イギリス・エジプト同盟どうめい条約じょうやく

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イギリス・エジプト同盟どうめい条約じょうやく

イギリス・エジプト同盟どうめい条約じょうやく英語えいご: Anglo-Egyptian treaty of 1936, 正式せいしき名称めいしょうは、イギリス国王こくおう陛下へいかとエジプト国王こくおう陛下へいかあいだ同盟どうめい条約じょうやく英語えいご: The Treaty of Alliance Between His Majesty, in Respect of the United Kingdom, and His Majesty, the King of Egypt アラビア: المعاهدة البريطانية المصرية لعام 1936‎)は、1936ねんイギリスエジプト王国おうこくあいだ締結ていけつされた条約じょうやく

この条約じょうやくにより、イギリスはスエズ運河うんがとその周辺しゅうへん防衛ぼうえい必要ひつような1まんにん軍隊ぐんたい補助ほじょ要員よういんのぞき、エジプトからすべての軍隊ぐんたい撤退てったいさせることになった。また、イギリスはエジプトの軍隊ぐんたい補給ほきゅう訓練くんれんにあたり、戦時せんじさいにはその防衛ぼうえい支援しえんすることになっていた。20年間ねんかん期限きげんとされたこの条約じょうやく交渉こうしょうザファラーナ宮殿きゅうでん英語えいごばんおこなわれ、1936ねん8がつ26にちにロンドンで調印ちょういん、12月22にち批准ひじゅんされ、1937ねん1がつ6にち国際こくさい連盟れんめい国際こくさい条約じょうやくとして登録とうろくされた[1]

イギリス・エジプト同盟どうめい条約じょうやく

背景はいけい[編集へんしゅう]

1918ねん11月、サアド・ザグルールをはじめとする、貴族きぞく法曹界ほうそうかい著名ちょめいな7にんのエジプトじんが、エジプトのイギリス支配しはいからの完全かんぜん独立どくりつ最大さいだい目標もくひょうとする代表だいひょうだんワフド)を結成けっせいした。しかし、1919ねんパリ講和こうわ会議かいぎへのエジプト代表だいひょうとしての参加さんかをエジプト駐在ちゅうざいのイギリス高等こうとう弁務べんむかん打診だしんしたところ、ことわられた。その結果けっか代表だいひょうだん主催しゅさいしゃたちは独立どくりつ意思いしをエジプトの人々ひとびとつたえたことが、エジプト現代げんだい史上しじょうもっと人気にんきのある政党せいとうのひとつになるきっかけとなった[2]

ワフディストの指導しどうしゃたちは、独立どくりつ立憲りっけん政治せいじ密接みっせつ関係かんけいしており、自分じぶんたちのモデルにイギリスをあおごうとかんがえていた。 1923ねんには憲法けんぽう公布こうふされ、1924ねん1がつにはしん議会ぎかい議員ぎいんめるためはつ選挙せんきょおこなわれた。ヨーロッパで教育きょういくけたエジプトじんおおくは、憲法けんぽう議会ぎかい存在そんざいするのみで、エジプトの完全かんぜん独立どくりつ主張しゅちょう正当せいとうされるとかんがえていた[2]

しかし、エジプトにおける民主みんしゅ主義しゅぎ成立せいりつにはおおくの障害しょうがいがあった。憲法けんぽうで、国王こくおう議会ぎかい解散かいさんけんふく強大きょうだい権限けんげんあたえられていたのである。国王こくおうはこの憲法けんぽうじょう権限けんげん行使こうしして、みずからの意思いし沿わない議会ぎかい排除はいじょし、王室おうしつ支配しはい時代じだいつづことになった。また、イギリスはエジプトの政治せいじ干渉かんしょうつづけ、完全かんぜん独立どくりつした政治せいじ機構きこう発展はってん容認ようにんしなかった。また、ワフドとうをはじめとする政党せいとうは、イギリスに対抗たいこうするために団結だんけつすることなく、対立たいりつつづけていた。その結果けっか、イギリスの支援しえんけたファードおうと、イギリスからの完全かんぜん独立どくりつ目指めざすワフドとうとのあいだで、つね権力けんりょくあらそいがひろげられたのである。

しん独立どくりつもとめる強烈きょうれつ欲求よっきゅうは、1935ねんイタリアのエチオピア侵攻しんこうけて、イギリスが1922ねん独立どくりつさい交渉こうしょうおうじることによって一部いちぶ実現じつげんした[2]

この条約じょうやく締結ていけつされるきっかけとなったのは、1935ねんはじまったイタリアのエチオピア侵攻しんこうである。ファルーク国王こくおうは、イタリアがエジプトに侵攻しんこうしてくることで、エジプトを戦争せんそうむのではないかとおそれた。1936ねん条約じょうやくでは、スーダン問題もんだい解決かいけつされなかった。1899ねん締結ていけつされたイギリス・エジプトあいだ共同きょうどう主権しゅけん協定きょうていにより、スーダンはエジプトとイギリスが共同きょうどう統治とうちすることになっていたが、実権じっけんはイギリスがにぎっていた[3]ヨーロッパ緊張きんちょうたかまるなか、この条約じょうやく現状げんじょう維持いじ意味いみしていた。しかし、この条約じょうやくは、完全かんぜん独立どくりつのぞアラブ社会党しゃかいとうのようなエジプトの民族みんぞく主義しゅぎしゃには歓迎かんげいされず、イギリスや条約じょうやく支持しじしたワフドとうたいするはげしいデモをこした。

条約じょうやく調印ちょういん[編集へんしゅう]

1936ねん8がつ27にち、この条約じょうやく調印ちょういんは、ロンドンの外務省がいむしょう庁舎ちょうしゃにあるロカルノ・ルームでおこなわれた。両国りょうこく筆頭ひっとう署名しょめいしゃは、エジプトのナファス・パシャ英語えいごばん首相しゅしょうとイギリスのアンソニー・イーデン外相がいしょうである。その署名しょめいしゃには、ラムゼイ・マクドナルドマフムード・パシャ英語えいごばんハリファックスきょうジョン・サイモンきょうイスマイル・シドキー英語えいごばんマクラム・エベード英語えいごばんマイルズ・ランプソンなどがいた[4]

条約じょうやく規定きてい[編集へんしゅう]

  • エジプトの都市としからスエズ運河うんが周辺しゅうへんまでの駐留ちゅうりゅうイギリスぐん撤退てったいするが、スーダンのイギリスぐんつづ無条件むじょうけん残留ざんりゅうする。
  • エジプトに駐留ちゅうりゅうするイギリスぐん人数にんずうは、平常へいじょうは、行政ぎょうせい技術ぎじゅつ業務ぎょうむ必要ひつよう人員じんいんふくめた兵士へいし1まんにん飛行ひこう400にんとするが、戦時せんじにはイギリスは人員じんいんやす権利けんりゆうする。
  • あたらしい兵舎へいしゃ完成かんせいするまで、イギリスぐんあらたな地域ちいきうつさない。
  • 条約じょうやく締結ていけつから8年間ねんかん、イギリスぐんアレクサンドリア駐留ちゅうりゅうする。
  • イギリス空軍くうぐん運河うんが地帯ちたい基地きち残留ざんりゅうし、エジプトの空域くういき使用しようする権利けんり留保りゅうほし、エジプトの航空機こうくうきにも同様どうよう権利けんりあたえられる。
  • 戦時せんじのエジプト政府せいふは、エジプトの港湾こうわん空港くうこう道路どうろ使用しようする権利けんりふくめ、イギリスぐんにあらゆる施設しせつ支援しえん提供ていきょうすること補助ほじょする。
  • 条約じょうやく発効はっこうしてから20ねん、エジプトぐんがスエズ運河うんが安全あんぜん海運かいうん保障ほしょうできるか、イギリスぐん駐留ちゅうりゅう必要ひつようかを判断はんだんしなければならない。見解けんかい相違そういについては国際こくさい連盟れんめい判断はんだんあおことができる。
  • エジプトは外国がいこくじん特権とっけん廃止はいし要求ようきゅうする権利けんりがある。
  • 2がつ28にち声明せいめいふくむ、この条約じょうやく規定きていはんするすべての協定きょうていおよび文書ぶんしょす。
  • エジプトぐんのスーダンへの帰還きかんとイギリスとの共同きょうどう管理かんり承認しょうにんする。
  • エジプトは、この条約じょうやく規定きてい矛盾むじゅんしないこと条件じょうけんに、外国がいこく条約じょうやくむす自由じゆうゆうする。
  • イギリスと大使たいし交換こうかんする。

その[編集へんしゅう]

だい世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつの1945ねん9がつ23にち、エジプト政府せいふは、イギリスぐん駐留ちゅうりゅう終了しゅうりょうし、えいほこりりょうスーダン併合へいごうみとめるよう、条約じょうやく改正かいせいもとめた[5]1950ねんエジプトそう選挙せんきょ英語えいごばんでワフドとう勝利しょうりしたのち、1951ねん10がつにワフドとうしん政権せいけん条約じょうやく一方いっぽうてき破棄はきした。その3ねんガマール・アブドゥル=ナーセル大佐たいさひきいるしん政府せいふのもと、イギリスは1954ねんえいほこり協定きょうていぐん撤退てったい合意ごういし、1956ねん6がつにイギリスぐん撤退てったい完了かんりょうした。 この、エジプトは完全かんぜん独立どくりつたしたとかんがえられているが、ナーセルはすでに独自どくじ外交がいこう政策せいさく確立かくりつしており、西側にしがわ諸国しょこくとの緊張きんちょう関係かんけいこしていた。

イギリスアメリカが、突然とつぜんアスワン・ハイ・ダム建設けんせつ資金しきん援助えんじょ突然とつぜん撤回てっかいしたことをけて、エジプトは1956ねん7がつ26にちスエズ運河うんが国有こくゆうした[6]表向おもてむきはダム建設けんせつ費用ひようにあてるためという理由りゆうだったが、実際じっさいにはわりにソビエトが資金しきん大半たいはん援助えんじょした。そのすうヶ月かげつフランスイスラエル、イギリスが共謀きょうぼうして英語えいごばんナーセルの打倒だとうをめざし[7]スエズ危機きき勃発ぼっぱつした。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

全般ぜんぱん
限定げんてい

Cleveland, Bunton (2013). A History of the Modern Middle East. Boulder: Westview Press.

  1. ^ League of Nations Treaty Series, vol. 173, pp. 402–431.
  2. ^ a b c Cleveland, Bunton (2013). A History of the Modern Middle East. Boulder: Westview Press.
  3. ^ Robert O. Collins, A History of Modern Sudan
  4. ^ Historic Anglo-Egyptian treaty signed in London – archive, 1936”. Guardian. 2021ねん8がつ28にち閲覧えつらん
  5. ^ Jessup, John E. (1989). A Chronology of Conflict and Resolution, 1945-1985. New York: Greenwood Press. ISBN 0-313-24308-5 
  6. ^ "Suez crisis" The Concise Oxford Dictionary of Politics. Ed. Iain McLean and Alistair McMillan. Oxford University Press, 2003.
  7. ^ Avi Shlaim, The Protocol of Sèvres,1956: Anatomy of a War Plot Published in International Affairs, 73:3 (1997), 509–530

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]