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ベルリン市街しがいせん

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ベルリン市街しがいせん

戦後せんご国会こっかい議事堂ぎじどう見上みあげるイギリスへい
戦争せんそうだい世界せかい大戦たいせんどくせん
年月日ねんがっぴ1945ねん4がつ23にち - 5月2にち
場所ばしょドイツ ベルリン
結果けっか赤軍せきぐん連合れんごうこく勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
枢軸すうじくこくがわ

ナチス・ドイツの旗 ドイツこく

連合れんごうこくがわ

ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦れんぽう

指導しどうしゃ指揮しきかん
ナチス・ドイツの旗 アドルフ・ヒトラー( - 4がつ30にち
ナチス・ドイツの旗 ヘルムート・ライマン
ナチス・ドイツの旗 のちヘルムート・ヴァイトリング[ちゅう 1]
ソビエト連邦の旗 ゲオルギー・ジューコフだい1はくロシア戦線せんせん英語えいごばん
ソビエト連邦の旗 イワン・コーネフだい1ウクライナ戦線せんせん
戦力せんりょく
45,000(将兵しょうへい
40,000(警察官けいさつかんヒトラーユーゲント国民こくみん突撃とつげきたいなど)[1][ちゅう 2]
1,500,000[1]
ベルリン攻防こうぼうせん

ベルリン市街しがいせん(ベルリンしがいせん、えい: Battle in Berlin)は、ベルリンのたたかにおけるいち方面ほうめんたたかいである。ベルリンのたたかいはだい世界せかい大戦たいせんにおける終末しゅうまつナチス・ドイツ連合れんごうこくとのあいだにおける支配しはいをめぐるたたかいで、ほん市街しがいせんはその局地きょくちせんのひとつであった。ソ連それん赤軍せきぐん3方面ほうめんぐんによるベルリン占領せんりょうまでつづいた。ドイツぐんにとってはたたかいの初期しょき段階だんかいですでに絶望ぜつぼうてき状況じょうきょうであったにもかかわらず、赤軍せきぐん中央ちゅうおう進撃しんげきするためにはとおりごとに多大ただい犠牲ぎせいはらわなければならなかった。ベルリン攻防こうぼうせん(ベルリンこうぼうせん)ともばれる。

1945ねん4がつ23にち赤軍せきぐんはじめてベルリン郊外こうがい進入しんにゅう4がつ27にちまでに完全かんぜん包囲ほういされた。5月2にち、ベルリン防衛ぼうえいぐん司令しれいかんヘルムート・ヴァイトリング砲兵ほうへい大将たいしょうは、赤軍せきぐんだい1はくロシア戦線せんせん英語えいごばん司令しれいかんゲオルギー・ジューコフ配下はいかだい8親衛しんえいぐん英語えいごばん司令しれいかんワシーリー・チュイコフ大将たいしょう降伏ごうぶくした。

前哨ぜんしょうせん[編集へんしゅう]

オーデル・ナイセせんでのたたかいの主戦しゅせんはベルリン郊外こうがい東方とうほうめんでの最終さいしゅう防衛ぼうえいせんゼーロウ高地こうち4がつ16にちから19にちまでの4日間にちかんにわたって激戦げきせんおこなわれた。たたかいの最終さいしゅうの19にちだい1はくロシア方面ほうめんぐんはゼーロウ高地こうちのドイツぐん最終さいしゅう防衛ぼうえいせん突破とっぱ、その結果けっか赤軍せきぐんとベルリンのあいだには撃破げきはされ疲弊ひへいったドイツぐんしか存在そんざいしなかった。その前日ぜんじつ、フォルストを包囲ほういしていただい1ウクライナ方面ほうめんぐん司令しれいかんイワン・コーネフ元帥げんすい)は、扇形せんけいひろがって進撃しんげきし、一部いちぶ部隊ぶたいが、ベルリン西側にしがわエルベがわ進出しんしゅつしていたアメリカぐん合流ごうりゅうすべく南西なんせいかい、主力しゅりょく部隊ぶたいはベルリン包囲ほういのために北東ほくとう進出しんしゅつした。

19にちおそく、ゼーロウ高地こうち南部なんぶ、フロスト南部なんぶフランクフルト・アン・デア・オーダー北部ほくぶのドイツぐん東部とうぶ戦線せんせん消失しょうしつし、これを突破とっぱした2赤軍せきぐん方面ほうめんぐんがフランクフルト・アン・デア・オーダー東部とうぶでドイツだい9ぐん包囲ほういした。包囲ほういもう西にし突破とっぱしようとするだい9ぐんたたかいはのちハルベのたたか[2][3]ばれる。赤軍せきぐん損害そんがい4がつ1にち - 19にちあいだはげしく、ゼーロウ高地こうち破壊はかいされた727りょうふくめて、総勢そうぜい2,807りょう以上いじょう戦車せんしゃ破壊はかいされた[4]

ベルリン包囲ほうい[編集へんしゅう]

ドイツ総統そうとうアドルフ・ヒトラー誕生たんじょうである4がつ20日はつかだい1はくロシア方面ほうめんぐん砲兵ほうへい部隊ぶたいはベルリン中央ちゅうおう砲撃ほうげき開始かいししたが、これはベルリン降伏ごうぶくするまでつづいた(戦後せんごソ連それんはその砲撃ほうげき西側にしがわ連合れんごう国軍こくぐんによる空襲くうしゅうよりもりょうおおく、効果こうかたかかったとしている)。その砲撃ほうげき最中さいちゅうだい1はくロシア方面ほうめんぐんは、ベルリン東方とうほうめんから北東ほくとう包囲ほういはじめた。

一方いっぽうだい1ウクライナ方面ほうめんぐんはドイツ中央ちゅうおうぐん集団しゅうだん司令しれいかんフェルディナント・シェルナー元帥げんすい)の北側きたがわ防衛ぼうえいせん突破とっぱユーターボークドイツばん北方ほっぽう進撃しんげき、その途中とちゅう、エルベがわ沿いのマクデブルク進撃しんげきしていたアメリカぐん邂逅かいこうした。

また、だい2はくロシア方面ほうめんぐん司令しれいかんコンスタンチン・ロコソフスキー元帥げんすい)は、シュテッティン- シュヴェートドイツばんあいだ北方ほっぽうで、ヴァイクセルぐん集団しゅうだん司令しれいかんゴットハルト・ハインリツィ上級じょうきゅう大将たいしょう配下はいかだい3装甲そうこうぐん司令しれいかんハッソ・フォン・マントイフェル大将たいしょう)の防衛ぼうえいせん北側きたがわ中央ちゅうおう攻撃こうげきした[3]。その結果けっか4がつ24にちまでには、だい1はくロシア方面ほうめんぐんだい1ウクライナ方面ほうめんぐん主力しゅりょくは、ベルリン包囲ほうい完了かんりょう[5]、その翌日よくじつの25にちだい2はくロシア方面ほうめんぐんシュテッティンきずいた橋頭堡きょうとうほあしがかりにだい3装甲そうこうぐん防衛ぼうえいせんみなみ突破とっぱランドウドイツばん湿地しっち横断おうだんしたが、それはバルト海ばるとかいめんしたシュトラールズントみなと進出しんしゅつしていたイギリスぐんだい21ぐん集団しゅうだんのところまで障害しょうがいしに北進ほくしんすることが可能かのうになったことを意味いみした。

だい5親衛しんえい軍配ぐんばいのソビエトだい58親衛しんえい師団しだんは、エルベがわ沿いのトルガウちかくで、アメリカだい1軍配ぐんばいだい69歩兵ほへい師団しだん邂逅かいこうした[6]。ベルリンを包囲ほういした赤軍せきぐんSバーン環状かんじょう形成けいせいしたドイツぐん防衛ぼうえいせん徹底的てっていてき浸透しんとうし、しらみつぶしに撃破げきはしていた。4がつ25にちおそく、たたかいの最終さいしゅう局面きょくめんは、すでにベルリン市内しないうつり、ベルリンにおけるドイツ防衛ぼうえい部隊ぶたいたたかいが赤軍せきぐんによる占領せんりょうおくらせるとはおもわれなかった[7]

決戦けっせん前夜ぜんや[編集へんしゅう]

ベルリン防衛ぼうえいぐん司令しれいかんヘルムート・ヴァイトリング大将たいしょう使用しようできる戦力せんりょく損耗そんこうった国防こくぼうぐん武装ぶそうSS数個すうこ師団しだんわせて45,000にんほどであり、さらに警察官けいさつかんヒトラー・ユーゲント国民こくみん突撃とつげきたいくわわった[ちゅう 3]国民こくみん突撃とつげきたいは40,000にんほどいたが、そのなかにはわかいころに従軍じゅうぐん経験けいけんのあるものおおく、だいいち世界せかい大戦たいせん従軍じゅうぐんしゃまでいた。ヒトラーによりベルリン中心ちゅうしん防衛ぼうえいにはヴィルヘルム・モーンケSS少将しょうしょう任命にんめいされ、総統そうとう護衛ごえい大隊だいたいなどを中心ちゅうしんとする兵士へいし2,000にんがその指揮しき配属はいぞくされた[ちゅう 4]。ヴァイトリングは市内しないを「A」 - 「H」の8区画くかくけて、それぞれ防衛ぼうえい部隊ぶたい配置はいちしたが、部隊ぶたいのほとんどは戦闘せんとう経験けいけんがなかった[1]。ベルリン西方せいほうだい20装甲そうこう擲弾へい師団しだん北方ほっぽうだい9降下こうかりょうへい師団しだん北東ほくとうミュンヘベルク装甲そうこう師団しだん南東なんとう方向ほうこうテンペルホーフ飛行場ひこうじょうだい11SS義勇ぎゆう装甲そうこう擲弾へい師団しだん「ノルトラント」予備よびとしてだい18装甲そうこう擲弾へい師団しだん中央ちゅうおうとそれぞれ配置はいちされた[12][8]

作戦さくせん[編集へんしゅう]

赤軍せきぐん砲兵ほうへいによる濃厚のうこう支援しえん射撃しゃげきもと、6 - 8にんへい小規模しょうきぼ戦闘せんとうグループをつくり、それをさらに80にんほどにまとめ、武器ぶき混成こんせいさせた部隊ぶたい構成こうせいさせた。これらは赤軍せきぐんどくせん攻勢こうせいてんじてから、各々おのおのFestungsstadt要塞ようさい都市とし)をめぐたたかいでいえひとつひとつをうば激戦げきせん有効ゆうこう戦術せんじゅつとして発案はつあんされたものだった[13]

ドイツの標準ひょうじゅんてき建築けんちくぶつ

ベルリン市内しない防衛ぼうえいするドイツぐんには3つの問題もんだいしょうじていた。だい1にドイツぐんがこの5年間ねんかんった損害そんがいだい2にベルリン地形ちけいてき特徴とくちょうだい3に赤軍せきぐん戦術せんじゅつであった。とくにベルリン中央ちゅうおうだい部分ぶぶんはいくつかの水路すいろ公園こうえんおよ広大こうだい鉄道てつどう関連かんれん施設しせつひろ直線ちょくせんでできた道路どうろから形成けいせいされており、なおかつ、一部いちぶクロイツベルクさんドイツばん海抜かいばつ66メートル)が存在そんざいする程度ていど平地ひらちであり、侵攻しんこうさまたげる要害ようがい存在そんざいしなかった。また、標準ひょうじゅんてき住宅じゅうたくのほとんどは煉瓦れんがつくられた19世紀せいき建設けんせつされたもので、とおりから石炭せきたんはこ馬車ばしゃトラック中庭なかにわれるように通路つうろがついていた。さらにはその中庭なかにわ中心ちゅうしん建物たてものならんでおり、どこからでも進入しんにゅうできるつくりになっていた。武装ぶそうSSはたたかいのあいだとおりにめんした建物たてもの遠距離えんきょり砲撃ほうげきくずして陣地じんち形成けいせいしたので街角まちかど急造きゅうぞうバリケード使つかわなかった[ちゅう 5]。そして、赤軍せきぐん戦車せんしゃ機銃きじゅうたか位置いち目標もくひょうつことができなかったので、建物たてものごとに狙撃そげきへい機関きかんじゅう配置はいちし、さらにはまどのある地下ちかしつとおりにいたあなパンツァーファウスト配置はいちした。これらの戦術せんじゅつはヒトラー・ユーゲントや国民こくみん突撃とつげきたいおこなった[16][17]

戦後せんご急造きゅうぞうバリケード

赤軍せきぐんはそれに対抗たいこうするためにタンクデサント配置はいちけい機関きかんじゅうなどを装備そうびさせたが、これは戦車せんしゃ射撃しゃげき範囲はんいせばめることとなった。そのため、もうひとつの解決かいけつさくとして実行じっこうしたのは、ドイツぐん狙撃そげきしゅたいして対空たいくうほう使つかい、建物たてものには重砲じゅうほうげきおもに152mmと203mm)をびせ、とおりにめんした建物たてものをひとつひとつ掃討そうとうしていくことだった。戦闘せんとう屋根やねづたいや屋根裏やねうらおこなわれたり、隣接りんせつした建物たてものあなけ、時折ときおりかべをぶちき(これにはドイツぐん遺棄いきしたパンツァーファウストが非常ひじょう有効ゆうこうであった)、地下ちかしつ部屋へやづたいにおこなわれ、この浸透しんとう戦術せんじゅつ戦車せんしゃせしていたドイツへいした。手榴弾しゅりゅうだん火炎かえん放射ほうしゃはこのたたかいで非常ひじょう効果こうかがあったが、ベルリン市民しみん避難ひなんしていなかったため、おおくの犠牲ぎせいしゃすこととなった[16][14]

ベルリン市街しがいせん[編集へんしゅう]

郊外こうがい[編集へんしゅう]

郊外こうがいでの戦闘せんとう絶望ぜつぼうてきになったことでベルリン運命うんめい事実じじつじょうけっしていたが、ベルリン市内しないでの戦闘せんとう継続けいぞくしていた[7]。4月23にちまでには、だい1親衛しんえい戦車せんしゃぐん司令しれいかんミハイル・カトゥコフ)とその部隊ぶたいケーペニックドイツばんみなみシュプレーがわダーメがわドイツばんいたり、4がつ24にちまでにブリッツドイツばんノイケルンドイツばん進撃しんげきした[18]。また、早朝そうちょうにはだい5げきぐん司令しれいかんニコライ・ベルザーリン)がシュプレーがわ横断おうだんトレプトウ公園こうえんドイツばんにいたった。24にち未明みめいだい56装甲そうこう軍団ぐんだん反撃はんげきけたが、これを撃退げきたい、さらに進撃しんげきしたため[19]赤軍せきぐんおおきなくさびまれ、だい1親衛しんえい戦車せんしゃぐんテルトウ運河うんがドイツばんしに攻撃こうげきおこなった[18]。620ふんやく3,000もんほうによる砲撃ほうげきじゅう爆撃ばくげきによるばくげき開始かいし架橋かきょう終了しゅうりょうした直後ちょくごの7最初さいしょ部隊ぶたい運河うんがわたり、12には戦車せんしゃ支援しえんくわわった。よるにはトレプトウ公園こうえん占領せんりょう、ソビエト赤軍せきぐんはSバーンにたっした[18]

戦闘せんとうはベルリン南東なんとう激化げきかし、だい33SS武装ぶそう擲弾へい師団しだん「シャルルマーニュ」(フランスだい1)司令しれいかんグスタフ・クルッケンベルクドイツばん)のフランスSS突撃とつげき大隊だいたい所属しょぞくするやく300めいフランスじん義勇ぎゆうへいだい11SS義勇ぎゆう装甲そうこう擲弾へい師団しだん「ノルトラント」合流ごうりゅうした。その、ベルリン到着とうちゃくした増援ぞうえんはこのフランスじん突撃とつげき大隊だいたいだけだった。かれらは、ハーフェルがわとシュプレーがわかいがわ無人むじんのバリケード以外いがい防御ぼうぎょ手薄てうす西にし郊外こうがいとおり、ノイシュトレーリッツちかくの親衛隊しんえいたい施設しせつからベルリン中央ちゅうおう移動いどうした[20][7]

4がつ25にちだい11SS装甲そうこう擲弾へい師団しだん「ノルトラント」司令しれいかんヨアヒム・ツィーグラードイツばん解任かいにんされ、後任こうにん司令しれいかんとなったクルッケンベルクが「C」区画くかく防衛ぼうえいまかされることになり、フランスじん義勇ぎゆうへいたちは「ノルゲ」連隊れんたいおよび「ダンマルク」連隊れんたい壊滅かいめつした「ノルトラント」師団しだんとも防衛ぼうえいせん補強ほきょうすることになった[21]正午しょうごかれは「C」区画くかく到着とうちゃくしたが、テルトウ運河うんが南方なんぽうのドイツぐん橋頭堡きょうとうほはすでに放棄ほうきされており、よるには「C」区画くかく放棄ほうきして中央ちゅうおう「Z」区画くかくミッテ地区ちくドイツばん)へ退却たいきゃくしなければならないと陸軍りくぐんそう司令しれい(OKH)ハンス・クレープス大将たいしょう連絡れんらくした[22][23]

ノイケルンの場所ばしょ

だい8親衛しんえいぐんだい1親衛しんえい戦車せんしゃぐん部隊ぶたいはノイケルンの南方なんぽうとおってSバーン防衛ぼうえいせん存在そんざいしたテンペルホーフ飛行場ひこうじょう方面ほうめん進撃しんげきした。「D」区画くかく防衛ぼうえいはミュンヘベルク装甲そうこう師団しだん担当たんとうしており、12りょう戦車せんしゃと30だい装甲そうこう兵員へいいん輸送ゆそうしゃ補充ほじゅうされる約束やくそくであったが、実際じっさいには敗残はいざんへい国民こくみん突撃とつげきたい補充ほじゅうされるにとどまった。赤軍せきぐんはドイツぐん撃破げきはするのに火炎かえん放射ほうしゃ使用しようし、用心深ようじんぶか進撃しんげきした。夕暮ゆうぐれまでには、なんだいかのT-34飛行場ひこうじょう総統そうとう地下ちかごう南方なんぽう6キロ地点ちてん)にいたったが、そこでドイツぐんはげしい抵抗ていこうくわした。ミュンヘベルク装甲そうこう師団しだん翌日よくじつまでなんとか戦線せんせん維持いじしていたが、これが赤軍せきぐんだい規模きぼ足止あしどめした最後さいご抵抗ていこうであった[24][25]26にち赤軍せきぐんノイケルン進撃しんげき、クルッケンベルクは「C」区画くかく防衛ぼうえいのためにUバーンヘルマン広場ひろばえきドイツばん周辺しゅうへん防衛ぼうえいせんきずき、司令しれいをオペラハウスにいた。そのとき兵力へいりょくげんじたドイツぐんの2師団しだん赤軍せきぐん5ぐんたたかっており、戦況せんきょう絶望ぜつぼうてきだった。だい5突撃とつげきぐん東方とうほうから西方せいほうかいトレプトウ公園こうえん方面ほうめん進撃しんげきしており、ノイケルン北方ほっぽうからだい8親衛しんえいぐんだい1親衛しんえい戦車せんしゃぐんすすんだが、テンペルホーフ飛行場ひこうじょう足止あしどめされた。一方いっぽうだい1ウクライナ方面ほうめん軍配ぐんばいだい3親衛しんえい戦車せんしゃぐんマリーエンドルフドイツばんから進撃しんげきしていた。「ノルトラント」がヘルマン広場ひろばドイツばん後退こうたいしたため、フランスじん義勇ぎゆうへいと100にんほどのヒトラー・ユーゲントがパンツァーファウストで赤軍せきぐん戦車せんしゃ14りょう破壊はかいし、ハーレンゼードイツばんはし付近ふきん機関きかんじゅう陣地じんちで48あいだわたってソビエト赤軍せきぐん足止あしどめした。一方いっぽうティーアガルテンドイツばんだい56装甲そうこう軍団ぐんだんの2師団しだんがソビエト赤軍せきぐん攻勢こうせい失速しっそくさせることはできたが、めることはできなかったため、「ノルトラント」が(当時とうじティーガー戦車せんしゃ8りょう突撃とつげきほうすうりょう保有ほゆう)ティーアガルテンを保持ほじするよう命令めいれいされた[26]

ヒトラーは、ヘルマン・ゲーリング国家こっか元帥げんすいからドイツ空軍くうぐん司令しれいかんがせるためにミュンヘンにいたローベルト・フォン・グライムせた。グライムはハンナ・ライチュ空軍くうぐんテストパイロット、グライムの愛人あいじん)にFi 156シュトルヒを操縦そうじゅうさせてベルリンへかう途中とちゅう赤軍せきぐん対空たいくう砲火ほうかけて負傷ふしょうしたが、ブランデンブルクもんちかくのティーアガルテンへの着陸ちゃくりく成功せいこうした[27][28][29][30]。4月26にち、ライチュとグライムがベルリンに到着とうちゃくした同日どうじつだい56装甲そうこう軍団ぐんだん司令しれいかんヘルムート・ヴァイトリング砲兵ほうへい大将たいしょうがベルリン防衛ぼうえいぐん司令しれいかん任命にんめいされた[27]。ヴァイトリングは20日はつかだい56装甲そうこう軍団ぐんだん司令しれいかん任命にんめいされたが、その2にちにはヒトラーから銃殺じゅうさつ命令めいれいされた。これはヴァイトリングがヒトラーの死守ししゅ命令めいれいそむいて司令しれい後退こうたいしたと誤解ごかいされたためであった。ヴァイトリングはエルンスト・ケーター英語えいごばん後任こうにんのベルリン防衛ぼうえいぐん司令しれいかん任命にんめいされたが、ケーターは前日ぜんじつヘルムート・ライマン中将ちゅうじょう(3がつ着任ちゃくにん)と交代こうたいしたばかりであった。

ジューコフは、ソビエト赤軍せきぐん制圧せいあつした地域ちいきでドイツ軍政ぐんせい組織そしきするための職務しょくむにベルザーリンを任命にんめいした[31]。ベルリン市長しちょう職員しょくいんはベルザーリンのもとかうよう要求ようきゅうされた。その翌日よくじつ(27にち)、ソビエト空軍くうぐん使用しようできるようにするため2,000にんのドイツじん女性じょせいがテンペルホーフ空港くうこう障害しょうがいぶつ除去じょきょ命令めいれいされた[32][33]

だい1はくロシア方面ほうめんぐんだい1ウクライナ方面ほうめんぐんがベルリンの中心ちゅうしん集中しゅうちゅうして進撃しんげきしたが、このことがたま観測かんそく方面ほうめんぐん正確せいかくつたわらず、しばしば友軍ゆうぐん支援しえん砲火ほうかびることになった。しかし、これはかくソビエト赤軍せきぐん部隊ぶたいのドイツ総統そうとう官邸かんていめぐ競争きょうそうがもたらしたものだった。このことをだい1ウクライナ方面ほうめんぐんのある軍団ぐんだんちょうは「おれたちはドイツぐんこわくないが、おとなりさんがこわいのさ…ベルリンまでておとなりさんの手柄てがらかされるんじゃ、たまらねえからな」と軽口かるくちでジョークにしていた[34]

歴史れきしアントニー・ビーヴァーによれば、実際じっさいきた事実じじつはこの冗談じょうだん上回うわまわっており、チュイコフは隷下れいかだい8親衛しんえいぐん帝国ていこく議会ぎかい議事堂ぎじどう(ライヒスターク)への直通ちょくつうふさいでいるだい3親衛しんえい戦車せんしゃぐんまえ横切よこぎらせ、左側ひだりがわめんから進撃しんげきするように故意こいめいじたと指摘してきしている。チュイコフはこの行動こうどうだい3親衛しんえい戦車せんしゃぐんつたえなかったため、あやまおおくの兵士へいし犠牲ぎせいとなった[35][36]

南西なんせい方面ほうめんでは、だい3親衛しんえい戦車せんしゃぐんだい28ぐん支援しえんもとグルーネヴァルトドイツばん郊外こうがい森林公園しんりんこうえんだい18装甲そうこう擲弾へい師団しだん残存ざんそん兵力へいりょくひがし方向ほうこうから撃破げきはシャルロッテンブルクドイツばん突入とつにゅうした。南方なんぽうでは、だい8親衛しんえいぐんだい1親衛しんえい戦車せんしゃぐんが、4がつ27にち運河うんがのドイツぐん陣地じんち撃破げきは総統そうとう官邸かんていとそれに隣接りんせつする総統そうとう地下ちかごうまで2キロ以内いないせまった。南東なんとう方面ほうめんではだい5突撃とつげきぐんフリードリヒスハインドイツばん高射こうしゃ砲塔ほうとう迂回うかいフランクフルター・アレードイツばんとシュプレーがわ堤防ていぼうあいだだい9軍団ぐんだん交戦こうせんしていた[12][37]。4月27にちまでにソビエト赤軍せきぐんは、ぜん方位ほういからSバーンの防御ぼうぎょせん突破とっぱし、ドイツぐんはティーアガルテン地区ちく中心ちゅうしんとしたきゅう市街地しがいち東西とうざいに25キロ、南北なんぼくに3キロほどの場所ばしょめられた。

北西ほくせい方面ほうめんではだい47ぐんシュパンダウドイツばん到達とうたつしようとしていたが、それは国民こくみん突撃とつげきたい空軍くうぐん士官しかん候補こうほせいからなる部隊ぶたい88ミリたい空砲くうほう装備そうび)とのガートウ飛行場ひこうじょうドイツばんをめぐる戦闘せんとう影響えいきょうした。北方ほっぽうではだい2戦車せんしゃぐんジーメンスシュタットドイツばん足止あしどめされていた。一方いっぽうだい3突撃とつげきぐんはドイツ残存ざんそん部隊ぶたい追撃ついげきしてフンボルトハインドイツばん高射こうしゃ砲塔ほうとう迂回うかい、ティーアガルテンとプレンツラウアー・ベルク北側きたがわ進撃しんげきした[12][37][38][39]

2004ねん、フンボルトハインの高射こうしゃ砲塔ほうとう

4がつ27にち、ソビエト空軍くうぐんじゅう爆撃ばくげきでベルリンを爆撃ばくげきした。だい8親衛しんえいぐんだい1親衛しんえい戦車せんしゃぐんは、ワーテルローのたたか(の別名べつめい)にちなんで名付なづけられたベル・アリアンス広場ひろばドイツばん皮肉ひにくにも防衛ぼうえいしている「ノルトラント」師団しだんのフランスじん義勇ぎゆうへい攻撃こうげきするよう命令めいれいされた。そのよる、ヴァイトリングは戦況せんきょうをヒトラーに報告ほうこくし、可動かどうできる戦車せんしゃ40りょう使用しようした綿密めんみつ脱出だっしゅつ計画けいかく提案ていあんした。しかし、ヒトラーは総統そうとう地下ちかごうにとどまると宣言せんげん、ヴァイトリングの計画けいかく拒否きょひした[40][41]。そのころ中央ちゅうおう防御ぼうぎょする「Z」区画くかく防衛ぼうえい司令しれいUバーンシュタットミッテえきドイツばん車両しゃりょうなかだった。「ノルトラント」の装甲車そうこうしゃりょう捕獲ほかくした4だいのソビエト赤軍せきぐん装甲そうこう兵員へいいん輸送ゆそうしゃ、2だいはんそう軌車のみで、なおかつ武器ぶきパンツァーファウスト主力しゅりょくとなっていたが、それだけでソビエト赤軍せきぐん装甲そうこう車両しゃりょうやひとつひとつの建物たてものめぐるほど熾烈しれつ白兵戦はくへいせんひろげることとなった[42][43]

4がつ28にち夜明よあけに、だい20軍団ぐんだん所属しょぞくクラウゼヴィッツ装甲そうこう師団しだんドイツばん、シャルンホスト装甲そうこう師団しだん国家こっか労働ろうどう奉仕ほうしだんテオドール・ケルナー師団しだんがベルリンの南西なんせい方面ほうめんからベルリンにけて攻撃こうげき開始かいしした。それらはだい12ぐん司令しれいかんヴァルター・ヴェンク)の所属しょぞく部隊ぶたいで、士官しかん学校がっこうせいなどで構成こうせいされており、当時とうじドイツぐんなかでも比較的ひかくてき戦力せんりょく保持ほじしている部隊ぶたいであった。その攻勢こうせいはベルリンへけて24キロにわたったが、ポツダム近郊きんこうシュヴィーロウドイツばん(ベルリン南方なんぽう32キロ地点ちてん)で力尽ちからつきて進撃しんげき停止ていしした[44]

4がつ28にちおそく、ヒトラーは親衛隊しんえいたい全国ぜんこく指導しどうしゃハインリヒ・ヒムラーがスウェーデン赤十字せきじゅうじしゃふく総裁そうさいフォルケ・ベルナドッテはく和平わへい交渉こうしょうのためにリューベック接触せっしょくしたことをった。ヒムラーはベルナドッテはく西側にしがわ連合れんごうぐん最高さいこう司令しれいかんドワイト・D・アイゼンハワー和平わへい交渉こうしょうをしたいのであいだつよう要請ようせいしていた。ヒトラーはヒムラーの背信はいしん行為こうい激怒げきどし、グライムとライチェにカール・デーニッツもとかうよう命令めいれいし、さらにグライムへ「裏切うらぎもの」ヒムラーを逮捕たいほするよう厳命げんめいした[27]。その、ミュンヘベルク装甲そうこう師団しだん撃破げきはされ、総統そうとう地下ちかごうみなみやく1キロにあるアンハルトえきドイツばん退却たいきゃくした。

つたえられているはなしでは、進撃しんげきするソビエト赤軍せきぐん足止あしどめするためにヒトラーはラントヴェーア運河うんがドイツばん破壊はかい、そのため、市民しみん避難ひなんしていたSバーンのアンハルトえき地下ちかのトンネルドイツばんでパニックをこし、なんせんにんかが溺死できししたとされている。しかし、その水位すいいは1mほどゆっくり上昇じょうしょうしたにすぎず、1945ねん10がつにトンネルから排水はいすいされると死者ししゃのほとんどは溺死できしではなく戦闘せんとうによる負傷ふしょう死亡しぼうしたことが判明はんめいしている[ちゅう 6]

ベルリン中央ちゅうおう地区ちく[編集へんしゅう]

4がつ27にち - 28にちだい1ウクライナ方面ほうめんぐんだい部分ぶぶんがベルリンからプラハ転進てんしんするよう命令めいれいされた。これはだい1はくロシア方面ほうめんぐんのジューコフ元帥げんすいにベルリン占領せんりょう栄光えいこうあたえるためであり、だい1ウクライナ方面ほうめんぐんしょいんいきどおった[50]

1945ねん帝国ていこく議会ぎかい議事堂ぎじどう

4がつ28にち、ドイツぐんひがしアレクサンダー広場ひろばからシャルロッテンブルク、西にしオリンピック・スタジアムまでのはば5キロ、ながさ15キロ未満みまん地域ちいき保持ほじしているにすぎなかった。通常つうじょう、ソビエト赤軍せきぐんはトンネルや退避たいひごう(ベルリン地区ちくやく1,000ほど存在そんざいした)でのたたかいをけ、かれらをめる作戦さくせんった[51]。ただ、帝国ていこく議会ぎかい議事堂ぎじどう北方ほっぽう1kmにあったモアビートドイツばん刑務所けいむしょではだい3突撃とつげきぐん進撃しんげきのために重砲じゅうほうあなけたため、混乱こんらんしょうじた。そのため、部隊ぶたい駐屯ちゅうとんした。そのだい3突撃とつげきぐんは、ティーアガルテンの戦勝せんしょう記念きねんとう視野しやらえ、正午しょうごあいだにはシュプレーがわモルトケきょうドイツばん[ちゅう 7]進撃しんげきした[52][53]。ドイツぐんはモルトケきょう爆破ばくはしたが、歩兵ほへいならばわたれる状況じょうきょうであったため、夕方ゆうがたにソビエト赤軍せきぐん重砲じゅうほうへい支援しえんのもと、モルトケきょうわたった。真夜中まよなかまでにはソビエト赤軍せきぐんだい150、だい171狙撃そげき師団しだん増援ぞうえん、ドイツぐん反撃はんげきめ、橋頭堡きょうとうほ確保かくほした[54]

同日どうじつハンス・クレープス参謀さんぼうちょうは、総統そうとう地下ちかごうからフュルステンベルクドイツばん滞在たいざいしているヴィルヘルム・カイテル国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい (OKW) 総長そうちょう最後さいご電話でんわをした。クレープスは、救援きゅうえんが48時間じかん以内いない到着とうちゃくしないならば、すべてが灰塵かいじんすだろうとカイテルにはなした。カイテルは、だい12ぐん司令しれいかんヴァルター・ヴェンクだい9ぐん司令しれいかんテオドール・ブッセつよはたらきかけると約束やくそくした。一方いっぽう、ナチとう官房かんぼうちょうマルティン・ボルマンはデーニッツに「総統そうとう官邸かんてい瓦礫がれきやまとなった。」と打電だでんした。さらにボルマンはしょ外国がいこく報道ほうどう機関きかんがヒムラーの背信はいしん報道ほうどうしており、「総統そうとうはシェルナー、ヴェンク、忠誠ちゅうせい期待きたいし、かれらがベルリンをすくうことを期待きたいしている。」とった[44][55]

夕方ゆうがた、グライムとライチュは、アラドAr 96高等こうとう練習れんしゅうでベルリンからつこととなった。グライムはドイツ空軍くうぐん命令めいれいして、ポツダム広場ひろば進撃しんげきしたソビエト赤軍せきぐん攻撃こうげきすることと、ヒムラーが逮捕たいほされたか確認かくにんすることを命令めいれいされていた[ちゅう 8]。ソビエト赤軍せきぐんはヒトラーが空路くうろ逃走とうそうすることをおそれていたため、北方ほっぽうからティーアガルテンを通過つうかして進撃しんげきしていた赤軍せきぐんだい3突撃とつげきぐんがグライムのった飛行機ひこうき攻撃こうげきしたが失敗しっぱいし、グライムはった[56][45]

28にちよる、ヴェンクは、カイテルに、だい12ぐんすべての箇所かしょでソビエト赤軍せきぐんもどされたと報告ほうこくした。だい12軍配ぐんばいだい20軍団ぐんだん精一杯せいいっぱいできることは、ポツダム守備しゅびたい一時いちじてき接触せっしょく確立かくりつすることであり、だい9ぐん支援しえん期待きたいできない以上いじょう、ベルリン救援きゅうえん事実じじつじょう不可能ふかのうであった。そして、カイテルはヴェンクにベルリン救援きゅうえんおこなわなくてもいと許可きょかした[57][44]

4がつ29にち午前ごぜん4総統そうとう地下ちかごうにおいてヒトラーはエヴァ・ブラウン結婚けっこん、その直後ちょくご秘書ひしょトラウデル・ユンゲ遺書いしょ口述こうじゅつ筆記ひっきさせ、ブルクドルフ、ゲッベルス、クレープス、ボルマンらが遺書いしょ署名しょめいした[58][59] [ちゅう 9]

だい2はくロシア方面ほうめんぐんがヴァイクセルぐん集団しゅうだん撃破げきは、ヴァイクセルぐん集団しゅうだん司令しれいかんゴットハルト・ハインリツィはヒトラーの死守ししゅ命令めいれいしたがわず、だい3装甲そうこうぐん司令しれいかんハッソ・フォン・マントイフェルに撤退てったいするようめいじた。4月29にち、ヴァイクセルぐん集団しゅうだん司令しれいだい9ぐん連絡れんらくれなくなっており、ぐん集団しゅうだん司令しれいはもはやなにもできない状況じょうきょうであった。ハインリツィはヒトラーの死守ししゅ命令めいれいそむいたため、ぐん集団しゅうだん司令しれいかん解任かいにんされた。しかし、後任こうにんぐようにとカイテルに命令めいれいされたマントイフェルは着任ちゃくにん拒否きょひした。そしてハインリツィはOKW本部ほんぶされたが、ぐずぐずしてばし、結局けっきょくかうことはなかった[61][62]のちにカイテルはだい21ぐん司令しれいかんクルト・フォン・ティッペルスキルヒいだと回顧かいこしている。情報じょうほうではティッペルスキルヒがクルト・シュトゥデント着任ちゃくにんするまでの一時いちじてき着任ちゃくにんであった[63][64]とされているが、シュトゥデントはイギリスぐん捕虜ほりょになったため、着任ちゃくにんしていない[27]。しかし、ティッペルスキルヒやクルト・シュトゥデントのどちらが司令しれいかんであったかはこのさい問題もんだいではなく、この数日すうじつあいだ急速きゅうそく悪化あっかしている状況じょうきょうほうがもっと深刻しんこく問題もんだいであった。

1900ねんごろのモルトケきょう

4がつ29にち早朝そうちょうだい150およだい171狙撃そげきへい師団しだんは、モルトケきょうわたり、周辺しゅうへんとおりと建物たてもの扇状せんじょう進撃しんげきはじめたが、架橋かきょう作業さぎょうなどをおこな時間じかんがなかったため、じゅう装備そうびはこぶことはできなかった。そのため、攻撃こうげき部隊ぶたい使用しようできたじゅう装備そうび鉄道てつどう線路せんろ布陣ふじんしたカチューシャのみであった。だい150狙撃そげきへい師団しだんゲシュタポ強化きょうかされた陣地じんちくわし、困難こんなんたたかいをいられ、手榴弾しゅりゅうだんかる機関きかんじゅうたたかわざるをなかった[65]どう時刻じこく南東なんとう方向ほうこうからだい301狙撃そげきへい師団しだん攻撃こうげき開始かいしプリンツ・アルブレヒトがいドイツばんのゲシュタポ本部ほんぶはげしい戦闘せんとううえ一旦いったん占領せんりょうされたが、武装ぶそうSSのはげしい反撃はんげきのため、放棄ほうきせざるをなかった。ゲシュタポないには4がつ23にち殺害さつがいされずにんだ7にん逮捕たいほしゃがいた[66][67][68]

南西なんせい方面ほうめんではだい8親衛しんえいぐんがティーアガルテン付近ふきん運河うんがわたり、きた進撃しんげき開始かいしした。「ノルトラント」はそのとき、モーンケ指揮しきにあった。ぜん兵士へいしやすみのない戦闘せんとう疲弊ひへいっていたが、「ノルトラント」のフランスじん義勇ぎゆうへい戦車せんしゃ撃破げきは得意とくいにしており、中央ちゅうおう地区ちく撃破げきはされたソビエト赤軍せきぐん戦車せんしゃ108りょううち半分はんぶんかれらのによるものであるとわれている。

その午後ごご、ベルリン市街しがいせん合計ごうけい8りょう戦車せんしゃ単独たんどく撃破げきはしたフランスSS突撃とつげき大隊だいたいフランスじん義勇ぎゆうへいウジェーヌ・ヴァンロー武装ぶそう伍長ごちょうと、だい503SSじゅう装甲そうこう大隊だいたいながフリードリヒ・ヘルツィヒ英語えいごばんSS少佐しょうさ二人ふたりだいさん帝国ていこく最後さいご騎士きしてつじゅうあきらあたえられ、ほかにも5だい戦車せんしゃ撃破げきはして勲章くんしょうあたえられたものがいた[67][68]

4がつ29にち夕方ゆうがた最前線さいぜんせんまでほんのかずmとなったベンドラーブロックドイツばんのベルリン防衛ぼうえいぐん司令しれいで、ヴァイトリングは配下はいか部隊ぶたいちょう会議かいぎおこない、ポツダム近郊きんこうのシュヴィーロウみずうみそばにあるフェルヒドイツばんむらまで進出しんしゅつしていただい12ぐん接触せっしょく可能かのう議論ぎろんし、脱出だっしゅつはそのの22開始かいしとした[69][70]。そのころ、クレープスはヨードルに「即座そくざ報告ほうこくせよ。だいいちに、だい12ぐん所在しょざい位置いちだい攻撃こうげき開始かいし時間じかんだいさんだい9ぐん所在しょざい位置いちだいよんに、だい9ぐん突破とっぱする正確せいかく場所ばしょだいルードルフ・ホルステぐん所在しょざい位置いち[57]。」と無線むせん連絡れんらくれた。30にち、ヨードルはこたえた、「だいいちに、ヴェンクぐんはシュヴィーロウみなみ進撃しんげき停止ていしだいに、ベルリンへの進撃しんげき続行ぞっこうできない。だいさんに、だい9ぐんはほとんどが包囲ほういされている。だいよんに、ホルステぐん守備しゅび手一杯ていっぱいである。よって、当方とうほうからのベルリン救援きゅうえんはあらゆる場所ばしょにおいて不可能ふかのうである。」と[57][71][72][ちゅう 10]

帝国ていこく議会ぎかい議事堂ぎじどうでのたたか[編集へんしゅう]

帝国ていこく議会ぎかい議事堂ぎじどうでのたたか

4がつ30にち、ソビエト赤軍せきぐん攻撃こうげき部隊ぶたいにポーランドぐんおもにポーランドだい1タデウシュ・コシチュシュコ歩兵ほへい師団しだんなど)がくわわった。午前ごぜん6だい150狙撃そげきへい師団しだんはゲシュタポ本部ほんぶのあったビルのうえかいをまだ占領せんりょうしていなかったが、そこでの戦闘せんとう継続けいぞくしつつ、ケーニヒ広場ひろばドイツばんを400mほど横切よこぎって帝国ていこく議会ぎかい議事堂ぎじどうへの攻撃こうげき開始かいしした。ソビエト赤軍せきぐん早急そうきゅう攻撃こうげき開始かいししたのは、帝国ていこく議会ぎかい議事堂ぎじどう皮肉ひにくなことに帝国ていこく議会ぎかい議事堂ぎじどう放火ほうか事件じけんより、ナチス体制たいせいでは議会ぎかい有名ゆうめい無実むじつとなり議事堂ぎじどう復旧ふっきゅうされていなかったが)がだいさん帝国ていこく象徴しょうちょうであり、ソビエト赤軍せきぐんはそれをほこるためにモスクワでのメーデーパレードまえ占領せんりょうしたかったのである[73]。ドイツぐんはケーニヒ広場ひろば塹壕ざんごうやトンネルをり、さらにくずれたトンネルにシュプレーがわみずはいんでいたため、前進ぜんしん容易よういではなかった。最初さいしょ歩兵ほへいによる攻撃こうげきは、ケーニヒ広場ひろば西にしクロル歌劇かげきじょう帝国ていこく議会ぎかい議事堂ぎじどうからおこなわれる十字砲火じゅうじほうかけ、おおくが死傷ししょうした。

そのころ、シュプレーがわ仮設かせつきょう架橋かきょうされ、戦車せんしゃ重砲じゅうほうかわわたはじめ、それらはクロル歌劇かげきじょう北西ほくせいから帝国ていこく議会ぎかい議事堂ぎじどう攻撃こうげき支援しえん射撃しゃげきおこなった。10までに、だい150狙撃そげきへい師団しだん塹壕ざんごう占拠せんきょしたが、そこから2kmほどはなれた場所ばしょにあるティーアガルテン(ベルリン動物どうぶつえん高射こうしゃ砲塔ほうとうからの88ミリほうによる正確せいかく射撃しゃげきひるあいだ、ソビエト赤軍せきぐん進撃しんげきさまたげた。占領せんりょうまでのすう日間にちかん、203ミリ榴弾りゅうだんほうやカチューシャなど90もんほうれつ塹壕ざんごう帝国ていこく議会ぎかい議事堂ぎじどう砲撃ほうげきし、だい171狙撃そげきへい師団しだん正面しょうめん、その左側ひだりがわめんだい150狙撃そげきへい師団しだん布陣ふじんし、ケーニヒ広場ひろば北方ほっぽう建物たてもの占領せんりょうするための攻撃こうげきつづけた[74][75]。そのため、周囲しゅうい建物たてものから退去たいきょしたドイツへいらは帝国ていこく議会ぎかい議事堂ぎじどうへと後退こうたいした。そのころ、ベルリン中央ちゅうおうにはやく10,000にんのドイツへいがおり、各所かくしょ攻撃こうげきけていた。

ソビエト赤軍せきぐん砲撃ほうげき集中しゅうちゅう箇所かしょのひとつはヴィルヘルムがいドイツばん航空こうくうしょうビル(鉄筋てっきんコンクリートでできていた)であった[76]ヘルマン・フォン・ザルツァじゅう戦車せんしゃ大隊だいたい残存ざんそんティーガーはティーアガルテンをみなみけて中央ちゅうおう進撃しんげきしていたソビエト赤軍せきぐんだい3突撃とつげきぐんだい8突撃とつげきぐんへティーアガルテン東側ひがしがわから攻撃こうげき開始かいししたが、これらのソビエト赤軍せきぐん行動こうどうはドイツぐん西方せいほうへの脱出だっしゅつ困難こんなんにしていた[77]

1945ねん6がつ3にち,荒廃こうはいしたベルリン

翌日よくじつ早朝そうちょう、モーンケはヒトラーにベルリン中央ちゅうおうはあと2にちしかたないとつたえた。また、ヴァイトリングはそのうちには弾薬だんやく使つかたすことになるとヒトラーにつたえ、再度さいど、ベルリン脱出だっしゅつ許可きょか要請ようせいした。13、ヴァイトリングはヒトラーより脱出だっしゅつ許可きょかあたえられた[78][79]。その、ヒトラーとエヴァは自殺じさつ、その遺体いたい焼却しょうきゃくされた。ヒトラーの遺書いしょにより、ヨーゼフ・ゲッベルス国民こくみん啓蒙けいもう宣伝せんでん大臣だいじん)が次期じきドイツ首相しゅしょうになった。1515ふん、ゲッベルスとボルマンは、デーニッツにアドルフ・ヒトラーの次期じき大統領だいとうりょうになるよう指名しめいされたむね無線むせん連絡れんらくした。

ベルリン戦闘せんとうによるけむりのため夕暮ゆうぐれがはやまったかのようにえた。18、ヴァイトリングがベンドラーブロックでベルリン脱出だっしゅつ計画けいかくっているあいだ、ソビエト赤軍せきぐんだい150狙撃そげきへい師団しだん重砲じゅうほう集中しゅうちゅうほうもと、3連隊れんたい帝国ていこく議会ぎかい議事堂ぎじどうへの攻撃こうげき開始かいしした。すべてのまど煉瓦れんがふさがれていたが、なんとか正面しょうめんホールへの突入とつにゅう成功せいこうした。内部ないぶにいたドイツぐんやく1,000にんほどで-水兵すいへいやヒトラー・ユーゲント、武装ぶそうSSなどが混成こんせいしていた。-じょうかいから攻撃こうげきおこない、まるで中世ちゅうせいたたかいのような戦闘せんとうつづいた。ソビエト赤軍せきぐん多大ただい犠牲ぎせいはらってメインホールを占拠せんきょしたが、うえかい占領せんりょうするには、さらに苦労くろうかさねることになった。火災かさい砲撃ほうげきによって帝国ていこく議会ぎかい議事堂ぎじどうないはガレキの迷路めいろしており、さらには部屋へやをひとつひとつを攻略こうりゃくしていかなければならず、時折ときおり、すさまじい抵抗ていこうくわした。メーデーのちかづいた、ソビエト赤軍せきぐん戦闘せんとう継続けいぞくしつつも帝国ていこく議会ぎかい議事堂ぎじどう屋根やねいたった[80]

ライヒスタークの赤旗あかはた

ソビエト赤軍せきぐんは2250ふん帝国ていこく議会ぎかい議事堂ぎじどうあか軍旗ぐんきてたと主張しゅちょうしているが、アントニー・ビーヴァーは「ソビエト赤軍せきぐんは5月1にちまでに帝国ていこく議会ぎかい議事堂ぎじどう占拠せんきょすることにかかわりすぎていた」として、これが誇張こちょうであると指摘してきしている。真実しんじつがどうであれ、帝国ていこく議会ぎかい議事堂ぎじどうにいたドイツぐん300にん降伏ごうぶくした午後ごごまでいちにちちゅうたたかつづけていた。ドイツぐんほか将兵しょうへいらは200にん戦死せんしのこりの500にん最終さいしゅう攻防こうぼうせんまでに負傷ふしょうし、地下ちかよこたわっていた[81][82]

5月1にち、クレープスは降伏ごうぶく交渉こうしょうをソビエト赤軍せきぐんだい8親衛しんえいぐん司令しれいかんチュイコフとおこなったが[ちゅう 11]無条件むじょうけん降伏ごうぶくれることを首相しゅしょうゲッベルスが拒否きょひしたため、クレープスはむなしくかえった。ソビエト赤軍せきぐんはドイツぐん無条件むじょうけん降伏ごうぶくしなかったため、1045ふん、ドイツぐんまれている地帯ちたいに「あらし」のような攻撃こうげき開始かいしした[57][84][85]。その午後ごご、ゲッベルスは子供こどもどくませ、20ごろつまマクダとともにシアン化合かごうぶつはいったカプセルをくだき、同時どうじ拳銃けんじゅう自殺じさつした。かれらの遺体いたい焼却しょうきゃく処分しょぶんするようめいじられていた[86]

ゲッベルスの死後しごあらたなドイツ大統領だいとうりょう指名しめいされていたデーニッツ提督ていとくは、後任こうにん首相しゅしょうルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク任命にんめいした。デーニッツ政府せいふ本部ほんぶデンマーク国境こっきょうちかフレンスブルクにあり、デーニッツ政権せいけんフレンスブルク政府せいふともばれる。

ベルリンのふたつの高射こうしゃ砲塔ほうとう降伏ごうぶく同意どういしたため、ソビエト赤軍せきぐん攻撃こうげき中止ちゅうしした。ティーアガルテンの高射こうしゃ砲塔ほうとう(それは203ミリ榴弾りゅうだんほう直撃ちょくげきにもびくともしなかった)は4がつ30にちにソビエト赤軍せきぐんより降伏ごうぶくするよう通達つうたつされていたが、5月1にち降伏ごうぶく文書ぶんしょは30にちの23受領じゅりょう今日きょう夜中よなか降伏ごうぶくすると回答かいとうした。これは高射こうしゃ砲塔ほうとう守備しゅび隊員たいいん夕方ゆうがた脱出だっしゅつするための時間じかんかせぎであった[87]。もう一方いっぽうシュパンダウ要塞ようさいドイツばんは1630ねんにハーフェルがわとシュプレーがわ合流ごうりゅう地点ちてん中州なかすてられたものであったが、4がつ30にち、ソビエト赤軍せきぐんだい47ぐん降伏ごうぶく勧告かんこくおこなった。そのの15要塞ようさい降伏ごうぶくした[88]。その判明はんめいしたが、じつはこの要塞ようさいはドイツの化学かがく兵器へいき関連かんれん施設しせつであった[89]

脱出だっしゅつ[編集へんしゅう]

5月1にち、ヴァイトリングは生存せいぞんしゃたちに21北西ほくせい方面ほうめん脱出だっしゅつするよう命令めいれいした。しかし脱出だっしゅつ計画けいかくおくれをせ、23はじまった。最初さいしょ脱出だっしゅつしたのはモーンケひきいる総統そうとう官邸かんてい人々ひとびとであったが、ヴァイデンダムきょうドイツばんけてシャリテー病院びょういんかったことはさいわいであった。しかし、そのりとなってしまい、モーンケはシュルトハイス・ビール醸造じょうぞうしょ捕虜ほりょとなった。つぎのグループはティーガー戦車せんしゃ先頭せんとう脱出だっしゅつこころみたが、ヴァイデンダムきょうですぐに撃破げきはされた[90]。そのグループにはマルティン・ボルマンがおり、深夜しんや1ごろにシュプレーがわわたったものの脱出だっしゅつできず、レアターえき付近ふきんでヒトラー主治医しゅじいルートヴィヒ・シュトゥンプフエッガーとも自殺じさつしたといわれている。ボルマンはベルリン市街しがいせんんだ唯一ゆいいつのナチス政権せいけん幹部かんぶとなった[91][92][ちゅう 12]。ボルマンの遺体いたいは30ねん発見はっけんされた。

クルッケンベルクと「ノルトラント」ののこりは夜明よあまえにシュプレーがわわたったが、ソビエト赤軍せきぐん突破とっぱすることができず、中央ちゅうおう地区ちくたたかうことを余儀よぎなくされた。そこでかれらは解散かいさんしてそれぞれ脱出だっしゅつすることにし、なかには軍服ぐんぷくすて避難ひなんみんになりすまそうとしたものもいたが、ほとんどが戦死せんしするかクルッケンベルクのように捕虜ほりょとなった。ソビエト赤軍せきぐんかれらが脱出だっしゅつしようとしているのに気付きづいており、急遽きゅうきょ非常ひじょうせん脱出だっしゅつそなえていた、そのため中央ちゅうおう地区ちく東側ひがしがわシェーンハウザー・アレードイツばんきたける脱出だっしゅつ失敗しっぱいわった。ミュンヘベルク師団しだん(5りょう戦車せんしゃ、4つの突撃とつげきほう少数しょうすう兵員へいいん)、だい18装甲そうこう擲弾へい師団しだんだい9降下こうかりょうへい師団しだん残存ざんそんへいはティーアガルテンをとおって、西にし脱出だっしゅつした。また、それらには落伍らくごへい避難ひなんみんつづいた。

シュパンダウはヒトラー・ユーゲントの分遣ぶんけんたい保持ほじしていたので、 シャルロッテきょう英語えいごばんわたってハーフェルがわこうへ脱出だっしゅつこころみられた[94]。ソビエト赤軍せきぐん猛烈もうれつ砲撃ほうげきもとなんせんにんかが脱出だっしゅつ成功せいこうした。また、脱出だっしゅつ成功せいこうした装甲車そうこうしゃりょうシュターケンドイツばんかった。その少数しょうすう人々ひとびと西側にしがわへの脱出だっしゅつ成功せいこうし、西側にしがわ連合れんごうぐん降伏ごうぶくしたが、だい多数たすうはソビエト赤軍せきぐんとの戦闘せんとう死亡しぼうするか、捕虜ほりょとなった。脱出だっしゅつちゅう死亡しぼうしたドイツへい避難ひなんみんすうまんにん規模きぼとみられ、実数じっすう不明ふめいである[95]戦時せんじ国際こくさいほうもとづいて白旗はっきって投降とうこうしようとこころみた人々ひとびともいたが、白旗はっき意味いみ理解りかいできないか、意図いとてき無視むししたひとし理由りゆうによりソ連それんぐん砲撃ほうげきことはなかった。

降伏ごうぶく[編集へんしゅう]

5月2にち、ソビエト赤軍せきぐん総統そうとう官邸かんていへの攻撃こうげき開始かいしした。ソビエト赤軍せきぐん公式こうしき発表はっぴょうによると、戦闘せんとう帝国ていこく議会ぎかい議事堂ぎじどうおこなわれたものに酷似こくじしており、ヴィルヘルム広場ひろばドイツばん戦闘せんとうおこなわれ、ソビエト赤軍せきぐん榴弾りゅうだんほうまれるなか玄関げんかん屋内おくないでさらにはげしい戦闘せんとうおこなわれた。だい5突撃とつげきぐん配下はいかだい9狙撃そげきへい軍団ぐんだん司令しれいかんアンナ・ニクリナは総統そうとう官邸かんてい屋根やねあか軍旗ぐんきかかげるよう命令めいれいした。しかしアントニー・ビーヴァーは、前夜ぜんやにドイツぐんのほとんどが脱出だっしゅつしたため帝国ていこく議会ぎかい議事堂ぎじどうおこなわれたほど過酷かこく戦闘せんとうおこなわれたことはなかっただろう、と指摘してきしており、ソビエト赤軍せきぐん発表はっぴょう誇張こちょうであるとしている[96]

午前ごぜん1、ソビエト赤軍せきぐんはドイツだい56装甲そうこう軍団ぐんだんから停戦ていせん交渉こうしょうおこなうためポツダムきょうドイツばん白旗はっきかかげた軍使ぐんしおくるとの通信つうしん傍受ぼうじゅした。この通信つうしん上級じょうきゅう司令しれいへとがれ、午前ごぜん6にヴァイトリングら司令しれい降伏ごうぶくした。823ふん、チュイコフとの面会めんかいのために移送いそうされた。チュイコフ(スターリングラード防衛ぼうえい成功せいこうした経験けいけんがあった)はヴァイトリングに面会めんかいすると、ベルリン防衛ぼうえいぐん司令しれいかんがヴァイトリング本人ほんにんかどうかの確認かくにんとクレープスの所在しょざいたずねた。ヴァイトリングは自分じぶん防衛ぼうえいぐん司令しれいかんであり、クレープスは昨夜さくや総統そうとう官邸かんていたが、多分たぶん自殺じさつしただろうとこたえた。その交渉こうしょうで、ヴァイトリングはベルリンが無条件むじょうけん降伏ごうぶくすること、まだ戦闘せんとう継続けいぞくしているドイツへいにソビエト赤軍せきぐん投降とうこうするようめいじることに同意どういし、チュイコフとだい1ウクライナ方面ほうめんぐん参謀さんぼうちょうワシーリー・ソコロフスキー命令めいれいで、ヴァトリングは降伏ごうぶく文書ぶんしょ署名しょめいした[57][57][97][98]

そのころ、ティーアガルテンの高射こうしゃ砲塔ほうとう守備しゅびたい350にん脱出だっしゅつした。ベルリン市内しないでは降伏ごうぶく拒否きょひした武装ぶそうSSがてこもる建物たてもの散発さんぱつてき戦闘せんとうつづいていたが、ソビエト赤軍せきぐんてこもりをつづける建物たてもの爆破ばくはして対応たいおうした。市内しないでソビエト赤軍せきぐんによるしがはじまると、ドイツへい避難ひなんみんらが一斉いっせい行列ぎょうれつつくった。そんななか武装ぶそうSSが降伏ごうぶくするドイツへい白旗はっきかかげる避難ひなんみん家屋かおく攻撃こうげきしているという報告ほうこくはいっていた。ソビエト赤軍せきぐんいえからいえまわって、鉄道てつどういん消防しょうぼういん警察けいさつなど制服せいふくものやく18,000にん)を拘束こうそく戦争せんそう捕虜ほりょとして連行れんこうした[99][100]

その[編集へんしゅう]

ソビエト赤軍せきぐんはベルリン市民しみん食料しょくりょう供給きょうきゅうすることに努力どりょくした[101]。しかし、これと同時どうじ多数たすう地域ちいきどくせんけた損害そんがいたいする復讐ふくしゅうとして、ソビエト赤軍せきぐんおも後方こうほう部隊ぶたい)の兵士へいしによる婦女ふじょ暴行ぼうこう被害ひがいしゃやく100,000にんといわれる)、略奪りゃくだつ殺害さつがいなどが横行おうこうしたが[102]ぐん司令しれいすう週間しゅうかんわたってこの問題もんだい放置ほうちした。なおこれについてはたいにちせん末期まっき満州まんしゅう侵攻しんこう発生はっせいした婦女ふじょ暴行ぼうこう略奪りゃくだつ殺害さつがい同様どうようであり、戦後せんございわれることも謝罪しゃざいすることもなかった。

さらにソビエト赤軍せきぐん兵士へいしたちは、ロシアができる大使館たいしかんいんらの制止せいし無視むしして、にち中立ちゅうりつ条約じょうやくにより中立ちゅうりつ関係かんけいにある日本国にっぽんこく大使館たいしかんり、大使館たいしかんいん時計とけい食料しょくりょうなどを強奪ごうだつするにいたった。これにたいして残留ざんりゅうしていた大使館たいしかんいんぐん司令しれい抗議こうぎをしたため、のち警備けいびへいつことになった。さらにそのも、司令しれいおとずれた日本にっぽん大使館たいしかんいん数日すうじつあいだ監禁かんきんし、リッベントロップ外相がいしょう行方ゆくえなどについて尋問じんもんするという国際こくさいほう違反いはんする行為こういおこなった。

さらに数日すうじつ日本にっぽん交戦こうせんしているイギリスぐんやアメリカぐんがベルリンに入城にゅうじょうしてくることがまったため、数時間すうじかん猶予ゆうよあたえたうえに、すべての残留ざんりゅう大使館たいしかん関係かんけいしゃモスクワ経由けいゆ日本にっぽん帰還きかんさせた。

記念きねん[編集へんしゅう]

戦勝せんしょう

たいどく戦勝せんしょう記念きねんのために使つかわれる戦勝せんしょうは、2007ねん5がつ7にち、ロシア連邦れんぽうほうによって制定せいていされた[103]帝国ていこく議会ぎかい議事堂ぎじどうたたかいをせいしただい150狙撃そげきへい師団しだんは、自分じぶんたちの師団しだん所属しょぞくえがかれたソ連それん国旗こっき議事堂ぎじどうかかげた。そのオリジナルのはたはモスクワ中央ちゅうおう軍事ぐんじ博物館はくぶつかん永久えいきゅう保存ほぞんされているが、そのレプリカが「戦勝せんしょう」として戦勝せんしょう記念きねん愛国心あいこくしん誇示こじ機会きかい使つかわれている。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

英語えいごばん使用しようされたもの[編集へんしゅう]

日本語にほんごばん使用しようしたもの[編集へんしゅう]

  • アントニー・ビーヴァー ちょ川上かわかみこう やく『ベルリン陥落かんらく 1945』そうしゃ、2004ねんISBN 4-56-002600-9 
  • 毎日新聞社まいにちしんぶんしゃへんだい2世界せかい大戦たいせん欧州おうしゅう戦線せんせん1939-1945』毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、1999ねんISBN 4-789-30021-8 
  • 高橋たかはしけいちょつづけ ラスト・オブ・カンプフグルッペ』だい日本にっぽん絵画かいが、2005ねんISBN 4-499-22748-8 
  • ピーター・アンティルちょ三貴みき雅智まさとも『ベルリンのたたかい 1945』だい日本にっぽん絵画かいが、2006ねんISBN 4-499-22912-X 
  • マクシム コロミーエツちょ小松こまついさおじん やく高橋たかはしけい 監修かんしゅう『1945ねんのドイツ国防こくぼうぐん戦車せんしゃ部隊ぶたい欧州おうしゅうせん最終さいしゅうのドイツぐん戦車せんしゃ部隊ぶたい組織そしき編制へんせい戦歴せんれき事典じてんだい日本にっぽん絵画かいが、2006ねんISBN 4-499-22924-3 
  • 学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ編纂へんさん歴史れきしぐんぞうアーカイブどくせん学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ、2009ねんISBN 4-05-605386-3 

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ ライマンからベルリン防衛ぼうえいぐん司令しれいかんいだがエルンスト・ケーター英語えいごばんが1にち解任かいにんされたため、その後任こうにんにヴァイトリングが任命にんめいされたが、そのあいだエーリッヒ・ベーレンフェンガー代理だいりつとめたとするせつもある。
  2. ^ 45,000 にんのほとんどが、ゼーロウ高地こうちたたかだい9ぐん所属しょぞくしていただいLVI装甲そうこう軍団ぐんだん所属しょぞくであった。
  3. ^ Dollingerによると、ヴァイトリングは4がつ26にちまでベルリン防衛ぼうえいぐん司令しれいかんには任命にんめいされていないとする。ただし、ビーヴァーによれば4がつ23にち任命にんめいされたとしている[8]。また、高橋たかはしけいによれば4がつ25にちとなっている[9]。ここでは英語えいごばんしたがい、26にちとする。ソビエト赤軍せきぐんがベルリン市内しない進撃しんげきはじめた4がつ23にち、ヴァイトリングが司令しれいかんつとめるだい56装甲そうこう軍団ぐんだん武装ぶそうSSと国防こくぼうぐん正規せいきへいさい編成へんせいされた。
  4. ^ ソ連それんはドイツぐん兵力へいりょくを180,000と推測すいそくしていたが、これは捕虜ほりょとしてソ連それんはこばれたかずであり、武装ぶそうしていない鉄道てつどういん国家こっか労働ろうどう奉仕ほうしだんいんなどがふくまれている[1][10][11]
  5. ^ 急造きゅうぞうバリケードのほとんどが戦闘せんとう最初さいしょにまずばされた[14]。また、ベルリン市民しみんあいだではソビエト赤軍せきぐんがバリケードを突破とっぱするのに2あいだ15ふんかかるが、大笑おおわらいするのに2あいだ突破とっぱするのに15ふんとして皮肉ひにくっていた[15]
  6. ^ この出来事できごとは、死者ししゃすう発生はっせいについて論議ろんぎされている。Beevor はヒトラー死後しごの5がつ1にち、クルッケンベルクに命令めいれいくだされ、「ノルトラント」の工兵こうへいおこなったとしており、すくなくとも5月2にち早朝そうちょうまでには爆発ばくはつさせただろうとしている[45][46]。Hamilton によれば、運河うんが決壊けっかいはソビエト赤軍せきぐんによる重砲じゅうほうげきとロケットほう攻撃こうげきによるところがおおきいだろうとしている。また、重要じゅうようなこととして、トンネルは司令しれいとの連絡れんらく病院びょういん防御ぼうぎょ拠点きょてんとして有効ゆうこう活用かつようされ、そのうえ、ソビエト赤軍せきぐん奇襲きしゅうするための迅速じんそく行動こうどうおこなえる通路つうろとしており、武装ぶそうSSもトンネルに司令しれいいた。よって、武装ぶそうSSがトンネルを崩壊ほうかいさせることは無意味むいみとしている[47]。いずれにしろ、ソビエト赤軍せきぐんは「ノルトラント」のフランスじん義勇ぎゆうへい攻撃こうげきけるまえにヴィルヘルムがいのUバーンのえき到着とうちゃくした3りょうのT-34で攻勢こうせいつづけたが、結局けっきょく、フランスじん義勇ぎゆうへい阻止そしされた[48][49]
  7. ^ 帝国ていこく議会ぎかい議事堂ぎじどうからは600m、ゲシュタポ本部ほんぶからは2kmほどの距離きょりである。
  8. ^ 空軍くうぐんたいする命令めいれいについては諸説しょせつある。Beevorによればポツダム広場ひろばとなっているが、 Ziemkeによればヴェンクのだい12ぐん攻撃こうげき支援しえんするよう命令めいれいされたとしている。ただし、ヒムラー逮捕たいほ確認かくにんについては両者りょうしゃおな意見いけんである。
  9. ^ The Last Days of Hitler によれば遺書いしょ口述こうじゅつ筆記ひっきしたのち結婚けっこんしたとされている[60]
  10. ^ Dollinger (p.239) によればヨードルが応答おうとうしたとされる。しかしZiemke (p.120) と Beevor (p.537) によるとカイテルになっている。
  11. ^ Dollinger (p.239) によれば午前ごぜん3、 Beevor (p.367)によれば午前ごぜん4にクレープスはチュイコフと面会めんかいしているとされる[83]
  12. ^ 資料しりょうによっては、ヴァイトリングは脱出だっしゅつ命令めいれいしていないとされる[93]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d Beevor 参考さんこう文献ぶんけん p. 287 for the 45,000 soldiers and 40,000 Volkssturmより.
  2. ^ Beevor see 参考さんこう文献ぶんけん pp. 217-233
  3. ^ a b Ziemke see 参考さんこう文献ぶんけん page 84
  4. ^ World War II Axis Military History Day-by-Day: April 20 April 1945
  5. ^ Ziemke see 参考さんこう文献ぶんけん pp. 92-94
  6. ^ Ziemke see 参考さんこう文献ぶんけん p. 94
  7. ^ a b c Ziemke 参考さんこう文献ぶんけん p. 111
  8. ^ a b ビーヴァー(2004)、p.432
  9. ^ 高橋たかはし(2005)、p.309
  10. ^ Beevor 参考さんこう文献ぶんけん p. 287
  11. ^ ビーヴァー(2004)、p.433
  12. ^ a b c Map of the Battle of Berlin 26–28 April, 1945 Archived 2007ねん6がつ21にち, at the Wayback Machine. この地図ちずは Ziemke, Earl F. Battle For Berlin: End Of The Third Reich p. 93 のものである。(see 参考さんこう文献ぶんけん)
  13. ^ Beevor, 参考さんこう文献ぶんけん p. 317
  14. ^ a b ビーヴァー(2004)、p.471
  15. ^ 高橋たかはし(2005)、p.292
  16. ^ a b Beevor 参考さんこう文献ぶんけん pp. 316-319
  17. ^ ビーヴァー(2004)、p.472
  18. ^ a b c ビーヴァー(2004)、p.446
  19. ^ Beevor 参考さんこう文献ぶんけん pp. 259,297
  20. ^ Beevor 参考さんこう文献ぶんけん pp. 291-292
  21. ^ アントニー・ビーヴァー『ベルリン陥落かんらく 1945』、p.452。
  22. ^ Beevor 参考さんこう文献ぶんけん pp. 291-292,302-304
  23. ^ ビーヴァー(2004)、pp.452-455
  24. ^ Beevor 参考さんこう文献ぶんけん p. 303
  25. ^ Ziemke 参考さんこう文献ぶんけん pp. 114-115
  26. ^ Beevor 参考さんこう文献ぶんけん pp. 303,304,319
  27. ^ a b c d Dollinger 参考さんこう文献ぶんけん p. 228
  28. ^ Beevor, 参考さんこう文献ぶんけん p. 322
  29. ^ Ziemke, 参考さんこう文献ぶんけん p. 98
  30. ^ ビーヴァー(2004)、p.478
  31. ^ ビーヴァー(2004)、p.476
  32. ^ Beevor, 参考さんこう文献ぶんけん p. 321
  33. ^ ビーヴァー(2004)、p.477
  34. ^ ビーヴァー(2004)、p.474
  35. ^ Beevor 参考さんこう文献ぶんけん pp.318-320
  36. ^ ビーヴァー(2004)、p.473
  37. ^ a b Beevor, 参考さんこう文献ぶんけん pp. 323,324,17,318,
  38. ^ The Ministry of Foreign Affairs of the Republic of Belarus Archived 2007ねん6がつ22にち, at the Wayback Machine. N. I. Gusev as commander of the 47thがソースである。
  39. ^ ビーヴァー(2004)、p.480
  40. ^ Beevor 参考さんこう文献ぶんけん p. 319,320
  41. ^ ビーヴァー(2004)、p.475
  42. ^ Beevor 参考さんこう文献ぶんけん p. 323
  43. ^ ビーヴァー(2004)、p.479
  44. ^ a b c Ziemke 参考さんこう文献ぶんけん p.119
  45. ^ a b Ziemke 参考さんこう文献ぶんけん p. 118
  46. ^ Beevor 参考さんこう文献ぶんけん p. 371,
  47. ^ Hamilton 参考さんこう文献ぶんけん p.214
  48. ^ Beevor 参考さんこう文献ぶんけん p.351
  49. ^ ビーヴァー(2004)、p.515
  50. ^ Beevor 参考さんこう文献ぶんけん p. 340
  51. ^ ビーヴァー(2004)、p.511
  52. ^ ビーヴァー(2004)、p.501
  53. ^ Map of the Battle for Reichstag 29 April – 2 May 1945 Archived 2007ねん7がつ3にち, at the Wayback Machine.. この地図ちずは Ziemke, Earl F. Battle For Berlin: End Of The Third Reich p. 121のものである。 (see 参考さんこう文献ぶんけん)
  54. ^ Beevor 参考さんこう文献ぶんけん pp. 340,347-349
  55. ^ ビーヴァー(2004)、p.504
  56. ^ Beevor, 参考さんこう文献ぶんけん p. 342
  57. ^ a b c d e f Dollinger 参考さんこう文献ぶんけん p. 239
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  59. ^ 60 Years On - Hitlers last days: "Hitler's will and marriage" on the website of MI5 citing Trevor Roper (an WWII MI5 agent)
  60. ^ ビーヴァー(2004)、p.535
  61. ^ Beevor, 参考さんこう文献ぶんけん p. 338
  62. ^ Exton, Brett. Some of the prisoners held at Special Camp 11: Generaloberst Gotthard Heinrici
  63. ^ Exton, Brett, and Murphy, Richard. Some of the prisoners held at Special Camp 11: General der Infanterie Kurt von Tippelskirch
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  68. ^ a b ビーヴァー(2004)、p.516
  69. ^ Beevor, 参考さんこう文献ぶんけん p.352
  70. ^ ビーヴァー(2004)、p.518
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  72. ^ Beevor, 参考さんこう文献ぶんけん p.357 last paragraph
  73. ^ ビーヴァー(2004)、p.529
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  75. ^ ビーヴァー(2004)、p.530
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  79. ^ 60 Years On - Hitlers last days: "Preparations for death" and "Disposal of the bodies" on the website of MI5
  80. ^ Russians Enter Berlin: Final Months of World War II (1945) British Pathé
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  84. ^ Beevor, 参考さんこう文献ぶんけん pp.356,357
  85. ^ ビーヴァー(2004)、pp.562-564
  86. ^ Beevor 参考さんこう文献ぶんけん pp. 380-381
  87. ^ ビーヴァー(2004)、p.553
  88. ^ Beevor, 参考さんこう文献ぶんけん pp.372-375
  89. ^ ビーヴァー(2004)、pp.553-559、pp.573-574
  90. ^ de:Weidendammer Brücke
  91. ^ Beevor, 参考さんこう文献ぶんけん p.383,389
  92. ^ Ziemke, 参考さんこう文献ぶんけん p.126
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  94. ^ Picture of Charlottenbrücke, Berlin-Spandau May 2005
  95. ^ Beevor, 参考さんこう文献ぶんけん p.384,385
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  97. ^ Beevor 参考さんこう文献ぶんけん, p.386
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  99. ^ Beevor 参考さんこう文献ぶんけん, pp. 287,388-393
  100. ^ ビーヴァー(2004)、p.577
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  103. ^ Федеральный закон Российской Федерации от 7 мая 2007 г. N 68-ФЗ "О Знамени Победы"

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

どくせん