(Translated by https://www.hiragana.jp/)
木内四郎 - Wikipedia コンテンツにスキップ

木内きうち四郎しろう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
木内きうち 四郎しろう
きうち しろう
木内きうち四郎しろう
生年月日せいねんがっぴ 1896ねん7がつ3にち
出生しゅっしょう 日本の旗 長野ながのけん下水内しもみのちぐん常盤ときわむらげん飯山いいのやま
ぼつ年月日ねんがっぴ (1988-08-31) 1988ねん8がつ31にち(92さいぼつ
出身しゅっしんこう 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法学部ほうがくぶ卒業そつぎょう
ぜんしょく 国家こっか公務員こうむいん大蔵省おおくらしょう
貴族きぞくいん議員ぎいん
所属しょぞく政党せいとう民主党みんしゅとう→)
国民こくみん民主党みんしゅとう→)
自由党じゆうとう→)
自由民主党じゆうみんしゅとう
称号しょうごう せいさん
勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう
勲一等くんいっとう瑞宝章ずいほうしょう
飯山いいのやま名誉めいよ市民しみん

内閣ないかく だい3佐藤さとう改造かいぞうないかく
在任ざいにん期間きかん 1971ねん11月16にち - 1972ねん7がつ7にち

日本の旗 だい21だい 科学技術庁かがくぎじゅつちょう長官ちょうかん
内閣ないかく だい2佐藤さとうだい2改造かいぞうないかく
在任ざいにん期間きかん 1968ねん11月30にち - 1970ねん1がつ14にち

選挙せんきょ 長野ながのけん選挙せんきょ
当選とうせん回数かいすう 5かい
在任ざいにん期間きかん 1947ねん4がつ21にち - 1977ねん7がつ10日とおか
テンプレートを表示ひょうじ

木内きうち 四郎しろう(きうち しろう、1896ねん明治めいじ29ねん7がつ3にち - 1988ねん昭和しょうわ63ねん8がつ31にち)は、日本にっぽん政治せいじ大蔵おおくら官僚かんりょう位階いかいせいさん科学技術庁かがくぎじゅつちょう長官ちょうかんだい21、24だい)。

来歴らいれき人物じんぶつ

[編集へんしゅう]

長野ながのけん下水内しもみのちぐん常盤ときわむらげん飯山いいのやままれ。旧制きゅうせい飯山いいのやま中学ちゅうがく長野ながのけん飯山いいのやまきた高等こうとう学校がっこう)をて、1920ねん大正たいしょう9ねん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法学部ほうがくぶ卒業そつぎょう大蔵省おおくらしょう入省にゅうしょう理財りざいきょくぞく[1]主計しゅけいきょく決算けっさん局長きょくちょう理財りざいきょく国債こくさい課長かちょう主計しゅけい局長きょくちょう専売せんばいきょく長官ちょうかんて、1946ねん昭和しょうわ21ねんぬさ原内はらうちかく内閣ないかくふく書記官しょきかんちょうとなる。同年どうねん6がつ8にちには貴族きぞくいんみことのりせん議員ぎいんみことのりまかされる[2]

1947ねん昭和しょうわ22ねんだい1かい参議院さんぎいん議員ぎいん通常つうじょう選挙せんきょ民主党みんしゅとう公認こうにん長野ながのけん選挙せんきょから立候補りっこうほ当選とうせんする。炭鉱たんこうこくかん疑獄ぎごくでは、1948ねん昭和しょうわ23ねん衆議院しゅうぎいん不当ふとう財産ざいさん取引とりひき調査ちょうさ委員いいんかい証人しょうにん喚問かんもんされている[3]以後いご5かい連続れんぞく当選とうせんする。以後いご国民こくみん民主党みんしゅとう - 自由党じゆうとう - 自由民主党じゆうみんしゅとうせきく。1952ねん昭和しょうわ27ねん)に国民こくみん民主党みんしゅとう新政しんせいクラブともあらためしんとう結成けっせいしたときにはそれに参加さんかせず、自由党じゆうとう移籍いせきした。1966ねん昭和しょうわ41ねんあき叙勲じょくん勲一等くんいっとう瑞宝章ずいほうしょう受章じゅしょうくんさんとうからの昇叙しょうじょ[4][5]参院さんいん予算よさん外務がいむかく委員いいんちょうつとめたのち、1968ねん昭和しょうわ43ねんだい2佐藤さとうだい2改造かいぞうないかく科学技術庁かがくぎじゅつちょう長官ちょうかんとしてはつ入閣にゅうかく。1969ねん昭和しょうわ44ねん)の宇宙開発事業団うちゅうかいはつじぎょうだん設立せつりつかかわる。1971ねん昭和しょうわ46ねんだい3佐藤さとう改造かいぞうないかくふたた科技庁かぎちょう長官ちょうかんとして入閣にゅうかくする。

同年どうねんじゅうそう雄三ゆうぞう後継こうけい参議院さんぎいん議長ぎちょう河野こうの謙三けんぞうあらそうが、118ひょうたい128ひょう僅差きんさやぶれた。1972ねん昭和しょうわ47ねんあき叙勲じょくん勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう受章じゅしょう[4]。1977ねん昭和しょうわ52ねん落選らくせんとともに政界せいかい引退いんたいする。1988ねん昭和しょうわ63ねん飯山いいのやま名誉めいよ市民しみんだい1ごう)。同年どうねん8がつ31にち死去しきょ、92さい死没しぼつをもってしたがえよんからせいさんじょされ、銀杯ぎんぱいいちくみたまわった[6]

栄典えいてん

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 日本にっぽん官僚かんりょうせい総合そうごう事典じてん東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、2001ねん11月発行はっこう、224ぺーじ
  2. ^ 官報かんぽうだい5822ごう昭和しょうわ21ねん6がつ13にち
  3. ^ 戦後せんご政治せいじ裁判さいばんろく 1』336-337ぺーじ
  4. ^ a b 木内きうち 四郎しろう. コトバンクより2022ねん12月25にち閲覧えつらん
  5. ^ 官報かんぽうだい11968ごう7ぺーじ 昭和しょうわ41ねん11月4にちごう
  6. ^ 官報かんぽうだい18464ごう7-8ぺーじ 昭和しょうわ63ねん9がつ7にちごう
  7. ^ 官報かんぽうだい4438ごう付録ふろく辞令じれい」1941ねん10がつ23にち

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 田中たなか二郎じろう佐藤さとういさお野村のむら二郎じろうへん戦後せんご政治せいじ裁判さいばんろく 1』第一法規出版だいいちほうきしゅっぱん、1980ねん

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]
  • 羽生はぶさんななだい1かい参院さんいんせん以来いらい長野ながの選挙せんきょにおけるライバル。
公職こうしょく
先代せんだい
鍋島なべしまただし
平泉ひらいずみわたる
日本の旗 科学技術庁かがくぎじゅつちょう長官ちょうかん
だい21だい:1968ねん -1970ねん
だい24だい:1971ねん -1972ねん
次代じだい
西田にしだ信一しんいち
中曽根なかそね康弘やすひろ
先代せんだい
鍋島なべしまただし
平泉ひらいずみわたる
日本の旗 総理府そうりふ原子力げんしりょく委員いいんかい委員いいんちょう
だい21だい:1968ねん -1970ねん
だい24だい:1971ねん -1972ねん
次代じだい
西田にしだ信一しんいち
中曽根なかそね康弘やすひろ
議会ぎかい
先代せんだい
湯沢ゆざわ三千男みちお
日本の旗 参議院さんぎいん予算よさん委員いいんちょう
1962ねん - 1963ねん
次代じだい
太田おおたただしこう
先代せんだい
草葉くさばたかしえん
寺尾てらおゆたか
日本の旗 参議院さんぎいん外務がいむ委員いいんちょう
1960ねん - 1961ねん
1965ねん - 1967ねん
次代じだい
近藤こんどう鶴代つるよ
赤間あかま文三ぶんぞう
先代せんだい
櫻内さくらうち辰郎たつろう
日本の旗 参議院さんぎいん大蔵おおくら委員いいんちょう
1950ねん
次代じだい
小串おぐし清一せいいち
先代せんだい
新設しんせつ
日本の旗 参議院さんぎいん議院ぎいん運営うんえい委員いいんちょう
1947ねん - 1948ねん
次代じだい
下条しもじょうやすし麿まろ