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山高 やまたか 帽 ぼう を被 こうむ った男性 だんせい
ロンドン の露店 ろてん で陳列 ちんれつ される山高 やまたか 帽 ぼう
山高 やまたか 帽 ぼう 、山高帽子 やまたかぼうし (やまたかぼう、やまたかぼうし)は、イギリス 発祥 はっしょう の帽子 ぼうし である。主 おも に男性 だんせい 用 よう 。
山 やま (クラウン)の高 たか い帽子 ぼうし の総称 そうしょう として用 もち いられる場合 ばあい もあるが、本 ほん 項 こう はボーラーハット (Bowler hat )についての記述 きじゅつ である。
堅 かた く加工 かこう したウール のフェルト 製 せい の帽子 ぼうし で、半球 はんきゅう 型 がた のクラウン(帽子 ぼうし の山 やま の部分 ぶぶん )と巻 ま き上 あ がったブリム(帽子 ぼうし のつばの部分 ぶぶん 、ブリムが平 たい らなものもある)が特徴 とくちょう (他 た に絹 きぬ やカシミヤ 、綿 めん 、ポリエステル 等 ひとし がある)。クラウンの高 たか さやブリムの反 そ り具合 ぐあい は時代 じだい ごとに流行 りゅうこう がある。色 いろ は黒 くろ が基本 きほん 色 しょく だが、グレー や茶 ちゃ 系統 けいとう の物 もの もポピュラーである他 ほか に赤 あか や青 あお 、紺 こん 、白 しろ など様々 さまざま な色 いろ が存在 そんざい する。
山高 やまたか 帽 ぼう (ボーラーハット)は、後 のち にレスター伯爵 はくしゃく となるトーマス・コーク卿 きょう (Thomas Coke, 2nd Earl of Leicester )のために1850年 ねん にイギリスで初 はじ めて作 つく られた。ロンドン ・セントジェームス街 がい の帽子 ぼうし 商 しょう James and George Lock は、顧客 こきゃく であるトーマス・コークが馬上 まけ で低木 ていぼく 枝 えだ から頭部 とうぶ を保護 ほご できるようなアイアンハット(iron hat )という堅 かた い帽子 ぼうし をデザインして、試作 しさく 品 ひん の作成 さくせい をサザク (Southwark )に工場 こうじょう を構 かま える帽子 ぼうし 製造 せいぞう 業者 ぎょうしゃ ウィリアム・ボーラー(William Bowler )に依頼 いらい 。ボーラーが帽子 ぼうし の試作 しさく 品 ひん を完成 かんせい させた。ロックは、その帽子 ぼうし を顧客 こきゃく の名 な に因 ちな んでコークハット (Coke Hat )と呼 よ ぶように主張 しゅちょう したためコークハットとボーラーハットの名称 めいしょう が混在 こんざい する時期 じき があったが、帽子 ぼうし の形状 けいじょう がボウル (Bowl )を連想 れんそう させたためウィリアム・ボーラーに因 ちな んだボーラーの名称 めいしょう がサザク周辺 しゅうへん から定着 ていちゃく して広 ひろ まった。このような経緯 けいい から、現代 げんだい でも一部 いちぶ ではコークハットの名称 めいしょう も用 もち いられている。
元々 もともと は乗馬 じょうば 用 よう の帽子 ぼうし であるが、上流 じょうりゅう 階級 かいきゅう が被 こうむ るシルクハット と労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう が被 こうむ るフェルト製 せい ソフトハットの中 なか 間 あいだ 的 てき な帽子 ぼうし として街 まち 中 ちゅう で被 こうむ る人達 ひとたち が増 ふ え始 はじ め、19世紀 せいき 末 すえ にイギリスで人気 にんき がピークに達 たっ した。その後 ご 、チャーリー・チャップリン 等 ひとし の映画 えいが の登場 とうじょう 人物 じんぶつ や多数 たすう の著名 ちょめい 人 じん に愛用 あいよう されたこともあり世界中 せかいじゅう に普及 ふきゅう したが、イギリスでは1960年 ねん 頃 ころ には廃 すた れてしまった。現在 げんざい は、世界中 せかいじゅう で伝統 でんとう を重 おも んじる保守 ほしゅ 層 そう や新 あら たな若者 わかもの 層 そう などに支持 しじ されている。
日本 にっぽん では慶応 けいおう の頃 ころ から定期 ていき 的 てき にヨーロッパ から帽子 ぼうし が輸入 ゆにゅう され始 はじ め、この時期 じき に初 はじ めて山高 やまたか 帽 ぼう も輸入 ゆにゅう されたと思 おも われる。1871年 ねん (明治 めいじ 4年 ねん )8月 がつ 9日 にち に散髪 さんぱつ 脱 だっ 刀 がたな 勝手 かって 令 れい (断髪 だんぱつ 令 れい )が太政官 だじょうかん 布告 ふこく され、1873年 ねん (明治 めいじ 6年 ねん )1月 がつ 13日 にち に洋式 ようしき を取 と り入 い れた絵図 えず 姿 すがた 入 い り大 だい 礼服 れいふく 制 せい の改正 かいせい 公布 こうふ 、同年 どうねん 3月 がつ 20日 はつか に明治天皇 めいじてんのう の断髪 だんぱつ に至 いた ると、文明開化 ぶんめいかいか の時流 じりゅう に乗 の って明治 めいじ 政府 せいふ 高官 こうかん や財界 ざいかい 人 じん 、その他 た 市民 しみん の間 あいだ で山高 やまたか 帽 ぼう は大 だい 流行 りゅうこう した[1] 。イギリスからの輸入 ゆにゅう は相当 そうとう 量 りょう だったようで、1890年 ねん (明治 めいじ 23年 ねん )に渋沢 しぶさわ 栄一 えいいち 、益田 ますだ 孝 たかし 、益田 ますだ 克徳 かつのり 、馬 うま 越 こし 恭平 きょうへい などの財界 ざいかい 人 じん によって帽子 ぼうし 製造 せいぞう 会社 かいしゃ が設立 せつりつ され日本 にっぽん でも山高 やまたか 帽 ぼう の製造 せいぞう に着手 ちゃくしゅ したが、この際 さい にイギリスから招聘 しょうへい した技師 ぎし 二 に 人 にん を巡 めぐ って輸出 ゆしゅつ 量 りょう を減 へ らしたくないイギリスの帽子 ぼうし 輸出 ゆしゅつ 業者 ぎょうしゃ が激 はげ しく非難 ひなん したというエピソードも残 のこ っている[1] 。当時 とうじ は急激 きゅうげき に洋装 ようそう 文化 ぶんか を受 う け入 い れた時期 じき であったため、生活 せいかつ 様式 ようしき の変化 へんか にとまどう市民 しみん の間 あいだ では紋付 もんつ き羽織 はおり 袴 はかま に二 に 重 じゅう 廻 まわ し のマント を羽織 はお り、山高 やまたか 帽 ぼう を被 こうむ って革靴 かわぐつ を履 は くという和洋折衷 わようせっちゅう のスタイルも見 み られた。
発祥 はっしょう の地 ち であるイギリス等 とう ではボーラーハット (英 えい : Bowler hat , もしくは単 たん にBowler )の名称 めいしょう が一般 いっぱん 的 てき だが、世界 せかい 各地 かくち では様々 さまざま な呼称 こしょう が用 もち いられている。
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく では、乗馬 じょうば の際 さい に被 こうむ ったことからダービー伯爵 はくしゃく (ダービーステークス の創設 そうせつ 者 しゃ のひとりである第 だい 12代 だい ダービー伯爵 はくしゃく エドワード・スミス=スタンリー )に因 ちな んでダービーハット (Derby hat , もしくは単 たん にDerby )と呼 よ ばれる。
ドイツ やフランス では半球 はんきゅう 型 がた のクラウンがメロン に似 に ているため、その呼称 こしょう が用 もち いられている(独 どく :Melone 、仏 ふつ :Chapeau melon )。
日本 にっぽん ではイギリスから初 はじ めて輸入 ゆにゅう された当時 とうじ 、帽子 ぼうし の山 やま が高 たか い形状 けいじょう から山高 やまたか 帽 ぼう 、山高帽子 やまたかぼうし と呼 よ ばれた。現代 げんだい ではボーラーハットやダービーハットの名称 めいしょう も一般 いっぱん 的 てき に用 もち いられる。
元来 がんらい 男性 だんせい 用 よう の帽子 ぼうし だが、ボリビア など南米 なんべい の一部 いちぶ では女性 じょせい (チョリータ )も被 こうむ っている。
山高 やまたか 帽 ぼう がトレードマークとして知 し られる著名 ちょめい 人 じん や映画 えいが などの登場 とうじょう 人物 じんぶつ を例 れい として挙 あ げる。