脇坂わきさかあんただし

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脇坂わきさかあんただし
時代じだい 江戸えど時代じだい中期ちゅうき - 後期こうき
生誕せいたん 明和めいわ4ねん6月5にち1767ねん6月30にち
死没しぼつ 天保てんぽう12ねんうるう1がつ23にち1841ねん3月15にち
改名かいめい 亀吉かめきち幼名ようみょう)、あんただし
別名べつめい あおいりゅうのきごう
墓所はかしょ 東京とうきょう中野なかの上高田かみたかだ青原あおばらてら
官位かんい したがえ淡路あわじまもるしたがえよん中務なかつかさ大輔だいすけ侍従じじゅう
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ 奏者そうしゃばんけん寺社じしゃ奉行ぶぎょう西丸にしまる老中ろうじゅうかく老中ろうじゅう
主君しゅくん 徳川とくがわ家治いえはる家斉いえなり
はん 播磨はりま龍野たつのはんあるじ
氏族しぞく 脇坂わきさか
父母ちちはは ちち脇坂わきさかやすしおや
はは上田うえだよしとうむすめ
兄弟きょうだい やすきょうあんただし安積あさかやす六角ろっかくひろゆたか、釧、板倉いたくら勝長かつなが正室せいしつおもねきんただし
つま 松平まつだいら定休ていきゅうむすめまもる津守つもりあつしようむすめ
安宅あたかあんひろし雅子まさこ寿子ひさこ多子おいご
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脇坂わきさか あんただし(わきさか やすただ) は、江戸えど時代じだい中期ちゅうきから後期こうきにかけての大名だいみょう寺社じしゃ奉行ぶぎょう老中ろうじゅう播磨はりまこく龍野たつのはん8だい藩主はんしゅ官位かんいしたがえよん中務なかつかさ大輔だいすけ侍従じじゅう龍野たつのはん脇坂わきさか10代。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

明和めいわ4ねん1767ねん)、7だい藩主はんしゅ脇坂わきさかやすしおや次男じなんとして誕生たんじょうあにやすきょう早世そうせいしたため嫡子ちゃくしとなる。天明てんめい4ねん1784ねん)、ちち隠居いんきょにより家督かとく相続そうぞくした。

寺社じしゃ奉行ぶぎょう都合つごう2、さらには老中ろうじゅうつとめた。脇坂わきさかもと外様とざま大名だいみょうであり、ねが譜代ふだいなおしてもらった家柄いえがらではあったが、外様とざま家系かけい幕府ばくふ重要じゅうよう役職やくしょくにはけないのが慣例かんれいであった。しかしあんただし弁舌べんぜつさわやかで、しもおとこぶりもかったといわれ、これが11だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家斉いえなりにとまり、異例いれいのことながら寛政かんせい3ねん1791ねん)に寺社じしゃ奉行ぶぎょう登用とうようされた。

このあいだあんただし谷中たになか延命えんめいいんいちけん三業さんぎょう惑乱わくらんりょう事件じけんさばいている。

谷中たになか延命えんめいいんいちけん[編集へんしゅう]

谷中たになか延命えんめいいんいちけん」は、大奥おおおく女中じょちゅうんだ女犯にょぼんスキャンダル事件じけんである。当時とうじ延命えんめいいん住持じゅうじにちじゅんといい、歌舞伎かぶき役者やくしゃ初代しょだい尾上おがみ菊五郎きくごろうかくだとわれるが、異説いせつもある。このじゅん多数たすう大奥おおおく女中じょちゅう密通みっつうしているといううわさび、とおる3ねん(1803ねん)、あんただしおんな密偵みってい使つかって慎重しんちょう内偵ないていすすめ、5月26にちみずから延命えんめいいんんでにちじゅん破戒はかい坊主ぼうず検挙けんきょにちじゅんは7がつ29にち死刑しけいしょされた。あんただしはこれで一気いっきせた[1][2]

三業さんぎょう惑乱わくらん[編集へんしゅう]

三業さんぎょう惑乱わくらん」は、西本願寺にしほんがんじ教義きょうぎをめぐるそうろんである。幕府ばくふ当局とうきょくかく教団きょうだん宗旨しゅうし教義きょうぎをめぐるそうろんには介入かいにゅうひかえるのが通例つうれいだったが、本件ほんけんでは一部いちぶ信者しんじゃ本山ほんざん集団しゅうだんめかけようとして穏当おんとうならざるさわぎとなったため、これが寺社じしゃ奉行ぶぎょうまれた。 あんただし真宗しんしゅう大谷おおや香月かつきいんふか影響えいきょうけて仏教ぶっきょう教義きょうぎ通暁つうぎょうしていたこともあり、かなりんだ調しらべをおこなっている。双方そうほうより聴聞ちょうもんおこない、文化ぶんか3ねん(1806ねん)7がつ11にち判決はんけつくだし、西本願寺にしほんがんじたいして宗門しゅうもん取締とりしまりとがめありとしたが、宗教しゅうきょう教義きょうぎをめぐるそうろんであることも考慮こうりょして、100日間にちかん閉門へいもんというかる処分しょぶんませた。あんただしのこの判決はんけつめいさばきであると、老中ろうじゅう首座しゅざ松平まつだいら信明のぶあきからもしょうされている。

このような辣腕らつわんをみせたあんただし灯台とうだいくらしで、自身じしんわらわのことで讒言ざんげんにあって失脚しっきゃく寺社じしゃ奉行ぶぎょう辞任じにんした。

さい登用とうよう[編集へんしゅう]

そのあんただしりょうである龍野たつの藩政はんせい専念せんねんしていた。文化ぶんか8ねん(1811ねん)の朝鮮ちょうせん通信使つうしんし幕府ばくふ副使ふくし[3]えらばれ、ふね30そうげ、対馬つしまでの対応たいおうおこなった。『えき聘使ろく』として記録きろくのこしている。

失脚しっきゃくから16ねん将軍家しょうぐんけひとし直々じきじきのおこえがかりでふたた寺社じしゃ奉行ぶぎょう起用きようされた。このさい起用きよう当時とうじ幕府ばくふ内外ないがい事情じじょうどおりくびねじるほど異例いれいのことであった。一説いっせつでは、延命えんめいいんいちけん以降いこうむことのない大奥おおおく女中じょちゅう醜聞しゅうぶん家斉いえなりごうやし、あんただしさい起用きようによりこれにメスをれるためだったともされる。実際じっさいわらず醜聞しゅうぶんまみれであった寺社じしゃ関係かんけいしゃあんただしさい登場とうじょうふるのぼり、江戸えど市中しちゅうでは「またたと 坊主ぼうずびっくり てんかわ」(「てんかわ」のいいについては脇坂わきさか安治やすじこう参照さんしょうのこと)という落首らくしゅ出回でまわった。あんただしはしかしなぜか寺社じしゃ風儀ふうぎ紊乱びんらんにはをつけないまま、沈黙ちんもくまもっていた。

文政ぶんせい年間ねんかんより但馬たじま出石いずし仙石せんごくでは、当主とうしゅ家督かとく相続そうぞく問題もんだい藩政はんせい運営うんえいをめぐって仙石せんごく左京さきょう仙石せんごく造酒ぞうしゅりょう家老がろうがそれぞれ派閥はばつしたうえ対立たいりつしていた。天保てんぽう6ねん1835ねん)になると、造酒ぞうしゅ藩士はんし神谷かみやてん(かみや うたた)は脱藩だっぱんして虚無僧こむそうえて江戸えど潜伏せんぷくし、左京さきょう非道ひどう幕府ばくふ訴願そがんする機会きかいうかがっていたが、左京さきょうはいちはやまわ老中ろうじゅう首座しゅざ松平まつだいらやすしにんうったえ、松平まつだいらやすしにんみなみ町奉行まちぶぎょう筒井つつい政憲まさのり神谷かみや捕縛ほばくさせた。

しかし虚無僧こむそう管轄かんかつ寺社じしゃ奉行ぶぎょうかたであった。神谷かみや虚無僧こむそうえていたのは信仰しんこう理由りゆうとしたものか、それともべつ思惑おもわくからなのかは外見がいけんからは判然はんぜんとしない。事件じけん寺社じしゃ奉行ぶぎょう町奉行まちぶぎょう公事こうじかた勘定かんじょう奉行ぶぎょう構成こうせいされる評定ひょうじょうしょ管轄かんかつうつった。将軍しょうぐん家斉いえなりより直々じきじきに、このいちけんあんただし専管せんかんすべしという指図さしずけ、調査ちょうさ開始かいしした。本件ほんけん寺社じしゃ奉行ぶぎょう吟味ぎんみぶつ調ちょうやく川路かわじ弥吉やきち川路かわじ聖謨としあきら)の綿密めんみつ調査ちょうさもあり、出石いずしはんは3まんせきげんふうじ左京さきょう獄門ごくもん老中ろうじゅう松平まつだいらやすしにん失脚しっきゃくとされた(仙石せんごく騒動そうどう)。

老中ろうじゅう登用とうよう譜代ふだい大名だいみょう突然とつぜん[編集へんしゅう]

このいちけんあんただしはさらに重用じゅうようされることとなった。翌年よくねん天保てんぽう7ねん1836ねん)2がつ西にしまる老中ろうじゅうかくとなり将軍しょうぐん世子せいしいえさちきに抜擢ばってきされた。同年どうねん9がつ脇坂わきさかねがい譜代ふだいから正式せいしき譜代ふだいとなり、さらに翌年よくねん天保てんぽう8ねん1837ねん)7がつ本丸ほんまる老中ろうじゅう昇格しょうかくした。

天保てんぽう12ねん1841ねん)、老中ろうじゅう在職ざいしょくちゅう死去しきょした。享年きょうねん74。死去しきょ唐突とうとつだったため、毒殺どくさつせつった。家督かとく長男ちょうなん安宅あたかいだ。

年譜ねんぷ[編集へんしゅう]

日付ひづけはすべて旧暦きゅうれき括弧かっこない当該とうがい暦年れきねん西暦せいれきねん単純たんじゅん換算かんさんしたもの。

  • 明和めいわ4ねん(1767ねん)- 6月5にち 誕生たんじょう
  • 天明てんめい4ねん(1784ねん)- 4がつ13にち 家督かとく相続そうぞく藩主はんしゅ
  • 天明てんめい5ねん(1785ねん)- 12月18にち したがえ淡路あわじもり名乗なの
  • 寛政かんせい2ねん(1790ねん)- 3月24にち 奏者そうしゃばん
  • 寛政かんせい3ねん(1791ねん)- 8がつ28にち けん寺社じしゃ奉行ぶぎょう
  • 文化ぶんか元年がんねん(1804ねん)- 10月6にち したがえよん名乗なのりを中務なかつかさ大輔だいすけあらた
  • 文化ぶんか10ねん(1813ねん)- うるう10がつ12にち めん奏者そうしゃばん、11月12にち 寺社じしゃ奉行ぶぎょう
  • 文政ぶんせい12ねん(1829ねん)- 10月24にち かえにん寺社じしゃ奉行ぶぎょう奏者そうしゃばん
  • 天保てんぽう7ねん(1836ねん)- 2がつ16にち 西丸にしまる老中ろうじゅうかく名乗なのりを侍従じじゅうあらた
  • 天保てんぽう8ねん(1837ねん)- 7がつ9にち 老中ろうじゅう
  • 天保てんぽう12ねん(1841ねん)- うるう1がつ23にち 卒去そっきょ

系譜けいふ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 延命えんめいいん事件じけん えんめいいんじけん”. 延命えんめいいん事件じけんとは - コトバンク. 2021ねん10がつ27にち閲覧えつらん
  2. ^ 寺社じしゃ奉行ぶぎょう(じしゃぶぎょう)/ 時代じだいげき用語ようご指南しなん(2008ねん5がつ29にち”. 山本やまもと博文ひろぶみ (解説かいせつ) / 情報じょうほう知識ちしき&オピニオン imidas - イミダス. 2021ねん10がつ27にち閲覧えつらん
  3. ^ 対馬つしまにて応対おうたい正使せいし小倉こくらはんあるじ小笠原おがさわらただし͡かたはやしじゅつとき古賀こが精里せいりなど。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]