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ダカールおき海戦かいせん

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ダカールおき海戦かいせん

イギリス艦隊かんたい交戦こうせんちゅうのフランス巡洋艦じゅんようかん
戦争せんそうだい世界せかい大戦たいせん
年月日ねんがっぴ1940ねん9月23にち25にち
場所ばしょ西にしアフリカダカール
結果けっか:ヴィシー・フランスの勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
イギリスの旗 イギリス帝国ていこく
オーストラリアの旗 オーストラリア
自由フランス軍 自由じゆうフランスぐん
フランスの旗 フランスこく
指導しどうしゃ指揮しきかん
ジョン・カニンガム英語えいごばん中将ちゅうじょう
シャルル・ド・ゴール自由じゆうフランス首長しゅちょう[1]
ピエール・ボアソン英語えいごばん中将ちゅうじょう
マルセル・ランドリュー[注釈ちゅうしゃく 1]
エミール・マリー・ラクロワ[注釈ちゅうしゃく 2]
戦力せんりょく
戦艦せんかん2
航空こうくう母艦ぼかん1
じゅう巡洋艦じゅんようかん3
駆逐くちくかん10
スループ3
輸送ゆそうせん6
完成かんせい戦艦せんかん1
けい巡洋艦じゅんようかん2
駆逐くちくかん4
潜水せんすいかん3
損害そんがい
戦艦せんかん1大破たいはじゅうじゅん1ちゅうやぶ駆逐くちくかん2大破たいは戦艦せんかん1小破しょうは 潜水せんすいかん2沈没ちんぼつ駆逐くちくかん1大破たいは戦艦せんかん1ちゅうやぶ

ダカールおき海戦かいせん[3](ダカールおきかいせん)は、だい世界せかい大戦たいせんなかの1940ねん9がつ下旬げじゅんイギリス海軍かいぐん主力しゅりょくとする連合れんごう国軍こくぐんと、フランス海軍かいぐんヴィシー政権せいけん)とのあいだおこなわれた戦闘せんとう[4]作戦さくせんめいメネス作戦さくせん[5]Operation Menace[注釈ちゅうしゃく 3]ドゴール将軍しょうぐんひきいる自由じゆうフランスぐんがイギリス艦隊かんたい支援しえんしたフランスりょう西にしアフリカダカールげんセネガル)へ上陸じょうりくしようとしたが[7]ヴィシーぐん英語えいごばん拒否きょひされて戦闘せんとうになる[8][注釈ちゅうしゃく 4]。 イギリス艦隊かんたいかんほう射撃しゃげき空襲くうしゅうをおこなったが、戦艦せんかんレゾリューション (HMS Resolution) が潜水せんすいかん雷撃らいげき大破たいはするなどして撃退げきたいされた。

背景はいけい[編集へんしゅう]

1940ねん昭和しょうわ15ねん)5がつドイツ国防こくぼうぐん (Wehrmacht) の侵攻しんこうにより連合れんごう国軍こくぐん西部せいぶ戦線せんせん大敗たいはいした[10][11]フランス陸軍りくぐんシャルル・ド・ゴール将軍しょうぐんはフランスからイギリスに脱出だっしゅつした[12]。そして6月18にちびかけ英語えいごばんフランス語ふらんすごばんをおこなう[13]イギリスにおいて自由じゆうフランス亡命ぼうめい政権せいけん)が樹立じゅりつ[注釈ちゅうしゃく 5]同時どうじ自由じゆうフランスぐん発足ほっそくする[15]

どう18にち19にちとも)、新鋭しんえい戦艦せんかんリシュリュー (cuirassé Richelieu) は就役しゅうえき状態じょうたいブレスト軍港ぐんこう出発しゅっぱつアフリカ大陸たいりくダカールけて脱出だっしゅつした[16][注釈ちゅうしゃく 6]。それからもなくフランスは6月22にちドイツどくふつ休戦きゅうせん協定きょうていを、6月24にちイタリア王国おうこく休戦きゅうせん協定きょうていイタリアばんフランス語ふらんすごばん締結ていけつし、事実じじつじょう降伏ごうぶくした[18]。フランスでは、フィリップ・ペタン元帥げんすいひきいるしんどく英語えいごばんヴィシー政権せいけん発足ほっそくする[19]ナチス・ドイツによるフランス占領せんりょう)。どう政権せいけん軍事ぐんじてきには中立ちゅうりつ宣言せんげんし、どう政権せいけん帰属きぞくすることになったヴィシーぐん英語えいごばんフランス語ふらんすごばんフランス海軍かいぐんも、枢軸すうじく陣営じんえいおよび連合れんごうこく双方そうほう協力きょうりょくしない立場たちばとなった[20]

この時点じてんで、フランス艦隊かんたい主力しゅりょくかんダンケルクきゅう戦艦せんかんプロヴァンスきゅう戦艦せんかんクールベきゅう戦艦せんかん)は健在けんざいであった[注釈ちゅうしゃく 7]。 フランスの脱落だつらくにより、連合れんごう国軍こくぐん(イギリス海軍かいぐん、フランス海軍かいぐん)とイタリア海軍かいぐんにらっていた地中海ちちゅうかい戦域せんいき[21]あらたな局面きょくめんをむかえる(地中海ちちゅうかい攻防こうぼうせん)。 イギリスはドイツがフランス艦隊かんたい接収せっしゅうしてドイツ海軍かいぐん (Kriegsmarine) が一挙いっきょ増強ぞうきょうされることを憂慮ゆうりょした[6][22]

6月28にち自由じゆうフランスぐん合流ごうりゅうするためフランス本土ほんど脱出だっしゅつしたエミール・ミュズリェ英語えいごばんフランス語ふらんすごばん提督ていとくジブラルタル到着とうちゃく[注釈ちゅうしゃく 8]北大西洋きたたいせいよう部隊ぶたい司令しれいかん英語えいごばんジブラルタル駐留ちゅうりゅうイギリスぐん英語えいごばん)のダドリー・ノース英語えいごばん提督ていとく出迎でむかえられた。ミュズリェ提督ていとくはドゴール将軍しょうぐんもとさんじた最初さいしょのフランス海軍かいぐん将官しょうかんであり、自由じゆうフランス海軍かいぐん (Forces navales françaises libresFNFL) をひきいることになった。

直後ちょくごの7がつ初旬しょじゅん、イギリスぐんカタパルト作戦さくせんフランス語ふらんすごばん発動はつどうする。イギリス海軍かいぐん主力しゅりょくかん3せきフッドヴァリアントレゾリューション)と空母くうぼアーク・ロイヤル (HMS Ark Royal, 91) を基幹きかんとするH部隊ぶたい指揮しきかんジェームズ・サマヴィル提督ていとく)が7がつ3にちから6にちにかけてアルジェリアオランこうメルス・エル・ケビール)に停泊ていはくしていたフランス艦隊かんたいかんほう射撃しゃげき空襲くうしゅうくわえてだい打撃だげきあたえ、ふつ戦艦せんかんストラスブールかろうじてトゥーロンんだ [23]メルセルケビール海戦かいせんレバー作戦さくせん[注釈ちゅうしゃく 9]

イギリス地中海ちちゅうかい艦隊かんたい本拠地ほんきょちアレキサンドリアみなと英語えいごばんでは、フランス地中海ちちゅうかい艦隊かんたい英語えいごばんフランス語ふらんすごばん武装ぶそう解除かいじょされ、フランス戦艦せんかんロレーヌ (cuirassé Lorraine) などが連合れんごうこく接収せっしゅうされた[25]。イギリス本国ほんごくポーツマス避難ひなんしていたフランス戦艦せんかん2せき(クルーベ、パリ)も、接収せっしゅうされた[26][27]

ふつりょう西にしアフリカダカールでは、けい空母くうぼハーミーズ (HMS Hermes, 95) とじゅうじゅん2せきオーストラリアドーセットシャー)が沖合おきあい封鎖ふうさをおこなっていた[6]。ハーミーズから発進はっしんしたソードフィッシュ艦上かんじょう攻撃こうげきだい814飛行ひこうたい英語えいごばん)が空襲くうしゅう敢行かんこうし、ダカールに停泊ていはくちゅう新鋭しんえい戦艦せんかんリシュリュー (cuirassé Richelieu) のかん魚雷ぎょらい1ほん命中めいちゅうして推進すいしんじく損害そんがいあたえた[6][注釈ちゅうしゃく 10]。だがハーミーズは味方みかた補助ほじょ巡洋艦じゅんようかんコルフ (HMS Corfu) と衝突しょうとつし、修理しゅうり余儀よぎなくされた。

一連いちれんのイギリスの攻撃こうげきにより、フランスのはんえい感情かんじょう英語えいごばんフランス語ふらんすごばん一挙いっきょたかまった[24]。ヴィシー政権せいけんは、イギリスと国交こっこう断絶だんぜつする[29]ヴィシー・フランスの外交がいこう関係かんけい英語えいごばん)。 一方いっぽう前述ぜんじゅつのようにイギリスに亡命ぼうめいしていたド・ゴール将軍しょうぐん自由じゆうフランス政府せいふ自由じゆうフランスぐん結成けっせいし(交戦こうせん団体だんたい)、ペタン元帥げんすいひきいるフランス本国ほんごくヴィシー政権せいけん対立たいりつしていた[15]。6月28にち発足ほっそく時点じてんにおける自由じゆうフランスぐん兵力へいりょくは3,000にんぎなかったが、8がつ7にちにイギリス=自由じゆうフランスあいだ協定きょうていむすばれ、増強ぞうきょうがはじまる[8]最初さいしょ自由じゆうフランスに帰属きぞくすることになったフランス海外かいがい領土りょうど植民しょくみん)は、赤道せきどうアフリカ英語えいごばんチャドカメルーンなどであった[1]。つづいてド・ゴール将軍しょうぐんセネガル首都しゅとダカールに食指しょくしをのばす[1]。 このころ、フランス国内こくないはんえい英語えいごばんしんどく英語えいごばん影響えいきょうされ、ドイツがふつりょうダカールを潜水せんすいかんUボート)の基地きちとして使用しようするうごきがあった。これを警戒けいかいしたイギリスは、ド・ゴール将軍しょうぐんのダカール攻略こうりゃく協力きょうりょくすることとした[注釈ちゅうしゃく 11]作戦さくせん方針ほうしんは、まずド・ゴール将軍しょうぐんピエール・ボワソン英語えいごばんフランス語ふらんすごばん提督ていとく(ダカール総督そうとく)を説得せっとくし、それが失敗しっぱいした場合ばあい武力ぶりょくでダカールを占領せんりょうしようとするものだった[6]

ダカールでは、すんでじゅつのように戦艦せんかんリシュリュー行動こうどう不能ふのうになっていたが[24]、フランスぐん士気しきたかかった。同地どうちにはリシュリューのほかけいじゅんプリモゲ (Primauguet) 、駆逐くちくかんル・アルディ英語えいごばん潜水せんすいかんすうせき、スループ6せきなどの戦力せんりょくがあった。

戦闘せんとうまえうご[編集へんしゅう]

上陸じょうりく部隊ぶたい自由じゆうフランスぐん歩兵ほへい2大隊だいたい)をせた輸送ゆそうせん6せき自由じゆうフランス海軍かいぐんブーゲンヴィルきゅうエランきゅうスループ[注釈ちゅうしゃく 12]3せき(サヴォルニアン・ド・ブラザ、コマンダン・デュボック、コマンダン・ドミネ)に護衛ごえいされリヴァプール出港しゅっこうし、9月13にちにイギリス艦隊かんたい合流ごうりゅうした。ダカールおき到着とうちゃくしたカニンガム英語えいごばん提督ていとくひきいる艦艇かんてい本国ほんごく艦隊かんたいH部隊ぶたいなどから抽出ちゅうしゅつされており、戦艦せんかんバーラム (HMS Barham) 、レゾリューション (HMS Resolution) 、空母くうぼアーク・ロイヤル (HMS Ark Royal, 91) 、じゅうじゅん3せきデヴォンシャ―、オーストラリア、カンバーランド)、護衛ごえい駆逐くちくかん部隊ぶたいなどであった[6]

一方いっぽうで、チャド植民しょくみん自由じゆうフランスがわについたことからヴィシー政権せいけん植民しょくみん支配しはい維持いじのため9がつ9にちけい巡洋艦じゅんようかんグロワール (Croiseur Gloire) 、モンカルム (Croiseur Montcalm) 、ジョルジュ・レイグ (Croiseur Georges Leygues) 、駆逐くちくかん3せきル・マランル・ファンタスクローダシュー)をトゥーロンから出撃しゅつげきさせた。この艦隊かんたいは9月11にち妨害ぼうがいけることなくジブラルタル海峡かいきょう通過つうかし、9月12にちにカサブランカに到着とうちゃくした。

このフランス艦隊かんたいはメナス作戦さくせん実行じっこうにとって障害しょうがいとなるため、イギリスがわはフランス艦隊かんたいとダカール到着とうちゃく阻止そししようとした。だが、それは失敗しっぱいしフランス艦隊かんたい無事ぶじダカールに到着とうちゃくした。

9月18にち、3せきのフランス巡洋艦じゅんようかんはダカールを出航しゅっこうしガボンへかったが、えい連邦れんぽうじゅうじゅん2せき発見はっけんされ追跡ついせきされた。機関きかん故障こしょうおくれたグロワールが豪州ごうしゅう海軍かいぐんじゅうじゅんオーストラリア捕捉ほそくされ、カサブランカにおくられた。のこり2せきはダカールへかえした。

参加さんか戦力せんりょく[編集へんしゅう]

連合れんごう国軍こくぐん[編集へんしゅう]

ヴィシー・フランスぐん[編集へんしゅう]

戦闘せんとう経過けいか[編集へんしゅう]

9月23にち[編集へんしゅう]

ダカールおき到着とうちゃくしたイギリス艦隊かんたいはヴィシー・フランスぐん降伏ごうぶく勧告かんこくし、拒否きょひすればダカールに上陸じょうりく作戦さくせんおこなうと通告つうこくした[30]空母くうぼアーク・ロイヤルの艦上かんじょうから投降とうこう勧告かんこくのビラをまくなど、攻撃こうげきひかえた。 つづいて自由じゆうフランスのスループ3せきみなとちかづき、軍使ぐんしがボアソン中将ちゅうじょう降伏ごうぶく勧告かんこくした。ダカールがわ降伏ごうぶく拒否きょひした[31]。 ダカールの防御ぼうぎょ拠点きょてんにはダントンきゅう戦艦せんかんから陸揚りくあげされた24センチ50口径こうけいほう英語えいごばんフランス語ふらんすごばんえつけられており、これらの沿岸えんがんほうがイギリス艦隊かんたい反撃はんげきした。 1051ふんマニュエル砲台ほうだい砲撃ほうげき開始かいし。イギリス艦隊かんたい反撃はんげきして戦闘せんとうはじまった。ダカール陣営じんえい潜水せんすいかんはメルセルケビール海戦かいせん復讐ふくしゅうえており、修理しゅうりげて出撃しゅつげきする[2]。まずフランス潜水せんすいかんペルセフランス語ふらんすごばん英語えいごばんえい巡洋艦じゅんようかん雷撃らいげきこころみたが、浅瀬あさせのためすぐに発見はっけんされてたいせん哨戒しょうかい駆逐くちくかん撃沈げきちんされた[2]。ダカール陣営じんえい通報つうほうかん救援きゅうえんかおうとしたが、砲撃ほうげきされてかえした[2]。イギリスがわじゅうじゅんカンバーランド (HMS Cumberland, 57) 、駆逐くちくかんイングルフィールド英語えいごばん (HMS Inglefield, D02) 、フォアサイト (HMS Foresight, H68) が命中めいちゅうだんちゅうやぶした。この自由じゆうフランスぐんはダカールに上陸じょうりくできなかった。また、ダカール陣営じんえいもフランス駆逐くちくかんローダシュー (L'Audacieux) が連合れんごう軍船ぐんせんだん攻撃こうげきこころみたが、えい連邦れんぽうじゅう巡洋艦じゅんようかんオーストラリアと駆逐くちくかんフューリー英語えいごばん (HMS Fury, H76) 、グレイハウンド (HMS Greyhound, H05) から捕捉ほそく攻撃こうげきされ大破たいは擱座かくざした。

9月24にち[編集へんしゅう]

ダカールの工廠こうしょう突貫とっかん修理しゅうりわらせたフランス潜水せんすいかんベヴェジールフランス語ふらんすごばん英語えいごばん出撃しゅつげきした[32]早朝そうちょう、アーク・ロイヤルの艦上かんじょうふつ戦艦せんかんリシュリューを爆撃ばくげきしたが、対空たいくう砲火ほうかはばまれて至近しきんだんのみで命中めいちゅうだんはなく3対空たいくう砲火ほうかうしなっただけであった。イギリス戦艦せんかん2せきがフランス戦艦せんかんリシュリューやマニュエル砲台ほうだいへの砲撃ほうげき開始かいしし、フランスぐん応戦おうせん。1010ふん、フランスの駆逐くちくかんル・アルディが煙幕えんまくったため、イギリス艦隊かんたい一時いちじ後退こうたいした。このころ、フランス潜水せんすいかんアジャクスフランス語ふらんすごばん英語えいごばんたいせん哨戒しょうかい爆雷ばくらいびながらえい艦隊かんたい接近せっきんしようとしたが、イギリス駆逐くちくかんフォーチュン (HMS Fortune, H70) の爆雷ばくらい攻撃こうげき沈没ちんぼつした[32]潜水せんすいかん乗組のりくみいんはフォーチュンに救助きゅうじょされた[32]午後ごご交戦こうせん再開さいかいされたが、この自由じゆうフランスぐん上陸じょうりくはできなかった。また蓄電池ちくでんちれたベヴェジールもえい艦隊かんたいへの攻撃こうげきあきらめてダカールにもどった[32]。ランスロット大尉たいい(ベヴェジール艦長かんちょう)とマルザン大佐たいさ(リシュリュー艦長かんちょう)はえい艦隊かんたい航路こうろ検討けんとうし、その予想よそうルートじょうせすることにした[33]

9月25にち[編集へんしゅう]

ベヴェジールはえい艦隊かんたい予想よそう針路しんろじょうせするため、ダカールを出撃しゅつげきした[33]。ボアソン中将ちゅうじょう街頭がいとう疾駆しっくしダカール防衛ぼうえいびかける一方いっぽう、アーク・ロイヤルの艦載かんさい攻撃こうげきおこない、つづいて830ふんにイギリス戦艦せんかん砲撃ほうげき開始かいしした。えい艦隊かんたいは、フランスぐん沿岸えんがん砲台ほうだいやリシュリューとの砲撃ほうげきせんをおこなっており、フランス潜水せんすいかん発見はっけんできなかった[33]。ベヴェジールが魚雷ぎょらい4ほん発射はっしゃし、えい戦艦せんかんレゾリューションの左舷さげん艦橋かんきょう直下ちょっか魚雷ぎょらい1ほん命中めいちゅうする[33]Rきゅう戦艦せんかんかろうじて沈没ちんぼつまぬかれ、フリータウンげていった[34]

戦闘せんとう長引ながびいたため、イギリスないかくはヴィシー・フランスとの全面ぜんめん戦争せんそう発展はってんしないように上陸じょうりく作戦さくせん中止ちゅうしめいじた。これにより結局けっきょく上陸じょうりくはなされず、ダカール攻略こうりゃくせん連合れんごう国軍こくぐん撤退てったいというかたち終了しゅうりょうした[35]

その[編集へんしゅう]

ド・ゴール(自由じゆうフランス)、イギリスの戦略せんりゃく目標もくひょうはいずれも達成たっせいされず、かえってヴィシー政権せいけんのイギリス不信ふしんつよめることになった[36][注釈ちゅうしゃく 13]。 9月27にちにはにちどくさんこく同盟どうめい締結ていけつされ、枢軸すうじく陣営じんえい成立せいりつしたが[37]、ヴィシー・フランス(フランス海軍かいぐん、アフリカのフランス植民しょくみんぐん)は中立ちゅうりつ維持いじした。

その2ねん連合れんごう国軍こくぐんによるきたアフリカ上陸じょうりく作戦さくせんトーチ作戦さくせん)がはじまる。トーチ作戦さくせん発動はつどう、アメリカぐんはヴィシー政権せいけん配慮はいりょしてド・ゴール将軍しょうぐん自由じゆうフランスぐん参加さんかさせなかったが、きたアフリカのヴィシー・フランスぐん海軍かいぐんそう司令しれいかんダルラン提督ていとく指示しじで、軽微けいび抵抗ていこうせたのみで連合れんごう国軍こくぐん講和こうわした。以後いご、リシュリュー以下いかのダカールざいはく艦艇かんてい自由じゆうフランス海軍かいぐん合流ごうりゅうした[38]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

ちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ ダカール駐留ちゅうりゅう海軍かいぐん司令しれいかん[2]
  2. ^ フランス小数しょうすう艦隊かんたい司令しれいかん[2]
  3. ^ 威嚇いかく”という意味いみ[6]
  4. ^ 市街しがい砲撃ほうげき[9]【ビーシーじゅうよんにち同盟どうめい】フランス政府せいふすじ情報じょうほうによれば英軍えいぐんはダカール占領せんりょう目的もくてきもってダカール西北せいほくかたリユフイスク、その沿岸えんがんすうかいわた敵前てきぜん上陸じょうりく企圖きとした、なほ電報でんぽうによればダカールおきのイギリス軍艦ぐんかんじゅうさんにち深更しんこうからじゅうよんにちあさにかけはちあいだわた濃霧のうむおかしてダカール市街しがい砲撃ほうげきしたとうんはれる/ えいかん砲撃ほうげき【ヴイシーじゅうさんにち同盟どうめい】フランス政府せいふえい艦隊かんたいじゅうさんにち午後ごごじゅうふん地方ちほう時間じかん突如とつじょふつりょう西にしアフリカの要港ようこうダカールにたい砲撃ほうげき開始かいししたむね公表こうひょうした、なおほダカール港内こうないには過般かはんフランスから同地どうち急行きゅうこうしたふつ巡洋艦じゅんようかんさんせき驅逐くちくかんさんせき停泊ていはくちゅうである/ 攻撃こうげき繼續けいぞく【ビシーじゅうさんにち同盟どうめいふつ政府せいふすじもたらすところによると、えいかんのダカールこう攻撃こうげきじゅうさんにちよるはちいたるもなほ猛烈もうれつ繼續けいぞくされその勢力せいりょく戰闘せんとうかんせき巡洋艦じゅんようかんよんせきおよ驅逐くちくかん多數たすうからきわめて強力きょうりょくなものでよんせき軍隊ぐんたい輸送ゆそうせんともなえつてをりえいがわ軍隊ぐんたい上陸じょうりくせしめダカールこう占領せんりょう目的もくてきとしてゐるとうんはれる(記事きじおわり)
  5. ^ アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくソビエト連邦れんぽうなど世界せかい各国かっこくはヴィシー政府せいふ正統せいとうなフランスと承認しょうにんし、イギリスだけが拒絶きょぜつしていた[14]
  6. ^ 姉妹しまいかんジャン・バール完成かんせい状態じょうたいサン=ナゼール脱出だっしゅつカサブランカ移動いどうした[17]
  7. ^ だいいちいち敗戰はいせんフランスの海軍かいぐんりょく[21] 戰前せんぜんのフランスは主力しゅりょくかんななせきトン數とんすうにしていちろくさん,きゅうよんトンを保有ほゆうしてゐた。/ 内譯うちわけクールベ英語えいごばんパリ英語えいごばんプロヴアンスブルターニユロレーヌ,いちはちきゅうトンがたせきおよダンケルクストラスブールろく,〇〇トンがたせきである。そのそと建造けんぞうちゅうのものに三五さんご,〇〇〇トンがたリシユリユー以下いかジャンバールクレマンソーガスコーグよんせきがあつた。かぶときゅう巡洋艦じゅんようかんななせきトン數とんすう總計そうけいなな〇,〇〇〇トン、おつきゅう巡洋艦じゅんようかん既成きせいのものじゅういちせききゅう,ななきゅうトン、建造けんぞうちゅうのものさんせきよん,〇〇〇トンをゆうしてゐた。
     その航空こうくう母艦ぼかんいちせき水上すいじょう母艦ぼかんいちせき建造けんぞうちゅう航空こうくう母艦ぼかんせきゆうしてゐたそと、これとう軍艦ぐんかん相應そうおうした驅逐くちくかん潜水艦せんすいかんとう艦艇かんていゆうしてゐたこと勿論もちろんである。ようするにえいべい世界せかいだいよん海軍かいぐんりょくゆうしてゐたのである。
     イタリー海軍かいぐんりょくはフランスと大體だいたい伯仲はくちゅうしてゐたとていい。イギリスの地中海ちちゅうかい艦隊かんたい勢力せいりょくはイタリー海軍かいぐん匹敵ひってきするものであつたから地中海ちちゅうかいおいてはえいふつさん艦隊かんたい均等きんとう勢力せいりょくもっ鼎立ていりつしてゐたのであつた。この均等きんとう勢力せいりょくがあつたからこそ、イギリスは地中海ちちゅうかいのイタリー艦隊かんたい牽制けんせいして地中海ちちゅうかい制海權せいかいけん把握はあくつづけたのである。イタリーのエチオピア作戰さくせん當時とうじ英語えいごばんその空軍くうぐんがイギリス地中海ちちゅうかい艦隊かんたい頭上ずじょう亂舞らんぶして、しイギリスがイタリーの行動こうどう差出さしでがましい態度たいどれば、容赦ようしゃはせぬぞといふ示威じいこころみたので、ついにイギリス艦隊かんたいおそれをなして逃避とうひし、積極せっきょくてきエチオピアの作戰さくせん妨碍ぼうがいをなしなかつたのは、いま記憶きおくしんらしい事實じじつである。マ帝國まていこく再現さいげんゆめみてゐるわかきファツシヨイタリー参戰さんせん英語えいごばん地中海ちちゅうかいからイギリス艦隊かんたい追出おいださねば驥足きそくのばこと出來できぬ。そこでイタリーは度々たびたびイギリス艦隊かんたいこうつてせんいどんだのであるが、容易よういにイギリスの牙城がじょうず、依然いぜんとして地中海ちちゅうかい制海權せいかいけんはイギリスの手中しゅちゅうそんしてゐる實状じつじょうである。
     マジノせん突破とっぱによつてフランスが降伏ごうぶくした當時とうじ、フランス艦隊かんたいはイギリス艦隊かんたい共同きょうどう行動こうどうをとり、ほとん無疵むきずちかくまだまだ實力じつりょく保有ほゆうしてゐた。
     いちこく敗戰はいせんはいめさせられたと國情こくじょう騒然そうぜんとして収拾しゅうしゅうなくなるのは、歴史れきし物語ものがたりつてゐるところであるが、フランスとてもこの鐵則てっそくからのがれることは出來できず、飽迄抗戰こうせんさけ政府せいふたおれて、しんしんどく和平わへい政府せいふ出來できても、平時へいじたがえつてしん政府せいふ威令いれい國内こくない隅々すみずみまで徹底てっていするのはなんちゅう難事なんじであつた。
     こと完全かんぜん實力じつりょくち、抗戰こうせん意氣いきえてゐる海軍かいぐん納得なっとくせしむることはさら困難こんなんがあつた。こゝにフランス艦隊かんたいがどこへくかという問題もんだいきたのは當然とうぜんである。
  8. ^ ジブラルタルはイギリス海軍かいぐんH部隊ぶたい根拠地こんきょちであった。
  9. ^ だいいちさんふつ艦隊かんたいえい手中しゅちゅう[24] どくふつ停戰ていせん協定きょうてい成立せいりつ直後ちょくごなながつさんにち午前ごぜん主力しゅりょくかんさんせき航空こうくう母艦ぼかんいちせき驅逐くちくかんさんせき其他よりなるイギリス艦隊かんたいきたおもねアルゼリアりょうのオランこう停泊ていはくちゅうのダンケルク、ストラスブールりょう主力しゅりょくかん以下いかのフランス艦隊かんたいたいして降伏ごうぶくまた自沈じちん勸告かんこくした。回答かいとう期間きかんろくあいだであつたが、これ先立さきだちイギリスがわ港口こうこう磁氣じき機雷きらい敷設ふせつし、逃亡とうぼう阻止そししていた。拒絶きょぜつ回答かいとうせっしたイギリス艦隊かんたい午後ごごよんじゅうふんただちに砲撃ほうげき開始かいしした。チャーチルえい首相しゅしょうよんにち下院かいんで「ドイツのわたることを阻止そしする強硬きょうこう手段しゅだんである」と言明げんめいしてゐる。ドイツがわ宣傳せんでんでは回答かいとう期限きげんたずに發砲はっぽうしたとほうじその難詰なんきつしてゐる。
     フランス艦隊かんたい港内こうない足場あしばわるいところに碇泊ていはくしてゐたうえ、イギリスの砲戰ほうせん開始かいし當時とうじ汽罐きかんおとしてゐたので、應戰おうせんの遑のないなかだい打撃だげきこうむつてしまつたのである。やみてき攻撃こうげき犠牲ぎせいとなつたものは主力しゅりょくかんさんせき航空こうくう母艦ぼかんいちせき驅逐くちくかんせき、そのすうせきである。
     ヴイシー政府せいふはイギリスの不法ふほう行爲こういるやいなやアレキサンドリア軍港ぐんこうにあつてえいかんとの共同きょうどう作戰さくせん從事じゅうじちゅうだつた主力しゅりょくかんいちせき巡洋艦じゅんようかんよんせき、八吋砲装備艦三隻外小艦艇數隻にたいし「即時そくじアレキサンドリアを脱出だっしゅつして公海こうかいでよ、場合ばあいによつては砲撃ほうげきしてもささえなし」との命令めいれいはっしたが、ゆうりょくなイギリス艦隊かんたいたてこうふをず、拿捕だほのうへ武装ぶそう解除かいじょされてしまつた。ダカールこうには就役しゅうえきあいだもない新鋭しんえい主力しゅりょくかんリシュリューごう碇泊ていはくしてゐたが、なながつはちにちえいかんなみ飛行機ひこうき魚雷ぎょらい攻撃こうげき大破たいはかん沈下ちんかしてしまつた。カサブランカこうでも完成かんせい主力しゅりょくかんせき拿された。その本國ほんごくにあつて接収せっしゅうされたものは主力しゅりょくかんせきけい巡洋艦じゅんようかんせき潜水せんすいかん驅逐くちくかんとう多數たすううえつた。
     みぎのやうにフランスの主力しゅりょくかんはちせきなかあるい撃沈げきちんされ、あるい武装ぶそう解除かいじょされ、あるい接収せっしゅうされて滿足まんぞくざんつてゐるのはわずかにストラスブールいちせきといふみじめな有様ありさまである。
     いままでの同盟どうめいこくからかういふむごこく仕打しうちけてはフランスとてももだしてはゐられない。たいえい宣戰せんせん布告ふこくせつさへほどであつたが完全かんぜんにフランスがイギリスをてきまわし、ドイツとともにヨーロッパのしん秩序ちつじょ建設けんせつするにけっしたのはドイツ外交がいこう成果せいかあらわれたきょく最近さいきんことである。今後こんごフランスはアフリカ西岸せいがんしょ基地きち提供ていきょうし、ざんつた海軍かいぐんりょくもドイツと協力きょうりょくすることにならうが、はやつてフランス艦隊かんたい潰滅かいめつせしめたチャーチル首相しゅしょう海上かいじょう勝利しょうりたが、フランスを完全かんぜんにドイツにゆだねたてんおいかならずしも上乗じょうじょうさくとはうんへまい。さるにてもドイツにとつてフランス艦隊かんたい喪失そうしつは惜みてもあまりあること相違そういない。
  10. ^ 同時どうじにハーミーズの艦載かんさいていによるコマンド作戦さくせん実施じっしした[28]
  11. ^ ドゴール將軍しょうぐんダカール遠征えんせい[9]【ロンドンじゅうさんにち同盟どうめい】ロンドンにるフランスはんどく政權せいけん主席しゅせきドゴール將軍しょうぐん英軍えいぐん援助えんじょした西にしアフリカのふつりょう植民しょくみんダカール攻撃こうげき開始かいししたが、えい情報じょうほうしょうじゅうさんにちみぎ事實じじつ確認かくにんひだりごと發表はっぴょうした ドゴール將軍しょうぐん英軍えいぐん援助えんじょじゅうさんにち早朝そうちょうダカールに到着とうちゃくした、さいふつぐん抵抗ていこうかいつた模様もようであるが事実じじついま明瞭めいりょうでない。ドゴール將軍しょうぐん遠征えんせいはドイツがダカールを支配しはいおさめんとこころみつゝあるとの報道ほうどうつてはつたためぎょうはれたものである(記事きじおわり)
  12. ^ ふつ海軍かいぐん通報つうほうかん呼称こしょうする。
  13. ^ ダカール事件じけん ふつ政府せいふ態度たいど闡明せんめい[9]【ヴイシーじゅうさんにち同盟どうめいえいかんのダカール攻撃こうげき事件じけんかんしボードアン外相がいしょう英國えいこくたいするペタン政府せいふ態度たいどひだりとお闡明せんめいした 今回こんかいのダカール事件じけんなながつさんにちえいかんるオランこう砲撃ほうげき事件じけんよりもはるかに重大じゅうだいなもので英國えいこく今回こんかい行動こうどうたんふつ艦艇かんていどくがわ接収せっしゅう阻止そし目的もくてきとするがごと簡單かんたんなる問題もんだいではなくふつりょうアフリカ植民しょくみん接収せっしゅうねらえつてゐるものである、がフランスはきずついたりと雖もいま自己じこ防衛ぼうえいちからを備へてり斯かる武力ぶりょく攻撃こうげきには武力ぶりょくもっこたえへるであらうしかしなが政府せいふはダカール事件じけんえいふつあいだ戰爭せんそうまで發展はってんするとは思惟しいせず、英國えいこくたいして宣戰せんせん布告ふこくするがごと事態じたいにはいたらぬであらう なお當地とうち消息通しょうそくつう今回こんかい衝突しょうとつ動因どういんかねてアフリカ植民しょくみん勢力せいりょくおさめんと畫策かくさくしつつあつたドコール將軍しょうぐんふつりょう西にしアフリカ植民しょくみん總督そうとくピエール・ボアツソンにドコール政權せいけんへの歸属きぞくめいじたにたいどう總督そうとくがこれを拒否きょひしたためめドゴール將軍しょうぐんえいかん便乘びんじょうしダカールこう砲撃ほうげきめいじたものであるとかたりつてゐる(記事きじおわり)

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c ナチ占領せんりょうのフランス 1994, p. 204b.
  2. ^ a b c d e ペイヤール、潜水艦せんすいかん戦争せんそう 1970, p. 123.
  3. ^ 福田ふくだまこと光栄こうえい出版しゅっぱん 編集へんしゅうだい大戦たいせん海戦かいせん事典じてん W.W.II SEA BATTLE FILE 1939~45』、光栄こうえい、1998ねんISBN 4-87719-606-4、212ページ
  4. ^ ペイヤール、潜水艦せんすいかん戦争せんそう 1970, pp. 122a-126ダカール事件じけん いちきゅうよんねんきゅうがつさんにちにち
  5. ^ 福田ふくだまこと松代まつだい守弘もりひろ『War history books だい大戦たいせん作戦さくせんめい事典じてん  W.W.II operation file 1939~1945』光栄こうえい、1999ねんISBN 4-87719-615-3、20ページ
  6. ^ a b c d e f ペイヤール、潜水艦せんすいかん戦争せんそう 1970, p. 122b.
  7. ^ 英國えいこく艦隊かんたい突如とつじょ ダカールこう砲撃ほうげき ざい倫敦ろんどんふつはんどく政權せいけん主席しゅせきドゴール将軍しょうぐん遠征えんせい”. Taihoku Nippō, 1940.09.24. pp. 01. 2024ねん7がつ14にち閲覧えつらん
  8. ^ a b ナチ占領せんりょうのフランス 1994, pp. 204a-205はためくロレーヌ十字じゅうじ
  9. ^ a b c めん記事きじ”. Nippu Jiji, 1940.09.27. pp. 02. 2024ねん7がつ14にち閲覧えつらん
  10. ^ ナチ占領せんりょうのフランス 1994, pp. 56–57.
  11. ^ ナチ占領せんりょうのフランス 1994, p. 63ドイツぐん電撃でんげきせん、フランス進攻しんこう(1940ねん5がつ~6がつ)
  12. ^ ナチ占領せんりょうのフランス 1994, p. 61.
  13. ^ ナチ占領せんりょうのフランス 1994, pp. 201a-202フランスのにおいて
  14. ^ ナチ占領せんりょうのフランス 1994, p. 201b.
  15. ^ a b ナチ占領せんりょうのフランス 1994, pp. 202–204ロンドンのフランスじん
  16. ^ まる写真しゃしんしゅう世界せかい戦艦せんかん 1977, p. 18.
  17. ^ まる写真しゃしんしゅう世界せかい戦艦せんかん 1977, p. 12(ジャン・バール脱出だっしゅつ経緯けいい)
  18. ^ ナチ占領せんりょうのフランス 1994, pp. 60–62フランス降伏ごうぶく
  19. ^ ナチ占領せんりょうのフランス 1994, pp. 69–73(2)ヴィシー政権せいけん誕生たんじょう
  20. ^ ナチ占領せんりょうのフランス 1994, pp. 77–78国土こくどさんぶん占領せんりょうされた
  21. ^ a b 列強れっきょう臨戦りんせん態勢たいせい 1941, pp. 116–117原本げんぽん209-211ぺーじ(だいいちいち敗戰はいせんフランスの海軍かいぐんりょく)
  22. ^ 列強れっきょう臨戦りんせん態勢たいせい 1941, pp. 117–118原本げんぽん211-214ぺーじ(だいいちふつ海軍かいぐん歸属きぞくにょう爭奪そうだつせん)
  23. ^ まる写真しゃしんしゅう世界せかい戦艦せんかん 1977, p. 73.
  24. ^ a b c 列強れっきょう臨戦りんせん態勢たいせい 1941, pp. 118–119原本げんぽん213-215ぺーじ(だいいちさんふつ艦隊かんたいえい手中しゅちゅうつ)
  25. ^ まる写真しゃしんしゅう世界せかい戦艦せんかん 1977, p. 47(ロレーヌ接収せっしゅう経緯けいい)
  26. ^ まる写真しゃしんしゅう世界せかい戦艦せんかん 1977, p. 178a☆フランス☆クルーベ
  27. ^ まる写真しゃしんしゅう世界せかい戦艦せんかん 1977, p. 178b☆フランス☆パリ
  28. ^ まる写真しゃしんしゅう世界せかい戦艦せんかん 1977, p. 176☆フランス☆リシュリュー
  29. ^ ナチ占領せんりょうのフランス 1994, pp. 47a-48イギリスぎら
  30. ^ ペタンふつ政府せいふ 斷乎だんこダカール防衛ぼうえい 海軍かいぐん當局とうきょく戰闘せんとう經緯けいい發表はっぴょう”. Taihoku Nippō, 1940.09.25. pp. 01. 2024ねん7がつ14にち閲覧えつらん
  31. ^ ジブラルタル空襲くうしゅう其後も繼續けいぞく/ダカール戰況せんきょう”. Nippu Jiji, 1940.09.25. pp. 04. 2024ねん7がつ14にち閲覧えつらん
  32. ^ a b c d ペイヤール、潜水艦せんすいかん戦争せんそう 1970, p. 124.
  33. ^ a b c d ペイヤール、潜水艦せんすいかん戦争せんそう 1970, p. 125.
  34. ^ ペイヤール、潜水艦せんすいかん戦争せんそう 1970, p. 126.
  35. ^ えいふつ聯合れんごうぐん ダカール攻略こうりゃく斷念だんねん”. Taihoku Nippō, 1940.09.26. pp. 01. 2024ねん7がつ14にち閲覧えつらん
  36. ^ ダカール攻略こうりゃくせん モノにならず えいふつ聯合れんごうぐん撤退てったい / ふつぐん頑強がんきょう抵抗ていこう 米國べいこく憤激ふんげき失望しつぼうせしむ”. Nippu Jiji, 1940.09.26. pp. 05. 2024ねん7がつ14にち閲覧えつらん
  37. ^ にちどくさんこく同盟どうめい はくりん本日ほんじつ正式せいしき調印ちょういん”. Nippu Jiji, 1940.09.27. pp. 01. 2024ねん7がつ14にち閲覧えつらん
  38. ^ まる写真しゃしんしゅう世界せかい戦艦せんかん 1977, p. 170.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 木俣きまたしげるろうだい大戦たいせん海戦かいせん小史しょうし朝日あさひソノラマ、1986ねんISBN 4-257-17072-7
  • レオンス・ペイヤール ちょ長塚ながつか隆二りゅうじ やく「6 大西洋たいせいようにおける戦闘せんとう」『潜水艦せんすいかん戦争せんそう 1939-1945早川書房はやかわしょぼう、1973ねん12月。 
  • 月間げっかん雑誌ざっしまる編集へんしゅうへんまる季刊きかん ぜん特集とくしゅう 写真しゃしんしゅう 世界せかい戦艦せんかん ふつソ、ほか10ヶ国かこく戦艦せんかんのすべて THE MARU GRAPHIC SUMMER 1977株式会社かぶしきがいしゃしお書房しょぼうまる Graphic・Quarterly だい29ごう〉、1977ねん7がつ 
  • 渡辺わたなべ和行かずゆき『ナチ占領せんりょうのフランス 沈黙ちんもく抵抗ていこう協力きょうりょく講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ選書せんしょメチエ34〉、1994ねん12月。ISBN 4-06-258034-9 

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]