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宮崎みやざきはじめ

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宮崎みやざきはじめ

宮崎みやざき はじめ(みやざき はじめ、1886ねん明治めいじ19ねん11月21にち[1]1951ねん昭和しょうわ26ねん10がつ10日とおか[2])は、衆議院しゅうぎいん議員ぎいん立憲りっけん政友せいゆうかい)、弁護士べんごし

経歴けいれき

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埼玉さいたまけん北足立きたあだちぐん浦和うらわまち現在げんざいさいたま)に衆議院しゅうぎいん議員ぎいん宮崎みやざき三郎さぶろう長男ちょうなんとしてまれる[3][4]浦和うらわ中学校ちゅうがっこう第一高等学校だいちこうとうがっこうて、1912ねん明治めいじ45ねん)に東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく卒業そつぎょうした[5]卒業そつぎょう浦和うらわ弁護士べんごし事務所じむしょ開業かいぎょうした。1919ねん大正たいしょう8ねん)に埼玉さいたまけん会議かいぎいん当選とうせんし、のちには議長ぎちょうつとめた[5]。また浦和うらわ弁護士べんごし会長かいちょうにもえらばれた[6]

1932ねん昭和しょうわ7ねん)、だい18かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ出馬しゅつばし、当選とうせん。4かい連続れんぞく当選とうせんたした。そのあいだべい内内うちうちかく陸軍りくぐん参与さんよかんに、ぬさ原内はらうちかく陸軍りくぐん政務次官せいむじかんだいいち復員ふくいん政務次官せいむじかん就任しゅうにんした。1946ねん昭和しょうわ21ねん)、公職こうしょく追放ついほうとなった[7]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 衆議院しゅうぎいんだいなな十回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院しゅうぎいん公報こうほう附録ふろく〉、1936ねん、9ぺーじ
  2. ^ 政治せいじ家人かじんめい事典じてん
  3. ^ 青野あおの権右衛門ごんうえもんへん立憲りっけん政友せいゆうかい功労こうろうしゃおいとおろく安久やすひさしゃ、1933ねん、p.447。
  4. ^ 人事じんじ興信所こうしんじょへん人事じんじ興信録こうしんろくだい14はん 、1943ねん、ミ88ぺーじ
  5. ^ a b 埼玉さいたま人物じんぶつ評論ひょうろん』P.15-16
  6. ^ 衆議院しゅうぎいん要覧ようらん
  7. ^ 朝日新聞あさひしんぶん』1946ねん2がつ10日とおかいちめん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 埼玉さいたま人物じんぶつ評論ひょうろん埼玉さいたま評論ひょうろんしゃ、1936ねん 
  • 衆議院しゅうぎいん要覧ようらんおつ昭和しょうわじゅうななねんじゅういちがつ衆議院しゅうぎいん事務じむきょく、1942ねん 
  • しんてい 政治せいじ家人かじんめい事典じてん 明治めいじ昭和しょうわ日外にちがいアソシエーツ、2003ねん