ダカール沖 海戦
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ダカール | |
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ジョン・カニンガム シャルル・ド・ゴール( |
ピエール・ボアソン マルセル・ランドリュー[ エミール・マリー・ラクロワ[ |
スループ3 |
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ダカール
背景 [編集 ]
1940
この
6月28
イギリス
ダカールでは、
戦闘 前 の動 き[編集 ]
このフランス
9月18
参加 戦力 [編集 ]
連合 国軍 [編集 ]
戦艦 航空 母艦 重 巡洋艦 軽 巡洋艦 駆逐 艦 - スループ
通報 艦 哨戒 艇 貨物 船 :5隻 自由 フランス:4隻 、イギリス:1隻
輸送 船 :6隻 第 101王立 海兵 旅団
ヴィシー・フランス軍 [編集 ]
戦闘 経過 [編集 ]
9月23日 [編集 ]
ダカール
9月24日 [編集 ]
ダカールの
9月25日 [編集 ]
ベヴェジールは
その後 [編集 ]
ド・ゴール(
その2
出典 [編集 ]
注 [編集 ]
- ^ ダカール
駐留 海軍 司令 官 [2]。 - ^ フランス
小数 艦隊 司令 官 [2]。 - ^ “
威嚇 ”という意味 [6]。 - ^ ダ
市街 砲撃 [9]【ビーシー二 十 四 日 同盟 】フランス政府 筋 の情報 によれば英軍 はダカール占領 の目的 を以 てダカール西北 方 のリユフイスク、その他 沿岸 に數 回 に亘 る敵前 上陸 を企圖 した、なほ電報 によればダカール沖 のイギリス軍艦 は二 十 三 日 深更 から二 十 四 日 朝 にかけ八 時 間 に亘 り濃霧 を冒 してダカール市街 を砲撃 したと云 はれる/英 艦 の砲撃 【ヴイシー二 十 三 日 同盟 】フランス政府 は英 艦隊 が二 十 三 日 午後 二 時 十 五 分 (地方 時間 )突如 佛 領 西 アフリカの要港 ダカールに對 し砲撃 を開始 した旨 公表 した、尚 ほダカール港内 には過般 フランスから同地 に急行 した佛 巡洋艦 三 隻 、驅逐 艦 三 隻 が停泊 中 である/攻撃 繼續 【ビシー二 十 三 日 同盟 】佛 政府 筋 の齎 すところによると、英 艦 のダカール港 攻撃 は二 十 三 日 夜 八 時 に至 るもなほ猛烈 に繼續 されその勢力 は戰闘 艦 二 隻 、巡洋艦 四 隻 及 び驅逐 艦 多數 から成 る極 めて強力 なもので四 隻 の軍隊 輸送 船 を伴 つてをり英 側 は軍隊 を上陸 せしめダカール港 の占領 を目的 としてゐると云 はれる(記事 おわり) - ^
アメリカ合衆国 やソビエト連邦 など世界 各国 はヴィシー政府 を正統 なフランスと承認 し、イギリスだけが拒絶 していた[14]。 - ^
姉妹 艦 ジャン・バールは未 完成 状態 でサン=ナゼールを脱出 、カサブランカに移動 した[17]。 - ^
第 一 一 、敗戰 フランスの海軍 力 [21]戰前 のフランスは主力 艦 七 隻 トン數 にして一 六 三 ,九 四 五 トンを保有 してゐた。/内譯 はクールベ、パリ、プロヴアンス、ブルターニユ、ロレーヌの二 二 ,一 八 九 トン型 五 隻 及 びダンケルク、ストラスブールの二 六 ,五 〇〇トン型 二 隻 である。その外 に建造 中 のものに三五 ,〇〇〇トン型 のリシユリユー以下 ジャンバール、クレマンソー、ガスコーグの四 隻 があつた。甲 級 巡洋艦 は七 隻 、トン數 總計 七 〇,〇〇〇トン、乙 級 巡洋艦 は既成 のもの十 一 隻 九 ,七 二 九 トン、建造 中 のもの三 隻 二 四 ,〇〇〇トンを有 してゐた。
その他 に航空 母艦 一 隻 、水上 機 母艦 一 隻 、建造 中 の航空 母艦 二 隻 を有 してゐた外 、これ等 の軍艦 に相應 した驅逐 艦 、潜水艦 等 の艦艇 を有 してゐた事 は勿論 である。要 するに英 、米 、日 に次 ぐ世界 第 四 位 の海軍 力 を有 してゐたのである。
イタリー海軍 力 はフランスと大體 伯仲 してゐたと見 ていい。イギリスの地中海 艦隊 の勢力 はイタリー海軍 に匹敵 するものであつたから地中海 に於 ては英 、佛 、伊 の三 艦隊 が均等 の勢力 を以 て鼎立 してゐたのであつた。この均等 の勢力 があつたからこそ、イギリスは地中海 のイタリー艦隊 を牽制 して地中海 の制海權 を把握 し續 けたのである。イタリーのエチオピア作戰 當時 、その空軍 がイギリス地中海 艦隊 の頭上 を亂舞 して、若 しイギリスがイタリーの行動 に差出 がましい態度 を執 れば、容赦 はせぬぞといふ示威 を試 みたので、遂 にイギリス艦隊 も恐 れをなして逃避 し、積極 的 にエチオピアの作戰 の妨碍 をなし得 なかつたのは、未 だ記憶 に新 らしい事實 である。ロ ーマ帝國 の再現 を夢 みてゐる若 きファツシヨイタリー参戰 後 も地中海 からイギリス艦隊 を追出 さねば驥足 を伸 す事 が出來 ぬ。そこでイタリーは度々 イギリス艦隊 に向 つて戰 を挑 んだのであるが、容易 にイギリスの牙城 を抜 き得 ず、依然 として地中海 の制海權 はイギリスの手中 に存 してゐる實状 である。
マジノ線 の突破 によつてフランスが降伏 した當時 、フランス艦隊 はイギリス艦隊 と共同 の行動 をとり、殆 ど無疵 に近 くまだまだ實力 を保有 してゐた。
一 國 が敗戰 の苦 敗 を嘗 めさせられたと國情 が騒然 として収拾 し得 なくなるのは、歴史 が物語 つてゐるところであるが、フランスとてもこの鐵則 からのがれることは出來 ず、飽迄抗戰 を叫 ぶ政府 が倒 れて、新 に親 獨 和平 の政府 が出來 ても、平時 と違 つて新 政府 の威令 は國内 の隅々 まで徹底 するのは難 中 の難事 であつた。
殊 に完全 な實力 を持 ち、抗戰 の意氣 に燃 えてゐる海軍 を納得 せしむることは更 に困難 があつた。こゝにフランス艦隊 がどこへ行 くかという問題 が起 きたのは當然 である。 - ^ ジブラルタルはイギリス
海軍 のH部隊 の根拠地 であった。 - ^
第 一 三 、佛 艦隊 英 の手中 に落 つ[24]獨 佛 停戰 協定 成立 の直後 七 月 三 日 午前 主力 艦 三 隻 、航空 母艦 一 隻 、驅逐 艦 三 隻 其他よりなるイギリス艦隊 は北 阿 アルゼリア領 のオラン港 に停泊 中 のダンケルク、ストラスブール兩 主力 艦 以下 のフランス艦隊 に對 して降伏 又 は自沈 を勸告 した。回答 の期間 は六 時 間 であつたが、之 に先立 ちイギリス側 は港口 に磁氣 機雷 を敷設 し、逃亡 を阻止 して置 いた。拒絶 の回答 に接 したイギリス艦隊 は午後 五 時 四 十 分 直 ちに砲撃 を開始 した。チャーチル英 首相 は四 日 の下院 で「ドイツの手 に渡 ることを阻止 する強硬 手段 である」と言明 してゐる。ドイツ側 の宣傳 では回答 期限 を待 たずに發砲 したと報 じその非 を難詰 してゐる。
フランス艦隊 は港内 の足場 の惡 いところに碇泊 してゐた上 、イギリスの砲戰 開始 當時 は汽罐 の火 を落 してゐたので、應戰 の遑のない中 に大 打撃 を蒙 つてしまつたのである。闇 打 的 攻撃 の犠牲 となつたものは主力 艦 三 隻 、航空 母艦 一 隻 、驅逐 艦 二 隻 、その他 數 隻 である。
ヴイシー政府 はイギリスの不法 行爲 を知 るや否 やアレキサンドリア軍港 にあつて英 艦 との共同 作戰 に從事 中 だつた主力 艦 一 隻 、巡洋艦 四 隻 、八吋砲装備艦三隻外小艦艇數隻に對 し「即時 アレキサンドリアを脱出 して公海 に出 でよ、場合 によつては砲撃 しても差 支 なし」との命令 を發 したが、優 力 なイギリス艦隊 に立 向 ふを得 ず、拿捕 のうへ武装 を解除 されてしまつた。ダカール港 には就役 後 間 もない新鋭 の主力 艦 リシュリュー號 が碇泊 してゐたが、七 月 八 日 英 艦 並 に飛行機 の魚雷 攻撃 を受 け大破 し艦 尾 を沈下 してしまつた。カサブランカ港 でも未 完成 の主力 艦 二 隻 が捕 拿された。その他 本國 にあつて接収 されたものは主力 艦 二 隻 、輕 巡洋艦 二 隻 、潜水 艦 、驅逐 艦 等 多數 に上 つた。
右 のやうにフランスの主力 艦 は八 隻 の中 或 は撃沈 され、或 は武装 解除 され、或 は接収 されて滿足 に殘 つてゐるのは僅 かにストラスブール一 隻 といふ惨 めな有様 である。
今 までの同盟 國 からかういふ惨 酷 な仕打 を受 けてはフランスとても黙 してはゐられない。對 英 宣戰 布告 の説 さへ出 た程 であつたが完全 にフランスがイギリスを敵 に廻 し、ドイツと共 にヨーロッパの新 秩序 を建設 するに決 したのはドイツ外交 の成果 が現 れた極 く最近 の事 である。今後 フランスはアフリカ西岸 の諸 基地 を提供 し、殘 つた海軍 力 もドイツと協力 する事 にならうが、早 く手 を打 つてフランス艦隊 を潰滅 せしめたチャーチル首相 は海上 の勝利 を得 たが、フランスを完全 にドイツに委 ねた點 に於 て必 ずしも上乗 の策 とは云 へまい。さるにてもドイツにとつてフランス艦隊 の喪失 は惜みても餘 りある事 に相違 ない。 - ^
同時 にハーミーズの艦載 艇 によるコマンド作戦 も実施 した[28]。 - ^ ドゴール
將軍 がダカール遠征 [9]【ロンドン二 十 三 日 同盟 】ロンドンに在 るフランス反 獨 政權 主席 ドゴール將軍 は英軍 援助 の下 に西 アフリカの佛 領 植民 地 ダカール攻撃 を開始 したが、英 情報 省 は二 十 三 日 右 事實 を確認 し左 の如 く發表 した ドゴール將軍 は英軍 の援助 を得 て二 十 三 日 早朝 ダカールに到着 した、其 の際 佛 軍 の抵抗 に會 つた模様 であるが事実 は未 だ明瞭 でない。ドゴール將軍 の遠征 はドイツがダカールを其 の支配 下 に収 めんと試 みつゝあるとの報道 が傳 はつた爲 め行 はれたものである(記事 おわり) - ^
仏 海軍 は通報 艦 と呼称 する。 - ^ ダカール
事件 佛 政府 態度 闡明 [9]【ヴイシー二 十 三 日 同盟 】英 艦 のダカール攻撃 事件 に關 しボードアン外相 は英國 に對 するペタン政府 の態度 を左 の通 り闡明 した今回 のダカール事件 は去 る七 月 三 日 の英 艦 に依 るオラン港 砲撃 事件 よりも遙 かに重大 なもので英國 今回 の行動 は單 に佛 艦艇 の獨 伊 側 に接収 阻止 を目的 とするが如 き簡單 なる問題 ではなく佛 領 アフリカ植民 地 の接収 を狙 つてゐるものである、我 がフランスは傷 ついたりと雖も未 だ自己 防衛 の力 を備へて居 り斯かる武力 攻撃 には武力 を以 て答 へるであらうし乍 ら我 が政府 はダカール事件 が英 佛 間 の戰爭 に迄 發展 するとは思惟 せず、英國 に對 して宣戰 を布告 するが如 き事態 には至 らぬであらう尚 ほ當地 消息通 は今回 の衝突 の動因 は豫 てアフリカ植民 地 を其 の勢力 下 に収 めんと畫策 しつつあつたドコール將軍 が佛 領 西 アフリカ植民 地 總督 ピエール・ボアツソンにドコール政權 への歸属 を命 じたに對 し同 總督 がこれを拒否 した爲 めドゴール將軍 は英 艦 に便乘 しダカール港 砲撃 を命 じたものであると語 つてゐる(記事 おわり)
脚注 [編集 ]
- ^ a b c ナチ
占領 下 のフランス 1994, p. 204b. - ^ a b c d e ペイヤール、
潜水艦 戦争 1970, p. 123. - ^
福田 誠 、光栄 出版 部 編集 『第 二 次 大戦 海戦 事典 W.W.II SEA BATTLE FILE 1939~45』、光栄 、1998年 、ISBN 4-87719-606-4、212ページ - ^ ペイヤール、
潜水艦 戦争 1970, pp. 122a-126ダカール事件 一 九 四 〇年 九 月 二 三 日 ~二 五 日 - ^
福田 誠 、松代 守弘 『War history books第 二 次 大戦 作戦 名 事典 W.W.II operation file 1939~1945』光栄 、1999年 、ISBN 4-87719-615-3、20ページ - ^ a b c d e f ペイヤール、
潜水艦 戦争 1970, p. 122b. - ^ “
英國 艦隊 突如 ダカール港 砲撃 在 倫敦 佛 反 獨 政權 主席 ドゴール将軍 遠征 ”. Taihoku Nippō, 1940.09.24. pp. 01. 2024年 7月 14日 閲覧 。 - ^ a b ナチ
占領 下 のフランス 1994, pp. 204a-205はためくロレーヌ十字 - ^ a b c “(
二 面 記事 )”. Nippu Jiji, 1940.09.27. pp. 02. 2024年 7月 14日 閲覧 。 - ^ ナチ
占領 下 のフランス 1994, pp. 56–57. - ^ ナチ
占領 下 のフランス 1994, p. 63ドイツ軍 の電撃 戦 、フランス進攻 (1940年 5月 ~6月 ) - ^ ナチ
占領 下 のフランス 1994, p. 61. - ^ ナチ
占領 下 のフランス 1994, pp. 201a-202フランスの名 において - ^ ナチ
占領 下 のフランス 1994, p. 201b. - ^ a b ナチ
占領 下 のフランス 1994, pp. 202–204ロンドンのフランス人 - ^
丸 、写真 集 世界 の戦艦 1977, p. 18. - ^
丸 、写真 集 世界 の戦艦 1977, p. 12(ジャン・バール脱出 経緯 ) - ^ ナチ
占領 下 のフランス 1994, pp. 60–62フランス降伏 - ^ ナチ
占領 下 のフランス 1994, pp. 69–73(2)ヴィシー政権 の誕生 - ^ ナチ
占領 下 のフランス 1994, pp. 77–78国土 の三 分 の二 が占領 された - ^ a b
列強 の臨戦 態勢 1941, pp. 116–117原本 209-211頁 (第 一 一 、敗戰 フランスの海軍 力 ) - ^
列強 の臨戦 態勢 1941, pp. 117–118原本 211-214頁 (第 一 二 、佛 海軍 歸属 を繞 る爭奪 戰 ) - ^
丸 、写真 集 世界 の戦艦 1977, p. 73. - ^ a b c
列強 の臨戦 態勢 1941, pp. 118–119原本 213-215頁 (第 一 三 、佛 艦隊 英 の手中 に落 つ) - ^
丸 、写真 集 世界 の戦艦 1977, p. 47(ロレーヌ接収 経緯 ) - ^
丸 、写真 集 世界 の戦艦 1977, p. 178a☆フランス☆クルーベ - ^
丸 、写真 集 世界 の戦艦 1977, p. 178b☆フランス☆パリ - ^
丸 、写真 集 世界 の戦艦 1977, p. 176☆フランス☆リシュリュー - ^ ナチ
占領 下 のフランス 1994, pp. 47a-48イギリス嫌 い - ^ “ペタン
佛 政府 斷乎 ダカール防衛 海軍 當局 戰闘 經緯 發表 ”. Taihoku Nippō, 1940.09.25. pp. 01. 2024年 7月 14日 閲覧 。 - ^ “ジブラルタル
空襲 其後も繼續 /ダカール戰況 ”. Nippu Jiji, 1940.09.25. pp. 04. 2024年 7月 14日 閲覧 。 - ^ a b c d ペイヤール、
潜水艦 戦争 1970, p. 124. - ^ a b c d ペイヤール、
潜水艦 戦争 1970, p. 125. - ^ ペイヤール、
潜水艦 戦争 1970, p. 126. - ^ “
英 佛 聯合 軍 ダカール攻略 斷念 ”. Taihoku Nippō, 1940.09.26. pp. 01. 2024年 7月 14日 閲覧 。 - ^ “ダカール
攻略 戰 モノにならず英 佛 聯合 軍 撤退 /佛 軍 の頑強 抵抗 米國 を憤激 失望 せしむ”. Nippu Jiji, 1940.09.26. pp. 05. 2024年 7月 14日 閲覧 。 - ^ “
日 獨 伊 三 國 同盟 伯 林 で本日 正式 調印 ”. Nippu Jiji, 1940.09.27. pp. 01. 2024年 7月 14日 閲覧 。 - ^
丸 、写真 集 世界 の戦艦 1977, p. 170.
参考 文献 [編集 ]
木俣 滋 郎 『第 二 次 大戦 海戦 小史 』朝日 ソノラマ、1986年 、ISBN 4-257-17072-7- レオンス・ペイヤール
著 、長塚 隆二 訳 「6大西洋 における戦闘 」『潜水艦 戦争 1939-1945』早川書房 、1973年 12月。 月間 雑誌 「丸 」編集 部 編 『丸 季刊 全 特集 写真 集 世界 の戦艦 仏 伊 ソ、ほか10ヶ国 の戦艦 のすべて THE MARU GRAPHIC SUMMER 1977』株式会社 潮 書房 〈丸 Graphic・Quarterly第 29号 〉、1977年 7月 。渡辺 和行 『ナチ占領 下 のフランス沈黙 ・抵抗 ・協力 』講談社 〈講談社 選書 メチエ34〉、1994年 12月。ISBN 4-06-258034-9。
国立 国会図書館 デジタルコレクション -国立 国会図書館 中外 商業 新報 政治 部 編 「第 四 章 今次 大戦 に於 ける海戦 の様相 」『烈 強 の臨戦 態勢 経済 力 より見 たる抗 戦力 』東洋経済新報社 、1941年 12月 。
関連 文献 [編集 ]
- Arthur Jacob Marder, Operation Menace: the Dakar expedition and the Dudley North affair , Oxford University Press, 1976