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エルンスト・フランツ・セドウィック・ハンフシュテングル (Ernst Franz Sedgwick Hanfstaengl、1887年 ねん 2月 がつ 2日 にち - 1975年 ねん 11月6日 にち )は、ドイツ の実業 じつぎょう 家 か 、政治 せいじ 家 か 。国民 こくみん 社会 しゃかい 主義 しゅぎ ドイツ労働 ろうどう 者 しゃ 党 とう (ナチ党 とう )で海外 かいがい 新聞 しんぶん 局 きょく 局長 きょくちょう (1931年 ねん -1937年 ねん )を務 つと めた[1] 。1937年 ねん にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく へ亡命 ぼうめい し、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか にはアメリカ政府 せいふ の対 たい 独 どく アドバイザーを務 つと めた。愛称 あいしょう はプッツィ[2] 。
1887年 ねん 2月 がつ 2日 にち 、バイエルン王国 おうこく 首都 しゅと ミュンヘン に生 う まれる[1] 。父 ちち はミュンヘンの美術 びじゅつ 書籍 しょせき 出版 しゅっぱん 業者 ぎょうしゃ エドガー・ハンフシュテングル (ドイツ語 ご 版 ばん ) 。母 はは はアメリカ人 じん のカタリナ・ヴィルヘルミナ・ヘイネ。母 はは の父 ちち は南北戦争 なんぼくせんそう で活躍 かつやく したジョン・セジウィック 大将 たいしょう の従兄弟 いとこ である。ザクセン=コーブルク=ゴータ公国 こうこく の公 おおやけ エルンスト2世 せい が代 だい 父 ちち となり、彼 かれ の名前 なまえ のエルンストを与 あた えられた。ハンフシュテングル家 か は大変 たいへん に裕福 ゆうふく な家庭 かてい であった。
アメリカ のハーバード大学 だいがく に留学 りゅうがく し、1909年 ねん に同 どう 大学 だいがく を卒業 そつぎょう [1] [3] 。以降 いこう 10年 ねん 以上 いじょう にわたって、ニューヨーク に居住 きょじゅう してハンフシュテングル家 か の家業 かぎょう である美術 びじゅつ 書籍 しょせき 出版 しゅっぱん 業 ぎょう のニューヨーク支店 してん の経営 けいえい を見 み た。1920年 ねん にロングアイランド 在住 ざいじゅう のヘレナ・エリーゼ・アデルハイト・ニーマイヤーと結婚 けっこん した。第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 のち にアメリカ政府 せいふ から「敵性 てきせい 外国 がいこく 人 じん 」と看做 みな されてニューヨーク支店 してん を接収 せっしゅう され、1922年 ねん にドイツへ帰国 きこく した[4] 。
アメリカ大使館 あめりかたいしかん 付 つ き武官 ぶかん 補佐 ほさ トルーマン・スミス (英語 えいご 版 ばん ) 大尉 たいい からバイエルン州 しゅう で活動 かつどう していた政治 せいじ 家 か アドルフ・ヒトラー について知 し らされ、ヒトラーの政治 せいじ 集会 しゅうかい に参加 さんか した。その日 ひ のうちにヒトラーの思想 しそう に傾倒 けいとう したという。ナチ党 とう に1,000ドル の献金 けんきん を行 おこな い、ヒトラーと上流 じょうりゅう 階級 かいきゅう の窓口 まどぐち となった。ハンフシュテングルは冗談 じょうだん 好 す きで道化 どうけ 役 やく としてヒトラーを楽 たの しませることができた[5] [1] 。また美術 びじゅつ に精通 せいつう していたり、ピアノが得意 とくい であったりした事 こと も芸術 げいじゅつ 家 か 気質 きしつ のヒトラーにとって好感 こうかん が持 も てる要素 ようそ だった[5] [4] 。ヒトラーはハンフシュテングル家 か に足 あし 繁 しげ く通 かよ うようになり、ハンフシュテングルの妻 つま ヘレナや息子 むすこ エゴンとも親 した しくなった[6] 。ハンフシュテングルはヒトラーの偏狭 へんきょう な世界 せかい 観 かん を少 すこ しでも広 ひろ げようとアメリカの話 はなし を聞 き かせたが、無駄 むだ であった。ヒトラーがアメリカについて評価 ひょうか するのはKKK のみであった[7] 。
1923年 ねん のミュンヘン一揆 いっき にも参加 さんか した。一揆 いっき の失敗 しっぱい でヒトラーが逃亡 とうぼう した先 さき はハンフシュテングルの家 いえ だった。ハンフシュテングルによるとヒトラーはここで自殺 じさつ をしようとしたが、彼 かれ の妻 つま ヘレナが止 と めたという[8] 。一揆 いっき 後 ご も引 ひ き続 つづ きヒトラーとナチ党 とう を支援 しえん した。1931年 ねん にナチ党 とう に正式 せいしき 入党 にゅうとう し、党 とう の海外 かいがい 新聞 しんぶん 局 きょく 局長 きょくちょう (Auslands-Pressechef der NSDAP)に就任 しゅうにん した。海外 かいがい におけるナチ党 とう のイメージ改善 かいぜん に努 つと めた。党内 とうない においてハンフシュテングルの評判 ひょうばん は良 よ く、友人 ゆうじん を多 おお く持 も っていたが、宣伝 せんでん 全国 ぜんこく 指導 しどう 者 しゃ ヨーゼフ・ゲッベルス とだけは不仲 ふなか だった[1] 。ゲッベルスはハンフシュテングルとヒトラーの個人 こじん 的 てき 親密 しんみつ さが気 き に入 い らず、ハンフシュテングルの事 こと を頻繁 ひんぱん に中傷 ちゅうしょう した[5] 。
亡命 ぼうめい から晩年 ばんねん まで[ 編集 へんしゅう ]
左 ひだり からハンフシュテングル、ヒトラー 、ゲーリング (1932年 ねん )
ナチ党 とう の権力 けんりょく 掌握 しょうあく 後 ご 、数 すう 年 ねん するとハンフシュテングルは温和 おんわ な政治 せいじ 見解 けんかい や他 た のナチ党 とう 幹部 かんぶ への批判 ひはん ・直言 ちょくげん 癖 へき のために党内 とうない での立場 たちば を危 あや うくしていった。ヒトラーも徐々 じょじょ にハンフシュテングルに不信 ふしん の目 め を向 む けるようになった[5] 。1936年 ねん には妻 つま ヘレナがハンフシュテングルと離婚 りこん して息子 むすこ を連 つ れてアメリカに帰国 きこく した[9] 。
ハンフシュテングル自身 じしん も翌 よく 1937年 ねん 3月 がつ に国外 こくがい 亡命 ぼうめい することになった[5] 。ハンフシュテングルはヒトラーの側近 そっきん の英国 えいこく 女性 じょせい ファシズム運動 うんどう 家 か ユニティ・ヴァルキリー・ミットフォード とシュタルンベルク湖 こ でヨットに乗 の っていた際 さい 、ヒトラーやゲッベルスの批判 ひはん を彼女 かのじょ に聞 き かせたが、彼女 かのじょ は「そういう考 かんが えなら貴方 あなた に海外 かいがい 報道 ほうどう 担当 たんとう の資格 しかく はない」とハンフシュテングルを批判 ひはん し、ヒトラーにそのことを告 つ げ口 ぐち した。ヒトラーはハンフシュテングルを少 すこ し懲 こ らしめようと冗談 じょうだん でスペイン内戦 ないせん 行 い きの命令 めいれい を出 だ したが、これを真 しん に受 う けたハンフシュテングルは粛清 しゅくせい されると思 おも いイギリスへ亡命 ぼうめい したのだった[10] 。その後 ご ユニティやゲーリングがハンフシュテングルに連絡 れんらく を取 と り、冗談 じょうだん なのでドイツに帰国 きこく するよう説得 せっとく にあたったが、彼 かれ は戻 もど らなかった[11] 。
その後 ご イギリスからアメリカへ移住 いじゅう 。以降 いこう 、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が終 お わるまでアメリカで生活 せいかつ し、大戦 たいせん 中 ちゅう にはヒトラーをよく知 し る者 もの としてアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 連邦 れんぽう 政府 せいふ に招集 しょうしゅう されて、ホワイトハウス に対 たい 独 どく アドバイザーとして勤務 きんむ した[1] [5] 。戦後 せんご にドイツへ帰国 きこく 。1957年 ねん に回顧 かいこ 録 ろく 『ヒトラー:失 うしな われた歳月 さいげつ 』(Hitler:The Missing years)を著 あらわ した。1975年 ねん にミュンヘン で死去 しきょ [5] し、ボーゲンハウゼン墓地 ぼち に埋葬 まいそう された。
身長 しんちょう 2メートルを超 こ える大男 おおおとこ だった[4] 。
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