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自由じゆう民権みんけん運動うんどう

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自由じゆう民権みんけんから転送てんそう

自由じゆう民権みんけん運動うんどう(じゆうみんけんうんどう、きゅう字体じたい自由じゆう民權みんけんうん󠄁どうえい: The Freedom and People's Rights Movement, Liberty and Civil Right Movement, The Liberty and Civil Right Movement)とは、明治めいじ時代じだい日本にっぽんにおいておこなわれた、憲法けんぽう制定せいてい国会こっかい開設かいせつのための政治せいじ運動うんどうならびに社会しゃかい運動うんどうである。

概要がいよう[編集へんしゅう]

のぼりじん親王しんのう揮毫きごうによる誓文せいもん原本げんぽん[1]
板垣いたがき退助たいすけ

明治めいじ6ねん1873ねんせいかんろん主張しゅちょうしてやぶれた板垣いたがき退助たいすけらが、くだせいかん勢力せいりょく結集けっしゅうし、明治めいじ7ねん1874ねん1がつ12にち愛国あいこく公党こうとう結成けっせいし、1がつ17にちみんせん議院ぎいん設立せつりつ建白けんぱくしょ』をひだりいん提出ていしゅつひがしアジアはつとなる国会こっかい開設かいせつ請願せいがんおこなったことにはじまる運動うんどうである[2]藩閥はんばつ政府せいふによる専制せんせい政治せいじ批判ひはんし、憲法けんぽう制定せいてい議会ぎかい開設かいせつ地租ちそ軽減けいげん不平等ふびょうどう条約じょうやく撤廃てっぱい言論げんろん自由じゆう集会しゅうかい自由じゆう保障ほしょうなどの要求ようきゅうかかげ、明治めいじ23ねん1890ねん)の帝国ていこく議会ぎかい国会こっかい開設かいせつ政府せいふ約束やくそくさせた。

自由じゆう民権みんけん運動うんどうみっつの段階だんかいけることができ、だいいち段階だんかいは1874ねん明治めいじ7ねん)の『民選みんせん議院ぎいん設立せつりつ建白けんぱくしょ』の提出ていしゅつから1877ねん明治めいじ10ねん)の西南せいなん戦争せんそうころまでであり、だい段階だんかい西南せいなん戦争せんそう以後いご、1884・1885ねん明治めいじ17, 8ねんごろまでが、この運動うんどう最盛さいせいである。だいさん段階だんかい条約じょうやく改正かいせい問題もんだい契機けいきとして、この条約じょうやく改正かいせいたいする条件じょうけん日本にっぽんにとって屈辱くつじょくてきであったため反対はんたいしたみんとうこしたいわゆる大同団結だいどうだんけつ運動うんどう中心ちゅうしんとした明治めいじ20ねん前後ぜんこう運動うんどうである[3]

独自どくじせい[編集へんしゅう]

自由じゆう民権みんけん運動うんどうは、維新いしん回天かいてん元勲げんくん板垣いたがき退助たいすけ億兆おくちょうやすなで国威こくい宣揚せんよう宸翰しんかんはい尊皇そんのう思想しそう基礎きそとし、明治天皇めいじてんのう箇条かじょう誓文せいもんはしらとして発展はってんしたもので、世界せかい自由じゆう主義しゅぎ思想しそうとは潮流ちょうりゅうことにする[4]とく誓文せいもんだいいちじょうひろ会議かいぎおこまん公論こうろんけっすべし」の文言もんごん重視じゅうしされ、国会こっかい開設かいせつおよび憲法けんぽう制定せいてい根拠こんきょとされた[4]

ちん󠄂幼弱ようじゃく󠄁ヲ以テにはかだいみつるキ、爾來じらいなにヲ以テ萬國ばんこく對立たいりつシ、れつ󠄁ニことつかたてまつまつランヤトあさ󠄁ゆうおそれ󠄁懼ニこらえヘザルナリ。ひそかこうかんがふルニ、中葉ちゅうようあさ󠄁せいおとろえ󠄁おとろへテヨリ、武家ぶけけんせんもっぱらニシ、おもてニハあさ󠄁廷󠄁ヲ推尊󠄁シテ、じつけいシテとお󠄁ケ、億兆おくちょうちち󠄁ははトシテ、ぜっ赤子あかごじょう󠄁ヲルコトのうあたハザルようやうけいリナシ、とげ󠄂ニ億兆おくちょうきみタルモただめいノミニなり󠄁リはてテ、其ガため今日きょうあさ󠄁廷󠄁ノみこと󠄁じゅうばいセシガ如クニテあさ󠄁ばいますますおとろえ󠄁へ、上下じょうげしょうはなれルヽコト霄壤せうじやうノ如シ。かか形勢けいせいニテ、なにヲ以テ天下でんか君臨くんりんセムヤ。今般こんぱんあさ󠄁せい一新いっしんときあたリ、天下てんかおくちょういちにんモ其所󠄁ヲとくザルハ、みなちん󠄂ガざいナレバ、今日きょうことちん󠄂みづかこつろうシ、こころこころざしくるしメ、艱難かんなん󠄀かんなんさきだてチ、ふるいにしへれつ󠄁ノつきつくサセきゅうヒシあとくつミ、あとつとむ󠄁メテコソはじめはじめ天職てんしょくたてまつジテ、億兆おくちょうきみタルしょ󠄁ニそむカザルベシ。往󠄁むかしれつ󠄁まんおやみづかラシ、しんもの󠄁ものアレバ、はたトシテせいきゅうたまヒ、あさ󠄁廷󠄁ノせいまつりごとそうすべテ𥳑えきニシテ、かくごとみこと󠄁じゅうナラザル君臣くんしんあいおやあひしたシミ上下じょうげ相愛そうあいさうあいシ、德澤とくさわ天下でんかあまねあまねク、國威こくいうみ󠄀そとてるキシナリ。しかルニきん󠄁とし宇內だいおほいひらきケ、各國かっこく四方しほうしょう雄飛ゆうひスルノとうあたリ、どくひとわがくに󠄂わがくにノミ世界せかい形勢けいせいうとうとク、舊習きゅうしゅう󠄁ヲ固守こしゅシ、一新いっしんこうつとめヲハカラズ、ちん󠄂いたづらきゅうじゅうちゅう安居あんきょあんきよシ、いちにちやすキヲぬすミ、ひゃくねんうれひ忘󠄁わするハ、とげ󠄂ニ各國かっこくしのげあなど󠄁あなどりヲ受󠄁ケ、うえ列聖れっせい󠄁ヲはずかしめシメきゅうリ、しもおくちょうメンコトヲおそれ󠄁ル。ちん󠄂コヽニ百官ひゃっかんしょ󠄀ほうこうしょうちかいヒ、れつ󠄁ノえら󠄁ぎょうつぎじゅつ󠄁シ、一身いっしん艱難かんなん󠄀辛苦しんくといハズ、おや四方しほう經營けいえいシ、なんじ億兆おくちょうやすなでシ、とげ󠄂ニまんなみ濤ヲ開拓かいたくシ、國威こくい四方しほう宣布せんぷシ、天下てんか富嶽ふがくやすキニおけカムコトヲよくス。なんじ億兆おくちょう舊來きゅうらいノ陋習󠄁ニ慣レ、みこと󠄁じゅうノミヲあさ󠄁廷󠄁ノことトナシ、かみ󠄀しゅうノ危󠄁きゅう󠄁ヲラズ、ちん󠄂いちひとたびあしきょあげレバ非常ひじょうおどろきキ、たねくさぐさ疑惑ぎわくなまジ、まんくちまがえ󠄁紜ばんこうふんうんトシテ、ちん󠄂ガこころざしヲナサヾラシムルハ、ちん󠄂ヲシテくんタルどう󠄁ヲしつハシムルノミナラズ、したがえれつ󠄁ノ天下てんかしつハシムルナリ。なんじ億兆おくちょうのうちん󠄂ガこころざし體認たいにん󠄁たいにんシ、そうりつ󠄁あひひきヰテ私見しけんリ、おおやけ󠄁󠄁リ、ちん󠄂ガぎょうすけたすケテしん󠄀しゅう保全ほぜん󠄁シ、列聖れっせい󠄁ノかみ󠄀れいヲ慰メたてまつラシメバ生前せいぜん󠄁ノ幸甚こうじんナラム[5] — 『億兆おくちょうやすなで国威こくい宣揚せんようの(明治天皇めいじてんのう)宸翰しんかん[6]

自由じゆう民権みんけん例外れいがいなく尊皇そんのうであったのは、その主導しゅどうしゃである板垣いたがき退助たいすけ影響えいきょうおおきい[7]板垣いたがきは「君主くんしゅ」は「みん」をほんとするので「君主くんしゅ主義しゅぎ」と「民本主義みんぽんしゅぎ」は対立たいりつせずどういち不可分ふかぶんであるといた[8]。これらの論旨ろんし説明せつめいには「天賦てんぷ人権じんけんせつ」がしばしばもちいられている[9]東北とうほく地方ちほうでは河野こうの広中ひろなか北陸ほくりくでは杉田すぎた定一さだいち九州きゅうしゅうでは頭山とうやまみつるらが活躍かつやくしたが、初期しょきにおいて自由じゆう民権みんけん運動うんどう参加さんかしたものは、いずれも板垣いたがき薫陶くんとうけたものから派生はせいしている[10]世界せかい自由じゆう主義しゅぎ思想しそうは、キリスト教きりすときょう神学しんがく聖書せいしょ解釈かいしゃく個人こじん主義しゅぎなどをともなって発展はってんしたものがおおなかで、日本にっぽん自由じゆう主義しゅぎ愛国あいこく主義しゅぎ(Patriotism)と密接みっせつむすびついており、単純たんじゅんリベラリズム(Liberalism)と翻訳ほんやく出来できない特徴とくちょうゆう[7][10]

内藤ないとう魯一三河みかわ交親しゃ
杉田すぎた定一さだいちさとがくしゃ
河野こうの広中ひろなかさんしゃ

前史ぜんし[編集へんしゅう]

書契しょけい事件じけん[編集へんしゅう]

明治めいじ政府せいふ樹立じゅりつされると、日本にっぽんはそのむねつたえるため、朝鮮ちょうせんたい国書こくしょおくるが朝鮮ちょうせん江戸えど時代じだいつうじて、そうとおして伝達でんたつおこなわれていたためりを拒否きょひ。そこで、あらためて対馬つしまはんそうかいおくった。しかし、従来じゅうらい使用しようされていなかった印鑑いんかん使つかわれ、国書こくしょなかに「ひだり近衛このえ少将しょうしょう」「朝臣あそん」「すめらぎ」「奉勅ほうちょく」などの用語ようご使用しようされていたことや「れい曹参ばん」への呼称こしょうなどが従来じゅうらい書契しょけい形式けいしきことなることなどにたいして朝鮮ちょうせんがわ難色なんしょくしめし、国書こくしょ受理じゅり拒否きょひした[11]

当時とうじ日本にっぽん西欧せいおう列強れっきょうせまっていたひがしアジア諸国しょこくなかで、逸早いちはや開国かいこく明治維新めいじいしんによって近代きんだい国家こっか目指めざし、西欧せいおう諸国しょこくのみならず、自国じこく周辺しゅうへんのアジア諸国しょこくとも近代きんだいてき国際こくさい関係かんけい樹立じゅりつしようとしておくった国書こくしょであったが、開明かいめいてきかんがかた日本にっぽんくらべ、閉鎖へいさてききゅう時代じだいてきかんがかたにたつ朝鮮ちょうせんは、日本にっぽんおくった国書こくしょ書式しょしき書契しょけい)に「すめらぎ」や「みことのり」の文字もじがあったため、日本にっぽん意図いと曲解きょっかいしてりを拒否きょひしたのである。中華ちゅうか思想しそうにおけるさつふう体制たいせいでは「すめらぎじょう」や「奉勅ほうちょく」という用語ようご中国ちゅうごく王朝おうちょうにのみゆるされた用語ようごであって、日本にっぽんがそれを使用しようするということは、さつふう体制たいせい頂点ちょうてん朝鮮ちょうせんよりも日本にっぽん国際こくさい地位ちいうえとすることを画策かくさくしたと朝鮮ちょうせんとらえたのである(書契しょけい事件じけん[10]

朝鮮ちょうせん外交がいこう問題もんだい[編集へんしゅう]

書契しょけい問題もんだい膠着こうちゃくするなか朝廷ちょうてい直交ちょっこう実現じつげんすべく朝鮮ちょうせん外交がいこう権限けんげん外務省がいむしょう一元化いちげんかし、対馬つしまそう除外じょがいしてすめらぎ使派遣はけんすべきだとの意見いけん維新いしん政府せいふないつよまった。その前提ぜんていとして調査ちょうさ目的もくてき佐田さた白茅ちがやらが派遣はけんされたが、かれ帰国きこくののち1870ねん明治めいじ3ねん)「30大隊だいたいをもって朝鮮ちょうせん攻撃こうげきすべきだ」というせいかん建白けんぱくしょ提出ていしゅつする[2]

局面きょくめん打開だかいのため、外務省がいむしょうたいうまはじめとおして朝鮮ちょうせん外交がいこう一本いっぽんすすめるそう派遣はけん計画けいかく1871ねん明治めいじ4ねん)2がつ)や柳原やなぎはら前光さきみつ清国きよくに派遣はけん(1871ねん明治めいじ4ねん)8がつ政府せいふとう対論たいろん)など複数ふくすう手立てだてをこうじ、同年どうねん9がつ13にちには清国きよくににちしん修好しゅうこう条規じょうき締結ていけつされるにおよんだ。しかしながら、1871ねん明治めいじ4ねん)4がつアメリカ艦隊かんたい江華島こうかとう砲台ほうだい占領せんりょう朝鮮ちょうせんがわがこれを奪還だっかんする事態じたいしょうじ(からしよう[注釈ちゅうしゃく 1])、朝鮮ちょうせん攘夷じょうい意思いしつよめていたこともあって交渉こうしょう進展しんてんしなかった。1871ねん明治めいじ4ねん)のすえからは岩倉いわくら使節しせつだん西欧せいおう派遣はけんされることとなり、国政こくせい外交がいこうかんする重要じゅうよう案件あんけん1873ねん明治めいじ6ねんあきまで事実じじつじょう棚上たなあげとなった[2]

せいかん論争ろんそう[編集へんしゅう]

せいかん議論ぎろん1877ねん明治めいじ10ねん鈴木すずきみのるもとさく

欧米おうべい近代きんだい国家こっか政治せいじ産業さんぎょう発展はってんじょうきょう視察しさつし、明治めいじ6ねん1873ねん9月13にち帰国きこくした岩倉いわくら具視ともみらは、帰国きこく会議かいぎで、留守るす政府せいふ首脳しゅのうであった西郷さいごう隆盛たかもり板垣いたがき退助たいすけらが朝鮮ちょうせん開国かいこく問題もんだい解決かいけつのためには武力ぶりょく行使こうしもあえてさないという強硬きょうこうろんせいかんろん)をとなえたのにたいし、海外かいがい事情じじょう実見じっけんした大久保おおくぼ木戸きどらはうち優先ゆうせんろんとなえて反対はんたいせいかんろん否決ひけつになった。そのため、西郷さいごう板垣いたがき後藤ごとう象二しょうじろう江藤えとう新平しんぺい副島そえじま種臣たねおみせいかん参議さんぎがそろって辞職じしょく官僚かんりょう600めいせいかんろん否決ひけつ抗議こうぎして一斉いっせいかんした[10]明治めいじろくねん政変せいへん)。

経緯けいい[編集へんしゅう]

運動うんどうはじまり[編集へんしゅう]

みんせん議院ぎいん設立せつりつ建白けんぱくしょ序文じょぶん

下野げやしたせいかん箇条かじょう誓文せいもんだいいちじょうひろ会議かいぎおこまん公論こうろんけっすべし」の文言もんごんもと有司ゆうし専制せんせい批判ひはんして結集けっしゅうけ、明治めいじ7ねん1874ねん1がつ12にち板垣いたがき退助たいすけ後藤ごとう象二しょうじろう江藤えとう新平しんぺい副島そえじま種臣たねおみらが愛国あいこく公党こうとう結成けっせい1がつ17にちみんせん議院ぎいん設立せつりつ建白けんぱくしょ政府せいふひだりいん提出ていしゅつした[2]


しんしんひとしふくして方今ほうこんほうこん政權せいけんせいけんするところ󠄁ところさつするに、うえかみみかど󠄁しつすめらみことざいらず、したしも人民じんみんおほみたからざいらず、しかどくひと有司ゆうしす。おっと有司ゆうしうえみかど󠄁しつすめらみことみこと󠄁たつとぶとはざるにあらず、しかしてみかど󠄁しつやややうやそのみこと󠄁さかえそんえいしつうしなふ。した人民じんみんおほみたからたもつとはざるにあららず、しか政令せいれいひゃくはしあさ󠄁くれあらため政情せいじょう󠄁まことなり󠄁り、賞罰しょうばつ愛憎あいぞう󠄀あいざうづ。げん壅蔽、困苦こんくつぐるなし。おっと如是にょぜかくのごとくにして天下てんかあめのしたやすやすならんことよくほつす。三尺さんじゃく童子どうじなお󠄁なほその不可ふかふかなるをる。いんいんじようあらためあらためずば、おそれ󠄁おそらくは國家こっかくずし󠄁こくかどくわいいきおい𦤶いたさん。しんしんひとし愛國あいこくあいこくじょう󠄁なさけみづかやめのうあたはず、すなはこれこれすくいしんきゆうするのみち󠄁みちこう󠄁もとめするに、ただたゞ天下てんかおおやけ󠄁ちょうざい而已のみ天下てんかおおやけ󠄁ちょうるは、みんせんみんせんいんゐんだてつるにざい而已のみのりすなは有司ゆうしけんかぎりかぎところ󠄁ところにあつて、しかして上下じょうげ安全あんぜん󠄁しやうかあんぜん幸福こうふく󠄁かうふく受󠄁うくもの󠄁ものあらん。請󠄁とげ󠄂ついこれこれひねちんぜん。 — (『みんせん議院ぎいん設立せつりつ建白けんぱくしょ冒頭ぼうとう)
いま政治せいじだれのためにおこなわれているのか、われ一同いちどう見解けんかいを、おそれながらもうげますと、うえ天皇陛下てんのうへいかためおんためでもなく、した一般いっぱん国民こくみんのためでもなく、ひとにぎりの政治せいじのためのものになってしまっております。その政治せいじは、天皇陛下てんのうへいかけいうやまっているとはなんがたく、そのため、次第しだい天皇てんのう尊厳そんげんをもむしばんでおります。また、かとって国民こくみんのためになにかをしているともなんがたく、政令せいれいはバラバラで、朝令暮改ちょうれいぼかい横行おうこうしいるのが現実げんじつです。賞罰しょうばつ公平こうへいではなく、個人こじんてききらいで判断はんだんためされ、抗議こうぎをしようとしても、その意見いけん遮断しゃだんされ、苦情くじょうじゅつべるじゅつすべもありません。このような状態じょうたいで、天下てんか安寧あんねいあんねいおさまるでしょうか。そのような状況じょうきょうではとうてい無理むりだとおさな子供こどもでもかるはずです。このふるいしきたりをいまあらためあらためなければ、国家こっか崩潰ほうかいしてしまうでしょう。われ一同いちどうは、愛国心あいこくしんおさえきることが出来できず、どうすればこの国難こくなんすくうことが出来できるのか話合はなしあった結果けっか日本にっぽんこくうち様々さまざまひとから意見いけんもとめる方法ほうほうしかなく、様々さまざまひとから意見いけんもとめて政治せいじおこなうには、みんせん議院ぎいん設立せつりつするしか方法ほうほうはありません。これによって、専制せんせいおこなっている一部いちぶ政治せいじ権力けんりょく制限せいげんし、結果けっかとして天皇てんのう国民こくみん関係かんけい絶妙ぜつみょうたもたれ、たがいに幸福こうふく享受きょうじゅできるのではないでしょうか。おそれながら、我々われわれかんがえた結論けつろんもうげる次第しだいです。 — (『みんせん議院ぎいん設立せつりつ建白けんぱくしょ髙岡こう太郎たろう現代げんだいやく

板垣いたがき退助たいすけらの建白けんぱくしょは、時期じき尚早しょうそうとして却下きゃっかされたが、この建白けんぱくしょがイギリスじんのブラックによる新聞しんぶん日新にっしんこと』にせられたことで、国会こっかい開設かいせつ問題もんだい世間せけんられることになり、民選みんせん議院ぎいん設立せつりつすべきかかの論戦ろんせん新聞しんぶん紙上しじょうわされることとなった[12]

愛国あいこく公党こうとう諸氏しょしは、たがいに地元じもとかえり、自分じぶん地盤じばんかためることから活動かつどうすることにけっし、板垣いたがき土佐とさぜい高知こうちもどって立志りっししゃ設立せつりつした[10]

大阪おおさか会議かいぎ[編集へんしゅう]

大阪おおさか会議かいぎ開催かいさいにある大久保おおくぼ利通としみちうえひだり木戸きど孝允たかよし上中かみなかひさし板垣いたがき退助たいすけうえみぎ伊藤いとう博文ひろぶみしもひだり井上いのうえかおるしもみぎ)のレリーフ
大阪おおさか大阪おおさか中央ちゅうおう北浜きたはま

明治めいじ8ねん1875ねん)、板垣いたがき退助たいすけは、国会こっかい開設かいせつ運動うんどう全国ぜんこく組織そしき拡大かくだいすることを目指めざし、大阪おおさか愛国あいこくしゃ結成けっせい奔走ほんそう。そのなかで「国会こっかい開設かいせつ本気ほんき目指めざすのであれば、なぜ参議さんぎ辞職じしょくしたのか、政府せいふなか改革かいかくすればかったのではないか」との批判ひはんもあり、大阪おおさか会議かいぎ結果けっか板垣いたがき政府せいふないから国会こっかい開設かいせつ目的もくてきたす戦略せんりゃくかんがえ、参議さんぎ復職ふくしょく。このとき板垣いたがき西郷さいごう隆盛たかもり同時どうじ参議さんぎ復職ふくしょくすることを大久保おおくぼらに約束やくそくさせる。しかし、西郷さいごう板垣いたがきからの書簡しょかんりを拒否きょひし、さらに書簡しょかん持参じさんした使者ししゃ居留守いるす使つかってまでかえすというなぞ行動こうどうたため、西郷さいごう参議さんぎ復帰ふっきしなかった[10]

一定いってい成果せいかげるが、愛国あいこくしゃ中心ちゅうしんとなる板垣いたがき公職こうしょくいたため活動かつどう出来でき資金しきんなんにより、一旦いったん消滅しょうめつする。

不平ふへい士族しぞくらん[編集へんしゅう]

江藤えとう新平しんぺい建白けんぱくしょ直後ちょくご士族しぞく反乱はんらん佐賀さがらん(1874ねん)をこし、死刑しけいとなっていることでられるように、この時期じき自由じゆう民権みんけん運動うんどう政府せいふ反感はんかん士族しぞくらに基礎きそき、士族しぞく民権みんけんばれる。士族しぞく民権みんけん武力ぶりょく闘争とうそう紙一重かみひとえであった。

武力ぶりょくもちいる士族しぞく反乱はんらんうごきは明治めいじ10ねん1877ねん)の西南せいなん戦争せんそう頂点ちょうてんたっし、西郷さいごう隆盛たかもりへいげたことにじょうじて挙兵きょへいしようとするうごきが立志りっし社内しゃないでも発生はっせい幹部かんぶ逮捕たいほされてしまう(立志りっししゃごく)。

運動うんどう高揚こうよう[編集へんしゅう]

伊勢いせ暴動ぼうどう(1876ねん
演説えんぜつかい光景こうけい

明治めいじ11ねん(1878ねん)、板垣いたがき退助たいすけ愛国あいこくしゃ再興さいこうし、明治めいじ13ねん(1880ねん)のだいよんかい大会たいかい国会こっかい期成きせい同盟どうめい結成けっせいされ、国会こっかい開設かいせつ請願せいがん建白けんぱく政府せいふ多数たすう提出ていしゅつされた。地租ちそ改正かいせいかかげることで、運動うんどう不平ふへい士族しぞくのみならず、農村のうそんにも浸透しんとうしていった。とく各地かくち農村のうそん指導しどうしゃそうには地租ちそ重圧じゅうあつ負担ふたんであった。これにより、運動うんどうぜん国民こくみんてきなものとなっていった。

この時期じき農村のうそん指導しどうしゃそう中心ちゅうしんにした段階だんかい運動うんどう豪農ごうのう民権みんけんという。豪農ごうのう民権みんけん自由じゆう民権みんけん運動うんどう主体しゅたいとなった背景はいけいには、明治めいじ9ねん(1876ねん)地租ちそ改正かいせい反対はんたい一揆いっき士族しぞく反乱はんらんむすぶことをおそれた政府せいふによる地租ちそ軽減けいげんと、西南せいなん戦争せんそう戦費せんぴおぎなうために発行はっこうされた不換紙幣ふかんしへい増発ぞうはつによるインフレーションにより、農民のうみんそう租税そぜい負担ふたん減少げんしょうし、政治せいじ運動うんどうおこな余裕よゆうしょうじてきたことがげられる[13]実際じっさい交通こうつう事情じじょう整備せいび当時とうじ各地かくち自由じゆう民権みんけんとの連絡れんらく往復おうふくにはかなりの経済けいざいてき余裕よゆう必要ひつようとしていた。これら富農ふのうそう中心ちゅうしんとなった運動うんどうだけに、政治せいじてき要求ようきゅう項目こうもくとして民力みんりょく休養きゅうよう地租ちそ軽減けいげん上位じょういとなるのは必然ひつぜんであった。また、士族しぞく民権みんけん豪農ごうのう民権みんけんほかにも、都市としブルジョワそう貧困ひんこんそう博徒ばくと集団しゅうだんいたるまで当時とうじ政府せいふ方針ほうしん批判ひはんてき多種たしゅ多様たよう立場たちばからの参加さんかおおられた。

民権みんけん運動うんどうがりにたいし、政府せいふ明治めいじ8ねん(1875ねん)には讒謗ざんぼうりつ新聞紙しんぶんし条例じょうれい公布こうふ明治めいじ13ねん(1880ねん)には集会しゅうかい条例じょうれいなど言論げんろん弾圧だんあつ法令ほうれい対抗たいこうした。

わたしなずらえ憲法けんぽう[編集へんしゅう]

国会こっかい期成きせい同盟どうめいではくにやく憲法けんぽうろんかかげ、その前提ぜんていとしてみずか憲法けんぽうつくろうと、よく明治めいじ14ねん(1881ねん)までに私案しあんることを決議けつぎした。板垣いたがき退助たいすけわたしなずらえ憲法けんぽう作成さくせい意図いとについて『我国わがくに憲政けんせい由来ゆらい』でつぎのようにべている。

國家こっか根本こんぽんほうたるけん󠄁ほうは、君主くんしゅ󠄁と人民じんみんとのいち𦤶もと(もとづ)いてていむべく、くにやく󠄁けん󠄁ほうとはこれ(これ)をいい(い)ふなり。すなわるべしくにやく󠄁けん󠄁ほうとは君民同治くんみんどうちかみ󠄀ずいなることを。(ゆえ)に苟(いやし)くも我國わがくにけん󠄁ほう制定せいていせんとほっせばさきけん󠄁ほう制定せいていためめの國民こくみん議會ぎかいひらかざるからずと。しん皇室こうしつ安泰あんたい人民じんみんぶく󠄁祉󠄁おもんばか(おもんぱか)り、この金甌無缺きんおうむけつ國家こっか永遠えいえん󠄁に維持いじせんがためめに、萬世ばんせい不易ふえき根本こんぽんほうさだめんとするもの。 — 『わが國憲こっけん󠄁せい由來ゆらい板垣いたがき退助たいすけしる

これらの影響えいきょうにより憲法けんぽう草案そうあんかんがえるグループが全国ぜんこくてき誕生たんじょうし、明治めいじ14ねん(1881ねん)に交詢社こうじゅんしゃは『わたしなずらえ憲法けんぽうあん』を編纂へんさん発行はっこうし、植木うえき枝盛えもりわたしなずらえ憲法けんぽう東洋大とうようだい日本国にっぽんこく国憲こっけん』を起草きそうした。昭和しょうわ43ねん(1968ねん)に東京とうきょう五日市いつかいちまちげんあきる)の農家のうか土蔵どぞうから発見はっけんされて有名ゆうめいになった『五日市いつかいち憲法けんぽう』は地方ちほうにおける民権みんけん運動うんどうたかまりと思想しそうてき深化しんかしめしている。

明治めいじじゅうよんねん政変せいへん政党せいとう結成けっせい[編集へんしゅう]

明治めいじ14ねん(1881ねん)、10ねん帝国ていこく議会ぎかい開設かいせつするという国会こっかい開設かいせつみことのりされたのをに、国会こっかい期成きせい同盟どうめいだいさんかい大会たいかい自由党じゆうとう結成けっせいされされて板垣いたがき退助たいすけ総理そうり(党首とうしゅ)となる。

また参議さんぎ大隈おおくま重信しげのぶは、政府せいふない国会こっかい早期そうき開設かいせつとなえていたが、明治めいじ14ねん(1881ねん)にこった明治めいじじゅうよんねん政変せいへんで、参議さんぎ伊藤いとう博文ひろぶみらによって罷免ひめんされ、下野げやしていたが、大隈おおくま明治めいじ15ねん(1882ねん)に立憲りっけんあらためしんとう組織そしき総理そうり(党首とうしゅ)となった。

自由党じゆうとう尊王そんのうろん[編集へんしゅう]

板垣いたがき退助たいすけは、明治めいじ15ねん(1882ねん)3がつ、『自由党じゆうとう尊王そんのうろん』をあらわし、自由じゆう主義しゅぎ尊皇そんのう主義しゅぎ同一どういつであることを力説りきせつ自由じゆう民権みんけん意義いぎいた。

尊王そんのういえおおしと雖(いえど)もわれ(わが)自由党じゆうとうごとき(尊王そんのうは)あらざるべし。忠臣ちゅうしんすくなからずと雖も、われ自由党じゆうとうごとき(忠臣ちゅうしん)はあらざるべし。(中略ちゅうりゃく)われとうわが 皇帝こうてい陛下へいかをしてえいみかどみことさかえたもたしめんとほっするもの也。(中略ちゅうりゃく)われとうふかわが 皇帝こうてい陛下へいかしんたてまつもの也。またかた我国わがくに千歳ちとせたれるるをしんずるもの也。われとうもっとわが 皇帝こうてい陛下へいか明治めいじ元年がんねんさんがつじゅうよんにち誓文せいもん(箇条かじょう誓文せいもん)、どうはちねんよんがつじゅうよんにち立憲りっけん詔勅しょうちょく、及客ねんじゅうがつじゅうにちみことのりさとししんたてまつもの也。すでわが 皇帝こうてい陛下へいかには「ひろ会議かいぎおこまん公論こうろんけっすべし」とせん(のたま)ひ、また旧来きゅうらいの陋習をやぶ天地てんち公道こうどうもとづくべし」とせん(のたま)ひたり。われとうかた(もと)よりわが 皇帝こうてい陛下へいかこれ(これ)を履行りこうし、これ(これ)を拡充かくじゅうきゅうふをしんずる也。また立憲りっけん政体せいたいなんじしゅ庶と俱(とも)に其慶こうよりゆき(たよ)らんとほっす。(中略ちゅうりゃく)すで立憲政体りっけんせいたいてさせきゅうひ、其慶こうたよらんとせん以上いじょうは、またわれとう自由じゆうあずかわれとうをして自由じゆうみんたらしめんとほっするの叡慮えいりょなることをしんずる也。(中略ちゅうりゃく)きょう客年かくねんじゅうがつひじりさとしごときあり。断然だんぜんじゅうさんねんもっ代議士だいぎし国会こっかい開設かいせつせんとあきらだんあるにおいておや。(中略ちゅうりゃく)ゆえわれとう平生へいぜい自由じゆうとな権利けんり主張しゅちょうするものことごと仁慈じんじ 皇帝こうてい陛下へいか詔勅しょうちょくしんまつり、いちてん(の)私心ししんを(も)其間にはさまざるもの也。(中略ちゅうりゃく)斯(かく)のごとくにしてわれとうは 皇帝こうてい陛下へいかしんじ、わが 皇帝こうてい陛下へいかところしたがえふて、此立憲政体りっけんせいたいけいこうたよらんとほっするもの也。(中略ちゅうりゃく)方今ほうこんささえ、魯西(ロシア)、みみいにしえ(トルコ)しょくに形状けいじょうさっすれば、其帝おう驕傲きょうごう無礼ぶれいにして人民じんみん軽侮けいぶあくたこれ人民じんみんは其帝おうかしこ懼し、あるいは怨望し雷霆らいていごとく、讎敵のごとくし、ゆえ君民くんみん上下じょうげあいだおいて曾(かつ)て其親睦しんぼく愛情あいじょうくだりはるることなし。(中略ちゅうりゃく)いまわれとうわが日本にっぽん 皇帝こうてい陛下へいか尊崇そんすうする所以ゆえん(ゆえん)は、かた(もと)よりささえみみいにしえ(トルコ)のごときをほっせざる也。まただい(おおい)に魯西(ロシア)のごときをこのまざる也。われとうわが人民じんみんをして自由じゆうみんたらしめ、わがくにをして文明ぶんめいくにくらいし、(皇帝こうてい陛下へいかを)自由じゆう貴重きちょうみんじょう君臨くんりんせしめ、無上むじょう光栄こうえいたもち、無比むひ尊崇そんすうけしめんと企図きとするもの也。(中略ちゅうりゃく)われとう平生へいぜいかた聖旨せいしほうじ、自由じゆう主義しゅぎり、政党せいとう組織そしきし、国事こくじ奔走ほんそうする所以ゆえん(ゆえん)也。乃(すなわ)ち皇国こうこく千載せんざいつたへ、皇統こうとう無窮むきゅうしだれんとほっする所以ゆえん(ゆえん)なり。真理しんりほぐせず、ときじょうさとらず、固陋ころうみずかかえりみず、妄(みだ)りに尊王そんのう愛国あいこくを唱へ、却(かえっ)て聖旨せいしたがえ(たが)ひ、立憲政体りっけんせいたい準備じゅんび計画けいかく防遏ぼうあつ(ぼうあつ)し、すめらぎりつゐて危難きなん深淵しんえんのぞまんとほっするもの同一どういつすべからざる也。われとう古今ここん尊王そんのういえおおしと雖(いえど)もわが自由党じゆうとうごとくはし、古今ここん忠臣ちゅうしん義士ぎし尠(すくな)からずと雖もわが自由党じゆうとう諸氏しょしちゅうあい真実しんじつなるに如(し)かずとため(な)す所以ゆえん(ゆえん)なり。 — 『自由党じゆうとう尊王そんのうろん板垣いたがき退助たいすけしる

板垣いたがき退助たいすけ岐阜ぎふ遭難そうなん事件じけん[編集へんしゅう]

板垣いたがき退助たいすけ岐阜ぎふ遭難そうなん事件じけん
板垣いたがきすとも自由じゆうせず
板垣いたがき退助たいすけひゃく回忌かいきさい安倍晋三あべしんぞう揮毫きごう

板垣いたがき退助たいすけ全国ぜんこく遊説ゆうぜいしてまわり、党勢とうせい拡大かくだいつとめていた明治めいじ15ねん(1882ねん)4がつ6にち岐阜ぎふ遊説ゆうぜいちゅう暴漢ぼうかん相原あいはらしょうおそわれ負傷ふしょうした(岐阜ぎふ事件じけん)。そのさい板垣いたがきおそわれたあとに竹内たけうちつないだきかかえられつつがり、出血しゅっけつしながら「われスルトモ自由じゆうセン」と[注釈ちゅうしゃく 2][14]、これがやがて「板垣いたがきすとも自由じゆうせず」という表現ひょうげんひろつたわることになった。この事件じけんさい板垣いたがき当時とうじ医者いしゃだった後藤ごとう新平しんぺい診療しんりょうけており、後藤ごとうは「かく本懐ほんかいでございましょう」とべ、療養りょうようかれせいざい見抜みぬいた板垣いたがきは「かれ政治せいじにできないのが残念ざんねんだ」とかたっている[15]

板垣いたがきすとも自由じゆうせず」という有名ゆうめい言葉ことばは、板垣いたがき襲撃しゅうげきけたさいさけんだものである。

板垣いたがき自身じしんしるしているものによれば、

(板垣いたがき)は人々ひとびと黙礼もくれいしてさんづるや、たちまいち壮漢そうかんあり『国賊こくぞく』とびつつみぎかたよこあいよりおどらいつて、短刀たんとうひらめかしてむねす。(中略ちゅうりゃく)内藤ないとう魯一、驀奔しきた兇漢きょうかんの頸(くび)を攫(つか)んでおおせむこうこれ(これ)をたおす。白刃はくじんやみを剪いてすうそとに墜つ。(板垣いたがき)、刺客しかく睥睨へいげいしていわく『板垣いたがきすとも自由じゆうせず』と。刺客しかく相原あいはらしょうといふしゃ…(以下いかりゃく)」 — (『わが國憲こっけん󠄁せい由來ゆらい板垣いたがき退助たいすけちょ[16])

4がつ6にち事件じけんすぐにされた4がつ11にちづけの『大阪おおさか朝日新聞あさひしんぶん』は、事件じけん現場げんばにいあわせた小室こむろ信介しんすけいたものであるが「板垣いたがきは『板垣いたがきすとも自由じゆうほろびませぬぞ』とさけんだ」としるされており[17]他紙たし報道ほうどう同様どうようで、東京とうきょうの『有喜うき新聞しんぶん』では「兇徒きょうとにらみつけ『板垣いたがきすとも自由じゆう精神せいしんけっしてせざるぞ』とげんはるゝ」[18]ひとしとある。

また政府せいふがわ密偵みってい自由じゆう民権みんけん運動うんどう監視かんししていた立場たちば目撃もくげきしゃ岡本おかもと與吉よきち(岐阜ぎふけん御嵩みたけ警察けいさつしょ御用ごようかけ)の報告ほうこくしょにおいても、板垣いたがき自身じしん同様どうよう言葉ことば襲撃しゅうげきされたさいさけんだという記録きろく発見はっけんされ今日きょういたっている[19]

  • 板垣いたがきスルトモ自由じゆうほろびヒス」(自由党じゆうとう臨時りんじほうより)
  • われスルトモ自由じゆうセン」(岐阜ぎふけん御嵩みたけ警察けいさつ御用ごようかけ(政府せいふ密偵みってい)・岡本おかもと與吉よきち)の上申じょうしんしょより)
  • わがいまなんじしゅスルコトアラントモ自由じゆう永世えいせい不滅ふめつナルヘキゾ」(岐阜ぎふ県警けんけい部長ぶちょう報告ほうこくしょより)
  • なげだまふな板垣いたがきすとも自由じゆうほろびませぬぞ」(『大阪おおさか朝日新聞あさひしんぶん明治めいじ15ねん(1882ねん)4がつ11にちごう)- 事件じけん現場げんばにいた小室こむろ信介しんすけ筆記ひっき
  • 板垣いたがきすとも自由じゆう精神せいしんけっしてせざるぞ」(『有喜うき新聞しんぶん明治めいじ15ねん(1882ねん)4がつ11にちごう
  • 「たとい退助たいすけすとも自由じゆうせず[20]」 - 事件じけん現場げんばにいた岩田いわた徳義とくよし筆記ひっき

自由じゆう民権みんけん運動うんどう女性じょせい[編集へんしゅう]

1884ねんに「自由じゆうとう」で女性じょせい権利けんり確立かくりつうったえた「同胞どうほう姉妹しまいぐ」を発表はっぴょうした岸田きしだ俊子としこや「東洋とうようのジャンヌ・ダルク」とひょうされた福田ふくだ英子えいこらの運動うんどう著名ちょめいである。これらの運動うんどう日本にっぽん女性じょせい解放かいほう運動うんどう先駆さきがけであった。女性じょせい参政さんせいけんもとめて運動うんどうをした高知こうち楠瀬くすのせ喜多きた活動かつどうられている[21]

運動うんどうない分裂ぶんれつ[編集へんしゅう]

明治めいじじゅうよんねん政変せいへんによって、自由じゆう民権みんけん運動うんどう好意こういてきられてきた大隈おおくまをはじめとする政府せいふない急進きゅうしん一掃いっそうされ、政府せいふ伊藤いとう博文ひろぶみ中心ちゅうしんとする体制たいせいかためること成功せいこうして、結果けっかてきにはより強硬きょうこう運動うんどう弾圧だんあつさく環境かんきょうととのえることとなった。また伊藤いとうらは民権みんけん運動うんどう内部ないぶ分裂ぶんれつさそさくおこなった。後藤ごとう象二しょうじろうつうじて自由党じゆうとう総理そうり板垣いたがき退助たいすけ洋行ようこうすすめ、板垣いたがきがこれにおうじると、民権みんけん運動うんどう重要じゅうよう時期じき政府せいふからかねをもらって外国がいこく旅行りょこうする板垣いたがきへの批判ひはん噴出ふんしゅつ批判ひはんした馬場ばば辰猪たつい大石おおいし正巳まさみ末広鉄腸すえひろてっちょうらを板垣いたがきぎゃく自由党じゆうとうから追放ついほうするという措置そちたため、田口たぐち卯吉うきち中江なかえ兆民ちょうみんらまでも自由党じゆうとうからることとなった。またあらためしんとうけい郵便ゆうびん報知ほうち新聞しんぶんなども自由党じゆうとう三井みついとの癒着ゆちゃくふくめ、板垣いたがき批判ひはん板垣いたがき後藤ごとう出国しゅっこくには自由党じゆうとうけい自由じゆう新聞しんぶんぎゃくあらためしんとう三菱みつびしとの関係かんけい批判ひはんするなど泥仕合どろじあい様相ようそうていした[22]

激化げきか事件じけん運動うんどう衰退すいたい[編集へんしゅう]

加波山かばさん事件じけん志士ししはか茨城いばらきけん筑西

大井おおい憲太郎けんたろう内藤ないとう魯一など自由党じゆうとう急進きゅうしん政府せいふきびしい弾圧だんあつテロ蜂起ほうきさない過激かげき戦術せんじゅつをも検討けんとうしていた。また、松方まつかたデフレとう困窮こんきゅうした農民のうみんたちも国会こっかい開設かいせつまえ準備じゅんび政党せいとうした自由党じゆうとうたい不満ふまんをつのらせていた[注釈ちゅうしゃく 3]

こうした背景はいけいのもとに1881ねん明治めいじ14ねん)には秋田あきた事件じけん1882ねん明治めいじ15ねん)には福島ふくしま事件じけん1883ねん明治めいじ16ねん)には高田たかだ事件じけん1884ねん明治めいじ17ねん)には群馬ぐんま事件じけん加波山かばさん事件じけん秩父ちちぶ事件じけん飯田いいだ事件じけん名古屋なごや事件じけん1886ねん明治めいじ19ねん)には静岡しずおか事件じけんひとし全国ぜんこく各地かくちで「激化げきか事件じけん」が頻発ひんぱつした。また、大阪おおさか事件じけんもこうした一連いちれん事件じけん延長線えんちょうせんじょう位置いちづけられている。なお、政府せいふ1885ねん明治めいじ18ねん)1がつ15にち爆発ばくはつぶつ取締とりしまり罰則ばっそく施行しこうした。

1884ねんには自由党じゆうとう解党かいとうし、同年どうねんまつには立憲りっけんあらためしんとう大隈おおくまらが脱党だっとう事実じじつじょう分解ぶんかいするなど打撃だげきけた。

運動うんどう再開さいかいから国会こっかい開設かいせつ[編集へんしゅう]

国会こっかい議事堂ぎじどう(だいいちかり議事堂ぎじどう)

1886ねんにはほしとおるらによる大同団結だいどうだんけつ運動うんどう民権みんけん運動うんどうふたたがりをせ、中江なかえ兆民ちょうみん徳富とくとみ蘇峰そほうらの思想しそうてき活躍かつやくられた。よく1887ねん明治めいじ20ねん)には、さらに井上いのうえかおるによる欧化おうか主義しゅぎ基本きほんとした外交がいこう政策せいさくたいし、外交がいこうさく転換てんかん言論げんろん集会しゅうかい自由じゆう地租ちそ軽減けいげん要求ようきゅうしたさんだい事件じけん建白けんぱく運動うんどうこり、民権みんけん運動うんどうはげしさをした。これにたい政府せいふ保安ほあん条例じょうれい制定せいていあらためしんとう大隈おおくま外相がいしょう入閣にゅうかくおこなうことで運動うんどう沈静ちんせいし、1889ねん明治めいじ22ねん)の大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう制定せいていむかえた。よく1890ねん明治めいじ23ねん)にだい1かいそう選挙せんきょおこなわれ、帝国ていこく議会ぎかいひらかれた。以降いこう政府せいふ政党せいとう対立たいりつ議会ぎかいまれた。

評価ひょうか[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 朝鮮ちょうせん政府せいふ抗戦こうせん意思いし明確めいかくで、日本にっぽん仲介ちゅうかいもとめるうごきも期待きたいできず、アメリカ艦隊かんたい長崎ながさきから出航しゅっこうしている状況じょうきょうのなかでは日本にっぽんへの猜疑さいぎつよまる可能かのうせいもあった。
  2. ^ 当時とうじ岐阜ぎふけん御嵩みたけ(みたけ)警察けいさつしょ御用ごようかけであった岡本おかもと與吉よきちが、3月26にちから4がつ8にちまでの板垣いたがき一行いっこう動静どうせいをまとめて4がつ10日とおか御嵩みたけ警察けいさつ署長しょちょう提出ていしゅつした「探偵たんてい上申じょうしんしょ」に記載きさいされている。また岐阜ぎふ県警けんけい部長ぶちょう川俣かわまた正名まさな岐阜ぎふけんれいたいして提出ていしゅつした供覧きょうらん文書ぶんしょには、板垣いたがき刺客しかくたいして、自分じぶんぬことがあったとしても「自由じゆう永世えいせい不滅ふめつナルベキ」とわらった、と記録きろくされている。
  3. ^ 松方まつかたデフレにより、経済けいざいてき余裕よゆうのあった富農ふのうそう次第しだい運動うんどうへの熱意ねついうしないつつあった。稲田いなだ 2009、p.125。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 高松宮たかまつのみやのぼりじん親王しんのう行実ぎょうじつ』1933ねん、184ぺーじNDLJP:1212495/158
  2. ^ a b c d 自由黨じゆうとう板垣いたがき退助たいすけ監修かんしゅうしゃろう
  3. ^ 丸山まるやま真男まさお自由じゆう民権みんけん運動うんどう」(丸山まるやま真男まさおちょ戦中せんちゅう戦後せんごあいだ 1936-1957』みすず書房しょぼう 1976ねん)309ページ
  4. ^ a b 我国わがくに憲政けんせい由来ゆらい板垣いたがき退助たいすけちょ(所収しょしゅう明治めいじ憲政けんせい経済けいざい史論しろん国家こっか学会がっかいへん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく)
  5. ^ 億兆おくちょうやすなで国威こくい宣揚せんようの(明治天皇めいじてんのう)宸翰しんかん早稲田大学わせだだいがく所蔵しょぞう
  6. ^ 億兆おくちょうやすなで国威こくい宣揚せんよう宸翰しんかん謹解髙岡こう太郎たろう現代げんだいやく一般社団法人板垣退助先生顕彰会
  7. ^ a b 鈴木すずき安蔵あぞうは「板垣いたがき(退助たいすけ)くんなみ立志りっししゃ先輩せんぱい諸氏しょし武士ぶし階級かいきゅう教育きょういくそだった人々ひとびとであり、彼等かれらべるところの自由じゆう主義しゅぎとは『泰西たいせい大家たいか新説しんせつ』と日本にっぽん文化ぶんかによって醸熟された武士ぶしどう精神せいしん融合ゆうごうにより誕生たんじょうしたものである」とする。
  8. ^ 立国りっこく大本おおもと板垣いたがき退助たいすけちょだいさんしょう君民くんみん致なし「元來がんらいの聵々しゃりゅうは、君主くんしゅよしといひ、民本主義みんぽんしゅぎといふがく、かく一方いっぽうへんし、はじめより兩者りょうしゃあい對立たいりつせしめて議論ぎろんつるがゆえに、理論りろんじょう兩者りょうしゃしょう敵對てきたいするがごとかたちしょうじ、其爭の結果けっか社會しゃかい秩序ちつじょ紊亂びんらんするにいたる也。そもそも(板垣いたがき退助たいすけ)のところもってすれば、君主くんしゅ人民じんみんとはけっしてあいわかつべきものにあらず。なんとなれば君主くんしゅといひ人民じんみんといふも、けっして單獨たんどく存在そんざいするものにあらずして、人民じんみんありての君主くんしゅ君主くんしゅありての人民じんみんなるをもって也。のりすで君主くんしゅといふうちには、人民じんみん意志いし綜合そうごう換言かんげんすれば輿論よろん結晶けっしょうたいといふ意味いみふくまれ、人民じんみんといふうちにはまたこれ統治とうちして其秩じょ維持いじするところの、最高さいこうけんもの存在そんざいすといふ意味いみふくまる。ゆえみんくしてきみるの理無わりなく、人民じんみんきの君主くんしゅいち空名くうめいたるにぎず。(中略ちゅうりゃく)專制せんせい君主くんしゅと雖も其理想りそうじつ人民じんみん撫育ぶいくし、其安寧あんねい幸福こうふくもとむるにり。ゆえ君主くんしゅ人民じんみんとはにあらずして一也かずやけっしてはじめよりあい敵對てきたいすべき性質せいしつのものにあらず。兩者りょうしゃはじめより其目的もくてきどううし、利害りがいひとしうせるものにして、あたか唇齒輔車しんしほしゃ關係かんけいり。(中略ちゅうりゃく)君主くんしゅよし神髓しんずいすなわりもなおさず民本主義みんぽんしゅぎ神髓しんずいたる也。(中略ちゅうりゃく)君主くんしゅといひわかくは民本主義みんぽんしゅぎしょうして、かたみあいそうふがごときは、そもそもあやまれるのはなはだしきものにして、君民くんみん同一どういつ目的もくてきもっあい契合けいごう融和ゆうわし、共同きょうどうして經綸けいりんくだりふべきものたることをるにかたからざるべし。而かもとくわがくに體制たいせいおいては、君民くんみん關係かんけいは恰かも親子おやこ關係かんけいごとく、先天的せんてんてきすでさだまり(中略ちゅうりゃく)わがくにおいては建國けんこくはじめより、君民くんみん一體いったいにして、きみ民心みんしん契合けいごうしてあいはなれず。これためめにわがくにざいてはごう禪讓ぜんじょうわかくは選擧せんきょ形式けいしきを躡むの必要ひつようく、人民じんみん總意そうい輿論よろんただちに君主くんしゅによりて象徴しょうちょうせられ民意みんいすなわきみきみすなわ民意みんいにして君民くんみんいちにしてけっしてき也」より。
  9. ^ 坂野さかのじゅん田原たはら総一朗そういちろう大日本帝国だいにっぽんていこく民主みんしゅ主義しゅぎ小学館しょうがくかん,2006ねん,190ぺーじ
  10. ^ a b c d e f 板垣いたがき精神せいしん”. 一般いっぱん社団しゃだん法人ほうじん 板垣いたがき退助たいすけ先生せんせい顕彰けんしょうかい (2019ねん2がつ11にち). 2020ねん11月1にち閲覧えつらん
  11. ^ 原田はらだ1997、142-150ぺーじ
  12. ^ 丸山まるやま真男まさおちょ戦中せんちゅう戦後せんごあいだ 1936 - 1957』みすず書房しょぼう 1976ねん 310ページ
  13. ^ 犬塚いぬづか 2005、pp.5-9。
  14. ^ っていましたか? 近代きんだい日本にっぽんのこんな歴史れきし|板垣いたがき退助たいすけ暗殺あんさつ未遂みすい事件じけん〜「板垣いたがきすとも自由じゆうせず」〜
  15. ^ 日本にっぽん有名ゆうめい一族いちぞく小谷野こやのあつし幻冬舎げんとうしゃ新書しんしょ、2007
  16. ^ 所収しょしゅう明治めいじ憲政けんせい経済けいざい史論しろん国家こっか学会がっかいへん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく、238ぺーじ
  17. ^ 原文げんぶん大野おおのおさむ次郎じろうらいたつてただちに板垣いたがきくんにひしときつき、「嗚呼ああ残念ざんねんなるかな」と一声いっせいさけびて落涙らくるいごとみぎそでを(板垣いたがき)くん身体しんたいよりしたた血潮ちしおにひたしてきしたうさま、熱心ねっしんあいじょうめんあふれてほとん名状めいじょうすべからざる有様ありさまなり。板垣いたがきくんはこのあいごえかるゝにあたまめぐらしてしずかにいわく「なげだまふな板垣いたがきすとも自由じゆうほろびませぬぞ」と。嗚呼ああ、この一言ひとこと我々われわれ自由じゆう記念きねんとして、もっ後世こうせいつてふべきものなり」(『大阪おおさか朝日新聞あさひしんぶん明治めいじ15ねん(1882ねん)4がつ11にちごう)
  18. ^ 原文げんぶんなお褧、ふたたとっかんとしてきみ(板垣いたがき)とともたおれしが、きみはとくはねきて、兇徒きょうとにらみつけ『板垣いたがきすとも自由じゆう精神せいしんけっしてせざるぞ』とげんはるゝ言葉ことばてざるに、またもや面部めんぶかかりたり」(『有喜うき新聞しんぶん明治めいじ15ねん(1882ねん)4がつ11にちごう
  19. ^ 板垣いたがき退助たいすけ暗殺あんさつ未遂みすい事件じけん ~「板垣いたがきすとも自由じゆうせず」~ アジア資料しりょう歴史れきしセンター
  20. ^ 原文げんぶんきみ神色しんしょく自若じじゃくごう平生へいぜいことならず、かえりみて諸氏しょしいたわりかついいいわく「たとい退助たいすけすとも自由じゆうせずだれがわがとうして「過激かげきなり」といふ。かれ、かえつてこの過激かげきのことをす」と」(『板垣いたがきくん岐阜ぎふ遭難そうなん記録きろく岩田いわた徳義とくよしちょ明治めいじ26ねん(1893ねん)
  21. ^ 女性じょせい活躍かつやく高知こうちから!『らんまん』にも登場とうじょう民権みんけんばあさん” 島崎しまざき和歌子わかこさんえんじる女性じょせい 史実しじつでは歴史れきしうごかしていた 2023ねん04がつ28にちNHK高知こうち放送ほうそうきょく
  22. ^ 詳説しょうせつ 日本にっぽん研究けんきゅう」:353ページ、山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ
  23. ^ 昭和しょうわ天皇てんのう、1977ねん昭和しょうわ52ねん)8がつ23にち会見かいけん
  24. ^ 昭和しょうわ天皇てんのう発言はつげんろく大正たいしょう9ねん昭和しょうわ64ねん真実しんじつ高橋たかはしひろしへん小学館しょうがくかん1989ねん、241ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]