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帷幄上奏 いあくじょうそう (いあくじょうそう、独 どく : direkte Berichterstattung des Militärs bei Hofe 、英 えい : direct appeal to the Throne by the military )とは、君主 くんしゅ 制 せい 国家 こっか において、帷幄 いあく 機関 きかん である軍部 ぐんぶ が軍事 ぐんじ に関 かん する事項 じこう を君主 くんしゅ に対 たい して上奏 じょうそう すること。帷幄 いあく とは本来 ほんらい は「帷 とばり をめぐらせた場所 ばしょ 」のことを指 さ し、「帷幕 いばく 」などと類 るい 義 ぎ であるが、「帷幄 いあく 」の語 かたり は本義 ほんぎ から転 てん じて「大元帥 だいげんすい ノ地位 ちい ニ於テノ天皇 てんのう [1] 」を意味 いみ するようになった。したがって、帷幄上奏 いあくじょうそう は「(軍令 ぐんれい 事項 じこう についての)天皇 てんのう への上奏 じょうそう 」を意味 いみ する。元首 げんしゅ への作戦 さくせん 事項 じこう の上奏 じょうそう 権 けん を統治 とうち に関 かん する上奏 じょうそう 権 けん と別 べつ にすることはドイツ帝国 ていこく (プロイセン王国 おうこく )において初 はじ めて制度 せいど 化 か され、その影響 えいきょう を受 う けた明治 めいじ 憲法 けんぽう 下 した の日本 にっぽん においても制度 せいど 化 か された。
1883年 ねん 5月 がつ 20日 はつか にドイツ皇帝 こうてい ・プロイセン国王 こくおう ヴィルヘルム1世 せい の勅 みことのり 令 れい でプロイセン参謀 さんぼう 総長 そうちょう ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ (大 だい モルトケ)に上奏 じょうそう 権 けん が認 みと められたのに始 はじ まる。これにより参謀 さんぼう 総長 そうちょう は毎週 まいしゅう 御前 ごぜん 講演 こうえん のために直接 ちょくせつ プロイセン国王 こくおう に拝謁 はいえつ できるようになり、参謀 さんぼう 本部 ほんぶ へのいかなる統制 とうせい も消滅 しょうめつ することになった。それまで続 つづ いた陸軍 りくぐん 大臣 だいじん (ドイツ語 ご 版 ばん ) と参謀 さんぼう 総長 そうちょう の激 はげ しい闘争 とうそう もなくなり、参謀 さんぼう 総長 そうちょう は絶大 ぜつだい な影響 えいきょう 力 りょく を行使 こうし するようになった。その影響 えいきょう 力 りょく は軍事 ぐんじ 面 めん にとどまらず、経済 けいざい や外交 がいこう にも及 およ んだ。
日本 にっぽん においては、1889年 ねん (明治 めいじ 22年 ねん )制定 せいてい の明治 めいじ 憲法 けんぽう によって一般 いっぱん 統治 とうち 権 けん と軍 ぐん の統帥 とうすい 権 けん の分離 ぶんり が明記 めいき されたが、同年 どうねん の内閣 ないかく 官制 かんせい 第 だい 7条 じょう によりこれが制度 せいど 化 か され[3] 、軍 ぐん の統帥 とうすい 権 けん は内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん の国務 こくむ 上 じょう の輔弼 ほひつ 事項 じこう の例外 れいがい とされた。
本来 ほんらい 、国務大臣 こくむだいじん は明治 めいじ 憲法 けんぽう 上 じょう 、天皇 てんのう に対 たい して個別 こべつ にその責任 せきにん を負 お うが、権力 けんりょく 分立 ぶんりつ の外側 そとがわ にあった統帥 とうすい 部 ぶ (帷幄 いあく 機関 きかん )はその責任 せきにん がなかった。また、帷幄上奏 いあくじょうそう が認 みと められていたのは、軍事 ぐんじ のうちの軍機 ぐんき ・軍令 ぐんれい に関 かん する問題 もんだい (軍令 ぐんれい 権 けん )のみであり、残 のこ る軍政 ぐんせい に関 かん しては陸軍 りくぐん 大臣 だいじん ・海軍 かいぐん 大臣 だいじん が国務大臣 こくむだいじん の一員 いちいん として内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん を通 つう じて上奏 じょうそう すべき問題 もんだい (軍政 ぐんせい 権 けん )とされていた。
ところが、純粋 じゅんすい たる帷幄 いあく 機関 きかん の代表 だいひょう である参謀 さんぼう 総長 そうちょう や軍令 ぐんれい 部 ぶ 総長 そうちょう のみならず、国務大臣 こくむだいじん である陸軍 りくぐん 大臣 だいじん ・海軍 かいぐん 大臣 だいじん までもが、本来 ほんらい は内閣 ないかく の管轄 かんかつ である軍政 ぐんせい 一般 いっぱん に関 かん する問題 もんだい (軍政 ぐんせい 権 けん )までを軍令 ぐんれい 権 けん の一部 いちぶ と位置 いち づけて帷幄上奏 いあくじょうそう を行 おこな った事 こと や、1936年 ねん (昭和 しょうわ 11年 ねん )5月 がつ 以降 いこう は両 りょう 大臣 だいじん が軍部 ぐんぶ 大臣 だいじん 現役 げんえき 武官 ぶかん 制 せい によって現職 げんしょく の大将 たいしょう ・中将 ちゅうじょう に限定 げんてい されていた事 こと から、軍部 ぐんぶ が政府 せいふ ・議会 ぎかい を軽視 けいし する風潮 ふうちょう を生 う み、結果 けっか 的 てき に軍部 ぐんぶ の暴走 ぼうそう を招 まね く一因 いちいん となったといわれる[要 よう 出典 しゅってん ] 。
1909年 ねん (明治 めいじ 42年 ねん )9月12日 にち 制定 せいてい の「軍令 ぐんれい に関 かん する件 けん 」は「統帥 とうすい 権 けん の独立 どくりつ 」を明確 めいかく に規定 きてい し、更 さら に元帥 げんすい や軍事 ぐんじ 参議 さんぎ 官 かん にも帷幄上奏 いあくじょうそう 権 けん を認 みと めた。こうした軍令 ぐんれい と帷幄上奏 いあくじょうそう のあり方 かた については、立憲 りっけん 主義 しゅぎ の精神 せいしん に反 はん し憲法 けんぽう 上 じょう 許 ゆる されないとする違憲 いけん 論 ろん も存在 そんざい した。1912年 ねん (大正 たいしょう 元年 がんねん )の陸軍 りくぐん 大臣 だいじん による帷幄上奏 いあくじょうそう による二 に 個 こ 師団 しだん 増設 ぞうせつ が認可 にんか され、これを権限 けんげん の逸脱 いつだつ であるとして拒否 きょひ した第 だい 2次 じ 西園寺 さいおんじ 内閣 ないかく が軍部 ぐんぶ によって倒 たお されると、国民 こくみん の反発 はんぱつ が高 たか まり、第 だい 1次 じ 護憲 ごけん 運動 うんどう の原因 げんいん となった。これを機 き に再 ふたた び違憲 いけん 論 ろん が高 たか まり、吉野 よしの 作造 さくぞう が「帷幄上奏 いあくじょうそう 廃止 はいし 論 ろん 」を唱 とな えた[4] 。
ここでは軍部 ぐんぶ が帷幄上奏 いあくじょうそう を行 おこな った主 おも な例 れい を挙 あ げる。この中 なか には内閣 ないかく などと権限 けんげん を巡 めぐ って対立 たいりつ を引 ひ き起 お こした事例 じれい も含 ふく んでいる。
作戦 さくせん 計画 けいかく の許可 きょか ・実施 じっし に関 かん する裁可 さいか
日本 にっぽん 国外 こくがい への軍隊 ぐんたい 派遣 はけん に関 かん する裁可 さいか
地方 ちほう における治安 ちあん 出動 しゅつどう のための兵力 へいりょく 派遣 はけん の裁可 さいか
特別 とくべつ 大 だい 演習 えんしゅう の実施 じっし の裁可 さいか
その他 た 動員 どういん を伴 ともな う事項 じこう に関 かん する裁可 さいか
戦時 せんじ 法規 ほうき などの諸 しょ 規則 きそく に関 かん する裁可 さいか
平時 へいじ ・戦時 せんじ の軍隊 ぐんたい の編成 へんせい に関 かん する裁可 さいか
師団 しだん などの配置 はいち 決定 けってい に関 かん する裁可 さいか
戦時 せんじ などの特命 とくめい 検閲 けんえつ に関 かん する裁可 さいか
将校 しょうこう 及 およ び同 どう クラス以上 いじょう の人事 じんじ ・職務 しょくむ に関 かん する裁可 さいか
その他 た 軍令 ぐんれい 一般 いっぱん に関 かん する裁可 さいか
その他 た 軍機 ぐんき 一般 いっぱん に関 かん する裁可 さいか
^ 美濃部 みのべ 達吉 たつきち 『憲法 けんぽう 撮要 さつよう 』(初版 しょはん )有斐閣 ゆうひかく 、1923年 ねん 、300頁 ぺーじ 。 明治 めいじ 憲法 けんぽう について伊藤 いとう 博文 ひろぶみ が著 あらわ した逐条 ちくじょう 解説 かいせつ 書 しょ 『憲法 けんぽう 義 ぎ 解 かい 』(明治 めいじ 22年 ねん )では「天皇 てんのう ハ陸海 りくかい 軍 ぐん ヲ統帥 とうすい ス」と定 さだ めた第 だい 11条 じょう について「今上 きんじょう 中興 ちゅうこう の初 はつ 、親 おや 征 せい の詔 みことのり を發 はっ し、大權 たいけん を總攬 そうらん し、爾来 じらい 兵制 へいせい を釐革し、積弊 せきへい を洗 あらい 除 じょ し、帷幕 いばく の本部 ほんぶ を設 もう け、自 みずか ら陸海 りくかい 軍 ぐん を總 す べたまふ。而 しか して祖宗 そそう の耿光遺 のこ 烈 れつ 再 ふたた び其 そ の舊 きゅう に復 ふく することを得 え たり。本條 ほんじょう は兵馬 へいば の統一 とういつ は至尊 しそん の大權 たいけん にして、專 もっぱ ら帷幄 いあく の大 だい 令 れい に屬 ぞく することを示 しめ すなり。」とあり、「帷幕 いばく 」(=軍令 ぐんれい 機関 きかん )と「帷幄 いあく 」(=軍事 ぐんじ 指導 しどう 者 しゃ としての天皇 てんのう )とが異 こと なる概念 がいねん であることが明 あき らかである。
^ 第 だい 七 なな 条 じょう 事 こと ノ軍機 ぐんき 軍令 ぐんれい ニ係 がかり リ奏上 そうじょう スルモノハ天皇 てんのう ノ旨 むね ニ依 よ リ之 これ ヲ内閣 ないかく ニ下付 かふ セラルルノ件 けん ヲ除 じょ ク外 がい 陸軍 りくぐん 大臣 だいじん 海軍 かいぐん 大臣 だいじん ヨリ内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん ニ報告 ほうこく スヘシ
^ 立憲 りっけん 政友 せいゆう 会 かい ではシベリア出兵 しゅっぺい における政府 せいふ と軍部 ぐんぶ の対立 たいりつ から「帷幄上奏 いあくじょうそう 廃止 はいし 」と「軍部 ぐんぶ 大臣 だいじん 文官 ぶんかん 制 せい 」を掲 かか げたが、元 もと 陸軍 りくぐん 大臣 だいじん の田中 たなか 義一 ぎいち を総裁 そうさい に迎 むか えた後 のち に田中 たなか の要求 ようきゅう によって廃止 はいし された。