自由 じゆう 民権 みんけん 運動 うんどう (じゆうみんけんうんどう、旧 きゅう 字体 じたい :自由 じゆう 民權 みんけん 運 うん 󠄁動 どう 、英 えい : The Freedom and People's Rights Movement, Liberty and Civil Right Movement, The Liberty and Civil Right Movement )とは、明治 めいじ 時代 じだい の日本 にっぽん において行 おこな われた、憲法 けんぽう 制定 せいてい や国会 こっかい 開設 かいせつ のための政治 せいじ 運動 うんどう ならびに社会 しゃかい 運動 うんどう である。
幟 のぼり 仁 じん 親王 しんのう の揮毫 きごう による御 ご 誓文 せいもん の原本 げんぽん [1]
板垣 いたがき 退助 たいすけ
明治 めいじ 6年 ねん (1873年 ねん )征 せい 韓 かん 論 ろん を主張 しゅちょう して敗 やぶ れた板垣 いたがき 退助 たいすけ らが、野 の に下 くだ り征 せい 韓 かん 派 は 勢力 せいりょく を結集 けっしゅう し、明治 めいじ 7年 ねん (1874年 ねん )1月 がつ 12日 にち 、愛国 あいこく 公党 こうとう を結成 けっせい し、1月 がつ 17日 にち 『民 みん 撰 せん 議院 ぎいん 設立 せつりつ 建白 けんぱく 書 しょ 』を左 ひだり 院 いん に提出 ていしゅつ し東 ひがし アジア で初 はつ となる国会 こっかい 開設 かいせつ の請願 せいがん を行 おこな ったことに始 はじ まる運動 うんどう である[2] 。藩閥 はんばつ 政府 せいふ による専制 せんせい 政治 せいじ を批判 ひはん し、憲法 けんぽう の制定 せいてい 、議会 ぎかい の開設 かいせつ 、地租 ちそ の軽減 けいげん 、不平等 ふびょうどう 条約 じょうやく の撤廃 てっぱい 、言論 げんろん の自由 じゆう や集会 しゅうかい の自由 じゆう の保障 ほしょう などの要求 ようきゅう を掲 かか げ、明治 めいじ 23年 ねん (1890年 ねん )の帝国 ていこく 議会 ぎかい (国会 こっかい )開設 かいせつ を政府 せいふ に約束 やくそく させた。
自由 じゆう 民権 みんけん 運動 うんどう は三 みっ つの段階 だんかい に分 わ けることができ、第 だい 一 いち 段階 だんかい は1874年 ねん (明治 めいじ 7年 ねん )の『民選 みんせん 議院 ぎいん 設立 せつりつ 建白 けんぱく 書 しょ 』の提出 ていしゅつ から1877年 ねん (明治 めいじ 10年 ねん )の西南 せいなん 戦争 せんそう 頃 ころ までであり、第 だい 二 に 段階 だんかい は西南 せいなん 戦争 せんそう 以後 いご 、1884・1885年 ねん (明治 めいじ 17, 8年 ねん )頃 ごろ までが、この運動 うんどう の最盛 さいせい 期 き である。第 だい 三 さん 段階 だんかい は条約 じょうやく 改正 かいせい 問題 もんだい を契機 けいき として、この条約 じょうやく 改正 かいせい に対 たい する条件 じょうけん が日本 にっぽん にとって屈辱 くつじょく 的 てき であったため反対 はんたい した民 みん 党 とう が起 お こしたいわゆる大同団結 だいどうだんけつ 運動 うんどう を中心 ちゅうしん とした明治 めいじ 20年 ねん 前後 ぜんこう の運動 うんどう である[3] 。
自由 じゆう 民権 みんけん 運動 うんどう は、維新 いしん 回天 かいてん の元勲 げんくん 板垣 いたがき 退助 たいすけ が億兆 おくちょう 安 やす 撫 なで 国威 こくい 宣揚 せんよう の御 ご 宸翰 しんかん の意 い を拝 はい し尊皇 そんのう 思想 しそう を基礎 きそ とし、明治天皇 めいじてんのう の五 ご 箇条 かじょう の御 ご 誓文 せいもん を柱 はしら として発展 はってん したもので、世界 せかい の自由 じゆう 主義 しゅぎ 思想 しそう とは潮流 ちょうりゅう を異 こと にする[4] 。特 とく に御 ご 誓文 せいもん の第 だい 一 いち 条 じょう 「広 ひろ く会議 かいぎ を興 おこ し万 まん 機 き 公論 こうろん に決 けっ すべし 」の文言 もんごん は重視 じゅうし され、国会 こっかい 開設 かいせつ および憲法 けんぽう 制定 せいてい の根拠 こんきょ とされた[4] 。
朕 ちん 󠄂幼弱 ようじゃく 󠄁ヲ以テ猝 ( にはか ) ニ大 だい 統 みつる ヲ紹 ( つ ) キ、爾來 じらい 何 なに ヲ以テ萬國 ばんこく ニ對立 たいりつ シ、列 れつ 祖 そ 󠄁ニ事 こと ( つか ) へ奉 たてまつ ( まつ ) ランヤト朝 あさ 󠄁夕 ゆう 恐 おそれ 󠄁懼ニ堪 こらえ ヘザルナリ。竊 ( ひそか ) ニ考 こう ( かんがふ ) ルニ、中葉 ちゅうよう 朝 あさ 󠄁政 せい 衰 おとろえ 󠄁( おとろへ ) テヨリ、武家 ぶけ 權 けん ヲ專 せん ( もっぱら ) ニシ、表 おもて ニハ朝 あさ 󠄁廷󠄁ヲ推尊󠄁シテ、實 じつ ハ敬 けい シテ是 ぜ ヲ遠 とお 󠄁ケ、億兆 おくちょう ノ父 ちち 󠄁母 はは トシテ、絕 ぜっ テ赤子 あかご ノ情 じょう 󠄁ヲ知 ち ルコト能 のう ( あた ) ハザル樣 よう ( やう ) 計 けい リナシ、遂 とげ 󠄂ニ億兆 おくちょう ノ君 きみ タルモ唯 ただ 名 めい ノミニ成 なり 󠄁リ果 はて テ、其ガ爲 ため ニ今日 きょう 朝 あさ 󠄁廷󠄁ノ尊 みこと 󠄁重 じゅう ハ古 こ ニ倍 ばい セシガ如クニテ朝 あさ 󠄁威 い ハ倍 ばい ( ますます ) 衰 おとろえ 󠄁へ、上下 じょうげ 相 しょう 離 はなれ ルヽコト霄壤 ( せうじやう ) ノ如シ。斯 ( かか ) ル形勢 けいせい ニテ、何 なに ヲ以テ天下 でんか ニ君臨 くんりん セムヤ。今般 こんぱん 朝 あさ 󠄁政 せい 一新 いっしん ノ時 とき ニ膺 ( あた ) リ、天下 てんか 億 おく 兆 ちょう 一 いち 人 にん モ其所󠄁ヲ得 とく ザル時 じ ハ、皆 みな 朕 ちん 󠄂ガ罪 ざい ナレバ、今日 きょう ノ事 こと 朕 ちん 󠄂自 じ ( みづか ) ラ身 み 骨 こつ ヲ勞 ろう シ、心 こころ 志 こころざし ヲ苦 く ( くるし ) メ、艱難 かんなん 󠄀( かんなん ) ノ先 さき ニ立 だて ( た ) チ、古 ふる ( いにしへ ) 列 れつ 祖 そ 󠄁ノ盡 つき ( つく ) サセ給 きゅう ヒシ蹤 ( あと ) ヲ履 くつ ( ふ ) ミ、治 ち 蹟 あと ヲ勤 つとむ 󠄁メテコソ始 はじめ ( はじめ ) テ天職 てんしょく ヲ奉 たてまつ ジテ、億兆 おくちょう ノ君 きみ タル所 しょ 󠄁ニ背 せ ( そむ ) カザルベシ。往󠄁昔 むかし 、列 れつ 祖 そ 󠄁萬 まん 機 き ヲ親 おや ( みづか ) ラシ、不 ふ 臣 しん ノ者 もの 󠄁( もの ) アレバ、自 じ ラ將 はた トシテ之 の ヲ征 せい シ給 きゅう ( たま ) ヒ、朝 あさ 󠄁廷󠄁ノ政 せい ( まつりごと ) 總 そう ( すべ ) テ𥳑易 えき ニシテ、此 ( かく ) ノ如 ( ごと ) ク尊 みこと 󠄁重 じゅう ナラザル故 こ 、君臣 くんしん 相 あい 親 おや ( あひした ) シミ上下 じょうげ 相愛 そうあい ( さうあい ) シ、德澤 とくさわ 天下 でんか ニ洽 あまね ( あまね ) ク、國威 こくい 海 うみ 󠄀外 そと ニ輝 てる キシナリ。然 しか ルニ近 きん 󠄁年 とし 宇內大 だい ( おほい ) ニ開 ひらき ケ、各國 かっこく 四方 しほう ニ相 しょう 雄飛 ゆうひ スルノ時 じ ニ當 とう ( あた ) リ、獨 どく ( ひと ) リ我 わが 邦 くに 󠄂( わがくに ) ノミ世界 せかい ノ形勢 けいせい ニ疎 うと ( うと ) ク、舊習 きゅうしゅう 󠄁ヲ固守 こしゅ シ、一新 いっしん ノ效 こう ( つとめ ) ヲハカラズ、朕 ちん 󠄂徒 と ( いたづら ) ニ九 きゅう 重 じゅう ノ中 ちゅう ニ安居 あんきょ ( あんきよ ) シ、一 いち 日 にち ノ安 やす キヲ偸 ( ぬす ) ミ、百 ひゃく 年 ねん ノ憂 う ( うれひ ) ヲ忘󠄁 ( わする ) ル時 じ ハ、遂 とげ 󠄂ニ各國 かっこく ノ凌 しのげ 侮 あなど 󠄁( あなどり ) ヲ受󠄁ケ、上 うえ ハ列聖 れっせい 󠄁ヲ辱 はずかしめ シメ給 きゅう リ、下 しも ハ億 おく 兆 ちょう ヲ苦 く メンコトヲ恐 おそれ 󠄁ル。故 こ ニ朕 ちん 󠄂コヽニ百官 ひゃっかん 諸 しょ 󠄀侯 ほう ト廣 こう ク相 しょう 誓 ちかい ヒ、列 れつ 祖 そ 󠄁ノ御 お 偉 えら 󠄁業 ぎょう ヲ繼 つぎ 述 じゅつ 󠄁シ、一身 いっしん ノ艱難 かんなん 󠄀辛苦 しんく ヲ問 とい ( と ) ハズ、親 おや ラ四方 しほう ヲ經營 けいえい シ、汝 なんじ 億兆 おくちょう ヲ安 やす 撫 なで シ、遂 とげ 󠄂ニ萬 まん 里 り ノ波 なみ 濤ヲ開拓 かいたく シ、國威 こくい ヲ四方 しほう ニ宣布 せんぷ シ、天下 てんか ヲ富嶽 ふがく ノ安 やす キニ置 おけ ( お ) カムコトヲ欲 よく ス。汝 なんじ 億兆 おくちょう 、舊來 きゅうらい ノ陋習󠄁ニ慣レ、尊 みこと 󠄁重 じゅう ノミヲ朝 あさ 󠄁廷󠄁ノ事 こと トナシ、神 かみ 󠄀州 しゅう ノ危󠄁急 きゅう 󠄁ヲ知 ち ラズ、朕 ちん 󠄂一 いち 度 ど ( ひとたび ) 足 あし ヲ擧 きょ ( あげ ) レバ非常 ひじょう 二 に 驚 おどろき キ、種 たね 〻( くさぐさ ) ノ疑惑 ぎわく ヲ生 なま ジ、萬 まん 口 くち 紛 まがえ 󠄁紜( ばんこうふんうん ) トシテ、朕 ちん 󠄂ガ志 こころざし ヲナサヾラシムル時 じ ハ、是 ぜ 朕 ちん 󠄂ヲシテ君 くん タル道 どう 󠄁ヲ失 しつ ハシムルノミナラズ、從 したがえ テ列 れつ 祖 そ 󠄁ノ天下 てんか ヲ失 しつ ハシムルナリ。汝 なんじ 億兆 おくちょう 能 のう ( よ ) ク朕 ちん 󠄂ガ志 こころざし ヲ體認 たいにん 󠄁( たいにん ) シ、相 そう 率 りつ 󠄁( あひひき ) ヰテ私見 しけん ヲ去 さ リ、公 おおやけ 󠄁議 ぎ ヲ採 と 󠄁( と ) リ、朕 ちん 󠄂ガ業 ぎょう ヲ助 すけ ( たす ) ケテ神 しん 󠄀州 しゅう ヲ保全 ほぜん 󠄁シ、列聖 れっせい 󠄁ノ神 かみ 󠄀靈 れい ヲ慰メ奉 たてまつ ラシメバ生前 せいぜん 󠄁ノ幸甚 こうじん ナラム[5] 。
— 『億兆 おくちょう 安 やす 撫 なで 国威 こくい 宣揚 せんよう の(明治天皇 めいじてんのう )御 ご 宸翰 しんかん [6] 』
自由 じゆう 民権 みんけん 家 か が例外 れいがい なく尊皇 そんのう 家 か であったのは、その主導 しゅどう 者 しゃ である板垣 いたがき 退助 たいすけ の影響 えいきょう が大 おお きい[7] 。板垣 いたがき は「君主 くんしゅ 」は「民 みん 」を本 ほん とするので「君主 くんしゅ 主義 しゅぎ 」と「民本主義 みんぽんしゅぎ 」は対立 たいりつ せず同 どう 一 いち 不可分 ふかぶん であると説 と いた[8] 。これらの論旨 ろんし の説明 せつめい には「天賦 てんぷ 人権 じんけん 説 せつ 」がしばしば用 もち いられている[9] 。東北 とうほく 地方 ちほう では河野 こうの 広中 ひろなか 、北陸 ほくりく では杉田 すぎた 定一 さだいち 、九州 きゅうしゅう では頭山 とうやま 満 みつる らが活躍 かつやく したが、初期 しょき において自由 じゆう 民権 みんけん 運動 うんどう に参加 さんか した者 もの は、いずれも板垣 いたがき の薫陶 くんとう を受 う けたものから派生 はせい している[10] 。世界 せかい の自由 じゆう 主義 しゅぎ 思想 しそう は、キリスト教 きりすときょう 神学 しんがく の聖書 せいしょ 解釈 かいしゃく や個人 こじん 主義 しゅぎ などを伴 ともな って発展 はってん したものが多 おお い中 なか で、日本 にっぽん の自由 じゆう 主義 しゅぎ は愛国 あいこく 主義 しゅぎ (Patriotism)と密接 みっせつ に結 むす びついており、単純 たんじゅん にリベラリズム (Liberalism)と翻訳 ほんやく 出来 でき ない特徴 とくちょう を有 ゆう す[7] [10] 。
明治 めいじ 政府 せいふ が樹立 じゅりつ されると、日本 にっぽん はその旨 むね を伝 つた えるため、朝鮮 ちょうせん に対 たい し国書 こくしょ を送 おく るが朝鮮 ちょうせん は江戸 えど 時代 じだい を通 つう じて、宗 そう 氏 し を通 とお して伝達 でんたつ が行 おこな われていたため受 う け取 と りを拒否 きょひ 。そこで、改 あらた めて対馬 つしま 藩 はん の宗 そう 氏 し を介 かい し送 おく った。しかし、従来 じゅうらい 使用 しよう されていなかった印鑑 いんかん が使 つか われ、国書 こくしょ の中 なか に「左 ひだり 近衛 このえ 少将 しょうしょう 」「朝臣 あそん 」「皇 すめらぎ 」「奉勅 ほうちょく 」などの用語 ようご が使用 しよう されていたことや「礼 れい 曹参判 ばん 」への呼称 こしょう などが従来 じゅうらい の書契 しょけい 形式 けいしき と異 こと なることなどに対 たい して朝鮮 ちょうせん 側 がわ が難色 なんしょく を示 しめ し、国書 こくしょ の受理 じゅり を拒否 きょひ した[11] 。
当時 とうじ 、日本 にっぽん は西欧 せいおう 列強 れっきょう が迫 せま っていた東 ひがし アジア諸国 しょこく の中 なか で、逸早 いちはや く開国 かいこく し明治維新 めいじいしん によって近代 きんだい 国家 こっか を目指 めざ し、西欧 せいおう 諸国 しょこく のみならず、自国 じこく 周辺 しゅうへん のアジア諸国 しょこく とも近代 きんだい 的 てき な国際 こくさい 関係 かんけい を樹立 じゅりつ しようとして送 おく った国書 こくしょ であったが、開明 かいめい 的 てき な考 かんが え方 かた の日本 にっぽん に比 くら べ、閉鎖 へいさ 的 てき 、旧 きゅう 時代 じだい 的 てき な考 かんが え方 かた にたつ朝鮮 ちょうせん は、日本 にっぽん が送 おく った国書 こくしょ の書式 しょしき (書契 しょけい )に「皇 すめらぎ 」や「勅 みことのり 」の文字 もじ があったため、日本 にっぽん の意図 いと を曲解 きょっかい して受 う け取 と りを拒否 きょひ したのである。中華 ちゅうか 思想 しそう における冊 さつ 封 ふう 体制 たいせい 下 か では「皇 すめらぎ 上 じょう 」や「奉勅 ほうちょく 」という用語 ようご は中国 ちゅうごく の王朝 おうちょう にのみ許 ゆる された用語 ようご であって、日本 にっぽん がそれを使用 しよう するということは、冊 さつ 封 ふう 体制 たいせい の頂点 ちょうてん に立 た ち朝鮮 ちょうせん よりも日本 にっぽん の国際 こくさい 地位 ちい を上 うえ とすることを画策 かくさく したと朝鮮 ちょうせん は捉 とら えたのである(書契 しょけい 事件 じけん )[10] 。
朝鮮 ちょうせん 外交 がいこう 問題 もんだい [ 編集 へんしゅう ]
書契 しょけい 問題 もんだい が膠着 こうちゃく する中 なか 、朝廷 ちょうてい 直交 ちょっこう を実現 じつげん すべく朝鮮 ちょうせん 外交 がいこう の権限 けんげん を外務省 がいむしょう に一元化 いちげんか し、対馬 つしま 宗 そう 氏 し を除外 じょがい して皇 すめらぎ 使 し を派遣 はけん すべきだとの意見 いけん が維新 いしん 政府 せいふ 内 ない に強 つよ まった。その前提 ぜんてい として調査 ちょうさ 目的 もくてき に佐田 さた 白茅 ちがや らが派遣 はけん されたが、彼 かれ は帰国 きこく ののち1870年 ねん (明治 めいじ 3年 ねん )「30大隊 だいたい をもって朝鮮 ちょうせん を攻撃 こうげき すべきだ」という征 せい 韓 かん の建白 けんぱく 書 しょ を提出 ていしゅつ する[2] 。
局面 きょくめん の打開 だかい のため、外務省 がいむしょう は対 たい 馬 うま 宗 はじめ 氏 し を通 とお して朝鮮 ちょうせん 外交 がいこう の一本 いっぽん 化 か を進 すす める宗 そう 氏 し 派遣 はけん 計画 けいかく (1871年 ねん (明治 めいじ 4年 ねん )2月 がつ )や柳原 やなぎはら 前光 さきみつ の清国 きよくに 派遣 はけん (1871年 ねん (明治 めいじ 4年 ねん )8月 がつ 政府 せいふ 等 とう 対論 たいろん )など複数 ふくすう の手立 てだ てを講 こう じ、同年 どうねん 9月 がつ 13日 にち には清国 きよくに と日 にち 清 しん 修好 しゅうこう 条規 じょうき が締結 ていけつ されるにおよんだ。しかしながら、1871年 ねん (明治 めいじ 4年 ねん )4月 がつ にアメリカ 艦隊 かんたい が江華島 こうかとう の砲台 ほうだい を占領 せんりょう 、朝鮮 ちょうせん 側 がわ がこれを奪還 だっかん する事態 じたい が生 しょう じ(辛 からし 未 み 洋 よう 擾[注釈 ちゅうしゃく 1] )、朝鮮 ちょうせん が攘夷 じょうい の意思 いし を強 つよ めていたこともあって交渉 こうしょう は進展 しんてん しなかった。1871年 ねん (明治 めいじ 4年 ねん )の末 すえ からは岩倉 いわくら 使節 しせつ 団 だん が西欧 せいおう に派遣 はけん されることとなり、国政 こくせい 外交 がいこう に関 かん する重要 じゅうよう な案件 あんけん は1873年 ねん (明治 めいじ 6年 ねん )秋 あき まで事実 じじつ 上 じょう の棚上 たなあ げとなった[2] 。
征 せい 韓 かん 議論 ぎろん (1877年 ねん (明治 めいじ 10年 ねん )鈴木 すずき 年 みのる 基 もと 作 さく )
欧米 おうべい 近代 きんだい 国家 こっか の政治 せいじ や産業 さんぎょう の発展 はってん 状 じょう 況 きょう を視察 しさつ し、明治 めいじ 6年 ねん (1873年 ねん )9月13日 にち に帰国 きこく した岩倉 いわくら 具視 ともみ らは、帰国 きこく 後 ご の会議 かいぎ で、留守 るす 政府 せいふ の首脳 しゅのう であった西郷 さいごう 隆盛 たかもり や板垣 いたがき 退助 たいすけ らが朝鮮 ちょうせん の開国 かいこく 問題 もんだい 解決 かいけつ のためには武力 ぶりょく 行使 こうし もあえて辞 じ さないという強硬 きょうこう 論 ろん (征 せい 韓 かん 論 ろん )を唱 とな えたのに対 たい し、海外 かいがい 事情 じじょう を実見 じっけん した大久保 おおくぼ や木戸 きど らは内 うち 治 ち 優先 ゆうせん 論 ろん を唱 とな えて反対 はんたい 、征 せい 韓 かん 論 ろん は否決 ひけつ になった。そのため、西郷 さいごう ・板垣 いたがき ・後藤 ごとう 象二 しょうじ 郎 ろう ・江藤 えとう 新平 しんぺい ・副島 そえじま 種臣 たねおみ ら征 せい 韓 かん 派 は の参議 さんぎ がそろって辞職 じしょく 、官僚 かんりょう 600余 よ 名 めい も征 せい 韓 かん 論 ろん の否決 ひけつ に抗議 こうぎ して一斉 いっせい に官 かん を辞 じ した[10] (明治 めいじ 六 ろく 年 ねん 政変 せいへん )。
民 みん 撰 せん 議院 ぎいん 設立 せつりつ 建白 けんぱく 書 しょ ・序文 じょぶん
下野 げや した征 せい 韓 かん 派 は は五 ご 箇条 かじょう の御 ご 誓文 せいもん の第 だい 一 いち 條 じょう 「広 ひろ く会議 かいぎ を興 おこ し万 まん 機 き 公論 こうろん に決 けっ すべし 」の文言 もんごん を基 もと に有司 ゆうし 専制 せんせい を批判 ひはん して結集 けっしゅう を呼 よ び掛 か け、明治 めいじ 7年 ねん (1874年 ねん )1月 がつ 12日 にち 、板垣 いたがき 退助 たいすけ 、後藤 ごとう 象二 しょうじ 郎 ろう 、江藤 えとう 新平 しんぺい 、副島 そえじま 種臣 たねおみ らが愛国 あいこく 公党 こうとう を結成 けっせい 。1月 がつ 17日 にち 、民 みん 撰 せん 議院 ぎいん 設立 せつりつ 建白 けんぱく 書 しょ を政府 せいふ 左 ひだり 院 いん に提出 ていしゅつ した[2] 。
臣 しん ( しん ) 等 ひとし ( ら ) 伏 ふく ( ふ ) して方今 ほうこん ( ほうこん ) 政權 せいけん ( せいけん ) の歸 き ( き ) する所 ところ 󠄁( ところ ) を察 ( さつ ) するに、上 うえ ( かみ ) は帝 みかど 󠄁室 しつ ( すめらみこと ) に在 ざい ( あ ) らず、下 した ( しも ) は人民 じんみん ( おほみたから ) に在 ざい ( あ ) らず、而 ( しか ) も獨 どく ( ひと ) り有司 ゆうし に歸 き ( き ) す。夫 おっと ( そ ) れ有司 ゆうし 、上 うえ は帝 みかど 󠄁室 しつ ( すめらみこと ) を尊 みこと 󠄁( たつと ) ぶと曰 ( い ) はざるに非 ひ ( あら ) ず、而 ( しか ) して帝 みかど 󠄁室 しつ 漸 やや ( やうや ) く其 ( その ) 尊 みこと 󠄁榮 さかえ ( そんえい ) を失 しつ ( うしな ) ふ。下 した は人民 じんみん ( おほみたから ) を保 ほ ( たも ) つと曰 ( い ) はざるに非 ひ ( あら ) らず、而 ( しか ) も政令 せいれい 百 ひゃく 端 はし 、朝 あさ 󠄁出 で 暮 くれ 改 あらため 、政情 せいじょう 󠄁實 み ( まこと ) に成 なり 󠄁り、賞罰 しょうばつ 愛憎 あいぞう 󠄀( あいざう ) に出 で ( い ) づ。言 げん 路 ろ 壅蔽、困苦 こんく 吿 ( つぐ ) るなし。夫 おっと ( そ ) れ如是 にょぜ ( かくのごとく ) にして天下 てんか ( あめのした ) の治 ち ( ち ) 安 やす ( やす ) ならん事 こと を欲 よく ( ほつ ) す。三尺 さんじゃく の童子 どうじ も猶 なお 󠄁( なほ ) 其 ( その ) 不可 ふか ( ふか ) なるを知 ち ( し ) る。因 いん 仍( いんじよう ) 改 あらため ( あらた ) めずば、恐 おそれ 󠄁( おそら ) くは國家 こっか 土 ど 崩 くずし 󠄁( こくかどくわい ) の勢 いきおい を𦤶 ( いた ) さん。臣 しん ( しん ) 等 ひとし ( ら ) 愛國 あいこく ( あいこく ) の情 じょう 󠄁( なさけ ) 自 じ ( みづか ) ら已 やめ ( や ) む能 のう ( あた ) はず、乃 ( すなは ) ち之 これ ( これ ) を振 ふ 救 すくい ( しんきゆう ) するの道 みち 󠄁( みち ) を講 こう 󠄁求 もとめ するに、唯 ただ ( たゞ ) 天下 てんか の公 おおやけ 󠄁議 ぎ を張 ちょう ( は ) る に在 ざい ( あ ) る而已 ( のみ ) 。天下 てんか の公 おおやけ 󠄁議 ぎ を張 ちょう ( は ) るは、民 みん 撰 せん ( みんせん ) 議 ぎ ( ぎ ) 院 いん ( ゐん ) を立 だて ( た ) つるに在 ざい ( あ ) る而已 ( のみ ) 。則 のり ( すなは ) ち有司 ゆうし の權 けん を限 かぎり ( かぎ ) る所 ところ 󠄁( ところ ) にあつて、而 ( しか ) して上下 じょうげ 安全 あんぜん 󠄁( しやうかあんぜん ) 、其 ( そ ) の幸福 こうふく 󠄁( かうふく ) を受󠄁 ( うく ) る者 もの 󠄁( もの ) あらん。請󠄁 ( こ ) ふ遂 とげ 󠄂( つい ) に之 これ ( これ ) を陳 ひね ( ちん ) ぜん。 — (『民 みん 撰 せん 議院 ぎいん 設立 せつりつ 建白 けんぱく 書 しょ 』冒頭 ぼうとう )
今 いま や政治 せいじ が誰 だれ のために行 おこな われているのか、我 われ ら一同 いちどう の見解 けんかい を、恐 おそ れながら申 もう し上 あ げますと、上 うえ は天皇陛下 てんのうへいか の御 ご 為 ため ( おんため ) でもなく、下 した は一般 いっぱん 国民 こくみん のためでもなく、ひと握 にぎ りの政治 せいじ 家 か のためのものになってしまっております。その政治 せいじ 家 か は、天皇陛下 てんのうへいか を敬 けい ( うやま ) っているとは云 ゆ い難 なん ( がた ) く、そのため、次第 しだい に天皇 てんのう の尊厳 そんげん をも蝕 ( むしば ) んでおります。また、かと言 い って国民 こくみん のために何 なに かをしているとも云 ゆ い難 なん ( がた ) く、政令 せいれい はバラバラで、朝令暮改 ちょうれいぼかい が横行 おうこう しいるのが現実 げんじつ です。賞罰 しょうばつ も公平 こうへい ではなく、個人 こじん 的 てき な好 す き嫌 きら いで判断 はんだん が為 ため ( な ) され、抗議 こうぎ をしようとしても、その意見 いけん は遮断 しゃだん され、苦情 くじょう を述 じゅつ ( の ) べる術 じゅつ ( すべ ) もありません。このような状態 じょうたい で、天下 てんか が安寧 あんねい ( あんねい ) に治 ち ( おさ ) まるでしょうか。そのような状況 じょうきょう ではとうてい無理 むり だと幼 おさな い子供 こども でも分 わ かるはずです。この古 ふる いしきたりを今 いま 改 あらため ( あらた ) めなければ、国家 こっか は崩潰 ほうかい してしまうでしょう。我 われ ら一同 いちどう は、愛国心 あいこくしん を抑 おさ えきることが出来 でき ず、どうすればこの国難 こくなん を救 すく うことが出来 でき るのか話合 はなしあ った結果 けっか 、日本 にっぽん 国 こく 内 うち の様々 さまざま な人 ひと から意見 いけん を求 もと める方法 ほうほう しかなく、様々 さまざま な人 ひと から意見 いけん を求 もと めて政治 せいじ を行 おこな うには、民 みん 撰 せん 議院 ぎいん を設立 せつりつ するしか方法 ほうほう はありません。これによって、専制 せんせい を行 おこ なっている一部 いちぶ の政治 せいじ 家 か の権力 けんりょく を制限 せいげん し、結果 けっか として天皇 てんのう と国民 こくみん の関係 かんけい は絶妙 ぜつみょう に保 たも たれ、互 たが いに幸福 こうふく を享受 きょうじゅ できるのではないでしょうか。恐 おそ れながら、我々 われわれ の考 かんが えた結論 けつろん を申 もう し上 あ げる次第 しだい です。 — (『民 みん 撰 せん 議院 ぎいん 設立 せつりつ 建白 けんぱく 書 しょ 』髙岡功 こう 太郎 たろう 現代 げんだい 語 ご 訳 やく )
板垣 いたがき 退助 たいすけ らの建白 けんぱく 書 しょ は、時期 じき 尚早 しょうそう として却下 きゃっか されたが、この建白 けんぱく 書 しょ がイギリス人 じん のブラックによる新聞 しんぶん 『日新 にっしん 真 ま 事 こと 誌 し 』に載 の せられたことで、国会 こっかい 開設 かいせつ の問題 もんだい が世間 せけん に知 し られることになり、民選 みんせん 議院 ぎいん を設立 せつりつ すべきか否 ひ かの論戦 ろんせん が新聞 しんぶん 紙上 しじょう で交 か わされることとなった[12] 。
愛国 あいこく 公党 こうとう の諸氏 しょし は、互 たが いに地元 じもと に帰 かえ り、先 ま ず自分 じぶん の地盤 じばん を固 かた めることから活動 かつどう することに決 けっ し、板垣 いたがき ら土佐 とさ 勢 ぜい は高知 こうち に戻 もど って立志 りっし 社 しゃ を設立 せつりつ した[10] 。
大阪 おおさか 会議 かいぎ 開催 かいさい の地 ち にある大久保 おおくぼ 利通 としみち (上 うえ 左 ひだり )木戸 きど 孝允 たかよし (上中 かみなか 央 ひさし )板垣 いたがき 退助 たいすけ (上 うえ 右 みぎ )伊藤 いとう 博文 ひろぶみ (下 しも 左 ひだり )井上 いのうえ 馨 かおる (下 しも 右 みぎ )のレリーフ (大阪 おおさか 府 ふ 大阪 おおさか 市 し 中央 ちゅうおう 区 く 北浜 きたはま )
明治 めいじ 8年 ねん (1875年 ねん )、板垣 いたがき 退助 たいすけ は、国会 こっかい 開設 かいせつ 運動 うんどう を全国 ぜんこく 組織 そしき に拡大 かくだい することを目指 めざ し、大阪 おおさか で愛国 あいこく 社 しゃ の結成 けっせい に奔走 ほんそう 。その中 なか で「国会 こっかい 開設 かいせつ を本気 ほんき で目指 めざ すのであれば、なぜ参議 さんぎ を辞職 じしょく したのか、政府 せいふ の中 なか で改革 かいかく すれば良 よ かったのではないか」との批判 ひはん もあり、大阪 おおさか 会議 かいぎ の結果 けっか 、板垣 いたがき は政府 せいふ 内 ない から国会 こっかい 開設 かいせつ の目的 もくてき を果 は たす戦略 せんりゃく を考 かんが え、参議 さんぎ に復職 ふくしょく 。この時 とき 、板垣 いたがき は西郷 さいごう 隆盛 たかもり も同時 どうじ に参議 さんぎ に復職 ふくしょく することを大久保 おおくぼ らに約束 やくそく させる。しかし、西郷 さいごう は板垣 いたがき からの書簡 しょかん の受 う け取 と りを拒否 きょひ し、さらに書簡 しょかん を持参 じさん した使者 ししゃ に居留守 いるす を使 つか ってまで追 お い返 かえ すという謎 なぞ の行動 こうどう に出 で たため、西郷 さいごう は参議 さんぎ に復帰 ふっき しなかった[10] 。
一定 いってい の成果 せいか を上 あ げるが、愛国 あいこく 社 しゃ は中心 ちゅうしん となる板垣 いたがき が公職 こうしょく に就 つ いたため活動 かつどう が出来 でき ず資金 しきん 難 なん により、一旦 いったん 消滅 しょうめつ する。
不平 ふへい 士族 しぞく の乱 らん [ 編集 へんしゅう ]
江藤 えとう 新平 しんぺい が建白 けんぱく 書 しょ の直後 ちょくご に士族 しぞく 反乱 はんらん の佐賀 さが の乱 らん (1874年 ねん )を起 お こし、死刑 しけい となっていることで知 し られるように、この時期 じき の自由 じゆう 民権 みんけん 運動 うんどう は政府 せいふ に反感 はんかん を持 も つ士族 しぞく らに基礎 きそ を置 お き、士族 しぞく 民権 みんけん と呼 よ ばれる。士族 しぞく 民権 みんけん は武力 ぶりょく 闘争 とうそう と紙一重 かみひとえ であった。
武力 ぶりょく を用 もち いる士族 しぞく 反乱 はんらん の動 うご きは明治 めいじ 10年 ねん (1877年 ねん )の西南 せいなん 戦争 せんそう で頂点 ちょうてん に達 たっ し、西郷 さいごう 隆盛 たかもり が兵 へい を挙 あ げたことに乗 じょう じて挙兵 きょへい しようとする動 うご きが立志 りっし 社内 しゃない 部 ぶ でも発生 はっせい 、幹部 かんぶ が逮捕 たいほ されてしまう(立志 りっし 社 しゃ の獄 ごく )。
運動 うんどう の高揚 こうよう [ 編集 へんしゅう ]
伊勢 いせ 暴動 ぼうどう (1876年 ねん )
演説 えんぜつ 会 かい の光景 こうけい
明治 めいじ 11年 ねん (1878年 ねん )、板垣 いたがき 退助 たいすけ は愛国 あいこく 社 しゃ を再興 さいこう し、明治 めいじ 13年 ねん (1880年 ねん )の第 だい 四 よん 回 かい 大会 たいかい で国会 こっかい 期成 きせい 同盟 どうめい が結成 けっせい され、国会 こっかい 開設 かいせつ の請願 せいがん ・建白 けんぱく が政府 せいふ に多数 たすう 提出 ていしゅつ された。地租 ちそ 改正 かいせい を掲 かか げることで、運動 うんどう は不平 ふへい 士族 しぞく のみならず、農村 のうそん にも浸透 しんとう していった。特 とく に各地 かくち の農村 のうそん の指導 しどう 者 しゃ 層 そう には地租 ちそ の重圧 じゅうあつ は負担 ふたん であった。これにより、運動 うんどう は全 ぜん 国民 こくみん 的 てき なものとなっていった。
この時期 じき の農村 のうそん 指導 しどう 者 しゃ 層 そう を中心 ちゅうしん にした段階 だんかい の運動 うんどう を豪農 ごうのう 民権 みんけん という。豪農 ごうのう 民権 みんけん が自由 じゆう 民権 みんけん 運動 うんどう の主体 しゅたい となった背景 はいけい には、明治 めいじ 9年 ねん (1876年 ねん )地租 ちそ 改正 かいせい 反対 はんたい 一揆 いっき が士族 しぞく 反乱 はんらん と結 むす ぶことを恐 おそ れた政府 せいふ による地租 ちそ 軽減 けいげん と、西南 せいなん 戦争 せんそう の戦費 せんぴ を補 おぎな うために発行 はっこう された不換紙幣 ふかんしへい の増発 ぞうはつ によるインフレーション により、農民 のうみん 層 そう の租税 そぜい 負担 ふたん が減少 げんしょう し、政治 せいじ 運動 うんどう を行 おこな う余裕 よゆう が生 しょう じてきたことが挙 あ げられる[13] 。実際 じっさい 交通 こうつう 事情 じじょう が未 み 整備 せいび な当時 とうじ 、各地 かくち の自由 じゆう 民権 みんけん 家 か との連絡 れんらく や往復 おうふく にはかなりの経済 けいざい 的 てき 余裕 よゆう を必要 ひつよう としていた。これら富農 ふのう 層 そう が中心 ちゅうしん となった運動 うんどう だけに、政治 せいじ 的 てき な要求 ようきゅう 項目 こうもく として民力 みんりょく 休養 きゅうよう ・地租 ちそ 軽減 けいげん が上位 じょうい となるのは必然 ひつぜん であった。また、士族 しぞく 民権 みんけん や豪農 ごうのう 民権 みんけん の他 ほか にも、都市 とし ブルジョワ層 そう や貧困 ひんこん 層 そう 、博徒 ばくと 集団 しゅうだん に至 いた るまで当時 とうじ の政府 せいふ の方針 ほうしん に批判 ひはん 的 てき な多種 たしゅ 多様 たよう な立場 たちば からの参加 さんか が多 おお く見 み られた。
民権 みんけん 運動 うんどう の盛 も り上 あ がりに対 たい し、政府 せいふ は明治 めいじ 8年 ねん (1875年 ねん )には讒謗 ざんぼう 律 りつ 、新聞紙 しんぶんし 条例 じょうれい の公布 こうふ 、明治 めいじ 13年 ねん (1880年 ねん )には集会 しゅうかい 条例 じょうれい など言論 げんろん 弾圧 だんあつ の法令 ほうれい で対抗 たいこう した。
私 わたし 擬 なずらえ 憲法 けんぽう [ 編集 へんしゅう ]
国会 こっかい 期成 きせい 同盟 どうめい では国 くに 約 やく 憲法 けんぽう 論 ろん を掲 かか げ、その前提 ぜんてい として自 みずか ら憲法 けんぽう を作 つく ろうと、翌 よく 明治 めいじ 14年 ねん (1881年 ねん )までに私案 しあん を持 も ち寄 よ ることを決議 けつぎ した。板垣 いたがき 退助 たいすけ は私 わたし 擬 なずらえ 憲法 けんぽう の作成 さくせい 意図 いと について『我国 わがくに 憲政 けんせい ノ由来 ゆらい 』で次 つぎ のように述 の べている。
國家 こっか の
根本 こんぽん 法 ほう たる
憲 けん 󠄁法 ほう は、
君主 くんしゅ 󠄁と人民 じんみん との一 いち 𦤶に
基 もと (もとづ)いて
定 てい むべく、
國 くに 約 やく 󠄁憲 けん 󠄁法 ほう とは
之 これ (これ)を
謂 いい (い)ふなり。
卽 すなわ ち
知 し るべし
國 くに 約 やく 󠄁憲 けん 󠄁法 ほう とは
君民同治 くんみんどうち の神 かみ 󠄀髄 ずい なることを。
故 こ (ゆえ)に苟(いやし)くも
我國 わがくに の
憲 けん 󠄁
法 ほう を
制定 せいてい せんと
欲 ほっ せば
先 さき づ
憲 けん 󠄁
法 ほう 制定 せいてい の
爲 ため めの
國民 こくみん 議會 ぎかい を
開 ひら かざる
可 か からずと。
眞 しん に
皇室 こうしつ の安泰 あんたい と
人民 じんみん の福 ぶく 󠄁祉󠄁を
慮 おもんばか (おもんぱか)り、この
金甌無缺 きんおうむけつ の國家 こっか を永遠 えいえん 󠄁に維持 いじ せんが
爲 ため めに、
萬世 ばんせい 不易 ふえき の根本 こんぽん 法 ほう を
定 さだ めんとするもの。
— 『我 わが 國憲 こっけん 󠄁政 せい ノ由來 ゆらい 』板垣 いたがき 退助 たいすけ 著 しる
これらの影響 えいきょう により憲法 けんぽう 草案 そうあん を考 かんが えるグループが全国 ぜんこく 的 てき に誕生 たんじょう し、明治 めいじ 14年 ねん (1881年 ねん )に交詢社 こうじゅんしゃ は『私 わたし 擬 なずらえ 憲法 けんぽう 案 あん 』を編纂 へんさん ・発行 はっこう し、植木 うえき 枝盛 えもり は私 わたし 擬 なずらえ 憲法 けんぽう 『東洋大 とうようだい 日本国 にっぽんこく 国憲 こっけん 按 』を起草 きそう した。昭和 しょうわ 43年 ねん (1968年 ねん )に東京 とうきょう 五日市 いつかいち 町 まち (現 げん あきる野 の 市 し )の農家 のうか の土蔵 どぞう から発見 はっけん されて有名 ゆうめい になった『五日市 いつかいち 憲法 けんぽう 』は地方 ちほう における民権 みんけん 運動 うんどう の高 たか まりと思想 しそう 的 てき な深化 しんか を示 しめ している。
明治 めいじ 十 じゅう 四 よん 年 ねん 政変 せいへん と政党 せいとう 結成 けっせい [ 編集 へんしゅう ]
板垣 いたがき 退助 たいすけ
大隈 おおくま 重信 しげのぶ
明治 めいじ 14年 ねん (1881年 ねん )、10年 ねん 後 ご に帝国 ていこく 議会 ぎかい を開設 かいせつ するという国会 こっかい 開設 かいせつ の詔 みことのり が出 だ されたのを機 き に、国会 こっかい 期成 きせい 同盟 どうめい 第 だい 三 さん 回 かい 大会 たいかい で自由党 じゆうとう が結成 けっせい され推 お されて板垣 いたがき 退助 たいすけ が総理 そうり (党首 とうしゅ )となる。
また参議 さんぎ ・大隈 おおくま 重信 しげのぶ は、政府 せいふ 内 ない で国会 こっかい の早期 そうき 開設 かいせつ を唱 とな えていたが、明治 めいじ 14年 ねん (1881年 ねん )に起 お こった明治 めいじ 十 じゅう 四 よん 年 ねん の政変 せいへん で、参議 さんぎ 伊藤 いとう 博文 ひろぶみ らによって罷免 ひめん され、下野 げや していたが、大隈 おおくま も明治 めいじ 15年 ねん (1882年 ねん )に立憲 りっけん 改 あらため 進 しん 党 とう を組織 そしき し総理 そうり (党首 とうしゅ )となった。
自由党 じゆうとう の尊王 そんのう 論 ろん [ 編集 へんしゅう ]
板垣 いたがき 退助 たいすけ は、明治 めいじ 15年 ねん (1882年 ねん )3月 がつ 、『自由党 じゆうとう の尊王 そんのう 論 ろん 』を著 あらわ し、自由 じゆう 主義 しゅぎ は尊皇 そんのう 主義 しゅぎ と同一 どういつ であることを力説 りきせつ し自由 じゆう 民権 みんけん の意義 いぎ を説 と いた。
世 よ に
尊王 そんのう 家 いえ 多 おお しと雖(いえど)も
吾 われ (わが)
自由党 じゆうとう の
如 ごと き(
尊王 そんのう 家 か は)あらざるべし。
世 よ に
忠臣 ちゅうしん 少 すくな からずと雖も、
吾 われ 自由党 じゆうとう の
如 ごと き(
忠臣 ちゅうしん )はあらざるべし。(
中略 ちゅうりゃく )
吾 われ 党 とう は
我 わが 皇帝 こうてい 陛下 へいか をして
英 えい 帝 みかど の
尊 みこと 栄 さかえ を
保 たも たしめんと
欲 ほっ する
者 もの 也。(
中略 ちゅうりゃく )
吾 われ 党 とう は
深 ふか く
我 わが 皇帝 こうてい 陛下 へいか を
信 しん じ
奉 たてまつ る
者 もの 也。
又 また 堅 かた く
我国 わがくに の
千歳 ちとせ に
垂 たれ るるを
信 しん ずる
者 もの 也。
吾 われ 党 とう は
最 もっと も
我 わが 皇帝 こうてい 陛下 へいか の
明治 めいじ 元年 がんねん 三 さん 月 がつ 十 じゅう 四 よん 日 にち の
御 ご 誓文 せいもん (
五 ご 箇条 かじょう の御 ご 誓文 せいもん )、
同 どう 八 はち 年 ねん 四 よん 月 がつ 十 じゅう 四 よん 日 にち 立憲 りっけん の
詔勅 しょうちょく 、及客
年 ねん 十 じゅう 月 がつ 十 じゅう 二 に 日 にち の
勅 みことのり 諭 さとし を
信 しん じ
奉 たてまつ る
者 もの 也。
既 すで に
我 わが 皇帝 こうてい 陛下 へいか には「
広 ひろ く会議 かいぎ を興 おこ し万 まん 機 き 公論 こうろん に決 けっ すべし」と
宣 せん (のたま)ひ、
又 また 「
旧来 きゅうらい の陋習を
破 やぶ り
天地 てんち の
公道 こうどう に
基 もとづ くべし」と
宣 せん (のたま)ひたり。
吾 われ 党 とう 、
固 かた (もと)より
我 わが 皇帝 こうてい 陛下 へいか の
之 これ (これ)を
履行 りこう し、
之 これ (これ)を
拡充 かくじゅう し
給 きゅう ふを
信 しん ずる也。
又 また 、
立憲 りっけん の
政体 せいたい を
立 た て
汝 なんじ 衆 しゅ 庶と俱(とも)に其慶
幸 こう に
頼 よりゆき (たよ)らんと
欲 ほっ す。(
中略 ちゅうりゃく )
既 すで に
立憲政体 りっけんせいたい を
立 た てさせ
給 きゅう ひ、其慶
幸 こう に
頼 たよ らんと
宣 せん ふ
以上 いじょう は、
亦 また 吾 われ 党 とう に
自由 じゆう を
与 あずか へ
吾 われ 党 とう をして
自由 じゆう の
民 みん たらしめんと
欲 ほっ するの
叡慮 えいりょ なることを
信 しん ずる也。(
中略 ちゅうりゃく )
況 きょう や
客年 かくねん 十 じゅう 月 がつ の
聖 ひじり 諭 さとし の
如 ごと きあり。
断然 だんぜん 二 に 十 じゅう 三 さん 年 ねん を
以 もっ て
代議士 だいぎし を
召 め し
国会 こっかい を
開設 かいせつ せんと
叡 あきら 断 だん あるに
於 おい ておや。(
中略 ちゅうりゃく )
故 ゆえ に
吾 われ 党 とう が平生 へいぜい 自由 じゆう を唱 とな え権利 けんり を主張 しゅちょう する者 もの は悉 ことごと く仁慈 じんじ 皇帝 こうてい 陛下 へいか の詔勅 しょうちょく を信 しん じ奉 まつ り、一 いち 点 てん (の)私心 ししん を(も)其間に挟 はさ まざる者 もの 也。(
中略 ちゅうりゃく )斯(かく)の
如 ごと くにして
吾 われ 党 とう は
皇帝 こうてい 陛下 へいか を
信 しん じ、
我 わが 皇帝 こうてい 陛下 へいか の
意 い の
在 あ る
所 ところ に
随 したがえ ふて、此
立憲政体 りっけんせいたい の
慶 けい 幸 こう に
頼 たよ らんと
欲 ほっ する
者 もの 也。(
中略 ちゅうりゃく )
方今 ほうこん 、
支 ささえ 那 な 、魯西
亜 あ (ロシア)、
土 ど 耳 みみ 古 いにしえ (トルコ)
諸 しょ 邦 くに の
形状 けいじょう を
察 さっ すれば、其帝
王 おう は
驕傲 きょうごう 無礼 ぶれい にして
人民 じんみん を
軽侮 けいぶ し
土 ど 芥 あくた 之 これ を
視 み 、
人民 じんみん は其帝
王 おう を
畏 かしこ 懼し、
或 あるい は怨望し
雷霆 らいてい の
如 ごと く、讎敵の
如 ごと くし、
故 ゆえ に
君民 くんみん 上下 じょうげ の
間 あいだ に
於 おい て曾(かつ)て其
親睦 しんぼく 愛情 あいじょう の
行 くだり はるる
事 こと なし。(
中略 ちゅうりゃく )
今 いま 、
吾 われ 党 とう の
我 わが 日本 にっぽん 皇帝 こうてい 陛下 へいか を
尊崇 そんすう する
所以 ゆえん (ゆえん)は、
固 かた (もと)より
支 ささえ 那 な 、
土 ど 耳 みみ 古 いにしえ (トルコ)の
如 ごと きを
欲 ほっ せざる也。
又 また 、
大 だい (おおい)に魯西
亜 あ (ロシア)の
如 ごと きを
好 この まざる也。
吾 われ 党 とう は
我 わが 人民 じんみん をして自由 じゆう の民 みん たらしめ、
我 わが 邦 くに をして文明 ぶんめい の国 くに に
位 くらい し、(
皇帝 こうてい 陛下 へいか を)
自由 じゆう 貴重 きちょう の民 みん 上 じょう に君臨 くんりん せしめ、
無上 むじょう の光栄 こうえい を
保 たも ち、
無比 むひ の尊崇 そんすう を
受 う けしめんと
企図 きと する
者 もの 也。(
中略 ちゅうりゃく )
是 ぜ 吾 われ 党 とう が
平生 へいぜい 堅 かた く
聖旨 せいし を
奉 ほう じ、
自由 じゆう の
主義 しゅぎ を
執 と り、
政党 せいとう を
組織 そしき し、
国事 こくじ に
奔走 ほんそう する
所以 ゆえん (ゆえん)也。乃(すなわ)ち
皇国 こうこく を
千載 せんざい に
伝 つた へ、
皇統 こうとう を
無窮 むきゅう に
垂 しだ れんと
欲 ほっ する
所以 ゆえん (ゆえん)なり。
世 よ の
真理 しんり を
解 ほぐ せず、
時 とき 情 じょう を
悟 さと らず、
固陋 ころう 自 みずか ら
省 かえり みず、妄(みだ)りに
尊王 そんのう 愛国 あいこく を唱へ、却(かえっ)て
聖旨 せいし に
違 たがえ (たが)ひ、
立憲政体 りっけんせいたい の
準備 じゅんび 計画 けいかく を
防遏 ぼうあつ (ぼうあつ)し、
皇 すめらぎ 家 か を
率 りつ ゐて
危難 きなん の
深淵 しんえん に
臨 のぞ まんと
欲 ほっ する
者 もの と
同一 どういつ 視 し すべからざる也。
是 ぜ れ
吾 われ 党 とう が
古今 ここん 尊王 そんのう 家 いえ 多 おお しと雖(いえど)も
我 わが 自由党 じゆうとう の
如 ごと くは
無 む し、
古今 ここん 忠臣 ちゅうしん 義士 ぎし 尠(すくな)からずと雖も
我 わが 自由党 じゆうとう 諸氏 しょし が
忠 ちゅう 愛 あい 真実 しんじつ なるに如(し)かずと
為 ため (な)す
所以 ゆえん (ゆえん)なり。
— 『自由党 じゆうとう の尊王 そんのう 論 ろん 』板垣 いたがき 退助 たいすけ 著 しる
板垣 いたがき 退助 たいすけ 岐阜 ぎふ 遭難 そうなん 事件 じけん [ 編集 へんしゅう ]
板垣 いたがき 退助 たいすけ の岐阜 ぎふ 遭難 そうなん 事件 じけん
板垣 いたがき 死 し すとも自由 じゆう は死 し せず (板垣 いたがき 退助 たいすけ 百 ひゃく 回忌 かいき に際 さい し安倍晋三 あべしんぞう が揮毫 きごう )
板垣 いたがき 退助 たいすけ は全国 ぜんこく を遊説 ゆうぜい して回 まわ り、党勢 とうせい 拡大 かくだい に努 つと めていた明治 めいじ 15年 ねん (1882年 ねん )4月 がつ 6日 にち 、岐阜 ぎふ で遊説 ゆうぜい 中 ちゅう に暴漢 ぼうかん ・相原 あいはら 尚 しょう 褧 に襲 おそ われ負傷 ふしょう した(岐阜 ぎふ 事件 じけん )。その際 さい 、板垣 いたがき は襲 おそ われたあとに竹内 たけうち 綱 つな に抱 いだ きかかえられつつ起 お き上 あ がり、出血 しゅっけつ しながら「吾 われ 死 し スルトモ自由 じゆう ハ死 し セン」と言 い い[注釈 ちゅうしゃく 2] [14] 、これがやがて「板垣 いたがき 死 し すとも自由 じゆう は死 し せず 」という表現 ひょうげん で広 ひろ く伝 つた わることになった。この事件 じけん の際 さい 、板垣 いたがき は当時 とうじ 医者 いしゃ だった後藤 ごとう 新平 しんぺい の診療 しんりょう を受 う けており、後藤 ごとう は「閣 かく 下 か 、御 ご 本懐 ほんかい でございましょう」と述 の べ、療養 りょうよう 後 ご に彼 かれ の政 せい 才 ざい を見抜 みぬ いた板垣 いたがき は「彼 かれ を政治 せいじ 家 か にできないのが残念 ざんねん だ」と語 かた っている[15] 。
「板垣 いたがき 死 し すとも自由 じゆう は死 し せず」という有名 ゆうめい な言葉 ことば は、板垣 いたがき が襲撃 しゅうげき を受 う けた際 さい に叫 さけ んだものである。
板垣 いたがき 自身 じしん が記 しる しているものによれば、
「
予 よ (
板垣 いたがき )は
人々 ひとびと に
黙礼 もくれい して
二 に 、
三 さん 歩 ほ を
出 で づるや、
忽 たちま ち
一 いち 壮漢 そうかん あり『
国賊 こくぞく 』と
呼 よ びつつ
右 みぎ 方 かた の
横 よこ 合 あい より
踊 おど り
来 らい つて、
短刀 たんとう を
閃 ひらめ かして
予 よ の
胸 むね を
刺 さ す。(
中略 ちゅうりゃく )
内藤 ないとう 魯一、驀奔し
来 きた り
兇漢 きょうかん の頸(くび)を攫(つか)んで
仰 おおせ 向 むこう に
之 これ (これ)を
倒 たお す。
白刃 はくじん 闇 やみ を剪いて
数 すう 歩 ほ の
外 そと に墜つ。
予 よ (
板垣 いたがき )、
刺客 しかく を
睥睨 へいげい して
曰 いわ く『
板垣 いたがき 死 し すとも自由 じゆう は死 し せず』と。
刺客 しかく は
相原 あいはら 尚 しょう 褧といふ
者 しゃ …(
以下 いか 略 りゃく )」
— (『我 わが 國憲 こっけん 󠄁政 せい の由來 ゆらい 』板垣 いたがき 退助 たいすけ 著 ちょ [16] )
4月 がつ 6日 にち の事件 じけん 後 ご すぐに出 だ された4月 がつ 11日 にち 付 づけ の『大阪 おおさか 朝日新聞 あさひしんぶん 』は、事件 じけん 現場 げんば にいあわせた小室 こむろ 信介 しんすけ が書 か いたものであるが「板垣 いたがき は『板垣 いたがき は死 し すとも自由 じゆう は亡 ほろ びませぬぞ』と叫 さけ んだ」と記 しる されており[17] 、他紙 たし の報道 ほうどう も同様 どうよう で、東京 とうきょう の『有喜 うき 世 よ 新聞 しんぶん 』では「兇徒 きょうと を睨 にら みつけ『板垣 いたがき は死 し すとも自由 じゆう の精神 せいしん は決 けっ して死 し せざるぞ』と言 げん はるゝ」[18] 等 ひとし とある。
また政府 せいふ 側 がわ の密偵 みってい で自由 じゆう 民権 みんけん 運動 うんどう を監視 かんし していた立場 たちば の目撃 もくげき 者 しゃ ・岡本 おかもと 都 と 與吉 よきち (岐阜 ぎふ 県 けん 御嵩 みたけ 警察 けいさつ 署 しょ 御用 ごよう 掛 かけ )の報告 ほうこく 書 しょ においても、板垣 いたがき 自身 じしん が同様 どうよう の言葉 ことば を襲撃 しゅうげき された際 さい に叫 さけ んだという記録 きろく が発見 はっけん され今日 きょう に至 いた っている[19] 。
「板垣 いたがき ハ死 し スルトモ自由 じゆう ハ亡 ほろび ヒス」(自由党 じゆうとう の臨時 りんじ 報 ほう より)
「吾 われ 死 し スルトモ自由 じゆう ハ死 し セン」(岐阜 ぎふ 県 けん 御嵩 みたけ 警察 けいさつ 御用 ごよう 掛 かけ (政府 せいふ 密偵 みってい )・岡本 おかもと 都 と 與吉 よきち )の上申 じょうしん 書 しょ より)
「我 わが 今 いま 汝 なんじ カ手 しゅ ニ死 し スルコトアラントモ自由 じゆう ハ永世 えいせい 不滅 ふめつ ナルヘキゾ」(岐阜 ぎふ 県警 けんけい 部長 ぶちょう の報告 ほうこく 書 しょ より)
「嘆 なげ き玉 だま ふな板垣 いたがき は死 し すとも自由 じゆう は亡 ほろ びませぬぞ」(『大阪 おおさか 朝日新聞 あさひしんぶん 』明治 めいじ 15年 ねん (1882年 ねん )4月 がつ 11日 にち 号 ごう )- 事件 じけん 現場 げんば にいた小室 こむろ 信介 しんすけ の筆記 ひっき
「板垣 いたがき は死 し すとも自由 じゆう の精神 せいしん は決 けっ して死 し せざるぞ」(『有喜 うき 世 よ 新聞 しんぶん 』明治 めいじ 15年 ねん (1882年 ねん )4月 がつ 11日 にち 号 ごう )
「たとい退助 たいすけ は死 し すとも自由 じゆう は死 し せず[20] 」 - 事件 じけん 現場 げんば にいた岩田 いわた 徳義 とくよし の筆記 ひっき
自由 じゆう 民権 みんけん 運動 うんどう と女性 じょせい [ 編集 へんしゅう ]
1884年 ねん に「自由 じゆう 燈 とう 」で女性 じょせい の権利 けんり の確立 かくりつ を訴 うった えた「同胞 どうほう 姉妹 しまい に告 つ ぐ」を発表 はっぴょう した岸田 きしだ 俊子 としこ や「東洋 とうよう のジャンヌ・ダルク」と評 ひょう された福田 ふくだ 英子 えいこ らの運動 うんどう が著名 ちょめい である。これらの運動 うんどう は日本 にっぽん の女性 じょせい 解放 かいほう 運動 うんどう の先駆 さきが けであった。女性 じょせい 参政 さんせい 権 けん を求 もと めて運動 うんどう をした高知 こうち の楠瀬 くすのせ 喜多 きた の活動 かつどう も知 し られている[21] 。
運動 うんどう 内 ない の分裂 ぶんれつ [ 編集 へんしゅう ]
明治 めいじ 十 じゅう 四 よん 年 ねん の政変 せいへん によって、自由 じゆう 民権 みんけん 運動 うんどう に好意 こうい 的 てき と見 み られてきた大隈 おおくま をはじめとする政府 せいふ 内 ない の急進 きゅうしん 派 は が一掃 いっそう され、政府 せいふ は伊藤 いとう 博文 ひろぶみ を中心 ちゅうしん とする体制 たいせい を固 かた める事 こと に成功 せいこう して、結果 けっか 的 てき にはより強硬 きょうこう な運動 うんどう 弾圧 だんあつ 策 さく に乗 の り出 だ す環境 かんきょう を整 ととの える事 こと となった。また伊藤 いとう らは民権 みんけん 運動 うんどう 家 か の内部 ないぶ 分裂 ぶんれつ を誘 さそ う策 さく も行 おこな った。後藤 ごとう 象二 しょうじ 郎 ろう を通 つう じて自由党 じゆうとう 総理 そうり 板垣 いたがき 退助 たいすけ に洋行 ようこう を勧 すす め、板垣 いたがき がこれに応 おう じると、民権 みんけん 運動 うんどう の重要 じゅうよう な時期 じき に政府 せいふ から金 かね をもらって外国 がいこく へ旅行 りょこう する板垣 いたがき への批判 ひはん が噴出 ふんしゅつ 。批判 ひはん した馬場 ばば 辰猪 たつい ・大石 おおいし 正巳 まさみ ・末広鉄腸 すえひろてっちょう らを板垣 いたがき が逆 ぎゃく に自由党 じゆうとう から追放 ついほう するという措置 そち に出 で たため、田口 たぐち 卯吉 うきち ・中江 なかえ 兆民 ちょうみん らまでも自由党 じゆうとう から去 さ ることとなった。また改 あらため 進 しん 党 とう 系 けい の郵便 ゆうびん 報知 ほうち 新聞 しんぶん なども自由党 じゆうとう と三井 みつい との癒着 ゆちゃく を含 ふく め、板垣 いたがき を批判 ひはん 。板垣 いたがき ・後藤 ごとう の出国 しゅっこく 後 ご には自由党 じゆうとう 系 けい の自由 じゆう 新聞 しんぶん が逆 ぎゃく に改 あらため 進 しん 党 とう と三菱 みつびし との関係 かんけい を批判 ひはん するなど泥仕合 どろじあい の様相 ようそう を呈 てい した[22] 。
激化 げきか 事件 じけん と運動 うんどう の衰退 すいたい [ 編集 へんしゅう ]
加波山 かばさん 事件 じけん 志士 しし の墓 はか (茨城 いばらき 県 けん 筑西市 し )
大井 おおい 憲太郎 けんたろう や内藤 ないとう 魯一 など自由党 じゆうとう 急進 きゅうしん 派 は は政府 せいふ の厳 きび しい弾圧 だんあつ にテロ や蜂起 ほうき も辞 じ さない過激 かげき な戦術 せんじゅつ をも検討 けんとう していた。また、松方 まつかた デフレ等 とう で困窮 こんきゅう した農民 のうみん たちも国会 こっかい 開設 かいせつ を前 まえ に準備 じゅんび 政党 せいとう 化 か した自由党 じゆうとう に対 たい し不満 ふまん をつのらせていた[注釈 ちゅうしゃく 3] 。
こうした背景 はいけい のもとに1881年 ねん (明治 めいじ 14年 ねん )には秋田 あきた 事件 じけん 、1882年 ねん (明治 めいじ 15年 ねん )には福島 ふくしま 事件 じけん 、1883年 ねん (明治 めいじ 16年 ねん )には高田 たかだ 事件 じけん 、1884年 ねん (明治 めいじ 17年 ねん )には群馬 ぐんま 事件 じけん 、加波山 かばさん 事件 じけん 、秩父 ちちぶ 事件 じけん 、飯田 いいだ 事件 じけん 、名古屋 なごや 事件 じけん 、1886年 ねん (明治 めいじ 19年 ねん )には静岡 しずおか 事件 じけん 等 ひとし と全国 ぜんこく 各地 かくち で「激化 げきか 事件 じけん 」が頻発 ひんぱつ した。また、大阪 おおさか 事件 じけん もこうした一連 いちれん の事件 じけん の延長線 えんちょうせん 上 じょう に位置 いち づけられている。なお、政府 せいふ は1885年 ねん (明治 めいじ 18年 ねん )1月 がつ 15日 にち に爆発 ばくはつ 物 ぶつ 取締 とりしまり 罰則 ばっそく を施行 しこう した。
1884年 ねん には自由党 じゆうとう は解党 かいとう し、同年 どうねん 末 まつ には立憲 りっけん 改 あらため 進 しん 党 とう も大隈 おおくま らが脱党 だっとう し事実 じじつ 上 じょう 分解 ぶんかい するなど打撃 だげき を受 う けた。
運動 うんどう の再開 さいかい から国会 こっかい 開設 かいせつ へ[ 編集 へんしゅう ]
国会 こっかい 議事堂 ぎじどう (第 だい 一 いち 次 じ 仮 かり 議事堂 ぎじどう )
1886年 ねん には星 ほし 亨 とおる らによる大同団結 だいどうだんけつ 運動 うんどう で民権 みんけん 運動 うんどう は再 ふたた び盛 も り上 あ がりを見 み せ、中江 なかえ 兆民 ちょうみん や徳富 とくとみ 蘇峰 そほう らの思想 しそう 的 てき な活躍 かつやく も見 み られた。翌 よく 1887年 ねん (明治 めいじ 20年 ねん )には、さらに井上 いのうえ 馨 かおる による欧化 おうか 主義 しゅぎ を基本 きほん とした外交 がいこう 政策 せいさく に対 たい し、外交 がいこう 策 さく の転換 てんかん ・言論 げんろん 集会 しゅうかい の自由 じゆう ・地租 ちそ 軽減 けいげん を要求 ようきゅう した三 さん 大 だい 事件 じけん 建白 けんぱく 運動 うんどう が起 お こり、民権 みんけん 運動 うんどう は激 はげ しさを増 ま した。これに対 たい し政府 せいふ が保安 ほあん 条例 じょうれい の制定 せいてい や改 あらため 進 しん 党 とう 大隈 おおくま の外相 がいしょう 入閣 にゅうかく を行 おこな うことで運動 うんどう は沈静 ちんせい 化 か し、1889年 ねん (明治 めいじ 22年 ねん )の大日本帝国 だいにっぽんていこく 憲法 けんぽう 制定 せいてい を迎 むか えた。翌 よく 1890年 ねん (明治 めいじ 23年 ねん )に第 だい 1回 かい 総 そう 選挙 せんきょ が行 おこな われ、帝国 ていこく 議会 ぎかい が開 ひら かれた。以降 いこう 、政府 せいふ ・政党 せいとう の対立 たいりつ は議会 ぎかい に持 も ち込 こ まれた。
^ 朝鮮 ちょうせん 政府 せいふ の抗戦 こうせん の意思 いし は明確 めいかく で、日本 にっぽん に仲介 ちゅうかい を求 もと める動 うご きも期待 きたい できず、アメリカ艦隊 かんたい が長崎 ながさき から出航 しゅっこう している状況 じょうきょう のなかでは日本 にっぽん への猜疑 さいぎ が強 つよ まる可能 かのう 性 せい もあった。
^ 当時 とうじ 、岐阜 ぎふ 県 けん 御嵩 みたけ (みたけ)警察 けいさつ 署 しょ 御用 ごよう 掛 かけ であった岡本 おかもと 都 と 與吉 よきち が、3月26日 にち から4月 がつ 8日 にち までの板垣 いたがき 一行 いっこう の動静 どうせい をまとめて4月 がつ 10日 とおか に御嵩 みたけ 警察 けいさつ 署長 しょちょう に提出 ていしゅつ した「探偵 たんてい 上申 じょうしん 書 しょ 」に記載 きさい されている。また岐阜 ぎふ 県警 けんけい 部長 ぶちょう の川俣 かわまた 正名 まさな が岐阜 ぎふ 県 けん 令 れい に対 たい して提出 ていしゅつ した供覧 きょうらん 文書 ぶんしょ には、板垣 いたがき が刺客 しかく に対 たい して、自分 じぶん が死 し ぬことがあったとしても「自由 じゆう は永世 えいせい 不滅 ふめつ ナルベキ」と笑 わら った、と記録 きろく されている。
^ 松方 まつかた デフレにより、経済 けいざい 的 てき 余裕 よゆう のあった富農 ふのう 層 そう も次第 しだい に運動 うんどう への熱意 ねつい を失 うしな いつつあった。稲田 いなだ 2009 、p.125。
^ 高松宮 たかまつのみや 家 か 『幟 のぼり 仁 じん 親王 しんのう 行実 ぎょうじつ 』1933年 ねん 、184頁 ぺーじ 、NDLJP :1212495/158 。
^ a b c d 『自由黨 じゆうとう 史 し 』板垣 いたがき 退助 たいすけ 監修 かんしゅう 、五 ご 車 しゃ 楼 ろう
^ 丸山 まるやま 真男 まさお 「自由 じゆう 民権 みんけん 運動 うんどう 史 し 」(丸山 まるやま 真男 まさお 著 ちょ 『戦中 せんちゅう と戦後 せんご の間 あいだ 1936-1957』みすず書房 しょぼう 1976年 ねん )309ページ
^ a b 『我国 わがくに 憲政 けんせい の由来 ゆらい 』板垣 いたがき 退助 たいすけ 著 ちょ (所収 しょしゅう 『明治 めいじ 憲政 けんせい 経済 けいざい 史論 しろん 』国家 こっか 学会 がっかい 編 へん 、東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく )
^ 『億兆 おくちょう 安 やす 撫 なで 国威 こくい 宣揚 せんよう の(明治天皇 めいじてんのう )御 ご 宸翰 しんかん 』早稲田大学 わせだだいがく 所蔵 しょぞう
^ 『億兆 おくちょう 安 やす 撫 なで 国威 こくい 宣揚 せんよう の御 ご 宸翰 しんかん 謹解 』髙岡功 こう 太郎 たろう 現代 げんだい 語 ご 訳 やく 、一般社団法人板垣退助先生顕彰会
^ a b 鈴木 すずき 安蔵 あぞう は「板垣 いたがき (退助 たいすけ )君 くん 並 なみ に立志 りっし 社 しゃ 先輩 せんぱい 諸氏 しょし は武士 ぶし 階級 かいきゅう の教育 きょういく を受 う け育 そだ った人々 ひとびと であり、彼等 かれら の述 の べるところの自由 じゆう 主義 しゅぎ とは『泰西 たいせい 大家 たいか の新説 しんせつ 』と日本 にっぽん 文化 ぶんか によって醸熟された武士 ぶし 道 どう 精神 せいしん の融合 ゆうごう により誕生 たんじょう したものである」とする。
^ 『立国 りっこく の大本 おおもと 』板垣 いたがき 退助 たいすけ 著 ちょ 、第 だい 三 さん 章 しょう ・君民 くんみん 二 に 致なし「元來 がんらい 、世 よ の聵々者 しゃ 流 りゅう は、君主 くんしゅ 々義 よし といひ、民本主義 みんぽんしゅぎ といふが如 し く、各 かく 其一方 いっぽう に偏 へん し、始 はじ めより兩者 りょうしゃ を相 あい 對立 たいりつ せしめて議論 ぎろん を立 た つるが故 ゆえ に、理論 りろん 上 じょう 兩者 りょうしゃ 相 しょう 敵對 てきたい するが如 ごと き形 かたち を生 しょう じ、其爭の結果 けっか 、社會 しゃかい の秩序 ちつじょ を紊亂 びんらん するに至 いた る也。抑 そもそも も予 よ (板垣 いたがき 退助 たいすけ )の見 み る所 ところ を以 もっ てすれば、君主 くんしゅ と人民 じんみん とは決 けっ して相 あい 分 わか つべきものにあらず。何 なん となれば君主 くんしゅ といひ人民 じんみん といふも、決 けっ して單獨 たんどく に存在 そんざい するものにあらずして、人民 じんみん ありての君主 くんしゅ 、君主 くんしゅ ありての人民 じんみん なるを以 もっ て也。則 のり ち既 すで に君主 くんしゅ といふうちには、人民 じんみん の意志 いし の綜合 そうごう 、換言 かんげん すれば輿論 よろん の結晶 けっしょう 體 たい といふ意味 いみ が含 ふく まれ、人民 じんみん といふうちには又 また た之 これ を統治 とうち して其秩序 じょ を維持 いじ する所 ところ の、最高 さいこう 權 けん を執 と る者 もの の存在 そんざい すといふ意味 いみ が含 ふく まる。是 ぜ 故 ゆえ に民 みん 無 な くして君 きみ 在 あ るの理無 わりな く、人民 じんみん 無 な きの君主 くんしゅ は一 いち 個 こ の空名 くうめい たるに過 す ぎず。(中略 ちゅうりゃく )專制 せんせい 君主 くんしゅ と雖も其理想 りそう は實 じつ に人民 じんみん を撫育 ぶいく し、其安寧 あんねい 幸福 こうふく を求 もと むるに在 あ り。是 ぜ 故 ゆえ に君主 くんしゅ と人民 じんみん とは二 に にあらずして一也 かずや 。決 けっ して始 はじ めより相 あい 敵對 てきたい すべき性質 せいしつ のものにあらず。兩者 りょうしゃ は始 はじ めより其目的 もくてき を同 どう うし、利害 りがい を齊 ひとし うせるものにして、恰 あたか も唇齒輔車 しんしほしゃ の關係 かんけい に在 あ り。(中略 ちゅうりゃく )君主 くんしゅ 々義 よし の神髓 しんずい は卽 すなわ ち取 と りも直 なお さず民本主義 みんぽんしゅぎ の神髓 しんずい たる也。(中略 ちゅうりゃく )君主 くんしゅ 々義 ぎ といひ若 わか くは民本主義 みんぽんしゅぎ と稱 しょう して、互 かたみ に相 あい 爭 そう ふが如 ごと きは、抑 そもそも も誤 あやま れるの甚 はなは だしきものにして、君民 くんみん は同一 どういつ の目的 もくてき を以 もっ て相 あい 契合 けいごう 融和 ゆうわ し、共同 きょうどう して經綸 けいりん を行 くだり ふべきものたることを知 し るに難 かた からざるべし。而かも特 とく に我 わが 邦 くに の體制 たいせい に於 おい ては、君民 くんみん の關係 かんけい は恰かも親子 おやこ の關係 かんけい の如 ごと く、先天的 せんてんてき に既 すで に定 さだ まり(中略 ちゅうりゃく )我 わが 邦 くに に於 おい ては建國 けんこく の始 はじ めより、君民 くんみん 一體 いったい にして、君 きみ 意 い と民心 みんしん は契合 けいごう して相 あい 離 はな れず。之 これ が爲 ため めに我 わが 邦 くに に在 ざい ては毫 ごう も禪讓 ぜんじょう 若 わか くは選擧 せんきょ の形式 けいしき を躡むの必要 ひつよう 無 な く、人民 じんみん の總意 そうい 、輿論 よろん は直 ただ ちに君主 くんしゅ によりて象徴 しょうちょう せられ民意 みんい は卽 すなわ ち君 きみ 意 い 、君 きみ 意 い は卽 すなわ ち民意 みんい にして君民 くんみん は一 いち にして決 けっ して二 に 致無 な き也」より。
^ 坂野 さかの 潤 じゅん 治 ち ・田原 たはら 総一朗 そういちろう 『大日本帝国 だいにっぽんていこく の民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 』小学館 しょうがくかん ,2006年 ねん ,190頁 ぺーじ
^ a b c d e f “『板垣 いたがき 精神 せいしん 』 ”. 一般 いっぱん 社団 しゃだん 法人 ほうじん 板垣 いたがき 退助 たいすけ 先生 せんせい 顕彰 けんしょう 会 かい (2019年 ねん 2月 がつ 11日 にち ). 2020年 ねん 11月1日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 原田 はらだ 1997、142-150頁 ぺーじ 。
^ 丸山 まるやま 真男 まさお 著 ちょ 『戦中 せんちゅう と戦後 せんご の間 あいだ 1936 - 1957』みすず書房 しょぼう 1976年 ねん 310ページ
^ 犬塚 いぬづか 2005 、pp.5-9。
^ 知 し っていましたか? 近代 きんだい 日本 にっぽん のこんな歴史 れきし |板垣 いたがき 退助 たいすけ 暗殺 あんさつ 未遂 みすい 事件 じけん 〜「板垣 いたがき 死 し すとも自由 じゆう は死 し せず」〜
^ 『日本 にっぽん の有名 ゆうめい 一族 いちぞく 』小谷野 こやの 敦 あつし 、幻冬舎 げんとうしゃ 新書 しんしょ 、2007
^ 所収 しょしゅう 『明治 めいじ 憲政 けんせい 経済 けいざい 史論 しろん 』国家 こっか 学会 がっかい 編 へん 、東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく 、238頁 ぺーじ
^ 原文 げんぶん 「大野 おおの 宰 おさむ 次郎 じろう 氏 し が馳 は せ来 らい たつてただちに板垣 いたがき 君 くん にひしと抱 だ きつき、「嗚呼 ああ 残念 ざんねん なるかな」と一声 いっせい 叫 さけ びて落涙 らくるい 雨 う の如 ごと く右 みぎ の袖 そで を(板垣 いたがき )君 くん の身体 しんたい より滴 したた る血潮 ちしお にひたして泣 な きしたうさま、熱心 ねっしん 哀 あい 情 じょう が面 めん に溢 あふ れて殆 ほとん ど名状 めいじょう すべからざる有様 ありさま なり。板垣 いたがき 君 くん はこの哀 あい 声 ごえ を聞 き かるゝに頭 あたま を廻 めぐ らして静 しず かに曰 いわ く「嘆 なげ き玉 だま ふな板垣 いたがき は死 し すとも自由 じゆう は亡 ほろ びませぬぞ 」と。嗚呼 ああ 、この一言 ひとこと は我々 われわれ 自由 じゆう 家 か の記念 きねん として、以 もっ て後世 こうせい に傳 つて ふべきものなり」(『大阪 おおさか 朝日新聞 あさひしんぶん 』明治 めいじ 15年 ねん (1882年 ねん )4月 がつ 11日 にち 号 ごう )
^ 原文 げんぶん 「尚 なお 褧、再 ふたた び突 とっ かんとして君 きみ (板垣 いたがき )と共 とも に倒 たお れしが、君 きみ はとくはね起 お きて、兇徒 きょうと を睨 にら みつけ『板垣 いたがき は死 し すとも自由 じゆう の精神 せいしん は決 けっ して死 し せざるぞ 』と言 げん はるゝ言葉 ことば の果 は てざるに、またもや面部 めんぶ へ切 き り掛 かか りたり」(『有喜 うき 世 よ 新聞 しんぶん 』明治 めいじ 15年 ねん (1882年 ねん )4月 がつ 11日 にち 号 ごう
^ 板垣 いたがき 退助 たいすけ 暗殺 あんさつ 未遂 みすい 事件 じけん ~「板垣 いたがき 死 し すとも自由 じゆう は死 し せず」~ アジア資料 しりょう 歴史 れきし センター
^ 原文 げんぶん 「君 きみ 神色 しんしょく 自若 じじゃく 、毫 ごう も平生 へいぜい に異 こと ならず、顧 かえり みて諸氏 しょし を労 いたわ りかつ謂 いい て曰 いわ く「たとい退助 たいすけ は死 し すとも自由 じゆう は死 し せず 。誰 だれ がわが党 とう を指 さ して「過激 かげき なり」といふ。彼 かれ 、かえつてこの過激 かげき のことを成 な す」と」(『板垣 いたがき 君 くん 岐阜 ぎふ 遭難 そうなん 記録 きろく 』岩田 いわた 徳義 とくよし 著 ちょ 、明治 めいじ 26年 ねん (1893年 ねん )
^ 女性 じょせい の活躍 かつやく は高知 こうち から!『らんまん』にも登場 とうじょう “民権 みんけん ばあさん” 島崎 しまざき 和歌子 わかこ さん演 えん じる女性 じょせい 史実 しじつ では歴史 れきし を動 うご かしていた 2023年 ねん 04月 がつ 28日 にち (NHK高知 こうち 放送 ほうそう 局 きょく )
^ 「詳説 しょうせつ 日本 にっぽん 史 し 研究 けんきゅう 」:353ページ、山川 やまかわ 出版 しゅっぱん 社 しゃ
^ 昭和 しょうわ 天皇 てんのう 、1977年 ねん (昭和 しょうわ 52年 ねん )8月 がつ 23日 にち の会見 かいけん
^ 『昭和 しょうわ 天皇 てんのう 発言 はつげん 録 ろく ―大正 たいしょう 9年 ねん ~昭和 しょうわ 64年 ねん の真実 しんじつ 』高橋 たかはし 紘 ひろし 編 へん 、小学館 しょうがくかん 、1989年 ねん 、241頁 ぺーじ