ユリウス・シュトライヒャー

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ユリウス・シュトライヒャー
Julius Streicher
生年月日せいねんがっぴ (1885-02-12) 1885ねん2がつ12にち
出生しゅっしょう ドイツの旗 ドイツ帝国ていこく
バイエルン王国の旗 バイエルン王国おうこく フラインハウゼン
ぼつ年月日ねんがっぴ (1946-10-16) 1946ねん10月16にち(61さいぼつ
死没しぼつ 連合れんごう国軍こくぐん占領せんりょうのドイツ
バイエルンしゅう ニュルンベルク
ぜんしょく 教師きょうし陸軍りくぐん少尉しょうい
所属しょぞく政党せいとう ドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとうドイツ社会しゃかい主義しゅぎとう国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとうだいドイツ民族みんぞく共同きょうどうたい国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう
称号しょうごう 突撃とつげきたい大将たいしょう一級いっきゅうてつじゅうあきら
配偶はいぐうしゃ クニグンデ・ロート
アデーレ・タッペ
サイン

国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう
ニュルンベルクフュルトだい管区かんく指導しどうしゃ
在任ざいにん期間きかん 1925ねん - 1929ねん

国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう
フランケンだい管区かんく指導しどうしゃ
在任ざいにん期間きかん 1929ねん - 1940ねん2がつ16にち

当選とうせん回数かいすう 3かい
在任ざいにん期間きかん 1932ねん7がつ31にち - 1945ねん5月8にち
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ユリウス・シュトライヒャー
Julius Streicher
所属しょぞく組織そしき ドイツ帝国ていこく陸軍りくぐん
突撃とつげきたい
ぐんれき 1914ねん - 1918ねん
1934ねん - 1945ねん
最終さいしゅう階級かいきゅう 陸軍りくぐん少尉しょうい
突撃とつげきたい大将たいしょう
除隊じょたい 戦争せんそう犯罪はんざいじんとして、ニュルンベルク裁判さいばんにおいて絞首刑こうしゅけい
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ユリウス・シュトライヒャードイツ: Julius Streicher, 1885ねん2がつ12にち - 1946ねん10月16にち)は、ドイツ政治せいじ、ジャーナリスト。はんユダヤ主義しゅぎ新聞しんぶんシュテュルマー(Der Stürmer)』の発行はっこうじん

1922ねん国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう(ナチとう)に入党にゅうとう。ナチとう初期しょきころには主要しゅよう幹部かんぶ一人ひとりであった。1923ねんから『シュテュルマー』発行はっこうし、強烈きょうれつはんユダヤ主義しゅぎ報道ほうどうおこなった。1925ねんニュルンベルク管轄かんかつするフランケンだい管区かんく指導しどうしゃとなるが、だい世界せかい大戦たいせんなか1940ねん空軍くうぐんそう司令しれいかんヘルマン・ゲーリング国家こっか元帥げんすい対立たいりつふかめて解任かいにんされた。戦後せんごニュルンベルク裁判さいばんでユダヤじん虐殺ぎゃくさつ煽動せんどうした戦犯せんぱんとして起訴きそされ、絞首刑こうしゅけい判決はんけつけて刑死けいしした。

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

ナチとう入党にゅうとうまで[編集へんしゅう]

1885ねんドイツ帝国ていこくりょうくにバイエルン王国おうこく南部なんぶフラインハウゼンドイツばんまれる。ちち教師きょうしのフリードリヒ・シュトライヒャー(Friedrich Streicher)。はははそのつまアンナ(Anna)。一家いっかカトリック家庭かていで、シュトライヒャーはきゅうだった。ちち同様どうよう小学校しょうがっこう教師きょうしとなり、1909ねんニュルンベルク移住いじゅうした[1]かれだいいち世界せかい大戦たいせんまえドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとう(SPD)の党員とういんだった[2]

1913ねんにはパンむすめのクニグンデ・ロート(Kunigunde Roth)と最初さいしょ結婚けっこんをしにん息子むすこをもうけているが、1943ねんつま死別しべつした。

だいいち世界せかい大戦たいせんとき陸軍りくぐん従軍じゅうぐん危険きけん任務にんむみずかすすんでけ、戦功せんこうをたてた。少尉しょういまで昇進しょうしんし、一級いっきゅうてつじゅうあきら授与じゅよされた[3]

戦後せんごフランケン地方ちほうはんユダヤ主義しゅぎ政党せいとうドイツ社会しゃかい主義しゅぎとうドイツばん創設そうせつした[4]

ナチとう初期しょき活動かつどう[編集へんしゅう]

1922ねん10がつミュンヘンアドルフ・ヒトラー演説えんぜついたシュトライヒャーはヒトラーのとりことなった。シュトライヒャーはその聴衆ちょうしゅうをかきけてすすみ、「自分じぶんとうぞくする2000にん党員とういんおくものとしてささげたい」とヒトラーにもうたといわれる[5]

部下ぶかたちとともにナチとう入党にゅうとうしたシュトライヒャーは、ニュルンベルクに最初さいしょのナチとう支部しぶ創設そうせつどう支部しぶ支部しぶちょう就任しゅうにんした[1]。さらにシュトライヒャーのイニシアチブのしたにフランケン地方ちほうまち々に13のナチとう支部しぶ創設そうせつされていった[6]。ヒトラーへのつよ忠誠ちゅうせいしんきたバイエルンのとう建設けんせつ功績こうせきでヒトラーはシュトライヒャーに多大ただい信任しんにんせていた。かれきたバイエルンにおけるヒトラーの総統そうとう代理だいりにんじられていた[7]1920年代ねんだい前半ぜんはんのシュトライヒャーはナチス中枢ちゅうすう幹部かんぶであったといえる。しかしシュトライヒャーは政敵せいてきあらそいをこすことおおく、よく裁判さいばん沙汰ざたになり、とう厄介やっかいごとをもたらすことめずらしくはなかった。ポルノグラフィー夢中むちゅうになったり、つねいぬむちあるくといった奇妙きみょう習慣しゅうかんのために評判ひょうばんわる人物じんぶつであった[6]

1923ねん5がつには悪名あくめいたかはんユダヤ主義しゅぎ新聞しんぶんシュテュルマー(Der Stürmer)』(突撃とつげきへいないし前衛ぜんえい)を創刊そうかんしている。『シュテュルマー』は著名ちょめい歴史れきし学者がくしゃであったハインリヒ・フォン・トライチュケ言葉ことばユダヤじん我々われわれドイツじんわざわいである」を毎号まいごうかくページの下段げだんかかげるほか、読者どくしゃ感情かんじょうさかなでするような過激かげき見出みだもちいて、たとえば猟奇りょうきてき性的せいてき犯罪はんざいなどをでっちあげて掲載けいさいし、ユダヤじん誹謗ひぼう中傷ちゅうしょうした。あまりに下品げひん俗悪ぞくあく内容ないようとう幹部かんぶ国防こくぼうぐん将校しょうこうたち、ナチス支持しじしゃ財界ざいかいひとなどからさえ批判ひはんこえがっていた。戦時せんじちゅう連合れんごうこくプロパガンダにも『シュテュルマー』はナチの悪徳あくとくぶりをしめ証拠しょうことしてさかんに利用りようされた。『シュテュルマー』の発行はっこう部数ぶすうは1923ねんには2500だったが、1935ねんには6まん5000になり、1937ねんには50まんたっしている[8]

ミュンヘン一揆いっきのナチとう解散かいさん[編集へんしゅう]

1923ねん11月のミュンヘン一揆いっき参加さんかしたが、一揆いっき失敗しっぱい。シュトライヒャーも拘留こうりゅうされ、ニュルンベルクから教職きょうしょく停職ていしょく処分しょぶんけた。しかしすぐに釈放しゃくほうされ、政治せいじ活動かつどう再開さいかいした。ヒトラーの代理だいりアルフレート・ローゼンベルクによって設立せつりつされたナチとう偽装ぎそう組織そしきだいドイツ民族みんぞく共同きょうどうたい」に参加さんか。まもなくヘルマン・エッサーとともにどう組織そしき指導しどうしゃとなった。さらにかつての突撃とつげきたいいんあつめて「帝国ていこくわし民族みんぞく同盟どうめい」を組織そしきした。だいドイツ民族みんぞく共同きょうどうたいのナチ残党ざんとう創設そうせつしたグループより過激かげき集団しゅうだんで、よりはげしいはんユダヤ主義しゅぎ議会ぎかい政治せいじ反対はんたい思想しそう労働ろうどうしゃりの政策せいさくかかげていた[7]

1924ねん8がつにナチ残党ざんとう勢力せいりょくあつまってひらいたヴァイマル大会たいかいエーリヒ・ルーデンドルフがヒトラー不在ふざいあいだ指導しどうしゃであること確認かくにんされ、また選挙せんきょのための統一とういつ政党せいとう国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ自由じゆう運動うんどう」が創設そうせつされることとなった。しかし議会ぎかい政治せいじ反対はんたいするシュトライヒャーのだいドイツ民族みんぞく共同きょうどうたいはこれと対立たいりつするところがおおかった。だいドイツ民族みんぞく共同きょうどうたい労働ろうどうしゃ中心ちゅうしん支持しじされていたため、一時いちじドイツ共産党きょうさんとう同盟どうめいむすぼうともしているが、共産党きょうさんとうはんユダヤ主義しゅぎ思想しそう反対はんたいしたため、決裂けつれつしている[9]

だいドイツ民族みんぞく共同きょうどうたいは、1924ねん12月7にち国会こっかい選挙せんきょへの参加さんか国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ自由じゆう運動うんどうとの選挙せんきょ協力きょうりょくこばんだが、同日どうじつおこなわれたバイエルンでの地方ちほう選挙せんきょには参加さんかし、ニュルンベルクにおいて2まん5000ひょう獲得かくとくしてニュルンベルク市議会しぎかいに6議席ぎせき獲得かくとくした。シュトライヒャーも市議会しぎかい議員ぎいんとなった。これはシュトライヒャーにとってちょっとした勝利しょうりだった[10]

ナチとうさい入党にゅうとう[編集へんしゅう]

ヒトラーが出獄しゅつごくし、1925ねん2がつにナチとう再建さいけんするとただちに参加さんかしてふたたびヒトラーの指揮しきふくした。1925ねんにヒトラーから「ニュルンベルク=フュルトだい管区かんく指導しどうしゃにんじられた。さらに1929ねんからはそれが拡張かくちょうされた「フランケンだい管区かんく指導しどうしゃ就任しゅうにんした[11]。また1929ねんにはバイエルンしゅう議会ぎかい議員ぎいん選挙せんきょ当選とうせんしている[12]

ヒトラーやヨーゼフ・ゲッベルス指示しじした選挙せんきょせんでナチとう政権せいけん掌握しょうあくできるようフランケン地方ちほうにおける宣伝せんでん全力ぜんりょくくした。しかしかれ一番いちばんはげしくおこなったのはやはりはんユダヤ主義しゅぎだった。『シュテュルマー』紙面しめんやビラや演説えんぜつはんユダヤ主義しゅぎユダヤ陰謀いんぼうろん展開てんかいした。シュトライヒャーのとう指導しどう扇動せんどうのせいでニュルンベルクのナチとう事務所じむしょはドイツでも有数ゆうすう暴力ぼうりょくてきはんユダヤ主義しゅぎ拠点きょてんした[12]

1932ねん12月から1933ねん1がつにかけてはフランケン突撃とつげきたい指導しどうしゃヴィルヘルム・シュテークマンドイツばんだい管区かんく指導しどうしゃシュトライヒャーにたいして反乱はんらんこしている。フランケン地方ちほう突撃とつげき隊員たいいんだい部分ぶぶんがシュテークマンにしたがったため、シュトライヒャーは一時いちじ危機ききおちいったが、ヒトラーが介入かいにゅうしてシュテークマンに自己じこ批判ひはんさせて収束しゅうそくさせた[13]

ナチとう政権せいけん取得しゅとく[編集へんしゅう]

1935ねん9がつニュルンベルクとう大会たいかい。ヒトラーのかってみぎち、左手ひだりてをベルトにてている人物じんぶつがシュトライヒャー

1933ねん1がつ30にちには選挙せんきょ大勝たいしょうしたナチとう政権せいけん誕生たんじょうし、ヒトラー内閣ないかく発足ほっそくしたが、シュトライヒャーには閣僚かくりょうしょくあたえられず、とうのフランケンだい管区かんく指導しどうしゃしょくにとどまった。

アメリカでこったドイツ製品せいひん不買ふばい運動うんどうけて、ヒトラーはシュトライヒャーを「ユダヤじん残虐ざんぎゃく行為こうい・ボイコット扇動せんどうから防衛ぼうえいするための委員いいんかい」(以下いかボイコット委員いいんかい)の委員いいんちょうにんじた。1933ねん4がつ1にちよりシュトライヒャーのそう指揮しきのもとにぜんドイツで突撃とつげき隊員たいいんがユダヤじん商店しょうてんまえってきゃくはいらないようにする不買ふばい運動うんどう展開てんかいされた[14]依然いぜんとして経済けいざい危機きき状況じょうきょうにあったドイツ経済けいざいさらなる悪化あっか防止ぼうしするためボイコット運動うんどうそのものはいちにちだけに限定げんていされたが[15]、ボイコット委員いいんかいはその存続そんぞくし、公務員こうむいんやナチ党員とういんにはボイコットが義務付ぎむづけられつづけた[16]

1934ねんには突撃とつげきたい名誉めいよ隊員たいいんとなり、突撃とつげきたい中将ちゅうじょう階級かいきゅうあたえられた[17]。1937ねん1がつ30にちには突撃とつげきたい大将たいしょうになっている。1938ねんには子供こどもけのはんユダヤほんどくキノコ英語えいごばん』を発刊はっかんしている。1930年代ねんだいわりころにはユダヤじんをフランス植民しょくみんマダガスカルとう移住いじゅうさせる政策せいさくんでいた[18]

シュトライヒャーは、ヘルマン・ゲーリング夫人ふじんエミー・ゲーリングがユダヤじん交友こうゆう関係かんけいがあることるや彼女かのじょ攻撃こうげきし、彼女かのじょがユダヤじんみせ商品しょうひんった写真しゃしんを『シュテュルマー』に掲載けいさいした。そればかりか1940ねん2がつにはゲーリングは性的せいてき不能ふのうしゃであり、かれむすめエッダは人工じんこう授精じゅせいまれたなどと『シュテュルマー』にきたてた。ゲーリングは、以前いぜんから『シュテュルマー』の扇情せんじょうてきはんユダヤ主義しゅぎ論調ろんちょう反感はんかんいていたが、ここにいたってだい管区かんく指導しどうしゃ6めいからなる査問さもん委員いいんかい設置せっちしてシュトライヒャーを捜査そうささせた。かれかかわっていた不正ふせい行為こうい次々つぎつぎ発覚はっかくし、査問さもん委員いいんかいは「シュトライヒャーは人間にんげん指導しどうしゃとして適格てきかく」との結論けつろんくだした。ついにヒトラーにも見捨みすてられ、フランケンだい管区かんく指導しどうしゃ罷免ひめんされたのであった[19][20]

『シュテュルマー』はその民間みんかん新聞しんぶんとしてつづき、1945ねん2がつ1にちまで発行はっこうされた[8]。しかしとう後援こうえんうしなった『シュテュルマー』の発行はっこう部数ぶすうおおきくちた。だい管区かんくしょく辞任じにん以降いこうにはニュルンベルクにちかプライカーショフ酪農らくのうじょうらし、その経営けいえいにあたっていた。かれは20さい以上いじょう年下とししたのアデーレ・タッペ(Adele Tappe)というブロンドの女性じょせい再婚さいこんした[21]

シュトライヒャーのつまアデーレによると、シュトライヒャーは1944ねん5がつと7がつにヒトラーからゲッベルスライかいしてもう一度いちどとう古参こさん闘士とうし」としてもどってほしいという要請ようせいけたが、ことわったという[22]

逮捕たいほ[編集へんしゅう]

ドイツ敗戦はいせん英語えいごばん連合れんごうぐんは『シュテュルマー』によって国際こくさいてき知名度ちめいどたかいナチス党員とういんだったかれ血眼ちまなこになってさがしていた。そして1945ねん5月23にちアメリカぐん空挺くうていだい101師団しだんはザイラーと名乗なのって、ひげやし画家がかとしてベルヒテスガーデンちかくのむら潜伏せんぷく生活せいかつをしていたかれ発見はっけんして逮捕たいほした[23][19][24]。このとき正体しょうたいかくしているシュトライヒャーにアメリカぐん将校しょうこう冗談じょうだんで、シュトライヒャーにそっくりだと指摘してきすると、シュトライヒャーはあっさりと正体しょうたいみとめたとされる[24]。シュトライヒャーがニュルンベルク裁判さいばんさい弁護士べんごしうったえたところによると、シュトライヒャーは拘禁こうきんちゅうにユダヤじん将校しょうこうとその部下ぶか黒人こくじん兵士へいしによって拷問ごうもんされたという[25]

シュトライヒャーの拷問ごうもんかんする証言しょうげんつぎとおり。

「ユダヤじん将校しょうこうは、"ついにシュトライヒャーをつかまえたぞ。このいぬぶたおれじゅうさいころ、おまえは『デア・シュテュルマー』で人種じんしゅてき不名誉ふめいよ見本みほんとしておれせやがった!両手りょうてしゅっせ!"とうと、わたし手錠てじょうをかけた。そのよるいちばんちゅう、ユダヤじんから嘲弄ちょうろうされた。きびしい監視かんし食事しょくじもなかった。(りゃく二人ふたり黒人こくじんが、わたしはだかにしてシャツをいた。わたしはパンツいちちょうにされた。つながれていたのでパンツががってもげられず、ぱだかになった。よん日間にちかんぱだかにされた。四日よっかわたしからだって感覚かんかくがなくなった。もうみみこえなかった。数時間すうじかんおきにユダヤじん将校しょうこう命令めいれいけた黒人こくじんたちが拷問ごうもんあらわれた。わたし乳首ちくびのついた煙草たばこであぶったり、ゆび眼窩がんかしたり、眉毛まゆげ乳首ちくびからをむしりったり、かわむち性器せいきたれたりした。さらに「くちけ」とってきてわたしくちつばきいれた。わたしくちけないでいるとぼう無理むりやりくちけさせ、つばきいれた。『ユリウス・シュトライヒャー、ユダヤじん王様おうさま』とかれた看板かんばんくびからるされ、あるめぐらされた。むち全身ぜんしん殴打おうだされ、からだちゅうふくがったすじはしる。かべげつけられ、あたま拳固げんこ殴打おうだされた。地面じめんげつけられ、背中せなかくさりたれた。黒人こくじんあしにキスすることを拒否きょひするとあしみつけられて鞭打むちうちされた。くさったじゃがいもかわうのをことわるとふたた殴打おうだ、つば、タバコの便所べんじょ小便しょうべんむことを拒否きょひするとまた拷問ごうもん毎日まいにちユダヤじん記者きしゃる。わたしはだか写真しゃしんる。かれは"あんた、こうどれくらいきてられるとおもってる?"とった。よこになることはゆるされなかった。椅子いすもなかった。いつも両手りょうてしばりあげられて地面じめんにへたへたとひっくりかえったまま。よん日間にちかんやすみなくしばられたまま。大小だいしょう便びんもできない。わたしいたみでこえせなかった。たえずアデーレのことをかんがえる」[26][25]

のニュルンベルク裁判さいばん被告人ひこくにんたち同様どうようにまずルクセンブルクのバート・モンドルフにおくられた。その、1945ねん8がつニュルンベルク裁判さいばんにかけるためにニュルンベルク刑務所けいむしょ移送いそうされた[27]。ナチスが政権せいけんまえかれはユダヤじんたいする名誉めいよ棄損きそんざいでここに収監しゅうかんされたことがあったため、被告ひこくたちに「ここにははいったことがあるぜ。なんかいもな」と自慢じまんした。またそのときにシュトライヒャーがはいっていた独房どくぼうかざばんがなくなっていることにづいて「かざばんがあったはずなんだがなぁ」といぶかしがった(そのかざばんはナチス政権せいけんときにシュトライヒャーのはんユダヤ闘争とうそうたたえるためにけられたもの戦後せんご米兵べいへい記念きねんひんとして略奪りゃくだつしていた)[28]刑務所けいむしょ食堂しょくどうでは、軍人ぐんじん派閥はばつ、ナチスとう古参こさん闘士とうし派閥はばつとうそれぞれ派閥はばつかれて食事しょくじをしていたのだが、シュトライヒャーはみなからきらわれており、だれもシュトライヒャーと一緒いっしょ食事しょくじをしようとはせず、かれ食堂しょくどうはいった途端とたんにそれぞれの派閥はばつはより一層いっそうかたまって食事しょくじをするようになっていた[29]

なおシュトライヒャーの農場のうじょうはアメリカ政府せいふにより没収ぼっしゅうされ、どう政府せいふ決定けっていでユダヤじん難民なんみんたちにあたえられた[21]。ユダヤ難民なんみんたちはここをイスラエル農業のうぎょう共同きょうどうたいうつ準備じゅんびをするキブツとしている[30]

ニュルンベルク裁判さいばん[編集へんしゅう]

ニュルンベルク裁判さいばんのためにニュルンベルク刑務所けいむしょ独房どくぼう収監しゅうかんされたシュトライヒャー

ニュルンベルク裁判さいばんにおいてシュトライヒャーはだいいち訴因そいん侵略しんりゃく戦争せんそう共同きょうどう謀議ぼうぎ」とだいよん訴因そいん人道じんどうたいするつみ」で起訴きそされた[31]刑務所けいむしょづけ心理しんり分析ぶんせきかんグスタフ・ギルバートから起訴きそじょう感想かんそうもとめられるとシュトライヒャーは「ユダヤじん勝利しょうり」とべた[32]。さらに弁護人べんごにん名簿めいぼせられたさいには「ユダヤじんか。全部ぜんぶユダヤじん名前なまえじゃないか。裁判官さいばんかんもユダヤじんなんだろう?わかっているぞ。」といだした[33]

ニュルンベルク刑務所けいむしょ収監しゅうかんちゅうも、全裸ぜんら手足てあしをバタバタさせるあやしげな体操たいそう日課にっかにしたり、便器べんきみずかおあらったり、子供こどもかってわいせつな言葉ことばいたり、かい行動こうどう目立めだった[34][35]。また「アイゼンハワーはユダヤじん」だの「ジャクソンつうめいでジェイコブソンが本名ほんみょう」だの「飛行船ひこうせんヒンデンブルク炎上えんじょうはユダヤじん陰謀いんぼう」だのと性懲しょうこりもなくユダヤ陰謀いんぼうろんとなつづけ、看守かんしゅのみならずほか被告人ひこくにんたちからもきらわれた[35]法廷ほうていでシュトライヒャーのとなりすわっていたヴァルター・フンク経済けいざいしょうライヒスバンク総裁そうさい)は「わたしはもう十分じゅうぶんばっせられていますよ…。なにしろ毎日まいにち法廷ほうていでシュトライヒャーのとなりすわらされるのですから…。」となげいた[3]一度いちどシュトライヒャーは被告人ひこくにん一人ひとりハンス・フリッチェ宣伝せんでんしょうラジオ局長きょくちょう)としたしくなろうと「おれきみはおたがいジャーナリストじゃないか」とこえをかけたことがあったが、フリッチェはすぐさま嫌悪けんおかんしめして「シュトライヒャーさん、あんたの『デア・シュテュルマー』は、ナチ運動うんどう評判ひょうばんとした唾棄だきすべき三文さんもんだったよな。あのなかの記事きじ外国がいこく報道ほうどう機関きかん引用いんようされるたびにおれぶるいしたものだよ」と拒絶きょぜつした。これに激怒げきどしたシュトライヒャーはフリッチェのかおつばきかけ、さらに看守かんしゅいの喧嘩けんかになった[34]。シュトライヒャーは自分じぶん被告ひこくからのけものにされているのはゲーリングのせいだとおもんでいた[34]

シュトライヒャーの弁護人べんごにんハンス・マルクス博士はかせかれ精神せいしん障害しょうがいしゃであるとして精神せいしん鑑定かんてい依頼いらいした。この鑑定かんていさい全裸ぜんらにされ、女性じょせい通訳つうやくけたが、このときシュトライヒャーはいやらしいつきで「どうしたんだい?いいぶつたくないのかい」といだした。精神せいしん鑑定かんてい結果けっか精神せいしん分析ぶんせきチームはシュトライヒャーをユダヤじんたいしてのみ強迫きょうはく観念かんねん偏執狂へんしゅうきょうであると結論けつろんした。ただし精神せいしんそのものは正常せいじょう鑑定かんていされ、裁判さいばんからりることはみとめられなかった[26]

ニュルンベルク裁判さいばん証言しょうげんだいすわるシュトライヒャー

1946ねん4がつ反対はんたい尋問じんもんでシュトライヒャーはイギリスのマーウィン・グリフィス=ジョーンズ英語えいごばん検事けんじから追及ついきゅうされた。グリフィス=ジョーンズ検事けんじはかつてシュトライヒャーが「ユダヤじん吸血鬼きゅうけつきのように暴利ぼうりむさぼ高利貸こうりかし民族みんぞく」といたことを指摘してきし、「これは民族みんぞくてき憎悪ぞうおきすすめているものではありませんか?」と質問しつもんしたが、シュトライヒャーは平然へいぜんと「いいえ。憎悪ぞうおすすめたものではありません。事実じじついただけです」などとべた[21]

さらにシュトライヒャーは、「『デア・シュテュルマー』記述きじゅつは、ユダヤじん迫害はくがい目的もくてきとしているのではなく、ドイツ以外いがい場所ばしょにユダヤじんのための故国ここくつくってあげようというおもいがあってのものでした」などと主張しゅちょうして、いいのがれをはかった。グリフィス=ジョーンズ検事けんじはシュトライヒャーがいた記事きじ次々つぎつぎ引用いんようすることでこの主張しゅちょうくずした[36]

「ユダヤじんがやっているようなことをするものは、やくざしゃであり、犯罪はんざいしゃである。ユダヤじん真似まねをしておなじようなことをするものは、おな運命うんめい、すなわち抹殺まっさつ相応そうおうだ。」

「ユダヤじんというまれついての犯罪はんざい民族みんぞくには、永遠えいえんよるなければならない。目覚めざめつつあるユダヤてき人類じんるい永遠えいえんめぐまれるように。」

病原菌びょうげんきん除去じょきょされることによってのみ、伝染でんせんびょう対抗たいこうできる。おなじように、あらゆる時代じだいおそれるべき病原菌びょうげんきん民族みんぞくであるユダヤじん除去じょきょされてはじめて、世界せかい健康けんこう回復かいふくすることができる。世界せかいおおうペストきんであるユダヤじんこそぎ絶滅ぜつめつさせよ」[36]

文章ぶんしょう引用いんようえたグリフィス=ジョーンズ検事けんじは、皮肉ひにくたっぷりに「このような言葉ことば我々われわれは、ユダヤじんにユダヤじん国家こっかあたえよ、という意味いみ理解りかいせねばなりませんか?」とシュトライヒャーにただした。それにたいしてシュトライヒャーは「それらは具体ぐたいてき目的もくてきのない、たんなる感情かんじょうてき文筆ぶんぴつとしての意見いけんにすぎない」「はんユダヤ主義しゅぎ言葉ことばあそびにすぎない。」「記事きじうえくのと実際じっさい実行じっこうするのはおおきなへだたりがある。」などとべてなおいいのがれをはかったが、このようなくるしいいいわけでは判事はんじ心証しんしょうえることはできなかった[36]

1946ねん10がつ1にち被告人ひこくにんたちとともに裁判さいばんちょうサー・ジェフリー・ローレンス初代しょだいオークシー男爵だんしゃくだい3だいトレヴェシン男爵だんしゃく)により判決はんけつがいいわたされた。まず被告人ひこくにんたち全員ぜんいんそろうなかいちにんずつ判決はんけつぶんげられた。シュトライヒャーは携帯けいたいしょくをかじりながら判決はんけついていた[37]

ローレンス裁判さいばんちょうによりげられたシュトライヒャーの判決はんけつぶんは「シュトライヒャーは平和へいわたいする謀議ぼうぎには決定的けっていてき参加さんかしていないし、ヒトラーの相談役そうだんやくであったこともない」としてだいいち訴因そいん侵略しんりゃく戦争せんそう共同きょうどう謀議ぼうぎ」については無罪むざいとした。しかし「ドイツじん思想しそうはんユダヤ主義しゅぎという病毒びょうどく汚染おせんし、ドイツじんのユダヤじんたいする迫害はくがい刺激しげきした。」「ひがしヨーロッパでユダヤじんもっと苛烈かれつ環境かんきょうなか殺戮さつりくされているとき、その虐殺ぎゃくさつ抹殺まっさつ教唆きょうさ扇動せんどうしたことは、政治せいじてきおよび人種じんしゅてき迫害はくがいにあたる」としてだい4訴因そいん人道じんどうたいするつみ」で有罪ゆうざいとした[38]

さらにその個別こべつける量刑りょうけい判決はんけつうつった。シュトライヒャーは早足はやあし法廷ほうていはいって被告人ひこくにんせき両足りょうあしひろげてち、あごした。けた判決はんけつ絞首刑こうしゅけいだった[39]

かれ判決はんけつについて、「ユダヤじん勝利しょうりとコメントし、さらにニュルンベルク裁判さいばんそのものをプーリームまつり(ユダヤじん例祭れいさい)」表現ひょうげんした[40]

処刑しょけい[編集へんしゅう]

1946ねん10月16にちはいったばかりの深夜しんや死刑しけいしゅう9にんともかれ絞首刑こうしゅけい執行しっこうされた。絞首こうしゅだいまでれてかれるさいふくこと拒否きょひしてパンツいちまい姿すがたで「ハイル・ヒトラー!」とさけびながらあばれまわって周囲しゅういのひんしゅくをった[41]。しかし最後さいご看守かんしゅのアメリカへいたちによりふくせられて、絞首こうしゅだいまえきずりされた。絞首こうしゅだいでも名前なまえべることを拒否きょひしてわりに「ハイル・ヒトラー!」とさけんだ[42]

最期さいご言葉ことばは、「1946ねんプーリームのまつり!そしてかみしたへ!死刑しけい執行しっこうじんジョン・C・ウッズ軍曹ぐんそうかって)いまボリシェヴィキがおまえとうころしにるぞ!わたしかみしたにある。神父しんぷさま(ウッズによってかおにマスクをかけられたのちアデーレ!あいしのアデーレ!」だった[43][42]

シュトライヒャーの足元あしもととしひらき、かれからだがそのしたえた。しかしかれ即死そくしせず、死刑しけい執行しっこうながことうめくるしむ羽目はめとなった[44][42]

自殺じさつしたゲーリングをふくめて、シュトライヒャーら死刑しけいしゅう11にん遺体いたいは、アメリカぐんのカメラマンによって撮影さつえいされた。撮影さつえいばこれられ、アメリカぐん軍用ぐんようトラックでミュンヘンはこばれ、そこで火葬かそうされた。のこはいイーザルがわ支流しりゅうコンヴェンツがわながされた[45]

遺体いたい画像がぞうがあります。表示ひょうじすと、表示ひょうじされます。
刑死けいししたシュトライヒャーの遺体いたい(1946ねん10がつ16にち

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

ニュルンベルク法廷ほうていのシュトライヒャー。

べいぐん拘留こうりゅう記録きろくによれば身長しんちょうは5フィート6インチ(やく168センチ)である[46]

ニュルンベルク刑務所けいむしょづけ心理しんり分析ぶんせきかんグスタフ・ギルバート大尉たいいが、開廷かいていまえ被告人ひこくにん全員ぜんいんたいしてったウェクスラー・ベルビュー成人せいじん知能ちのう検査けんさによると、シュトライヒャーの知能指数ちのうしすうは106で、ぜん被告人ひこくにんちゅう一番いちばんひくかった(またシュトライヒャーは高齢こうれいのために数値すうち水増みずま調整ちょうせいされており、もとてんのIQはこれより15から20ひくかった)[47][48]。この試験しけんなかかれは「2ペニヒの切手きってを7まいって50ペニヒはらったら、おりはいくら?」という問題もんだいくのに1ふんもかかっている。これについてシュトライヒャーは「こんな子供こどもけの問題もんだいおれわずらわせるなよ。微積分びせきぶん問題もんだいをやらせてみろ。」などとかたった[48]

かれをインタビューした精神せいしん医学いがくしゃレオン・ゴールデンソーンは「わたし印象いんしょうでは、かれ標準ひょうじゅんてき知性ちせいけ、全体ぜんたいとして無学むがく人間にんげんだ。病的びょうてきなまでにはんユダヤ主義しゅぎりつかれているが、それはかれのポルノへの執着しゅうちゃく証明しょうめいしているように、性的せいてき葛藤かっとうのはけぐちになっているらしい」と精神せいしん分析ぶんせきした[49]

『シュテュルマー』紙面しめんで「ユダヤじん自分じぶんたちにキリスト教徒きりすときょうとかねげる権利けんりがあるとおもっている」「ユダヤじんは3さいユダヤじん少女しょうじょおかすことが道徳どうとくてきゆるされるとおもっている」など「ユダヤじん道徳どうとくせい」をさかんにうったえ、ユダヤじんたいする嫌悪けんおかんあおった。大学だいがく教授きょうじゅたちをあつめて自分じぶん開発かいはつしたユダヤじんユダヤじん見分みわけるうらなぼうについて講演こうえんしたこともあった[3]

熱心ねっしんはんユダヤ主義しゅぎしゃだったが、敬虔けいけんキリスト教徒きりすときょうとというわけではなく、むしろ宗教しゅうきょうしゃだった。洗礼せんれいカトリックけているが、ニュルンベルク刑務所けいむしょでカトリック信仰しんこうもどったハンス・フランクを「にわかキリスト教徒きりすときょうと」とわらっていた[50]。ゴールデンソーンのインタビューのなかでも「キリストはユダヤじんだった。かみ宇宙うちゅう創造そうぞうされたというが、そんなのはこじつけだ。かみがこのつくったというなら、だれかみつくったのだ」とべてキリストきょうふく宗教しゅうきょう全般ぜんぱん懐疑かいぎてき思想しそう披露ひろうしている[51]。しかし絞首こうしゅだいでの最後さいご言葉ことばでは牧師ぼくしにむかって「神父しんぷようわたしかみのもとにあります」とべている[50]

当人とうにんはんユダヤ主義しゅぎしゃになった理由りゆうについて「そのむかし、あるばんにいきなりはんユダヤ主義しゅぎ目覚めざめ、よるけると自分じぶん一生いっしょう仕事しごとはんユダヤ主義しゅぎ権威けんいになることだとさとった」とべている[52]

にくわない人間にんげんたいしてユダヤ認定にんていをするくせがあった。ゴールデンソーンのインタビューのなかでシュトライヒャーは「ソ連それんとイギリスの検察官けんさつかんはほとんどユダヤじんであり、アメリカの検察けんさつおなじだ」とべたが、それにたいしてゴールデンソーンが「アメリカ首席しゅせき検事けんじロバート・ジャクソンもユダヤじんだとおもうか」とたずねると、シュトライヒャーは「ジェイコブソンのことか?」とききかえした。ゴールデンソーンはかれべつ人間にんげん勘違かんちがいしているのだとおもい、「いや、アメリカ検事けんじのジャクソンのことだが」とねんすと、シュトライヒャーはつぎのようにかたはじめた。「つまりジェイコブソンのことだ。かれはジャクソンというつうめい使用しようしているが、わたしわせれば、かれ本名ほんみょうはジェイコブソンであってユダヤじんだ。外見がいけんからしても、すぐにそれとかる。被告ひこくたちがかれはユダヤじんではないと断言だんげんするので、わたしもしばらくはそうおもっていた。しかし、ここなんカ月かげつかのあいだに、かれあるかたかお観察かんさつして、ユダヤじんだとかった。おそらく、ドイツけいユダヤじん家系かけいだろう。」[53]だい管区かんく指導しどうしゃだったころにはローマ教皇きょうこう公然こうぜんとユダヤ認定にんていしていたこともあった[54]

ポルノの収集しゅうしゅうへきがあったが、その理由りゆうについてかれると「これはユダヤじんかられたのだ。やつらがどんな如何いかがわしいものんでいるかをしめ目的もくてきあつめているのだ。」とこたえていた[3]

スケッチがきでニュルンベルク裁判さいばんちゅう看守かんしゅかお食器しょっき便器べんきなどをえがいてはそのゆかげていた。ギルバートもうまいとみとめるほどのりょくであり、ギルバートはこんな下品げひんおとこのどこに芸術げいじゅつてき感性かんせい宿やどっているのだろうといぶかしがったという[55]

家族かぞく[編集へんしゅう]

最初さいしょつまクニグンデとのあいだにん息子むすこをもうけているが、1943ねん先妻せんさい死別しべつした。

後妻ごさいアデーレはニュルンベルク裁判さいばんに30だいでシュトライヒャーよりすくなくとも20さい以上いじょう年下とししただった。彼女かのじょはシュトライヒャーをしんよりしたっており、裁判さいばんにも弁護べんごがわ証人しょうにんとして出席しゅっせきした。シュトライヒャーのつまになるのは一体いったいどんなおんなだと法廷ほうてい人々ひとびとうわさしていたが、やってきたのはいもはなかた分別ふんべつがあるブロンド美女びじょだったので人々ひとびとおどろいた。彼女かのじょはシュトライヒャーが戦時せんじちゅう農夫のうふとしてはたらいていただけであることを健気けなげ証言しょうげんした。その様子ようすて、普段ふだん感情かんじょうなど滅多めったくちにしないヨードル将軍しょうぐんが「愛情あいじょうとは不思議ふしぎはたらきをするものだな」とべた[21]

シュトライヒャーの農場のうじょう戦後せんごアメリカにうばわれ、アメリカはこれをユダヤじん難民なんみんあたえたため、アデーレは住居じゅうきょうしない、ニュルンベルク刑務所けいむしょ医師いしプフリュッカーのいえせていた。しかしその彼女かのじょはシュトライヒャーのこころざしいではんユダヤろんとなえはじめたため、連合れんごうぐん逮捕たいほされて刑務所けいむしょおくられている[21]

死刑しけい判決はんけつへの疑問ぎもん[編集へんしゅう]

シュトライヒャーは職業しょくぎょう軍人ぐんじんではなく、とう幹部かんぶなかでも軍事ぐんじてき決定けっていからはとおざけられていたため、ポーランド侵攻しんこうソ連それん侵攻しんこうなどをふくめて一切いっさい軍事ぐんじ行動こうどう計画けいかく関与かんよしてはいない。また、ユダヤじんたいするホロコースト直接ちょくせつ指示しじしたり、その具体ぐたいてき計画けいかく立案りつあんかかわったこともない。しかし、そのニュルンベルク裁判さいばんにおいては、連合れんごうこくがわ検察官けんさつかんによってかれはんユダヤてき扇動せんどう行為こういがドイツ政府せいふによるホロコーストの計画けいかく実施じっし誘導ゆうどうすることとなったときびしく断罪だんざいされ、その主張しゅちょうみとめられた結果けっか絞首刑こうしゅけい判決はんけつくだされた。ただしこの判決はんけつたいしては、いまもなおそのたね扇動せんどう行為こういのみを具体ぐたいてき罪状ざいじょうとして死刑しけい判決はんけつくだすことが正当せいとう妥当だとうであったかどうかといったてんかんする議論ぎろんがなされている[56]

また被告人ひこくにん一人ひとりハンス・フリッチェも「ユダヤじん差別さべつ言論げんろんをラジオでながし、それがユダヤじん虐殺ぎゃくさつにつながった」というシュトライヒャーとおなじような罪状ざいじょうわれているはずなのに、フリッチェは無罪むざいであり、判決はんけつのバランスをいているとの批判ひはんもある[57]判決はんけつとき記者きしゃたちはつぎのような会話かいわわしていたという。「ところで、あのお粗末そまつなおっさんシュトライヒャーはなんで死刑しけいなのかね?」「殺人さつじん扇動せんどうしたからだろ。」「しかし、それならフリッチェもおなごとなのにかれ無罪むざいじゃないか。」[58]

語録ごろく[編集へんしゅう]

ニュルンベルクのシナゴーグまえ演説えんぜつするフランケンだい管区かんく指導しどうしゃシュトライヒャー。ハンス・ザックス広場ひろばめんしていたどうシナゴーグは、シュトライヒャーの指示しじによって1938ねん8がつこわされた。
1935ねん、フランスのはんユダヤ極右きょくう運動うんどう指導しどうしゃジャン・ボイセルフランス語ふらんすごばん(みぎ)と握手あくしゅするシュトライヒャー(ひだり)

シュトライヒャーの発言はつげん[編集へんしゅう]

  • 同棲どうせいしている場合ばあい男性だんせい精液せいえきは、その一部いちぶまたは全部ぜんぶ相手あいて女性じょせい吸収きゅうしゅうされ血液けつえきながむ。アーリアじん女性じょせいいちでもユダヤじん男性だんせい同棲どうせいすれば、その女性じょせい永遠えいえんよごされてしまう。彼女かのじょ純粋じゅんすいなアーリアじん子供こども二度にどめなくなるのである」(『シュテュルマー』記事きじ[3]
  • 「ドイツの土地とちは、権力けんりょくにぎっている国際こくさいユダヤじん売却ばいきゃくされたり、抵当ていとうにとられたりしている。」(1927ねんアンスバッハおこなった演説えんぜつ[59]
  • 世界せかい大戦たいせん世界せかいしょ国民こくみんのうえを旋回せんかいし、結局けっきょく廃墟はいきょやまのこした。このおそろしい戦争せんそうなか勝者しょうしゃとしてのこったのはたったいち民族みんぞくにすぎなかった。それはキリストがいうところでは、悪魔あくまちちとする民族みんぞくである。その民族みんぞくはドイツ民族みんぞく肉体にくたいたましい破滅はめつさせたのだ。しかしそのときヒトラーがちあがったことにより、世界せかい人類じんるいふたたびこの民族みんぞくから自由じゆうになるであろうというあらたな勇気ゆうきあたえられた。この民族みんぞく犯罪はんざいしゃしるしびたまますうひゃくねんすうせんねんわたって世界せかい放浪ほうろうしてきた。諸君しょくん。ユダヤじんえらばれた民族みんぞく自称じしょうしてもそのようなことをしんじるな。ユダヤじんえらばれたみんではないと主張しゅちょうするわれらをしんじよ。なぜならえらばれた民族みんぞくが、今日きょうのユダヤじんのようなことをやっているわけがないからである。えらばれた民族みんぞく他者たしゃ自分じぶんたちのためにはたらかせ、そのったりしない。えらばれた民族みんぞくは、農民のうみんたちを農地のうちから追放ついほうしたり、しょ国民こくみん貧困ひんこんさせて絶滅ぜつめつさせたりしない。えらばれた民族みんぞく動物どうぶつ虐殺ぎゃくさつしたり、他人たにん労働ろうどうあせによってきようとはしない。さらにえらばれた民族みんぞく自分じぶんはたらいているがゆえきている人々ひとびと仲間なかまにゅうろうとする。諸君しょくん。このことをわすれるな。我々われわれ諸君しょくんらのために牢獄ろうごくはいったし、つねにあざけりやはずかしめをけてきた。そして諸君しょくんらのために我々われわれはキリストがたたかってきた組織そしきされた世界せかい犯罪はんざい団体だんたいたいする戦士せんしに、すなわちこれまでで最大さいだいはんユダヤ主義しゅぎしゃになったのだ」(1935ねん演説えんぜつ[60]
  • 「ドイツじんは、ユダヤじんたいするたたかいであるはんユダヤ主義しゅぎしたとして非難ひなんされ、そのために野蛮やばんじんであるとめられている。このようなことを主張しゅちょうするものは、真実しんじつべていない。かずせんねんまえから、ユダヤじん侵入しんにゅうしゃであるユダヤじんから自分じぶんたちをまもることをいられてきた。この苦闘くとうわらないので、ユダヤじんから摂取せっしゅすることでび、自分じぶんたちが世界せかい支配しはいしゃとしてえらばれた人種じんしゅであると主張しゅちょうするユダヤじん非難ひなんけられている。世界せかい人類じんるい平和へいわは、戦争せんそう恩恵おんけいけるものたちが、戦争せんそうふたたおこなうように地球ちきゅうじょう人々ひとびとてることができなくなったときにのみ実現じつげんされる。つまり、ユダヤじん問題もんだい解決かいけつしないかぎり、人類じんるい解決かいけつおとずれない。」(1935ねん演説えんぜつ[61]
  • すうねんまえ、『シュテュルマー』マダガスカルとうへのユダヤじん移送いそうがユダヤじん問題もんだい解決かいけつひとつの可能かのうせいであるといたとき我々われわれはユダヤじんやその仲間なかまたちに嘲笑ちょうしょうされた。人間にんげんてきであるとわれた。だが今日きょう我々われわれ提案ていあんはすでに外国がいこく政治せいじろんじているではないか。日刊にっかん報道ほうどうによればフランス外相がいしょうデルボスがワルシャワおこなった協議きょうぎで、ポーランドはユダヤじん一部いちぶをマダガスカルへうつこと出来できないかと提案ていあんしたそうである。いずれにせよ、新生しんせいドイツは救済きゅうさいいた途上とじょうにある。ドイツが救済きゅうさいされれば、世界せかい救済きゅうさいされるだろう。永遠えいえんなるユダヤじんからの救済きゅうさいである」(1938ねん1がつ[62]
  • わたしは、ユダヤじんについてはユダヤじん自身じしんよりもくわしい。きみ(グスタフ・ギルバート)がユダヤじんだということは、前々まえまえからこえ調子ちょうしかっていた。最初さいしょ確信かくしんてなかった。だが、人間にんげんおしえてくれたので、こえいてみたところ、やはりそうだとかったのだ。」(1946ねん1がつ24にちのインタビューで)[63]
  • わたしはある意味いみではユダヤじん称賛しょうさんしている。なにしろ、これほどちいさい集団しゅうだんでありながら、つね世界せかい支配しはいしゃとして君臨くんりんしてきたのだから。たとえば、キリストはユダヤじんだった。ドイツが敗北はいぼくしたいまソ連それんではユダヤじんボリシェヴィズム勢力せいりょくをふるっている。スターリン名目めいもくじょう指導しどうしゃにすぎない。かれ背後はいごにはユダヤじんがいる。そして、北米ほくべい根付ねついているのはユダヤじん民主みんしゅ主義しゅぎだ。」(同上どうじょう[63]
  • わたし新聞しんぶんには立派りっぱ目的もくてきがあった。今頃いまごろ一部いちぶ俗物ぞくぶつはそれを見下みくだしたり、下品げひんだのポルノだのってるかもしれないが、終戦しゅうせんむかえるまでわたしはヒトラーからおおいに尊敬そんけいされており、『デア・シュテュルマー』はとうから全面ぜんめんてき支持しじされていた。最盛さいせい発行はっこう部数ぶすうは150まんにのぼった。だれもが『デア・シュテュルマー』をんでいたし、にいっていたはずだ。そうでなければだれわなかっただろう。『デア・シュテュルマー』の目的もくてきはドイツじん団結だんけつさせることであり、ドイツの素晴すばらしい文化ぶんか破壊はかいしかねないユダヤじん影響えいきょうかれらに認識にんしきさせることだった」(1946ねん4がつ6にちのインタビューで)[64]
  • 「ゲーリングはわたしはらてており、いわゆるゲーリング委員いいんかい設置せっちしてとうのフランケンだい管区かんく指導しどうしゃだったわたし素行そこう調査ちょうさおこなった。わたし債権さいけん株券かぶけん不法ふほう所持しょじしているとされたが、それらの容疑ようぎ立証りっしょうされなかった。たしかにユダヤじんから没収ぼっしゅうした株式かぶしきすこしのあいだあるいていたことがあったが、自分じぶんにそのような株式かぶしき所有しょゆうけんがあるとあやまっておしえられていたためであり、それが違法いほう所持しょじであることに気付きづくと、ただちにすべてを国庫こっこ提出ていしゅつしたのだ。1940ねん裁判さいばん結果けっかわたしはニュルンベルクをはなれてフュルトの地所じしょらすことを余儀よぎなくされた。それでもヒトラーの支援しえんで『シュテュルマー』の発行はっこうつづけることができた。編集へんしゅう主幹しゅかん立場たちば退しりぞくことなく、ホルツやヒーマーなどの仲間なかまとともに毎日まいにちあるいは毎週まいしゅう会議かいぎして『シュテュルマー』の記事きじれなくチェックしたのだ。ヒトラーが支援しえんしてくれたのはわたしが1923ねんのミュンヘン一揆いっきくわわっていたからだ。あの事件じけんでヒトラーとともにならんで行進こうしんしたことをわたし大変たいへんほこりにおもっている。ヒトラーはそのことをけっしてわすれなかったし、わたしたいするかれ信頼しんらい最後さいごまでわらなかった。わたしとてかれへの忠誠ちゅうせいちかいをやぶったことはない」(同上どうじょう失脚しっきゃくについてかれて)[65]
  • ってくれ!わたしはユダヤじん虐殺ぎゃくさつとはなん関係かんけいもない。1940ねん以降いこうわたし農場のうじょうぬしとしてらした。わたしなにらないからには、ヒトラーはきっと1941ねん以降いこうにユダヤじん絶滅ぜつめつ決意けついしたのだろう。ヒトラーには『かれらが戦争せんそうこした。今度こんどわたしかれらを始末しまつしてやる』というおもいがあったのかもしれない。ヒトラーがただしかったというつもりはない。それは間違まちがった政策せいさくだったとおもう。わたしはマダガスカルであれパレスチナであれ、どこかにユダヤじんくにつくってそこへ移住いじゅうさせる政策せいさくには賛成さんせいだったが、絶滅ぜつめつ政策せいさくについてはそのかぎりではない。400まんにんのユダヤじん虐殺ぎゃくさつ-この裁判さいばんでは500まんにんとも600まんにんともされているが、それは宣伝せんでんにすぎない。おおくても450まんにんえていないはずだ。-によって、ユダヤじん殉教者じゅんきょうしゃになってしまった。ユダヤじん虐殺ぎゃくさつのせいで各国かっこく順調じゅんちょう発展はってんしていたはんユダヤ主義しゅぎ運動うんどうなんねん後戻あともどりした。」(同上どうじょうホロコーストについてかれて)[66]
  • 「もしマルティン・ルター今日きょう生存せいぞんしているなら、かれわたしとともに被告ひこくせきすわらなければならなかったであろう。なぜならルターはユダヤじんかれらのうそたいして非常ひじょういかめしかった。『ユダヤじんへびであるからころせ』と主張しゅちょうしていたのだ。それにたいしてわたしはただたんにユダヤ問題もんだい人々ひとびと説明せつめいしようとしただけだ。ドイツにはむかしからはんユダヤ主義しゅぎ文献ぶんけん数多かずおお存在そんざいした。わたしは20ねんにわたって『デア・シュテュルマー』の社説しゃせついてきたが、ただのいちもユダヤじん殺害さつがいし、かれらの生家せいかはらえとそそのかしたことはない。」(1946ねん4がつ29にち裁判さいばん検察けんさつがわ尋問じんもんで)[67]
  • わたしいままでアウシュヴィッツをらなかった。この裁判さいばんはじまるまでらなかったのだ。ひとはんユダヤ主義しゅぎをもってにんじることはしごくもっともでれられてはいるが、女性じょせい子供こども虐殺ぎゃくさつすることは異常いじょうで、しんじがたい。ここにいる被告ひこくだれもそんなことをのぞんでいなかった」(1946ねん6がつ15にちのインタビューで)[68]

人物じんぶつひょう[編集へんしゅう]

  • 「このおとここそ、わたし監獄かんごくからてきたとき、わたししたにやってて、無条件むじょうけんわたし権威けんいふくした最初さいしょ一人ひとりだった。わたしけっしてわすれることのない人物じんぶつ、それがシュトライヒャーだ。かれには欠点けってんもあるかもしれないが、こうした行動こうどうのできる人物じんぶつ信頼しんらいできる。」(1925ねん3がつアドルフ・ヒトラー[69]
  • 「あのくだらない新聞しんぶん『デア・シュテュルマー』をんだことはない。『デア・シュテュルマー』は1ページだけんだが、それで十分じゅうぶんだった。あの新聞しんぶんでは禁止きんしだった。このニュルンベルクの行政ぎょうせいはシュトライヒャーのもとにあってひど状態じょうたいにおかれており、わたしはやっとのことで解体かいたい成功せいこうしたのだ。このニュルンベルクでシュトライヒャーの活動かつどう調査ちょうさした『ゲーリング委員いいんかい』は有名ゆうめいだ。シュトライヒャーはまともではなかった」「ニュルンベルクも、あのシュトライヒャーの野郎やろうがフランケンだい管区かんく指導しどうしゃになるまえはすばらしい俳優はいゆう歌劇かげきだん輩出はいしゅつしていた。シーラッハがとうだい管区かんく指導しどうしゃになっていたら事態じたいおおきくちがっていただろう」(1946ねん5がつ21にち、ニュルンベルク裁判さいばん拘禁こうきんちゅうゲーリング[70]
  • 「シュトライヒャーは勝手かってにふるまい、つつしみもらなければかんがえることらないようだ。不愉快ふゆかい同僚どうりょうだ。わたしだれとでも、きわめて複雑ふくざつ人間にんげんとでも仲良なかよくやっていこうといつも心掛こころがけているのだが、シュトライヒャーとだけはうまくいかない。かれのキチガイじみたはんユダヤ主義しゅぎわたしにはいとわしい。シュトライヒャーの『シュテュルマー』をわたしけっしてまない。それはわたし禁書きんしょ目録もくろくっている。」(シュヴァーベンだい管区かんく指導しどうしゃカール・ヴァールドイツばん)[71]
  • 「このニュルンベルクで、シュトライヒャーにむちたれたという複数ふくすうのジャーナリストにあったことがあるので、かれはかつては冷酷れいこくおとこだったのだろう。そのジャーナリストたち強制きょうせい収容しゅうようしょれられており、当時とうじわたしヘスたすけをりてようやく解放かいほうしてやったのだ。シュトライヒャーの横領おうりょううわさについても、すくなからず真実しんじつふくまれているとわたしおもっている。いま、わたしかれこと以前いぜんよりすこしよくかる。かれ本当ほんとう馬鹿ばかだとおもう。だが、つみおかした原因げんいんかれにあるのではなく、かれ権力けんりょくあたえたもの、つまり総統そうとうにある。シュトライヒャーはあたまわるいが、自分じぶん熱狂ねっきょうさせるまれついての能力のうりょくっているのだろう。このたねおろものはよく狂信きょうしんてき目的もくてき利用りようされる。」(宣伝せんでんしょうラジオ局長きょくちょうハンス・フリッチェ[72]
  • 「シュトライヒャーやエッサーのごとき二人ふたり性的せいてき偏執狂へんしゅうきょうは、いぜんとしてしんから新生しんせいドイツをのぞんでいた人々ひとびとにただ不信ふしんけるのみだった。かれらは最悪さいあくデマゴーグだ。クリスティアン・ヴェーバー[注釈ちゅうしゃく 1]ホフマンとともに、かれらはドイツがあらゆる理由りゆうからはじとしなければならぬ指導しどうしゃ黒幕くろまくてきとりまきのなかにかぞえねばならぬ」 (オットー・シュトラッサー)

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ ナチとう古参こさん党員とういんもと酒場さかば用心棒ようじんぼう売春ばいしゅん斡旋あっせんポンでもあり、オットーいわく「ヒトラーの下僕げぼくなかもっと下劣げれつ」、「さる親戚しんせき

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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  55. ^ パーシコ 1996 下巻げかん, p.36
  56. ^ パーシコ 1996 下巻げかん, p.324
  57. ^ もっとも、フリッチェがソ連それんぐんちた数少かずすくないナチス・ドイツ政府せいふ幹部かんぶとしてソ連それん主張しゅちょうもとづき戦犯せんぱんとして起訴きそされたこと、フリッチェの起訴きそすで自殺じさつして起訴きそ不可能ふかのうとなっていたゲッベルスの身代みがわりとしての意味合いみあいがつよく、ソ連それんがわ判事はんじ有罪ゆうざいとすることをもとめた一方いっぽうでそれに西側にしがわ諸国しょこく判事はんじたちが全員ぜんいん否定ひていてきだったことを考慮こうりょする必要ひつようもある。
  58. ^ パーシコ 1996 下巻げかん, p.282
  59. ^ プリダム 1975, p. 70.
  60. ^ ヒルバーグ 1997 上巻じょうかん, p.16
  61. ^ ホロコースト百科ひゃっか事典じてん ユリウス・シュトライヒャー
  62. ^ ベンツ 2004, p. 75.
  63. ^ a b ゴールデンソーン 2005 上巻じょうかん, p.184
  64. ^ ゴールデンソーン 2005 上巻じょうかん, p.188
  65. ^ ゴールデンソーン 2005 上巻じょうかん, p.189
  66. ^ ゴールデンソーン 2005 上巻じょうかん, p.191
  67. ^ 『ニュルンベルク裁判さいばん記録きろく』、p.140
  68. ^ ゴールデンソーン 2005 上巻じょうかん, p.198
  69. ^ プリダム 1975, p. 56.
  70. ^ ゴールデンソーン 2005 上巻じょうかん, p.98
  71. ^ プリダム 1975, p. 304.
  72. ^ ゴールデンソーン 2005 下巻げかん, p.99

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]