エルンスト・ハンフシュテングル

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エルンスト・ハンフシュテングル

Ernst Hanfstaengl
1934ねん
生誕せいたん 1887ねん2がつ2にち
ドイツの旗 ドイツ帝国ていこく
バイエルン王国の旗 バイエルン王国おうこく ミュンヘン
死没しぼつ (1975-11-06) 1975ねん11月6にち(88さいぼつ
西ドイツの旗 西にしドイツ
バイエルン州の旗 バイエルンしゅう ミュンヘン
出身しゅっしんこう ハーバード大学だいがく
職業しょくぎょう 実業じつぎょう
肩書かたが ナチとう海外かいがい新聞しんぶん局長きょくちょう
政党せいとう 国民こくみん社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう
配偶はいぐうしゃ ヘレナ・エリーゼ・アデルハイト・ニーマイヤー
おや エドガー・ハンフシュテングルドイツばん
署名しょめい
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エルンスト・フランツ・セドウィック・ハンフシュテングル(Ernst Franz Sedgwick Hanfstaengl、1887ねん2がつ2にち - 1975ねん11月6にち)は、ドイツ実業じつぎょう政治せいじ国民こくみん社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう(ナチとう)で海外かいがい新聞しんぶんきょく局長きょくちょう(1931ねん-1937ねん)をつとめた[1]。1937ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく亡命ぼうめいし、だい世界せかい大戦たいせんなかにはアメリカ政府せいふたいどくアドバイザーをつとめた。愛称あいしょうはプッツィ[2]

来歴らいれき[編集へんしゅう]

アメリカ時代じだい[編集へんしゅう]

1887ねん2がつ2にちバイエルン王国おうこく首都しゅとミュンヘンまれる[1]ちちはミュンヘンの美術びじゅつ書籍しょせき出版しゅっぱん業者ぎょうしゃエドガー・ハンフシュテングルドイツばんははアメリカじんのカタリナ・ヴィルヘルミナ・ヘイネ。ははちち南北戦争なんぼくせんそう活躍かつやくしたジョン・セジウィック大将たいしょう従兄弟いとこである。ザクセン=コーブルク=ゴータ公国こうこくおおやけエルンスト2せいだいちちとなり、かれ名前なまえのエルンストをあたえられた。ハンフシュテングル大変たいへん裕福ゆうふく家庭かていであった。

アメリカハーバード大学だいがく留学りゅうがくし、1909ねんどう大学だいがく卒業そつぎょう[1][3]以降いこう10ねん以上いじょうにわたって、ニューヨーク居住きょじゅうしてハンフシュテングル家業かぎょうである美術びじゅつ書籍しょせき出版しゅっぱんぎょうのニューヨーク支店してん経営けいえいた。1920ねんロングアイランド在住ざいじゅうのヘレナ・エリーゼ・アデルハイト・ニーマイヤーと結婚けっこんした。だいいち世界せかい大戦たいせんのちにアメリカ政府せいふから「敵性てきせい外国がいこくじん」と看做みなされてニューヨーク支店してん接収せっしゅうされ、1922ねんにドイツへ帰国きこくした[4]

ナチとう時代じだい[編集へんしゅう]

アメリカ大使館あめりかたいしかん武官ぶかん補佐ほさトルーマン・スミス英語えいごばん大尉たいいからバイエルンしゅう活動かつどうしていた政治せいじアドルフ・ヒトラーについてらされ、ヒトラーの政治せいじ集会しゅうかい参加さんかした。そののうちにヒトラーの思想しそう傾倒けいとうしたという。ナチとうに1,000ドル献金けんきんおこない、ヒトラーと上流じょうりゅう階級かいきゅう窓口まどぐちとなった。ハンフシュテングルは冗談じょうだんきで道化どうけやくとしてヒトラーをたのしませることができた[5][1]。また美術びじゅつ精通せいつうしていたり、ピアノが得意とくいであったりしたこと芸術げいじゅつ気質きしつのヒトラーにとって好感こうかんてる要素ようそだった[5][4]。ヒトラーはハンフシュテングルあししげかようようになり、ハンフシュテングルのつまヘレナや息子むすこエゴンともしたしくなった[6]。ハンフシュテングルはヒトラーの偏狭へんきょう世界せかいかんすこしでもひろげようとアメリカのはなしかせたが、無駄むだであった。ヒトラーがアメリカについて評価ひょうかするのはKKKのみであった[7]

1923ねんミュンヘン一揆いっきにも参加さんかした。一揆いっき失敗しっぱいでヒトラーが逃亡とうぼうしたさきはハンフシュテングルのいえだった。ハンフシュテングルによるとヒトラーはここで自殺じさつをしようとしたが、かれつまヘレナがめたという[8]一揆いっきつづきヒトラーとナチとう支援しえんした。1931ねんにナチとう正式せいしき入党にゅうとうし、とう海外かいがい新聞しんぶんきょく局長きょくちょう(Auslands-Pressechef der NSDAP)に就任しゅうにんした。海外かいがいにおけるナチとうのイメージ改善かいぜんつとめた。党内とうないにおいてハンフシュテングルの評判ひょうばんく、友人ゆうじんおおっていたが、宣伝せんでん全国ぜんこく指導しどうしゃヨーゼフ・ゲッベルスとだけは不仲ふなかだった[1]。ゲッベルスはハンフシュテングルとヒトラーの個人こじんてき親密しんみつさがらず、ハンフシュテングルのこと頻繁ひんぱん中傷ちゅうしょうした[5]

亡命ぼうめいから晩年ばんねんまで[編集へんしゅう]

ひだりからハンフシュテングル、ヒトラーゲーリング(1932ねん

ナチとう権力けんりょく掌握しょうあくすうねんするとハンフシュテングルは温和おんわ政治せいじ見解けんかいのナチとう幹部かんぶへの批判ひはん直言ちょくげんへきのために党内とうないでの立場たちばあやうくしていった。ヒトラーも徐々じょじょにハンフシュテングルに不信ふしんけるようになった[5]。1936ねんにはつまヘレナがハンフシュテングルと離婚りこんして息子むすこれてアメリカに帰国きこくした[9]

ハンフシュテングル自身じしんよく1937ねん3がつ国外こくがい亡命ぼうめいすることになった[5]。ハンフシュテングルはヒトラーの側近そっきん英国えいこく女性じょせいファシズム運動うんどうユニティ・ヴァルキリー・ミットフォードシュタルンベルクでヨットにっていたさい、ヒトラーやゲッベルスの批判ひはん彼女かのじょかせたが、彼女かのじょは「そういうかんがえなら貴方あなた海外かいがい報道ほうどう担当たんとう資格しかくはない」とハンフシュテングルを批判ひはんし、ヒトラーにそのことをぐちした。ヒトラーはハンフシュテングルをすこらしめようと冗談じょうだんスペイン内戦ないせんきの命令めいれいしたが、これをしんけたハンフシュテングルは粛清しゅくせいされるとおもいイギリスへ亡命ぼうめいしたのだった[10]。そのユニティやゲーリングがハンフシュテングルに連絡れんらくり、冗談じょうだんなのでドイツに帰国きこくするよう説得せっとくにあたったが、かれもどらなかった[11]

そのイギリスからアメリカへ移住いじゅう以降いこうだい世界せかい大戦たいせんわるまでアメリカで生活せいかつし、大戦たいせんちゅうにはヒトラーをよくものとしてアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく連邦れんぽう政府せいふ招集しょうしゅうされて、ホワイトハウスたいどくアドバイザーとして勤務きんむした[1][5]戦後せんごにドイツへ帰国きこく。1957ねん回顧かいころく『ヒトラー:うしなわれた歳月さいげつ』(Hitler:The Missing years)をあらわした。1975ねんミュンヘン死去しきょ[5]し、ボーゲンハウゼン墓地ぼち埋葬まいそうされた。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

  • 身長しんちょう2メートルをえる大男おおおとこだった[4]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • ロベルト・ヴィストリヒ しる滝川たきがわ義人よしひと わけ『ナチス時代じだい ドイツ人名じんめい事典じてん東洋とうよう書林しょりん、2002ねん平成へいせい14ねん)。ISBN 978-4887215733 
  • Charles Hamilton (1996) (英語えいご). LEADERS & PERSONALITIES OF THE THIRD REICH VOLUME1. R James Bender Publishing. ISBN 0912138270 
  • エーリヒ・シャーケ しる渡辺わたなべ一男かずお わけ『ヒトラーをめぐるおんなたち』阪急はんきゅうコミュニケーションズ、2002ねん平成へいせい14ねん)。ISBN 978-4484021010 
  • メアリー・S. ラベル(en) しる粟野あわの真紀子まきこ大城おおしろ光子みつこ わけ『ミットフォードむすめたち―英国えいこく貴族きぞくうつくしきろく姉妹しまい物語ものがたり講談社こうだんしゃ、2005ねん平成へいせい17ねん)。ISBN 978-4062123471