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コマンダン・テスト (水上すいじょう母艦ぼかん)

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コマンダン・テスト
アメリカ海軍の1942年11月9日版識別用写真
アメリカ海軍かいぐんの1942ねん11月9にちばん識別しきべつよう写真しゃしん
基本きほん情報じょうほう
建造けんぞうしょ ジロンド造船ぞうせんしょ
運用うんようしゃ  フランス海軍かいぐん
かんしゅ 水上すいじょう母艦ぼかん
かんれき
起工きこう 1927ねん9月6にち
進水しんすい 1929ねん4がつ12にち
就役しゅうえき 1932ねん
最期さいご 1942ねん11月27にち、トゥーロンにて自沈じちん
1963ねん解体かいたい完了かんりょう
除籍じょせき 1950ねん
要目ようもく
基準きじゅん排水はいすいりょう 10,000トン
満載まんさい排水はいすいりょう 12,134トン
全長ぜんちょう 167.0m
水線すいせんちょう 156.3m
最大さいだいはば 27.0m
吃水きっすい 6.7m
ボイラー ヤーロー・ロアールしき重油じゅうゆ石炭せきたんこんしょうみずかんかん4
おも シュナイダー・ツェリーしきギヤード・タービン22じく推進すいしん
出力しゅつりょく 21,000hp
最大さいだい速力そくりょく 20.5ノット
燃料ねんりょう 石炭せきたん:720トン
重油じゅうゆ:290トン
航続こうぞく距離きょり 10ノット/6,000うみさと
乗員じょういん 686めい
へいそう 1927ねんがた10cm(45口径こうけいたんそう高角こうかくほう 1212もん
1925ねんがた37mm(60口径こうけいたんそう機関きかんほう 88もん
1929ねんがた13.2mm(76口径こうけい連装れんそう機銃きじゅう 612もん
装甲そうこう 舷側げんそく:50mm(水線すいせん
甲板かんぱん:50mm(しゅ甲板かんぱん
舵機だきしつ:26mm(さいあつ
司令塔しれいとう:80mm(がわたて)、30mm(天蓋てんがい
搭載とうさい 水上すいじょう26
カタパルト4あげおさむクレーン5
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コマンダン・テスト (Commandant Teste) はだいいち世界せかい大戦たいせんのちフランス海軍かいぐん建造けんぞうした水上すいじょう母艦ぼかん同型どうけいかんはない。

フランス海軍かいぐんのパイロットで、1920ねん当時とうじ建造けんぞうちゅうだったフランスはつ空母くうぼベアルン」への発着はっちゃくかん成功せいこうさせたポール・テスト少佐しょうさ1925ねん事故死じこしし、死後しご中佐ちゅうさ昇進しょうしん)にちなみ命名めいめいされた。なお、コマンダンとはフランス語ふらんすご司令しれいかんあるいは指揮しきかんである。

概要がいよう[編集へんしゅう]

フランス海軍かいぐんの1926年度ねんど海軍かいぐん計画けいかくにおいて水上すいじょう母艦ぼかん1せき整備せいびすることが議会ぎかい承認しょうにんされた。それが「コマンダン・テスト」である。水上すいじょう母艦ぼかんとしての哨戒しょうかい任務にんむ艦隊かんたい水上すいじょう整備せいび補給ほきゅうおこな工作こうさくかんとしての施設しせつ設計せっけいまれた。船体せんたいにはながさ84メートル×はば27メートルの格納庫かくのうこカタパルト4能力のうりょく5~12トンのクレーン5など本格ほんかくてき航空こうくう装備そうび補修ほしゅうよう工作こうさく設備せつびゆうする水上すいじょう母艦ぼかんとなった。自衛じえいようとして10cmたんそう高角こうかくほう12もん各種かくしゅ対空たいくう火器かき搭載とうさいし、防御ぼうぎょ装甲そうこう舷側げんそくしゅ甲板かんぱんに50mm装甲そうこうるなどいち世代せだいまえけい巡洋艦じゅんようかんなみであった。

搭載とうさいおも水上すいじょう攻撃こうげき小型こがた飛行ひこうていで、1930年代ねんだい後半こうはんにはラテコエール 298水上すいじょう攻撃こうげき12ロワール・ニューポール 130小型こがた飛行ひこうてい14搭載とうさいしていた。

かんれき[編集へんしゅう]

1926年度ねんど計画けいかく建造けんぞう。1927ねん9がつ6にちにジロンド造船ぞうせんしょ起工きこうし、1929ねん4がつ12にち進水しんすい、1932ねん竣工しゅんこうした。就役しゅうえき地中海ちちゅうかい艦隊かんたい英語えいごばん協力きょうりょくして就役しゅうえき試験しけんおこなった。1935ねん11月から1936ねん8がつまで改修かいしゅうされ、10cm高角こうかくほうぼうだて英語えいごばんほどこされた。1937ねん9がつからは、オラン拠点きょてんき、スペイン内戦ないせんなか中立ちゅうりつせん通商つうしょう破壊はかいから護衛ごえいする任務にんむいていた[1]。1938ねん2がつトゥーロンでカタパルトを改装かいそうし、フランス本土ほんどきたアフリカのフランス植民しょくみんとのあいだ航空機こうくうき輸送ゆそうする任務にんむいた[1]

1939ねん8がつ、6ロワール 130と8Late298み、オランにけて出航しゅっこうした。その翌月よくげつだい世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつした。1939ねん12がつまできたアフリカの海域かいいきにとどまり、そのトゥーロンにもどって飛行機ひこうき陸揚りくあげした。1940年代ねんだい前半ぜんはんはフランス本土ほんどきたアフリカ植民しょくみんとのあいだ航空機こうくうき輸送ゆそう担当たんとうした。

1940ねん6がつ下旬げじゅん過密かみつ錨地びょうちとなったオランからメルセルケビールうつされた。1940ねん7がつ3にち、イギリスによるメルセルケビール海戦かいせん砲弾ほうだん破片はへんによって小破しょうはしたが、死傷ししょうしゃはなかった。10月18にちにトゥーロンに到着とうちゃくし、武装ぶそう解除かいじょされた。1941ねん6がつ砲撃ほうげき訓練くんれんせんとしてさい就役しゅうえきした。

ドイツがヴィシーフランス侵攻しんこうアントン作戦さくせん)したとき、「コマンダン・テスト」はトゥーロンに停泊ていはくしていた。ドイツぐんはトゥーロンのフランス艦艇かんてい奪取だっしゅしようとしたが、1942ねん11月27にち、フランス海軍かいぐん指揮しきかんたちはトゥーロンに停泊ていはくしていたぜん艦艇かんてい一斉いっせい自沈じちんさせた。1943ねん5がつ1にちにイタリアぐんによって浮揚ふようされたが、イタリアが降伏ごうぶくしたため9がつにドイツぐん鹵獲ろかくされたのち、1944ねん8がつ18〜19にち連合れんごうぐんばくげきけて沈没ちんぼつした[2]

1945ねん2がつさい浮揚ふようされ、修復しゅうふくして高速こうそく軍隊ぐんたい輸送ゆそうかん練習れんしゅう空母くうぼ改造かいぞうすることが検討けんとうされた。このあん最終さいしゅうてき却下きゃっかされ、1950ねん5がつ15にちにスクラップよう売却ばいきゃくされ、1963ねん解体かいたいされた。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b Jordan, John (2003). “Aircraft Transport Commandant Teste”. In Preston, Antony. Warship 2002-2003. London: Conway Maritime Press. pp. 26–36. ISBN 0-85177-926-3 
  2. ^ Dodson, Aidan, Dr.; Swetnam, Deryck (1997). “Current Status of Sunken Warships”. Warship International (Toledo, OH: International Naval Research Organization) XXXIV (3): 310. ISSN 0043-0374. 

参考さんこう図書としょ[編集へんしゅう]

参考さんこうリンク[編集へんしゅう]