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ゲオルク・フォン・キュヒラー

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ゲオルク・フォン・キュヒラー
Georg von Küchler
生誕せいたん (1881-05-30) 1881ねん5月30にち
 ドイツ帝国ていこく
プロイセン王国の旗 プロイセン王国おうこく
ヘッセン=ナッサウしゅう英語えいごばん ハーナウ フィリップスルーエじょう
死没しぼつ 1968ねん5月25にち(1968-05-25)(86さいぼつ
西ドイツの旗 西にしドイツ
バイエルンしゅう ガルミッシュ=パルテンキルヒェン
所属しょぞく組織そしき ドイツ帝国ていこく陸軍りくぐん (1900ねん - 1918ねん)
ヴァイマル共和きょうわこく陸軍りくぐん (1918ねん - 1933ねん)
ドイツ陸軍りくぐん (1933ねん - 1944ねん)
ぐんれき 1900ねん - 1944ねん
最終さいしゅう階級かいきゅう 陸軍りくぐん元帥げんすい
署名しょめい
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ゲオルク・カール・フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・キュヒラーGeorg Karl Friedrich Wilhelm von Küchler 1881ねん5月30にち - 1968ねん5月25にち)は、ドイツ陸軍りくぐん軍人ぐんじん最終さいしゅう階級かいきゅう陸軍りくぐん元帥げんすいだい世界せかい大戦たいせんぐん司令しれいかんぐん集団しゅうだん司令しれいかんつとめた。

来歴らいれき

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初期しょきぐんれき

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ハーナウヘッセンしゅう近郊きんこうのフィリップスルーエじょうに、将校しょうこう息子むすことしてまれる。19さいだい1ヘッセン大公たいこう野戦やせん砲兵ほうへい連隊れんたい英語えいごばん入営にゅうえい翌年よくねん少尉しょうい任官にんかんし、ハノーファー騎兵きへい学校がっこう教育きょういくける。1910ねん中尉ちゅうい昇進しょうしんプロイセン陸軍りくぐんだい学校がっこうまなんだのち、1914ねんはじめにベルリンプロイセン参謀さんぼう本部ほんぶづけ転属てんぞくとなった。だいいち世界せかい大戦たいせんでは中隊ちゅうたいちょうつとめてだいいちきゅうてつじゅうあきら受章じゅしょう大尉たいい昇進しょうしん。その参謀さんぼう本部ほんぶづけて、終戦しゅうせんまでだい206歩兵ほへい師団しだんだい9後備こうび歩兵ほへい師団しだん主席しゅせき参謀さんぼうつとめた。

終戦しゅうせん直後ちょくごは「クールラント」旅団りょだん参謀さんぼうとしてバルトさんこくでの紛争ふんそう従軍じゅうぐんヴァイマル共和きょうわせいしたでもぐんのこり、だい1軍団ぐんだん参謀さんぼう転属てんぞく1920ねん国防省こくぼうしょう教育きょういく短期間たんきかんつとめたのち、1920年代ねんだいをさまざまな教育きょういく部門ぶもんでの役職やくしょくごす。このあいだ1923ねん少佐しょうさ1929ねん中佐ちゅうさ1931ねん大佐たいさ昇進しょうしん1932ねん10月、ひがしプロイセン砲兵ほうへい指揮しきかん就任しゅうにん1934ねん4がつ少将しょうしょう昇進しょうしんしたのち、士官しかん学校がっこう監察かんさつかんつとめる。翌年よくねん中将ちゅうじょう昇進しょうしん半年はんとし軍事ぐんじ裁判所さいばんしょふく総裁そうさいて、1937ねん砲兵ほうへい大将たいしょう昇進しょうしんひがしプロイセンのだい1軍団ぐんだん司令しれいかん任命にんめいされる。1939ねん3月、ナチス・ドイツリトアニア恫喝どうかつして割譲かつじょうさせたメーメル地方ちほうへの進駐しんちゅう従事じゅうじ

だい世界せかい大戦たいせん

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だい世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつすると、だい3ぐん司令しれいかん任命にんめいされポーランド侵攻しんこう作戦さくせん従事じゅうじ。この戦功せんこうにより騎士きしてつじゅうあきら受章じゅしょう。しかし9がつ22にちワルシャワ郊外こうがいぜん陸軍りくぐんそう司令しれいかんヴェルナー・フォン・フリッチュ戦死せんししてその葬儀そうぎおこなわれたさい、フリッチュの罷免ひめんブロンベルク罷免ひめん事件じけん)を批判ひはんする発言はつげんをしたため、司令しれいかん更迭こうてつされた。しかし陸軍りくぐんそう司令しれいかんヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ介入かいにゅうですぐにだい18ぐん司令しれいかん任命にんめいされた。

レヴァル市街しがい観光かんこうするキュヒラー(1941ねん8がつ

よく1940ねん西方せいほう電撃でんげきせんではオランダ占領せんりょうし、その戦功せんこうにより7がつ19にち上級じょうきゅう大将たいしょう昇進しょうしんした。翌年よくねんはじまったどくせんでも、北方ほっぽうぐん集団しゅうだんぞくするだい18ぐん指揮しき更迭こうてつされたヴィルヘルム・フォン・レープ後任こうにんとして、1942ねん1がつ17にち北方ほっぽうぐん集団しゅうだん司令しれいかん任命にんめいされた。北方ほっぽうぐん集団しゅうだん司令しれいかんとしてレニングラード包囲ほういせん指揮しきし、同年どうねん6がつ30にち元帥げんすいれっせられる。およそ2年間ねんかんにわたり北方ほっぽうぐん集団しゅうだん指揮しきしたが、1944ねん1がつソ連それんぐんレニングラード包囲ほういもうやぶると、ヒトラーにより司令しれいかん更迭こうてつされ、以後いごぐん指揮しきめいじられることはなかった。

戦後せんご戦争せんそう犯罪はんざいひととしてニュルンベルク継続けいぞく裁判さいばんの1つ国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい裁判さいばんにかけられ、懲役ちょうえき20ねん判決はんけつけた。のち12ねん減刑げんけいされ、1953ねんバイエルンしゅうランツベルク監獄かんごく出所しゅっしょした。隠棲いんせいさきガルミッシュ=パルテンキルヒェン死去しきょ

栄典えいてん

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各国かっこく栄典えいてん

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国防こくぼうぐんぐんほうからの引用いんよう

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日付ひづけ オリジナルの原稿げんこう 和訳わやく(英訳えいやくからのてんやく)
1943ねん8がつ12にち In der dritten Schlacht südlich des Ladogasees haben die unter Führung des Generalfeldmarschalls Küchler, des Generalobersten Lindemann und des Generals der Infanterie Wöhler stehenden deutschen Truppen, unterstützt von den durch General der Flieger Korten geführten Luftwaffenverbänden, in der Zeit vom 22. Juli bis 6. August den Ansturm der 8. und 67. sowjetischen Armee in heldenmütigen Kämpfen abgeschlagen und damit die Durchbruchsabsichten des Feindes vereitelt.[4] ラドガ南方なんぽうにおける3度目どめ戦闘せんとうで、コルテン空軍くうぐん大将たいしょう部隊ぶたい航空こうくう支援しえんした、キュヒラー元帥げんすいリンデマン上級じょうきゅう大将たいしょう、そしてヴェーラー歩兵ほへい大将たいしょう指揮しき抵抗ていこうしていたドイツへいは、7がつ22にちから8がつ6にちにかけてソビエトだい8ぐんおよだい67ぐん突撃とつげき英雄えいゆうてき阻止そしし、ならびにてきぐん突破とっぱ意図いとくじいた。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d Thomas 1997, p. 421.
  2. ^ Fellgiebel 2000, p. 277.
  3. ^ Fellgiebel 2000, p. 71.
  4. ^ Die Wehrmachtberichte 1939-1945 Band 2, p. 538.

外部がいぶリンク

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ぐんしょく
先代せんだい
新設しんせつ
だい1歩兵ほへい師団しだん英語えいごばん司令しれいかん
1934ねん10がつ1にち – 1935ねん4がつ1にち
次代じだい
ヴァルター・シュロート
先代せんだい
新設しんせつ
だい3ぐん司令しれいかん
1939ねん9がつ1にち – 1939ねん11月5にち
次代じだい
廃止はいし
先代せんだい
新設しんせつ
だい18ぐん司令しれいかん
1939ねん11月5にち – 1942ねん1がつ16にち
次代じだい
ゲオルク・リンデマン
先代せんだい
ヴィルヘルム・リッター・フォン・レープ
北方ほっぽうぐん集団しゅうだん司令しれいかん
1942ねん1がつ17にち – 1944ねん1がつ9にち
次代じだい
ヴァルター・モーデル