ナチス・ドイツのフランス侵攻しんこう

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西方せいほう電撃でんげきせんから転送てんそう
フランスのたたか
だい世界せかい大戦たいせん西部せいぶ戦線せんせんなか

時計とけいまわりに)きたフランスの放棄ほうきされた車両しゃりょう パリを行進こうしんするドイツぐん ドイツのたい戦車せんしゃほう調査ちょうさするイギリスへい   撃破げきはされたフランスの装甲車そうこうしゃ 捕虜ほりょとなったフランスへい アルデンヌのもり通過つうかするドイツぐんのIごう戦車せんしゃとIIごう戦車せんしゃ
とき1940ねん5がつ10日とおか6月25にち
場所ばしょフランスおよベネルクス
結果けっか

枢軸すうじくぐん決定的けっていてき勝利しょうり

領土りょうど
変化へんか
  • アルザス=ロレーヌをドイツに、マントンをイタリアに割譲かつじょう
  • ドイツ進駐しんちゅう領域りょういきイタリア南仏なんふつ進駐しんちゅう領域りょういき成立せいりつ
  • 自由じゆう地域ちいきフランス語ふらんすごばんヴィシーフランス政権せいけん樹立じゅりつ
  • 衝突しょうとつした勢力せいりょく
    ナチス・ドイツの旗
    ナチス・ドイツ

    イタリア王国の旗 イタリア王国おうこく
    (6がつ10日とおか-)
    フランスの旗
    フランス

    イギリスの旗 イギリス
    カナダの旗 カナダ
    ベルギーの旗 ベルギー
    オランダの旗 オランダ
    ルクセンブルクの旗 ルクセンブルク
    チェコスロバキアの旗 チェコスロバキア亡命ぼうめい政府せいふ
    ポーランドの旗 ポーランド亡命ぼうめい政府せいふ
    指揮しきかん
    ナチス・ドイツの旗 アドルフ・ヒトラー
    ナチス・ドイツの旗 ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ
    ナチス・ドイツの旗 ゲルト・フォン・ルントシュテット
    ナチス・ドイツの旗 フェードア・フォン・ボック
    ナチス・ドイツの旗 ヴィルヘルム・フォン・レープ
    ナチス・ドイツの旗 アルベルト・ケッセルリンク
    ナチス・ドイツの旗 フーゴ・シュペルレ
    イタリア王国の旗 ベニート・ムッソリーニ
    イタリア王国の旗 ウンベルト2せい
    イタリア王国の旗 ピエトロ・ピントールイタリアばん
    イタリア王国の旗 アルフレード・グッツォーニイタリアばん
    フランスの旗 モーリス・ガムラン[ちゅう 1]
    フランスの旗 マキシム・ウェイガン
    フランスの旗 アルフォンス・ジョルジュ
    フランスの旗 ガストン・ビヨット 
    フランスの旗 ジョルジュ・モーリス・ジャン・ブランシャール
    フランスの旗 アンドレ=ガストン・プレテラ
    イギリスの旗 ジョン・ヴェレカー
    ベルギーの旗 レオポルド3せい 捕虜ほりょ
    オランダの旗 ヘンリー・ヴィンケルマン 捕虜ほりょ
    ポーランドの旗 ヴワディスワフ・シコルスキ
    部隊ぶたい
    戦力せんりょく

    きたフランス戦線せんせん
    141個いっこ師団しだん[1]
    野戦やせんほう7378もん[1]
    戦車せんしゃ2445りょう[1]
    航空機こうくうき5638[2][3]
    兵員へいいん335まんめい


    アルプス戦線せんせん
    兵員へいいん30まんめい

    きたフランス戦線せんせん
    144師団しだん[1]
    野戦やせんほう1まん3974もん[1]
    戦車せんしゃ3383りょう[1]
    航空機こうくうき2935[4]
    兵員へいいん330まんめい


    アルプス戦線せんせん
    兵員へいいん15まんめい
    被害ひがいしゃすう
    ナチス・ドイツの旗 ドイツこく
    戦死せんし2まん7074にん
    戦傷せんしょう11まんにん
    行方ゆくえ不明ふめいしゃ1まん8384にん
    戦車せんしゃ装甲車そうこうしゃ753りょう
    航空機こうくうき1,236
    イタリア王国の旗 イタリア王国おうこく
    戦死せんし631にん
    戦傷せんしょう2631にん
    行方ゆくえ不明ふめいしゃ616にん
    フランスの旗 フランス共和きょうわこく
    イギリスの旗 イギリス

    戦死せんし戦傷せんしょう36まんにん
    捕虜ほりょ190まんにん
    戦車せんしゃ装甲車そうこうしゃ5,100りょう
    航空機こうくうき2,000
    フランスを侵攻しんこうするIごう戦車せんしゃIIごう戦車せんしゃ
    フランスぐんルノーB1じゅう戦車せんしゃおおくはドイツぐん迂回うかいさせた
    マンシュタインの侵攻しんこう計画けいかくふくむ4つの軍事ぐんじプラン

    ナチス・ドイツのフランス侵攻しんこう(ナチス・ドイツのフランスしんこう)は、だい世界せかい大戦たいせんなか1940ねん5月に発生はっせいしたドイツ国防こくぼうぐんをはじめとする枢軸すうじくこくぐん連合れんごうこくぐんとのベネルクスさんこくフランス北部ほくぶでの戦闘せんとうである。ドイツぐん電撃でんげきせんもっと成功せいこうおさめたれいかんがえられている。

    フランスのたたかフランス語ふらんすご: Bataille de France)、西方せいほう戦役せんえきドイツ: Westfeldzuge)ともばれる。ドイツがわ作戦さくせんめいだい1フェイズ(ベネルクスさんこく、フランス北部ほくぶ侵攻しんこう)が黄色おうしょく作戦さくせんFall Gelb、ファル・ゲルプ)、だい2フェイズ(ソンムがわ以南いなんへの侵攻しんこう)が赤色あかいろ作戦さくせんFall Rot、ファル・ロート)である。

    概要がいよう[編集へんしゅう]

    1939ねん9がつ1にちドイツぐんポーランドに侵攻しんこうしたことをけて9がつ3にちフランスイギリスとともにドイツ宣戦せんせん布告ふこくしたが、フランス・ドイツ国境こっきょう地帯ちたいアルザス=ロレーヌ)において戦闘せんとうはほとんどこらず、フランスじんうところの「奇妙きみょう戦争せんそう」の様子ようすせていた。

    開戦かいせんから半年はんとし以上いじょうぎた1940ねん5がつ10日とおか、ドイツぐんオランダベルギールクセンブルクベネルクスさんこく侵攻しんこう開始かいし。ベルギー北部ほくぶ防御ぼうぎょせん展開てんかいするという戦前せんぜんからの計画けいかくディール計画けいかく英語えいごばん)にしたがってフランス・イギリス連合れんごうぐんぐん主力しゅりょくをベルギー方面ほうめん進出しんしゅつさせ、フランス・ドイツ国境こっきょう地帯ちたいにおいてもマジノ要塞ようさいはさんでドイツぐん対峙たいじしていたが、ドイツぐんはベネルクスさんこくとマジノ要塞ようさい中間ちゅうかん位置いちし、フランスぐん防御ぼうぎょ手薄てうすとなっていたアルデンヌのもりから装甲そうこう部隊ぶたい進撃しんげきさせた。

    5月15にち、ドイツ装甲そうこう部隊ぶたいスダン(セダン)付近ふきんミューズかわわた[5]、5月20にちには英仏海峡えいふつかいきょう到達とうたつし、えいふつぐん左翼さよく包囲ほういされてしまった。5月21にち、22にちに、ドイツぐん突出とっしゅつってしまうためのえいふつぐん反撃はんげきおこなわれたが失敗しっぱいした。5月28にちには、ベルギーは降伏ごうぶくした。5月まつ包囲ほういされたえいふつぐんおおくはイギリス本土ほんどへの撤退てったいにかろうじて成功せいこうした(ダイナモ作戦さくせん)がじゅう装備そうびはすべてうしなわれた。

    フランスがわは、ソンムかわ沿いの防衛ぼうえいせんウェイガン・ラインで防衛ぼうえいする計画けいかくであったが、ソンム河南かなんがんにはすでにドイツぐん橋頭堡きょうとうほ存在そんざいしており、制空権せいくうけんはドイツがわにあり、戦力せんりょく大幅おおはば劣勢れっせいであった。

    6月5にちに、ドイツぐん南部なんぶ侵攻しんこう作戦さくせん赤色あかいろ作戦さくせん(Fall Rot)」がはじまった。

    6がつ10日とおかには、それまで様子ようすていたイタリアが、えいふつ宣戦せんせんした。

    6月14にち、ドイツぐん無防備むぼうび都市とし宣言せんげんされていたパリ無血むけつ入城にゅうじょうし、6月16にち、フランスのポール・レノー内閣ないかくそう辞職じしょくし、後継こうけいフィリップ・ペタン元帥げんすいはドイツへの休戦きゅうせんもうれた。6月22にちコンピエーニュのもりにおいて休戦きゅうせん条約じょうやく調印ちょういんされた(どくふつ休戦きゅうせん協定きょうてい)。フランスぐん大半たいはん武装ぶそう解除かいじょされ、アルザス=ロレーヌ、サヴォワニースはそれぞれドイツ、イタリア割譲かつじょうされたものの、フランスは主権しゅけん国家こっかとして存続そんぞくすることとなった。しかしパリをふく北部ほくぶフランスはドイツぐん占領せんりょうにおかれ、ペタンを首班しゅはんとするヴィシー政権せいけん影響えいきょうりょく南部なんぶ限定げんていされたうえ内政ないせい外政がいせいともにドイツの影響えいきょうかれることとなった。一方いっぽうぜん国防こくぼう次官じかんシャルル・ド・ゴールじゅんしょうはイギリスへ亡命ぼうめいして「自由じゆうフランス」を結成けっせいし、フランス国民こくみんたいどく抗戦こうせん継続けいぞくとヴィシー政権せいけんへの抵抗ていこうびかけた。

    たたかいの背景はいけい[編集へんしゅう]

    ヒトラーは、ポーランド侵攻しんこう直後ちょくご西部せいぶ戦線せんせんでの戦闘せんとう予定よていしていたが、欧州おうしゅうふゆ悪天候あくてんこう空軍くうぐん支援しえんむかいてなく、翌年よくねん延期えんきされた。一向いっこう戦闘せんとうはじまらないこの戦争せんそうを、イギリスじん、アメリカじんは「奇妙きみょう戦争せんそう」、ドイツじんは「すわ戦争せんそう」としょうした。

    マジノせん建設けんせつにより、フランス領内りょうないへの直接ちょくせつ侵攻しんこう困難こんなんとなったこともあり、当初とうしょのフランス侵攻しんこう作戦さくせん計画けいかくだいいち世界せかい大戦たいせんったシュリーフェン・プラン踏襲とうしゅうする予定よていであった。しかし1940ねん1がつ10日とおか、ドイツ空軍くうぐんだい2航空こうくう艦隊かんたい参謀さんぼう将校しょうこうが、だいいち黄色おうしょく作戦さくせんでのだい2航空こうくう艦隊かんたい運用うんよう計画けいかくしょ所持しょじしたまま、ベルギー領内りょうない不時着ふじちゃくしてベルギーぐん憲兵けんぺい逮捕たいほされ、焼却しょうきゃく失敗しっぱいした書類しょるい一部いちぶ押収おうしゅうされるという事件じけん発生はっせいした(メヘレン事件じけん)。

    そのため作戦さくせん内容ないよう連合れんごうぐんがわ漏洩ろうえいしてしまったと想定そうていせねばならず、1がつ16にちにヒトラーは作戦さくせん内容ないよう変更へんこう決意けついした。検討けんとう結果けっかだいいち世界せかい大戦たいせん従軍じゅうぐん西部せいぶ戦線せんせんでの悲惨ひさん塹壕ざんごうせん経験けいけんしていて、シュリーフェン・プランに不満ふまんいていたヒトラーの後押あとおしもあり、当時とうじ中将ちゅうじょうだったエーリッヒ・フォン・マンシュタイン作戦さくせん計画けいかくマンシュタイン計画けいかく)が採用さいようされた。これはシュリーフェン・プランと同様どうよう、ドイツぐん主力しゅりょくはベルギーからみ、英仏海峡えいふつかいきょうたっするというものではあったが、攻勢こうせい正面しょうめんをベルギー北部ほくぶ平野へいやくシュリーフェン・プランとことなり、ベルギー南部なんぶからルクセンブルクまでのアルデンヌ森林地帯しんりんちたい攻勢こうせい正面しょうめんとしていた。

    マンシュタイン計画けいかくもとづいて、ドイツぐんマジノせん対抗たいこうするCぐん集団しゅうだん、ベルギーとオランダに侵攻しんこうする歩兵ほへい主体しゅたいBぐん集団しゅうだんと、アルデンヌの森林地帯しんりんちたいける装甲そうこう師団しだん主体しゅたいAぐん集団しゅうだんみっつにかれ、1940ねん5がつ10日とおか一斉いっせい攻勢こうせい開始かいしした。これにたいし、フランスぐんイギリス海外かいがい派遣はけんぐん(BEF)は、ディール計画けいかくもとづいて、ベルギー領内りょうない進軍しんぐんした。

    たたかいの経過けいか[編集へんしゅう]

    空挺くうてい作戦さくせんによる要塞ようさい制圧せいあつ[編集へんしゅう]

    Bぐん集団しゅうだん侵攻しんこうルートにはベルギー・オランダの要塞ようさい各所かくしょ点在てんざいしており、装甲そうこう師団しだんおおく(10師団しだんちゅう、7師団しだん)は Aぐん集団しゅうだん配置はいちされたため、空挺くうてい部隊ぶたいによる制圧せいあつおこなわれた。5月10にち、ベルギーのエバン・エマール要塞ようさいにグライダーで工兵こうへい降下こうかし、かくトーチカ爆薬ばくやくけ、破壊はかい活動かつどうおこなった(翌日よくじつ歩兵ほへい部隊ぶたい到着とうちゃく制圧せいあつ)。そのもドイツぐんはオランダのかく要塞ようさい落下傘らっかさん降下こうかおこない、ロッテルダム戦略せんりゃく爆撃ばくげきおこなうなどし、オランダは戦闘せんとう能力のうりょくうしなって14にち降伏ごうぶくした。

    Aぐん集団しゅうだん進撃しんげき[編集へんしゅう]

    森林地帯しんりんちたいけたAぐん集団しゅうだんムーズがわ(ミューズがわ)の対岸たいがん遭遇そうぐうしたのは、予想よそうどお弱体じゃくたいなフランス歩兵ほへい部隊ぶたいだった。5月13にち、3装甲そうこう師団しだんスダン(セダン)で渡河とか作戦さくせん開始かいしはげしい支援しえんばくげきした橋頭堡きょうとうほ確保かくほし、15にちには渡河とか成功せいこうした[6]以後いご、ムーズがわ各所かくしょのこりの装甲そうこう師団しだん渡河とか成功せいこうし、スダン東南とうなんにおける戦闘せんとうではフランスぐん降伏ごうぶく。ドイツぐん発表はっぴょうでは司令しれいかん将官しょうかんきゅう2にんふくむ12000にん捕虜ほりょとなった[7]。ドイツぐんは、てき部隊ぶたいのいないフランス北部ほくぶをイギリス海峡かいきょうけて突進とっしんした。

    連合れんごうぐんそう退却たいきゃく[編集へんしゅう]

    5月16にち、Aぐん集団しゅうだん背後はいごへなだれんだことをらされた連合れんごうぐんそう退却たいきゃく開始かいし。しかし、機動きどうりょくまさるAぐん集団しゅうだんパリ方面ほうめんへの退却たいきゃくはばまれ、イギリス海峡かいきょう方面ほうめんへとめられていく。

    アラスのたたか[編集へんしゅう]

    5月19にち、ついにドイツAぐん集団しゅうだん先頭せんとうだい装甲そうこう師団しだんドーバー海峡かいきょうたっし、連合れんごうぐんはフランス本土ほんどからはなされてしまった。しかし、一方いっぽうハインツ・グデーリアン装甲そうこう軍団ぐんだん突出とっしゅつしすぎて後続こうぞく歩兵ほへいかく師団しだんとははなれてしまっており、連合れんごうぐん背後はいご完全かんぜん遮断しゃだんするにはいたっていなかったため、連合れんごうぐんのフランス本土ほんどへの退却たいきゃくはまだ可能かのうなようにおもわれた。英国えいこく陸軍りくぐん参謀さんぼう総長そうちょうエドムンド・アイアンサイドは、フランスぐん司令しれいがAぐん集団しゅうだんへのはんげきおよび連合れんごうぐん-フランス本土ほんどあいだ連絡れんらくせん確保かくほのための行動こうどうこさないことにごうやし、みずか作戦さくせん介入かいにゅうすることを決意けついした。ただし実際じっさいには、連合れんごうぐんはドイツBぐん集団しゅうだんによる北東ほくとう方向ほうこうからのはげしい圧迫あっぱくけており、反対はんたい方向ほうこう南方なんぽうめん転進てんしんさせる兵力へいりょく余裕よゆうはなかった。

    アイアンサイドはBEF司令しれいかんゴート子爵ししゃくジョン・ヴェリカー協議きょうぎし、フランスだい一軍いちぐん集団しゅうだん司令しれいかんガストン・ビヨット説得せっとくして、えいふつ共同きょうどうによる南方なんぽうめんへの反撃はんげきおこなうことで同意どういいたった。21にち予備よび兵力へいりょくとして温存おんぞんされていたイギリス海外かいがい派遣はけんぐん師団しだんによるアラス方面ほうめんへの反撃はんげき開始かいしされた。しかし、事前じぜん連絡れんらく不徹底ふてっていえいふつりょうぐんあいだ不和ふわにより、同時どうじおこなわれるはずであったフランス師団しだんによるカンブレー方面ほうめんへの攻撃こうげきよく22にち延期えんきされてしまった。また、これも事前じぜん確認かくにん徹底てっていにより、師団しだんによって全力ぜんりょくおこなわれるはずであった英軍えいぐんによるアラス方面ほうめんへのはんげきも、実際じっさいには戦車せんしゃ大隊だいたい歩兵ほへい大隊だいたいにフランスぐん戦車せんしゃ若干じゃっかんくわわっただけの兵力へいりょくおこなわれた。

    だが、この反撃はんげきはタイミングがよかったため予想よそう以上いじょう効果こうかをもたらした。無線むせん設備せつびをほとんどたず、ドイツぐん制空権せいくうけん掌握しょうあくされ偵察ていさつもできなかった英軍えいぐんにとってはまさに五里霧中ごりむちゅう作戦さくせん行動こうどうであったが、ちょうどアラスを迂回うかいして突進とっしんちゅうであったエルヴィン・ロンメルだいなな装甲そうこう師団しだんよこぱらかたちとなったのであった。当時とうじだいなな装甲そうこう師団しだん戦車せんしゃ連隊れんたいふたつともとお前進ぜんしんしてしまっており、アラスの南側みなみがわ進撃しんげきちゅうであった狙撃そげきへい連隊れんたい名称めいしょうは「狙撃そげきへい」だが、実態じったい自動車じどうしゃ歩兵ほへい)と砲兵ほうへいたいが、英軍えいぐん戦車せんしゃ大隊だいたいによる襲撃しゅうげきけることになった。

    本来ほんらいだいなな装甲そうこう師団しだん北側きたがわ防御ぼうぎょするはずだっただい装甲そうこう師団しだん進撃しんげきおくれており、だいなな装甲そうこう師団しだん南側みなみがわ併走へいそうしていたSS師団しだん「トーテンコップ」戦闘せんとう経験けいけんがなく、英軍えいぐん戦車せんしゃにするやたたかわずして逃亡とうぼうしてしまった。だいなな装甲そうこう師団しだんただちに対戦たいせんしゃ陣地じんち構築こうちくしてむかったが、師団しだんちょうのロンメルは不在ふざいであり、英軍えいぐんマチルダII歩兵ほへい戦車せんしゃ分厚ぶあつ装甲そうこう37mmたい戦車せんしゃほうたず、英軍えいぐん突破とっぱされてしまうかにおもわれた。しかし、前進ぜんしんしていたロンメルがもどってくるとドイツがわ陣地じんちさい構築こうちくおこない、とく88mm高射こうしゃほうによる水平すいへい射撃しゃげきがマチルダII歩兵ほへい戦車せんしゃ有効ゆうこうだったこともあり、英軍えいぐん戦車せんしゃ突進とっしんめ、撃退げきたいすることに成功せいこうした。さらに退却たいきゃくする英軍えいぐん戦車せんしゃ大隊だいたいを、救援きゅうえん要請ようせいけたドイツ空軍くうぐん急降下きゅうこうか爆撃ばくげき部隊ぶたい追撃ついげきし、英軍えいぐんによるアラス方面ほうめんへの反撃はんげきはわずか半日はんにち失敗しっぱい終結しゅうけつすることになった。

    一方いっぽうよく22にちにフランスぐんによるカンブレーへの攻撃こうげきおこなわれたが、前日ぜんじつのアラスでのたたかいで警戒けいかいつよめていたドイツ空軍くうぐんにすぐ発見はっけんされてしまい、はげしい空爆くうばくけてやむなく撤退てったいした。こうして、連合れんごうぐんによる南方なんぽうめんへの反撃はんげきはたいした戦果せんかげることもなく失敗しっぱいわった。

    しかしこのたたかいはふたつの波紋はもんんだ。ひとつは、BEF司令しれいかんゴートに英国えいこく本土ほんどへの撤退てったい決意けついさせたことと、もうひとつは連合れんごうぐん反撃はんげきしてきたことにショックをおぼえたヒトラーが、かい進撃しんげきつづける装甲そうこうかく軍団ぐんだん停止ていし命令めいれいくだしたことであった。結果けっかとして、ふたつの波紋はもんダンケルク奇跡きせきこすことになった。

    ダンケルク包囲ほういせん[編集へんしゅう]

    5月28にち、ベルギーが降伏ごうぶくした。Aぐん集団しゅうだんはイギリス海峡かいきょうブーローニュカレーなどの港湾こうわん都市とし制圧せいあつした。連合れんごうぐん西にしからはAぐん集団しゅうだん装甲そうこう部隊ぶたいみなみからは歩兵ほへいたいひがしからは追撃ついげきしてきた Bぐん集団しゅうだんによって、港湾こうわん都市としダンケルク周辺しゅうへん完全かんぜん包囲ほういされた。しかし、装甲そうこう師団しだん損害そんがいるのをおそれたヒトラーは、ゲーリングが「空軍くうぐんのみで連合れんごうぐん撃破げきはできる」と主張しゅちょうしたこともあり、5月23にち進軍しんぐん停止ていしめいじた。数日すうじつ装甲そうこう師団しだん進撃しんげき再開さいかいしたとき、ダンケルクはすでに要塞ようさいされており、ドイツぐんがこれを制圧せいあつしたのは6がつ5にち、そのあいだ連合れんごうぐん将兵しょうへい34まんにんはイギリスへの脱出だっしゅつ成功せいこうしていた。

    休戦きゅうせん協定きょうてい調印ちょういん[編集へんしゅう]

    フランス代表だいひょうとの休戦きゅうせん協定きょうてい調印ちょういんしき出席しゅっせきしたヒトラー。ゲーリングの姿すがたえる
    パリでのドイツぐんパレード
    パレードの様子ようす
    エトワール凱旋がいせんもん行進こうしんおこなうドイツぐん
    フランスぐんトゥーロン撤退てったい見送みおく市民しみん様子ようす
    1943ねん占領せんりょうでのドイツへい、パリ・シャン=ド=マルス公園こうえん

    イギリスぐん将兵しょうへい一部いちぶのフランスぐん将兵しょうへいはイギリスへ脱出だっしゅつしたものの、これは戦車せんしゃ火砲かほうなどじゅう機材きざい放棄ほうきしての脱出だっしゅつだった。そののフランスは、残存ざんそん部隊ぶたいやマジノ要塞ようさいからいた歩兵ほへい主体しゅたい部隊ぶたい防衛ぼうえいするしかなかった。イギリスぐん歩兵ほへい2師団しだんふたた派遣はけんしているが、のちにエアリアル作戦さくせん撤退てったいした。

    ダンケルク包囲ほういせんわりドイツぐん進撃しんげき再開さいかいすると、フランス政府せいふは6がつ10日とおかパリ防備ぼうび都市とし宣言せんげんして放棄ほうき政府せいふボルドーうつした。同日どうじつイタリアえいふつたい宣戦せんせん布告ふこく

    6月14にちにはドイツぐんがパリに無血むけつ入城にゅうじょうした。

    6月16にちポール・レノー辞職じしょくし、休戦きゅうせんフィリップ・ペタン首相しゅしょうとなり[8]、フランス政府せいふはドイツに休戦きゅうせんもうんだ[9]

    6月22にちだいいち世界せかい大戦たいせんにおけるドイツの休戦きゅうせん協定きょうてい締結ていけつされたコンピエーニュのもりおなじく調印ちょういん作業さぎょう使つかわれた食堂しょくどうしゃなかで、ドイツ代表だいひょうとフランス代表だいひょう休戦きゅうせん協定きょうてい調印ちょういんした(どくふつ休戦きゅうせん協定きょうてい)。

    6月25にち035ふん停戦ていせん発効はっこうした。

    フランスの敗因はいいん[編集へんしゅう]

    効果こうかがなかった同盟どうめいこく戦略せんりゃく[編集へんしゅう]

    だいいち世界せかい大戦たいせんわったのち、フランスの指導しどうは、将来しょうらいのドイツによる復讐ふくしゅうそなえて、同盟どうめいこくそだてることにした。フランスがえらんだのは、ポーランド、チェコスロバキア、ベルギーであった。ポーランド、チェコスロバキアは、せんあいだにフランスの軍事ぐんじ経済けいざい援助えんじょけて軍備ぐんび充実じゅうじつさせた。しかし、1938ねん3がつはじまったズデーテン危機ききは、1939ねん3がつに、チェコスロバキア解体かいたいという結果けっかわった。シュコダしゃ兵器へいき生産せいさん工場こうじょうやチェコスロバキアぐん装備そうびは、そっくりドイツにがれ、とくに、LT-35,LT-38戦車せんしゃは、たいフランスせん有効ゆうこう活用かつようされた。

    開戦かいせんとともに、ポーランドぐんは、期待きたいされていたドイツぐん東部とうぶ牽制けんせいする役目やくめ十分じゅうぶんたしたが、えいふつぐんは、その機会きかいかすことはなかった。ドイツがポーランドせん全力ぜんりょく注力ちゅうりょくしていた9月は、どくふつ国境こっきょうではフランスぐん圧倒的あっとうてき量的りょうてき優勢ゆうせいであったが、フランスぐんは、おちゃにご程度ていど攻勢こうせいおこなっただけで、ザール地方ちほうやく10kmほど進撃しんげきしたのち、すぐ撤退てったいしてしまった(まやかし戦争せんそう)。

    1934ねんレオポルド3せい即位そくいすると、ベルギーはフランスとの同盟どうめいから国際こくさい連盟れんめい重視じゅうし次第しだい外交がいこう方針ほうしんえ、同盟どうめい関係かんけいはやがて消滅しょうめつしてしまった。フランスがわたいどく戦略せんりゃくは、ディール計画けいかく根幹こんかんであって、ベルギー領内りょうないへのフランスぐん展開てんかい前提ぜんていとしていたにもかかわらず、両国りょうこくあいだでの協同きょうどう作戦さくせん計画けいかくられることはなかった。

    ドイツぐん戦略せんりゃくにはまりこんでいたえいふつぐん戦略せんりゃく[編集へんしゅう]

    フランスのたいどく戦略せんりゃくは、スイス国境こっきょうからアルデンヌ地区ちくまでは、マジノせん防衛ぼうえいする。ディール計画けいかくで、えいふつぐんは、ベルギーりょうディールかわまで前進ぜんしんし、そこで進撃しんげきしてくるドイツぐんをベルギーぐんとともにむかつ。アルデンヌのもりは、だい規模きぼ軍事ぐんじ行動こうどう不可能ふかのうかんがえられていたので、予備よびやくへい主体しゅたいとした弱体じゃくたいだい9ぐん守備しゅび担当たんとうした。つまり、えいふつぐん優良ゆうりょう部隊ぶたいはベルギーへ進撃しんげきして空回からまわりし、アルデンヌのもり進撃しんげきしてきたドイツぐん主力しゅりょく部隊ぶたいは、弱体じゃくたいのフランスぐんむかつことになった。

    劣勢れっせいだったそらたたか[編集へんしゅう]

    イギリス、フランス、ベルギーさんこく戦闘せんとうすうは、奇妙きみょう戦争せんそうのあとの西方せいほう戦役せんえきはじまった当時とうじは、ドイツがわよりおおかった。ドイツがわでは、”奇妙きみょう戦争せんそう”のあいだに、より高速こうそくメッサーシュミットBf109Eがた生産せいさん配備はいび順調じゅんちょうすすみドイツ空軍くうぐん主力しゅりょくになった。当時とうじ、フランス空軍くうぐん戦闘せんとうは、モランソルニエMS406、ブロックMB150、カーティスH75(P-36のフランス輸出ゆしゅつばん)などであったが、もっともすうおおいMS406は、Bf109Eにたいして目立めだっておとっていた。

    フランス空軍くうぐんで、Bf109Eに互角ごかく対抗たいこうできるのは、配備はいびはじまったばかりのドヴォアチンD520であり、政府せいふ大量たいりょう発注はっちゅうおこなっていたが、搭載とうさいエンジンの生産せいさん問題もんだいもあり、生産せいさんすうかぎられていた。イギリス空軍くうぐんでは、Bf109Eに互角ごかく対抗たいこうできる機種きしゅは、スーパーマリン・スピットファイアであったが、フランスがわ度重たびかさなる要請ようせいにもかかわらず、イギリス空軍くうぐんはスピットファイアは本国ほんごく部隊ぶたい優先ゆうせん配備はいびという方針ほうしんがんとしてえず、フランスへおくられたのは、ホーカー・ハリケーン旧式きゅうしきしたグロースター・グラディエーター飛行ひこうたいであった。

    ダンケルク以降いこうは、イギリス空軍くうぐん首脳しゅのう本国ほんごく防空ぼうくうさい優先ゆうせんとし、やはり度重たびかさなるフランスがわ要請ようせいにもかかわらず、新規しんき戦闘せんとうたいをフランスへおくることはなかった。イギリス本土ほんど南部なんぶ展開てんかいされたイギリス空軍くうぐん戦闘せんとうのほとんどは、航続こうぞく距離きょり問題もんだいがあり、フランス本土ほんど上空じょうくうでのたたかいに寄与きよすることは僅少きんしょうであった。

    ドイツの地上ちじょうぐんは、ユンカースJu-87などの地上ちじょう支援しえん攻撃こうげきつよ依存いぞんしており、低速ていそくのJu-87はてき戦闘せんとう攻撃こうげき脆弱ぜいじゃくだったが、そらたたかいはがいしてフランスがわ劣勢れっせいだったので、フランス空軍くうぐんによるJu-87の地上ちじょう攻撃こうげき妨害ぼうがい不十分ふじゅうぶんだった。

    コマンド&コントロールでの劣位れつい[編集へんしゅう]

    Robert A Doughtyによれば、1922ねんから1939ねんあいだ、フランス陸軍りくぐん通信つうしん機器ききついやしたのは、ぜん予算よさんのわずか0.15%であった[10]。1940ねんのヴィンセンヌのガムランのそう司令しれいは、無線むせん設備せつびとテレタイプをっておらず、情報じょうほう受領じゅりょう指令しれいはオートバイ伝令でんれいたよっていたが、急速きゅうそく変化へんかする状況じょうきょう対応たいおうできなかった。

    また、ドイツぐん戦車せんしゃおおくが無線むせん装備そうびしていたのにくらべて、フランスぐん戦車せんしゃの80%ちかくは無線むせん装備そうびしておらず、無線むせん装備そうびしていない戦車せんしゃとの交信こうしんは、手旗てばた信号しんごうおこなわれていた。

    なお、1940ねん5がつ21にち、レノー首相しゅしょうおこなった国会こっかい報告ほうこくちゅう敗因はいいん分析ぶんせきでは、ドイツがわにせ電話でんわにより後方こうほう攪乱かくらんおこなっていたことにれている[11]

    ドイツ装甲そうこう部隊ぶたい進軍しんぐん速度そくどについての認識にんしき不足ふそく[編集へんしゅう]

    フランスぐんはドイツぐん進撃しんげき速度そくど予測よそくできなかった。それを裏付うらづける偵察ていさつ情報じょうほう反撃はんげき機会きかいがあったにもかかわらずそのような進撃しんげき速度そくどでの前進ぜんしんは「不可能ふかのう」であるというフランスぐん司令しれいおもみによって無視むしされ、結果けっかてき反撃はんげき機会きかいうしなった。

    このドイツぐん進軍しんぐん速度そくどは、ドイツぐん一部いちぶ自動車じどうしゃされていたてん考慮こうりょしても予想よそうえるものであって、実際じっさいにドイツぐん兵士へいしさんにちさんばん不眠ふみん不休ふきゅう進軍しんぐんささえたものであった。

    このちょう人的じんてき不眠ふみん不休ふきゅう行軍こうぐんささえたのが、当時とうじ滋養じよう強壮きょうそうざいとしてドイツぐん兵士へいし支給しきゅうされた製薬せいやく会社かいしゃテムラーしゃ製造せいぞうしたペルビチンであり、その成分せいぶん現在げんざいでいうかくせいざいであった[12]

    危機ききてき状況じょうきょうでのそう司令しれいかん交替こうたい[編集へんしゅう]

    ドイツの装甲そうこう軍団ぐんだん英仏海峡えいふつかいきょう目指めざして驀進ばくしんしていた5月19にち、レイノー首相しゅしょうそう司令しれいかんのガムランを解任かいにんし、後任こうにんに、73さいマキシム・ウェイガン上級じょうきゅう大将たいしょう起用きようした。同時どうじに、ふく司令しれいかんアルフォンス・ジョルジュ上級じょうきゅう大将たいしょう解任かいにんされた。ウェイガンは、当時とうじ中東ちゅうとう戦域せんいき司令しれいかんでシリアにいたが、5月20にち帰国きこくしてガムランの司令しれいぎ、20日はつかと21にちを、前線ぜんせん視察しさつ、ベルギー国王こくおう、ゴートきょう(イギリス大陸たいりく派遣はけんぐん司令しれいかん)、ガストン・ビヨット大将たいしょう(だい1ぐん集団しゅうだん司令しれいかん)、との会合かいごうためたびついやした。20日はつかに、ドイツぐん英仏海峡えいふつかいきょう到達とうたつした。えいふつぐん大勢おおぜい挽回ばんかいするためには、自動車じどうしゃされていないドイツぐん歩兵ほへい進撃しんげき装甲そうこう部隊ぶたいいつかないため脆弱ぜいじゃくなままであるドイツぐん突出とっしゅつを、側面そくめんから攻撃こうげきしてってしまうことであった。しかし、そう司令しれいかん交替こうたいにともない貴重きちょうな2にち空費くうひし、計画けいかくされていた反撃はんげきおくれ、かつ、南北なんぼくえいふつりくそら装甲そうこう歩兵ほへい砲兵ほうへい連携れんけいいており、失敗しっぱいしてしまった。

    その[編集へんしゅう]

    どくふつ休戦きゅうせん協定きょうてい結果けっか、パリをふくむフランス北部ほくぶはドイツの占領せんりょうかれた。南部なんぶはイタリアの占領せんりょう地域ちいきのぞ部分ぶぶんのフランス政府せいふ主権しゅけんみとめられた(自由じゆう地区ちく)。フランスぐん動員どういん解除かいじょされ、占領せんりょう地区ちくにおける軍備ぐんびはドイツぐん押収おうしゅうされたうえに、南部なんぶ自由じゆう地区ちくかれた軍備ぐんびについても監視かんしき、あらたな武器ぶき製造せいぞう禁止きんしされた[13]海軍かいぐん艦艇かんていについても植民しょくみん維持いじ必要ひつようなもの以外いがいどくによって押収おうしゅうされた[13]

    7がつ1にち、フランス政府せいふ首都しゅとをボルドーからヴィシーうつした。このため、この時期じき政権せいけんヴィシー政権せいけんばれる。

    国民こくみん議会ぎかいは7がつ10日とおかには、「ペタンとその政府せいふにすべての権限けんげんあたえる」という憲法けんぽうてき法律ほうりつ成立せいりつさせた[14]。これによりフランスだいさん共和きょうわせい形成けいせいしていた原理げんり事実じじつじょう崩壊ほうかいした。ヴィシー政府せいふ敗戦はいせん反省はんせいから、「過度かど個人こじん主義しゅぎ抑制よくせい国家こっかへの忠誠ちゅうせい無視むしした教育きょういく変更へんこう宗教しゅうきょう再興さいこう」をかかげる、「国民こくみん革命かくめい」を標榜ひょうぼうした。青少年せいしょうねん軍隊ぐんたいしきのスパルタ教育きょういくほどこし、離婚りこん中絶ちゅうぜつ売春ばいしゅん禁止きんしし、カトリックを支援しえんした。経済けいざいめんでも個人こじん主義しゅぎ抑制よくせいし、社会しゃかい主義しゅぎてき労使ろうし協調きょうちょうおこなった。さらに強制きょうせい労働ろうどう義務ぎむ協力きょうりょく労働ろうどう、STOフランス語ふらんすごばん)・ユダヤじんへの迫害はくがい秘密ひみつ警察けいさつ設置せっちなどがおこなわれた。戦争せんそうにおいては中立ちゅうりつ標榜ひょうぼうしていたものの、資源しげんめんなどでドイツに協力きょうりょくした。

    徹底てってい抗戦こうせん主張しゅちょうするぜん国防こくぼう次官じかんシャルル・ド・ゴール少将しょうしょうはイギリスへ亡命ぼうめいし、自由じゆうフランス国民こくみん委員いいんかい自由じゆうフランス)を樹立じゅりつし、フランス国民こくみん抗戦こうせんびかけた。カメルーンふつりょう赤道せきどうアフリカひとし一部いちぶ植民しょくみんはこれに呼応こおうし、のちに自由じゆうフランスぐん創設そうせつされた。また、フランス国内こくないではレジスタンスがドイツぐん政府せいふたいする抵抗ていこう運動うんどうおこなった。

    イギリスのチャーチル首相しゅしょうは、フランス海軍かいぐん艦艇かんていがドイツぐんわたることをおそれ、フランス海軍かいぐん艦艇かんてい撃破げきはするため、カタパルト作戦さくせん実施じっしめいじた。イギリス海軍かいぐんH部隊ぶたいは、7がつ3にちメルセルケビールメルセルケビール海戦かいせん)、9月23にちにダカールを襲撃しゅうげきし(ダカールおき海戦かいせん)、フランス海軍かいぐん艦艇かんていだい損害そんがいあたえた。このため、ヴィシー政権せいけんとイギリスの関係かんけい戦争せんそう寸前すんぜん状況じょうきょうまで悪化あっかしたが、ヴィシー政権せいけん宣戦せんせんはしなかった。

    ドイツでは、さき大戦たいせんで4ねん以上いじょう歳月さいげつ膨大ぼうだい犠牲ぎせいはらっても達成たっせいできなかったフランスの打倒だとうを、ヒトラー自身じしんおどろいたほどの軽微けいび損害そんがい短期間たんきかん達成たっせいしたことで、国民こくみんのヒトラーにたいする支持しじ絶頂ぜっちょうむかえた。国防こくぼうぐん内部ないぶであったはんナチス運動うんどう低調ていちょうになり、ぐん内部ないぶでヒトラーの権威けんいさからうことはますます困難こんなんになった。

    このたたかおよ占領せんりょうのフランスを舞台ぶたいとした作品さくひん[編集へんしゅう]

    映画えいが
    コンピュータゲーム
    ボードゲーム
    ドキュメンタリー番組ばんぐみ
    • 「WWⅡ 最前線さいぜんせん カラーでよみがえだい世界せかい大戦たいせん」「エピソード1 電撃でんげきせん」(2019ねん配信はいしんのNetflix独自どくじ制作せいさくドキュメンタリー番組ばんぐみ

    脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

    注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

    1. ^ 途中とちゅう参謀さんぼう総長そうちょうから解任かいにん

    出典しゅってん[編集へんしゅう]

    1. ^ a b c d e f Maier and Falla 1991, p. 279.
    2. ^ Hooton 2007, pp. 47–48: Hooton uses the Bundesarchiv, Militärarchiv in Freiburg.
    3. ^ Luftwaffe strength included gliders and transports used in the assaults on the Netherlands and Belgium.
    4. ^ Hooton 2007, p. 47–48; uses the National Archives in London for RAF records, including "Air 24/679 Operational Record Book: The RAF in France 1939–1940", "Air 22/32 Air Ministry Daily Strength Returns", "Air 24/21 Advanced Air Striking Force Operations Record" and "Air 24/507 Fighter Command Operations Record". For the Armée de l'Air Hooton uses "Service Historique de Armée de l'Air (SHAA), Vincennes".
    5. ^ ドイツぐん、セダン付近ふきんでマジノせん突破とっぱ東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん昭和しょうわ15ねん5がつ16にち(『昭和しょうわニュース事典じてんだい7かん 昭和しょうわ14ねん-昭和しょうわ16ねん本編ほんぺんp366 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
    6. ^ ドイツぐん、セダン付近ふきんでマジノせん突破とっぱ東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん昭和しょうわ15ねん5がつ16にち(『昭和しょうわニュース事典じてんだい7かん 昭和しょうわ14ねん-昭和しょうわ16ねん本編ほんぺんp368)
    7. ^ ドイツぐん、マジノせん奥深おくふか猛進もうしん東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん昭和しょうわ15ねん5がつ18にち(『昭和しょうわニュース事典じてんだい7かん 昭和しょうわ14ねん-昭和しょうわ16ねん本編ほんぺんp368)
    8. ^ 村田むらた尚紀なおき 1987, p. 173.
    9. ^ The Moment France Surrendered to German Soldiers Smithsonian Channel
    10. ^ Forczyk 2017, § Introduction.
    11. ^ 奇跡きせきつのみ、ふつ首相しゅしょう敗戦はいせん報告ほうこく演説えんぜつ東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん昭和しょうわ15ねん5がつ23にち夕刊ゆうかん(『昭和しょうわニュース事典じてんだい7かん 昭和しょうわ14ねん-昭和しょうわ16ねん本編ほんぺんp369)
    12. ^ 「WW Ⅱ 最前線さいぜんせん カラーでよみがえだい世界せかい大戦たいせん エピソード1 電撃でんげきせん」〔Netflix独自どくじ制作せいさくドキュメンタリー番組ばんぐみ 2019ねん配信はいしん
    13. ^ a b 村田むらた尚紀なおき 1987, p. 176.
    14. ^ 村田むらた尚紀なおき 1987, p. 177-178.

    参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

    • 村田むらた尚紀なおき戦後せんごフランス憲法けんぽう前史ぜんし研究けんきゅうノート(いち)」『いちきょう研究けんきゅうだい11かんだい4ごう一橋大学ひとつばしだいがく、1987ねん1がつ31にち、171-182ぺーじNAID 110007620653 
    • Forczyk, Robert (2017-11-21). Case Red: The Collapse of France. Osprey Publishing. ISBN 978-1472824424 

    関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

    外部がいぶリンク[編集へんしゅう]