさい 40.6x31.6 笠間かさま日動にちどう美術館びじゅつかん 1919ねん4がつ21にち
麗子れいこ坐像ざぞう 油彩ゆさい・キャンバス 72.5x60.4 ポーラ美術館びじゅつかん 1919ねん8がつ23にち だい7かいくさしゃてん
麗子れいこ坐像ざぞう 水彩すいさい 51.8x34.5 個人こじん 1920ねん1がつ16にち
麗子れいこ坐像ざぞう人形にんぎょう麗子れいこ坐像ざぞう 水彩すいさい 34.5x47.5 ブリヂストン美術館びじゅつかん 1920ねん1がつ28にち
麗子れいこ立像りつぞう 水彩すいさい 49.5x33.5 長谷川はせがわ町子まちこ美術館びじゅつかん 1920ねん2がつ24-25にち
麗子れいここれぞう 木炭もくたん水彩すいさい 37.6x27.6 個人こじん 1920ねん2がつ28にち
麗子れいここれぞう 水彩すいさい 39.5x28.5 てんいち美術館びじゅつかん 1920ねん3がつ1にち
麗子れいこ肖像しょうぞう コンテ、水彩すいさい 51.0x34.8 個人こじん 1920ねん8がつ21にち
毛糸けいとかたかけせる麗子れいこ肖像しょうぞう 油彩ゆさい・キャンバス 45.2x38.0 ウッドワン美術館びじゅつかん 1920ねん10がつ15にち-11月10にち
麗子れいこ微笑びしょう立像りつぞう 水彩すいさい 50.5x34.2 メナード美術館びじゅつかん 1921ねん4がつ3にち
麗子れいこ洋装ようそうぞう 木炭もくたん水彩すいさい 49.5x33.0 個人こじん 1921ねん5がつ22にち
麗子れいこ洋装ようそうぞう コンテ、水彩すいさい 46.6x31.8 下関しものせき市立しりつ美術館びじゅつかん 1921ねん8がつ31にち
麗子れいこ洋装ようそう青果せいかじゅもちテル) 水彩すいさい 50.6x34.6 豊田とよだ美術館びじゅつかん 1921ねん9がつ30にち
麗子れいこ微笑びしょうぞう 水彩すいさい 41.8x34.0 上原うえはら近代きんだい美術館びじゅつかん 1921ねん10がつ1にち
麗子れいこ微笑びしょう 油彩ゆさい・キャンバス がく1めん 44.2×36.4 東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん 1921ねん10がつ15にち 重要じゅうよう文化財ぶんかざい
麗子れいこ坐像ざぞう紫色むらさきいろ毛糸けいと洋服ようふくたる麗子れいこ坐像ざぞう 水彩すいさい 51.3x34.3 メナード美術館びじゅつかん 1921ねん11月1にち
麗子れいこ立像りつぞう未完みかん 油彩ゆさい・キャンバス 58.5x43.2 下関しものせき市立しりつ美術館びじゅつかん 1922ねん1がつ31にち
麗子像れいこぞう コンテ・ 28.8×18.7 東京とうきょう国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかん 1921ねんごろ
にん麗子れいこ童女どうじょかざりかみ 油彩ゆさい・キャンバス 90.3x72.7 いずみはく古館ふるたて分館ぶんかん 1922ねん3がつ21にち みずのえいぬはるさんがつじゅういちにち彼岸ひがん中日ちゅうにち劉生りゅうせいうつし
麗子像れいこぞう テンペラ・キャンバス 41.0x31.9 ブリヂストン美術館びじゅつかん 1922ねん3がつ28にち
麗子れいこ微笑びしょう 水彩すいさい 33.0x25.0 ポーラ美術館びじゅつかん 1922ねん3がつ30にち
童女どうじょ 油彩ゆさい・キャンバス 64.0x52.0 神奈川かながわ県立けんりつ近代きんだい美術館びじゅつかん寄託きたく 1922ねん5がつ20日はつか まなぶかおてるふでかんやま 岸田きしだ劉生りゅうせいうつし みずのえいぬはるがつ廿にじゅう
麗子れいここれぞう 油彩ゆさい・キャンバス 45.6x37.9 てんいち美術館びじゅつかん 1922ねん11月2にち
はなはだか麗子れいこ 墨画ぼくが淡彩たんさい 60.0x37.0 下関しものせき市立しりつ美術館びじゅつかん 1922ねん
はだか麗子れいこ 墨画ぼくが淡彩たんさい 69.5x33.7 下関しものせき市立しりつ美術館びじゅつかん 年代ねんだい不明ふめい
麗子れいこだん絃図 油彩ゆさい・キャンバス がく1めん 40.9×31.7 京都きょうと国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかん 1923ねん1がつ28にち 左上ひだりうえに「麗子れいこだん絃図」、みぎじょうに「みずのと正月しょうがつ廿にじゅうはちにち劉生りゅうせいうつし
童女どうじょ麗子れいこ立像りつぞう 油彩ゆさい・キャンバス 53.3x45.7 神奈川かながわ県立けんりつ近代きんだい美術館びじゅつかん 1923ねん4がつ15にち だい1かい春陽しゅんようかい みずのとよんがつじゅうにち劉生りゅうせいうつし 於鵠しょうぼう 脇村わきむら義太郎よしたろうきゅうぞう
童女どうじょ 油彩ゆさい・キャンバス 33.4x31.8 個人こじん 1923ねん12月22にち
かん山風やまかぜ麗子像れいこぞう 墨画ぼくが淡彩たんさい 62.5x39.1 笠間かさま日動にちどう美術館びじゅつかん 1922ねん-23ねん
童女どうじょまい姿すがた 油彩ゆさい・キャンバス 91.0x53.1 大原おおはら美術館びじゅつかん 1924ねん3がつ7にち
麗子れいこ立像りつぞう未完みかん 油彩ゆさい・キャンバス 80.5x60.5 個人こじん 1924ねん4がつ9にち
麗子れいこ遊戯ゆうぎ未完みかん 油彩ゆさい・キャンバス 90.5x60.2 個人こじん 1925ねん2がつ9にち
麗子れいこじゅうろくさいこれぞう 油彩ゆさい・キャンバス 45.3x23.0 笠間かさま日動にちどう美術館びじゅつかん 1929ねん5がつ
麗子れいこじゅうろくさいこれぞう 油彩ゆさい・キャンバス 47.2x24.8 ふくやま美術館びじゅつかん 1929ねん6がつ
にん麗子れいこ/童女どうじょかざりかみ」1922ねん

作品さくひん行方ゆくえ

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岸田きしだ劉生りゅうせい作品さくひんおおくはパトロンであった松方まつかた三郎さぶろうあに森村もりむら義行よしゆきにより収集しゅうしゅうされたが、両者りょうしゃ死後しご、1970年代ねんだいから1980年代ねんだいにかけて相次あいつ手放てばなされた。これらの作品さくひんぐん収集しゅうしゅうした個人こじんコレクターが、2021ねん京都きょうと国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかんに29てん売却ばいきゃく、13てん寄贈きぞうどう博物館はくぶつかん一大いちだいコレクションをゆうすることとなった[8]

親族しんぞく回想かいそう

著作ちょさく文献ぶんけん

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  • 岸田きしだ劉生りゅうせい全集ぜんしゅうぜん10かん岩波書店いわなみしょてん、1979-80ねん
    • 劉生りゅうせい日記にっきぜん5かん岩波書店いわなみしょてん、1984ねん全集ぜんしゅうしんていばん
  • 劉生りゅうせい絵日記えにっき しんていばんぜん3かんりゅうぼしかく、1978-79ねん
  • 本体ほんたい講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ、1985ねん
  • 岸田きしだ劉生りゅうせい随筆ずいひつしゅう岩波いわなみ文庫ぶんこ、1996ねん酒井さかい忠康ただやすへん
  • 摘録てきろく 劉生りゅうせい日記にっき岩波いわなみ文庫ぶんこ、1998ねん酒井さかい忠康ただやすへん
  • 異端いたん天才てんさい 岸田きしだ劉生りゅうせい美術びじゅつ思想しそう集成しゅうせい まえへん書肆しょししんすい、2010ねん
  • 『うごく劉生りゅうせい西にしひがし岸田きしだ劉生りゅうせい美術びじゅつ思想しそう集成しゅうせい へん書肆しょししんすい、2010ねん

作品さくひん紹介しょうかい伝記でんき

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 岸田きしだ劉生りゅうせい実家じっかは、銀座ぎんざ2丁目ちょうめにあった薬屋くすりやらくぜんどう」。ちち 吟香ぎんこう活躍かつやくぶり! 中央ちゅうおう観光かんこう協会きょうかい 2018ねん7がつ9にち閲覧えつらん
  2. ^ 東松山ひがしまつやま広報こうほうこう聴課 (2017). “「特集とくしゅう 思索しさくみち 高田たかだ博厚ひろあつぼつ30ねん特別とくべつ企画きかく」”. 広報こうほうひがしまつやま (6がつごう). http://www.city.higashimatsuyama.lg.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/8/2017_06_0207_2.pdf. 
  3. ^ a b c まんてつ総裁そうさいていにわ - ポーラ美術館びじゅつかん
  4. ^ 服部はっとりさとしりょう事典じてん有名人ゆうめいじん死亡しぼう診断しんだん 近代きんだいへん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2010ねん)102ぺーじ
  5. ^ 『「さい発見はっけん日本にっぽん姿すがた:キーワードはデロリ」てん郡山こおりやま市立しりつ美術館びじゅつかん、1999ねん、6-8,96ぺーじ 
  6. ^ 甲斐かいそうくすのきおん全貌ぜんぼう 絵画かいが演劇えんげき映画えいが越境えっきょうする個性こせい日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ、2023ねん、237ぺーじ 
  7. ^ 『トーキングヘッズ叢書そうしょNo.62 特集とくしゅう大正たいしょう耽美たんび』アトリエサード、2015ねん、14ぺーじ 
  8. ^ 岸田きしだ劉生りゅうせい作品さくひん42てんを12おくえん一括いっかつ収蔵しゅうぞう 京都きょうと国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかん”. 毎日新聞まいにちしんぶん (2021ねん4がつ20日はつか). 2021ねん4がつ21にち閲覧えつらん

関連かんれん施設しせつ

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関連かんれん人物じんぶつ

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外部がいぶリンク

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