芹沢せりざわ銈介

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芹沢せりざわ銈介
1941ねん撮影さつえい
本名ほんみょう 大石おおいし銈介
誕生たんじょう (1895-05-13) 1895ねん5月13にち
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん 静岡しずおかけん静岡しずおか本通ほんどおりいち丁目ちょうめ
死没しぼつねん (1984-04-05) 1984ねん4がつ5にち(88さいぼつ
死没しぼつ 日本の旗 日本にっぽん 東京とうきょう
国籍こくせき 日本にっぽん
芸術げいじゅつ分野ぶんや 染色せんしょく工芸こうげい
受賞じゅしょう 人間にんげん国宝こくほう(1956ねん)、紫綬褒章しじゅほうしょう(1966ねん)、文化ぶんか功労こうろうしゃ(1976ねん)、フランス芸術げいじゅつ功労こうろう勲章くんしょう(1983ねん
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芹沢せりざわ 銈介(せりざわ けいすけ、芹澤せりざわ銈介、1895ねん明治めいじ28ねん5月13にち - 1984ねん昭和しょうわ59ねん4がつ5にち)は、日本にっぽん染色せんしょく工芸こうげい静岡しずおかけん静岡しずおかげんあおいまれで、静岡しずおか名誉めいよ市民しみん[1]文化ぶんか功労こうろうしゃ重要じゅうよう無形むけい文化財ぶんかざいかたしみ」の保持ほじしゃ人間にんげん国宝こくほう)。民藝みんげい運動うんどう共鳴きょうめいしゃでもあり、提唱ていしょうしたやなぎ宗悦むねよしとともに日本にっぽん各地かくちたずねて民芸みんげいひんみん調査ちょうさした[2]20世紀せいき日本にっぽん代表だいひょうてき工芸こうげいとして内外ないがいからたか評価ひょうかされており、静岡しずおか市立しりつ芹沢せりざわ銈介美術館びじゅつかん[2]開設かいせつされている。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

実家じっか呉服ごふくしょう焼失しょうしつしたため画家がかゆめあきらめて図案ずあんまなび、30さいだいなかばから染色せんしょく手掛てがけるようになった[2]。オリジナリティあふれる作品さくひんぐんしたほか、ほん装丁そうていなど商業しょうぎょうデザインがけた。ビジネスめんでのすぐれた企画きかくりょくち、だい世界せかい大戦たいせんぬの不足ふそくでは和紙わしかたしみカレンダー製作せいさくしてヒット商品しょうひんとした[2]。また、そのせん世界せかい各地かくち民芸みんげいひん工芸こうげいひん美術びじゅつひん蒐集しゅうしゅうした。東北とうほく地方ちほう、ことに仙台せんだいまち鳴子なるこ温泉おんせんあいしたことでもられる。多摩たま造形ぞうけい芸術げいじゅつ専門せんもん学校がっこう女子美術大学じょしびじゅつだいがく静岡女子短期大学しずおかじょしたんきだいがく家政かせいなどで教鞭きょうべんった。息子むすこ芹沢せりざわ長介ちょうすけ考古こうこ学者がくしゃとして活躍かつやくし、晩年ばんねん東北福祉大学とうほくふくしだいがく芹沢せりざわ銈介美術びじゅつ工芸こうげいかん館長かんちょうつとめた。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

しょうてん[編集へんしゅう]

作品さくひん[編集へんしゅう]

芹沢せりざわたしかなデッサンりょく紅型びんがた(びんがた)、江戸えど小紋こもん伊勢いせ和紙わしなどの各地かくち伝統でんとう工芸こうげい技法ぎほうをもとに、模様もよう植物しょくぶつ動物どうぶつ人物じんぶつ風景ふうけいをモチーフとした、オリジナリティあふれる、和風わふうでシックな作品さくひん次々つぎつぎしていった。

かたしみ(かたえぞめ)」は芹沢せりざわ創始そうしした技法ぎほうで、人間にんげん国宝こくほう認定にんていされたおりにこの案出あんしゅつされた。一般いっぱんてきな「かたしみ」が絵師えししみといった職人しょくにん分業ぶんぎょうによって制作せいさくされる一方いっぽう、「かたしみ」は作品さくひんぜん工程こうてい芹沢せりざわひとりでがけていた。こうした手法しゅほうが、人間にんげん国宝こくほう認定にんてい理由りゆうにもなったとされている。

芹沢せりざわ仕事しごとは、着物きものおび、さか夜具やぐ暖簾のれん(のれん)、屏風びょうぶ(びょうぶ)、壁掛かべかけ、ほん装丁そうてい、カレンダー、ガラスしょ建築けんちく内外ないがい装飾そうしょく設計せっけい大原おおはら美術館びじゅつかん工芸こうげいかん)など、素材そざい用途ようとともに多岐たきにわたっている。

書籍しょせき[編集へんしゅう]

  • 自選じせん 芹沢せりざわ銈介作品さくひんしゅうじょうした 築地つきじしょかん 1967-68ねん
  • かたしみ 芹沢せりざわ銈介珠玉しゅぎょく作品さくひん原色げんしょく図録ずろくさんいち書房しょぼう 1968ねん
  • 芹沢せりざわ銈介手控てびかえじょうもとめりゅうどう 1969ねん杉本すぎもと健吉けんきちへん
  • 装幀そうてい図案ずあんしゅうぜん3かん われはち 1971-73ねん限定げんていほん
  • 世界せかい民芸みんげい浜田はまだ庄司しょうじ外村とのむら吉之よしゆきかい共著きょうちょ朝日新聞社あさひしんぶんしゃ 1972ねん菅野かんのしょう 写真しゃしん
  • 芹沢せりざわ銈介 じん仕事しごと』ギャラリーわれはち 1973ねん展覧てんらんかい図録ずろく
  • 芹沢せりざわ銈介のじゅうねん 作品さくひん身辺しんぺん品々しなじな天満屋てんまや 1974ねん展覧てんらんかい図録ずろく
  • いたひかえもとめりゅうどう 1976ねん
  • 新版しんぱん 絵本えほんどんきほうて かたしみわれはち 1976ねん限定げんていほん
  • 芹沢せりざわ銈介の世界せかい文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうデラックス、1978ねん昭和しょうわ53ねん)3がつ特別とくべつごう
  • 芹沢せりざわ銈介の創作そうさく蒐集しゅうしゅう紫紅しこうしゃ 1982ねん
  • 沖縄おきなわ風物ふうぶつ』ギャラリーわれはち 1985ねん展覧てんらんかい図録ずろく
  • 芹沢せりざわ銈介型紙かたがみしゅう日本にっぽん民藝みんげい協会きょうかいへんげいそうこうどう民藝みんげい叢書そうしょ」 1986ねん
  • 芹沢せりざわ銈介の文字もじさん芹沢せりざわ長介ちょうすけ杉浦すぎうら康平やすひら編著へんちょさとぶん出版しゅっぱん 1997ねん
  • 芹沢せりざわ銈介作品さくひんしゅうもとめりゅうどう 2006ねん - 以下いか作品さくひんぐん蒐集しゅうしゅうひん紹介しょうかい
  • 染色せんしょく挑戦ちょうせん 芹沢せりざわ銈介』平凡社へいぼんしゃ別冊べっさつ太陽たいよう 日本にっぽんのこころ〉 2011ねん
  • 芹沢せりざわ銈介文様もんよう図譜ずふ平凡社へいぼんしゃ〈コロナ・ブックス〉 2014ねん静岡しずおか市立しりつ芹沢せりざわ銈介美術館びじゅつかん東北福祉大学とうほくふくしだいがく芹沢せりざわ銈介美術びじゅつ工芸こうげいかん監修かんしゅう
  • 芹沢せりざわ銈介・装幀そうてい仕事しごと小林こばやし真理まりへん解説かいせつさとぶん出版しゅっぱん 2016ねん
  • 芹沢せりざわ銈介の静岡しずおか時代じだい静岡新聞社しずおかしんぶんしゃ 2016ねん静岡しずおか市立しりつ芹沢せりざわ銈介美術館びじゅつかん監修かんしゅう
  • 芹沢せりざわ銈介の日本にっぽん平凡社へいぼんしゃ別冊べっさつ太陽たいよう 日本にっぽんのこころ〉 2021ねん芹沢せりざわ銈介美術館びじゅつかん監修かんしゅう

作品さくひん集成しゅうせい[編集へんしゅう]

商業しょうぎょうデザイン[編集へんしゅう]

また、芹沢せりざわのデザインは商業しょうぎょうデザインとして、着物きものおび屏風びょうぶのれんたくぬの風呂敷ふろしき装丁そうていほん物語ものがたり、ガラス、カレンダー、蔵書ぞうしょひょうなど、様々さまざま生活せいかつ用品ようひんにもれられている。

収集しゅうしゅうひん[編集へんしゅう]

その一方いっぽう、アジアをはじ世界せかい各国かっこくみん民俗みんぞく工芸こうげいひん蒐集しゅうしゅうでもられ、その一端いったん各地かくち美術館びじゅつかんることができる。以下いか世界せかい各国かっこく工芸こうげいひんコレクションの一端いったんである。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 名誉めいよ市民しみん - 静岡しずおか
  2. ^ a b c d 【ニッポンものがたり】芹沢せりざわ銈介「ばんどりよんきょく屏風びょうぶむら手仕事てしごと敬意けいい哀惜あいせき読売新聞よみうりしんぶん日曜にちよう朝刊ちょうかんべつり「よみほっと」2021ねん11月7にち
  3. ^ ちち角次郎かくじろうもまた静岡しずおか中学ちゅうがくまなんだ。『せいちゅうせいだか同窓会どうそうかい会員かいいん名簿めいぼ平成へいせい15年度ねんど(125周年しゅうねんばん 43ぺーじ
  4. ^ 各務かがみこうさん かがみ こうぞう東京工業大学とうきょうこうぎょうだいがく130ねん
  5. ^ みちたどりきてよろこびしみじみ 文化ぶんか勲章くんしょう受章じゅしょうしゃ功労こうろうしゃ 芹沢せりざわ銈介」『朝日新聞あさひしんぶん夕刊ゆうかん1976ねん昭和しょうわ51ねん)10がつ26にち3はん8めん
  6. ^ 美術館びじゅつかん沿革えんかく

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

砂川すなかわ七郎しちろうかしわ寄贈きぞうした芹沢せりざわけいかい作品さくひんコレクション。かつてはかしわ市立しりつ砂川すながわ美術びじゅつ工芸こうげいかん(2007ねん6がつ30にち閉館へいかん)で公開こうかいされていた。