ナイロビ (英語 えいご /スワヒリ語 ご : Nairobi )は、ケニア共和 きょうわ 国 こく の首都 しゅと で最大 さいだい の都市 とし [2] 。アフリカ 有数 ゆうすう の世界 せかい 都市 とし で、2019年 ねん の都市 とし 的 てき 地域 ちいき の人口 じんこう は439万 まん 人 にん である[3] 。赤道 あかみち に近 ちか いが標高 ひょうこう 約 やく 1600mに位置 いち し気候 きこう は比較的 ひかくてき 冷涼 れいりょう である[2] 。主要 しゅよう な言語 げんご は、スワヒリ語 ご と英語 えいご 。ナイロビ (Nairobi ) という名前 なまえ は、マサイ語 ご で「冷 つめ たい水 みず の場所 ばしょ (place of cool waters)」を意味 いみ するEnkare Nairobi に由来 ゆらい する。
東 ひがし アフリカ の中心 ちゅうしん 的 てき 都市 とし として、多 おお くの国際 こくさい 機関 きかん が本部 ほんぶ あるいはアフリカの代表 だいひょう 部 ぶ などを置 お く。なかでも国際 こくさい 連合 れんごう は、国連 こくれん 環境 かんきょう 計画 けいかく (UNEP) や国際 こくさい 連合 れんごう 人間 にんげん 居住 きょじゅう 計画 けいかく (UN-HABITAT) の本部 ほんぶ をナイロビに置 お き、さらにこの2機関 きかん の活動 かつどう を支援 しえん するため1996年 ねん に国連 こくれん 事務 じむ 局 きょく の四 よっ つの主要 しゅよう 事務所 じむしょ の一 ひと つとして国際 こくさい 連合 れんごう ナイロビ事務 じむ 局 きょく を設立 せつりつ し、ナイロビを重要 じゅうよう 拠点 きょてん 都市 とし のひとつとしている。
2014年 ねん 、アメリカのシンクタンク が公表 こうひょう したビジネス ・人材 じんざい ・文化 ぶんか ・政治 せいじ などを対象 たいしょう とした総合 そうごう 的 てき な世界 せかい 都市 とし ランキング において、世界 せかい 第 だい 68位 い の都市 とし と評価 ひょうか されており[4] 、アフリカの都市 とし ではカイロ 、ヨハネスブルグ に次 つ ぐ第 だい 3位 い であった。
ナイロビは1899年 ねん にモンバサ とウガンダ の間 あいだ に建設 けんせつ されていたウガンダ鉄道 てつどう の給水 きゅうすい および補修 ほしゅう の拠点 きょてん として建設 けんせつ された[2] 。ここに拠点 きょてん が置 お かれたのは、モンバサとヴィクトリア湖 こ 畔 ほとり の町 まち キスム の二 ふた つの重要 じゅうよう な港町 みなとちょう の中 なか 間 あいだ 地点 ちてん にあること、高原 こうげん にあり冷涼 れいりょう でさわやかな気候 きこう を持 も つこと、マサイ語 ご の「冷 つめ たい水 みず 」の名 な の通 とお りに清潔 せいけつ で豊富 ほうふ な水 みず が得 え られること、街 まち の西 にし にある山地 さんち を越 こ えるための機関 きかん 車 しゃ の連結 れんけつ 地点 ちてん として適 てき していたこと、などが挙 あ げられる。疫病 えきびょう の大 だい 流行 りゅうこう と町 まち の大 だい 火事 かじ の後 のち 、20世紀 せいき 初頭 しょとう に再建 さいけん された。
その後 ご 、交通 こうつう の要衝 ようしょう にあり、良 よ い気候 きこう と水 みず に恵 めぐ まれ、さらに肥沃 ひよく な農業 のうぎょう 地帯 ちたい の中心 ちゅうしん に位置 いち することから移住 いじゅう 者 しゃ が増 ふ え、1907年 ねん にイギリス の保護 ほご 領 りょう であったイギリス領 りょう 東 ひがし アフリカ の首都 しゅと となった。この頃 ころ にはイギリス本国 ほんごく からケニアへの移住 いじゅう 者 しゃ が増加 ぞうか していたが、彼 かれ らは気候 きこう のいい高原 こうげん 部 ぶ に集中 しゅうちゅう して入植 にゅうしょく し、「ホワイト・ハイランド」(白人 はくじん 高原 こうげん )を形成 けいせい していったため、高原 こうげん 地帯 ちたい の中心 ちゅうしん に当 あ たるナイロビには多数 たすう の白人 はくじん が居住 きょじゅう するようになった。また、インド人 じん と黒人 こくじん の居住 きょじゅう 区 く も同時 どうじ に形成 けいせい されていった。この都市 とし はアフリカ人 じん による歴史 れきし を持 も たず、最初 さいしょ から白人 はくじん によって建設 けんせつ された都市 とし であったため、特 とく に白人 はくじん が快適 かいてき なように作 つく られており、この三 さん 民族 みんぞく の居住 きょじゅう 区 く も明確 めいかく に分 わ けられ、市 し の西部 せいぶ に広々 ひろびろ とした区画 くかく で作 つく られた白人 はくじん 居住 きょじゅう 区 く に対 たい し、市 し の東部 とうぶ に広 ひろ がる黒人 こくじん 居住 きょじゅう 区 く は劣悪 れつあく な環境 かんきょう の下 した に置 お かれた[5] 。1920年代 ねんだい には農産物 のうさんぶつ 加工 かこう やビール製造 せいぞう などの工業 こうぎょう が発達 はったつ を始 はじ め、これにより出現 しゅつげん した工場 こうじょう 労働 ろうどう 者 しゃ たちが都市 とし に流入 りゅうにゅう し、ナイロビはより発展 はってん のスピードを増 ま していった。周囲 しゅうい で大 だい 農園 のうえん を営 いとな む白人 はくじん たちの中 なか には本国 ほんごく で貴族 きぞく や富裕 ふゆう 層 そう だったものも多 おお く、ナイロビには小 ちい さな白人 はくじん 上流 じょうりゅう 社会 しゃかい が出現 しゅつげん した。カレン・ブリクセン が農園 のうえん 主 ぬし としてナイロビ南西 なんせい 郊外 こうがい に住 す んだのもこのころである。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご の1948年 ねん にはイギリスの東 ひがし アフリカ3植民 しょくみん 地 ち を統括 とうかつ する東 ひがし アフリカ高等 こうとう 弁務 べんむ 府 ふ がナイロビに置 お かれ、ナイロビはケニアのみならず東 ひがし アフリカのイギリス植民 しょくみん 地 ち 全体 ぜんたい の経済 けいざい の中心 ちゅうしん となっていった。1950年 ねん に市制 しせい 施行 しこう [2] 。1961年 ねん には東 ひがし アフリカ高等 こうとう 弁務 べんむ 府 ふ は東 ひがし アフリカ共同 きょうどう 役務 えきむ 機構 きこう と改称 かいしょう したが、本部 ほんぶ は変 か わらずナイロビに置 お かれていた。一方 いっぽう 、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご には独立 どくりつ 運動 うんどう が盛 さか んになり、1952年 ねん にはケニア土地 とち 自由 じゆう 軍 ぐん が結成 けっせい され、マウマウ団 だん の乱 らん といわれる反 はん 英 えい 独立 どくりつ 闘争 とうそう を繰 く り広 ひろ げた。
1963年 ねん には独立 どくりつ したケニア共和 きょうわ 国 こく の首都 しゅと となった。独立 どくりつ 後 ご 、ケニア政府 せいふ は首都 しゅと としてナイロビの積極 せっきょく 的 てき な開発 かいはつ を進 すす め、ケニヤッタ国際 こくさい 会議 かいぎ 場 じょう など数々 かずかず の高層 こうそう ビル群 ぐん が建設 けんせつ された。ケニアが資本 しほん 主義 しゅぎ 寄 よ りの政策 せいさく をとり、そのため他国 たこく に比 くら べれば高 たか い成長 せいちょう 率 りつ を記録 きろく したこともあって、ケニア経済 けいざい の中心 ちゅうしん であるナイロビには多 た 国籍 こくせき 企業 きぎょう の支店 してん が多 おお く置 お かれ、アフリカ有数 ゆうすう の大都市 だいとし となった。また富 とみ の集積 しゅうせき するナイロビを目指 めざ して農村 のうそん 部 ぶ から人口 じんこう 流入 りゅうにゅう が起 お き、人口 じんこう が爆発 ばくはつ 的 てき に増加 ぞうか した。東 ひがし アフリカ共同 きょうどう 役務 えきむ 機構 きこう を受 う け継 つ ぎ1967年 ねん に発足 ほっそく した東 ひがし アフリカ共同 きょうどう 体 たい は本部 ほんぶ をタンザニアのアルーシャ においたが、東 ひがし アフリカの経済 けいざい の中心 ちゅうしん 地 ち としてのナイロビの地位 ちい は揺 ゆ らがなかった。1960年代 ねんだい から1970年代 ねんだい にかけては年率 ねんりつ 7%もの人口 じんこう 増加 ぞうか を記録 きろく し、その後 ご も高 たか い人口 じんこう 成長 せいちょう 率 りつ は続 つづ いた。これにより街 まち の規模 きぼ は拡大 かくだい したものの、雇用 こよう の拡大 かくだい が追 お いつかず、深刻 しんこく な失業 しつぎょう 問題 もんだい が起 お き、流入 りゅうにゅう 人口 じんこう のかなりがスラム へと流 なが れていった。これにより特 とく に街 まち の東部 とうぶ を中心 ちゅうしん に広大 こうだい なスラム街 がい が生 う まれ、また1980年代 ねんだい より治安 ちあん の急速 きゅうそく な悪化 あっか を招 まね いた。
1998年 ねん 8月 がつ 、ナイロビにあるアメリカ 大使館 たいしかん がウサーマ・ビン=ラーディン の国際 こくさい 反米 はんべい テロ組織 そしき アルカーイダ により爆破 ばくは された。この事件 じけん では市民 しみん 200人 にん 以上 いじょう が死亡 しぼう した。この場所 ばしょ は今 いま では記念 きねん 公園 こうえん となっている[6] 。
2007年 ねん 12月から2008年 ねん 2月 がつ にかけて、大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ での不正 ふせい 疑惑 ぎわく からケニア危機 きき が起 お き、ナイロビでも暴動 ぼうどう が発生 はっせい した[7] 。
ナイロビの衛星 えいせい 写真 しゃしん 2019年 ねん 2月 がつ
アフリカ大陸 たいりく の東 ひがし 、南緯 なんい 1度 ど 17分 ふん 、東経 とうけい 36度 ど 49分 ふん に位置 いち し、市 し の面積 めんせき は696km2 である[8] 。標高 ひょうこう は1795mである[9]
市 し の南西 なんせい 部 ぶ にはアフリカ大地 だいち 溝 みぞ 帯 たい の東 ひがし 端 はし であるンゴングヒルズ (英語 えいご 版 ばん ) がある。ンゴングヒルズはナイロビでもっとも特徴 とくちょう 的 てき な地形 ちけい であり、標高 ひょうこう は2400mを越 こ え、ナイロビ市街 しがい を一望 いちぼう することができる。ナイロビから北 きた 約 やく 140kmにケニア山 さん 、南 みなみ 約 やく 200kmにキリマンジャロ山 さん があり、どちらも晴 は れてよく澄 す んだ空 そら の日 ひ には市街 しがい から眺 なが めることができる[10] 。また、ナイロビから西 にし 約 やく 60kmには活火山 かっかざん であるススワ山 さん がある。ナイロビ付近 ふきん にはナイロビ川 がわ とその支流 しりゅう が流 なが れている。ナイロビ川 がわ 本流 ほんりゅう は、市街 しがい 中心 ちゅうしん 部 ぶ の北 きた から南東 なんとう に向 む けて流 なが れている。ノーベル平和 へいわ 賞 しょう 受賞 じゅしょう 者 しゃ のワンガリ・マータイ は、市 し の北部 ほくぶ にあるカルラの森 もり を住宅 じゅうたく 開発 かいはつ やインフラ整備 せいび などによる乱 らん 開発 かいはつ から守 まも るために運動 うんどう を繰 く り広 ひろ げてきた.[11]
。
高地 こうち に位置 いち しているため、赤道 あかみち からわずか南 みなみ に150km離 はな れているだけのほぼ赤道 せきどう 直下 ちょっか にありながら快適 かいてき に過 す ごすことができる[12] 。一方 いっぽう で、緯度 いど が低 ひく く高所 こうしょ にあることから紫外線 しがいせん 指数 しすう (英語 えいご 版 ばん ) が年 とし 平均 へいきん 12と極 きわ めて高 たか い。ケッペンの気候 きこう 区分 くぶん においては温帯 おんたい 夏 なつ 雨 う 気候 きこう (Cwb) に属 ぞく する。6月から7月 がつ にかけては最 もっと も気温 きおん が下 さ がり、夜 よる には気温 きおん が10度 ど を切 き ることもある。12月から3月 がつ までは日照 ひでり 時間 じかん が長 なが く、暖 あたた かくなる。日 にち 中 ちゅう の気温 きおん は25度 ど 前後 ぜんこう まで上 あ がる。最高 さいこう 気温 きおん は2月と3月 がつ が平均 へいきん 26℃と高 たか く、7月 がつ と8月 がつ が21℃と低 ひく くなるが、概 がい して年間 ねんかん 通 つう じて気温 きおん の変化 へんか は少 すく なく穏 おだ やかな気候 きこう である。1年 ねん に2回 かい の雨季 うき と2回 かい の乾季 かんき があるが、雨季 うき の降雨 こうう も穏 おだ やかなものである。雨 あめ は11月と4月 がつ ・5月に多 おお く、1月 がつ から2月 がつ と6月 がつ から9月 がつ は少 すく ない。日 ひ の出 で と日没 にちぼつ の時間 じかん は赤道 せきどう 直下 ちょっか のためほとんど変動 へんどう しない[13] 。
ナイロビの気候 きこう
月 つき
1月 がつ
2月 がつ
3月 がつ
4月 がつ
5月
6月 がつ
7月 がつ
8月 がつ
9月
10月
11月
12月
年 とし
平均 へいきん 最高 さいこう 気温 きおん °C (°F )
24.5 (76.1)
25.6 (78.1)
25.6 (78.1)
24.1 (75.4)
22.6 (72.7)
21.5 (70.7)
20.6 (69.1)
21.4 (70.5)
23.7 (74.7)
24.7 (76.5)
23.1 (73.6)
23.4 (74.1)
23.4 (74.1)
平均 へいきん 最低 さいてい 気温 きおん °C (°F )
11.5 (52.7)
11.6 (52.9)
13.1 (55.6)
14.0 (57.2)
13.2 (55.8)
11.0 (51.8)
10.1 (50.2)
10.2 (50.4)
10.5 (50.9)
12.5 (54.5)
13.1 (55.6)
12.6 (54.7)
12.0 (53.6)
降水 こうすい 量 りょう mm (inch)
64.1 (2.524)
56.5 (2.224)
92.8 (3.654)
219.4 (8.638)
176.6 (6.953)
35 (1.38)
17.5 (0.689)
23.5 (0.925)
28.3 (1.114)
55.3 (2.177)
154.2 (6.071)
101 (3.98)
1,024.2 (40.323)
平均 へいきん 降雨 こうう 日数 にっすう
4
5
9
16
13
5
3
4
4
7
15
8
93
平均 へいきん 月間 げっかん 日照 ひでり 時間 じかん
288.3
268.4
266.6
204
189.1
159
130.2
127.1
180
226.3
198
257.3
2,494.3
出典 しゅってん 1:World Meteorological Organisation[14] and Hong Kong Observatory[15]
出典 しゅってん 2:BBC Weather[16]
キベラ は中心 ちゅうしん 街 がい から5km離 はな れた巨大 きょだい なスラムである。
ケニア信用組合 しんようくみあい 本部 ほんぶ
ケニヤッタ国際 こくさい 会議 かいぎ 場 じょう
自治体 じちたい としてのナイロビは、1900年 ねん に白人 はくじん がナイロビ市 し 共同 きょうどう 体 たい を組織 そしき したのが最初 さいしょ である。1919年 ねん にはこれが発展 はってん 的 てき 解消 かいしょう してナイロビ市 し 政府 せいふ が成立 せいりつ し、1983年 ねん に一 いち 度 ど 解散 かいさん されたものの、1992年 ねん には再 ふたた び復活 ふっかつ した[17] 。また、ナイロビ単独 たんどく でナイロビ州 しゅう 及 およ びナイロビ県 けん が置 お かれていた。2007年 ねん にナイロビ県 けん は分割 ぶんかつ され、ナイロビ北 きた 県 けん 、ナイロビ西 にし 県 けん 、ナイロビ東 ひがし 県 けん の3県 けん が設置 せっち された。市内 しない には8地区 ちく と49の居住 きょじゅう 区 く が置 お かれている。地区 ちく はそのまま下院 かいん の選挙 せんきょ 区 く を兼 か ねているが、選挙 せんきょ 区 く 名 めい と地区 ちく 名 めい は違 ちが った名 な がつけられることがある。それぞれの地区 ちく 内 ない にはさまざまな区 く があり、たとえば市 し の西部 せいぶ に広 ひろ がるキベラ地区 ちく にはナイロビ最大 さいだい 、アフリカ全体 ぜんたい でもヨハネスブルク のソウェト に次 つ ぐスラム であるキベラ 居住 きょじゅう 区 く があるが、一方 いっぽう で裕福 ゆうふく な居住 きょじゅう 区 く であるカレンやランガタも含 ふく んでいる。
市内 しない の中心 ちゅうしん はタウンと呼 よ ばれ、ナイロビのシンボルであるケニヤッタ国際 こくさい 会議 かいぎ 場 じょう やニュー・セントラル・バンク・タワー 、その他 た 市役所 しやくしょ や国会 こっかい 議事堂 ぎじどう などの政府 せいふ 機関 きかん 、大 だい 企業 きぎょう のオフィスやショッピング街 がい が広 ひろ がっている。タウンの東 ひがし はウフル・ハイウェイで区切 くぎ られ、その東 ひがし にはセントラル・パークやウフル・パークといった大 おお きな公園 こうえん が広 ひろ がっている。タウンはおおまかにケニヤッタ・アベニューによって二 ふた つに区切 くぎ られ、南部 なんぶ が官庁 かんちょう 街 がい や高級 こうきゅう ショッピング街 がい 、北部 ほくぶ は市場 いちば などがある商業 しょうぎょう 街 がい となっている。ナイロビ最大 さいだい のモスクであるナイロビ・ジャミアモスクやマクミラン記念 きねん 図書館 としょかん はタウン北部 ほくぶ に位置 いち する。タウンの北端 ほくたん には、ナイロビ大学 だいがく のキャンパスがある。タウンの南端 なんたん にはケニア鉄道 てつどう のナイロビ駅 えき がある。ナイロビはもともとウガンダ鉄道 てつどう の拠点 きょてん として発展 はってん した町 まち であるが、現在 げんざい ではナイロビ駅 えき は都市 とし にそれほど大 おお きな役割 やくわり を果 は たしていない。タウンの北西 ほくせい から南東 なんとう に向 む かって伸 の びるモイ・アベニュー以東 いとう はダウンタウンと呼 よ ばれる下町 したまち であり、ナイロビ川 がわ 方面 ほうめん へと広 ひろ がっている。
西部 せいぶ の丘陵 きゅうりょう はウエストランドと呼 よ ばれ、植民 しょくみん 地 ち 時代 じだい から続 つづ く高級 こうきゅう 住宅 じゅうたく 街 がい である。一方 いっぽう で、キベラをはじめとしてマザレ、カンゲミ、ダゴレッティ、ワイザカ、プムワニ、コロゴチョ、ソウェト、カリオバンギ、ダンドラなど市内 しない 各地 かくち にスラムが点在 てんざい し、大 おお きな問題 もんだい となっている。中心 ちゅうしん 部 ぶ から北東 ほくとう のダンドラ地区 ちく には世界銀行 せかいぎんこう が支援 しえん したゴミ集積 しゅうせき 所 しょ があり、また水 みず 処理 しょり ・焼却 しょうきゃく 施設 しせつ もあり環境 かんきょう 汚染 おせん 源 げん になっている。ナイロビの人口 じんこう 約 やく 400万 まん 人 にん 中 ちゅう 、60%の人々 ひとびと が市 し の居住 きょじゅう 地 ち の5%に過 す ぎないスラムに集中 しゅうちゅう して居住 きょじゅう している[18] 。
ナイロビはアフリカの都市 とし の中 なか でももっとも急速 きゅうそく に成長 せいちょう した都市 とし の一 ひと つである。1899年 ねん に建設 けんせつ されて以来 いらい 、この地域 ちいき で最 もっと も若 わか い都市 とし であるにもかかわらず東 ひがし アフリカ最大 さいだい の都市 とし に成長 せいちょう した。2011年 ねん 現在 げんざい 、ナイロビの人口 じんこう 増加 ぞうか 率 りつ は年間 ねんかん 4.1%である[19] 。ナイロビの人口 じんこう は、2025年 ねん までには500万 まん 人 にん に達 たっ すると予想 よそう されている[20] 。
年 とし
人口 じんこう
人口 じんこう 増加 ぞうか 数 すう
1906
11,500
0
1911
14,000
2,500
1921
24,300
10,300
1926
29,900
5,600
1929
32,900
3,000
1931
47,800
14,900
1939
61,300
13,500
1944
108,900
47,600
1948
119,000
20,100
1955
186,000
67,000
1957
221,700
35,700
1960
251,000
29,300
1962
266,800
17,800
1965
380,000
113,200
1969
509,300
129,300
1979
827,775
318,475
1989
1,324,570
496,795
1995
1,810,000
485,435
1999
2,143,254
333,254
2005
2,750,561
607,307
2009
3,138,369
387,808[21]
I&M銀行 ぎんこう 本社 ほんしゃ
ナイロビは東 ひがし アフリカ最大 さいだい の都市 とし であり、多 おお くの国際 こくさい 機関 きかん や企業 きぎょう が本部 ほんぶ や支社 ししゃ をおいている。なかでも国際 こくさい 連合 れんごう は、国連 こくれん 環境 かんきょう 計画 けいかく (UNEP) や国際 こくさい 連合 れんごう 人間 にんげん 居住 きょじゅう 計画 けいかく (UN-HABITAT) の本部 ほんぶ をこの地域 ちいき に置 お き、さらにこの2機関 きかん の活動 かつどう を支援 しえん するため1996年 ねん に国連 こくれん 事務 じむ 局 きょく の四 よっ つの主要 しゅよう 事務所 じむしょ の一 ひと つとして国際 こくさい 連合 れんごう ナイロビ事務 じむ 局 きょく を設立 せつりつ し、環境 かんきょう と人間 にんげん 居住 きょじゅう の分野 ぶんや に関 かん する活動 かつどう の本部 ほんぶ とするなど、ナイロビを重要 じゅうよう 拠点 きょてん 都市 とし のひとつとしている。この国連 こくれん の諸 しょ 組織 そしき は、経済 けいざい や雇用 こよう の面 めん でも大 おお きな利益 りえき をもたらしている。日本 にっぽん の諸 しょ 組織 そしき も、ナイロビか南 みなみ アフリカ のヨハネスブルグ にその機能 きのう をおくことが多 おお い。
国際 こくさい 関係 かんけい の諸 しょ 組織 そしき が集積 しゅうせき し、来客 らいきゃく などの受 う け入 い れ態勢 たいせい も整 ととの っていることから、ナイロビでは多 おお くの国際 こくさい 会議 かいぎ が開 ひら かれ、これまでに多 おお くの条約 じょうやく がここで締結 ていけつ された。オリンピック・シンボルの保護 ほご に関 かん するナイロビ条約 じょうやく (1981年 ねん )やナイロビ実施 じっし 要請 ようせい (2009年 ねん )、海難 かいなん 残骸 ざんがい 物 ぶつ の除去 じょきょ に関 かん するナイロビ国際 こくさい 条約 じょうやく (2007年 ねん )などナイロビの名 な を冠 かん する条約 じょうやく も数多 かずおお い。
ナイロビ証券 しょうけん 取引 とりひき 所 しょ (NSE) は、アフリカ有数 ゆうすう の証券 しょうけん 取引 とりひき 所 しょ の一 ひと つである。この証券 しょうけん 取引 とりひき 所 しょ は、1953年 ねん に正式 せいしき に設立 せつりつ された。現在 げんざい では、アフリカで4番目 ばんめ の取引 とりひき 量 りょう と、アフリカで5番目 ばんめ のGDPに対 たい する時価 じか 総額 そうがく の割合 わりあい を持 も つ証券 しょうけん 取引 とりひき 所 しょ となっている.[22] 。
ナイロビの水 みず の94%は市 し の北 きた にあるAberdare山系 さんけい から供給 きょうきゅう される。中 なか でも最 もっと も重要 じゅうよう な供給 きょうきゅう 源 げん はティカ・ダムである。しかし、取水 しゅすい された水 みず のうち40%は配水 はいすい 中 ちゅう に失 うしな われてしまい、水道 すいどう に接続 せつぞく している消費 しょうひ 者 しゃ のうち水 みず の供給 きょうきゅう が受 う けられるのはわずか40%にすぎない。スラムには水道 すいどう 水 すい の供給 きょうきゅう がほとんどないために、幸運 こううん にも水道 すいどう 水 すい の供給 きょうきゅう を受 う けられるものや水 みず 売 う りから水 みず を買 か わざるを得 え ず、水道 すいどう 料金 りょうきん よりもはるかに高 たか い水 みず 代 だい を払 はら わねばならない。2009年 ねん 7月 がつ には、深刻 しんこく な水不足 みずぶそく が続 つづ く中 なか 、トランスペアレンシー・インターナショナル ・ケニアとケニアのNGO であるMaji Na Ufanisi(水 みず と開発 かいはつ )の発表 はっぴょう した報告 ほうこく 書 しょ によってナイロビ市 し 上下水道 じょうげすいどう 事業 じぎょう 会社 かいしゃ の取締役 とりしまりやく 会 かい が不正 ふせい のために解任 かいにん される事態 じたい となった。この報告 ほうこく 書 しょ はナイロビを含 ふく むケニア国内 こくない 5都市 とし のメーターの不正 ふせい 検針 けんしん や産業 さんぎょう 用水 ようすい の不正 ふせい 転用 てんよう 、水道 すいどう への不正 ふせい な接続 せつぞく を見逃 みのが すための賄賂 わいろ の授受 じゅじゅ を告発 こくはつ し、中 なか でもナイロビで最 もっと も不正 ふせい が激 はげ しいことを指摘 してき していた.[23] 。
これに限 かぎ らず、ナイロビ市 し 政府 せいふ は急増 きゅうぞう する住民 じゅうみん に十分 じゅうぶん な行政 ぎょうせい サービスを提供 ていきょう することができていない。ケニア政府 せいふ は独立 どくりつ 以来 いらい 一貫 いっかん して都市 とし 重点 じゅうてん 政策 せいさく を展開 てんかい し、インフラ整備 せいび の大半 たいはん を人口 じんこう の10%台 だい を占 し めるに過 す ぎない都市 とし 地域 ちいき に振 ふ り向 む けてきたにもかかわらず、である。ごみの収集 しゅうしゅう 能力 のうりょく は1994年 ねん 時点 じてん で1日 にち 800tから1000tの発生 はっせい に対 たい し回収 かいしゅう 能力 のうりょく は200tに過 す ぎなかった[24] 。この状況 じょうきょう は以後 いご も根本 こんぽん 的 てき な改善 かいぜん はなされていない。停電 ていでん も多 おお く、住宅 じゅうたく 供給 きょうきゅう は間 ま に合 あ わずに市 し の人口 じんこう の60%が可 か 住 じゅう 地 ち の5%に過 す ぎないスラムに住 す む事態 じたい となった。公共 こうきょう 交通 こうつう 機関 きかん も十分 じゅうぶん ではなく、公営 こうえい バスの不足 ふそく の隙間 すきま を埋 う める形 かたち で1960年代 ねんだい よりマタトゥ(ミニバス、乗 の り合 あ いタクシー)の普及 ふきゅう が急速 きゅうそく に進 すす んだ。一方 いっぽう でモータリゼーションの進行 しんこう によって自動車 じどうしゃ の数 かず は大幅 おおはば に増 ふ え、交通 こうつう 渋滞 じゅうたい が激 はげ しさを増 ま しており、大気 たいき 汚染 おせん もはじまっている。
また、ナイロビは治安 ちあん の悪 わる さにおいても悪名 あくめい 高 たか い。特 とく に、1990年代 ねんだい より凶悪 きょうあく 犯罪 はんざい が急増 きゅうぞう 、組織 そしき 的 てき 、凶悪 きょうあく 的 てき な事件 じけん も目立 めだ つようになった。2013年 ねん 9月21日 にち には、比較的 ひかくてき 安全 あんぜん とされていたナイロビ中心 ちゅうしん 部 ぶ のウェストゲート・ショッピングモール に武装 ぶそう 集団 しゅうだん が乱入 らんにゅう するテロ事件 じけん (ケニアショッピングモール襲撃 しゅうげき 事件 じけん )も起 お きた[25] 。また2019年 ねん 1月 がつ 15日 にち にも、同様 どうよう に複 ふく 合 あい 施設 しせつ への襲撃 しゅうげき が行 おこな われ21人 にん が死亡 しぼう する事件 じけん が発生 はっせい している[26] 。
ナイロビ大学 だいがく
ナイロビには、いくつかの大学 だいがく がある。最 もっと も古 ふる い大学 だいがく は、イギリス領 りょう 時代 じだい の1956年 ねん に王立 おうりつ 技術 ぎじゅつ 大学 だいがく (Royal Technical College) として設立 せつりつ されたナイロビ大学 だいがく である。1963年 ねん の独立 どくりつ とともにナイロビ大学 だいがく はウガンダのマケレレ大学 だいがく およびタンザニアのダルエスサラーム大学 だいがく ともに東 ひがし アフリカ大学 だいがく の一部 いちぶ となったが、1970年 ねん に3大学 だいがく は独立 どくりつ して独自 どくじ の卒業 そつぎょう 証書 しょうしょ を授与 じゅよ するようになった。ついで、1972年 ねん にはケニヤッタ大学 だいがく が設立 せつりつ された。1980年代 ねんだい までは長 なが らくナイロビにある大学 だいがく はこの2校 こう のみ、ケニア全土 ぜんど でも4校 こう であったが、その後 ご 各地 かくち の師範 しはん 学校 がっこう や技術 ぎじゅつ 専門 せんもん 学校 がっこう が国立 こくりつ 大学 だいがく に昇格 しょうかく し、ナイロビでもジョモ・ケニヤッタ農工 のうこう 大学 だいがく が誕生 たんじょう した。さらに私立 しりつ 大学 だいがく が急増 きゅうぞう し、ストラスモア大学 だいがく 、アライアント国際 こくさい 大学 だいがく (ナイロビキャンパス。本校 ほんこう は、アメリカ カリフォルニア州 しゅう のサンディエゴ にある)、デイスター大学 だいがく 、アフリカナザレネ大学 だいがく などが設立 せつりつ された。
ナイロビで最 もっと も古 ふる い図書館 としょかん は、中心 ちゅうしん 部 ぶ にあるマクミラン記念 きねん 図書館 としょかん である。1931年 ねん に建設 けんせつ され、1962年 ねん にナイロビ市議会 しぎかい へと移管 いかん された[27] 。
ナイロビにおいて使用 しよう される言語 げんご は、公的 こうてき な場面 ばめん においては英語 えいご 、日常 にちじょう 的 てき な場面 ばめん においてはスワヒリ語 ご やキクユ語 ご が多 おお い。英語 えいご は2010年 ねん まで唯一 ゆいいつ の公用 こうよう 語 ご であり、現在 げんざい でも役場 やくば や職場 しょくば などでは英語 えいご を使用 しよう するのが一般 いっぱん 的 てき である。これに対 たい し、日常 にちじょう 会話 かいわ ではスワヒリ語 ご が共通 きょうつう 語 ご となっている。これは、19世紀 せいき 以降 いこう ケニア全土 ぜんど にリンガフランカ としてのスワヒリ語 ご 使用 しよう が広 ひろ まり、国内 こくない の各 かく 民族 みんぞく が集中 しゅうちゅう する首都 しゅと ナイロビにおいてどの民族 みんぞく も使用 しよう することができる唯一 ゆいいつ の言語 げんご だからである。もっとも、ナイロビで話 はな されるスワヒリ語 ご は標準 ひょうじゅん スワヒリ語 ご からはかなりかけ離 はな れたものであり、ナイロビ・スワヒリ語 ご とも呼 よ ばれる方言 ほうげん が使用 しよう されている[28] 。また、ナイロビはもともとキクユ人 じん の居住 きょじゅう する地域 ちいき の中央 ちゅうおう 部 ぶ に建設 けんせつ されており、住民 じゅうみん としてはキクユ人 じん が最大 さいだい 勢力 せいりょく である。そのため、キクユ語 ご を主 おも に使用 しよう する住民 じゅうみん も数多 かずおお い。
1970年代 ねんだい ごろから、上記 じょうき のナイロビ・スワヒリ語 ご とはまた別 べつ の、シェン と呼 よ ばれるスワヒリ語 ご の方言 ほうげん がナイロビにおいて発生 はっせい した。シェンとはスワヒリ語 ご と英語 えいご の合成 ごうせい 語 ご であり、その名 な のとおりスワヒリ語 ご のナイロビ方言 ほうげん に英語 えいご やルヒヤ語 ご 、キクユ語 ご 、カンバ語 ご 、ルオ語 ご といった近隣 きんりん 諸 しょ 民族 みんぞく の言語 げんご の語彙 ごい を多 おお く導入 どうにゅう したもので、マタツ(乗 の り合 あ いタクシー )の運転 うんてん 手 しゅ などから若者 わかもの 言葉 ことば として広 ひろ まり、音楽 おんがく などのポップカルチャー やテレビ、ラジオなどにも使用 しよう されるようになった。
ケニヤッタ国際 こくさい 空港 くうこう
外国 がいこく からの窓口 まどぐち として、1958年 ねん に建設 けんせつ され、市 し の中心 ちゅうしん 部 ぶ より15km南東 なんとう にあるジョモ・ケニヤッタ国際 こくさい 空港 くうこう があるが、ジェット機 じぇっとき の時代 じだい になる前 まえ は1933年 ねん に建設 けんせつ された市 し の中心 ちゅうしん 部 ぶ から南 みなみ に4kmはなれた[29] ウィルソン空港 くうこう (英語 えいご 版 ばん ) (現在 げんざい は国内線 こくないせん 用 よう 空港 くうこう )が使用 しよう されていた。1930年代 ねんだい から1940年代 ねんだい にかけて、イギリス南岸 なんがん のサウザンプトン から南 みなみ アフリカ のケープタウンに向 む かうイギリスの旅客機 りょかくき や郵便 ゆうびん 機 き の中継 ちゅうけい 地 ち であった。このルートでは、イギリスからケニア西部 せいぶ のヴィクトリア湖 こ に面 めん する港湾 こうわん 都市 とし キスム までは飛行 ひこう 艇 てい が使用 しよう され、そこから南 みなみ では飛行場 ひこうじょう の航空機 こうくうき が使用 しよう された。ジョモ・ケニヤッタ国際 こくさい 空港 くうこう は、現在 げんざい 東 ひがし アフリカ最大 さいだい の拠点 きょてん 的 てき 空港 くうこう として各地 かくち に路線 ろせん が開 ひら かれており、ケニア航空 こうくう やフライ540、ジェットリンク・エクスプレスといった航空 こうくう 会社 かいしゃ のハブ空港 くうこう となっている。
市内 しない の公共 こうきょう 交通 こうつう はケニア・バス・サービスなどの会社 かいしゃ 組織 そしき のバス 、ならびに個人 こじん 経営 けいえい が多 おお い『マタトゥ』と呼 よ ばれる小型 こがた バスが担 にな っている。マタトゥは1960年代 ねんだい 後半 こうはん より公共 こうきょう 交通 こうつう の未 み 整備 せいび を補完 ほかん するために出現 しゅつげん したもので、現在 げんざい では中心 ちゅうしん 部 ぶ から市内 しない 各所 かくしょ に路線 ろせん 網 もう を伸 の ばしている。マタトゥの路線 ろせん は固定 こてい されているが、時刻 じこく は固定 こてい されていない。まとまったバスターミナル はなく、行 い き先 さき ごとに発着 はっちゃく 場 じょう は異 こと なっている。大型 おおがた バスのほかに、国内 こくない 各地 かくち や国境 こっきょう までの長距離 ちょうきょり マタトゥも頻発 ひんぱつ している。
植民 しょくみん 地 ち 時代 じだい に建設 けんせつ されたウガンダ鉄道 てつどう のナイロビ駅 えき がある。かつては、モンバサ駅 えき 行 い きの列車 れっしゃ が週 しゅう に数 すう 便 びん 出 で ており、所要 しょよう 時間 じかん は1日 にち 以上 いじょう かかるものであった。近郊 きんこう 路線 ろせん としての機能 きのう はない。
2017年 ねん に中国 ちゅうごく の出資 しゅっし で近代 きんだい 化 か が図 はか られ、モンバサ・ナイロビ標準軌 ひょうじゅんき 鉄道 てつどう として再 さい 出発 しゅっぱつ 。所要 しょよう 時間 じかん は4時 じ 間 あいだ 半 はん に短縮 たんしゅく されたが、旅客 りょかく 扱 あつか いの有無 うむ は不明 ふめい [30] 。これをさらにウガンダから南 みなみ スーダン まで延伸 えんしん する契約 けいやく を東 ひがし アフリカ諸国 しょこく は中国 ちゅうごく と交 か わしている[31] [32] 。
旧 きゅう 宗主 そうしゅ 国 こく のイギリス と同 おな じく、自動車 じどうしゃ は左側 ひだりがわ 通行 つうこう 。モンバサ からウガンダ 国境 こっきょう へ抜 ぬ ける国道 こくどう が幹線 かんせん で、市内 しない を貫 つらぬ いている。中心 ちゅうしん 部 ぶ では片側 かたがわ 2車線 しゃせん である。
市内 しない 中心 ちゅうしん 部 ぶ の道路 どうろ はほぼ舗装 ほそう されているが、舗装 ほそう の傷 いた みの激 はげ しい場所 ばしょ もある。信号 しんごう 機 き は数 かず が少 すく なく、交差点 こうさてん の交通 こうつう の整理 せいり はイギリス式 しき にラウンドアバウト (ロータリー)でなされている。
ナイロビ市街 しがい をバックに立 た つキリン(ナイロビ国立 こくりつ 公園 こうえん )
ナイロビには多 おお くの観光 かんこう 名所 めいしょ があり、またケニア観光 かんこう の拠点 きょてん ともなっている。
ナイロビ中心 ちゅうしん 部 ぶ にはニュー・セントラル・バンク・タワー やケニヤッタ国際 こくさい 会議 かいぎ 場 じょう といった高層 こうそう ビルが立 た ち並 なら び、上 うえ に登 のぼ ればナイロビ市街 しがい を一望 いちぼう することができる。中心 ちゅうしん 部 ぶ の北 きた には1930年 ねん 設立 せつりつ のケニア国立 こくりつ 博物館 はくぶつかん があり、ケニアで発見 はっけん されたアウストラロピテクス の化石 かせき などが展示 てんじ されている。その向 む かいにはヘビ公園 こうえん がある。中心 ちゅうしん 部 ぶ の南 みなみ には、キリンに直接 ちょくせつ えさを与 あた えられるジラフマナー がある。南西 なんせい 部 ぶ 郊外 こうがい には、ケニア各 かく 民族 みんぞく の伝統 でんとう 家屋 かおく や伝統 でんとう 文化 ぶんか を展示 てんじ するボーマスオブケニア や、ナイロビで暮 く らし「アフリカの日々 ひび 」(Out of Africa, 1937年 ねん 、映画 えいが 『愛 あい と哀 かな しみの果 は て 』の原作 げんさく )などの作品 さくひん を残 のこ したデンマーク の女流 じょりゅう 作家 さっか カレン・ブリクセン の住居 じゅうきょ を博物館 はくぶつかん としたカレン・ブリクセン博物館 はくぶつかん などがある。また、市 し の中心 ちゅうしん 部 ぶ から10kmほど南 みなみ 、ジョモ・ケニヤッタ国際 こくさい 空港 くうこう のすぐそばにはナイロビ国立 こくりつ 公園 こうえん があり[33] 、アフリカの自然 しぜん を手軽 てがる に楽 たの しむことができる。
ナイロビ南西 なんせい には景勝 けいしょう 地 ち ンゴングヒルズ がある。また、ナイロビの北 きた 88kmにあるナイバシャ湖 こ とヘルズ・ゲート国立 こくりつ 公園 こうえん や、南 みなみ のマガディ湖 こ などは日帰 ひがえ り圏内 けんない であり、ナイロビが観光 かんこう 拠点 きょてん となっている。
これらの観光 かんこう 資源 しげん のほか、ケニア国内 こくない のサファリ やケニア山 さん などの登山 とざん を楽 たの しむ外国 がいこく 人 じん 観光 かんこう 客 きゃく もナイロビを拠点 きょてん とすることが多 おお く、また国連 こくれん 関係 かんけい はじめ多 おお くの国際 こくさい 機関 きかん が存在 そんざい することから、ナイロビには多 おお くのホテル が立 た ち並 なら んでいる。
ナイロビの登場 とうじょう する作品 さくひん [ 編集 へんしゅう ]
2021年 ねん 9月 がつ 18日 にち 、ファーディナンド・オムルワ が同地 どうち で行 おこな われた大会 たいかい の100mでアフリカ新 しん 記録 きろく の9秒 びょう 77(+1.2)をマークして、2位 い に入 はい った。(1位 い は今季 こんき 世界 せかい 最高 さいこう 記録 きろく の9秒 びょう 76をマークしたアメリカ のトレイボン・ブロメル である。)
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