(Translated by https://www.hiragana.jp/)
森槐南 - Wikipedia コンテンツにスキップ

もり槐南かいなん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
もり 槐南かいなん
人物じんぶつ情報じょうほう
別名べつめい もり やすし二郎じろう
生誕せいたん (1863-11-16) 1863ねん11月16にち
日本の旗 日本にっぽん愛知あいちけん名古屋なごや
死没しぼつ 1911ねん3月7にち(1911-03-07)(47さいぼつ
学問がくもん
研究けんきゅう分野ぶんや 漢学かんがくかん文学ぶんがく
研究けんきゅう機関きかん 図書としょりょう東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく
テンプレートを表示ひょうじ

もり 槐南かいなん(もり かいなん、文久ぶんきゅう3ねん11月16にち1863ねん12月26にち〉 - 明治めいじ44ねん1911ねん3月7にち[1])は、日本にっぽん漢詩かんしじん官僚かんりょうは「おおやけやすし」、は「だいらい」(たいらい)。通称つうしょうは「やすし二郎じろう」(「泰次郎たいじろう」、「泰治やすじろう」とも)。詩壇しだん以外いがいでは「もりやすし二郎じろう」のばれた。べつごうを「秋波しゅうはぜん侶」、「きく如澹じん」。

経歴けいれき

[編集へんしゅう]

1863ねん(文久ぶんきゅう3ねん)、尾張おわりこく名古屋なごや(げん 愛知あいちけん名古屋なごや)でまれた[1]ちちもりはる漢詩かんしじん[1]ははもり清子きよこはる濤の後妻ごさい)は女流じょりゅう歌人かじんであった。鷲津わしづ毅堂きどう三島みしま中洲ちゅうしゅう師事しじして漢学かんがくおさめた[1]

枢密院すうみついんぞくみや内省ないせい大臣だいじん秘書官ひしょかん図書としょりょう編集へんしゅうかん式部しきぶかんなどをつとめた[1]東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくでは文科ぶんか大学だいがく講師こうしとして中国ちゅうごく文学ぶんがくおしえた。「随鴎ずいおうしゃ」を主宰しゅさいし、[1]明治めいじかん文学ぶんがく中心ちゅうしんてき存在そんざいであった。

三条さんじょう実美みみ伊藤いとう博文ひろぶみなど明治めいじ政府せいふ要人ようじんともしたしく、1909ねん10がつハルビンでおこったやす重根しこねによる暗殺あんさつ事件じけんさいには伊藤いとう秘書官ひしょかんとして同行どうこうしており被弾ひだんしたが[1]軽傷けいしょうであった。やく1ねんはんかぞどし49さい死去しきょ[2]墓所はかしょ多磨たま霊園れいえん(14-1-3-3)。

業績ぎょうせき

[編集へんしゅう]

著作ちょさく

[編集へんしゅう]

著書ちょしょ

[編集へんしゅう]
  • 古詩こし平仄ひょうそくろんたからしょかく、1883ねん3がつ
  • 唐詩とうしせん評釋ひょうしゃく新進しんしんどう 1892-97ねん (いくぶんしゃ 1910ねんぶん会堂かいどう書店しょてん 1918ねん冨山とやまぼう百科ひゃっか文庫ぶんこ 1940ねん
  • ひろしとろけほどかもめゆめ吟社ぎんしゃ、1899ねん
  • 作詩さくしほう講話こうわぶん会堂かいどう書店しょてん、1911ねん (きょうぶんしゃ 1926ねん)
  • 槐南かいなんしゅうもり健郎たけおへんぶん会堂かいどう書店しょてん、1912ねん
  • もり講義こうぎぶん会堂かいどう書店しょてん、1912ねん
  • 講義こうぎぶん会堂かいどう書店しょてん、1913ねん
  • かん講義こうぎぶん会堂かいどう書店しょてん、1915-16ねん
  • よしやま講義こうぎぶん会堂かいどう書店しょてん、1914-17ねん
  • 中国ちゅうごく詩学しがく概説がいせつ 槐南かいなん遺稿いこう神田かんだ喜一郎きいちろうへん臨川りんせん書店しょてん、1982ねん

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ a b c d e f g "もり 槐南かいなん". 日外にちがいアソシエーツ「20世紀せいき日本人にっぽんじんめい事典じてん」(2004年刊ねんかん. コトバンクより2022ねん7がつ28にち閲覧えつらん
  2. ^ "もり槐南かいなん". デジタルばん 日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん+Plus (講談社こうだんしゃ 2015). コトバンクより2023ねん9がつ15にち閲覧えつらん
  3. ^ 槐南かいなん文庫ぶんこ
  4. ^ 松岡まつおか 秀明ひであき - researchmap

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]