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福田ふくだ徳三とくぞう

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福田ふくだ徳三とくぞう
しん古典こてん経済けいざいがく
生誕せいたん (1874-12-02) 1874ねん12月2にち
日本の旗 日本にっぽん 東京とうきょう神田かんだ
死没しぼつ

1930ねん5月8にち(1930-05-08)(55さいぼつ

日本の旗 日本にっぽん 慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく病院びょういん東京とうきょう四谷よつや西にし信濃しなのまち[1]
研究けんきゅう機関きかん 東京とうきょう商科しょうか大学だいがく慶應義塾けいおうぎじゅく
研究けんきゅう分野ぶんや 経済けいざいがく
母校ぼこう 東京とうきょう高等こうとう商業しょうぎょう学校がっこうミュンヘン大学だいがく
学位がくい Doktor der Staatswirtschaft(国家こっか経済けいざいがく博士はかせ)・法学ほうがく博士はかせ
博士はかせ課程かてい
指導しどう教員きょういん
ルヨ・ブレンターノ
指導しどう学生がくせい 左右田そうだ喜一郎きいちろう坂西さかにし由蔵よしぞう小泉こいずみ信三しんぞう赤松あかまつかなめふじはん大塚おおつか金之助きんのすけ大熊おおくま信行のぶゆき大西おおにしいのししかい高島たかしま善哉ぜんざい杉本すぎもと栄一えいいち手塚てづか寿郎としお中山なかやま伊知郎いちろう山田やまだ雄三ゆうぞう上田うえだ貞次郎ていじろう福田ふくだたかし太郎たろう宮下みやした孝吉こうきち宮田みやた喜代きよぞう野村のむら兼太郎かねたろう八木やぎすけ
受賞じゅしょう 帝国ていこく学士がくしいん会員かいいんせいよんくんとう瑞宝章ずいほうしょう
フランス学士がくしいん外国がいこく会員かいいんレジオンドヌール勲章くんしょう
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福田ふくだ 徳三とくぞう(ふくだ とくぞう、1874ねん明治めいじ7ねん12月2にち - 1930ねん昭和しょうわ5ねん5月8にち)は、日本にっぽん経済けいざいがく開拓かいたくした経済けいざい学者がくしゃ社会しゃかい政策せいさく学派がくはしん歴史れきし学派がくはとして経済けいざい理論りろん経済けいざいなどを導入どうにゅうした。東京とうきょう商科しょうか大学だいがくげん一橋大学ひとつばしだいがく教授きょうじゅ慶應義塾けいおうぎじゅく教授きょうじゅフランス学士がくしいん文科ぶんか外国がいこく会員かいいんとう歴任れきにんレジオンドヌール勲章くんしょう受章じゅしょう

経歴けいれき[編集へんしゅう]

1874ねん東京とうきょう神田かんだまれ。ははクリスチャンであったため、1886ねん12さいとき洗礼せんれいける。泰明たいめい小学校しょうがっこうから私立しりつ東京とうきょう英語えいご学校がっこうなどをて、はは遺言ゆいごんあね助言じょげんしたが高等こうとう商業しょうぎょう学校がっこう東京とうきょう高等こうとう商業しょうぎょう学校がっこう現在げんざい一橋大学ひとつばしだいがく)に入学にゅうがく学生がくせい時代じだい東京とうきょう貧民窟ひんみんくつスラム)での伝道でんどう活動かつどう参加さんか。1894ねん同校どうこうそつ[2]同年どうねんせきはじめ(のちに大阪おおさか市長しちょう)とともに神戸こうべ商業しょうぎょう学校がっこうげん兵庫ひょうご県立けんりつ神戸こうべ商業しょうぎょう高等こうとう学校がっこう教諭きょうゆ就任しゅうにん。1895ねん教諭きょうゆしょくして、高等こうとう商業しょうぎょう学校がっこうげん一橋大学ひとつばしだいがく研究けんきゅう入学にゅうがく。1896ねんどうそつ[3]。1898ねんから文部省もんぶしょうにんじられドイツライプツィヒ大学だいがくミュンヘン大学だいがく留学りゅうがくし、カール・ビュッヒャー英語えいごばんルヨ・ブレンターノ師事しじ、1900ねんミュンヘン大学だいがく卒業そつぎょうし、博士はかせごう(ドクトル・デル・シュターツヴィルトシャフト)を取得しゅとくする。学位がくい論文ろんぶんは「Die Entwicklung der Wirtschaftseinheit in Japan」[4]留学りゅうがくちゅうに、石川いしかわいわお石川いしかわ文吾ぶんご神田かんだ乃武ないぶ瀧本たきもと美夫よしお津村つむら秀松ひでまつ志田しだ鉀太ろうせきはじめとともにベルリンにおいて「商業しょうぎょう大学だいがく必要ひつよう」を建議けんぎし、東京とうきょうだかしょう大学だいがく昇格しょうかく運動うんどう開始かいし

1896ねん高等こうとう商業しょうぎょう学校がっこう講師こうし、1900ねんどう教授きょうじゅ就任しゅうにんする。1902ねん青森あおもりけんでのだい凶作きょうさく飢饉ききんとなり、その原因げんいん考察こうさつするため、1903ねん青森あおもりかう。かれは、飢饉ききん原因げんいんを「農村のうそん貨幣かへい経済けいざい浸透しんとうしておらず、農家のうか営利えいりてき精神せいしんたないからだ。」と結論けつろんける。1904ねん休職きゅうしょく処分しょぶんける。校長こうちょう松崎まつざき蔵之助くらのすけもと東京とうきょう帝国ていこくだい教授きょうじゅのち学生がくせいにより追放ついほうされた)との対立たいりつ原因げんいんといわれる。同年どうねん復興ふっこう運動うんどうこしたかんあやこれすけ(のちに東京電力とうきょうでんりょく会長かいちょう)が放校ほうこう処分しょぶんとなる(のちに復学ふくがく)。休職きゅうしょくちゅうの1905ねん美濃部みのべ達吉たつきち推薦すいせんにより東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく論文ろんぶん提出ていしゅつ法学ほうがく博士はかせ学位がくい取得しゅとく[5]

1906ねん休職きゅうしょく期間きかん満期まんきとなり高等こうとう商業しょうぎょう学校がっこう退官たいかん給与きゅうよないため小田原おだわら左右田そうだ喜一郎きいちろう別宅べったくみ、高橋たかはし作衛さくえ坂田さかた重次郎しげじろう本多ほんだ熊太郎くまたろう佐藤さとう尚武なおたけ斡旋あっせん外務省がいむしょう翻訳ほんやく仕事しごとおこな生活せいかつする。

のち駿河台するがだい下宿げしゅく本多ほんだ熊太郎くまたろう斡旋あっせん名取なとり和作わさくらの尽力じんりょくにより、1905ねんから1918ねんまで慶應義塾けいおうぎじゅく教授きょうじゅ慶應義塾けいおうぎじゅくでは小泉こいずみ信三しんぞう経済けいざい理論りろん文化ぶんか勲章くんしょうもと慶應義塾けいおうぎじゅく塾長じゅくちょう)、高橋たかはし誠一郎せいいちろう経済けいざいがく文化ぶんか勲章くんしょう受章じゅしょうしゃ)らをそだてた。1918ねん三浦みうら新七しんしち左右田そうだ喜一郎きいちろうらの斡旋あっせん東京とうきょう高等こうとう商業しょうぎょう学校がっこう教授きょうじゅ復帰ふっき、1920ねん東京とうきょうだかしょう大学だいがく昇格しょうかくともな東京とうきょう商科しょうか大学だいがくげん一橋大学ひとつばしだいがく教授きょうじゅ就任しゅうにん。1922ねん4がつ7にち帝国ていこく学士がくしいん会員かいいんとなる[6]。1923ねん内務省ないむしょう社会しゃかいきょく参与さんよ就任しゅうにん同年どうねん関東大震災かんとうだいしんさい直後ちょくごみずか学生がくせいたちれ、失業しつぎょうりつ調査ちょうさを1まん324世帯せたいやく3まん6000にん)を対象たいしょうに8日間にちかんかけておこない、その結果けっかもと東京とうきょう全体ぜんたい失業しつぎょうりつ推計すいけいし、くに東京とうきょう現在げんざい東京とうきょう)にたい復職ふくしょくのきめささやかな支援しえん必要ひつよううったえた。また著書ちょしょ『営生機会きかい復興ふっこういそげ』のなかで、「復興ふっこう事業じぎょうだいいちは、人間にんげん復興ふっこうでなければならない」と関東大震災かんとうだいしんさい具体ぐたいれいとして、以前いぜんから提唱ていしょうしていた生存せいぞんけん必要ひつようせいとなえた。1928ねん黒田くろだ清輝きよてる日本人にっぽんじんとしてにんフランス学士がくしいん文科ぶんか外国がいこく会員かいいんレジオンドヌール勲章くんしょうオフィシエ受章じゅしょう[7]。1930ねん糖尿とうにょうびょう慶應けいおう病院びょういん入院にゅういん、5月8にち盲腸炎もうちょうえん死去しきょ[1]同日どうじつづけじょせいよんくんさんとう旭日きょくじつちゅう綬章じゅしょう受章じゅしょう[8][9]くんとう瑞宝章ずいほうしょう受章じゅしょう[10]墓所はかしょ多磨たま霊園れいえん

活動かつどう[編集へんしゅう]

社会しゃかい政策せいさく学会がっかい中心ちゅうしんメンバーとして活躍かつやく大正たいしょうデモクラシーには吉野よしの作造さくぞうとともに黎明会れいめいかい組織そしきし、民本主義みんぽんしゅぎ啓蒙けいもうにつとめる。だいいち世界せかい大戦たいせんこうマルクス主義まるくすしゅぎたい批判ひはんてき立場たちばから、民本主義みんぽんしゅぎ自由じゆう主義しゅぎち、政府せいふによる社会しゃかい労働ろうどう問題もんだい解決かいけつ主張しゅちょう河上かわかみはじめ論争ろんそうした。日本にっぽんにおける福祉ふくし国家こっかろん先駆せんくしゃとされる。また内務省ないむしょう社会しゃかいきょく参与さんよとして政策せいさく立案りつあんおこなった。

福田ふくだぜん蔵書ぞうしょ44,841さつ大阪市立大学おおさかいちりつだいがくきゅう大阪おおさか商科しょうか大学だいがく)に「福田ふくだ文庫ぶんこ」として収蔵しゅうぞうされている。

主張しゅちょう[編集へんしゅう]

福田ふくだは「市場いちばによって資源しげん配分はいぶん効率こうりつてきおこなわれば、社会しゃかいてき強者きょうしゃ弱者じゃくしゃまれることがつねであり、それ自体じたいわるいことではない」と主張しゅちょうしている[11]。ただし、国民こくみん人間にんげんとしての最低さいてい保障ほしょう生存せいぞんけん社会しゃかい政策せいさく)も政府せいふ提言ていげんしていた[12]福田ふくだは「だれ淘汰とうたされるべきで淘汰とうたされないべきかなど、だれにもわかりようがない。すべてのひとひとしく最低限さいていげん保障ほしょうあたえるのがのぞましい」とべている[13]

関東大震災かんとうだいしんさいきたのち被災ひさいしゃ実態じったい調査ちょうさおこなった[14]著書ちょしょ復興ふっこう経済けいざい原理げんりおよ若干じゃっかん問題もんだい』では、有体ありていざいもの)の損失そんしつよりも、被災ひさいした人々ひとびと人間にんげんせい損失そんしつについてよりおお言及げんきゅうしている[14]

だいいち世界せかい大戦たいせんきむ解禁かいきん反対はんたいしておりながら、経済けいざい格差かくさ助長じょちょうするものとして戦中せんちゅう戦後せんごインフレ問題もんだいしていた[15]福田ふくだは、アーヴィング・フィッシャー貨幣かへい数量すうりょうせつ支持しじし、政府せいふ日銀にちぎんによる「貨幣かへい調節ちょうせつ」でインフレはコントロールが可能かのうであるとかんがえていた[15]。しかし、1925ねんごろからきゅう平価へいかきん解禁かいきんろんしゃてんじ、浜口はまぐち雄幸ゆうこう内閣ないかく発足ほっそくさいして、デフレしたでの緊縮きんしゅく財政ざいせい支持しじしている[16]福田ふくだは、1920ねん以降いこう不良ふりょう債権さいけん累増るいぞう問題もんだいし、不良ふりょう債権さいけん問題もんだい解消かいしょうしないかぎり、日銀にちぎん物価ぶっかをコントロールできないとかんがえた[17]

批判ひはん[編集へんしゅう]

朝鮮ちょうせん封建ほうけん制度せいど欠如けつじょせつによる植民しょくみん史観しかん朝鮮ちょうせんばんはじめてとなえて、日本にっぽん侵略しんりゃく正当せいとうした論者ろんしゃとして現代げんだい韓国かんこく研究けんきゅうしゃから指弾しだんされている[18]

福田ふくだは、「おそらく近代きんだいてき経済けいざい史学しがく方法ほうほうろんによってかれた韓国かんこく経済けいざいかんする最初さいしょ学術がくじゅつ論文ろんぶん」と評価ひょうかされる『韓国かんこく経済けいざい組織そしき経済けいざい単位たんい』(1903ねん - 1904ねん)を発表はっぴょうした。そこで資本しほん主義しゅぎ発展はってんしょ段階だんかい封建ほうけん制度せいど以前いぜんの「自足じそく経済けいざい」、封建ほうけん制度せいど時代じだいの「みやこ経済けいざい」、近代きんだい国家こっか時代じだいの「国民こくみん経済けいざい」に分類ぶんるいする[18]。そして20世紀せいき初期しょき朝鮮ちょうせん経済けいざい封建ほうけん制度せいど以前いぜんの「自足じそく経済けいざい」の変容へんようてき状態じょうたい借金しゃっきんてき自足じそく経済けいざい)の段階だんかいぞくしており、日本にっぽんたとえるなら平安へいあん時代じだいヨーロッパたとえるならフランク王国おうこくたると主張しゅちょうした。それによると、20世紀せいき初期しょき朝鮮ちょうせん経済けいざいは、封建ほうけん制度せいど時代じだいの「みやこ経済けいざい」にもたっしておらず、日本にっぽんやヨーロッパに比較ひかくして1000ねん遅滞ちたいしており[18]資本しほん主義しゅぎ進展しんてんする不可欠ふかけつ必須ひっす要件ようけんである封建ほうけん制度せいど経験けいけんしていないことから、停滞ていたいした朝鮮ちょうせん経済けいざいがそこからだっするためには、朝鮮ちょうせん自力じりきではできず、外国がいこく国力こくりょくをもってはじめて可能かのうだとする。この場合ばあい外国がいこく国力こくりょくは、ロシア日本にっぽんかんがえられるが、ロシア経済けいざいは、朝鮮ちょうせん経済けいざい同様どうよう停滞ていたいしており、相互そうご協力きょうりょくによる相互そうご発展はってんむずかしく、日本にっぽん国力こくりょくによってのみ朝鮮ちょうせん経済けいざい発展はってん可能かのうだとする[18]

そして論文ろんぶん韓国かんこく経済けいざい組織そしき経済けいざい単位たんい』を以下いか言葉ことばめくくる[18]

韓国かんこくにおける経済けいざい単位たんい発展はってん自発じはつてきなものでは出来できず、伝来でんらいのものによらざるをない。伝来でんらいてきというのは、べつ経済けいざい単位たんい発展はってんした経済けいざい組織そしき文化ぶんか同和どうわすることになる。…韓国かんこく土地とち開拓かいたく耕作こうさくして徐々じょじょにこれが資本しほんできるよう、その価値かちたかめる方法ほうほうっているものでなければならない。それでは韓国かんこくにおいておおくの経済けいざいてき設備せつびほどこし、すうせん年間ねんかん交通こうつうによる了解りょうかい同情どうじょうかんじん使役しえきれ、かんじん土地とち事実じじつじょう私有しゆうして徐々じょじょ農業のうぎょう経営けいえいこころみ、さらにその生産せいさんひんであるべい大豆だいず最大さいだい顧客こきゃくである我々われわれ日本人にっぽんじんは、この使命しめいがつくせるもっとてきしたものではないだろうか。ましてその封建ほうけんてき教育きょういく世界せかいもっとかんしたものの1つであり、土地とちたいしてはもっと集中しゅうちゅうてき農業のうぎょうしゃであり、人間にんげんたいしてはかんじんもっと欠乏けつぼうしているいさましい武士ぶし精神せいしん代表だいひょうしゃである我々われわれ日本にっぽん民族みんぞくは、…封建ほうけんてき教育きょういくとこれにもとづいた経済けいざい単位たんい発展はってんなに実現じつげんしていない韓国かんこく韓国かんこくじんたいして、その腐敗ふはい衰亡すいぼうきわめた民族みんぞくてき特性とくせい根底こんていから消滅しょうめつさせることで、自分じぶん同和どうわさせる自然しぜんてき運命うんめい義務ぎむ優秀ゆうしゅう文化ぶんか重大じゅうだい使命しめいのぞものではないか!

これこそがにち戦争せんそう直前ちょくぜんかれた論文ろんぶん核心かくしんであり、朝鮮ちょうせんたいする侵略しんりゃく行為こういしにしたものであり、朝鮮ちょうせん自力じりき近代きんだいできず、日本にっぽん同化どうかして日本にっぽん国力こくりょく拝借はいしゃくして経済けいざい発展はってんおこない、それにたいして日本にっぽん朝鮮ちょうせん近代きんだい助力じょりょくする使命しめいがあるという侵略しんりゃく野望やぼう露骨ろこつ提示ていじしているなどと、現代げんだい韓国かんこく研究けんきゅうしゃからは指弾しだんされている[18]

関連かんれん人物じんぶつ[編集へんしゅう]

門下生もんかせい[編集へんしゅう]

その[編集へんしゅう]

おも著書ちょしょ[編集へんしゅう]

たんちょ[編集へんしゅう]

  • Die gesellschaftliche und wirtschaftseinheit in Japan(Stuttgart : Cotta , 1900)(坂西さかにし由蔵よしぞうやく日本にっぽん経済けいざい史論しろんたからぶんかん、1907ねん
ミュンヘン大学だいがく提出ていしゅつした博士はかせ論文ろんぶん
  • 国民こくみん経済けいざい原論げんろん』(哲学てつがく書院しょいん、1903ねん
  • 経済けいざいがく研究けんきゅう』(同文どうぶんかん、1907ねん
  • 経済けいざいがく講義こうぎ』(大倉おおくら書店しょてん、1907-1909ねん
  • 国民こくみん経済けいざい原論げんろん 総論そうろん』(大倉おおくら書店しょてん、1910ねん
  • 経済けいざいがく教科書きょうかしょ』(大倉おおくら書店しょてん、1911ねん
  • 経済けいざいがく考証こうしょう』(佐藤さとう出版しゅっぱん、1918ねん改定かいていばん1921ねん
  • 黎明れいめいろく』(佐藤さとう出版しゅっぱん、1919ねん
  • 現代げんだい商業しょうぎょう及商じん』(だいあぶみかく、1920ねん増補ぞうほ改訂かいていばん1925ねん
  • 暗雲あんうんろく』(だいあぶみかく、1920ねん
  • 経済けいざいがく論攷ろんこう』(だいあぶみかく、1921ねん
  • 社会しゃかい政策せいさく階級かいきゅう闘争とうそう』(大倉おおくら書店しょてん、1922ねん
  • 『ボルシェヴィズム研究けんきゅう』(改造かいぞうしゃ、1922ねん
  • 社会しゃかい運動うんどう労銀ろうぎん制度せいど』(改造かいぞうしゃ、1922ねん
  • 経済けいざい危機きき経済けいざい恢復かいふく』(だいあぶみかく、1923ねん
  • 復興ふっこう経済けいざい原理げんり若干じゃっかん問題もんだい』(同文どうぶんかん、1924ねん復刻ふっこくばん2012ねん
  • 流通りゅうつう経済けいざい講話こうわ』(だいあぶみかく、1925ねん)
  • 国際こくさい信義しんぎ立場たちばよりたる東京とうきょうふつ貨債問題もんだい』(債券さいけん協会きょうかい出版しゅっぱん、1926ねん
  • 唯物ゆいぶつ史観しかん経済けいざい出立しゅったつてんさい吟味ぎんみ』(改造かいぞうしゃ、1928ねん)
  • 厚生こうせい経済けいざい研究けんきゅう』(かたなこう書院しょいん、1930ねん)
  • 厚生こうせい経済けいざい』(講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ、1980ねん
山田やまだ雄三ゆうぞうによるアンソロジー。
赤松あかまつかなめによるアンソロジーの文庫ぶんこ

共著きょうちょ[編集へんしゅう]

翻訳ほんやく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』 1930ねん5がつ9にちづけ夕刊ゆうかん2めん
  2. ^ 高等こうとう商業しょうぎょう学校がっこう一覧いちらん したがえ明治めいじ27ねんいたり明治めいじ28ねん高等こうとう商業しょうぎょう学校がっこう、1895ねん、p.100
  3. ^ 高等こうとう商業しょうぎょう学校がっこう一覧いちらん したがえ明治めいじ31ねんいたり明治めいじ32ねん高等こうとう商業しょうぎょう学校がっこう、1898ねん、p.130
  4. ^ 福田ふくだ徳三とくぞう著作ちょさく年譜ねんぷ一橋大学ひとつばしだいがく
  5. ^ 官報かんぽうだい6566ごう明治めいじ38ねん5がつ23にち、p.879
  6. ^ 官報かんぽうだい2902ごう大正たいしょう11ねん4がつ8にち
  7. ^ 叙勲じょくん裁可さいかしょ昭和しょうわさんねん叙勲じょくんまきじゅう外国がいこく勲章くんしょう記章きしょう受領じゅりょう及佩ようとめ国立こくりつ公文書こうぶんしょかん
  8. ^ 官報かんぽう 1930ねん05がつ10日とおか
  9. ^ 官報かんぽう 1930ねん05がつ20日はつか
  10. ^ 叙勲じょくん裁可さいかしょ昭和しょうわねん叙勲じょくんまき内国ないこくじん国立こくりつ公文書こうぶんしょかん
  11. ^ 田中たなか秀臣ひでおみ不謹慎ふきんしん経済けいざいがく講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃbiz〉、2008ねん、56ぺーじ
  12. ^ 田中たなか秀臣ひでおみ不謹慎ふきんしん経済けいざいがく講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃbiz〉、2008ねん、54ぺーじ
  13. ^ 田中たなか秀臣ひでおみ不謹慎ふきんしん経済けいざいがく講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃbiz〉、2008ねん、61ぺーじ
  14. ^ a b 麻木あさぎ久仁子くにこ田村たむら秀男ひでお田中たなか秀臣ひでおみ日本にっぽん建替たてかえろん 〔100ちょうえん余剰よじょう資金しきん動員どういんせよ!〕』 藤原ふじわら書店しょてん、2012ねん、245ぺーじ
  15. ^ a b 田中たなか秀臣ひでおみ安達あだち誠司せいじ平成へいせいだい停滞ていたい昭和しょうわ恐慌きょうこう〜プラクティカル経済けいざいがく入門にゅうもん』NHK出版しゅっぱん〈NHKブックス〉、2003ねん、176ぺーじ
  16. ^ 田中たなか秀臣ひでおみ安達あだち誠司せいじ平成へいせいだい停滞ていたい昭和しょうわ恐慌きょうこう〜プラクティカル経済けいざいがく入門にゅうもん』NHK出版しゅっぱん〈NHKブックス〉、2003ねん、178-179ぺーじ
  17. ^ 田中たなか秀臣ひでおみ安達あだち誠司せいじ平成へいせいだい停滞ていたい昭和しょうわ恐慌きょうこう〜プラクティカル経済けいざいがく入門にゅうもん』NHK出版しゅっぱん〈NHKブックス〉、2003ねん、179ぺーじ
  18. ^ a b c d e f よろずれつ (2005ねん6がつ). きん現代げんだいかんにち関係かんけい研究けんきゅう日本人にっぽんじん韓国かんこく研究けんきゅう中心ちゅうしんに―” (PDF). にちかん歴史れきし共同きょうどう研究けんきゅう報告ほうこくしょだい1 (にちかん歴史れきし共同きょうどう研究けんきゅう): p. 250. オリジナルの2015ねん9がつ8にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150908121743/http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/3/12-0k_lmy_j.pdf 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]