ベルリン市街 しがい 戦 せん (ベルリンしがいせん、英 えい : Battle in Berlin )は、ベルリンの戦 たたか い における一 いち 方面 ほうめん の戦 たたか いである。ベルリンの戦 たたか いは第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん における終末 しゅうまつ 期 き のナチス・ドイツ と連合 れんごう 国 こく との間 あいだ における支配 しはい 地 ち をめぐる戦 たたか いで、本 ほん 市街 しがい 戦 せん はその局地 きょくち 戦 せん のひとつであった。ソ連 それん 赤軍 せきぐん 3方面 ほうめん 軍 ぐん によるベルリン占領 せんりょう まで続 つづ いた。ドイツ軍 ぐん にとっては戦 たたか いの初期 しょき 段階 だんかい ですでに絶望 ぜつぼう 的 てき な状況 じょうきょう であったにもかかわらず、赤軍 せきぐん が市 し の中央 ちゅうおう 部 ぶ に進撃 しんげき するためには通 とお りごとに多大 ただい な犠牲 ぎせい を払 はら わなければならなかった。ベルリン攻防 こうぼう 戦 せん (ベルリンこうぼうせん)とも呼 よ ばれる。
1945年 ねん 4月 がつ 23日 にち 、赤軍 せきぐん は初 はじ めてベルリン市 し の郊外 こうがい に進入 しんにゅう 、4月 がつ 27日 にち までに市 し は完全 かんぜん に包囲 ほうい された。5月2日 にち 、ベルリン防衛 ぼうえい 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん ヘルムート・ヴァイトリング 砲兵 ほうへい 大将 たいしょう は、赤軍 せきぐん 第 だい 1白 はく ロシア戦線 せんせん (英語 えいご 版 ばん ) (司令 しれい 官 かん ゲオルギー・ジューコフ )配下 はいか の第 だい 8親衛 しんえい 軍 ぐん (英語 えいご 版 ばん ) 司令 しれい 官 かん ワシーリー・チュイコフ 大将 たいしょう に降伏 ごうぶく した。
オーデル・ナイセ線 せん での戦 たたか いの主戦 しゅせん 地 ち はベルリン郊外 こうがい 東方 とうほう 面 めん での最終 さいしゅう 防衛 ぼうえい 線 せん 、ゼーロウ高地 こうち で4月 がつ 16日 にち から19日 にち までの4日間 にちかん にわたって激戦 げきせん が行 おこな われた。戦 たたか いの最終 さいしゅう 日 び の19日 にち 、第 だい 1白 はく ロシア方面 ほうめん 軍 ぐん はゼーロウ高地 こうち のドイツ軍 ぐん 最終 さいしゅう 防衛 ぼうえい 線 せん を突破 とっぱ 、その結果 けっか 、赤軍 せきぐん とベルリンの間 あいだ には撃破 げきは され疲弊 ひへい し切 き ったドイツ軍 ぐん しか存在 そんざい しなかった。その前日 ぜんじつ 、フォルストを包囲 ほうい していた第 だい 1ウクライナ方面 ほうめん 軍 ぐん (司令 しれい 官 かん イワン・コーネフ 元帥 げんすい )は、扇形 せんけい に広 ひろ がって進撃 しんげき し、一部 いちぶ の部隊 ぶたい が、ベルリン西側 にしがわ のエルベ川 がわ に進出 しんしゅつ していたアメリカ軍 ぐん と合流 ごうりゅう すべく南西 なんせい へ向 む かい、主力 しゅりょく 部隊 ぶたい はベルリン包囲 ほうい のために北東 ほくとう へ進出 しんしゅつ した。
19日 にち の遅 おそ く、ゼーロウ高地 こうち 南部 なんぶ 、フロスト南部 なんぶ 、フランクフルト・アン・デア・オーダー 北部 ほくぶ のドイツ軍 ぐん 東部 とうぶ 戦線 せんせん は消失 しょうしつ し、これを突破 とっぱ した2個 こ 赤軍 せきぐん 方面 ほうめん 軍 ぐん がフランクフルト・アン・デア・オーダー東部 とうぶ でドイツ第 だい 9軍 ぐん を包囲 ほうい した。包囲 ほうい 網 もう を西 にし へ突破 とっぱ しようとする第 だい 9軍 ぐん の戦 たたか いは後 のち にハルベの戦 たたか い [2] [3] と呼 よ ばれる。赤軍 せきぐん の損害 そんがい は4月 がつ 1日 にち - 19日 にち の間 あいだ が激 はげ しく、ゼーロウ高地 こうち で破壊 はかい された727両 りょう を含 ふく めて、総勢 そうぜい 2,807両 りょう 以上 いじょう の戦車 せんしゃ が破壊 はかい された[4] 。
ドイツ総統 そうとう アドルフ・ヒトラー の誕生 たんじょう 日 び である4月 がつ 20日 はつか 、第 だい 1白 はく ロシア方面 ほうめん 軍 ぐん の砲兵 ほうへい 部隊 ぶたい はベルリン市 し 中央 ちゅうおう 部 ぶ に砲撃 ほうげき を開始 かいし したが、これはベルリン市 し が降伏 ごうぶく するまで続 つづ いた(戦後 せんご 、ソ連 それん はその砲撃 ほうげき は西側 にしがわ 連合 れんごう 国軍 こくぐん による空襲 くうしゅう よりも量 りょう が多 おお く、効果 こうか が高 たか かったとしている)。その砲撃 ほうげき の最中 さいちゅう 、第 だい 1白 はく ロシア方面 ほうめん 軍 ぐん は、ベルリン市 し の東方 とうほう 面 めん から北東 ほくとう 部 ぶ を包囲 ほうい し始 はじ めた。
一方 いっぽう 、第 だい 1ウクライナ方面 ほうめん 軍 ぐん はドイツ中央 ちゅうおう 軍 ぐん 集団 しゅうだん (司令 しれい 官 かん フェルディナント・シェルナー 元帥 げんすい )の北側 きたがわ 防衛 ぼうえい 線 せん を突破 とっぱ 、ユーターボーク (ドイツ語 ご 版 ばん ) 北方 ほっぽう へ進撃 しんげき 、その途中 とちゅう 、エルベ川 がわ 沿 ぞ いのマクデブルク へ進撃 しんげき していたアメリカ軍 ぐん と邂逅 かいこう した。
また、第 だい 2白 はく ロシア方面 ほうめん 軍 ぐん (司令 しれい 官 かん コンスタンチン・ロコソフスキー 元帥 げんすい )は、シュテッティン - シュヴェート (ドイツ語 ご 版 ばん ) 間 あいだ 北方 ほっぽう で、ヴァイクセル軍 ぐん 集団 しゅうだん (司令 しれい 官 かん ゴットハルト・ハインリツィ 上級 じょうきゅう 大将 たいしょう )配下 はいか の第 だい 3装甲 そうこう 軍 ぐん (司令 しれい 官 かん ハッソ・フォン・マントイフェル 大将 たいしょう )の防衛 ぼうえい 線 せん の北側 きたがわ 中央 ちゅうおう 部 ぶ を攻撃 こうげき した[3] 。その結果 けっか 、4月 がつ 24日 にち までには、第 だい 1白 はく ロシア方面 ほうめん 軍 ぐん と第 だい 1ウクライナ方面 ほうめん 軍 ぐん の主力 しゅりょく は、ベルリン市 し の包囲 ほうい を完了 かんりょう [5] 、その翌日 よくじつ の25日 にち 、第 だい 2白 はく ロシア方面 ほうめん 軍 ぐん がシュテッティン に築 きず いた橋頭堡 きょうとうほ を足 あし がかりに第 だい 3装甲 そうこう 軍 ぐん の防衛 ぼうえい 線 せん を南 みなみ へ突破 とっぱ 、ランドウ (ドイツ語 ご 版 ばん ) 湿地 しっち を横断 おうだん したが、それはバルト海 ばるとかい に面 めん したシュトラールズント の港 みなと へ進出 しんしゅつ していたイギリス軍 ぐん 第 だい 21軍 ぐん 集団 しゅうだん のところまで障害 しょうがい 無 な しに北進 ほくしん することが可能 かのう になったことを意味 いみ した。
第 だい 5親衛 しんえい 軍配 ぐんばい 下 か のソビエト第 だい 58親衛 しんえい 師団 しだん は、エルベ川 がわ 沿 ぞ いのトルガウ 近 ちか くで、アメリカ第 だい 1軍配 ぐんばい 下 か の第 だい 69歩兵 ほへい 師団 しだん と邂逅 かいこう した[6] 。ベルリンを包囲 ほうい した赤軍 せきぐん はSバーン を環状 かんじょう に形成 けいせい したドイツ軍 ぐん 防衛 ぼうえい 線 せん へ徹底的 てっていてき に浸透 しんとう し、しらみつぶしに撃破 げきは していた。4月 がつ 25日 にち 遅 おそ く、戦 たたか いの最終 さいしゅう 局面 きょくめん は、すでにベルリン市内 しない に移 うつ り、ベルリン市 し におけるドイツ防衛 ぼうえい 部隊 ぶたい の戦 たたか いが赤軍 せきぐん による占領 せんりょう を遅 おく らせるとは思 おも われなかった[7] 。
ベルリン防衛 ぼうえい 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん ヘルムート・ヴァイトリング大将 たいしょう が使用 しよう できる戦力 せんりょく は損耗 そんこう し切 き った国防 こくぼう 軍 ぐん 、武装 ぶそう SS の数個 すうこ 師団 しだん で合 あ わせて45,000人 にん ほどであり、さらに警察官 けいさつかん 、ヒトラー・ユーゲント 、国民 こくみん 突撃 とつげき 隊 たい が加 くわ わった[注 ちゅう 3] 。国民 こくみん 突撃 とつげき 隊 たい は40,000人 にん ほどいたが、その中 なか には若 わか いころに従軍 じゅうぐん 経験 けいけん のある者 もの が多 おお く、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の従軍 じゅうぐん 者 しゃ までいた。ヒトラーによりベルリン中心 ちゅうしん 部 ぶ 防衛 ぼうえい にはヴィルヘルム・モーンケ SS少将 しょうしょう が任命 にんめい され、総統 そうとう 護衛 ごえい 大隊 だいたい などを中心 ちゅうしん とする兵士 へいし 2,000人 にん がその指揮 しき 下 か に配属 はいぞく された[注 ちゅう 4] 。ヴァイトリングは市内 しない を「A」 - 「H」の8区画 くかく に分 わ けて、それぞれ防衛 ぼうえい 部隊 ぶたい を配置 はいち したが、部隊 ぶたい のほとんどは戦闘 せんとう 経験 けいけん がなかった[1] 。ベルリン西方 せいほう を第 だい 20装甲 そうこう 擲弾兵 へい 師団 しだん 、北方 ほっぽう に第 だい 9降下 こうか 猟 りょう 兵 へい 師団 しだん 、北東 ほくとう にミュンヘベルク装甲 そうこう 師団 しだん 、南東 なんとう 方向 ほうこう とテンペルホーフ飛行場 ひこうじょう に第 だい 11SS義勇 ぎゆう 装甲 そうこう 擲弾兵 へい 師団 しだん 「ノルトラント」 、予備 よび として第 だい 18装甲 そうこう 擲弾兵 へい 師団 しだん が中央 ちゅうおう 部 ぶ とそれぞれ配置 はいち された[12] [8] 。
赤軍 せきぐん は砲兵 ほうへい による濃厚 のうこう な支援 しえん 射撃 しゃげき の元 もと 、6 - 8人 にん の兵 へい で小規模 しょうきぼ な戦闘 せんとう グループを作 つく り、それをさらに80人 にん ほどにまとめ、武器 ぶき を混成 こんせい させた部隊 ぶたい を構成 こうせい させた。これらは赤軍 せきぐん が独 どく ソ戦 せん で攻勢 こうせい に転 てん じてから、各々 おのおの のFestungsstadt (要塞 ようさい 都市 とし )を巡 めぐ る戦 たたか いで家 いえ ひとつひとつを奪 うば い合 あ う激戦 げきせん に有効 ゆうこう な戦術 せんじゅつ として発案 はつあん されたものだった[13] 。
ドイツの標準 ひょうじゅん 的 てき 建築 けんちく 物 ぶつ
ベルリン市内 しない を防衛 ぼうえい するドイツ軍 ぐん には3つの問題 もんだい が生 しょう じていた。第 だい 1にドイツ軍 ぐん がこの5年間 ねんかん に負 お った損害 そんがい 、第 だい 2にベルリン市 し の地形 ちけい 的 てき 特徴 とくちょう 、第 だい 3に赤軍 せきぐん の戦術 せんじゅつ であった。特 とく にベルリン市 し 中央 ちゅうおう 部 ぶ の大 だい 部分 ぶぶん はいくつかの水路 すいろ 、公園 こうえん 、及 およ び広大 こうだい な鉄道 てつどう 関連 かんれん 施設 しせつ や広 ひろ く直線 ちょくせん でできた道路 どうろ から形成 けいせい されており、なおかつ、一部 いちぶ にクロイツベルク山 さん (ドイツ語 ご 版 ばん ) (海抜 かいばつ 66メートル)が存在 そんざい する程度 ていど の平地 ひらち であり、侵攻 しんこう を妨 さまた げる要害 ようがい が存在 そんざい しなかった。また、標準 ひょうじゅん 的 てき な住宅 じゅうたく のほとんどは煉瓦 れんが で造 つく られた19世紀 せいき に建設 けんせつ されたもので、通 とお りから石炭 せきたん を運 はこ ぶ馬車 ばしゃ やトラック が中庭 なかにわ に入 い れるように通路 つうろ がついていた。さらにはその中庭 なかにわ を中心 ちゅうしん に建物 たてもの が並 なら んでおり、どこからでも進入 しんにゅう できる作 つく りになっていた。武装 ぶそう SSは戦 たたか いの間 あいだ 、通 とお りに面 めん した建物 たてもの を遠距離 えんきょり 砲撃 ほうげき で崩 くず して陣地 じんち を形成 けいせい したので街角 まちかど の急造 きゅうぞう バリケード を使 つか わなかった[注 ちゅう 5] 。そして、赤軍 せきぐん 戦車 せんしゃ の機銃 きじゅう が高 たか い位置 いち の目標 もくひょう を撃 う つことができなかったので、建物 たてもの ごとに狙撃 そげき 兵 へい や機関 きかん 銃 じゅう を配置 はいち し、さらには窓 まど のある地下 ちか 室 しつ や通 とお りに空 あ いた穴 あな にパンツァーファウスト を配置 はいち した。これらの戦術 せんじゅつ はヒトラー・ユーゲントや国民 こくみん 突撃 とつげき 隊 たい も行 おこな った[16] [17] 。
戦後 せんご の急造 きゅうぞう バリケード
赤軍 せきぐん はそれに対抗 たいこう するためにタンクデサント を配置 はいち 、軽 けい 機関 きかん 銃 じゅう などを装備 そうび させたが、これは戦車 せんしゃ の射撃 しゃげき 範囲 はんい を狭 せば めることとなった。そのため、もうひとつの解決 かいけつ 策 さく として実行 じっこう したのは、ドイツ軍 ぐん 狙撃 そげき 手 しゅ に対 たい して対空 たいくう 砲 ほう を使 つか い、建物 たてもの には重砲 じゅうほう 撃 げき (主 おも に152mmと203mm)を浴 あ びせ、通 とお りに面 めん した建物 たてもの をひとつひとつ掃討 そうとう していくことだった。戦闘 せんとう は屋根 やね 伝 づた いや屋根裏 やねうら で行 おこな われたり、隣接 りんせつ した建物 たてもの の穴 あな を抜 ぬ け、時折 ときおり 壁 かべ をぶち抜 ぬ き(これにはドイツ軍 ぐん が遺棄 いき したパンツァーファウストが非常 ひじょう に有効 ゆうこう であった)、地下 ちか 室 しつ や部屋 へや 伝 づた いに行 おこな われ、この浸透 しんとう 戦術 せんじゅつ は戦車 せんしゃ を待 ま ち伏 ぶ せしていたドイツ兵 へい を狩 か り出 だ した。手榴弾 しゅりゅうだん と火炎 かえん 放射 ほうしゃ 器 き はこの戦 たたか いで非常 ひじょう に効果 こうか があったが、ベルリン市民 しみん が避難 ひなん していなかったため、多 おお くの犠牲 ぎせい 者 しゃ を出 だ すこととなった[16] [14] 。
郊外 こうがい での戦闘 せんとう が絶望 ぜつぼう 的 てき になったことでベルリン市 し の運命 うんめい は事実 じじつ 上 じょう 決 けっ していたが、ベルリン市内 しない での戦闘 せんとう は継続 けいぞく していた[7] 。4月23日 にち までには、第 だい 1親衛 しんえい 戦車 せんしゃ 軍 ぐん (司令 しれい 官 かん ミハイル・カトゥコフ )とその他 た の部隊 ぶたい がケーペニック (ドイツ語 ご 版 ばん ) の南 みなみ でシュプレー川 がわ 、ダーメ川 がわ (ドイツ語 ご 版 ばん ) に至 いた り、4月 がつ 24日 にち までにブリッツ (ドイツ語 ご 版 ばん ) 、ノイケルン (ドイツ語 ご 版 ばん ) へ進撃 しんげき した[18] 。また、早朝 そうちょう には第 だい 5打 だ 撃 げき 軍 ぐん (司令 しれい 官 かん ニコライ・ベルザーリン )がシュプレー川 がわ を横断 おうだん 、トレプトウ公園 こうえん (ドイツ語 ご 版 ばん ) にいたった。24日 にち 未明 みめい に第 だい 56装甲 そうこう 軍団 ぐんだん の反撃 はんげき を受 う けたが、これを撃退 げきたい 、さらに進撃 しんげき したため[19] 、赤軍 せきぐん の大 おお きな楔 くさび が打 う ち込 こ まれ、第 だい 1親衛 しんえい 戦車 せんしゃ 軍 ぐん はテルトウ運河 うんが (ドイツ語 ご 版 ばん ) 越 こ しに攻撃 こうげき を行 おこな った[18] 。6時 じ 20分 ふん 、約 やく 3,000門 もん の砲 ほう による砲撃 ほうげき と重 じゅう 爆撃 ばくげき 機 き による爆 ばく 撃 げき を開始 かいし 、架橋 かきょう が終了 しゅうりょう した直後 ちょくご の7時 じ に最初 さいしょ の部隊 ぶたい が運河 うんが を渡 わた り、12時 じ には戦車 せんしゃ が支援 しえん に加 くわ わった。夜 よる にはトレプトウ公園 こうえん を占領 せんりょう 、ソビエト赤軍 せきぐん はSバーンに達 たっ した[18] 。
戦闘 せんとう はベルリン市 し の南東 なんとう で激化 げきか し、第 だい 33SS武装 ぶそう 擲弾兵 へい 師団 しだん 「シャルルマーニュ」(フランス第 だい 1) (司令 しれい 官 かん グスタフ・クルッケンベルク (ドイツ語 ご 版 ばん ) )のフランスSS突撃 とつげき 大隊 だいたい に所属 しょぞく する約 やく 300名 めい のフランス人 じん 義勇 ぎゆう 兵 へい が第 だい 11SS義勇 ぎゆう 装甲 そうこう 擲弾兵 へい 師団 しだん 「ノルトラント」 と合流 ごうりゅう した。その日 ひ 、ベルリン市 し に到着 とうちゃく した増援 ぞうえん はこのフランス人 じん 突撃 とつげき 大隊 だいたい だけだった。彼 かれ らは、ハーフェル川 がわ とシュプレー川 がわ の向 む かい側 がわ の無人 むじん のバリケード以外 いがい の防御 ぼうぎょ が手薄 てうす な西 にし 郊外 こうがい を通 とお り、ノイシュトレーリッツ の近 ちか くの親衛隊 しんえいたい 施設 しせつ からベルリン市 し の中央 ちゅうおう 部 ぶ へ移動 いどう した[20] [7] 。
4月 がつ 25日 にち 、第 だい 11SS装甲 そうこう 擲弾兵 へい 師団 しだん 「ノルトラント」司令 しれい 官 かん ヨアヒム・ツィーグラー (ドイツ語 ご 版 ばん ) が解任 かいにん され、後任 こうにん 司令 しれい 官 かん となったクルッケンベルクが「C」区画 くかく の防衛 ぼうえい を任 まか されることになり、フランス人 じん 義勇 ぎゆう 兵 へい たちは「ノルゲ」連隊 れんたい および「ダンマルク」連隊 れんたい が壊滅 かいめつ した「ノルトラント」師団 しだん と共 とも に防衛 ぼうえい 線 せん を補強 ほきょう することになった[21] 。正午 しょうご 、彼 かれ は「C」区画 くかく に到着 とうちゃく したが、テルトウ運河 うんが 南方 なんぽう のドイツ軍 ぐん 橋頭堡 きょうとうほ はすでに放棄 ほうき されており、夜 よる には「C」区画 くかく を放棄 ほうき して市 し 中央 ちゅうおう 部 ぶ 「Z」区画 くかく (ミッテ地区 ちく (ドイツ語 ご 版 ばん ) )へ退却 たいきゃく しなければならないと陸軍 りくぐん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ (OKH)ハンス・クレープス 大将 たいしょう へ連絡 れんらく した[22] [23] 。
ノイケルンの場所 ばしょ
第 だい 8親衛 しんえい 軍 ぐん と第 だい 1親衛 しんえい 戦車 せんしゃ 軍 ぐん の部隊 ぶたい はノイケルンの南方 なんぽう を通 とお ってSバーン防衛 ぼうえい 線 せん に存在 そんざい したテンペルホーフ飛行場 ひこうじょう 方面 ほうめん へ進撃 しんげき した。「D」区画 くかく の防衛 ぼうえい はミュンヘベルク装甲 そうこう 師団 しだん が担当 たんとう しており、12両 りょう の戦車 せんしゃ と30台 だい の装甲 そうこう 兵員 へいいん 輸送 ゆそう 車 しゃ が補充 ほじゅう される約束 やくそく であったが、実際 じっさい には敗残 はいざん 兵 へい と国民 こくみん 突撃 とつげき 隊 たい が補充 ほじゅう されるにとどまった。赤軍 せきぐん はドイツ軍 ぐん を撃破 げきは するのに火炎 かえん 放射 ほうしゃ 器 き を使用 しよう し、用心深 ようじんぶか く進撃 しんげき した。夕暮 ゆうぐ れまでには、何 なん 台 だい かのT-34 が飛行場 ひこうじょう (総統 そうとう 地下 ちか 壕 ごう 南方 なんぽう 6キロ地点 ちてん )に至 いた ったが、そこでドイツ軍 ぐん の激 はげ しい抵抗 ていこう に出 で くわした。ミュンヘベルク装甲 そうこう 師団 しだん は翌日 よくじつ までなんとか戦線 せんせん を維持 いじ していたが、これが赤軍 せきぐん を大 だい 規模 きぼ に足止 あしど めした最後 さいご の抵抗 ていこう であった[24] [25] 。26日 にち 、赤軍 せきぐん はノイケルン へ進撃 しんげき 、クルッケンベルクは「C」区画 くかく 防衛 ぼうえい のためにUバーン のヘルマン広場 ひろば 駅 えき (ドイツ語 ご 版 ばん ) 周辺 しゅうへん に防衛 ぼうえい 線 せん を築 きず き、司令 しれい 部 ぶ をオペラハウスに置 お いた。その時 とき 、兵力 へいりょく を減 げん じたドイツ軍 ぐん の2個 こ 師団 しだん が赤軍 せきぐん 5個 こ 軍 ぐん と戦 たたか っており、戦況 せんきょう は絶望 ぜつぼう 的 てき だった。第 だい 5突撃 とつげき 軍 ぐん は東方 とうほう から西方 せいほう へ向 む かいトレプトウ公園 こうえん 方面 ほうめん へ進撃 しんげき しており、ノイケルン北方 ほっぽう から第 だい 8親衛 しんえい 軍 ぐん 、第 だい 1親衛 しんえい 戦車 せんしゃ 軍 ぐん が進 すす んだが、テンペルホーフ飛行場 ひこうじょう で足止 あしど めされた。一方 いっぽう 、第 だい 1ウクライナ方面 ほうめん 軍配 ぐんばい 下 か の第 だい 3親衛 しんえい 戦車 せんしゃ 軍 ぐん はマリーエンドルフ (ドイツ語 ご 版 ばん ) から進撃 しんげき していた。「ノルトラント」がヘルマン広場 ひろば (ドイツ語 ご 版 ばん ) へ後退 こうたい したため、フランス人 じん 義勇 ぎゆう 兵 へい と100人 にん ほどのヒトラー・ユーゲントがパンツァーファウストで赤軍 せきぐん 戦車 せんしゃ 14両 りょう を破壊 はかい し、ハーレンゼー (ドイツ語 ご 版 ばん ) 橋 はし 付近 ふきん の機関 きかん 銃 じゅう 陣地 じんち で48時 じ 間 あいだ に渡 わた ってソビエト赤軍 せきぐん を足止 あしど めした。一方 いっぽう 、ティーアガルテン (ドイツ語 ご 版 ばん ) で第 だい 56装甲 そうこう 軍団 ぐんだん の2個 こ 師団 しだん がソビエト赤軍 せきぐん の攻勢 こうせい を失速 しっそく させることはできたが、止 と めることはできなかったため、「ノルトラント」が(当時 とうじ ティーガー戦車 せんしゃ 8両 りょう と突撃 とつげき 砲 ほう 数 すう 両 りょう を保有 ほゆう )ティーアガルテンを保持 ほじ するよう命令 めいれい された[26] 。
ヒトラーは、ヘルマン・ゲーリング 国家 こっか 元帥 げんすい からドイツ空軍 くうぐん 司令 しれい 官 かん を引 ひ き継 つ がせるためにミュンヘン にいたローベルト・フォン・グライム を呼 よ び寄 よ せた。グライムはハンナ・ライチュ (空軍 くうぐん テストパイロット、グライムの愛人 あいじん )にFi 156 シュトルヒを操縦 そうじゅう させてベルリンへ向 む かう途中 とちゅう 、赤軍 せきぐん の対空 たいくう 砲火 ほうか を受 う けて負傷 ふしょう したが、ブランデンブルク門 もん の近 ちか くのティーアガルテン への着陸 ちゃくりく に成功 せいこう した[27] [28] [29] [30] 。4月26日 にち 、ライチュとグライムがベルリンに到着 とうちゃく した同日 どうじつ 、第 だい 56装甲 そうこう 軍団 ぐんだん 司令 しれい 官 かん ヘルムート・ヴァイトリング 砲兵 ほうへい 大将 たいしょう がベルリン防衛 ぼうえい 軍 ぐん の司令 しれい 官 かん に任命 にんめい された[27] 。ヴァイトリングは20日 はつか に第 だい 56装甲 そうこう 軍団 ぐんだん 司令 しれい 官 かん に任命 にんめい されたが、その2日 にち 後 ご にはヒトラーから銃殺 じゅうさつ 命令 めいれい が出 だ された。これはヴァイトリングがヒトラーの死守 ししゅ 命令 めいれい に背 そむ いて司令 しれい 部 ぶ を後退 こうたい したと誤解 ごかい されたためであった。ヴァイトリングはエルンスト・ケーター (英語 えいご 版 ばん ) の後任 こうにん のベルリン防衛 ぼうえい 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん に任命 にんめい されたが、ケーターは前日 ぜんじつ にヘルムート・ライマン 中将 ちゅうじょう (3月 がつ に着任 ちゃくにん )と交代 こうたい したばかりであった。
ジューコフは、ソビエト赤軍 せきぐん が制圧 せいあつ した地域 ちいき でドイツ軍政 ぐんせい を組織 そしき 化 か するための職務 しょくむ にベルザーリンを任命 にんめい した[31] 。ベルリン市長 しちょう や市 し 職員 しょくいん はベルザーリンの元 もと へ向 む かうよう要求 ようきゅう された。その翌日 よくじつ (27日 にち )、ソビエト空軍 くうぐん が使用 しよう できるようにするため2,000人 にん のドイツ人 じん 女性 じょせい がテンペルホーフ空港 くうこう の障害 しょうがい 物 ぶつ 除去 じょきょ を命令 めいれい された[32] [33] 。
第 だい 1白 はく ロシア方面 ほうめん 軍 ぐん と第 だい 1ウクライナ方面 ほうめん 軍 ぐん がベルリンの中心 ちゅうしん 部 ぶ に集中 しゅうちゅう して進撃 しんげき したが、このことが弾 たま 着 ぎ 観測 かんそく 機 き や他 た の方面 ほうめん 軍 ぐん に正確 せいかく に伝 つた わらず、しばしば友軍 ゆうぐん の支援 しえん 砲火 ほうか を浴 あ びることになった。しかし、これは各 かく ソビエト赤軍 せきぐん 部隊 ぶたい のドイツ総統 そうとう 官邸 かんてい を巡 めぐ る競争 きょうそう がもたらしたものだった。このことを第 だい 1ウクライナ方面 ほうめん 軍 ぐん のある軍団 ぐんだん 長 ちょう は「俺 おれ たちはドイツ軍 ぐん は怖 こわ くないが、お隣 となり さんが怖 こわ いのさ…ベルリンまで来 き てお隣 となり さんの手柄 てがら を聞 き かされるんじゃ、たまらねえからな」と軽口 かるくち でジョークにしていた[34] 。
歴史 れきし 家 か アントニー・ビーヴァーによれば、実際 じっさい に起 お きた事実 じじつ はこの冗談 じょうだん を上回 うわまわ っており、チュイコフは隷下 れいか の第 だい 8親衛 しんえい 軍 ぐん に帝国 ていこく 議会 ぎかい 議事堂 ぎじどう (ライヒスターク)への直通 ちょくつう 路 ろ を塞 ふさ いでいる第 だい 3親衛 しんえい 戦車 せんしゃ 軍 ぐん の前 まえ を横切 よこぎ らせ、左側 ひだりがわ 面 めん から進撃 しんげき するように故意 こい に命 めい じたと指摘 してき している。チュイコフはこの行動 こうどう を第 だい 3親衛 しんえい 戦車 せんしゃ 軍 ぐん に伝 つた えなかったため、誤 あやま 射 い で多 おお くの兵士 へいし が犠牲 ぎせい となった[35] [36] 。
南西 なんせい 方面 ほうめん では、第 だい 3親衛 しんえい 戦車 せんしゃ 軍 ぐん が第 だい 28軍 ぐん の支援 しえん の元 もと 、グルーネヴァルト (ドイツ語 ご 版 ばん ) 郊外 こうがい の森林公園 しんりんこうえん で第 だい 18装甲 そうこう 擲弾兵 へい 師団 しだん の残存 ざんそん 兵力 へいりょく を東 ひがし 方向 ほうこう から撃破 げきは 、シャルロッテンブルク (ドイツ語 ご 版 ばん ) へ突入 とつにゅう した。南方 なんぽう では、第 だい 8親衛 しんえい 軍 ぐん と第 だい 1親衛 しんえい 戦車 せんしゃ 軍 ぐん が、4月 がつ 27日 にち に運河 うんが のドイツ軍 ぐん 陣地 じんち を撃破 げきは 、総統 そうとう 官邸 かんてい とそれに隣接 りんせつ する総統 そうとう 地下 ちか 壕 ごう まで2キロ以内 いない に迫 せま った。南東 なんとう 方面 ほうめん では第 だい 5突撃 とつげき 軍 ぐん がフリードリヒスハイン (ドイツ語 ご 版 ばん ) の高射 こうしゃ 砲塔 ほうとう を迂回 うかい 、フランクフルター・アレー (ドイツ語 ご 版 ばん ) とシュプレー川 がわ の堤防 ていぼう の間 あいだ で第 だい 9軍団 ぐんだん と交戦 こうせん していた[12] [37] 。4月27日 にち までにソビエト赤軍 せきぐん は、全 ぜん 方位 ほうい からSバーンの防御 ぼうぎょ 線 せん を突破 とっぱ し、ドイツ軍 ぐん はティーアガルテン地区 ちく を中心 ちゅうしん とした旧 きゅう 市街地 しがいち に東西 とうざい に25キロ、南北 なんぼく に3キロほどの場所 ばしょ に閉 と じ込 こ められた。
北西 ほくせい 方面 ほうめん では第 だい 47軍 ぐん がシュパンダウ (ドイツ語 ご 版 ばん ) に到達 とうたつ しようとしていたが、それは国民 こくみん 突撃 とつげき 隊 たい と空軍 くうぐん 士官 しかん 候補 こうほ 生 せい からなる部隊 ぶたい (88ミリ対 たい 空砲 くうほう 装備 そうび )とのガートウ飛行場 ひこうじょう (ドイツ語 ご 版 ばん ) をめぐる戦闘 せんとう に影響 えいきょう した。北方 ほっぽう では第 だい 2戦車 せんしゃ 軍 ぐん がジーメンスシュタット (ドイツ語 ご 版 ばん ) で足止 あしど めされていた。一方 いっぽう 、第 だい 3突撃 とつげき 軍 ぐん はドイツ残存 ざんそん 部隊 ぶたい を追撃 ついげき してフンボルトハイン (ドイツ語 ご 版 ばん ) の高射 こうしゃ 砲塔 ほうとう を迂回 うかい 、ティーアガルテンとプレンツラウアー・ベルク の北側 きたがわ に進撃 しんげき した[12] [37] [38] [39] 。
2004年 ねん 、フンボルトハインの高射 こうしゃ 砲塔 ほうとう
4月 がつ 27日 にち 、ソビエト空軍 くうぐん は重 じゅう 爆撃 ばくげき 機 き でベルリンを爆撃 ばくげき した。第 だい 8親衛 しんえい 軍 ぐん と第 だい 1親衛 しんえい 戦車 せんしゃ 軍 ぐん は、ワーテルローの戦 たたか い (の別名 べつめい )にちなんで名付 なづ けられたベル・アリアンス広場 ひろば (ドイツ語 ご 版 ばん ) を皮肉 ひにく にも防衛 ぼうえい している「ノルトラント」師団 しだん のフランス人 じん 義勇 ぎゆう 兵 へい を攻撃 こうげき するよう命令 めいれい された。その夜 よる 、ヴァイトリングは戦況 せんきょう をヒトラーに報告 ほうこく し、可動 かどう できる戦車 せんしゃ 40両 りょう を使用 しよう した綿密 めんみつ な脱出 だっしゅつ 計画 けいかく を提案 ていあん した。しかし、ヒトラーは総統 そうとう 地下 ちか 壕 ごう にとどまると宣言 せんげん 、ヴァイトリングの計画 けいかく を拒否 きょひ した[40] [41] 。その頃 ころ 、中央 ちゅうおう 部 ぶ を防御 ぼうぎょ する「Z」区画 くかく 防衛 ぼうえい 司令 しれい 部 ぶ はUバーン 、シュタットミッテ駅 えき (ドイツ語 ご 版 ばん ) の車両 しゃりょう の中 なか だった。「ノルトラント」の装甲車 そうこうしゃ 両 りょう は捕獲 ほかく した4台 だい のソビエト赤軍 せきぐん 装甲 そうこう 兵員 へいいん 輸送 ゆそう 車 しゃ 、2台 だい の半 はん 装 そう 軌車 のみで、なおかつ武器 ぶき はパンツァーファウスト が主力 しゅりょく となっていたが、それだけでソビエト赤軍 せきぐん 装甲 そうこう 車両 しゃりょう やひとつひとつの建物 たてもの を巡 めぐ るほど熾烈 しれつ な白兵戦 はくへいせん を繰 く り広 ひろ げることとなった[42] [43] 。
4月 がつ 28日 にち 夜明 よあ けに、第 だい 20軍団 ぐんだん 所属 しょぞく のクラウゼヴィッツ装甲 そうこう 師団 しだん (ドイツ語 ご 版 ばん ) 、シャルンホスト装甲 そうこう 師団 しだん と国家 こっか 労働 ろうどう 奉仕 ほうし 団 だん テオドール・ケルナー師団 しだん がベルリンの南西 なんせい 方面 ほうめん からベルリンに向 む けて攻撃 こうげき を開始 かいし した。それらは第 だい 12軍 ぐん (司令 しれい 官 かん ヴァルター・ヴェンク )の所属 しょぞく 部隊 ぶたい で、士官 しかん 学校 がっこう 生 せい などで構成 こうせい されており、当時 とうじ ドイツ軍 ぐん の中 なか でも比較的 ひかくてき 戦力 せんりょく を保持 ほじ している部隊 ぶたい であった。その攻勢 こうせい はベルリンへ向 む けて24キロにわたったが、ポツダム 近郊 きんこう のシュヴィーロウ湖 こ (ドイツ語 ご 版 ばん ) (ベルリン南方 なんぽう 32キロ地点 ちてん )で力尽 ちからつ きて進撃 しんげき が停止 ていし した[44] 。
4月 がつ 28日 にち 遅 おそ く、ヒトラーは親衛隊 しんえいたい 全国 ぜんこく 指導 しどう 者 しゃ ハインリヒ・ヒムラー がスウェーデン赤十字 せきじゅうじ 社 しゃ 副 ふく 総裁 そうさい フォルケ・ベルナドッテ 伯 はく に和平 わへい 交渉 こうしょう のためにリューベック で接触 せっしょく したことを知 し った。ヒムラーはベルナドッテ伯 はく に西側 にしがわ 連合 れんごう 軍 ぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん ドワイト・D・アイゼンハワー と和平 わへい 交渉 こうしょう をしたいので間 あいだ を取 と り持 も つよう要請 ようせい していた。ヒトラーはヒムラーの背信 はいしん 行為 こうい に激怒 げきど し、グライムとライチェにカール・デーニッツ の元 もと へ向 む かうよう命令 めいれい し、さらにグライムへ「裏切 うらぎ り者 もの 」ヒムラーを逮捕 たいほ するよう厳命 げんめい した[27] 。その日 ひ 、ミュンヘベルク装甲 そうこう 師団 しだん は撃破 げきは され、総統 そうとう 地下 ちか 壕 ごう の南 みなみ 、約 やく 1キロにあるアンハルト駅 えき (ドイツ語 ご 版 ばん ) へ退却 たいきゃく した。
伝 つた えられている話 はなし では、進撃 しんげき するソビエト赤軍 せきぐん を足止 あしど めするためにヒトラーはラントヴェーア運河 うんが (ドイツ語 ご 版 ばん ) を破壊 はかい 、そのため、市民 しみん が避難 ひなん していたSバーンのアンハルト駅 えき 地下 ちか のトンネル(ドイツ語 ご 版 ばん ) でパニックを引 ひ き起 お こし、何 なん 千 せん 人 にん かが溺死 できし したとされている。しかし、その水位 すいい は1mほどゆっくり上昇 じょうしょう したにすぎず、1945年 ねん 10月 がつ にトンネルから排水 はいすい されると死者 ししゃ のほとんどは溺死 できし ではなく戦闘 せんとう による負傷 ふしょう で死亡 しぼう したことが判明 はんめい している[注 ちゅう 6] 。
ベルリン市 し 中央 ちゅうおう 地区 ちく [ 編集 へんしゅう ]
4月 がつ 27日 にち - 28日 にち 、第 だい 1ウクライナ方面 ほうめん 軍 ぐん の大 だい 部分 ぶぶん がベルリンからプラハ へ転進 てんしん するよう命令 めいれい された。これは第 だい 1白 はく ロシア方面 ほうめん 軍 ぐん のジューコフ元帥 げんすい にベルリン占領 せんりょう の栄光 えいこう を与 あた えるためであり、第 だい 1ウクライナ方面 ほうめん 軍 ぐん の諸 しょ 員 いん は憤 いきどお った[50] 。
1945年 ねん 、帝国 ていこく 議会 ぎかい 議事堂 ぎじどう
4月 がつ 28日 にち 、ドイツ軍 ぐん は東 ひがし のアレクサンダー広場 ひろば からシャルロッテンブルク、西 にし はオリンピック・スタジアム までの幅 はば 5キロ、長 なが さ15キロ未満 みまん の地域 ちいき を保持 ほじ しているにすぎなかった。通常 つうじょう 、ソビエト赤軍 せきぐん はトンネルや退避 たいひ 壕 ごう (ベルリン地区 ちく に約 やく 1,000ほど存在 そんざい した)での戦 たたか いを避 さ け、彼 かれ らを閉 と じ込 こ める作戦 さくせん を取 と った[51] 。ただ、帝国 ていこく 議会 ぎかい 議事堂 ぎじどう 北方 ほっぽう 1kmにあったモアビート (ドイツ語 ご 版 ばん ) 刑務所 けいむしょ では第 だい 3突撃 とつげき 軍 ぐん が進撃 しんげき のために重砲 じゅうほう で穴 あな を開 あ けたため、混乱 こんらん が生 しょう じた。そのため、部隊 ぶたい が駐屯 ちゅうとん した。その後 ご 、第 だい 3突撃 とつげき 軍 ぐん は、ティーアガルテンの戦勝 せんしょう 記念 きねん 塔 とう を視野 しや に捕 と らえ、正午 しょうご の間 あいだ にはシュプレー川 がわ のモルトケ橋 きょう (ドイツ語 ご 版 ばん ) [注 ちゅう 7] に進撃 しんげき した[52] [53] 。ドイツ軍 ぐん はモルトケ橋 きょう を爆破 ばくは したが、歩兵 ほへい ならば渡 わた れる状況 じょうきょう であったため、夕方 ゆうがた にソビエト赤軍 せきぐん が重砲 じゅうほう 兵 へい の支援 しえん のもと、モルトケ橋 きょう を渡 わた った。真夜中 まよなか までにはソビエト赤軍 せきぐん は第 だい 150、第 だい 171狙撃 そげき 師団 しだん を増援 ぞうえん 、ドイツ軍 ぐん の反撃 はんげき を食 く い止 と め、橋頭堡 きょうとうほ を確保 かくほ した[54] 。
同日 どうじつ 、ハンス・クレープス 参謀 さんぼう 長 ちょう は、総統 そうとう 地下 ちか 壕 ごう からフュルステンベルク (ドイツ語 ご 版 ばん ) に滞在 たいざい しているヴィルヘルム・カイテル 国防 こくぼう 軍 ぐん 最高 さいこう 司令 しれい 部 ぶ (OKW) 総長 そうちょう へ最後 さいご の電話 でんわ をした。クレープスは、救援 きゅうえん が48時間 じかん 以内 いない に到着 とうちゃく しないならば、すべてが灰塵 かいじん に化 か すだろうとカイテルに話 はな した。カイテルは、第 だい 12軍 ぐん 司令 しれい 官 かん ヴァルター・ヴェンク と第 だい 9軍 ぐん 司令 しれい 官 かん テオドール・ブッセ へ強 つよ く働 はたら きかけると約束 やくそく した。一方 いっぽう 、ナチ党 とう 官房 かんぼう 長 ちょう マルティン・ボルマン はデーニッツに「総統 そうとう 官邸 かんてい は瓦礫 がれき の山 やま となった。」と打電 だでん した。さらにボルマンは諸 しょ 外国 がいこく の報道 ほうどう 機関 きかん がヒムラーの背信 はいしん を報道 ほうどう しており、「総統 そうとう はシェルナー、ヴェンク、他 た の忠誠 ちゅうせい を期待 きたい し、彼 かれ らがベルリンを救 すく うことを期待 きたい している。」と言 い った[44] [55] 。
夕方 ゆうがた 、グライムとライチュは、アラドAr 96 高等 こうとう 練習 れんしゅう 機 き でベルリンから飛 と び立 た つこととなった。グライムはドイツ空軍 くうぐん に命令 めいれい して、ポツダム広場 ひろば に進撃 しんげき したソビエト赤軍 せきぐん を攻撃 こうげき することと、ヒムラーが逮捕 たいほ されたか確認 かくにん することを命令 めいれい されていた[注 ちゅう 8] 。ソビエト赤軍 せきぐん はヒトラーが空路 くうろ 、逃走 とうそう することを恐 おそ れていたため、北方 ほっぽう からティーアガルテンを通過 つうか して進撃 しんげき していた赤軍 せきぐん 第 だい 3突撃 とつげき 軍 ぐん がグライムの乗 の った飛行機 ひこうき を攻撃 こうげき したが失敗 しっぱい し、グライムは飛 と び立 た った[56] [45] 。
28日 にち 夜 よる 、ヴェンクは、カイテルに、第 だい 12軍 ぐん が全 すべ ての箇所 かしょ でソビエト赤軍 せきぐん に押 お し戻 もど されたと報告 ほうこく した。第 だい 12軍配 ぐんばい 下 か の第 だい 20軍団 ぐんだん に精一杯 せいいっぱい できることは、ポツダム守備 しゅび 隊 たい と一時 いちじ 的 てき な接触 せっしょく を確立 かくりつ することであり、第 だい 9軍 ぐん の支援 しえん が期待 きたい できない以上 いじょう 、ベルリン救援 きゅうえん は事実 じじつ 上 じょう 不可能 ふかのう であった。そして、カイテルはヴェンクにベルリン救援 きゅうえん を行 おこな わなくても良 よ いと許可 きょか した[57] [44] 。
4月 がつ 29日 にち 午前 ごぜん 4時 じ 、総統 そうとう 地下 ちか 壕 ごう においてヒトラーはエヴァ・ブラウン と結婚 けっこん 、その直後 ちょくご 、秘書 ひしょ トラウデル・ユンゲ に遺書 いしょ を口述 こうじゅつ 筆記 ひっき させ、ブルクドルフ 、ゲッベルス、クレープス、ボルマンらが遺書 いしょ に署名 しょめい した[58] [59] [注 ちゅう 9] 。
第 だい 2白 はく ロシア方面 ほうめん 軍 ぐん がヴァイクセル軍 ぐん 集団 しゅうだん を撃破 げきは 、ヴァイクセル軍 ぐん 集団 しゅうだん 司令 しれい 官 かん ゴットハルト・ハインリツィはヒトラーの死守 ししゅ 命令 めいれい に従 したが わず、第 だい 3装甲 そうこう 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん ハッソ・フォン・マントイフェルに撤退 てったい するよう命 めい じた。4月29日 にち 、ヴァイクセル軍 ぐん 集団 しゅうだん 司令 しれい 部 ぶ は第 だい 9軍 ぐん と連絡 れんらく を取 と れなくなっており、軍 ぐん 集団 しゅうだん 司令 しれい 部 ぶ はもはやなにもできない状況 じょうきょう であった。ハインリツィはヒトラーの死守 ししゅ 命令 めいれい に背 そむ いたため、軍 ぐん 集団 しゅうだん 司令 しれい 官 かん を解任 かいにん された。しかし、後任 こうにん を引 ひ き継 つ ぐようにとカイテルに命令 めいれい されたマントイフェルは着任 ちゃくにん を拒否 きょひ した。そしてハインリツィはOKW本部 ほんぶ に呼 よ び出 だ されたが、ぐずぐずして引 ひ き伸 の ばし、結局 けっきょく 向 む かうことはなかった[61] [62] 。後 のち にカイテルは第 だい 21軍 ぐん 司令 しれい 官 かん クルト・フォン・ティッペルスキルヒ が後 ご を継 つ いだと回顧 かいこ している。他 た の情報 じょうほう ではティッペルスキルヒがクルト・シュトゥデント が着任 ちゃくにん するまでの一時 いちじ 的 てき な着任 ちゃくにん であった[63] [64] とされているが、シュトゥデントはイギリス軍 ぐん の捕虜 ほりょ になったため、着任 ちゃくにん していない[27] 。しかし、ティッペルスキルヒやクルト・シュトゥデントのどちらが司令 しれい 官 かん であったかはこの際 さい 、問題 もんだい ではなく、この数日 すうじつ 間 あいだ で急速 きゅうそく に悪化 あっか している状況 じょうきょう の方 ほう がもっと深刻 しんこく な問題 もんだい であった。
1900年 ねん ごろのモルトケ橋 きょう
4月 がつ 29日 にち 早朝 そうちょう 、第 だい 150及 およ び第 だい 171狙撃 そげき 兵 へい 師団 しだん は、モルトケ橋 きょう を渡 わた り、周辺 しゅうへん の通 とお りと建物 たてもの に扇状 せんじょう に進撃 しんげき を始 はじ めたが、架橋 かきょう 作業 さぎょう などを行 おこな う時間 じかん がなかったため、重 じゅう 装備 そうび を運 はこ ぶことはできなかった。そのため、攻撃 こうげき 部隊 ぶたい が使用 しよう できた重 じゅう 装備 そうび は鉄道 てつどう 線路 せんろ に布陣 ふじん したカチューシャ のみであった。第 だい 150狙撃 そげき 兵 へい 師団 しだん はゲシュタポ の強化 きょうか された陣地 じんち に出 で くわし、困難 こんなん な闘 たたか いを強 し いられ、手榴弾 しゅりゅうだん と軽 かる 機関 きかん 銃 じゅう で戦 たたか わざるを得 え なかった[65] 。同 どう 時刻 じこく 、南東 なんとう 方向 ほうこう から第 だい 301狙撃 そげき 兵 へい 師団 しだん が攻撃 こうげき を開始 かいし 、プリンツ・アルブレヒト街 がい (ドイツ語 ご 版 ばん ) のゲシュタポ本部 ほんぶ は激 はげ しい戦闘 せんとう の上 うえ 、一旦 いったん は占領 せんりょう されたが、武装 ぶそう SSの激 はげ しい反撃 はんげき のため、放棄 ほうき せざるを得 え なかった。ゲシュタポ内 ない には4月 がつ 23日 にち に殺害 さつがい されずに済 す んだ7人 にん の逮捕 たいほ 者 しゃ がいた[66] [67] [68] 。
南西 なんせい 方面 ほうめん では第 だい 8親衛 しんえい 軍 ぐん がティーアガルテン付近 ふきん で運河 うんが を渡 わた り、北 きた へ進撃 しんげき を開始 かいし した。「ノルトラント」はその時 とき 、モーンケ指揮 しき 下 か にあった。全 ぜん 兵士 へいし が休 やす みのない戦闘 せんとう で疲弊 ひへい し切 き っていたが、「ノルトラント」のフランス人 じん 義勇 ぎゆう 兵 へい は戦車 せんしゃ 撃破 げきは を得意 とくい にしており、中央 ちゅうおう 地区 ちく で撃破 げきは されたソビエト赤軍 せきぐん 戦車 せんしゃ 108両 りょう の内 うち 、半分 はんぶん が彼 かれ らの手 て によるものであると言 い われている。
その日 ひ の午後 ごご 、ベルリン市街 しがい 戦 せん で合計 ごうけい 8両 りょう の戦車 せんしゃ を単独 たんどく で撃破 げきは したフランスSS突撃 とつげき 大隊 だいたい のフランス人 じん 義勇 ぎゆう 兵 へい ウジェーヌ・ヴァンロー 武装 ぶそう 伍長 ごちょう と、第 だい 503SS重 じゅう 装甲 そうこう 大隊 だいたい 長 なが フリードリヒ・ヘルツィヒ (英語 えいご 版 ばん ) SS少佐 しょうさ の二人 ふたり が第 だい 三 さん 帝国 ていこく 最後 さいご の騎士 きし 鉄 てつ 十 じゅう 字 じ 章 あきら を与 あた えられ、他 ほか にも5台 だい の戦車 せんしゃ を撃破 げきは して勲章 くんしょう を与 あた えられた者 もの がいた[67] [68] 。
4月 がつ 29日 にち の夕方 ゆうがた 、最前線 さいぜんせん までほんの数 かず mとなったベンドラーブロック (ドイツ語 ご 版 ばん ) のベルリン防衛 ぼうえい 軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ で、ヴァイトリングは配下 はいか の部隊 ぶたい 長 ちょう と会議 かいぎ を行 おこな い、ポツダム近郊 きんこう のシュヴィーロウ湖 みずうみ そばにあるフェルヒ (ドイツ語 ご 版 ばん ) 村 むら まで進出 しんしゅつ していた第 だい 12軍 ぐん と接触 せっしょく が可能 かのう か議論 ぎろん し、脱出 だっしゅつ はその日 ひ の22時 じ に開始 かいし とした[69] [70] 。その頃 ころ 、クレープスはヨードル に「即座 そくざ に報告 ほうこく せよ。第 だい 一 いち に、第 だい 12軍 ぐん の所在 しょざい 位置 いち 。第 だい 二 に に攻撃 こうげき 開始 かいし 時間 じかん 。第 だい 三 さん に第 だい 9軍 ぐん の所在 しょざい 位置 いち 。第 だい 四 よん に、第 だい 9軍 ぐん が突破 とっぱ する正確 せいかく な場所 ばしょ 。第 だい 五 ご にルードルフ・ホルステ 軍 ぐん の所在 しょざい 位置 いち [57] 。」と無線 むせん 連絡 れんらく を入 い れた。30日 にち 、ヨードルは答 こた えた、「第 だい 一 いち に、ヴェンク軍 ぐん はシュヴィーロウ湖 こ の南 みなみ で進撃 しんげき 停止 ていし 。第 だい 二 に に、ベルリンへの進撃 しんげき を続行 ぞっこう できない。第 だい 三 さん に、第 だい 9軍 ぐん はほとんどが包囲 ほうい されている。第 だい 四 よん に、ホルステ軍 ぐん は守備 しゅび で手一杯 ていっぱい である。よって、当方 とうほう からのベルリン救援 きゅうえん はあらゆる場所 ばしょ において不可能 ふかのう である。」と[57] [71] [72] [注 ちゅう 10] 。
帝国 ていこく 議会 ぎかい 議事堂 ぎじどう での戦 たたか い[ 編集 へんしゅう ]
帝国 ていこく 議会 ぎかい 議事堂 ぎじどう での戦 たたか い
4月 がつ 30日 にち 、ソビエト赤軍 せきぐん 攻撃 こうげき 部隊 ぶたい にポーランド軍 ぐん (主 おも にポーランド第 だい 1タデウシュ・コシチュシュコ 歩兵 ほへい 師団 しだん など)が加 くわ わった。午前 ごぜん 6時 じ 、第 だい 150狙撃 そげき 兵 へい 師団 しだん はゲシュタポ本部 ほんぶ のあったビルの上 うえ 階 かい をまだ占領 せんりょう していなかったが、そこでの戦闘 せんとう を継続 けいぞく しつつ、ケーニヒ広場 ひろば (ドイツ語 ご 版 ばん ) を400mほど横切 よこぎ って帝国 ていこく 議会 ぎかい 議事堂 ぎじどう への攻撃 こうげき を開始 かいし した。ソビエト赤軍 せきぐん が早急 そうきゅう に攻撃 こうげき を開始 かいし したのは、帝国 ていこく 議会 ぎかい 議事堂 ぎじどう (皮肉 ひにく なことに帝国 ていこく 議会 ぎかい 議事堂 ぎじどう 放火 ほうか 事件 じけん より後 ご 、ナチス体制 たいせい では議会 ぎかい は有名 ゆうめい 無実 むじつ となり議事堂 ぎじどう も復旧 ふっきゅう されていなかったが)が第 だい 三 さん 帝国 ていこく の象徴 しょうちょう であり、ソビエト赤軍 せきぐん はそれを誇 ほこ るためにモスクワ でのメーデー パレード前 まえ に占領 せんりょう したかったのである[73] 。ドイツ軍 ぐん はケーニヒ広場 ひろば に塹壕 ざんごう やトンネルを掘 ほ り、さらに崩 くず れたトンネルにシュプレー川 がわ の水 みず が入 はい り込 こ んでいたため、前進 ぜんしん は容易 ようい ではなかった。最初 さいしょ の歩兵 ほへい による攻撃 こうげき は、ケーニヒ広場 ひろば 西 にし のクロル歌劇 かげき 場 じょう と帝国 ていこく 議会 ぎかい 議事堂 ぎじどう から行 おこな われる十字砲火 じゅうじほうか を受 う け、多 おお くが死傷 ししょう した。
その頃 ころ 、シュプレー川 がわ に仮設 かせつ 橋 きょう が架橋 かきょう され、戦車 せんしゃ や重砲 じゅうほう が川 かわ を渡 わた り始 はじ め、それらはクロル歌劇 かげき 場 じょう の北西 ほくせい から帝国 ていこく 議会 ぎかい 議事堂 ぎじどう 攻撃 こうげき の支援 しえん 射撃 しゃげき を行 おこな った。10時 じ までに、第 だい 150狙撃 そげき 兵 へい 師団 しだん は塹壕 ざんごう を占拠 せんきょ したが、そこから2kmほど離 はな れた場所 ばしょ にあるティーアガルテン(ベルリン動物 どうぶつ 園 えん ) の高射 こうしゃ 砲塔 ほうとう からの88ミリ砲 ほう による正確 せいかく な射撃 しゃげき が昼 ひる の間 あいだ 、ソビエト赤軍 せきぐん の進撃 しんげき を妨 さまた げた。占領 せんりょう までの数 すう 日間 にちかん 、203ミリ榴弾 りゅうだん 砲 ほう やカチューシャなど90門 もん の砲 ほう 列 れつ が塹壕 ざんごう や帝国 ていこく 議会 ぎかい 議事堂 ぎじどう を砲撃 ほうげき し、第 だい 171狙撃 そげき 兵 へい 師団 しだん が正面 しょうめん 、その左側 ひだりがわ 面 めん を第 だい 150狙撃 そげき 兵 へい 師団 しだん と布陣 ふじん し、ケーニヒ広場 ひろば の北方 ほっぽう の建物 たてもの を占領 せんりょう するための攻撃 こうげき を続 つづ けた[74] [75] 。そのため、周囲 しゅうい の建物 たてもの から退去 たいきょ したドイツ兵 へい らは帝国 ていこく 議会 ぎかい 議事堂 ぎじどう へと後退 こうたい した。その頃 ころ 、ベルリン中央 ちゅうおう 部 ぶ には約 やく 10,000人 にん のドイツ兵 へい がおり、各所 かくしょ で攻撃 こうげき を受 う けていた。
ソビエト赤軍 せきぐん 砲撃 ほうげき の集中 しゅうちゅう 箇所 かしょ のひとつはヴィルヘルム街 がい (ドイツ語 ご 版 ばん ) の航空 こうくう 省 しょう ビル(鉄筋 てっきん コンクリートでできていた)であった[76] 。ヘルマン・フォン・ザルツァ 重 じゅう 戦車 せんしゃ 大隊 だいたい の残存 ざんそん ティーガーはティーアガルテンを南 みなみ へ抜 ぬ けて中央 ちゅうおう 部 ぶ へ進撃 しんげき していたソビエト赤軍 せきぐん 第 だい 3突撃 とつげき 軍 ぐん と第 だい 8突撃 とつげき 軍 ぐん へティーアガルテン東側 ひがしがわ から攻撃 こうげき を開始 かいし したが、これらのソビエト赤軍 せきぐん の行動 こうどう はドイツ軍 ぐん の西方 せいほう への脱出 だっしゅつ を困難 こんなん にしていた[77] 。
1945年 ねん 6月 がつ 3日 にち ,荒廃 こうはい したベルリン
翌日 よくじつ の早朝 そうちょう 、モーンケはヒトラーにベルリン中央 ちゅうおう 部 ぶ はあと2日 にち しか持 も たないと伝 つた えた。また、ヴァイトリングはその日 ひ の内 うち には弾薬 だんやく を使 つか い果 は たすことになるとヒトラーに伝 つた え、再度 さいど 、ベルリン脱出 だっしゅつ の許可 きょか を要請 ようせい した。13時 じ 、ヴァイトリングはヒトラーより脱出 だっしゅつ の許可 きょか を与 あた えられた[78] [79] 。その後 ご 、ヒトラーとエヴァは自殺 じさつ 、その遺体 いたい は焼却 しょうきゃく された。ヒトラーの遺書 いしょ により、ヨーゼフ・ゲッベルス (国民 こくみん 啓蒙 けいもう ・宣伝 せんでん 大臣 だいじん )が次期 じき ドイツ首相 しゅしょう になった。15時 じ 15分 ふん 、ゲッベルスとボルマンは、デーニッツにアドルフ・ヒトラーの死 し と次期 じき 大統領 だいとうりょう になるよう指名 しめい された旨 むね を無線 むせん 連絡 れんらく した。
ベルリン市 し は戦闘 せんとう による煙 けむり のため夕暮 ゆうぐ れが早 はや まったかのように見 み えた。18時 じ 、ヴァイトリングがベンドラーブロックでベルリン脱出 だっしゅつ 計画 けいかく を練 ね っている間 あいだ 、ソビエト赤軍 せきぐん 第 だい 150狙撃 そげき 兵 へい 師団 しだん は重砲 じゅうほう の集中 しゅうちゅう 砲 ほう 火 ひ の元 もと 、3個 こ 連隊 れんたい で帝国 ていこく 議会 ぎかい 議事堂 ぎじどう への攻撃 こうげき を開始 かいし した。全 すべ ての窓 まど が煉瓦 れんが で塞 ふさ がれていたが、なんとか正面 しょうめん ホールへの突入 とつにゅう に成功 せいこう した。内部 ないぶ にいたドイツ軍 ぐん は約 やく 1,000人 にん ほどで-水兵 すいへい やヒトラー・ユーゲント、武装 ぶそう SSなどが混成 こんせい していた。-上 じょう の階 かい から攻撃 こうげき を行 おこな い、まるで中世 ちゅうせい の戦 たたか いのような戦闘 せんとう が続 つづ いた。ソビエト赤軍 せきぐん は多大 ただい な犠牲 ぎせい を払 はら ってメインホールを占拠 せんきょ したが、上 うえ の階 かい を占領 せんりょう するには、さらに苦労 くろう を重 かさ ねることになった。火災 かさい と砲撃 ほうげき によって帝国 ていこく 議会 ぎかい 議事堂 ぎじどう 内 ない はガレキの迷路 めいろ と化 か しており、さらには部屋 へや をひとつひとつを攻略 こうりゃく していかなければならず、時折 ときおり 、すさまじい抵抗 ていこう に出 で くわした。メーデーの日 ひ に近 ちか づいた日 ひ 、ソビエト赤軍 せきぐん は戦闘 せんとう を継続 けいぞく しつつも帝国 ていこく 議会 ぎかい 議事堂 ぎじどう の屋根 やね に至 いた った[80] 。
ライヒスタークの赤旗 あかはた
ソビエト赤軍 せきぐん は22時 じ 50分 ふん 、帝国 ていこく 議会 ぎかい 議事堂 ぎじどう に赤 あか 軍旗 ぐんき を立 た てたと主張 しゅちょう しているが、アントニー・ビーヴァーは「ソビエト赤軍 せきぐん は5月1日 にち までに帝国 ていこく 議会 ぎかい 議事堂 ぎじどう を占拠 せんきょ することに拘 かかわ りすぎていた」として、これが誇張 こちょう であると指摘 してき している。真実 しんじつ がどうであれ、帝国 ていこく 議会 ぎかい 議事堂 ぎじどう にいたドイツ軍 ぐん 300人 にん は降伏 ごうぶく した日 ひ の午後 ごご まで一 いち 日 にち 中 ちゅう 戦 たたか い続 つづ けていた。ドイツ軍 ぐん の他 ほか の将兵 しょうへい らは200人 にん が戦死 せんし 、残 のこ りの500人 にん は最終 さいしゅう 攻防 こうぼう 戦 せん までに負傷 ふしょう し、地下 ちか に横 よこ たわっていた[81] [82] 。
5月1日 にち 、クレープスは降伏 ごうぶく 交渉 こうしょう をソビエト赤軍 せきぐん 第 だい 8親衛 しんえい 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん チュイコフと行 おこな ったが[注 ちゅう 11] 、無条件 むじょうけん 降伏 ごうぶく を受 う け入 い れることを首相 しゅしょう ゲッベルスが拒否 きょひ したため、クレープスは空 むな しく帰 かえ った。ソビエト赤軍 せきぐん はドイツ軍 ぐん が無条件 むじょうけん 降伏 ごうぶく しなかったため、10時 じ 45分 ふん 、ドイツ軍 ぐん が押 お し込 こ まれている地帯 ちたい に「火 ひ の嵐 あらし 」のような攻撃 こうげき を開始 かいし した[57] [84] [85] 。その日 ひ の午後 ごご 、ゲッベルスは子供 こども に毒 どく を飲 の ませ、20時 じ 頃 ごろ 、妻 つま のマクダ とともにシアン化合 かごう 物 ぶつ の入 はい ったカプセルを噛 か み砕 くだ き、同時 どうじ に拳銃 けんじゅう で自殺 じさつ した。彼 かれ らの遺体 いたい は焼却 しょうきゃく 処分 しょぶん するよう命 めい じられていた[86] 。
ゲッベルスの死後 しご 、新 あら たなドイツ大統領 だいとうりょう に指名 しめい されていたデーニッツ提督 ていとく は、後任 こうにん 首相 しゅしょう にルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク を任命 にんめい した。デーニッツ政府 せいふ の本部 ほんぶ はデンマーク 国境 こっきょう に近 ちか いフレンスブルク にあり、デーニッツ政権 せいけん はフレンスブルク政府 せいふ とも呼 よ ばれる。
ベルリンの二 ふた つの高射 こうしゃ 砲塔 ほうとう も降伏 ごうぶく に同意 どうい したため、ソビエト赤軍 せきぐん は攻撃 こうげき を中止 ちゅうし した。ティーアガルテンの高射 こうしゃ 砲塔 ほうとう (それは203ミリ榴弾 りゅうだん 砲 ほう の直撃 ちょくげき にもびくともしなかった)は4月 がつ 30日 にち にソビエト赤軍 せきぐん より降伏 ごうぶく するよう通達 つうたつ されていたが、5月1日 にち 、降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ は30日 にち の23時 じ に受領 じゅりょう 、今日 きょう の夜中 よなか に降伏 ごうぶく すると回答 かいとう した。これは高射 こうしゃ 砲塔 ほうとう の守備 しゅび 隊員 たいいん が夕方 ゆうがた に脱出 だっしゅつ するための時間 じかん 稼 かせ ぎであった[87] 。もう一方 いっぽう 、シュパンダウ要塞 ようさい (ドイツ語 ご 版 ばん ) は1630年 ねん にハーフェル川 がわ とシュプレー川 がわ の合流 ごうりゅう 地点 ちてん の中州 なかす に建 た てられたものであったが、4月 がつ 30日 にち 、ソビエト赤軍 せきぐん 第 だい 47軍 ぐん は降伏 ごうぶく 勧告 かんこく を行 おこな った。その日 ひ の15時 じ 、要塞 ようさい は降伏 ごうぶく した[88] 。その後 ご 判明 はんめい したが、実 じつ はこの要塞 ようさい はドイツの化学 かがく 兵器 へいき 関連 かんれん 施設 しせつ であった[89] 。
5月1日 にち 、ヴァイトリングは生存 せいぞん 者 しゃ たちに21時 じ に北西 ほくせい 方面 ほうめん へ脱出 だっしゅつ するよう命令 めいれい した。しかし脱出 だっしゅつ 計画 けいかく は遅 おく れを見 み せ、23時 じ に始 はじ まった。最初 さいしょ に脱出 だっしゅつ したのはモーンケ率 ひき いる総統 そうとう 官邸 かんてい の人々 ひとびと であったが、ヴァイデンダム橋 きょう (ドイツ語 ご 版 ばん ) を避 さ けてシャリテー 病院 びょういん に向 む かったことは幸 さいわ いであった。しかし、その後 ご 散 ち り散 ぢ りとなってしまい、モーンケはシュルトハイス・ビール醸造 じょうぞう 所 しょ で捕虜 ほりょ となった。次 つぎ のグループはティーガー戦車 せんしゃ を先頭 せんとう に脱出 だっしゅつ を試 こころ みたが、ヴァイデンダム橋 きょう ですぐに撃破 げきは された[90] 。そのグループにはマルティン・ボルマン がおり、深夜 しんや 1時 じ 頃 ごろ にシュプレー川 がわ を渡 わた ったものの脱出 だっしゅつ できず、レアター駅 えき 付近 ふきん でヒトラー主治医 しゅじい のルートヴィヒ・シュトゥンプフエッガー と共 とも に自殺 じさつ したといわれている。ボルマンはベルリン市街 しがい 戦 せん で死 し んだ唯一 ゆいいつ のナチス政権 せいけん 幹部 かんぶ となった[91] [92] [注 ちゅう 12] 。ボルマンの遺体 いたい は30年 ねん 後 ご 、発見 はっけん された。
クルッケンベルクと「ノルトラント」の生 い き残 のこ りは夜明 よあ け前 まえ にシュプレー川 がわ を渡 わた ったが、ソビエト赤軍 せきぐん を突破 とっぱ することができず、中央 ちゅうおう 地区 ちく で戦 たたか うことを余儀 よぎ なくされた。そこで彼 かれ らは解散 かいさん してそれぞれ脱出 だっしゅつ することにし、中 なか には軍服 ぐんぷく を脱 ぬ ぎ捨 すて て避難 ひなん 民 みん になりすまそうとした者 もの もいたが、ほとんどが戦死 せんし するかクルッケンベルクのように捕虜 ほりょ となった。ソビエト赤軍 せきぐん は彼 かれ らが脱出 だっしゅつ しようとしているのに気付 きづ いており、急遽 きゅうきょ 、非常 ひじょう 線 せん を張 は り脱出 だっしゅつ に備 そな えていた、そのため中央 ちゅうおう 地区 ちく 東側 ひがしがわ のシェーンハウザー・アレー (ドイツ語 ご 版 ばん ) を北 きた へ抜 ぬ ける脱出 だっしゅつ は失敗 しっぱい に終 お わった。ミュンヘベルク師団 しだん (5両 りょう の戦車 せんしゃ 、4つの突撃 とつげき 砲 ほう 、少数 しょうすう の兵員 へいいん )、第 だい 18装甲 そうこう 擲弾兵 へい 師団 しだん 、第 だい 9降下 こうか 猟 りょう 兵 へい 師団 しだん の残存 ざんそん 兵 へい はティーアガルテンを通 とお って、西 にし へ脱出 だっしゅつ した。また、それらには他 た の落伍 らくご 兵 へい 、避難 ひなん 民 みん も続 つづ いた。
シュパンダウはヒトラー・ユーゲントの分遣 ぶんけん 隊 たい が保持 ほじ していたので、 シャルロッテ橋 きょう (英語 えいご 版 ばん ) を渡 わた ってハーフェル川 がわ の向 む こうへ脱出 だっしゅつ が試 こころ みられた[94] 。ソビエト赤軍 せきぐん の猛烈 もうれつ な砲撃 ほうげき の元 もと 、何 なん 千 せん 人 にん かが脱出 だっしゅつ に成功 せいこう した。また、脱出 だっしゅつ に成功 せいこう した装甲車 そうこうしゃ 両 りょう はシュターケン (ドイツ語 ご 版 ばん ) へ向 む かった。その他 た 、少数 しょうすう の人々 ひとびと が西側 にしがわ への脱出 だっしゅつ に成功 せいこう し、西側 にしがわ 連合 れんごう 軍 ぐん に降伏 ごうぶく したが、大 だい 多数 たすう はソビエト赤軍 せきぐん との戦闘 せんとう で死亡 しぼう するか、捕虜 ほりょ となった。脱出 だっしゅつ 中 ちゅう に死亡 しぼう したドイツ兵 へい や避難 ひなん 民 みん は数 すう 万 まん 人 にん 規模 きぼ とみられ、実数 じっすう は不明 ふめい である[95] 。戦時 せんじ 国際 こくさい 法 ほう に基 もと づいて白旗 はっき を振 ふ って投降 とうこう しようと試 こころ みた人々 ひとびと もいたが、白旗 はっき の意味 いみ を理解 りかい できないか、意図 いと 的 てき に無視 むし した等 ひとし の理由 りゆう によりソ連 それん 軍 ぐん の砲撃 ほうげき が止 や む事 こと はなかった。
5月2日 にち 、ソビエト赤軍 せきぐん は総統 そうとう 官邸 かんてい への攻撃 こうげき を開始 かいし した。ソビエト赤軍 せきぐん の公式 こうしき 発表 はっぴょう によると、戦闘 せんとう は帝国 ていこく 議会 ぎかい 議事堂 ぎじどう で行 おこな われたものに酷似 こくじ しており、ヴィルヘルム広場 ひろば (ドイツ語 ご 版 ばん ) で戦闘 せんとう が行 おこな われ、ソビエト赤軍 せきぐん の榴弾 りゅうだん 砲 ほう が打 う ち込 こ まれる中 なか 、玄関 げんかん や屋内 おくない でさらに激 はげ しい戦闘 せんとう が行 おこな われた。第 だい 5突撃 とつげき 軍 ぐん 配下 はいか の第 だい 9狙撃 そげき 兵 へい 軍団 ぐんだん 司令 しれい 官 かん アンナ・ニクリナは総統 そうとう 官邸 かんてい の屋根 やね に赤 あか 軍旗 ぐんき を掲 かか げるよう命令 めいれい した。しかしアントニー・ビーヴァーは、前夜 ぜんや にドイツ軍 ぐん のほとんどが脱出 だっしゅつ したため帝国 ていこく 議会 ぎかい 議事堂 ぎじどう で行 おこな われたほど過酷 かこく な戦闘 せんとう が行 おこな われたことはなかっただろう、と指摘 してき しており、ソビエト赤軍 せきぐん の発表 はっぴょう は誇張 こちょう であるとしている[96] 。
午前 ごぜん 1時 じ 、ソビエト赤軍 せきぐん はドイツ第 だい 56装甲 そうこう 軍団 ぐんだん から停戦 ていせん 交渉 こうしょう を行 おこな うためポツダム橋 きょう (ドイツ語 ご 版 ばん ) に白旗 はっき を掲 かか げた軍使 ぐんし を送 おく るとの通信 つうしん を傍受 ぼうじゅ した。この通信 つうしん は上級 じょうきゅう 司令 しれい 部 ぶ へと取 と り次 つ がれ、午前 ごぜん 6時 じ にヴァイトリングら司令 しれい 部 ぶ は降伏 ごうぶく した。8時 じ 23分 ふん 、チュイコフとの面会 めんかい のために移送 いそう された。チュイコフ(スターリングラード防衛 ぼうえい に成功 せいこう した経験 けいけん があった)はヴァイトリングに面会 めんかい すると、ベルリン防衛 ぼうえい 軍 ぐん の司令 しれい 官 かん がヴァイトリング本人 ほんにん かどうかの確認 かくにん とクレープスの所在 しょざい を訊 たず ねた。ヴァイトリングは自分 じぶん が防衛 ぼうえい 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん であり、クレープスは昨夜 さくや 総統 そうとう 官邸 かんてい で見 み たが、多分 たぶん 自殺 じさつ しただろうと答 こた えた。その後 ご の交渉 こうしょう で、ヴァイトリングはベルリンが無条件 むじょうけん 降伏 ごうぶく すること、まだ戦闘 せんとう を継続 けいぞく しているドイツ兵 へい にソビエト赤軍 せきぐん へ投降 とうこう するよう命 めい じることに同意 どうい し、チュイコフと第 だい 1ウクライナ方面 ほうめん 軍 ぐん 参謀 さんぼう 長 ちょう ワシーリー・ソコロフスキー の命令 めいれい で、ヴァトリングは降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ に署名 しょめい した[57] [57] [97] [98] 。
その頃 ころ 、ティーアガルテンの高射 こうしゃ 砲塔 ほうとう 守備 しゅび 隊 たい 350人 にん が脱出 だっしゅつ した。ベルリン市内 しない では降伏 ごうぶく を拒否 きょひ した武装 ぶそう SSが立 た てこもる建物 たてもの で散発 さんぱつ 的 てき な戦闘 せんとう が続 つづ いていたが、ソビエト赤軍 せきぐん は立 た てこもりを続 つづ ける建物 たてもの を爆破 ばくは して対応 たいおう した。市内 しない でソビエト赤軍 せきぐん による炊 た き出 だ しが始 はじ まると、ドイツ兵 へい 、避難 ひなん 民 みん らが一斉 いっせい に行列 ぎょうれつ を作 つく った。そんな中 なか 、武装 ぶそう SSが降伏 ごうぶく するドイツ兵 へい や白旗 はっき を掲 かか げる避難 ひなん 民 みん や家屋 かおく を攻撃 こうげき しているという報告 ほうこく が入 はい っていた。ソビエト赤軍 せきぐん は家 いえ から家 いえ を回 まわ って、鉄道 てつどう 員 いん 、消防 しょうぼう 員 いん 、警察 けいさつ など制服 せいふく を着 き た者 もの (約 やく 18,000人 にん )を拘束 こうそく 、戦争 せんそう 捕虜 ほりょ として連行 れんこう した[99] [100] 。
ソビエト赤軍 せきぐん はベルリン市民 しみん に食料 しょくりょう を供給 きょうきゅう することに努力 どりょく した[101] 。しかし、これと同時 どうじ に多数 たすう の地域 ちいき で独 どく ソ戦 せん で受 う けた損害 そんがい に対 たい する復讐 ふくしゅう として、ソビエト赤軍 せきぐん (主 おも に後方 こうほう 部隊 ぶたい )の兵士 へいし による婦女 ふじょ 暴行 ぼうこう (被害 ひがい 者 しゃ 約 やく 100,000人 にん といわれる)、略奪 りゃくだつ 、殺害 さつがい などが横行 おうこう したが[102] 、軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ は数 すう 週間 しゅうかん に渡 わた ってこの問題 もんだい を放置 ほうち した。なおこれについては対 たい 日 にち 戦 せん 末期 まっき の満州 まんしゅう 侵攻 しんこう 時 じ に発生 はっせい した婦女 ふじょ 暴行 ぼうこう や略奪 りゃくだつ 、殺害 さつがい と同様 どうよう であり、戦後 せんご 罪 ざい に問 と われることも謝罪 しゃざい することもなかった。
さらにソビエト赤軍 せきぐん の兵士 へいし 達 たち は、ロシア語 ご ができる大使館 たいしかん 員 いん らの制止 せいし を無視 むし して、日 にち ソ中立 ちゅうりつ 条約 じょうやく により中立 ちゅうりつ 関係 かんけい にある日本国 にっぽんこく 大使館 たいしかん に押 お し入 い り、大使館 たいしかん 員 いん の時計 とけい や食料 しょくりょう などを強奪 ごうだつ するに至 いた った。これに対 たい して残留 ざんりゅう していた大使館 たいしかん 員 いん が軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ に抗議 こうぎ をしたため、後 のち に警備 けいび 兵 へい が立 た つことになった。さらにその後 ご も、司令 しれい 部 ぶ に訪 おとず れた日本 にっぽん 大使館 たいしかん 員 いん を数日 すうじつ 間 あいだ 監禁 かんきん し、リッベントロップ外相 がいしょう の行方 ゆくえ などについて尋問 じんもん するという国際 こくさい 法 ほう に違反 いはん する行為 こうい を行 おこな った。
さらに数日 すうじつ 後 ご 、日本 にっぽん と交戦 こうせん しているイギリス軍 ぐん やアメリカ軍 ぐん がベルリンに入城 にゅうじょう してくることが決 き まったため、数時間 すうじかん の猶予 ゆうよ を与 あた えた上 うえ に、全 すべ ての残留 ざんりゅう 大使館 たいしかん 関係 かんけい 者 しゃ をモスクワ 経由 けいゆ で日本 にっぽん に帰還 きかん させた。
「戦勝 せんしょう 旗 き 」
対 たい 独 どく 戦勝 せんしょう 記念 きねん 日 び のために使 つか われる戦勝 せんしょう 旗 き は、2007年 ねん 5月 がつ 7日 にち 、ロシア連邦 れんぽう 法 ほう によって制定 せいてい された[103] 。帝国 ていこく 議会 ぎかい 議事堂 ぎじどう の戦 たたか いを制 せい した第 だい 150狙撃 そげき 兵 へい 師団 しだん は、自分 じぶん たちの師団 しだん の所属 しょぞく が描 えが かれたソ連 それん 国旗 こっき を議事堂 ぎじどう に掲 かか げた。そのオリジナルの旗 はた はモスクワ中央 ちゅうおう 軍事 ぐんじ 博物館 はくぶつかん に永久 えいきゅう 保存 ほぞん されているが、そのレプリカが「戦勝 せんしょう 旗 き 」として戦勝 せんしょう 記念 きねん 日 び や愛国心 あいこくしん 誇示 こじ の機会 きかい に使 つか われている。
英語 えいご 版 ばん で使用 しよう されたもの[ 編集 へんしゅう ]
Antill, P. Battle for Berlin: April – May 1945: Appendix 1: Appendix 1: Soviet Order of Battle for the Battle for Berlin (Le Tissier, pp. 196 – 207) and Appendix 2: German Order of Battle for Operation Berlin (Le Tissier, pp. 208 – 214) Citing Le Tissier, T. The Battle of Berlin 1945 , Jonathan Cape, London, 1988.
Antony Beevor. Berlin: The Downfall 1945 , Penguin Books, 2002, ISBN 0-670-88695-5
Dollinger, Hans. The Decline and Fall of Nazi Germany and Imperial Japan , Library of Congress Catalogue Card Number 67-27047
Hamilton, Stephan: Bloody Streets: The Soviet Assault on Berlin, April 1945 , Helion & CO, 2008
Krivosheev, G. F. Soviet Casualties and Combat Losses in the Twentieth Century , Greenhill Books, 1997, ISBN 1-85367-280-7
Naimark, Norman M. The Russians in Germany: A History of the Soviet Zone of Occupation, 1945-1949 , Cambridge: Belknap, 1995, ISBN 0-674-78405-7
Ziemke, Earl F. Battle For Berlin: End Of The Third Reich , NY:Ballantine Books, London:Macdomald & Co, 1969.
日本語 にほんご 版 ばん で使用 しよう したもの[ 編集 へんしゅう ]
アントニー・ビーヴァー 著 ちょ ・川上 かわかみ 洸 こう 訳 やく 『ベルリン陥落 かんらく 1945』創 そう 土 ど 社 しゃ 、2004年 ねん 。ISBN 4-56-002600-9 。
毎日新聞社 まいにちしんぶんしゃ 編 へん 『第 だい 2次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん ・欧州 おうしゅう 戦線 せんせん 1939-1945』毎日新聞社 まいにちしんぶんしゃ 、1999年 ねん 。ISBN 4-789-30021-8 。
高橋 たかはし 慶 けい 史 し 著 ちょ 『続 つづけ ラスト・オブ・カンプフグルッペ』大 だい 日本 にっぽん 絵画 かいが 、2005年 ねん 。ISBN 4-499-22748-8 。
ピーター・アンティル著 ちょ 、三貴 みき 雅智 まさとも 『ベルリンの戦 たたか い 1945』大 だい 日本 にっぽん 絵画 かいが 、2006年 ねん 。ISBN 4-499-22912-X 。
マクシム コロミーエツ著 ちょ ・小松 こまつ 徳 いさお 仁 じん 訳 やく ・高橋 たかはし 慶 けい 史 し 監修 かんしゅう 『1945年 ねん のドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん 戦車 せんしゃ 部隊 ぶたい ―欧州 おうしゅう 戦 せん 最終 さいしゅう 期 き のドイツ軍 ぐん 戦車 せんしゃ 部隊 ぶたい 、組織 そしき 編制 へんせい と戦歴 せんれき の事典 じてん 』大 だい 日本 にっぽん 絵画 かいが 、2006年 ねん 。ISBN 4-499-22924-3 。
学習研究社 がくしゅうけんきゅうしゃ 編纂 へんさん 『歴史 れきし 群 ぐん 像 ぞう アーカイブ独 どく ソ戦 せん 』学習研究社 がくしゅうけんきゅうしゃ 、2009年 ねん 。ISBN 4-05-605386-3 。
^ ライマンからベルリン防衛 ぼうえい 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん を引 ひ き継 つ いだがエルンスト・ケーター (英語 えいご 版 ばん ) が1日 にち で解任 かいにん されたため、その後任 こうにん にヴァイトリングが任命 にんめい されたが、その間 あいだ をエーリッヒ・ベーレンフェンガー が代理 だいり を務 つと めたとする説 せつ もある。
^ 45,000 人 にん のほとんどが、ゼーロウ高地 こうち の戦 たたか い で第 だい 9軍 ぐん に所属 しょぞく していた第 だい LVI装甲 そうこう 軍団 ぐんだん の所属 しょぞく であった。
^ Dollingerによると、ヴァイトリングは4月 がつ 26日 にち までベルリン防衛 ぼうえい 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん には任命 にんめい されていないとする。ただし、ビーヴァーによれば4月 がつ 23日 にち 任命 にんめい されたとしている[8] 。また、高橋 たかはし 慶 けい 史 し によれば4月 がつ 25日 にち となっている[9] 。ここでは英語 えいご 版 ばん に従 したが い、26日 にち とする。ソビエト赤軍 せきぐん がベルリン市内 しない に進撃 しんげき し始 はじ めた4月 がつ 23日 にち 、ヴァイトリングが司令 しれい 官 かん を務 つと める第 だい 56装甲 そうこう 軍団 ぐんだん は武装 ぶそう SSと国防 こくぼう 軍 ぐん の正規 せいき 兵 へい で再 さい 編成 へんせい された。
^ ソ連 それん はドイツ軍 ぐん の兵力 へいりょく を180,000と推測 すいそく していたが、これは捕虜 ほりょ としてソ連 それん に運 はこ ばれた数 かず であり、武装 ぶそう していない鉄道 てつどう 員 いん や国家 こっか 労働 ろうどう 奉仕 ほうし 団 だん 員 いん などが含 ふく まれている[1] [10] [11] 。
^ 急造 きゅうぞう バリケードのほとんどが戦闘 せんとう の最初 さいしょ にまず吹 ふ き飛 と ばされた[14] 。また、ベルリン市民 しみん の間 あいだ ではソビエト赤軍 せきぐん がバリケードを突破 とっぱ するのに2時 じ 間 あいだ 15分 ふん かかるが、大笑 おおわら いするのに2時 じ 間 あいだ 、突破 とっぱ するのに15分 ふん として皮肉 ひにく っていた[15] 。
^ この出来事 できごと は、死者 ししゃ 数 すう と発生 はっせい 日 び について論議 ろんぎ されている。Beevor はヒトラー死後 しご の5月 がつ 1日 にち 、クルッケンベルクに命令 めいれい が下 くだ され、「ノルトラント」の工兵 こうへい が行 おこな ったとしており、少 すく なくとも5月2日 にち の早朝 そうちょう までには爆発 ばくはつ させただろうとしている[45] [46] 。Hamilton によれば、運河 うんが の決壊 けっかい はソビエト赤軍 せきぐん による重砲 じゅうほう 撃 げき とロケット砲 ほう 攻撃 こうげき によるところが大 おお きいだろうとしている。また、重要 じゅうよう なこととして、トンネルは司令 しれい 部 ぶ との連絡 れんらく や病院 びょういん 、防御 ぼうぎょ 拠点 きょてん として有効 ゆうこう 活用 かつよう され、その上 うえ 、ソビエト赤軍 せきぐん を奇襲 きしゅう するための迅速 じんそく な行動 こうどう が行 おこな える通路 つうろ としており、武装 ぶそう SSもトンネルに司令 しれい 部 ぶ を置 お いた。よって、武装 ぶそう SSがトンネルを崩壊 ほうかい させることは無意味 むいみ としている[47] 。いずれにしろ、ソビエト赤軍 せきぐん は「ノルトラント」のフランス人 じん 義勇 ぎゆう 兵 へい の待 ま ち伏 ぶ せ攻撃 こうげき を受 う ける前 まえ にヴィルヘルム街 がい のUバーンの駅 えき に到着 とうちゃく した3両 りょう のT-34で攻勢 こうせい を続 つづ けたが、結局 けっきょく 、フランス人 じん 義勇 ぎゆう 兵 へい に阻止 そし された[48] [49] 。
^ 帝国 ていこく 議会 ぎかい 議事堂 ぎじどう からは600m、ゲシュタポ 本部 ほんぶ からは2kmほどの距離 きょり である。
^ 空軍 くうぐん に対 たい する命令 めいれい については諸説 しょせつ ある。Beevorによればポツダム広場 ひろば となっているが、 Ziemkeによればヴェンクの第 だい 12軍 ぐん の攻撃 こうげき を支援 しえん するよう命令 めいれい されたとしている。ただし、ヒムラー逮捕 たいほ の確認 かくにん については両者 りょうしゃ は同 おな じ意見 いけん である。
^ The Last Days of Hitler によれば遺書 いしょ を口述 こうじゅつ 筆記 ひっき した後 のち 、結婚 けっこん したとされている[60] 。
^ Dollinger (p.239) によればヨードルが応答 おうとう したとされる。しかしZiemke (p.120) と Beevor (p.537) によるとカイテルになっている。
^ Dollinger (p.239) によれば午前 ごぜん 3時 じ 、 Beevor (p.367)によれば午前 ごぜん 4時 じ にクレープスはチュイコフと面会 めんかい しているとされる[83] 。
^ 資料 しりょう によっては、ヴァイトリングは脱出 だっしゅつ 命令 めいれい を出 だ していないとされる[93] 。
^ a b c d Beevor 参考 さんこう 文献 ぶんけん p. 287 for the 45,000 soldiers and 40,000 Volkssturm より.
^ Beevor see 参考 さんこう 文献 ぶんけん pp. 217-233
^ a b Ziemke see 参考 さんこう 文献 ぶんけん page 84
^ World War II Axis Military History Day-by-Day: April 20 April 1945
^ Ziemke see 参考 さんこう 文献 ぶんけん pp. 92-94
^ Ziemke see 参考 さんこう 文献 ぶんけん p. 94
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独 どく ソ戦 せん