オットー・モーリッツ・ヴァルター・モーデル (Otto Moritz Walter Model , 1891年 ねん 1月 がつ 24日 にち - 1945年 ねん 4月 がつ 21日 にち )は、ドイツ の陸軍 りくぐん 軍人 ぐんじん 。最終 さいしゅう 階級 かいきゅう は陸軍 りくぐん 元帥 げんすい 。
ゲンティーン (現 げん ザクセン=アンハルト州 しゅう )生 う まれ。音楽 おんがく 監督 かんとく オットー・モーデル (ドイツ語 ご 版 ばん ) とマリア(旧姓 きゅうせい デンメア)の長男 ちょうなん [1] 。ゲンティン 、エアフルト およびナウムブルク の学校 がっこう に通 とお った。アビトゥーア に合格 ごうかく する[2] も軍人 ぐんじん への道 みち を志 こころざ し、1909年 ねん に士官 しかん 候補 こうほ 生 せい として第 だい 52ブランデンブルク歩兵 ほへい 連隊 れんたい 「フォン・アルフェンスレーベン」に入営 にゅうえい [3] 。ニサ の士官 しかん 学校 がっこう (ドイツ語 ご 版 ばん ) で学 まな ぶ。翌年 よくねん 少尉 しょうい 任官 にんかん し、クロッセン・アン・デア・オーデル (英語 えいご 版 ばん ) の第 だい 1大隊 だいたい に配属 はいぞく 。第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 勃発 ぼっぱつ 当初 とうしょ 、第 だい 52連隊 れんたい は第 だい 1軍 ぐん 傘下 さんか の第 だい 5師団 しだん (英語 えいご 版 ばん ) 第 だい 10歩兵 ほへい 旅団 りょだん に編入 へんにゅう され大隊 だいたい 副官 ふっかん 、連隊 れんたい 副官 ふっかん として西部 せいぶ 戦線 せんせん に従軍 じゅうぐん 。1915年 ねん に速成 そくせい の参謀 さんぼう 教育 きょういく を受 う け、中隊 ちゅうたい 長 ちょう として前線 ぜんせん で重傷 じゅうしょう を負 お った後 のち 、陸軍 りくぐん 最高 さいこう 司令 しれい 部 ぶ に転属 てんぞく となり、作戦 さくせん 課 か に配属 はいぞく される。1917年 ねん に大尉 たいい に昇進 しょうしん 。翌年 よくねん 後備 こうび 第 だい 36師団 しだん (ドイツ語 ご 版 ばん ) の次席 じせき 参謀 さんぼう に転属 てんぞく となる。
1918年 ねん 11月11日 にち の停戦 ていせん 後 ご 、後備 こうび 第 だい 36師団 しだん はアーヘン経由 けいゆ でダンツィヒに戻 もど り、そこで動員 どういん 解除 かいじょ された。戦後 せんご も軍 ぐん に残 のこ り、第 だい 17軍団 ぐんだん (英語 えいご 版 ばん ) 参謀 さんぼう 将校 しょうこう 、東部 とうぶ 国境警備隊 こっきょうけいびたい (ドイツ語 ご 版 ばん ) 、ミュンスター の第 だい 14歩兵 ほへい 連隊 れんたい の第 だい 2大隊 だいたい 機関 きかん 銃 じゅう 中隊 ちゅうたい 長 ちょう 、戦術 せんじゅつ ・戦史 せんし 教官 きょうかん などを経験 けいけん する。1929年 ねん 、少佐 しょうさ に昇進 しょうしん し兵務 へいむ 局 きょく 教育 きょういく 部 ぶ に転属 てんぞく 。1932年 ねん 、中佐 ちゅうさ に昇進 しょうしん して翌年 よくねん 大隊 だいたい 長 ちょう 。1934年 ねん 、大佐 たいさ に昇進 しょうしん し第 だい 2歩兵 ほへい 連隊 れんたい 長 ちょう (ドイツ語 ご 版 ばん ) 。1935年 ねん 、陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 本部 ほんぶ 技術 ぎじゅつ 部長 ぶちょう 。1938年 ねん 、少将 しょうしょう に昇進 しょうしん し第 だい 4軍団 ぐんだん 参謀 さんぼう 長 ちょう 。
「ヒトラーの火消 ひけ し屋 や 」 [ 編集 へんしゅう ]
司令 しれい 部 ぶ でのモーデル(左 ひだり )右 みぎ は第 だい 10SS装甲 そうこう 師団 しだん 長 なが ハインツ・ハルメル SS少将 しょうしょう (1944年 ねん 9月 がつ 27日 にち 、アーネム )
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が始 はじ まると、1939年 ねん のポーランド侵攻 しんこう と翌 よく 1940年 ねん の西方 せいほう 電撃 でんげき 戦 せん で第 だい 16軍 ぐん 参謀 さんぼう 長 ちょう を務 つと めた。その後 ご も第 だい 3装甲 そうこう 師団 しだん 長 ちょう 、第 だい 41軍団 ぐんだん 長 ちょう 、第 だい 9軍 ぐん 司令 しれい 官 かん を務 つと め、特 とく に1941年 ねん からの独 どく ソ戦 せん では、1941年 ねん 7月 がつ に騎士 きし 鉄 てつ 十 じゅう 字 じ 章 あきら を受章 じゅしょう 、さらに1941年 ねん 冬 ふゆ のモスクワ 前面 ぜんめん でのソ連 それん 赤軍 せきぐん の反撃 はんげき に対 たい し、就任 しゅうにん した第 だい 9軍 ぐん 司令 しれい 官 かん として巧 たく みな防衛 ぼうえい 戦 せん で戦線 せんせん を安定 あんてい させ、ヒトラー の信 しん を得 え た。この戦功 せんこう により1942年 ねん 2月 がつ に上級 じょうきゅう 大将 たいしょう に昇進 しょうしん し、さらに立 た て続 つづ けに柏葉 かしわば 騎士 きし 鉄 てつ 十 じゅう 字 じ 章 あきら 、柏葉 かしわば 剣 けん 付 づけ 騎士 きし 鉄 てつ 十 じゅう 字 じ 章 あきら を授与 じゅよ された。その後 ご も、第 だい 9軍 ぐん 司令 しれい 官 かん として、第 だい 二 に 次 じ ルジェフ会戦 かいせん や、ルジェフ 突出 とっしゅつ 部 ぶ からの撤退 てったい 作戦 さくせん など防衛 ぼうえい 戦 せん に活躍 かつやく し、「ヒトラーの火消 ひけ し屋 や 」の異名 いみょう を得 え る。
しかし、1943年 ねん 7月 がつ のクルスクの戦 たたか い においては、彼 かれ の第 だい 9軍 ぐん は北部 ほくぶ からの主 しゅ 攻撃 こうげき を担当 たんとう したが、ソ連 それん 赤軍 せきぐん の堅固 けんご な守 まも りによって大 おお きな戦果 せんか を上 あ げることはできなかった。この際 さい 、ヒトラーのもとで行 おこな われた5月の作戦 さくせん 会議 かいぎ において、参謀 さんぼう 総長 そうちょう クルト・ツァイツラー 、中央 ちゅうおう 軍 ぐん 集団 しゅうだん 司令 しれい 官 かん ギュンター・フォン・クルーゲ 、南方 なんぽう 軍 ぐん 集団 しゅうだん 司令 しれい 官 かん エーリヒ・フォン・マンシュタイン は作戦 さくせん の即時 そくじ 実行 じっこう を主張 しゅちょう したのに対 たい して、モーデルは自軍 じぐん は準備 じゅんび 不足 ふそく であり、作戦 さくせん 開始 かいし は一 いち ヶ月 かげつ は延期 えんき すべきであるとの主張 しゅちょう を押 お し通 とお した。この結果 けっか 、ソ連 それん 赤軍 せきぐん の防衛 ぼうえい 体制 たいせい は更 さら に増強 ぞうきょう され、作戦 さくせん の失敗 しっぱい につながった。これについては、モーデルはもともと作戦 さくせん 自体 じたい に反対 はんたい だったのであり、延期 えんき を繰 く り返 かえ すことによって作戦 さくせん そのものを中止 ちゅうし に持 も っていこうとしたとも言 い われている。
その後 ご 、一時 いちじ の休養 きゅうよう をはさんで、1944年 ねん 1月 がつ には、レニングラード 地区 ちく でソ連 それん 赤軍 せきぐん の攻勢 こうせい を受 う けていた北方 ほっぽう 軍 ぐん 集団 しゅうだん の司令 しれい 官 かん に就任 しゅうにん し、とりあえず戦線 せんせん を安定 あんてい させた。その後 ご 3月 がつ には、解任 かいにん されたエーリッヒ・フォン・マンシュタイン の後任 こうにん として北 きた ウクライナ軍 ぐん 集団 しゅうだん の司令 しれい 官 かん に就任 しゅうにん し、同時 どうじ に元帥 げんすい に列 れっ せられた。6月にはソ連 それん の大 だい 攻勢 こうせい によって粉砕 ふんさい された中央 ちゅうおう 軍 ぐん 集団 しゅうだん の司令 しれい 官 かん を兼任 けんにん し、かろうじて戦線 せんせん を立 た て直 なお すことに成功 せいこう した。同年 どうねん 7月 がつ にヒトラー暗殺 あんさつ 未遂 みすい 事件 じけん が発生 はっせい すると、ヒトラーに対 たい し誓紙 せいし を差 さ し出 だ している。この事件 じけん の影響 えいきょう で、8月 がつ にギュンター・フォン・クルーゲ の後任 こうにん として西方 せいほう 軍 ぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん およびB軍 ぐん 集団 しゅうだん の司令 しれい 官 かん として西部 せいぶ 戦線 せんせん へ転任 てんにん するが、ドイツ軍 ぐん は連合 れんごう 国 こく 軍 ぐん の急速 きゅうそく な進撃 しんげき によってファレーズ包囲 ほうい 戦 せん で大 だい 打撃 だげき を受 う けるなど壊走状態 じょうたい となっており、状況 じょうきょう はさすがのモーデルの手 て にも余 あま った。この時 とき モーデルは、ヒトラーから出 だ されたパリ 破壊 はかい 命令 めいれい を忠実 ちゅうじつ に実行 じっこう するよう、破壊 はかい 命令 めいれい に躊躇 ちゅうちょ していたパリ防衛 ぼうえい 司令 しれい 官 かん のディートリヒ・フォン・コルティッツ に命 めい じている。
9月 がつ 初 はじ めにゲルト・フォン・ルントシュテット が西方 せいほう 軍 ぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん に再任 さいにん されると、モーデルはB軍 ぐん 集団 しゅうだん 司令 しれい 官 かん の専任 せんにん となり、翌 よく 1945年 ねん 4月 がつ までその職 しょく にあった。この間 あいだ 、9月の連合 れんごう 軍 ぐん のマーケット・ガーデン作戦 さくせん を失敗 しっぱい に終 お わらせたが[注釈 ちゅうしゃく 1] 、12月のバルジの戦 たたか い においては、自身 じしん は大 だい 規模 きぼ な攻勢 こうせい 作戦 さくせん はもはやドイツ軍 ぐん の戦力 せんりょく では不可能 ふかのう として反対 はんたい したものの、ヒトラーを翻意 ほんい させることはできず、結局 けっきょく 攻勢 こうせい はミューズ川 かわ にも達 たっ することができず失敗 しっぱい に終 お わった。この頃 ころ からヒトラーの信任 しんにん も次第 しだい に失 うしな われていった。
軍人 ぐんじん 墓地 ぼち にあるモーデルの墓 はか
ドイツの敗戦 はいせん 直前 ちょくぜん 、B軍 ぐん 集団 しゅうだん がルール地方 ちほう で連合 れんごう 国 こく 軍 ぐん に包囲 ほうい される(ルール・ポケット )と、一般 いっぱん 市民 しみん を含 ふく む「逃亡 とうぼう 兵 へい 」や連合 れんごう 軍 ぐん との停戦 ていせん 交渉 こうしょう を試 こころ みた者 もの を、容赦 ようしゃ なく即決 そっけつ 裁判 さいばん で処刑 しょけい する指令 しれい を出 だ すなど苛烈 かれつ な抵抗 ていこう を続 つづ け[注釈 ちゅうしゃく 2] 、アメリカ軍 ぐん のマシュー・リッジウェイ 少将 しょうしょう による降伏 ごうぶく 勧告 かんこく も拒絶 きょぜつ した。連合 れんごう 軍 ぐん の包囲 ほうい 網 もう が狭 せば まり壊滅 かいめつ が目前 もくぜん となると、指揮 しき 下 か の部隊 ぶたい に解散 かいさん を命 めい じた上 うえ で、「ドイツの元帥 げんすい は降伏 ごうぶく しないものだ」として連合 れんごう 軍 ぐん の捕虜 ほりょ となることを潔 いさぎよ しとせず、デュースブルク 近郊 きんこう の森 もり で拳銃 けんじゅう を使 つか って自決 じけつ した[注釈 ちゅうしゃく 3] 。ヨーゼフ・ゲッベルス 宣伝 せんでん 相 しょう は、モーデルの軍 ぐん 集団 しゅうだん をドイツ敗戦 はいせん の責任 せきにん 者 しゃ として非難 ひなん する放送 ほうそう を行 おこな った。
モーデルは自決 じけつ の地 ち に仮 かり 埋葬 まいそう されていたが、遺族 いぞく の手 て により1955年 ねん にフォセナック (ドイツ語 ご 版 ばん ) にあるドイツ軍人 ぐんじん 墓地 ぼち に改葬 かいそう されている。
家族 かぞく ・信仰 しんこう ・人物 じんぶつ [ 編集 へんしゅう ]
1921年 ねん 5月12日 にち 、フランクフルト・アム・マイン でモーデルはヘルタ・ホイセン(1892年 ねん 2月 がつ 4日 にち - 1985年 ねん 5月5日 にち )と結婚 けっこん し[4] 、一男 かずお 二女 じじょ をもうけた。息子 むすこ のハンスゲオルグはドイツ連邦 れんぽう 軍 ぐん で少将 しょうしょう になった。
モーデルの3人 にん の子供 こども はUボート 艦長 かんちょう の軍 ぐん 歴 れき を持 も つマルティン・ニーメラー 牧師 ぼくし から福音 ふくいん 主義 しゅぎ 教会 きょうかい の洗礼 せんれい を受 う けた[5] 。ミュンスターで中隊 ちゅうたい 長 ちょう であった1923年 ねん に、モーデルはニーメラー牧師 ぼくし と知 し り合 あ った。モーデルは福音 ふくいん 主義 しゅぎ 教会 きょうかい の信徒 しんと であるだけでなく、積極 せっきょく 的 てき に礼拝 れいはい にも出席 しゅっせき する熱心 ねっしん な信仰 しんこう 者 しゃ でもあった。1929年 ねん から、モーデルはニーメラー牧師 ぼくし を私邸 してい に頻繁 ひんぱん に招 まね き、議論 ぎろん を重 かさ ねるようになった。1932年 ねん になると、ニーメラーはダーレム福音 ふくいん 主義 しゅぎ 共同 きょうどう 体 たい の聖 せい アンネン教会 きょうかい 牧師 ぼくし として、ベルリンに転居 てんきょ して来 き た。モーデルは政治 せいじ 的 てき にはナチスの支持 しじ 者 しゃ であったが、教会 きょうかい 内 ない の親 しん ナチス勢力 せいりょく であった「ドイツ的 てき キリスト者 しゃ 」には近 ちか づかなかった[6] 。
モーデルは政治 せいじ に無 む 関心 かんしん の軍人 ぐんじん として振舞 ふるま っていたが、ドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん 内 うち ではもっともヒトラーに心酔 しんすい していた人物 じんぶつ と評 ひょう されていた。1944年 ねん 7月 がつ 20日 はつか のヒトラー暗殺 あんさつ 未遂 みすい 事件 じけん 後 のち に差 さ し出 だ した誓紙 せいし で、同 おな じく誓紙 せいし を差 さ し出 だ した将軍 しょうぐん たちの中 なか でも際立 きわだ ってヒトラーに対 たい する忠誠 ちゅうせい を明確 めいかく に表明 ひょうめい している。自決 じけつ した際 さい の最後 さいご の訓示 くんじ は「この戦争 せんそう の結果 けっか という圧 あつ 力 りょく により、ドイツ国民 こくみん の多 おお くやドイツ軍 ぐん さえもが、物質 ぶっしつ 万能 ばんのう 主義 しゅぎ に毒 どく されたユダヤ人 じん や民主 みんしゅ 主義 しゅぎ の思想 しそう に穢 けが されていたことが明 あき らかになった 」というものだった。モーデルの評伝 ひょうでん を執筆 しっぴつ したスティーブン・ニュートンは、モーデルは非 ひ 政治 せいじ 的 てき 職業 しょくぎょう 軍人 ぐんじん で、ナチズムではなく権威 けんい 主義 しゅぎ 的 てき 軍国 ぐんこく 主義 しゅぎ を渇望 かつぼう してヒトラーに従順 じゅうじゅん であり、彼 かれ の人種 じんしゅ 的 てき 偏見 へんけん は当時 とうじ の一般 いっぱん 的 てき なドイツ軍 ぐん の将軍 しょうぐん たちと変 か わらない水準 すいじゅん だったと評 ひょう している。
強烈 きょうれつ な自負 じふ 心 しん の持 も ち主 ぬし でもあり、1942年 ねん の初頭 しょとう における東部 とうぶ 戦線 せんせん の最初 さいしょ の冬期 とうき 戦 せん 最中 さいちゅう に、第 だい 9軍 ぐん 司令 しれい 官 かん として着任 ちゃくにん したとき、「どのくらいの増援 ぞうえん を連 つ れて来 き たのか?」という質問 しつもん に「(増援 ぞうえん は)私 わたし だ!」と答 こた えた[注釈 ちゅうしゃく 4] 。また連合 れんごう 軍 ぐん が空挺 くうてい 作戦 さくせん (マーケット・ガーデン作戦 さくせん )を発動 はつどう したという報 しら せを受 う けた際 さい 、最初 さいしょ は連合 れんごう 軍 ぐん コマンド部隊 ぶたい による自分 じぶん の誘拐 ゆうかい 作戦 さくせん ではないかと思 おも ったという[注釈 ちゅうしゃく 5] 。独身 どくしん の士官 しかん の受勲 じゅくん や昇進 しょうしん を嫌 きら う奇癖 きへき があったといわれる。
優秀 ゆうしゅう な指揮 しき 官 かん と評価 ひょうか が高 たか いが、部下 ぶか に厳 きび しい目標 もくひょう を与 あた える、部下 ぶか の行動 こうどう を細 こま かく管理 かんり する、歯 は に衣 ころも 着 き せぬ言動 げんどう で場所 ばしょ 柄 がら もわきまえず部下 ぶか の過失 かしつ を叱責 しっせき する、部下 ぶか への説明 せつめい 不十分 ふじゅうぶん なまま突然 とつぜん 作戦 さくせん を変更 へんこう する、作戦 さくせん 成功 せいこう には犠牲 ぎせい をいとわないなどの行動 こうどう から、必 かなら ずしも部下 ぶか たちからは好 す かれてはいなかった。
モーデルのあだ名 な として「ヒトラーの火消 ひけ し屋 や 」がよく知 し られているが、その他 た にも巧 たく みな防戦 ぼうせん 指揮 しき に因 ちな んだ「防御 ぼうぎょ の職人 しょくにん 」、部下 ぶか に厳 きび しい目標 もくひょう 達成 たっせい を命 めい じたことから「スタハノフ 」、後方 こうほう 勤務 きんむ 者 しゃ の中 なか から前線 ぜんせん 勤務 きんむ に耐 た えるものを常 つね に物色 ぶっしょく していたことから「恐怖 きょうふ の飛行 ひこう 者 しゃ 」といった、様々 さまざま なあだ名 な を付 つ けられていた。ヒトラーからは「最高 さいこう の元帥 げんすい 」、「東部 とうぶ 戦線 せんせん の救世主 きゅうせいしゅ 」と評価 ひょうか を受 う けた。
^ 1977年 ねん のオールスターキャストの戦争 せんそう 映画 えいが 「遠 とお すぎた橋 はし 」にモーデルが登場 とうじょう し、広 ひろ く名 な が知 し られた。演 えん じたのはオーストリア の俳優 はいゆう ヴァルター・コフート。
^ こうした処置 しょち は親衛隊 しんえいたい 指導 しどう 者 しゃ のハインリヒ・ヒムラー の方針 ほうしん に従 したが ったものである。一方 いっぽう で、インフラを敵手 てきしゅ に渡 わた さず全 すべ て破壊 はかい せよと命 めい じたヒトラーの「ネロ指令 しれい 」は無視 むし している。
^ 仮 かり に米 べい 英軍 えいぐん に降伏 ごうぶく してもソ連 それん 赤軍 せきぐん に引 ひ き渡 わた されて戦犯 せんぱん として処刑 しょけい されるのが必然 ひつぜん だったからという説 せつ もある。ドイツ軍 ぐん の前線 ぜんせん 高級 こうきゅう 司令 しれい 官 かん の自殺 じさつ は異例 いれい である。
^ もっともパウル・カレル『バルバロッサ作戦 さくせん 』などの記述 きじゅつ を見 み るかぎり、困難 こんなん な状況 じょうきょう に意気 いき 消沈 しょうちん していた司令 しれい 部 ぶ の雰囲気 ふんいき を和 やわ らげようとしたジョークのようでもある
^ その実 じつ はオースターベークに司令 しれい 部 ぶ を置 お いていたモーデルが、戦略 せんりゃく 的 てき に何 なん ら意味 いみ が無 な いはずである場所 ばしょ (オースターベーク)にイギリス軍 ぐん が誤 あやま って降下 こうか してきたことによる誤認 ごにん である。(空挺 くうてい 部隊 ぶたい による要人 ようじん 奪取 だっしゅ についてはドイツ空軍 くうぐん によるムッソリーニ救出 きゅうしゅつ など前例 ぜんれい があり、荒唐無稽 こうとうむけい な発想 はっそう ではない)
^ Walter Görlitz: Model. Strategie der Defensive. Bastei Lübbe, Wiesbaden 1975, S. 10–12.
^ Marcel Stein: Generalfeldmarschall Walter Model: Eine Neubewertung. Biblio-Verlag, Bissendorf 2008, ISBN 3-7648-2312-7 , S. 19.
^ Samuel W. Mitcham Jr., Gene Mueller: Generalfeldmarschall Walter Model. In: Gerd R. Ueberschär (Hrsg.): Hitlers militärische Elite. 68 Lebensläufe. Wissenschaftliche Buchgesellschaft, Darmstadt 2011, ISBN 978-3-89678-727-9 , S. 424.
^ Samuel W. Mitcham Jr., Gene Mueller: Generalfeldmarschall Walter Model. In: Gerd R. Ueberschär (Hrsg.): Hitlers militärische Elite. 68 Lebensläufe. Wissenschaftliche Buchgesellschaft, Darmstadt 2011, ISBN 978-3-89678-727-9 , S. 425.
^ Walter Görlitz: Strategie der Defensive – Model . Limes-Verlag, Wiesbaden / München 1982, S. 34.
^ Walter Görlitz: Model – Strategie der Defensive. Limes-Verlag, München/Wiesbaden 1982, S. 43, 57.
Walter Görlitz: Model. Strategie der Defensive. Bastei Lübbe, ISBN 3-40400-605-4
Walter Görlitz: Model. Der Feldmarschall und sein Endkampf an der Ruhr. Universitas, ISBN 3-8004-1193-8
Konrad Leppa: Generalfeldmarschall Walter Model. Von Genthin bis vor Moskaus Tore . Prinz Eugen Verlag, ISBN B0000BKX4L
Hansgeorg Model / Dermot Bradley: Generalfeldmarschall Walter Model (1891–1945). Dokumentation eines Soldatenlebens . Biblio, Osnabrück 1991. ISBN 3764817852 .
Steven H.Newton:Hitler's Commander, Field Marshal Walther Model-HItler's Favorite General Da Capo, ISBN 0-306-81399-8
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